遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『原発と環境』 安斎育郎  かもがわ出版

2013-03-09 18:18:20 | レビュー
 本書は1975年、ダイヤモンド社から出版された『原発と環境』の完全復刻版である。著者が33~34歳(東京大学助手の時代)の頃に書いた本だということである。
 冒頭の「復刻版出版にあたって」の一文で、著者の立場が明確に述べられている。
*現在は「原発は計画的に廃絶すべきだ」と確信しているということ。
*オリジナル版を書いた頃の基本的姿勢は、「原子力利用の可能性を頭ごなしに否定するのではなく、開発のあり方をそれなりの厳しさで批判した」ところにあったということ。*1972年に日本学術会議が開いた第1回原子力問題シンポジウムの基調講演で、「6項目の点検基準」を提起し、日本の原発開発政策を全面的に批判したということ。
 その結果、著者は「反国家的な反原発イデオローグ」とみなされ、アカデミック・ハラスメントを体験するようになったと明記されている。その時期に書かれたのが本書の原本だという。

 40年前の完全復刻版なので、放射線の単位は旧単位・レム、ミリレムのままである。その点ちょっと戸惑うが、内容理解に大きな支障はない。それよりも40年前にこんな立場、観点から論じた本が出版されていたことに、驚きを感じている。それは、まず第一に、小出裕章氏の発言にあるように、原子力行政、原子力ムラは何も変わっていない、同じ体質のままで40年間が過ぎ、フクシマの惨事を導いたということである。二に、著者の指摘されている40年前の問題提起が、まさに現在の状況における問題提起そのものでもあるという発見だ。そして、40年前からのこの問題提起に如何に無関心であったかについて、己を恥じる思いが強い。

 1972年に著者が点検基準とした6項目とは何だったのか。
 (1)開発の自主性 (2)経済成長優先主義の否定 (3)軍事転用の禁止
 (4)民主的地域開発計画の尊重 (5)労働者および地域住民の安全性の実証科学的保障
 (6)民主的行政の保障
 この点検基準が、本書においても論述のベースになっている。この問題提起が、逆に本書の出版へと導いたというべきなのかもしれない。
 本書は10章構成になっている。
第1章 原子力発電
 副題は「トータル・システムとしての視点」だ。感想を含め後述したい。
第2章 原子力発電所の安全装置
 副題は「実証研究の立ち遅れ」。2つのタイプの軽水炉の構造を説明し、当時発生していた事故事例を採りあげて、「安全性」の誇大宣伝に警告を発し、実証研究の重要性を説く。章末のパラグラフはこう述べる。「異常は小事のうちにその芽をつみとることが肝要であるが、そのためにはすでにふれたように、情報の全面的公開をもとに科学者・技術者の知識と能力を結集して事態を総括し、実証科学性に立脚した安全性の基本的視点をしっかりと踏まえて、地域住民や市民から見てもかげりのないものにする努力が、つねに払われなければならない。私たちは、科学上の既知と未知を峻別し、非実証的な『安全性』を強弁するような議論を厳しく排除していかなければならないであろう。」これは、今、まさに現状のデジャヴィではないか。活断層上の原発立地論議への問題提起に当てはまる。第3章 初期の放射線利用と障害の歴史
 エックス線やラジウムの発見の研究過程とそこで発生した障害、ラジウムの夜光塗料への利用における作業や鉱山労働者の作業から生じた障害の累積。それらの事実が防護勧告、「許容線量」の概念とその変遷を生み出した歴史が述べられている。放射線が伴う障害の歴史というのは、一度は押さえておくべきものだとつくづく思う。
第4章 戦前の日本における放射線利用の歴史
 放射線利用は、被曝と障害の歴史なのだ。常に後手に回ってきた犠牲の上に成り立っていることがよくわかる。
第5章 軽水型原発開発の歴史
 原子力はやはり、マンハッタン・プロジェクトに遡って歴史の流れを押さえておくことが必要であることがわかる。軍事一辺倒から原子力平和利用への変遷は、経済動向を踏まえて、結局政治力学がもたらしたものなのだ。根本的な検討が不十分なまま原子力利用に踏みだしたことがよくわかる。
第6章 許容線量とは何か
 ゴフマン=タンプリンの主張論点から説き起こし、許容線量の概念がどのように論争されてきたかを解説している。40年前の時点での概説だが概念理解のベースとして有益だ。著者の立場は明確だ。「われわれの追い求めるべきものは、被曝の飽くなき低減化であり、・・・これを徹底して切り下げる努力をこそ払わねばならない。」(p175)
第7章 環境放射能の監視
 アメリカ原子力潜水艦寄港時の環境放射能汚染監視における「放射能データ捏造事件」を教材にして、環境放射能の計測の難しさとモニターの問題を論じている。環境放射能から被曝、体内汚染および線量評価について論議を展開していく。
 モニターデータの捏造という観点は、まさに今、2011.3.11以降、一層重要な観点になっているのではないか。本当に事実データが公開されているのか? 形を変えたデータ捏造の繰り返しが起こっていないか、気になる。
第8章 温排水の問題点
 「原発からの復水系排水は、このような総合的な検討を実証的に行うことがきわめて緊急に必要であるが、実際には、安全審査でも、温度上昇域の推定を中心にした非常に初歩的な検討の域を出てはいないのが現状である」(p218)と、著者は40年ほど前に記している。この40年ほどの間に、原発立地海域の複合因子の競合的綜合作用についての実証研究は進化してきたのだろうか、気になる観点だ。
第9章 非破壊検査労働の放射線安全
 副題は「生産性の追求と労働者の安全」である。放射線を扱っての非破壊検査業務が増大する中で、撮影作業過程での労働者の安全管理について、問題提起をしている。安全性の確保が軽視あるいは切り捨てられる実態への問題提起である。
 これも、現在はどうなのか、ということが知りたいところだ。
第10章 原子力船「むつ」と政治的海難
 副題は「漂える原子力行政」である。ほたて養殖が軌道に乗り始めていた陸奥湾において、むつ母港化による原子力実験船「むつ」の計画が推進された。それに対する漁民側の反対闘争の経緯および放射能漏洩問題の顛末がまとめられている。この漏洩問題により、原子力実験船「むつ」は頓挫した。「漁民たちが守り通した自分たちの海は、われわれにとっての共通の財産でもあるのだ」という一文で、最終章、かつ本書本文が締め括られている。
 だが、ネット検索していて発見し、再認識した。原子力船「むつ」が現存するのだ。過去の話ではなく、復活しているのである。今ではマスメディアに話題としてすら採りあげられていないと思うが、厳然として実在する。これも本書を読んで、調べてみて気づいたという体たらくである。だが、その復活経緯はどうだったのか、確認したいところである。漁民の皆さんが同意したのか。押し切られたのか。海は守られているのだろうか。

 さて、第1章の副題に戻ろう。著者は冒頭でトータル・システムとしての視点が重要だと提起している。
 「原子力発電技術は、原子力発電所技術と同じではない。原子力発電が、電力生産技術システムとして成り立ちうるためには、核燃料の生産・加工、原子力発電所の建設・運転、放射性廃棄物の処理・処分、使用済み核燃料の輸送および再処理、耐用年数を過ぎた原子炉(廃炉)の処理・処分といった一連の問題が、互いに不可分な全体として考察の対象とされなければならない。したがって、原子力発電の安全性の問題も、原子力発電所の安全性の問題に限局されるべきではなく、まさしくトータルな視点が確固として据えられなければならない」
 本書を読み、思い至ることは、トータル・システムの視点がなおざりにされてきたのではないか、あるいは、研究されてきたとしても解決不可能なのだということだろう。さらに問題の先送りが続いてきているということだ。そして、今、「原子力発電所の安全性」すら確保できない実態があからさまになってしまっているという事実である。トータル・システムどころではない。それ以前のレベルなのだ。
 著者の指摘した視点は、原子炉廃炉を前提としたうえで原子力からの撤退のためのトータル・システムという視点としてとらえ直し、再構築する必要があるのではないだろうか。
 
 本書での指摘はまさに「温故知新」の思いがする。そう感じる箇所をいくつか引用させていただこう。
 本書の主張点は、古びていない。今、改めて再認識していくべき内容だと思う。

*日本の原子力発電開発に典型的にみるように、国家と大資本とが一体となってこのような技術の大々的利用を急速に推進するとき、資本の論理はしばしば、科学の水準や技術の力量をはるかに超えて効能を貪り、技術を大規模に応用するに際して当然解明しておかなければならない重要な諸問題をさえとり残して、無謀にも突進しかねないことに注意をはらわなければならない。  p116
*許容線量とは、問題としている放射線利用技術によって他に代替しがたいベネフィットがもたらされるという大前提の下で、放射線被曝=ゼロが最も望ましい側と、低く制限されればされるほど、社会的・経済的に不利益を被る側との、絶えざる緊張関係(対立関係)を背景として、被曝ゼロを指向して絶えず点検され、改訂され続けられるべきものであると、著者は考えている。 p140
*線量限度はそのレベルまでは被曝が許される水準という意味ではないと心得ていながらも、現実には、やはり、それ以下ならOKと判断する比較規範としての機能を果たしかねないのである。
 被曝の低減化を絶えず追い求めるという立場からすると、法律上の基準の性格は、むしろ、「資格基準」である方が望ましい。・・・当該放射線利用技術について、その時点で利用可能な安全確保技術の最新の到達点が規制当局によって絶えず把握されており、そのような水準に照らして、申請内容は点検され、可能な改善を指示される。操業や運転についても同様である。・・・「許容線量」についての性格をより明確にするにはこうした措置が必要ではなかろうか。  p146-147
*そもそも放射能監視(モニタリング)は何のためにやるのかという問題に関係している。モニタリングは、異常の有無や程度をいちはやく把握し、その結果から、より重大な事態を未然に防ぐためにとるべき措置を速やかに決定するための重要な参考資料とすることを目的として行うものである。モニタリングは、ただ単に、環境がどれだけ汚染していたかを測定して記録するというものではなく、その測定結果に立脚して、環境汚染を引き起こす危険性を小さい芽のうちにつみとり、安全状態を不断に点検し、改善していくというより積極的な機能をこそ負っているのである。  p185
*われわれは、行政の姿勢が企業の側を向いていたことをよく知っている。そして、その結果として、公害列島が急速に形成されていった過程をわすれてはいない。金脈、人脈を通じて形づくられた与党と企業との共通の利益基盤が、ここでも重要な意味をもっていないだろうか。原発問題についても、その安全性に関連して、行政当局はしばしば電力企業擁護の立場をあらわにしてきた。国が、将来のエネルギー開発の中心に原発を置き、その推進に躍起となっているかぎり、行政と電力企業の結びつきは、いわば必然的である。しかも、わが国では、原子力委員会が推進と規制の両面を担当してきた。同委員会の主催した原発「公聴会」は、公開された資料の点でも、口述人や傍聴人の募集や指定の点でも、きわめて企業寄りのものであった。そうした実態を総合してみると、分析研事件の教訓は、原発問題にも正しく生かされなければならないことが明らかとなる。 p212
*しばしば、生のデータを公表することは、数字のもつ意味を正確に把握しているとは限らない住民を、よけいに心配させることになるからという理由で、公開が拒まれる。しかし、それは正当な理由とはいいがたい。住民が理不尽で非科学的なデータ解釈を行い、不必要に恐怖をかきたてたとすれば、それは真実に依拠して説得できるはずのものである。それをもし説得できずして何であろう。住民にとっても、それは科学に対する訓練の場であり、多少の曲折はありえても、結局は真なるものに接近していくに相違ない。住民を「愚民」視するのではなく、住民の成長をおおらかに信じることこそが、重要である。 
P214
*温排水拡散域の予測は、直接、漁業補償と結びついてくるため、時として政治的色彩を帯びやすい。  P220


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むつ(原子力船) :ウィキペディア

大型船舶用原子炉(MRX)炉概念と設計主要目値

みらい(海洋地球研究船):ウィキペディア

失敗百選 ~原子力船むつの放射線漏れ~ :「SYDROSE知識データベース」

原子力船「むつ」 :「日本原子力研究開発機構青森研究開発センター」

☆現代史こぼれ話☆  :「堀田伸永メールマガジン情報」
1974年、日本に寄港した原潜の放射能調査データねつ造発覚
 ← 日本分析化学研究所のデータ捏造事件


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『メルトダウン 放射能放出はこうして起こった』 田辺文也 岩波書店

『原発をつくらせない人びと -祝島から未来へ』 山秋 真 岩波新書

『ヤクザと原発 福島第一潜入記』 鈴木智彦 文藝春秋

『官邸から見た原発事故の真実』 田坂広志 光文社新書

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