遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『辛夷の花』  葉室 麟   徳間書店

2016-06-26 14:44:07 | レビュー
 表紙のカバーには白い花を咲かせた枝とその白い花を見つめる美女が描かれている。その白い花が「コブシ」の花である。恥ずかしながら、表紙の文字にルビがふられていなければ、この漢字を読めなかった。
 手許の『山契ポケット図鑑1 春の花』(山と渓谷社)を調べて見ると、辛夷はモクレン科の山野に自生する落葉高木で、3~4月に芳香のある白い花を咲かせ、花は直径6~10cmで6個の花弁、花のすぐ下に葉が1個つくのが特徴だという。木は高さ15mほどになるそうだ。北海道から九州まで分布する花だとか。
 辛夷の花言葉は、「友情、友愛、歓迎、自然の愛」と「花言葉ラボ」というサイトに出ていた。「自然の愛」という花言葉が本書の設定に繋がっていく気がする。

 表紙に描かれている美女は、九州豊前、小竹(こたけ)藩六万石の勘定奉行で300石の澤井家の長女・志桜里(しおり)である。彼女は近習200石の船曳栄之進に嫁いでいたが、船曳家から「嫁して3年、子なきは去るが昔よりのしきたりであろう」を理由に離縁となって、実家に戻っている。この志桜里が主な登場人物の一人である。
 志桜里が手に浅黄紐を握っている。この浅黄紐は刀の鍔と栗形を固く結んでいた紐なのだ。誰の刀かというと、志桜里が実家に戻ってきた翌年の正月に澤井家の隣家に引っ越してきた武士・木暮半五郎のものなのだ。刀を浅黄紐で結んでいれば、いざという時即座に刀を抜くことができない。武士が刀を抜ける状態にしていないのである。そこで、彼は「抜かずの半五郎」とからかいを込めた渾名で呼ばれていた。
 横道に逸れるが、浅黄色とは、「緑がかったうすいあい色。水色」(『日本語大辞典』講談社)だそうである。
 この表紙絵がどの場面を描いたものか・・・それは本書をお読みいただいてのお楽しみとしていただこう。

 半五郎は刀を紐で結んでいることについて問われると、「それがしは幼いころより短慮にて喧嘩沙汰が絶えず、時にはひとに怪我をさせたこともありました。それゆえ、母に万一にもひとを傷つけてはならぬと、浅黄紐にて結束するように言われたのでございます」と説明した。「亡き母の言いつけ」という一言で問うた人はそれ以上何も言えない。
 半五郎が紐で鍔の穴を通して栗形を結ぶようになったのは10年ほど前からだった。問われれば「亡き母の言いつけ」と述べる半五郎の決意に何があったか。そこには半五郎の生き様に繋がる重要な背景が潜んでいた。この背景は、澤井家に口入れ屋を通じて傭われた16歳のすみが女中として働き始めて、明らかになる
 つまり、抜かずの半五郎の刀の紐が解かれていること、それはなぜかが明らかになり、半五郎が中核となって活躍するプロセスがこのストーリーの主筋でもある。必然的に木暮半五郎が主な登場人物の一人になる。

 半五郎のプロフィールを少し補足しておこう。
*「背丈は六尺を超える長身で肩幅も厚い。眉が太く、目はすずしげでととのった顔立ちなのだが、覇気を感じさせず、いつも穏やかな笑みを浮かべている」。(p3)
*落ち着いた物腰で40ぐらいに見えるが、まだ30をでたばかりの年齢
*郡方20石だったが、藩主頼近の遠乗りの際、案内役として供をした。その折り万葉集の一首の歌の作者について頼近が質問し、半五郎だけが山上憶良と答えることができたことで、加増される。そして近習50石として、頼近の身近に仕えるようになった。
 ⇒ 藩主頼近がふと口ずさんだ和歌:
  世間(よのなか)を憂しと恥(やさ)しと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
 ⇒ 実はこの昇進の裏には、重要な事実が隠されているとだけ述べておく。
*城下の鹿島新当流道場で修行している。

 澤井家の庭に辛夷の白い花が咲き、それを志桜里が眺めていた時に、隣との生垣越に立つ着流し姿の半五郎が「辛夷の花がお好きですかな」と声をかける。これがストーリーの始まりである。この会話で、船曳栄之進と同役になったこと、及び船曳が志桜里と復縁したいと思っている旨を話したことを、半五郎は志桜里に告げたのだ。復縁話の意図もまたこのストーリーの伏線となっていく。そこには栄之進の生き方が反映しているのである。二人の会話の最後に、半五郎が船曳栄之進を阿諛する人物と志桜里に断言するのだから、出だしから興味を引かせる。この会話にもストーリー上の重要な伏線が潜んでいる。勿論、それはこの小説を読み進めてなるほどとわかることだが・・・。

 この二人の会話姿を3人の妹たちが部屋から見ていて、長姉の志桜里にいろいろ尋ねられる。その後で志桜里はこう思う。「少しの間、半五郎と話しただけで心持ちがほぐれた気がするのはなぜなのだろう。(あのひとが、のんびりした人柄だから)そんな風に思ってみたが、それだけでもないような気がする。半五郎の人柄はつかみどころがないが、どことなく奧深いものをk感じさせた。『おかしなひとだわ』」(p18)と。
 つまり、知らないうちに「自然の愛」が芽を育み始めるということになる。だがそれは、女人はこう生きなければならないとの思い込み(義)とこう生きたいという己の思いの葛藤となっていく。
 小竹藩に関わる騒動の渦中で志桜里自身の心の内奥を描きあげることが、この小説のサブ・テーマのひとつになっていると想う。

 澤井家の庭に辛夷の花が咲いていた。一方、半五郎が藩主頼近の命により江戸に旅立つ折に、辛夷の花のついた一枝に和歌短冊を添え、家僕に託して志桜里に届けさせる。
 その短冊には、
   時しあればこぶしの花もひらきけり 君がにぎれる手のかかれかし
という和歌が記されていた。
 この歌に詠み込まれた「こぶしの花」に託されたのは「心」である。それは誰の心か。このストーリーの展開では、二重三重に「心」の主が重ねられている。と同時に様々な人の「こころ」がこのストーリーを色づけ、ストーリー全体にわたり情意が重奏、通奏として描き出されていく。
 もう一つ、志桜里が離縁された船曳家の義母鈴代が、重要な文脈で「ひたすら相手を思うだけで見返りを求めることのない、凜として咲く白い花のような心です。」(p273)と語る言葉に、辛夷の花がイメージされている。
 そして小説の巻末の一文が「辛夷の花が朝日に輝いている」で締めくくられている。
この小説のタイトルはこの4箇所に由来すると私は思う。

 それでは、ストーリーそのものに入って行こう。
 このストーリーは小竹藩六万石の藩内で起こる騒動の顛末がテーマとなっている。
 現藩主・頼近は先代藩主に男子がなく親戚である旗本の水谷家の三男から養子縁組として迎え入れられた。小竹藩には、安納(あんのう)、井関、芝垣という重臣の三名家が代々家老職をつとめてきた。養子となって20年近く過ぎる藩主頼近は長年この三家を憚ってきた。そして嫡男の鶴千代が来年には元服を迎えるという時期にきていた。
 頼近はこの三家が藩政を動かす過程で公金を私腹してきた仕組みを暴くために、3年前に三家と繋がりを持たない澤井庄兵衛を勘定奉行に据えて、調べさせてきていた。その証拠を江戸の老中に届け、内諾を得て三家の当主に腹を切らせることを考えていた。そしてそのための秘密の使者を派遣するなども試みてきたが、悉く阻止されている。
 この三家の悪徳を暴き、親政を始めたい藩主と三家老職との確執が水面下の動きから、浮上し、騒動に拡大する。その中での人々の生き様がストーリーとして展開し描き込まれていく。抜かずの半五郎を中軸にしながら、志桜里の思いと行動が主に織り交ぜられて進行する。
 
 その人間関係を図式的に構造化すると、
 [藩主・頼通派]
 澤井庄兵衛:藩主頼近の親政構想により三家老職の私腹の仕組みを暴く勘定奉行
    澤井庄兵衛の長男・新太郎 元服したばかりの16歳も登場する
 木暮半五郎:藩主の知るところとなり、近習に加えられる。江戸への使者となる。
 稲葉幸四郎:学問所の助教。庄兵衛の二女・里江との縁談が進行中だが・・・・。
 稲葉治左衛門:勘定方として出仕。長男幸四郎の縁談を一旦破談にとも考える。

 [家老職派]
 安納源左衛門:江戸家老  嫡男は新右衞門、20歳
 井関武太夫:筆頭国家老  嫡男は弥一郎、18歳
 柴垣四郎 :次席国家老  嫡男は小太郎、16歳
 この三名家の家臣と彼らの権勢に追随する藩の家臣層。

 [浮動する人々]
 船曳栄之進:近習で00石。船曳家を守るために出世第一を志向する生き様をとる。
       小竹藩内で揺れ動く家臣の典型として登場する。
 頼近の近習たち
 
 頼近が養子として藩主に迎えられる少し前に、小竹藩では寅太夫騒動と呼ばれ、藩内の人々の記憶に残る事件があった。前藩主・頼定により藩政を任された樋口寅太夫の藩運営に関わる大問題だった。百姓一揆が起きそうな上に、三名家を巻き込み家中の争いが表面化しそうになった騒動である。
 また、10年前の凶作のとき、藩内で深堀村の騒動と称される強訴問題が発生していた。この折りに、郡方だった半五郎はこの強訴一味を鎮める役割で出向いていた一人だった。
 そして、今、澤井庄兵衛が調べ尽くした証拠により、三名家の私腹問題が表面化せんとしていた。半五郎が藩主の命を受け、江戸への使者となり出立することから事態がいよいよ表面化へと突き進み始める。それがトリガーとなり、三名家から藩主・頼近への御前試合の企画が申し込まれる。それは三名家の実力を示したいがための提案だった。この御前試合のプロセス描写がおもしろい。痛快感がある。
 この御前試合の結果が、「寅太夫騒動」を人々に思い出させる方向へと進展していく。 最終ステージは、正に籠城戦合戦というところ。このプロスが一層おもしろくなる。半五郎の真骨頂が現れる。読ませどころになっている。
 一気に読んでしまったストーリー展開である。

 志桜里の心の動きが興味深い。さらに、なぜ抜かずの半五郎になったのか? 半五郎が真剣を抜き放つのはいつか? 解き放てばどうなるのか? 楽しみながら読み進められる。
 稲葉幸四郎も好感の持てる人物として描かれている。船曳栄之進はまさに凡人である。だが、栄之進像の中に普通の人々が持つ心理の動きが幾通りにも投影されているのではないかと思う。いわば格好良さの対極として、我々読者にとっては一番身近な人物像なのかもしれない。
 
 最後に、この作品から心惹かれる記述を引用し、ご紹介しておきたい。
*半五郎めは、貧しいということがわかるようじゃ。貧しさがわからねば政事(まつりごと)はできぬ。それゆえ、あの男を近習といたしたのだ。  p35
*武士も武門の女子も家のために生き、死ぬのかと思えば苦しく、悲しいだけだが、ひとが生きるとはおのれに与えられた宿命をおのれが選びとったものとして歩み続けることではあるまいか。 p77-78
*家のもととは、そこにいるひとが手をすなぎ合うことだと存じます。たとえどのように家柄が良く、その家に栄誉や富をもたらすひとであろうとも、手をつなぐ気になれぬひととでは家を守っていけません。 p84
*おのれの生き方はおのれの心が決めるものです。ひとが求めているからひとの心で決めては悔いが残ります。不義理も不人情もおのが心を偽らぬためにはやむを得ぬかと存じます。 p98
*さて、里江殿をどのように思っているのか、自分ではわかりません。ただ、それがし、思いは一筋でありたいと思っております。いくつもの生き方を考えるのは、性に合いません。  p137
*ひとは自らの心に従い、行くべき道を切り開かねばならないのではにでしょうか。定められた道がまことの道だとは限らないとわたしは思います。  p142
*ひとへの思いが深い方が勝つとはよい言葉だ。さて、わたしは誰ぞへの思いがあるであろうか。  p169
*ひとは誰もが聖人君子となれるわけではない。時に踏み迷い、誤って心を縛って生きるばかりが道ではないと思うが--。 p191
*志桜里殿、ひとは苦難に遭ったとき本性があらわれると申します。苦難の際、そばに立ってくれるひとがともに生きることができるひとなのだろうと思います。 p228
 わたしは生きていくうえでの苦難は、ともに生きていくひとを知るためのものではないかと思うのですよ。 p229
*女人はこう生きなければならないと思い込んで、こう生きたいという思いを抑えがちです。それが家や家族を守るためにもっともよいことだと思うのでしょうが、時には素直におのれの思いに従って生きてもいいのではないでしょうか。 p230
*わが信じるところは枉(ま)げられぬ。 p244

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本書の関連で、関心を持った事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
コブシ  :ウィキペディア
コブシの花言葉  :「花言葉ラボ」
辛夷(こぶし)  :「季節の花 300」
刀に関する専門知識 :「刀剣はたや」
部位の名称と意味  ;「名刀コレクション」
[図鑑代わり] 刀の部位、名称まとめ  :「NAVERまとめ」
栗形  :「コトバンク」

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『風かおる』  幻冬舎
『はだれ雪』  角川書店
『鬼神の如く 黒田叛臣伝』  新潮社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社

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