◆憲法規範の言語分析
大東亜戦争後の日本の憲法学が唱えた<日本にしか存在しない法段階説>は一見、論理的にも実務的にも磐石と見える。けれども、それは憲法を巡る政治や思想の現実的な課題を解決する力を持ち得ません。なぜならば、なにが現行憲法体系の頂点たる価値であるかの判定は論者の主観に依存するしかなく、その現実的な決定は多数決で行われるしかなくなるからです。この事態は「憲法規範による国家権力の制限」や「民主的な手続きによっても奪われない人権の立憲主義的な保障」という彼等が後生大事に護ろうとする<近代憲法の本質>なるものさえ危うくするに至る。いずれにせよ、戦後民主主義を信奉する輩が自身の願望と妄想にすぎないものを「憲法の精神」や「憲法の主意」と呼んで現実政治を批判する現在の日本の日常風景は、実にこの戦後日本の憲法学が犯した掟破りに起因するのかもしれません。尚、各自が憲法の内容と信じる内容の多様性については下記拙稿をご参照ください。
・憲法と常識(上)(下)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d99fdb3e448ba7c20746511002d14171
あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7579ec5cfcad9667b7e71913d2b726e5
・憲法無効論の破綻とその政治的な利用価値(上)~(下)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11396110559.html
憲法を含む総ての法規範は幾つかのタイプのルールの結合と考えられます。H.L.A ハートがその主著『法の概念』(みすず書房・1976年2月)で抽出したように、法とは第1次ルールと第2次ルールの結合である(同書・90頁)。第1次ルールとは(例えば、「汝姦淫するなかれ」とか「殺すな・傷つけるな・盗むな」という規則のように)、人に具体的な行動の指針を直接与えるタイプのルールであり;第2次ルールとは、第1次ルールを誰が供給するのか、ならびに、誰が第1次ルールを変更・廃止するのかを定めるルールである。
ケルゼン流の法段階説とH.L.A ハートが主張する二種類のルールの結合としての法体系のイメージとの差異は、前者が抽象的な規範論理の世界でしか法体系の一体性を提示できなかったのに対して、後者は具体的な個々の法律を念頭に置きながらも法秩序の体系理解(再構築)を可能にした点にある(尚、H.L.Aハートのアイデアは国内法秩序のみならず国際法秩序にも適用可能ですがこの記事では一国内の法体系についてのみ検討しています)。
一国の法秩序は体系を成す。しかし、具体的な法規範を念頭に置いて法体系をイメージする場合には、それは、ケルゼンが率いた純粋法学派が語ったように(正確には、その法段階説を換骨奪胎した日本の戦後憲法学の主流派が騙るように)、憲法の中の基本原則やそれを謳う条文→他の憲法の条文→法律→規則・政令・条例というような法律の形式に応じたピラミッド構造ではなく、諸法律の機能に着目した上での第1次ルールと第2次ルールが縦糸と横糸として編上げるダイナミックな法体系に他なりません。
フッサール的な言辞を使えば、国家とはそのような<生きられてある編物>としての法体系が社会学的に確認されるような人間集団:あるいは、そのような常に自己組織化を繰り返しながら自己を再生し再構築していく法体系を、自分自身のアイデンティティとプライドの源泉としている人々が作る公的関係性の総体に他ならないのです。
では、第2次ルールと実質的意味の憲法はどのような関係にあるのでしょうか? 「社会あるところ法あり」。文化人類学や考古学の報告を読む限りこの命題は恐らく正しいのでしょう。しかし、文化人類学や考古学のレポートは「あらゆる人間社会に第1次ルールが存在している」ことを示唆するにとどまる。第2次ルール、すなわち、誰がどのような手続きによって第1次ルールを定め修正し廃止することができるかを定めるルールが存在すると言えるためには、その社会に<権力>が発生していたことを確認しなければならないからです。否、第2次ルールの存在と権力の存在、ひいては、権力の存在と国家の存在は同値であるとさえ言えるでしょう。
ここで、権力とは「公的な資格(=権威)をもって他者の行動を左右する命令を出すことができる権威とその機能」と定義すれば、権力の存在の有無は当該の社会に公的な正当性が生じているか否かに収斂します。公的で正当な資格を持つ者(機関)の命令によって特別な強制がなくとも人々の集団的の行動が統合され、日常の生活が秩序を持って営まれることが権力と法の機能の核心である(よって、強権的な独裁国家はその統治する人々の行動を統合し制御するために法治体制と比べて膨大なコストを割かねばならず、見かけのその勇壮さとは裏腹に国家経営のスタイルとしては劣等だと言えよう)、と。蓋し、「国家(=権力)あるところ法(=第2次ルール)あり」なのです(★)。
★註:第2次ルールと法段階説と実質的の意味の憲法
ハート『法の概念』に言われる、第1次ルールと第2次ルールの差異は、現実の社会においてルールが果す役割に着目した(法の機能的側面に着目した)区別です。よって、憲法が第2次ルールで刑法や民法などの憲法よりも下位にある法規が第1次ルールというわけではありません。
また、ハンス・ケルゼンの言う根本規範、すなわち、総ての国内法秩序に授権する究極の最高規範(それは、法体系のピラミッドの頂点とイメージされる。)が第2次ルールでありそれ以外の大部分の憲法の条規を含む(些かでも内容を持った)法規範が第1次ルールというわけでもない。ケルゼンの考える法体系は、内容を捨象され上位下位という差異(それは石材の大小の規格の差異と考えればよい)だけによってそのあるべき位置を定められた石材によって積み上げられたピラミッドなのでしょうから。
ハートの考える第1次ルールと第2次ルールの結合としての法体系は、縦糸と横糸の二種類の糸によって編上げられる織物としてイメージできます。而して、実質的意味の憲法とは第2次ルールの核心たる権力の正当性を担うものであり、第2次ルールとしての実質的意味の憲法は、法の形式として必ずしも「憲法典」である必要も成文法である必要もないのです。
◆日本における実質的意味の憲法の成立とその内容
太安万侶の時代に憲法はあったのか? 太安万侶が古事の記録と格闘していた時代にも憲法は間違いなく存在した;なぜならば、太安万侶の時代には間違いなく公的な権力が存在しただろうから。先の問いに対してはこう答えることが許されると思います。
では、太安万侶の時代の憲法はどんな内容だったのか?
私は上で、実質的な意味の憲法についてこう記述しました。憲法とは「法律の名称に「憲法」という文字が使われているかどうかは問わず、国家権力の所在と正当性の根拠、権力行使のルールや権力を行使する官僚・公務員の責務と権限の範囲、ならびに、国民の権利と義務(あるいは臣民の分限)を規定する法律」、であると。憲法の経験分析を経た今、この記述の中の「国家権力の所在と正当性の根拠、権力行使のルールや権力を行使する官僚・公務員の責務と権限の範囲」が直接的に;そして、「国民の権利と義務、あるいは臣民の分限」が間接的反射的に、第2次ルールの内容(の一部)となると私は考えます。
なぜならば、法体系とは第1次ルールと第2次ルールの結合でありそれらが縦糸と横糸となって編上げる秩序である。そして、法体系とはそのような秩序の恒常的な変化のダイナミズムである。また、第2次ルールの核心は権力でありその権力の正当性に他ならないからです。
ならば、太安万侶の時代の実質的な意味の憲法の内容とは、律令(大宝律令・701年、養老律令・718年)の中で「国家権力の所在と正当性の根拠、権力行使のルールや権力を行使する官僚・公務員の責務と権限の範囲、ならびに、国民の権利と義務(あるいは臣民の分限)を規定する法律」の規定を含みはするものの、その核心は、『記紀』(『古事記』・伝712年、『日本書紀』・720年)が描く我が神州、豊葦原之瑞穂国の成り立ちのイデオロギーそのものと言えるでしょう。また、文字を解読できない当時の多くの日本人にとってヴィジュアルに日本の国家権力の成立と正当性を悟らせたであろう藤原京こそ、書かれざる憲法テクストだったのではないか。私はそう考えています。そして、神話・都市・法典の三者を一体として実質的意味の憲法と捉えるこの点こそ、私が上山先生の立論の地平から一歩進めたいと思っているポイントなのです。
●神話・都市・法典の三位一体によりなる実質的な意味の憲法
実質的意味の憲法を含む形式的意味の憲法=律令
実質的意味の憲法の核心=記紀
実質的意味の憲法のヴィジュアルテクスト=藤原京
結論を書きます。太安万侶の時代にも憲法は存在した。それは『記紀』と藤原京をそのテクストの中核としながらその一部は律令の中に散在していた。そして、その憲法内容の核心は、この豊葦原之瑞穂国を万世一系の皇孫が統治したまうことの正当性であった、と。
ならば、安万侶の時代、憲法の存在の有無とその内容を最も知っていた一人は他ならぬ太安万侶自身だったと言えるでしょう。新首都建設の槌音を聞きながら、唐心の粋たる律令を我が神州の国柄にふさわしく改編すべく明けても暮れても律令のテクストと格闘する若い官僚達と交流しつつ、第2次ルールの核心たる権力の正当性を紡ぎだし編上げようとしていた太安万侶こそ、藤原京に憲法が華咲いた事実を知るなによりの証人であったと私は考えるのです。そして、藤原京に憲法が華咲いた事実と我が神州が<日本>として成立したこととは同値である、とも。
藤原京における憲法創造の作業は、スポンサーである持統天皇の命の下、藤原不比等をプロデューサーとして太安万侶を含むスタッフ、ならびに、不比等のブレーンたる帰化人グループが協働でことに当たったのでしょう。そして、不比等が中心となってデザインした日本の国家としての図柄は現在でもある意味不変である。而して、1300年の時空を超える生命力を持つ国家デザインを構築した不比等のタレントに私は驚愕せざるを得ないのですが、しかし、それと同時に、不比等の才能を見抜きその才能を存分に発揮させたスパークイーン持統天皇の偉大さもまた1300年の時空を超えて伝わってくるのです。
さてもさても、上山春平先生の顰にならい「ヴィジュアルテクストとしての藤原京」とまで口走ってしまいました。実に、筆の勢いの恐ろしさよ、です。しかし、神州の国家と憲法の基盤が構築された過程を考えてみるにつけ、私は日本と日本人に対して小さいけれど確実な希望を覚えました。
壬申の乱の際の天武天皇ほどの大義名分も手練手管も欠く、正に、日本史上「最低の天皇=後醍醐」の新政の如き、民主党政権がもたらす混乱とその収集にこれから10年ほどの日本は混乱を極めるのかもしれない。しかし、大東亜戦争後の日本を牛耳ってきた戦後民主主義の主張と思想がこの混乱の中で終にその神通力を喪失することもまた、確かであろう。
ならば次の保守改革派の政権が樹立されるまでは、「風車 風が来るまで昼寝かな」でも悪くない。今まで半世紀あまり戦後民主主義の欺瞞と詐術が続いていたことに比べれば、3-4年などものの数ではないでしょう。天智天皇と天武天皇の志は、大化の改新の60年あまり後、天智天皇の娘であり天武天皇の后であった鸕野讃良皇后のリーダーシップによって具現したのですから。而して、鸕野讃良皇后とは持統天皇その人のことです。