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ドイツの「戦後補償」はそんなに褒められたものでもなかった

2015年02月21日 14時53分34秒 | Weblog




ドイツの「戦後補償」はそんなに褒められたものでもなかったらしい。
それをわかりやすく報じた記事を目にしました。以下転記。


▼ギリシャがナチス占領賠償を要求、一蹴したドイツは戦後処理をどう進めてきたの?
ギリシャ側は、第2次世界大戦中のナチス・ドイツによって強要された戦時融資の返済や、占領による損害として1620億ユーロ(約22兆円)を請求する権利があると主張しました。これに対してドイツ側は、ギリシャの要求は根拠がないとして、応じるつもりがないことを明確にしています。

ドイツは第2次大戦で敗北しているわけですが、厳密な意味で同国は、戦争に対する賠償は行っていません。ドイツは戦後、米ソの対立によって東西ドイツに分裂してしまいました。ドイツの分裂後、米国や英国をはじめとする西側諸国は1953年「ロンドン債務協定」を結び、最終的な賠償については東西ドイツの統一後、平和条約を締結するまで棚上げにすることについて合意しました 。

しかし、1990年に東西ドイツ統一が実現した時には、平和条約は結ばれず、その代わりにドイツ最終規定条約というものが締結されました。そこでは、戦争に関する問題はすべて解決済みという認識になっており、結局、ドイツは賠償を行わずに戦後問題を事実上、終結させています。

もっとも、その間にドイツは何もしなかったわけではありません。ドイツは戦争賠償という形ではなく、ナチスの不法行為に対する補償については積極的に行ってきました。またナチスが行った犯罪については、その関係者を自国の手で徹底的に裁いています。ナチス関係者による犯罪が立証された場合には、たとえそれが、組織末端の人物で、現在は高齢者になっていたとしても容赦なく逮捕・起訴 されます。いくらナチスの関係者だったとはいえ、高齢で健康状態も不安定になった自国民を逮捕・起訴するというのは、そうそう簡単にできることではありません。つまり、ドイツは戦争に関係するあらゆる行為はすべてナチスの責任とする代わりに、その部分に関しては徹底して追求する姿勢を貫いたわけです。

国家としての責任を回避し、あらゆる行為をナチスに帰すというやり方については、一部から批判の声も出ています。しかし、ドイツのこうした姿勢によって、各国から無制限に戦争賠償を要求されるという事態を回避することに成功しました。有名なワイツゼッカー元大統領による「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」という名演説も、こうした文脈の中で理解した方がよ さそうです。ギリシャの要求に呼応してドイツの戦後問題を追及しようという声は今のところ上がっていません。

ドイツがこのように、自国に有利な形で戦後問題を終結させることができたのは、ドイツの政治家にはリアリストが多く、したたかな交渉力を持っていることが大きく影響していると考えられます。当然、その背後には欧州経済におけるドイツの産業面・金融面での圧倒的な支配力があることも忘れてはならないでしょう。


(The Capital Tribune Japan・2015年2月20日








ここに書かれていることは、欧米というか日本でも国際法・国際政治を専攻している、安全に見てM2(修士課程2年目)の学生くらいには常識のはずのこと。まして、このイシューに関心ありでこの道20年(笑)とかの居酒屋の論客にとって、その情報を欠落した上でなされる主張は、例えば、「be動詞と一般動詞の区別」を知らない論者のする英語論の如く非常識なこと。

それが、しかし、
しかし、それが、

>「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」――(ヴァイツゼッカー大統領)



人口に膾炙しているこの言葉は、第二次大戦でのドイツ敗戦40周年の1985年5月8日に
当時の西ドイツ国会で行った演説の一節。



あのー、個別日本においては、

過去に目を閉ざし現在にも盲目となっているのは
朝日新聞や岩波書店に代表されるリベラル派だということ。

このことが、 この修士課程の子でも標準装備で知っている事実を
彼等リベラル派のマスメディアが直視していないことからだけでも
確認できると思います。





それでもで、知らない者は強い。
素人リベラルの議論はもっと凄まじい、曰く、


ドイツに対しては日本とは違い近隣諸国から戦争責任や戦後責任を問う声はそう大きくはない、
それはつまり、ドイツの戦後補償が優れたもので日本のそれは極めて貧しいものだ、とかなんとか。



これすごいよね、戦後補償の日独比較から見て日本が遥かに誠実にその義務を果たしたのに、日本の
戦後補償のパフォーマンスは特定アジア諸国--支那・韓国・北朝鮮--が満足しているかどうか、
しかも、未来完了進行形でこれからも満足していく(!)かどうを基準にして決まる、と。

因果関係が逆転しています。はい。



しかし、
まー、しかし、

そんな認識を持つのは特定アジアやその代理人の朝日新聞の自由でしょう、たぶん。
ただね、ならば、事実を踏まえての日独の戦後補償の比較という要素は彼等の議論とは
無縁ということ。

ならば、彼等は彼等の<戦後責任>の基準がどうして、
特定アジア諸国の満足に左右されるのか。その法論理的な根拠を示さなければ
ならないと思います。

そうでなければ、日本は十分に戦後補償を果たした(過去完了形)
と考える多くの国民有権者を彼等リベラル派は
説得できないでしょうから。




この点、旧稿に書いた記事を自家転記しておきます。

安倍首相の戦後70年演説がよりロジカルかつ正義にかなうことを念じて。
共に闘わん!!



歴史学が科学であり歴史が<物語>である以上、時代とともに歴史は恒常的に書き換えられるもの。ならば、朝日新聞が2015年の元旦社説「グローバル時代の歴史―「自虐」や「自尊」を超えて」に苦々しげに書いているような事態「フランスで昨年、第2次大戦中の対独協力政権(ビシー政権)について「悪いところばかりではなかった」などと書いた本が出版された。批判の矛先は、これまでの歴史研究のほか家族など伝統的な価値観の「破壊」にも向かう。ベストセラーとなった」といような事態は、寧ろ、歴史学と歴史の本性から見れば健全なことではありますまいか。


蓋し、「歴史修正主義」なるものがリベラル派から批判されるのは、社会科学としての歴史学の問題ではなく、おそらく、政治イデオロギーや政治的な世界観の問題。少なくとも、リベラル派はそう捉えているの、鴨。つまり、歴史学や歴史認識の一般論ではなく、「戦後の体制」なるものが尊重してきたはずの幾つかの<お伽噺>は見直すべきではない、と。


けれども、知性と同様、歴史学も進歩に限りはない。
ならば、その歴史学が供給する知識をパーツにして
日々新たに形成されている、大東亜戦争前後の日本や
戦前の日本の物語がポジティブな色彩を帯びたとしても
誰からも批判される筋合いはない。


畢竟、「歴史修正主義」とは、本来、知性と歴史学の無限の発展性が戦後の国家体制の正当性を突き崩す可能性を恐れたドイツで--ナチス擁護・讃美禁止法制の一環として--学問の自由・表現の自由を例外的に制約する<特例>としてできたイデオロギーであり概念。この事情は、ビシー政権を打倒して形成された第4共和制と第5共和政の正当性を維持するためビシー政権を評価する言説がフランスでは今まで忌避されてきた経緯と似ている、鴨。


ならば、敗戦時には国家権力が崩壊していたドイツ、ならびに、国家権力を現行体制が簒奪したフランスと日本は異なる。日本は戦前の体制が国際法に則り、連合国に降伏して、しかる後、戦前から継続する体制が国際法に則り主権を回復したのですから。つまり、日本には「歴史修正主義」など論理的に存在しようもなく、よって、リベラル派から保守派が「歴史修正主義」とレッテルを貼られ罵倒される筋合いは全くないのです。はい、文字通り、ない袖は振れないから。





・定義集-「歴史」
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11151179540.html


・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11137340302.html


・歴史修正主義を批判するリベラル派の知性の貧困
 --占領憲法をガダラの豚にしましょう
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11972266400.html


・日本社会の「右傾化」を嘆き憤るリベラル派の怠慢と傲岸
 --マーケットが変化したのなら商品の方を変えなさい
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11973497358.html









つまり、「日本の勝ち!」かな(←まだまだ西野カナさんがお気に入り、鴨)









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