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公務員労組と公務員の政治活動を巡る憲法論(上)

2010年03月30日 17時09分45秒 | 日々感じたこととか

東京高裁は、2010年3月29日、所謂「赤旗配布事件」の控訴審で一審の有罪判決を覆し逆転無罪を言い渡しました。本件は、平成2003年10月~11月、(当時)社会保険庁職員が東京都中央区のマンションなど130世帯に共産党機関紙「しんぶん赤旗」を配ったとして、国家公務員法違反に問われた事例。而して、判決翌日の3月30日、朝日新聞・毎日新聞・産経新聞の三紙が社説でこの高裁判決を取り上げたことからも推察できる通り、本高裁判決は下級審の判決ながらかなり重要な司法判断ではないかと思います。

東京高裁の法廷意見曰く、「表現の自由は民主主義国家の政治的基盤を根元から支えるもので、公務員の政治的中立性を損なう恐れのある政治的行為を禁止することは、範囲や方法が合理的で必要やむを得ない程度にとどまる限り、憲法が許容する。規制目的は国民の信頼確保で、判断で最も重要なのは国民の法意識であり、時代や政治、社会の変動によって変容する」「ただし集団的、組織的な場合は別論である」「本件配布行為に罰則規定を適用することは、国家公務員の政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度を超えた制約を加え、処罰の対象とするものと言わざるを得ないから、憲法違反との判断を免れない」、と。

本稿ではこの高裁判決を導師として「公務員労組と公務員の政治活動が孕む現行憲法の規範意味の構図」について考察したものです。尚、憲法の概念と憲法訴訟を巡る私の基本的な理解については本稿末尾の参考記事を参照いただければ嬉しいと思います。

本東京高裁判決を社説で取り上げた三紙は賛否が分かれていました。すなわち、朝日・毎日が「時代に沿う当然の判断」「おおむね妥当な判決」と評価している一方、産経は「判決が公務員全体の職場規律などに与える影響が懸念される。上告審での適正な判断を待ちたい」と否定的(笑)。

いずれにせよ、民主党の小林千代美衆議院議員に対して、北海道教職員組合(北教組)から多額の違法な資金が流れていたとされる事件が世間を騒がせている現在。畢竟、公務員の政治活動は許されるものなのか、まして、公務員労組が(正に、その公務員労組の中核たる自治労と日教組は現下の民主党政権の有力な「支持団体-圧力団体」なのですけれども)国の政治に容喙し多大な影響力を持つことが許されるのか等々、少なからずの有権者・国民がこれらのことに疑問に感じている現在、本高裁判決は、賛否を問わず、また、法律論と政治論を問わず、「公務員と公務員労組の政治活動」につき熱い議論を捲き起こす契機になることはほとんど必定だと思います。本稿はこのような認識に立って「赤旗配布事件」や「北教組違法献金」等の個別の問題を超えるより一般的な地平でこのイシューを俎上に載せようとするものです。まずは本高裁判決の概要。出典は3月29日付共同通信配信記事です。


●赤旗配布で逆転無罪判決要旨-東京高裁

【概要】
表現の自由は民主主義国家の政治的基盤を根元から支えるもので、公務員の政治的中立性を損なう恐れのある政治的行為を禁止することは、範囲や方法が合理的で必要やむを得ない程度にとどまる限り、憲法が許容する。規制目的は国民の信頼確保で、判断で最も重要なのは国民の法意識であり、時代や政治、社会の変動によって変容する。

罰則規定を合憲とした「猿払事件」に対する最高裁大法廷判決当時は国際的に冷戦下にあり、国民も戦前からの意識を引きずり、「官」を「民」より上にとらえていたが、その後大きく変わった。国民は事態を冷静に受け止め、影響については少なくとも公務員の地位や職務権限と結び付けて考えると思われる。勤務時間外の政治的行為の禁止についても、滅私奉公的な勤務が求められていた時代とは異なり、現代では職務とは無関係という評価につながる。

ただし集団的、組織的な場合は別論である。

【具体的検討】
本件は地方出先機関の社会保険事務所に勤務する厚生労働事務官で、職務内容、職務権限は利用者からの年金相談のデータに基づき回答するという裁量の余地のないもので、休日に職場を離れた自宅周辺で公務員であることを明らかにせず、無言で、郵便受けに政党の機関紙などを配布したにとどまる。

被告の行為を目撃した国民がいたとしても、国家公務員による政治的行為だと認識する可能性はなかった。発行や編集などに比べ、政治的偏向が明らかに認められるものではなく、配布行為が集団的に行われた形跡もなく、被告人単独の判断による単発行為だった。

このような配布行為を、罰則規定の合憲性を基礎付ける前提となる保護法益との関係でみると、国民は被告の地位や職務権限、単発行為性を冷静に受け止めると考えられるから、行政の中立的運営、それに対する国民の信頼という保護法益が損なわれる抽象的危険性を肯定することは常識的にみて困難だ。行為後、被告が公務員だったことを知っても、国民が行政全体の中立性に疑問を抱くとは考え難い。

本件配布行為に罰則規定を適用することは、国家公務員の政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度を超えた制約を加え、処罰の対象とするものと言わざるを得ないから、憲法違反との判断を免れず、被告は無罪だ。

【付言】
わが国における国家公務員に対する政治的行為の禁止は一部とはいえ、過度に広範に過ぎる部分があり、憲法上問題がある。地方公務員法との整合性にも問題があるほか、禁止されていない政治的行為に規制目的を阻害する可能性が高いと考えられるものがあるなど、政治的行為の禁止は、法体系全体から見た場合、さまざまな矛盾がある。

時代の進展、経済的、社会的状況の変革の中で、国民の法意識も変容し、表現の自由、言論の自由の重要性に対する認識はより一層深まっており、公務員の政治的行為についても、組織的なものや、ほかの違反行為を伴うものを除けば、表現の自由の発現として、相当程度許容的になってきているように思われる。

また、さまざまな分野でグローバル化が進む中で、世界標準という視点からもあらためてこの問題は考えられるべきだろう。公務員制度の改革が論議され、他方、公務員に対する争議権付与の問題についても政治上の課題とされている中、公務員の政治的行為も、さまざまな視点から刑事罰の対象とすることの当否、範囲などを含め、再検討され、整理されるべき時代が到来しているように思われる。

(共同通信:2010/03/29 11:51)
    


これに対して、産経新聞社説は、おおよそ、次の4点を挙げて本高裁判決に疑問を呈しています。


・判例からの逸脱
東京高裁判決は猿払事件最高裁大法廷判決(1974年)を大きく踏み出している。同大法廷判決は、「衆院選で社会党(当時)の選挙ポスターを掲示、配布した郵便局員を有罪とした」ものであり、「国家公務員の政治活動について、その公務員の地位や職種、勤務時間であったか否かなどのいかんを問わず、幅広く禁止できるという判断を打ち出した」ものだ。【公務員の政治活動の禁止一般を違憲とするのならまだしも、公務員の政治活動の禁止が合憲になり得る点では、猿払事件最高裁大法廷判決を踏襲しながら、その禁止規定の適用の様態によって「違憲-合憲」が分かれるとするのは筋が通らないのではないか】

・状況の変化は必ずしも「合憲→違憲」の一方方向のものではない
高裁判決は「冷戦の終息などに伴って国民の法意識や公務に対する意識が変わり、公務員の政治的行為にも許容的になってきたとしている。だが、いまなお、日本の周辺は中国の軍拡や北朝鮮の核開発など新たな脅威も生まれている。最高裁判決のころと時代が変わったことは事実だが、高裁の判断は少し一面的ではないか。当時も今も、公務員に政治的中立性が求められる状況に変わりはない。最近も北海道教職員組合(北教組)の違法献金が発覚し、公務員の政治的行為に対する国民の目はますます厳しくなっている」。

・規制立法は職務内容や地位に基づく権利の異なる取り扱いを想定していない
「公務員は管理職であろうと一般職員であろうと、公のために奉仕する義務を負っている。地位や身分にかかわらず、政治活動を制限されるのが【国家公務員法・人事院規則の】法の趣旨である」。

・世界標準なるものの斟酌・忖度はあくまでも国益の観点からなされるべきだ
「高裁判決では「日本の国家公務員の政治的行為の禁止が諸外国より広範なものになっている」として、世界基準の視点などから再検討を求める異例の付言もした。その場合も、まず国益を踏まえることが重要だろう」。
   






結論から言えば、私は、本判決は、(α)「公務員の政治活動規制と基本的人権の均衡点」を求めたその理路の枠組みの点ではおおよそ妥当であろうと思います。加えて、本判決がその法廷意見の中で「ただし集団的、組織的な場合は別論である」と述べて、(β)「公務員労組の政治活動規制と基本的人権の均衡点」が(α)とは位相を異にすることを明示した点は高く評価します。

また、本判決が、(χ)いかにも「左翼=リベラル派」の言い分と思しき、公務員の政治活動を一律に規制する立法自体を違憲とする一審被告人側弁護士の主張を退けたこと、かつ、(ψ)違憲判決を出す上で抑制的な所謂「適用違憲判決」の手法(あるタイプの行動を規制する法規自体は違憲ではないが、現実の取締局面でのその法規の適用の仕方が違憲であるとする憲法判断の手法)を採用したことも中庸を得たものではないか。そして、(ω)憲法を含む法規範の規範意味が「社会状況の変化と国民の法意識」によって決定されると断じたことは、それこそ世界標準の「法哲学:法学方法論+法概念論」の通説を踏まえたものであり至極もっともと言うべきだと考えます。

よって、最高裁判所で原審としてこれから吟味されることになるだろう本判決の最終的な妥当性の有無は、おそらく、最高裁も否定しないであろう上述(α)の理路枠組み内部で、而して、産経新聞社説が提示した疑問点、就中、第2点と第4点、「状況の変化」と「世界標準なるもの」の斟酌・忖度において、その判断における「パラメータ」とも言うべき(また、「憲法の効力根拠=憲法の妥当性と実効性の基盤」でもある)現下のこの社会の<国民の法意識>が那辺にあるか、その事実判断の帰趨によって決せられるに違いない。と。そう私は予想しています。


<続く>



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