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瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(5)

2013年02月28日 00時20分22秒 | 日々感じたこととか



◆物語の回廊をもう一人の悪魔が来たりて・・・

天賦人権論が、比較的にせよ、謬論でありながら日本社会で生き残る生命力の強さ。その頑強さ(robustness)の理由を、天賦人権論が漂わせている<物語性>だと私は考えます。すなわち、<物語性>は(★)、明確・平明・総合的なビジョンを提示してマーケットの支持を獲得しやすいという意味でも、他の思想からの批判に打たれ強いという意味でも天賦人権論の頑強さの理由ではないか、と。

そう私が想定する、<物語>の内容はおおよそ次のような「立憲主義」の由来を説く、フランス革命を総括する現在の地点からの「認識:Episode」を媒介に、人々が暗黙裏に(誰に頼まれたわけでもないのに/勝手に/なにげなく/無意識に、)自分の脳内で紡ぎ出し編み上げるであろう<お伽話>のこと。ちなみに、箇条書きのメモに<物語性>を見立てることは、謂わば「文字で綴られたロールシャッハ・テスト」であり記述主義的な用法の言語行為としては不適当ではないか(★)。私はそうは思わないのです(笑)。

尚、このEpisodeにはそれが<お伽話>の脚本ということもあって、まだ「主権国家=国民国家」が人類史に登場していなかった、というか、その「社会契約」なるものによって人類史上始めて「国民国家=民族国家」が造られることになる経緯が織り込まれています。ですから、例えば、「国の内部では」と6文字ですむはずの事柄が「社会契約の成立と同時に誕生する当該の国家社会の内部では」などに文字化けしています。ご了承下さい。すみません(涙)。



▼Episode-0
(α1)憲法とは、人々にとって桎梏となっていた、教会勢力やギルド組織、あるいは、貴族門閥勢力や地方の領主権力等の中間団体を粉砕するために、権力と権威を中央集権的な国家権力に付与する社会契約的のきめごとである。

ちなみに、その社会契約と同時に/その社会契約に引き続いて憲法典(形式的意味の憲法)が制定されたとすれば、その憲法典はもとになった社会契約の内容をしたためた<証文>と言える。

(α2)憲法は、中間団体が粉砕された後、(社会契約の成立と同時に誕生する当該の国家社会の内部では、)人々の権利を脅かしうる唯一の社会的威力として聳えることになるであろう国家権力の権力の恣意的な行使を防ぐための、国家権力に対する縛りであり拘束でもある。

(β1)例えば、フランス人権宣言16条には「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、憲法をもつものではない」と書いてあることに象徴される如く、「権利保障条項:Bill of Rights」と「権力分立の制度:Separation of Powers System」こそ、憲法、就中、憲法典(形式的意味の憲法)に組み込まれた、国家権力の恣意的で不当な権力行使を防ぐための手段であり憲法の最重要の制度であり社会契約の智慧なのだ。

ここで、一つの用語が複数の意味を帯びているっぽくて紛らわしいので、「憲法」という名の最高法規を「形式的意味の憲法」(憲法典)と、そして、「憲法」という名に値する最高法規を「立憲的意味の憲法」(=「近代的意味の憲法」)と書くことにすると、フランス人権宣言16条の意味は「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、形式的意味の憲法はもっていたとしても立憲的意味の憲法をもつものではない」と書き換えられる。

(β2)「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されない」社会の最高法規、すなわち、「憲法」の名に値しない最高法規は国家権力に対して正当性を付与しない(その法典名が「憲法」だとしても、それは、「憲法」の名に値する最高法規の制約/拘束/縛りに従うという条件と引き替えに、国家権力に権力と権威を付与する/国家権力を立ち上げるという社会契約の最重要のきめごとが脱落遺漏しており、社会契約の<証文>とは呼べないのだから)。--(Episode終了)






要は、Episode(α1)~(β2)が形成する<物語>を暗黙の前提にして、
左翼・リベラル派の少なくない論者は、例えば、

細かい点では天賦人権論は、確かに「世界の憲法学のスタンダード」とは言えないかもしれない。しかし、この<物語>に共感できる限り、そして、この<物語>に共感しない真っ当な憲法の研究者などいるはずはないのだから、世界の憲法学は天賦人権論を日本流の「天賦人権論」という名前で識別していないだけのことで、日本で「天賦人権論」と呼ばれているのと同じ認識と主張を唱えているにちがいない。なぜならば、この<物語>は「立憲主義」を説明するロジックでもあり、日本のような人権後進国とは違い、世界の人権先進国で「立憲主義」を否定する論者など皆無なはずだからだ。そして、この立憲主義成立の経緯を説く<物語>からは人権の普遍性もまた自明だろうから。

とかとか錯覚しているの、鴨。もし、そうなら、「反日より無能が、無能より思い込みが有害」という民主党政権が3年間に亘って証明した真理の、これもまた別の実例なのでしょう。

すなわち、「国際的な憲法学のスタンダード」を知らないふりをしている左翼・リベラル派の悪意ある言語行為(政治活動の一斑としての発語媒介行為)よりも、なんらかの理由によって、天賦人権論が「国際的な憲法学のスタンダード」に適っていると錯覚して/適っているかどうかを確認する必要さえ感じないでなされる言語行為(論者の主観としては記述主義的な用法を貫徹しているつもりの、しかし、傍から見たら政治活動の一斑としての発語媒介行為以外のなにものでもない傍迷惑な言語行為)が遥かに有害である、と。

そして、その「なんらかの理由」の一つこそ<物語>一般の帯びる説得力ではなかろうか。しかし、天賦人権論を正当化する上で論理的にはこの<物語>は鰯の頭ほどの価値もないだろうに、と。そう私は考えます。



なにより、立憲主義の由来を説くこの<フランス物語>には実は「天賦人権」なる観念は直接には出てきません(人権の自然権性は「憲法学の国際的スタンダード」からは容認されませんから、それを規定しているフランス人権宣言1条および2条と、天賦人権論を擁護する現在の論者を想定して書いたこの<物語>とは一応は無関係なはずだからです)。

そして、この<物語>はあくまでも<お伽話>であり、現在の哲学的の地平からは論理としては脆弱です。それがフランス革命を専ら念頭に置いてなされたものであり、その理路が当時のフランスの時代状況に依存しているというだけでなく、「憲法や国家や社会を人間はかなりの程度自由に変革することができる」という(ハイエクの言う「設計主義的」な、弊ブログの用語で言えば)「人間の万能観-権力の万能観」と「文化帝国主義」的な色彩濃厚な極めて特殊な歴史解釈に依拠したものにすぎないから。

例えば、Episode中の「中間団体」を、(柏木)「国民国家=民族国家」と個々の人々との間に位置づけられる、(柏木a)なにがしかの所定の目的を達成するべく向自的かつ合目的的に組織された単なる機能集団ではなく、他方、(柏木b)独自の規範と価値と世界観が息づく、よって、その構成メンバーはそれらを<文化>や<伝統>や<慣習>として自生的に受領している、そんな単なる共同体とも異なり、(由紀)それ自体が独自の意思を持ち、かつ、その影響下にある集団のメンバーにそれ独自の規範と価値と世界観を供給するような団体という意味で私は用いています。

而して、左右を問わず、そんな「中間団体」の復活こそ地球規模で求められているようにも見える現在、あるいは、そのような「中間団体」こそ「中世的立憲主義=中世的法の支配」の主な担い手であったという点からは、少なくとも、このエピソードが「空想時代劇」の我田引水的や牽強付会的にデフォルメされた舞台設定以上の正当性と必然性を持たないことは自明であろうと思います。

よって、「立憲的意味の憲法に非ずんば憲法に非ず」という居丈高な主張が、ハイエクの咎めを跳ね返し一般的な正当性と必然性を帯びるかどうかは、まして、この<物語>の回路を潜ってやって来た立憲主義からの天賦人権論への援護射撃が現在でもフランス革命当時と同様に有効かどうかは、この<物語>の更に外部にある認識や主張に依存するのだと思います。実は、「立憲主義」が「天賦人権論」の<援軍>のままかどうかも不明なのですけれども。





★註:物語の意味

とりあえず、「物語」という言語行為を、本稿においては、(0)その一連かつ一まとまりの単語列が、聞き手や読者に表象させる意味内容に、次のような属性が観察されるものと考えます。

すなわち、(1)空間の単一性:表象される内容やイメージが展開する意味空間が1個の閉じた空間であること(桃太郎は月にいかないこと!)、(2)時間の線形性:表象される内容やイメージが順次変化すること(竹から出る前にかぐや姫が殿方の求婚を受けることはないこと!)、(3)意味の完結性:聞き手や読者にとってその作品が完結している/作品空間が1個の閉じた意味空間と解釈可能なこと(ちなみに、「乙姫様と浦島太郎はいつまでもいつまでも楽しく竜宮城で幸せにくらしました」という作品は、だから、『浦島太郎』ではないにせよ、別の<物語>であることは充分にありうる)、最後に、(4)表象の現実性:聞き手や読者がその作品空間に「飛び入り可能」と感じられること(そのリンゴ食べちゃ駄目! まってろ白雪姫、僕が今助けに行くから!)、という4つの属性を併せ備えたテクストを<物語>と捉えて理路を進めます。

本稿本編の理路に関して重要なことは、実は、あるテクストが「物語」であるか否かは、聞き手や読者の側の<解釈>に大幅に依存しており、更に、その聞き手や読者の側の<解釈>は、聞き手や読者の個人的な条件のみならず、圧倒的に聞き手や読み手を包摂している社会や時代に規定されているということ。而して、この極めて常識的な帰結に上で規定した「物語」の1個の前提と4個の属性((0)+(1)~(4))も落ちついているということです。





★註:物語の本性と機能

例えば、「Veni,Vidi,Vici:来た、見た、勝った」の3語のメモには、確かに、「昔々」も「意地悪なお爺さん」も、「悪よのぉーな越前屋さん」も、「青き衣を纏いて金色の野に降り立つべき人」も登場していない。

けれども、ゼラの戦い直後に書かれたカエサルのこの3語のレポートは(というか、この3語はいずれも自動詞の1人称完了形の述語動詞ですから、主語が省略されていても非文ではなく、正しくは、「この3センテンスの書簡は」ですけれども、)、紀元前47年8月には少なくないローマ市民を熱狂/絶望させるに充分な<物語性>を帯びていただろうこと。

あるいは、これまた有名なユーゴーと編集者の間でやりとりされた「?」「!」の相互に1文字ずつの往復書簡に憑依していたであろう<物語性>を想起すれば、Episode-0の4項目6センテンスを<物語>と見立てるのも、安倍総理に対する朝日新聞社説の言いがかりのようにはそう無理筋の主張ではないのではないでしょうか。

而して、本稿の理路にとって重要なことは、すべからく、<物語>は聞き手や読者をして、その提供する作品の意味空間にリアリティーを感じさせ、親しさを覚えさせるだろうということ(to get somebody to become familiar with)。ちなみに、最後の「親しさを覚えさせる」は「土地」を比喩として使えば「土地勘を与える」(having somebody have the feel of the "place")くらいの意味であって、好き嫌いとは無関係。よって、例えば「天賦人権なるものを蛇蝎の如く嫌う保守派もEpisode-0の回路を潜れば天賦人権論や立憲主義に<親しさ>を覚える」ということです。



ウマウマ(^◇^)








<続く>




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