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憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(3)

2013年07月14日 23時20分55秒 | 日々感じたこととか


◆改正要件の緩和は立憲主義と抵触するか?

結論から先に書けば、この「改正要件の緩和は立憲主義と抵触するか」という争点は「立憲主義」の語義に収斂する「言葉の問題」にすぎないとも言える。けれども、「言葉の問題」にすぎないにしても(★)、私自身は、改正要件の緩和は必ずしも立憲主義と抵触しないか、あるいは、それが立憲主義もしくは「立憲主義と地続きのsomething」の法原理と抵触するとしても、改正要件の緩和は憲法論、就中、憲法基礎論(憲法の定義、ならびに、憲法の正当性および憲法の法的効力の根拠を巡るゼロベースからの法哲学的な考察)から見て特に許されないものではないと考えます。その理由は次の5個。

(A)自民党の憲法改正草案に沿った改正条項の改正が行われた場合でも、
その改正された憲法の硬性憲法性は維持されること

(B)立憲主義は硬性憲法の認識の枠組みであり硬性性の説明の根拠にすぎないこと

(C)立憲主義は、例えば、民主主義や国民主権、あるいは、日本国を社会統合する<政治的神話>とならんで憲法に憑依する多数の価値や原理の一つにすぎないのだから、ある憲法典において--また、歴史的に特殊なある政治と社会の時代状況を背景にして--どの程度の硬性性が妥当かを判定する基準として立憲主義が単体で機能することはありえないこと

(D)立憲主義の権利守護機能は--司法審査の与力を看過・割愛・捨象するとすれば--権力の分立ならびに権利内容の具体化を通して具現されるべきであり、権利の守護機能の低下向上、ならびに、権利侵害の惹起の蓋然性の高低について、とりあえずニュートラルな改正要件の緩和や厳格化を立憲主義を根拠に推奨も制約もできないこと

(E)改正要件緩和論批判、もしくは、改正条項改正論一般の批判の基底には、「権利を確保するための立憲主義」という通常の「立憲主義」の意味内容を超える、「国家権力は制約されなければならない/今の制約がベストだとは言えないかもしれないが、少なくとも、現状に比べて国家権力の制約の度合いを緩和することは許されない」という類の、左翼流の「国家=必要悪」という認識が横たわっているのではないかということ





まず(A)、96条の改正によっても憲法が硬性憲法であるという性質は維持されること。畢竟、『広辞苑』によれば「硬性憲法」とは「改正に当たって通常の法律を制定する場合よりも厳重な手続を必要とする憲法」、『法律学小辞典』(有斐閣)によれば「通常の法律の改正手続よりも丁重な手続によらなければ改正できない成文憲法」という意味であり、これは言葉遊びではなく、自民党の改憲草案の如くに現行の96条が改正されたとしても、その改正憲法(もしくは、法学的意味の革命を経た新憲法)もまた--通常の法律の制定や改正とは異なって将来の憲法の改正には「国民投票での全投票者の過半数以上の賛成」が必要とされるのだから--硬性の憲法であることは自明でしょう。ならば、改正要件を緩和された改正憲法もまた立憲主義を踏まえた憲法であることは間違いないのではないでしょうか。

次に(B)、「立憲主義」をして「国家権力や社会の多数派によっても侵害されるべきではない権利の存在を前提として、国家権力によるそのような権利の侵害を制約し、他方、社会の多数派からの権利侵害に対する<守護神>であることを国家権力に求める原理」と理解することには--「国家権力や社会の多数派によっても侵害されるべきではない権利なるものの内容を誰がどう定めるのか」、あるいは、「国家権力や社会の多数派によっても侵害されるべきではない権利なるものが存在するという根拠は何か」、更には、「国家権力や社会の多数派による権利侵害を防ぐ制度のコングロマリットはどのようなものであるべきか、その制度コングロマリットの組み合わせには普遍性があるのか、それとも、時代や社会が変われば最適解も変わる類のものなのか、そして、そもそも、その制度デザインの妥当性の根拠は何なのか」等々を巡っては、百花繚乱、千紫万紅、議論百出であるにせよ--そう異論はないでしょう。

重要なことは、この「立憲主義」理解は--司法審査権や権力分立制の正当化と説明の根拠であることを除けば--ある憲法が硬性憲法であることを正当化する/説明する評価と認識の枠組みにすぎないことです。換言すれば、立憲主義は、現行の96条を改正して、衆参「各議院の総議員の四分の三以上の賛成で、国会が、これを発議し・・・」と現状の改正手続を一層厳格化した規定と、現行の「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し・・・」という規定、および、「各議院の総議員の過半数の賛成で、国会が、これを発議し・・・」という自民党改憲草案の規定のどれがより妥当なものかを決定する根拠にはなり得ないということです。

なぜならば(C)、ある憲法秩序がその具現を目指すべき価値は立憲主義だけではないから。立憲主義を含む民主主義や国民主権、なにより、「皇孫統べる豊葦原瑞穂之国の社会統合イデオロギー」、もしくは、「国民の生命・身体・名誉・財産の維持確保ならびに日本国の主権の維持確保」等々多岐に亘る諸価値を全体として最適に具現することが憲法には求められているのであって、個別、立憲主義もしくは「立憲主義と地続きのsomething」とも言うべき法原理の具現にどの程度配慮すべきかは、その時代時代に日本国が置かれている現実の政治的と社会的、国内的と対外的の諸状況を睨んだ上で、諸価値間の比較衡量の結果として、これまたその時代時代の日本国民の法意識が決定するしかないものだろうからです。





四番目に述べたいことは(D)、(司法審査権が認められているか否かにかかわらず、)立憲主義の具現は、本来、権力機構間の相互監視と相互制約、ならびに、権利概念の明確化と権利内容の具体化を通して行われるべきものであって、憲法の改正のハードルがより低くなれば、国家権力および社会の多数派による少数派の権利侵害の可能性も高くなるという(そうなるにしても、そうはならないにしても、どこまでいっても現状では)憶測や危惧でしかないものを根拠にした、改正要件緩和論批判は、権利擁護のための正規の手続に沿った努力を放棄してなされる怠慢でしかないだろうということです。

「立憲主義」は、あくまでも、国家権力が憲法に従うことを通して国家権力の恣意的な運用を制約する原理であること、加之、「立憲主義」が国家権力の権力行使を正当化する根拠でもあること、要は、「立憲主義」自体は--権力分立と権利の確保という回路を別にすれば--弱い国家権力をアプリオリに要求する原理ではないことを想起すれば、このことは満更我田引水的な言い訳ではないのではないでしょうか。

いずれにせよ、改正要件の緩和それ自体は、(改正要件の緩和は、自動的に、参政権、すなわち、政治参加と権力参加の双方における国民の自由の拡大充実を意味するということは、武士の情けで不問に付すとしても)権利の確保や権利の侵害について取りあえずニュートラルなのだから、反日リベラル派の改正要件緩和論批判は、本来、立憲主義が容喙できるはずもない争点にまで立憲主義を持ち出しているものと言える。と、そう私は考えます。

第五(E)、(Ⅱ)「改正要件の緩和は立憲主義に反する」という、96条改正先行論に対する批判に関して最後に述べておきたいことは、改正要件緩和論批判、もしくは、改正条項改正論一般の批判の基底には「国家=必要悪」という左翼の残滓的の認識が横たわっているのではないかということです。もちろん、反日リベラル勢力も「リベラル」の衣の下の「左翼の鎧」を露わにして、懐メロでもあるまいに今更、「国家権力とは支配階級による人民支配のための暴力装置でありイデオロギー装置である」などとは言わないでしょうけれども(笑)。

けれども、そうとでも考えなければ、立憲主義の意味内容を遥かに超えてまで、彼等反日リベラル勢力が、改正条項の改正に反対する理由が見つからないのです。而して、改正条項改正論に対する少なくない批判の基底に、そのような「国家=必要悪」という左翼の残滓的の認識が横たわっているとすれば、そのような認識は、①憲法が国家権力を正当化するツールでもあり、他方、②近代の「国民国家=主権国家」においては国家権力の機能の中枢中核の一つが、「国民」および「民族」という<政治的神話>をシンボルとして駆使してなされる社会統合の維持促進であること、更に、③現代の「大衆社会下の民主主義国家」においては、権力者と国民有権者との自同性があり、すなわち、権力者は大衆を正当に代表する者であるというイデオロギーが公式・正当なイデオロギーであること、これら①~③が憑依する、近代以降の<国家>の事物の本性を看過する根拠薄弱かつ歴史的に特赦な認識であり、なんらの普遍性も持たない。

これらを鑑みれば、「国家=必要悪」の認識が実定憲法規範の内容となり、就中、その認識がゆえに憲法の改正要件の緩和が憲法論的に許されないとは言えないことは明らかであり、よって、そのようなフランス革命の亡霊に憑依された左翼的妄想の上に建てられた改正要件緩和論批判、もしくは、改正条項改正論一般の批判もまた空中楼閣または我田引水の類にすぎないことは言うまでもないでしょう(★)。

蓋し、以上の(A)~(E)の諸項目を鑑みれば、96条の改正が立憲主義に絶対に反するとまでは言えないこと、いずれにせよ、少なくとも、それが立憲主義に反するとしてもそれゆえに96条の改正が許されないとまでは言えないこと。このとこだけは明らかではないかと思います。






★註:「立憲主義」の語義

現在、「立憲主義:Constitutionalism」という言葉には概略次の4個の意味があると思います。ちなみに、「弱い」「強い」の表現は、数学的な語感であり、その主義主張の意味内容が歴史的状況の変遷にともなって変化し易いか(弱い)、変化し難いか(強い)ということを表しています。

▼「立憲主義」の4個の意味
(1)基本的人権を前提とする「権利の保障」と「権力の分立」を要請する主張
(最も弱い、近代立憲主義)

(2)基本的人権を前提としない、しかし、なんらかの普遍的価値を想定した
「権利の保障」と「正規の法:regular law」に沿った権力行使を要請する主張
(弱い、イギリス型の立憲主義)

(3)基本的人権を前提としない、しかし、なんらかのルールで決まった権利を、
かつ、社会の多数派から守るための統治の仕組みを要請する主張
(強い、アメリカンな立憲主義、リベラル・デモクラシー型の立憲主義)

(4)統治機構が憲法や慣習に従い構成され、
権力の行使が憲法や慣習に則って行われることを要請する主張
(最も強い、古典的立憲主義、外見的立憲主義)

尚、日本では、「古典的立憲主義」として(2)の英国流の立憲主義をそこに含め、逆に、「悪法も法なり」の悪しき法治主義に立つものとしてときに軽蔑をもって語られるドイツ流の(4)の「外見的立憲主義」とその「古典的立憲主義」を区別する用語法が一般的かもしれません。けれども、本稿では憲法によって守護されるべき権利の内容と根拠に焦点をあてており上の如く分類しました。

而して、本編で述べた「国家権力や社会の多数派によっても侵害されるべきではない権利の存在を前提として、国家権力によるそのような権利の侵害を制約し、他方、社会の多数派からのそのような権利への侵害に対する<守護神>であることを国家権力に求める原理」という「立憲主義」の内容は、これら(1)~(4)のすべての「立憲主義」の最大公約数的な内容であろうと思います。







<続く>




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