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<神風>としての北朝鮮ミサイル発射☆「集団的自衛権行使違憲論」の崩壊の予兆

2009年04月11日 21時19分15秒 | 日々感じたこととか

【Sinyuri at around 11:30 a.m. on April 5, 2009】


北朝鮮のミサイル発射を巡り、朝日新聞を始めとする大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する勢力やその与力たるプロ市民から現行憲法と国際法に関して噴飯もののコメントが出されています。例えば、4月10日の朝日新聞は「対北朝鮮危うい強硬論-戦後の議論なおざり」という記事で、坂本剛二党組織本部長や浅野勝人党国防部会長等々、北朝鮮のミサイル基地を攻撃できる能力を持つべきだという意見が自民党内で澎湃と湧き上がっていることに対して「戦後の専守防衛の議論の積み重ねをないがしろにし、地域の軍拡競争を招きかねない危うさをはらんでいる」「日本国内で積み重ねられてきた議論を無視した考え方だ」(東京本社版朝刊・第14版・第3面)と述べています。また、プロ市民のブログの中には所謂「敵基地攻撃」は現行憲法だけでなく「パリ不戦条約」「国連憲章」に違反すると明記するものさえあります(★)。

★註:戦争と自衛権
古来戦争を巡ってはそれを「正しい戦争」と「不正な戦争」を区別して後者には制裁を加えるべきだという主張が一般的でした(もちろん、制裁実現の可否は、第三国の助太刀を得たにせよ『桃太郎侍』や『暴れん坊将軍』のように「正義が勝った場合」に限定されるのですけれども)。これを「聖戦論」と呼びますが、当然、どの紛争当事者も「正義≒自衛」を主張するわけで、よって、この戦争観は、ある意味、究極の「勝ったほうが正義だ」という強者の論理にすぎない。よって、19世紀半ば以降、資本主義世界システムの強化にともないより合理的な戦争を巡る考え、所謂「無差別戦争観」が有力になります。名称がミスリーディングなのですが「無差別戦争観」とは「どんな戦争もそれを行なった国家の国際法上の法的評価は同じですからどんどん戦争やりなさい」という主張ではない。それは「戦争を行なった国家の国際法的な評価は(=戦後賠償の額の算定等は)戦争に訴えた理由ではなく、原則、戦争の際に戦時国際法のルールをどれだけ遵守したかで決まる」という手続重視の立場です。

実定国際法の世界でこの「無差別戦争観」がはっきり終焉するのが(当時は「すべての戦争を終らせる戦争=最後の帝国主義戦争」と見られていた)第一次世界大戦の終了後、『国際連盟規約』(1920年)と『パリ不戦条約』(1928年)においてです。前者では人類史上初めて(それまで一般国際法上の、つまり、慣習法上のものだった)「自衛権概念」が明文化され、後者において自衛と条約上の制裁を理由とする以外の戦争が違法視されました。而して、1945年の『国際連合憲章』では自衛戦争以外の戦争のみならず政策遂行の手段としての武力の行使等も(武力行使を極限まで制限する迂回路を通してではありますが)「違法化」された。畢竟、「戦争違法観」が広まるに従いこれまでは慣習上の権利として当然と考えられてきた個別的と集団的の双方の「自衛権」が(自衛戦争の合法性を明示するべく)明文化されたわけです。

尚、国連憲章(51条)が明記する「集団的自衛権の固有の権利性」に疑義を呈する国際法研究者がこの国にはいまだに存在します。しかし、近世近代の欧州で数多観察される各種の同盟は「集団的自衛権のプリコミット表明」以外の何ものでもなかったわけであり、また、戦後のNATO・ワルシャワ条約機構が全体として冷戦下の均衡による世界平和をもたらした事実に鑑み日本以外ではその「固有の権利性」を否定する国際法専門家は皆無と言ってもよいと思います。



朝日新聞も件の記事の中で認めている如く「これまで政府は「相手がミサイルなどによる攻撃に着手した後の敵基地攻撃は自衛の範囲内」と説明」してきました。蓋し、一般国際法(≒慣習法)上の権利でもあり、加えて、国連憲章51条が定める「自衛権」に先制攻撃と報復攻撃が含まれることは自明。而して、(イ)危機の急迫性、(ロ)武力行使以外の危機回避手段の不存在、(ハ)行使される武力の危機に対する相当性(あるいは、最前者および後二者に区分けして「急迫性」と「均衡性」)を要件として、かつ、国連憲章51条に定める(ニ)「国連の安全保障理事会が必要な措置を取るまでの間」の期間限定の武力行使であり、(ホ)「自衛権の行使に当って取った措置を直ちに国連の安全保障理事会に報告する」限り、例えば、敵基地攻撃は(更には、核兵器による敵基地攻撃さえも)毫も現行の実定国際法に違反しないのです(尚、国際法上、「危機の存在」「急迫性」の認定は自衛権を行使しようとする主権国家が行ない得ること(行うしかないこと)も共通の了解事項です)。

而して、集団的自衛権に関する現在の政府見解(≒内閣法制局の憲法解釈)、すなわち、「日本は集団的自衛権を国際法上保有しているが、集団的自衛権は憲法上行使できない」と主張する論者同様、もし、国際法上日本が持っている自衛権のコロラリーとしての「敵基地攻撃」の権利が憲法上は認められないというのなら、朝日新聞や内閣法制局は憲法の明文を示して、あるいは、憲法の概念から論理的にその理由を説明展開すべきだと思います。佐瀬昌盛『集団的自衛権』(PHP新書・2001年5月)、あるいは、村瀬信也編『自衛権の現代的展開』(東信堂・2007年5月)等々が説得的にこのイシューに関する学説の変遷をスケッチしているように、実際、国連憲章51条が「固有の権利=自然権」(主権国家の概念および主権国家の(シュタムラーの言う意味での)「事物の本性」から演繹される権利)と明記している「集団的自衛権の固有の権利性」に疑義を呈する論者の存在する国、更には「集団的自衛権」と「個別的自衛権」を(権利行使の様相の差異を超えて、その権利根拠においても)別物と考える論者の存在する国は世界でも日本だけなのですから。

畢竟、「敵基地攻撃」も「集団的自衛」も(自衛にそれが不可欠なら)「核武装」も主権国家の固有の権利であり、すなわち、それらは「国際法上」認められるだけでなく「憲法上の権利」である(要は、「交戦権」と同様、ある主権国家がそれらを憲法典の明文規定で放棄したとしても、それは、憲法・主権国家の概念と憲法・主権国家の「事物の本性」から放棄できない性質の権利なのです)。而して、それらが憲法上の権利である以上(つまり、「集団的自衛権や敵基地攻撃権を国際法上持つだけでなく憲法上も日本は持っている」のだから)それらの行使も憲法が禁ずるはずはない。なぜならば(例えば、所謂「自然債務」もあるのだから「行使できない権利は形容矛盾だぁ!」などという素人の印象論ではなく)、上に紹介した『集団的自衛権』の中でも喝破されている如く、「憲法上有する権利を、憲法上行使できない」(p.204)とは何人たりとも論証はできないだろうからであり、また、現行憲法には「固有の権利」である「集団的自衛権」や「敵基地攻撃権」や「核武装」を否定する明文が存在せず、実際、1960年代後半までの政府答弁は「集団的自衛権の保有」を否定してはいなかったのですから。

敷衍します。例えば、長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書・2004年4月)には「国連憲章によって認められている権利を、自国の憲法で否定するのは背理だといわれることがあるが、もちろんこれは背理ではない。アイスクリームを食べる権利は誰にでもあるが、自分は健康のことを考えて食べないことにするというのが背理でないのと同様である」(p.162)、「いったん有権解釈によって設定された基準については、憲法の文言には格別の根拠がないとしても、なおそれを守るべき理由がある。(中略)合理的な自己拘束という観点からすれば、ともかくどこかに線が引かれていることが重要なのであり、この問題に関する議論の「伝統」をよく承知しない人たちから見て、その「伝統」の意味がよくわからないかどうかは関係がない」(p.163)との主張が述べられています。確かに、憲法の規範意味は憲法典が運用される中で慣習として漸次自生的に蓄積構築されていくものでしょう。ならば、憲法典に明文を欠くとしても一旦定着した有権解釈や国民の憲法意識の内容は実定憲法の規範意味を形成するという長谷部さんの認識は一般的には妥当だと私も思います。けれども、その主張は、憲法秩序および憲法が適用される舞台たる国家の存続に直結することの稀な諸権利や諸制度については満更間違いではないとしても、憲法秩序と国家の存続が危機に曝される事態に対応するための制度たる「集団的自衛」または「敵基地先制攻撃」あるいは「核武装」においては、繰り返しますが憲法と国家の概念ならびに憲法と国家の「事物の本性」から見て到底成立しない主張であろうと私は考えます。

而して、朝日新聞が、政府のこれまでの敵基地攻撃を巡る見解に関して上で引用したセンテンスに引き続いて述べている主張、すなわち、「これまで政府は「相手がミサイルなどによる攻撃に着手した後の敵基地攻撃は自衛の範囲内」と説明する一方、「他国を攻撃する兵器の保有自体が違憲」とし、実際にはできないとの立場を貫いてきた。抑止力の名目でも「大陸間弾道ミサイルや長距離爆撃機など攻撃的兵器の保有は専守防衛に反する」との見解だ」と言うのは(今時、兵器に「攻撃用」と「非攻撃用」の区別など存在しないという初歩的な反論は置いておくとしても)、単なる時の政権の、しかも、「資本主義-自由主義の陣営」が冷戦で勝利するまでの冷戦構造下の(東西両陣営の均衡の中で日本の安全が大局的には保持されており、北方領土近海での漁船拿捕や竹島の不法占拠等々の局地的例外を除けば、支那もロシアも、韓国も北朝鮮も「武力」を背景にした外交交渉を日本に仕掛けてくる条件に欠けていた時代の)政策指針にすぎないものを現行憲法の改変不可能な規範内容と読み替える不埒な主張だと思います(尚、現行憲法の改正に向けた、憲法と安全保障を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです)。

蓋し、今般の北朝鮮による不埒で無礼なミサイル発射がこのイシューに関してもこの国の桎梏と成り果てている憲法解釈の是正と憲法自体の改正を推進する契機になればよい。いずれにせよ、このような国家の危機に際して、時の宰相が保守改革派の麻生総理である巡り合わせを鑑みる時、やはり我が国は<神州>であるという念をいよいよ深くします。

麻生総理断乎支持!
頑張れ麻生総理!


・長谷部恭男教授の<憲法9条改正不要論>の検討 
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-194.html

・憲法改正の秋-長谷部恭男の護憲派最終防御ラインを突破せよ!
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-195.html

・護憲派による自殺点_愛敬浩二『改憲問題』(1)~(8)
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-25.html

・アーカイブ:北朝鮮基地先制攻撃の法理と政策☆プロ市民の朝日新聞投書を導きの糸として
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-98.html

・アーカイブ:破綻する峻別論☆集団的自衛権と個別的自衛権
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-24.html

 



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