安積剛志を係長とする「安積班」が活躍するシリーズは、神南署・東京ベイエリア分署・東京湾臨海署と変遷を辿ってきている。私の愛読する著者シリーズの一つである。2015年8月に月刊「ランティエ」に連載発表されてきたものが単行本として新たに出版された。久しぶりに、安積班の面々の個性と能力が相乗効果を出し、チームとしての結束力が発揮される展開を堪能した。「安積班」の好きなところは、捜査活動のプロセスでの安積と部下の間での個性の関わり合い方と感情の交流にある。この作品もそこが遺憾なく描出されている。さらに交通機動隊・速水直樹小隊長との関係の深まりが一層色濃くなったところが実に楽しいところである。ますます安積にとっての何者にも代えがたい僚友という位置づけになっている。
さて、この小説のタイトル「潮流」は、2つの文脈に由来すると私は思う。
一つは元ジャーナリストで殺人事件で逮捕され、裁判により4年半の実刑を受け、あと半年ほどで刑期満了を迎えようとしている宮間政一の言葉である。「逮捕されたら、その段階でマスコミは犯罪者扱いです。裁判で有罪判決が出たら、もう被告は為す術がありません。一つの流れができてしまうのです。強い潮の流れのようなものです。何を言おうとそれに押し流されるしかない・・・・。私は、裁判の最中、無実を訴えながらも、そんな無力感を抱いていました」(p347)。「強い潮の流れ」つまり「潮流」。
もう一つが、次の描写である。
”安積は思った。潮流が変わり、軌跡が起きたのだ。
それはまた同時に、安積の人生の潮目が変わったことを意味するかもしれなかった。いよいよ責任を取らねばならない日が近づいたのだと、安積は覚悟を決めた。”(p352-353)の文脈に記された「潮流」というキーワードである。
ストーリーの冒頭は、8月22日月曜日の朝から始まる。東京湾臨海署の強行犯係である安積班と相楽班はともに全員がそろい、事件がなくてのんびりしているシーンの描写からである。午後も呼び出されることなく過ぎようとしていた。ところが、たてつづけに全く異なる場所から急病人が出て、救急車の要請が出た無線が流れたのだ。呼ばれたのは救急車で、パトカーではない。しかし、通信指令センターは無線を流した。最初の無線を聞いた段階では、安積は「地域課に任せておけばいい」と言った。だが、引きつづき2件の救急車要請の無線により、班員とのやり取りで須田が地域課に事情をまず聞くことになる。それがきっかけで、単なる熱中症ではない症状とわかる。安積班は伝染病、あるいはバイオテロ・・・を連想する。そこで須田・黒木が有明にある救急指定病院に念の為に確認に行くことになる。これが事件の始まりだった。
救急搬送された3人の急病人は全員死亡。伝染病ではない。バイオテロでの細菌の検出もされていない。しかし、病状は毒蛇に咬まれたときの症状に似ているが毒蛇でもない。病院は死因を確かめる解剖をする予定にしたという。
安積は榊原課長を介して、野村署長にテロの可能性がまだあることを慮り、状況報告をしておこうと判断する。
病院での事情聴取に出かけた安積班の2組の報告で、3人につながりも共通点もないことがわかる。最悪の無差別殺人を考慮し、安積は今のうちに、可能な限り現場付近の防犯カメラの映像収集を指示する。安積は相楽に自分の考えだけは伝えておくことにした。
翌日の終業時刻間際に、解剖結果が届く。榊原課長から安積はヒマから取れるリシンという猛毒が3人の遺体から検出されたと聞く。その結果、事件として扱うことになる。
リシンの検出を安積が係員に説明すると、須田が思いあたった事件のことを話す。それはブルガリア出身の作家兼ジャーナリストが亡命先で死亡したというゲオルギー・マルコフ事件だという。マルコフは一人の男にバス待ちの折、傘の先端でつつかれたという。死因がリシンの毒であり、傘に擬装した空気銃で、リシンを仕込んだ金属球を大腿部に撃ち込まれ、暗殺されたのだ。この連想から、リシンを何かの手段で撃ち込まれたのではないかと須田は言う。解剖に見落としがないか、ということが重要になってくる。安積は確認を急がせる。
愉快犯にしろ、無差別テロにしろ、世間への影響を考え、箝口令が敷かれる。
その後、被害者たちの皮下から微少な金属球が発見される。
一方、犯人らしい人物から、臨界署宛てにメールが送信されてきたのである。
その翌日、東報新聞が「お台場で、救急搬送者三人死亡 毒物か」というスクープ記事を報じる。
同日午前九時、臨界署に池谷陽一管理官と佐治係長率いる殺人犯捜査第5係がやって来る。捜査本部は立たないが、「管理監室」という名目で小会議室を基盤にして安積班が加わり、事件の捜査が本格的に開始されていく。
この小説の興味深いところは、3人の被害者が出た殺人事件の犯人の究明・捜査活動の進展経緯を主軸にしながらいくつかの緯糸が交錯しながら織りあげられてく展開となるところにある。
主軸はゲオルギー・マルコフ事件の殺人手段を模倣したと想定できる犯人の動機の究明・捜査・逮捕である。捜査本部の立たない小規模態勢でどのように捜索活動を進展するか、その方法論を含めた展開局面にある。佐治係長の大捜査本部発想の捜査意識と所轄署の小規模人数での重点思考の安積との意見の対立。勿論、かつての安積からすると、かなり大人になった対応をするように変化してきているが、やはり引けない部分はきっちりと主張する。この点の描写が実に楽しい。安積と佐治の確執を池谷管理官がどううまくコントロールしていくかが読ませどころとなる。池谷管理官の力量が試されるという筋でもある。そして、ある時点で、なんと安積班が捜査活動が降ろされ、佐治の元部下でもあった相楽係長率いる相楽班が捜査活動を引き継ぐのだ。安積との対抗意識が強い相楽だが、東京湾臨海署の相楽という意識が芽生えてきているという背景が加わることで、ストーリー展開がおもしろくなる。
緯糸はいくつかある。
1. 臨海署内に箝口令が敷かれていたのに、なぜ東報新聞が毒物か?のスクープ記事を報じられたのか?
まずは臨海署内に情報をリークした者がいないかということが疑われる。特に安積が東報新聞の番記者である山口友紀子記者を優遇しているのではないかと他社の番記者からやっかみを受けていることもある。最初にこの事件に関わった安積班のメンバーが、安積を含めて疑われる羽目になる。勿論、そういうことはあり得ないことなのだが。安積班でなければ、どこから情報が漏れたのか?
ここでは警察官と番記者の関係がテーマとなって織り込まれてく。その目玉が安積班長と山口記者の人間関係であり、安積の視点を主に思いが描きこまれる。
2.臨海署に犯人らしき者からメールが直接送信されてきたことが、事件の背景にあるのではないか?それならば、事件の捜査方針に影響が出てくるかもしれない。
1と2の観点、つまり情報漏洩源の探索と臨海署の過去の事件の影響の可能性の捜査が池谷管理官から安積自身に指示された課題となる。
安積は、同じ警部補である刑事総務係長の岩城の協力を仰ぎ、臨海署で関わりがある犯人の可能性を想定し、過去に臨海署が扱った今回と類似の事件あるいは関係がありそうな事件の抽出を頼む。絞り込まれた事件リストの中に、岩城係長はなぜかなんとなく気になったからという立場で、5年ほど前の事案を加えておいたのだった。
絞り込まれたリストの事案を安積は精査し、今回の3人の指人事件との関連性を調査していく。その結果、岩城が気になって入れたという事案に、安積もなぜかひっかかりを感じるのだ。
「当時テレビ局の記者だった宮間政一という人物が、投資ファンド会社の社長を襲撃し、死に至らしめたという事件」だった。宮間は刑が確定して服役中なのだ。今回の殺人事件に宮間自身は明らかに関与できない。シロである。
なんとなく気になるということを安積が須田に語ると、須田が今回の犯人がジャーナリズムに関係しているかもしれないと言い出す。共通点のキーワードは、ジャーナリストだという。マルコフも宮間もジャーナリストだった。今回の事件は、明らかにマルコフ事件を模倣していると。
安積は池谷管理官に検討結果を報告する。佐治は憶測の積み上げだと相手にしない。物証の積み上げ第一だと言う。安積は一つの可能性を否定するためにも、この宮間事件を洗い直すべきと主張する。池谷管理官は捜査中の事件との関わりの範囲での捜査継続を安積一人で行う前提で了解する。
実は、この宮間事件の捜査を担当したのは安積班だったのである。当時の検事の方針のもとで、殺人現場で身柄確保された宮間だったので、関連事実をきっちり調べたはずなのである。そのごの公判過程で犯行事実資料の検討も十分なされて、判決が出ていたのだから。
だが、もしそこに事実の見落としがあれば、これは冤罪事件だったということになる。その捜査検証の追求は、安積が自ら自分の首を絞めることにもなりかねない。
冤罪事件であるかどうかの探求という緯糸が重大な要素として絡んでくる。
なぜなら、宮間は服役中も無罪を主張しつづけている事実があるのだ。
安積の冤罪の可能性の検証・探求のための捜査が大きな影を投げかけていく。
スリリングな要素であるとともに、実に興味深い側面が見直されていく。「事実」をどこまで組み合わせるか。都合のいい「事実」で構成されたシナリオという発想視点だ。
安積班のメンバーが、この宮間事件にどう関わって行くかが、読ませどころになっていく。
3.マスコミの活動の在り方が上記の1とも絡むが、一つの緯糸になっている。知る権利という錦の御旗問題。新聞記者の取材活動と情報源の問題。番記者と遊軍記者の関係。記者の信用と矜持の問題など・・・。様々な要素が織り交ぜられていく。
4.安積班シリーズで、重要な要素は速水小隊長の存在である。本務の交機隊のパトロールの他に、臨海署内のパトロールも欠かさない速水という情報通。組織的には臨海署と交機隊は無関係であるが、安積と速水は一種の僚友である。このシリーズは、脇役である速水が重要なキーポイントに顔をだすという面白さが読み応えの一つにもなっている。
今回のストーリーでは、速水がスポット的な登場なのだが、色濃く関わってくる。安積に重要なアドバイスを行うのだ。状況を客観的に眺めている情報通の速水だからこそできる助言なのかも知れない。
速水が安積に言った興味深い言葉をいくつかメモしておこう。
*おまえの最大の花天は、自覚がないことだ。 p43
⇒ 安積発言「俺は別にもてないよ」に対して。
*おまえは、自分で思っているほど人を信用していない。
人間は不思議なもんだ。追い詰められて、人の助けが必要なときほど、孤立しようとする。・・・・俺を頼りにすればいいんだ。 p315
*ああいうやつは、近くに置いて監視するに限るんだ。 p351
5.主軸のプロセスで発生することであるが、警視庁の刑事と組み捜査中だった須田が被害に遭い入院する羽目になる。この時点では、リシンのことと金属球のことが判明していたが、毒の量によっては大事になる。この須田の入院がきっかけとなり、黒木がキレルという場面が出てくる。こういう場面の登場も私の記憶ではこのシリーズで初めてだと思う。どうキレタかの場面も読ませどころなのだ。
6.最後の緯糸は、安積が、榊原課長を介して、指揮命令系統の筋を通して接触する野村署長の存在である。速水が「あの署長は、今どき珍しいサムライだよ」(p276)と評する人物である。その野村署長が、要所要所で安積の報告を受けている。その署長が英断を下し、最後の段階で登場して行くる。こういう点もこのシリーズでは新機軸だろう。
署長と安積のこんな会話が、最終ステージに至る少し前の段階で交わされる。安積班の性格を表象しているといえるのではないか。(p247)
「黒木が君の影響を受けるのは、いいことだと言ったんだ」
「はあ・・・」
「大人になりきれないんだな?」
「ええと、それは・・・・」
「ならば、そのまま真っ直ぐでいればいい。黒木は、君が内面に秘めている熱い思いを受け継ごうとしているのだろう。いや黒木だけじゃなくて、安積班の部下たちはみんなそうだ」
このストーリーの最終ステージが感動ものである。
3人の無差別な殺人と須田の受難事件を経糸とすると、宮間事件が緯糸となって交差する。この小説のキーワードはジャーナリスト。そして「潮流」は生み出され、また「潮流」は変わる、いや変えられることもある。
後は、この小説を手にとって楽しんでいただきたい。次作が楽しみである。1年後だろうか・・・。
ご一読ありがとうございます。
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本書に出てくる語句とその関連事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
ゲオルギー・マルコフ :ウィキペディア
Georgi Markov :「NNDB tracking the entire world」
Georgi Markov From Wikipedia, the free encyclopedia
1978 ゲオルギー・マルコフ イギリス・ブルガリア/殺害 :「日本ペンクラブ」
失敗したスパイの歴史 :「NATIONAL GEOGRAPHIC」
猛毒物質リシン(ricin)とは何か? :「身近な野生植物、生薬・薬用植物のページ」
リシン :ウィキペディア
自衛官自宅にあった「猛毒リシン」入り白濁焼酎 別居中の妻が「テロ毒物」を入手できた謎 :「J CASTニュース」
再審 刑事手続ガイド :「アトム法律事務所大阪支部」
誤認逮捕や冤罪はどう起きるのか 2014.5.7 日刊大衆 :「livedoor NEWS」
いま、闘われている冤罪事件 :「甲山のとなりに」
急性硬膜外血腫 :「脳神経外科疾患情報ページ」
急性硬膜外血腫の症状や原因・診断と治療方法 :「gooヘルスケア」
アコニチン :ウィキペディア
アコニチン :「Chem-Station」
アコニチン :「結晶美術館」
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その点、ご寛恕ください。)
このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『豹変』 角川書店
『憑物 [祓師・鬼龍光一]』 中公文庫
『陰陽 [祓師・鬼龍光一]』 中公文庫
『鬼龍』 中公文庫
=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 === 更新5版 (62冊)
さて、この小説のタイトル「潮流」は、2つの文脈に由来すると私は思う。
一つは元ジャーナリストで殺人事件で逮捕され、裁判により4年半の実刑を受け、あと半年ほどで刑期満了を迎えようとしている宮間政一の言葉である。「逮捕されたら、その段階でマスコミは犯罪者扱いです。裁判で有罪判決が出たら、もう被告は為す術がありません。一つの流れができてしまうのです。強い潮の流れのようなものです。何を言おうとそれに押し流されるしかない・・・・。私は、裁判の最中、無実を訴えながらも、そんな無力感を抱いていました」(p347)。「強い潮の流れ」つまり「潮流」。
もう一つが、次の描写である。
”安積は思った。潮流が変わり、軌跡が起きたのだ。
それはまた同時に、安積の人生の潮目が変わったことを意味するかもしれなかった。いよいよ責任を取らねばならない日が近づいたのだと、安積は覚悟を決めた。”(p352-353)の文脈に記された「潮流」というキーワードである。
ストーリーの冒頭は、8月22日月曜日の朝から始まる。東京湾臨海署の強行犯係である安積班と相楽班はともに全員がそろい、事件がなくてのんびりしているシーンの描写からである。午後も呼び出されることなく過ぎようとしていた。ところが、たてつづけに全く異なる場所から急病人が出て、救急車の要請が出た無線が流れたのだ。呼ばれたのは救急車で、パトカーではない。しかし、通信指令センターは無線を流した。最初の無線を聞いた段階では、安積は「地域課に任せておけばいい」と言った。だが、引きつづき2件の救急車要請の無線により、班員とのやり取りで須田が地域課に事情をまず聞くことになる。それがきっかけで、単なる熱中症ではない症状とわかる。安積班は伝染病、あるいはバイオテロ・・・を連想する。そこで須田・黒木が有明にある救急指定病院に念の為に確認に行くことになる。これが事件の始まりだった。
救急搬送された3人の急病人は全員死亡。伝染病ではない。バイオテロでの細菌の検出もされていない。しかし、病状は毒蛇に咬まれたときの症状に似ているが毒蛇でもない。病院は死因を確かめる解剖をする予定にしたという。
安積は榊原課長を介して、野村署長にテロの可能性がまだあることを慮り、状況報告をしておこうと判断する。
病院での事情聴取に出かけた安積班の2組の報告で、3人につながりも共通点もないことがわかる。最悪の無差別殺人を考慮し、安積は今のうちに、可能な限り現場付近の防犯カメラの映像収集を指示する。安積は相楽に自分の考えだけは伝えておくことにした。
翌日の終業時刻間際に、解剖結果が届く。榊原課長から安積はヒマから取れるリシンという猛毒が3人の遺体から検出されたと聞く。その結果、事件として扱うことになる。
リシンの検出を安積が係員に説明すると、須田が思いあたった事件のことを話す。それはブルガリア出身の作家兼ジャーナリストが亡命先で死亡したというゲオルギー・マルコフ事件だという。マルコフは一人の男にバス待ちの折、傘の先端でつつかれたという。死因がリシンの毒であり、傘に擬装した空気銃で、リシンを仕込んだ金属球を大腿部に撃ち込まれ、暗殺されたのだ。この連想から、リシンを何かの手段で撃ち込まれたのではないかと須田は言う。解剖に見落としがないか、ということが重要になってくる。安積は確認を急がせる。
愉快犯にしろ、無差別テロにしろ、世間への影響を考え、箝口令が敷かれる。
その後、被害者たちの皮下から微少な金属球が発見される。
一方、犯人らしい人物から、臨界署宛てにメールが送信されてきたのである。
その翌日、東報新聞が「お台場で、救急搬送者三人死亡 毒物か」というスクープ記事を報じる。
同日午前九時、臨界署に池谷陽一管理官と佐治係長率いる殺人犯捜査第5係がやって来る。捜査本部は立たないが、「管理監室」という名目で小会議室を基盤にして安積班が加わり、事件の捜査が本格的に開始されていく。
この小説の興味深いところは、3人の被害者が出た殺人事件の犯人の究明・捜査活動の進展経緯を主軸にしながらいくつかの緯糸が交錯しながら織りあげられてく展開となるところにある。
主軸はゲオルギー・マルコフ事件の殺人手段を模倣したと想定できる犯人の動機の究明・捜査・逮捕である。捜査本部の立たない小規模態勢でどのように捜索活動を進展するか、その方法論を含めた展開局面にある。佐治係長の大捜査本部発想の捜査意識と所轄署の小規模人数での重点思考の安積との意見の対立。勿論、かつての安積からすると、かなり大人になった対応をするように変化してきているが、やはり引けない部分はきっちりと主張する。この点の描写が実に楽しい。安積と佐治の確執を池谷管理官がどううまくコントロールしていくかが読ませどころとなる。池谷管理官の力量が試されるという筋でもある。そして、ある時点で、なんと安積班が捜査活動が降ろされ、佐治の元部下でもあった相楽係長率いる相楽班が捜査活動を引き継ぐのだ。安積との対抗意識が強い相楽だが、東京湾臨海署の相楽という意識が芽生えてきているという背景が加わることで、ストーリー展開がおもしろくなる。
緯糸はいくつかある。
1. 臨海署内に箝口令が敷かれていたのに、なぜ東報新聞が毒物か?のスクープ記事を報じられたのか?
まずは臨海署内に情報をリークした者がいないかということが疑われる。特に安積が東報新聞の番記者である山口友紀子記者を優遇しているのではないかと他社の番記者からやっかみを受けていることもある。最初にこの事件に関わった安積班のメンバーが、安積を含めて疑われる羽目になる。勿論、そういうことはあり得ないことなのだが。安積班でなければ、どこから情報が漏れたのか?
ここでは警察官と番記者の関係がテーマとなって織り込まれてく。その目玉が安積班長と山口記者の人間関係であり、安積の視点を主に思いが描きこまれる。
2.臨海署に犯人らしき者からメールが直接送信されてきたことが、事件の背景にあるのではないか?それならば、事件の捜査方針に影響が出てくるかもしれない。
1と2の観点、つまり情報漏洩源の探索と臨海署の過去の事件の影響の可能性の捜査が池谷管理官から安積自身に指示された課題となる。
安積は、同じ警部補である刑事総務係長の岩城の協力を仰ぎ、臨海署で関わりがある犯人の可能性を想定し、過去に臨海署が扱った今回と類似の事件あるいは関係がありそうな事件の抽出を頼む。絞り込まれた事件リストの中に、岩城係長はなぜかなんとなく気になったからという立場で、5年ほど前の事案を加えておいたのだった。
絞り込まれたリストの事案を安積は精査し、今回の3人の指人事件との関連性を調査していく。その結果、岩城が気になって入れたという事案に、安積もなぜかひっかかりを感じるのだ。
「当時テレビ局の記者だった宮間政一という人物が、投資ファンド会社の社長を襲撃し、死に至らしめたという事件」だった。宮間は刑が確定して服役中なのだ。今回の殺人事件に宮間自身は明らかに関与できない。シロである。
なんとなく気になるということを安積が須田に語ると、須田が今回の犯人がジャーナリズムに関係しているかもしれないと言い出す。共通点のキーワードは、ジャーナリストだという。マルコフも宮間もジャーナリストだった。今回の事件は、明らかにマルコフ事件を模倣していると。
安積は池谷管理官に検討結果を報告する。佐治は憶測の積み上げだと相手にしない。物証の積み上げ第一だと言う。安積は一つの可能性を否定するためにも、この宮間事件を洗い直すべきと主張する。池谷管理官は捜査中の事件との関わりの範囲での捜査継続を安積一人で行う前提で了解する。
実は、この宮間事件の捜査を担当したのは安積班だったのである。当時の検事の方針のもとで、殺人現場で身柄確保された宮間だったので、関連事実をきっちり調べたはずなのである。そのごの公判過程で犯行事実資料の検討も十分なされて、判決が出ていたのだから。
だが、もしそこに事実の見落としがあれば、これは冤罪事件だったということになる。その捜査検証の追求は、安積が自ら自分の首を絞めることにもなりかねない。
冤罪事件であるかどうかの探求という緯糸が重大な要素として絡んでくる。
なぜなら、宮間は服役中も無罪を主張しつづけている事実があるのだ。
安積の冤罪の可能性の検証・探求のための捜査が大きな影を投げかけていく。
スリリングな要素であるとともに、実に興味深い側面が見直されていく。「事実」をどこまで組み合わせるか。都合のいい「事実」で構成されたシナリオという発想視点だ。
安積班のメンバーが、この宮間事件にどう関わって行くかが、読ませどころになっていく。
3.マスコミの活動の在り方が上記の1とも絡むが、一つの緯糸になっている。知る権利という錦の御旗問題。新聞記者の取材活動と情報源の問題。番記者と遊軍記者の関係。記者の信用と矜持の問題など・・・。様々な要素が織り交ぜられていく。
4.安積班シリーズで、重要な要素は速水小隊長の存在である。本務の交機隊のパトロールの他に、臨海署内のパトロールも欠かさない速水という情報通。組織的には臨海署と交機隊は無関係であるが、安積と速水は一種の僚友である。このシリーズは、脇役である速水が重要なキーポイントに顔をだすという面白さが読み応えの一つにもなっている。
今回のストーリーでは、速水がスポット的な登場なのだが、色濃く関わってくる。安積に重要なアドバイスを行うのだ。状況を客観的に眺めている情報通の速水だからこそできる助言なのかも知れない。
速水が安積に言った興味深い言葉をいくつかメモしておこう。
*おまえの最大の花天は、自覚がないことだ。 p43
⇒ 安積発言「俺は別にもてないよ」に対して。
*おまえは、自分で思っているほど人を信用していない。
人間は不思議なもんだ。追い詰められて、人の助けが必要なときほど、孤立しようとする。・・・・俺を頼りにすればいいんだ。 p315
*ああいうやつは、近くに置いて監視するに限るんだ。 p351
5.主軸のプロセスで発生することであるが、警視庁の刑事と組み捜査中だった須田が被害に遭い入院する羽目になる。この時点では、リシンのことと金属球のことが判明していたが、毒の量によっては大事になる。この須田の入院がきっかけとなり、黒木がキレルという場面が出てくる。こういう場面の登場も私の記憶ではこのシリーズで初めてだと思う。どうキレタかの場面も読ませどころなのだ。
6.最後の緯糸は、安積が、榊原課長を介して、指揮命令系統の筋を通して接触する野村署長の存在である。速水が「あの署長は、今どき珍しいサムライだよ」(p276)と評する人物である。その野村署長が、要所要所で安積の報告を受けている。その署長が英断を下し、最後の段階で登場して行くる。こういう点もこのシリーズでは新機軸だろう。
署長と安積のこんな会話が、最終ステージに至る少し前の段階で交わされる。安積班の性格を表象しているといえるのではないか。(p247)
「黒木が君の影響を受けるのは、いいことだと言ったんだ」
「はあ・・・」
「大人になりきれないんだな?」
「ええと、それは・・・・」
「ならば、そのまま真っ直ぐでいればいい。黒木は、君が内面に秘めている熱い思いを受け継ごうとしているのだろう。いや黒木だけじゃなくて、安積班の部下たちはみんなそうだ」
このストーリーの最終ステージが感動ものである。
3人の無差別な殺人と須田の受難事件を経糸とすると、宮間事件が緯糸となって交差する。この小説のキーワードはジャーナリスト。そして「潮流」は生み出され、また「潮流」は変わる、いや変えられることもある。
後は、この小説を手にとって楽しんでいただきたい。次作が楽しみである。1年後だろうか・・・。
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Georgi Markov :「NNDB tracking the entire world」
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1978 ゲオルギー・マルコフ イギリス・ブルガリア/殺害 :「日本ペンクラブ」
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猛毒物質リシン(ricin)とは何か? :「身近な野生植物、生薬・薬用植物のページ」
リシン :ウィキペディア
自衛官自宅にあった「猛毒リシン」入り白濁焼酎 別居中の妻が「テロ毒物」を入手できた謎 :「J CASTニュース」
再審 刑事手続ガイド :「アトム法律事務所大阪支部」
誤認逮捕や冤罪はどう起きるのか 2014.5.7 日刊大衆 :「livedoor NEWS」
いま、闘われている冤罪事件 :「甲山のとなりに」
急性硬膜外血腫 :「脳神経外科疾患情報ページ」
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その点、ご寛恕ください。)
このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『豹変』 角川書店
『憑物 [祓師・鬼龍光一]』 中公文庫
『陰陽 [祓師・鬼龍光一]』 中公文庫
『鬼龍』 中公文庫
=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 === 更新5版 (62冊)