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愛国心の脱構築-国旗・国歌を<物象化>しているのは誰か? (中)

2011年08月02日 07時15分37秒 | 日々感じたこととか



◆国旗・国歌を物象化しているのは誰か

一連の最高裁判決を反芻して言えることは、公立学校がその節目節目の儀式で、教職員や児童・生徒および参列者に対して「日の丸・君が代」に敬意を表するよう促すことは、①なにか特殊な思想を押しつけるものではないこと、また、②そのような形式で儀式がとり行なわれることについては、それがこの日本社会の常識であり、社会的にも妥当なものと考えられていること。少なくとも、最高裁判所はそう認定したということでしょう。実際、例えば、学習指導要領に則った国旗・国歌のより適切な取り扱いの徹底を公立学校の教職員に求めた大阪府知事に寄せられている圧倒的支持の分厚さを鑑みるとき、この①②は至極当たり前のことのように思われます。

では、プロ市民の左翼・リベラル教師達はなぜわざわざ最高裁まで争ったのか。彼等のイデオロギーはどのような点で①②と齟齬をきたしているのか。而して、ここで前項の確認として申し添えておけば、

(a)合憲性判断基準のテスト(人権内容のカテゴリーと人権制約のカテゴリーという二つの軸が構成する「x-y平面」のどこに当該の社会的紛争が位置するのかの認定)においては①の事柄が、他方、(b)憲法審査基準のテスト(具体的な人権制約の許容範囲の確定)においては②の事柄が問題になっている。


重要なことは、実は、憲法典を含む実定憲法体系の規範意味は、憲法訴訟論の理路と作業を経由してのみ初めて認識可能ということです。逆に言えば、憲法慣習にせよ憲法典条項にせよ、その意味内容はアプリオリに認識可能なものではないのです(ちなみに、憲法の規範内容のこの構築主義的な理解のイメージは、例えば、H・L・Aハートの述べる「内的視点-外的視点」の併用、あるいは、ハイエクの述べる「内在的批判-外在的批判」の併用と通底するものでしょう)。

畢竟、構築主義的なこの一種の諦観は、(壱)あらゆる教条を忌避して、(弐)伝統と慣習を尊重する、かつ、(参)自己責任の原則の価値観を貴ぶ、而して、(四)異文化を呼吸する他者がこれら(壱)~(参)を容認する限り、彼等が自己の伝統と慣習を尊重する心性と行動を称賛する社会思想的立場と、私が定義する保守主義と親和的な法哲学であろうと思います。





些かテクニカルな憲法解釈論から離れて、本稿の主題の核心に移ります。
畢竟、一連の最高裁判決が炙り出した問題の深層は次のようなもの、鴨。

すなわち、①'学習指導要領が法的性格を帯びる以上、端的に学習指導要領で規定された「国旗・国歌の尊重」は「強制」であり、かつ、無限に存在するであろう他の潜在的な選択肢の中から学習指導要領が「国旗・国歌の尊重」を選び取っている以上、国旗・国歌に関する起立斉唱命令は「特殊な思想の強制」ではないのか

而して、②'それに違和を覚える国民がいかに圧倒的な少数派だとしても(笑)、(「民主主義」の弊害を防止するものとしての、多数の意志によっても侵害されるべきでない自由を憲法が保障する原理である)「立憲主義」や「法の支配」もまた現行憲法の不可欠の内容とするならば、元来、人権とは少数派の権利であり、「国旗・国歌の尊重」に対する違和は思想・良心の自由の権利として保障されてしかるべきではないのか。最弱者の主張は、彼や彼女が最弱者であるがゆえに/それのみによって最大限の配慮を憲法から得られるべきだ。「貧しき者は幸いなり」ではないのか、と 


畢竟、①'に関しては、「日の丸・君が代」自体が問題なのではなく、それが強制されていることが問題なのだと、例えば、朝日新聞の社説は述べています。而して、そこに国家権力による強制の契機が介在している以上、確かに、「日の丸・君が代」とクリスマスツリーやクリスマスソングは違うのでしょう。

他方、②'に関しては、多様なイデオロギーを包摂している近代の「主権国家=国民国家」において、社会統合を進め社会秩序をコストパフォーマンス良く実現しようとする場合、「貧しき者は幸いなり」の箴言は満更冗談ではなかろう。なぜならば、

(1)多数派にとっては、自己が支持する「現政権-現体制」の定めるルールと秩序は、マクロ的と相対的には自己に比較的有利な/自分がより共感できるものになるだろう。ならば、多数派は自動的あるいは自然に「現政権-現体制」の定めるルールと秩序に従うに違いない

(2)(強面の独裁国家がその秩序維持に関しては極めてコストパフォーマンスの悪い劣った政治社会でしかないことを想起すれば自明なように)、ある国家の権力運用パフォーマンスは、国民の(不承不承にせよ)自発的な遵法行動の度合の関数だろうから


要は、「思想・良心の自由の制約」と「思想・良心の権利の制約」は別ものであるという最高裁判決の法廷意見はどこまでもどこまでも限りなく法的には正しいにせよ、①'普通名詞の「国旗・国歌の強制」、および、②'固有名詞の「日の丸・君が代の強制」を心理学的に不愉快と感じる少数派が存在するという社会学的事実を見据えるとき、立憲主義や法の支配の原理からは、彼等が訴える思想・良心の自由の間接的制約に救済を与えることは、少なくとも、政治的には考慮の余地はあるの、鴨。尚、「立憲主義」や「法の支配」と「民主主義」を巡る私の基本的な理解に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。



・法の支配の意味
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5a21de3042809cad3e647884fc415ebe

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11138964915.html






イソップの「獅子の分配」やベニスの商人の「ポーシャ姫の狡知の詭弁」の如き印象を与えるかもしれませんが、しかし、①'②'の主張は憲法論的と国家論的に成り立たない。よって、少数派の要求など政治的にも歯牙にも掛けるべきではないと考えます。すなわち、

(甲)憲法論
憲法とは、国家権力に対しては統治の正統性と正当性を、国民に対してはその国家のメンバーとしてのアイデンティティーとプライドを供給する(善良なるや永住外国人に対してはそのような国民の意識がこの政治社会のスタンダードなものであることを告知する)<政治的神話>を内容とする<物語の編み物>に他ならない

(乙)国家論
近代以降の「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」とは、人為的なフィクションにすぎず、加之、それは関係概念に他ならない。よって、(x)「万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて、天壌無窮、永遠に存在する万古不易の国体」なるものは実体概念であり幻想である。同様に、(y)「人権や個人の尊厳の普遍性」なるものから演繹される「人権保障をその唯一の存在理由とする必要悪としての国家権力」なるものもまた実体概念であり幻想にすぎない

(丙)政治論
それがフィクションであるがゆえに、パラドキシカルながら、その政治社会の社会統合を担保する<政治的神話>は近代以降の国家においては死活的に重要なものであり、そのイデオロギーのメンテナンスは国家と国民双方にとって必須のタスクである。他方、その<政治的神話の物語の編み物>としての憲法の体系が、何をその具体的な内容とするかはアプリオリに定まるものではなく、畢竟、それは、現存在としての現在の国民の法的確信の総体である社会通念によって現象学的と社会学的に決定される他ない

(丁)帰結
そのような社会統合の核心としての<物語の編み物>に内容的に矛盾し、かつ、態様的に衝突する、思想・良心の外部への表出は実定憲法体系の保障の域外にある。而して、この帰結は、近代以降の憲法の概念および事物の本性から論理的に演繹されることであり、すなわち、現行憲法の規範内容の一斑をなしている

(戊)補論
もちろん、(丁)帰結も、<政治的神話が織なす物語の編み物>に帰依することまで諸個人に要求するものではない、否、実際、そのような要求の実現は、たとえ、ロベスピエールでもスターリンでも不可能であったに違いない。けれども、そのような<物語>がこの政治社会ではオフィシャルでスタンダードなものであることをその国家のメンバーは学習体得しなければならない。蓋し、学習指導要領が定める、「国旗・国歌の尊重」はこのような学習体得の好機を子供達に提供するものであり、それは、国家権力にとっては、社会統合のパフォーマンスの維持向上を果たすための憲法上の責務であり、他方、永住外国人家庭の子女を含む日本社会の子供達にとって、それは社会権的基本権の内容の一斑を成す    



要は、「日の丸・君が代」の起立斉唱に反対する左翼・リベラル派は、関係概念にすぎない「日の丸・君が代」を、よって、「戦前の日本/戦前からの連続性を保つ日本」なるものを実体概念と看做す<物象化>の陥穽に陥っている。蓋し、それは、彼等が、普遍性を詐称する実体概念としての「人権」や「地球市民」なる空虚な観念に憑依されているからではないか。畢竟、彼等、左翼・リベラル派は、公教育の現場で「日の丸・君が代」が遍く尊重されるようになれば子供達の愛国心が涵養できると夢想する国粋馬鹿右翼と論理的にはアイソモフィクであり、この両者はシャム双生児の関係にある。と、そう私は考えます。

ならば、愛国心とは何か? これまでの考察を社会思想の地平で基礎づけるべくこのことを次項で検討します。而して、結論を些か先取りして述べておくならば、

自国のメンバーであることを自覚してそのことに誇りを覚え、かつ、ある人物がどの国に属するかという記号論的な情報のみによって、その外国人を誹謗中傷する、そんな同胞の排外主義的な言動にはこれを激しく咎める、加之、自国の国運隆盛と名声高揚のために造次顛沛、努力勉励を怠らず、而して、自国のためには自己犠牲を厭わず、もって、必要とあらば従容と難局に臨む態度


このような態度を律する格律を現行の憲法概念および保守主義と親和的な<愛国心>の理念型と規定するならば、蓋し、例えば、キムヨナ姫こそ現在の世界を代表する<愛国者>と規定できよう。すなわち、キムヨナ姫こそ、実体概念の陥穽で喘ぐ左右の愛国心認識をその現存在性において<脱構築>した<現代の愛国心の権化>である。と、そう私は考えています。尚、次項の考察の準備として下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。


・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html


・「左翼」の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148165149.html


・キムヨナを<物象化>する日韓の右翼による社会主義的言説
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a1af69458fa7a67896001dea6ce7cc74







<続く>



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