遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『等伯』 安部龍太郎  日本経済新聞出版社

2014-05-14 23:23:56 | レビュー
 2010年に「没後400年[特別展覧会]長谷川等伯」が京都国立博物館で開催された。それまでにも京博の所蔵品や京都市美術館の展覧会、寺院などで等伯の作品を数点見てきていただが、この「長谷川等伯」展で生涯にわたる作品群を鑑賞した時はやはり圧倒された。

「松林図屏風」の縹渺としたあの独特の絵に心惹かれる一方で、印象に残ったのは「千利休像」、「柳橋水車図屏風」である。「枯木猿猴図」に親しみを感じた。本書を読みながら、この展覧会で購入した図録(以下、図録という)を書架から取りだして久しぶりに眺めてみていた。
 この展覧会前後に萩耿介著『松林図屏風』(日本経済新聞出版社刊)を読んでいる。

 北陸の片田舎から長谷川信春が京の都に登場し、長谷川等伯として狩野派と対抗するまでの絵師となり、長谷川派を確立するというその展開を知って以来、長谷川等伯という絵師に関心を抱いている。
 この『等伯』を読み、長谷川等伯に一層関心を深めることとなった。併せて、ライバルの狩野永徳にも同様に興味関心を深める事になっている。永徳に関わる別の作家の作品を読んでいたので、余計におもしろい。

 本書は、長谷川等伯の伝記小説と言える。等伯の三十台から始まり江戸長谷川派を立ち上げるつもりで江戸に出立するまでが描かれている。勿論三十台以前のことは回想という形で触れられている。現存絵画類及び史料、資料として遺されていない部分は著者が想像力を羽ばたかせて創作したフィクションである。それが判っていても、そうとは思えないその通りなのかなと思わせる展開に魅了された。読み応えのある作品である。
 日本経済新聞朝刊に2011年1月~2012年5月の時期に連載され、2012年9月に加筆修正し、上・下2巻本として出版されている。
 
 能登国七尾の奥村家に生まれ、実兄(武之丞)が家督を嗣ぎ、又四郎信春(後の等伯)は、同じ七尾の絵仏師であり染物業をも営む長谷川宗清の養子となる。信春は三十台までに能登地方で絵仏師としてその名を知られるようになっていたという。その絵仏師・信春が京の都に上り、天下の絵師として腕を磨きたいという思いを秘める。その思いを絵仏師の師匠でもある養父が気づいていて、その道を開かせたい思いを抱いていた。そこからこの物語は始まって行く。33歳で信春は上洛することになる。

 長谷川等伯にはいくつかの大きな人生のステージがあり、そこに複雑に絡まり合う筋、しがらみがあるものとして、描かれている。彼が天下の絵師になるプロセスは単純なものではない。だからこそ読み応えがあるのかもしれない。

 彼の人生のベース:能登・七尾でのステージ
 長谷川家の養子となる信春は、それまで武家の子として育成され武術の基礎を修得して来た。奥村家から長谷川家に養子に出ることに相当のショックがあったようだ。長谷川家では絵仏師として絵画手法の基礎力を修得し、その領域では評価されるレベルになっていく。それ故に、一介の地方の絵仏師という生業に満足できない鬱勃たる思いを秘める状況に至る。
 絵師として立つために、上洛するきっかけが生み出される。図録の年表は「元亀2年 等伯(信春)の養父宗清及び養母妙相没す。等伯(信春)、この頃上洛するか」とのみ記す。本作品では、この「相没す」の背景が克明に描かれる。そしてそれは生涯、等伯の禍根を心に刻む出来事となる。ここには、兄奥村武之丞が主家・畠山家を再興したいという悲願が関わっている。兄の意志が等伯の生涯に色濃く影響を与えていく起点でもある。兄武之丞の思いと行動という副軸が、信春の生き方に様々に影を投げかける形でとなって織りなされていく。信春に依頼する兄の意図が信春(並びに後の等伯)を危機的状況に追い込むことになる。「養父母や妻を説得する口実がほしかった」だけではすまない事態、それが始まりになる。(第1章~第2章)
 
 京での潜伏、そして転機が訪れるステージ
 信春の絵の技量及び信仰心、絵仏師としての評価が、不遇の時期を助けることになる。兄との関わりから、信春は「追われる者」の境遇に投げ込まれた。京の町中での潜伏が始まる。扇屋の職人として拾われて糊口を凌ぐ。が、本法寺の日堯上人の尊像を描く機会を得て転機が訪れる。それが契機で夕姫に紹介されるが、この夕姫が信春の人生に幾度も影響を及ぼす人、さらに一つの副軸となる。
 一方、夕姫を介して、信春には近衛前久との繋がりが生み出されていく。近衛前久の仲介で、信長との戦を継続している石山本願寺・教如上人の絵を石山本願寺内で描くことになる。近衛前久との関わりにおいて、戦国~安土桃山時代の政治背景がうまく描出されていて、戦国史の裏話としても面白い。史料をベースに、著者の創作力が発揮されているように感じる。この近衛前久は、信春の人生の転機に立ち現れてくる強烈な副軸になる。この近衛前久に関わるシーンだけを読み繋いでいっても、副次的伝記小説になっていると感じるほどである。
 また、教如の絵を描くことが、石山本願寺での絵の仕事で逗留する狩野松栄との関わりを持つ機会となり、松栄を通じて狩野派の絵画技法を学ぶ契機が訪れる。信春にはこの機会から松栄を絵の師匠として敬うことになる。正式な狩野派への入門という形式でなく、近衛前久のお声懸かりという形での松栄との個人的関わりが深まるという設定で著者がこの作品を構成して居る点が興味深い。そこには狩野永徳との直接的関わりは見られないというしかけになっている。狩野松栄は、信春の技量を評価し、将来の長谷川派台頭を手助けする反面、狩野派の将来を見据えて、深慮で行動する人物として描かれている。狩野松栄という副軸は等伯の絵師としての熟成に深く関わっていく。(第3章)

 再会した妻子を伴っての仮住まいステージ
 事情があって、敦賀・気比神社近くの妙顕寺に預かってもらっていた妻子と再会し、やっと家族一緒に上洛できる。本法寺内の教行院にて世話になる。信長の上京が再び信春を逃げる立場に追いやる。それは京から堺への逃避となる。そこには近衛前久の支援があった。
 図録に掲載の論文「長谷川等伯、天下をとる-上洛後の二十年」(山本英男氏)には、上洛後の17年間の空白を埋める想定として、等伯の堺居住説が紹介されている。この作品では、この考え方が構想の中に重要なファクターとして組み入れられ展開している。
 著者は、この苦難の仮住まい時代を、信仰篤き絵仏師・信春がその力量を因とし、日蓮宗の寺の伝によって生き延びる果を得る経緯として展開していく。仮住まいの時代に諸上人の尊像を描くという形で巧みなリンクがなされている。堺においては、日上人の依頼で日?上人の尊像を描くプロセスが具体的に描き込まれている。図録によると、この上人像は昭和58年(1983)にはじめて現存したことが発見されている。  シン 示+眞
 堺での仮住まいは堺の妙国寺、日上人の許である。この日上人は、信長により仕組まれた安土での宗論に関与させられる論者の一人である。安土の宗論について、その経緯が法華宗徒の観点から裏話風に織り込まれていくのは興味深い。
 日上人は油屋常言の子であり、この堺の商人、油屋一族が信春の人生に大きくかかわっていく事になる。信春に関わる人の縁である。
 堺は信春にとり堺の商人が買い求めた西欧の模写画を直に見聞でき、西洋絵画の技法に接することのできた機会でもある。さらに、人脈が広がる機会でもあった。千利休との繋がりも、この堺から始まっていると、著者は描いていく。
 この堺での仮住まいは、一方で最愛の妻・静子に悲運が訪れる時にもなっていく。まさに禍福はあざなえる縄の如しである。
 信春の堺居住時代は、本能寺の変を経る戦国時代の転換点でもあり、妻・静子が肺炎で死去するという人生での転換点に重なっていく。 (第4章~第6章)
 
 単行本の上巻では長谷川信春(等伯)の雌伏のステージが緻密に描写され、積み上げられていく。 そして下巻では、信春が京の表舞台に登場し、長谷川派を築き上げていくプロセスが展開していく。この長い前半の準備期間があってこそ、後半の舞台が一層躍動していくのだ。

 狩野永徳との対決のステージ
 信長の死は、信春が追われる身でなくなる時となる。再び京の都に出て、今度は自ら絵屋を構えることから、京での絵師ステージが始まる。
 絵屋で売る絵が都の人々の評判になる。絵屋の商売の拡大が、日通上人の従姉妹である清子(油屋の出戻り娘)が絵屋を手伝うことに展開し、その清子が信春の人生に大きく関わっていく。
 京で絵師としての評判をとることは、絵師長谷川等伯が狩野永徳と絵で対決するステージを生み出していく。
 狩野松栄の依頼もあり、信春が聚楽第造営にあたり、その襖絵の絵の仕事を手伝う事になる。だが、その為には永徳の横やりが入り、信春は襖絵を描くことで永徳と事前に対決することとなる。このあたりから、ストーリーの展開は俄然おもしろくなっていく。

 春屋宗園が大徳寺三門造営を発願し、千利休が喜捨する形で三門を二階建ての楼門に改築することになる。この二階部分に長谷川等伯が絵を描く。このプロセスが具体的に描き出されいく。この頃には、信春の息子久蔵が狩野永徳の弟子となっていて、絵師としての腕をめきめきと上げている。その久蔵が狩野の門を去り、父信春を手伝って、大徳寺三門の絵を仕上げていくことになる。この大徳寺三門造営に伴う信春の絵が本格的に、長谷川派の築かれていく基礎になる。この経緯が具体的に描かれて行く。
 この仕事の結果が評価されることが、一層永徳にとって敵愾心となっていく。さらに、狩野派に対して長谷川派が絵師としての仕事の場、活躍の場を獲得することが不可欠となる。それは、信春と永徳の対決、確執への必然性を加速する。
 仙洞御所の対の屋に絵を描くという仕事が、一つの大きな山場となる。仕事を取るための裏工作がどれほど行われているかの側面にストーリー上の描写の力点が置かれている。いつの世も、大きな仕事を手に入れるには、その背景に熾烈な様々なの駆け引きがつきものであるようだ。そのどろどろとした局面が描き出されていくが、暴露話が人を引きつけるように、このストーリー展開は関心が高まるところでもある。
 対の屋の仕事は、最終的には永徳の手中に帰すが、その仕事の後に永徳が逝去する。(第6章~第8章)

 等伯が長谷川派を率いて活躍するステージ
 等伯の絵は関白秀吉の好む所となり、等伯の活躍の場が広がっていく。だがそれは、等伯を大徳寺三門の絵の仕事で支援してくれた千利休が切腹して果てた後の時代である。著者は、この利休の死に焦点を当てながら、等伯の関わりをまず描き込む。それは、後の等伯と秀吉の関わりの極点への伏線となる。
 秀吉の命を受けた大きな仕事における等伯の活動が克明に描かれて行く。
 一つは、亡くなった鶴松君の供養として秀吉が建立する東山七条の祥雲寺の障壁画の仕事である。秀吉が等伯の絵を好んだということに加えて、そこには亡き千利休に目をかけられた等伯を起用するという政策的な意図も絡んでいた。私は本書で改めて現在智積院のある一帯にかつて、天童山祥雲禅寺(祥雲寺)が建立されていたというのを再認識した。図録の作品解説を読むと、「智積院の障壁画は、江戸初期、現在地に智積院が移る前にあった祥雲寺のために描かれた障壁画である。祥雲寺は、豊臣秀吉が、天正19年(1591)8月5日、わずか3歳で夭折した愛児鶴松の菩提を弔うために南化玄興を開山として建立した臨済宗の禅寺」と明記されていた。智積院所蔵の国宝「楓図壁貼付」・「松に秋草図屏風」は祥雲寺障壁画の一部だった。
 本作品では、等伯の息子久蔵が名護屋城で障壁画の仕事を命じられて赴いていく。そこでは狩野派も仕事をしている。天守閣の外壁に絵を描く仕事の途中で、久蔵は謀略にかかり墜落死するという悲劇に遭う。それが等伯に衝撃を与える結果、秀吉の生母・大政所仲の一周忌法要での対応場面での極点に至るプロセスが描かれて行く。
 
 もう一つは、本能寺の変直後に出家し、龍山と名乗る近衛前久が、己の屋敷の客間の絵を等伯に描かせたいという意図があるとして秀吉と等伯の間を取りなしたことから生まれた課題である。信春の底力として「これから生まれる絵」により、等伯への処罰を判断するという。秀吉が完成した伏見城に移徒(わたまし)する日までと区切られた期限つきの絵の制作だ。それが「松林図」である。この絵が等伯の名声を確固たるものとする。
 やはり、この松林図制作プロセスの描写が、本作品での最後の山場となっている。
 
 著者は「松林図」の制作背景を劇的なものととして構想した。それは著者の類い希な想像力の結果なのだろう。さもありなん・・・と思わせる設定になっていて、面白い。解明できた事実範囲での仮設が、図録の作品解説に記されている。引用しておこう。
「本図については、もとは屏風として制作されたものではなく、障壁画のしかも草稿の一部ではないかという説が支配的である。(ただし、屏風絵の草稿とみる説もある。その理由は、障屏画としては異例の薄手の粗末な紙が用いられていることや紙継ぎが錯綜していること、さらに画隻で両紙幅が異なるために右隻は上下6枚継ぎ、左隻は5枚過ぎとなっているとなどである。」
「近年、屏風装になって以降の本図の図様をもとに描かれた『月夜松林図屏風』の発見によって、制作後あまり時を経ない頃(慶長期頃が想定されている)に、しかも長谷川派内で表装されたことが明かとなった。」
 研究者の研究成果が著者の想像力に巧みに取りこまれ、リアルな制作プロセスと背景として構成されていると言える。

 一つ興味深く関心を抱いた作品がある。それは現在重要美術品に指定されている「柳橋水車図屏風」のことである。図録にも載るこの屏風絵は、作品解説を読むと京都の宇治橋が連想されるものとされている。等伯の数ある作品の中でも有名な絵だ。しかし、著者はなぜかこの絵については等伯の人生を描く中で等伯の描いた絵として登場させていない。
 名護屋城の障壁画の仕事を命じられた久蔵が、等伯の後妻となった清子が第二子を生んだ後、そのお祝いを兼ね久々に京に戻って来る。その時に久蔵が等伯に見せる下絵として「柳橋水車図」を描き込んでいる。その図の描写が等伯筆「柳橋水車図屏風」とほぼ同じなのだ。ただし、住吉蒔絵の画題である「住吉神社の橋を描いて、航海の守り神になるようにという意味を込めたものです」「床の間の壁画にするつもりですが、屏風にしても面白いと思います」(下p285)と久蔵に語らせている。
 この点が私にはおもしろい。著者はなぜこういう構想にしたのだろうか。久蔵がこの絵の構図をアイデアとして先に持っていて、それを実現できないまま亡くなった。等伯がその思いを己の工夫を加えて現存の屏風にしたということなのだろうか。事実とフィクションの狭間の謎として残る。
 図録の作品解説にはこう記されている。「『柳橋水車図』は、慶長10年(1605)の豊国神社臨時大祭の情景を描く狩野内膳筆『豊国祭礼図屏風』(豊国神社)の見物席に画中画として登場することから、その頃までにはすでに描かれていたことが知られ、数多くの作例が伝存している。そのなかで、作者が判明するものとしては最古の遺品である。」「『柳橋水車図屏風』は、長谷川派に受け継がれていったらしく、・・・・この屏風とほぼ同図様をしめす無款の屏風も少なくない」(p276)と。 

 等伯の人生ステージとしては、やはり等伯の人生を陰で支えた二人の女性に触れておきたい。等伯の人生の前半が静子であり、後半が清子である。この二人が等伯の人生のメインの流れ、人生のステージが大きく転換していくうえで、等伯の陰にあって大きく関わっていく。この二人の存在なくして、長谷川等伯の画業は確立しなかったような気がしてくる。この等伯の伝記小説は、副次的に静子、清子という等伯の妻となった女性の伝記小説にもなっている。

 最後に印象深い章句を引用し、ご紹介しておこう。
*永徳に勝ちたいと焦るあまり、自分を見失っていた。大事なのは理想の絵に近づくことなのに、欲にかられて本末を転倒していたのである。  下p35
*絵師とは狭く険しい道を行く求道者だ。誰かがそこを超えてくれたなら、後につづく者の励みになる。そう言って門戸を開いてくれたのである。  下p123
*(永徳)「弟子でもない者の絵を、見る必要などない」
 (等伯)「貴殿は絵が嫌いなようですな。いや、絵に夢を持っておられぬというべきでしょか。」    下p128
*文化や芸術、芸能たずさわる者は、すべて心の国の住人であり、その道を極めれば極めるほど、朝廷を抜きにしてはこの世界が成り立たない事を理解するようになる。 下p137*狩野派に対抗できる勢力をきずき上げるためには、永徳より絵がうまくなるだけでは足りない。優秀な弟子を育て、公武の要人との人脈を持ち、天下の耳目を集める大きな仕事を手掛けなければならない。  下p165
*その努力は時には単なる模倣とか、大向こうの受けを狙った型破りのように見られるかもしれませんが、本質はまったくちがいます。・・・新しく作るのではなく、完成したものをひと回り大きくするのです。ですから、先代たちの仕事をすべて身の内に入れておかなければなりません。  下p189
*「白は無の境地ということや。これからは死んだ者を背負ったまま、そこに向かっていけ」そう言うなり白の字に人偏を加えた。等伯という名乗りは、この遺訓に従ったものだった。   下p202
*絵のために苦しむことができる我が身を悦べばよい。死んだ者も何もかも引き受けて、捨身の筆をふるえばいいのである。  下p227
*人の目とは不思議なもので、自分が学んだ知識や技法の通りに世界を観てしまう。それは真にあるがままの姿ではなく、知識や技法に頼った解釈にすぎない。 下p255
*絵師にとって自分の力不足を認めることほど辛いことはない。ところが松栄は永徳という傑出した息子を持ったばかりに、その責苦に耐えつづけなければならなかったのである。 下p274
 なかでも最大の手柄は、等伯の力量にいちはやく注目し、狩野派の門戸を開いたことかもしれない。この師がいなければ、等伯が世に出ることはなかったと言っても過言ではないのである。   下p275
*等伯は描こうとしているうちは描けないことに思い至った。
 「悟ろうとする欲が、悟りの邪魔をしとんのや。そこに思い至らんかい」利休はそう言って叱りつけたものだ。  下p277
*ええか信春、俺ら政にたずさわる者は、信念のために嘘をつく。時には人をだまし、陥れ、裏切ることもある。だが、それでもええと思とる訳やない。そやさかい常しえの真・善・美を乞い求め、心の底から打ち震わしてくれるのを待っとんのや。  下p340

 これらの章句の意味するところを本書を読み、その文脈で味わっていただくと良いのでないだろうか。吾が心に響いてきた一節である。


 ご一読ありがとうございます。

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長谷川等伯関連について、ネット検索で入手できる情報をリサーチした。一覧にしておきたい。

長谷川等伯 TOPページ 七尾商工会議所
   等伯の一生、  年表
  
長谷川等伯  :ウィキペディア
没後400年特別展「長谷川等伯」 :「東京国立博物館」
 
迦陵頻伽  :ウィキペディア
芦屋釜→ 芦屋釜とは :「福岡県遠賀郡芦屋町」
芦屋楓流水真形釜  :「e国宝」
芦屋釜  :「茶道入門」
真形(しんなり)  :「コトトバンク」
浜松図真形釜    :「e国宝」
 
孔雀石 → マカライト(孔雀石)  :「istone」
藍銅鉱 :ウィキペディア
虎目石 :ウィキペディア
 
長谷川信春筆 鬼子母神十羅刹女像  妙伝寺 :「住友財団」
絹本着色法華経曼荼羅図  本法寺 :「文化財の紹介」
禅宗祖師図襖  長谷川等伯  :「七尾商工会議所」
等伯の作品1 :「七尾商工会議所」
等伯の作品2 :「七尾商工会議所」
法華経絵曼荼羅  :「文化遺産オンライン」

本法寺 :「京都風光」
 
桃山時代の中の「松林図屏風」~長谷川等伯~  星野真理亜氏
 

瀟湘八景図  狩野元信  朝日百科 世界の美術
絹本著色文王呂尚・商山四皓図 :「e国宝」
竹林七賢図 雲谷等顔筆 :「京都国立博物館」
牧谿  :ウィキペディア
 「観音猿鶴図」が掲載されている。

竹林の七賢  :ウィキペディア
 



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