タイトルにある「六つの顔」って? この語句にまず引き寄せられて購入した。それでいてしばらく書棚に眠らせていたこの本を読み終えた。2019年8月に刊行されている。
著者は「序章 あふれだす親鸞」で、まず最初に、「六つの顔」の意味を明らかにしている。
親鸞は日本人にとっては身近な宗教者として名前は誰でも知っている。東西両本願寺の宗祖である。ひときわ規模の大きい両本願寺を含めて、親鸞を宗祖とする浄土真宗は主なものだけでも10派にわかれているという。また、幾人もの有名な作家たちが「親鸞」について小説を書いている。『歎異抄』の注釈書や関連書を通じて親鸞が広く知られている。親鸞という名前が身近なものになり、歴史上実在した親鸞とは別に、人々にイメージされた親鸞像がある。それらの総体として親鸞像が存在すると言える。
私的には、学生時代に日本史の授業で「親鸞」という名を知った。倉田百三の戯曲「出家とその弟子」を読み、そこに登場する親鸞に惹きつけられ、『歎異抄』解説本を読むことが縁となり私的な親鸞像のイメージができ始めた。浄土真宗の宗祖という側面での縁はなかった。その後に、親鸞関連書籍、小説の「親鸞」伝、親鸞にまつわる社会人講座を聴講するなどで親鸞像が形成されてきている。
著者は「この本では、親鸞像を形作っている主な要素を『顔』に見立てて、そのうち特に重要な『六つの顔』がなぜ、どのように生み出されたかを、中世・近世・近現代を通して読み解いていく」(p13)ことを本書の目的にしたと述べる。それは「日本人にとって親鸞とはどのような存在であったかを説き明かすこと」(p15)であるとも言う。
但し、その読み解きにおいて、「ここでは、日本国内で暮らしてきた人々の、親鸞像の受容に範囲を限定している」(p24)と述べている。
身近で曖昧な総体としての親鸞像を分析し、著者は6つの要素を抽出した。それが「六つの顔」である。中世以降、親鸞像がどのように変遷してきたかを論じていく。現在までの親鸞像の整理が巧みに行われている。自分自身が抱く親鸞像と対比して、親鸞その人を考えてみる上でイメージのフレームワークとして役に立つ本である。
著者が論ずる「六つの顔」という要素は何か。
著者は、①如来の化身、②法然の弟子、③説法者、④本願寺の親鸞、⑤妻帯した僧・親鸞、⑥『歎異抄』の親鸞、という要素を抽出している。
そしてこれらの要素がどのようにして生み出され、親鸞像が変容してきたかを中世から始めて現代へと読み解いていく。論拠を踏まえて分析的に説明されるとなるほどと思う。
通読した印象は、敬われ崇められる聖なる親鸞像から、苦悩しつつ生ききった人間親鸞へ、親鸞像の拡大・深化が行われてきた。宗祖という親鸞像にとどまらず、宗教という枠組みをはずしても親鸞その人が人間としての学びの対象となるということかなと思う。
本書で初めて知ったことは、親鸞自身が自分の生涯について語った記録は、『教行信証』の「後序」と呼ばれる短い文章だけであるそうだ。
詳細は本書をお読みいただくとして、本書の構成と「六つの顔」の形成の関係を少し、ご紹介しておこう。
<第一章 「宗祖親鸞」の起源>
親鸞の生涯を語る原型は、親鸞のひ孫にあたる覚如(1270-1351)が制作した「親鸞伝絵」という絵巻物である。本願寺の正統性を確立する上で、「御開山」として宗祖・親鸞像を決定づけた。覚如はこの「伝絵」に①「如来の化身・親鸞」、②「法然の正統な弟子・親鸞」、③「教えを広めた説法者」の要素を描き出した。覚如自身は親鸞の没後に生まれた人なので、「如来の化身・親鸞」という要素については「取材を重ねた上で覚如が、親鸞を神秘的な存在として描いたと考えるべきだろう」(p31)と分析する。
そこには信仰集団の祖師としてのイメージ強化が意図されたのだろう。「宗祖親鸞」を決定づけたのは康永本だそうである。
親鸞像のイメージ作りは、覚如が本願寺の正統性を打ち出していく意図が反映していると読み解かれている。教団の確立という目的からは当然のプロセスかなという気がする。
裏返せば、親鸞の教えのみならず、血のつながりの維持・継承が重要な要素になっている。
<第二章 「宗祖親鸞」の決定版とは?>
この章は、第一章の経緯の論証が中心となる。覚如が詞書をした「伝絵」には3本の絵巻があるという。琳阿本と高田本が1295年に制作され、その48年後に康永本が制作された。これらの関連分析から、康永本が決定版になることが読み解かれていく。興味深い分析になっている。
例えば、「伝絵」には、「臨終来迎」は描かれていないそうだ。その理由説明をなるほどと思った。69ページをお読みいただければよい。
著者は「康永本に描かれた親鸞は、親鸞に関する事実というよりも、覚如が僧侶や門弟たちに伝えたいと思う親鸞のイメージであったと言うべきであろう」(p77-78)と言う。
<第三章 「妻帯した僧・親鸞の誕生>
「『伝絵』には、親鸞の結婚や妻に関する描写は一切出てこない。親鸞自身、自分の結婚や妻については何も語っていない」(p84)そうだ。「伝絵」は企画展などでどういうものか見た事がある。しかし詳細は知らなかった。この本で、江戸期に「妻帯した僧・親鸞」という親鸞像の形成された経緯がわかって、おもしろかった。
徳川幕府の宗教政策が根底にあったようである。本章の小見出しを列挙しておこう。
「結婚」か「妻帯」か?/ 僧侶の妻帯と戒律/ 親鸞の思想と僧侶の妻帯
日常化していた僧の女犯/ 例外だった江戸期の浄土真宗/ 親鸞の妻帯を語る伝記
『秘伝抄』と『照蒙記』/ 浄土真宗の肉食妻帯論/ 「妻帯した僧・親鸞」の普及
後世に影響を与えた『正統伝』と『正明伝』
「妻帯する宗風をはじめた僧・親鸞」の完成/ 親鸞の妻は玉日か恵信尼か
<第四章 「『歎異抄』の親鸞」と「私の親鸞」>
唯円がまとめた『歎異抄』は記憶では蓮如が封印した。明治期以降にその『歎異抄』が世に流布していく。暁烏敏著『歎異抄講話』(1911年)が嚆矢となり、『歎異抄』をモチーフとした倉田百三の戯曲「出家とその弟子」が世にベストセラーとして受け入れられて行く。様々な人々による新しい『歎異抄』の解釈を通して、6つめの顔(要素)である「『歎異抄』の親鸞」像のイメージが形成されていく。
この章では、その新しい解釈とあらたな親鸞像のイメージが詳述される。それは、「自己が抱える苦悩を親鸞へと投影し、自己の確立を求める態度」(p119)への指向である。「自己内省と罪悪の自覚」(p123)と「他力を重視していること」(p123)という特徴を持つと言う。「人間親鸞」の側面に光が当てられていく。親鸞像形成の視点が変わる。「愚かな親鸞」への共鳴という方向にイメージが変容していく。
著者は、私にとっての親鸞が語られ出したという側面を分析していく。
<第五章 大衆化する親鸞>
著者は、「自らの悪に向き合い、苦悩する人間味ある親鸞と、歴史学の立場から明らかにされた史実上の親鸞」(p154)という二つの「人間親鸞」が鍵となって、大正期に親鸞ブームが起こった状況を見つめていく。近代以前には考えられなかった「書き手自身が抱える苦悩と親鸞の人生を重ね合わせながら親鸞を語る」(p154)ことがブームを生み出したのだ。その状況が具体的に語られている。そこにはブームを可能にした出版メディアの急成長という要因があったことにも着目している。
<第六章 現代の親鸞像 -五木寛之から井上雄彦へ>
新聞に連載発表された五木寛之の小説「親鸞」と『バガボンド』を描く漫画家井上雄彦が制作した親鸞屏風を取り上げて、現代の親鸞像とその受容を分析している。
<終章 日本人はなぜ親鸞に惹かれるのか>
第一章から第六章で分析し読み解かれたエッセンスをこの章で総括していると言える。
最後に、私にとり特に印象深い箇所を引用し、ご紹介しておきたい。
*『歎異抄』における親鸞の言葉は「伝絵」には引用されず、内容も殆ど重ならない。 p22
*親鸞は、浄土真宗の宗祖とされている。本来、この「浄土真宗」という言葉は、特定の組織を指すものではなく、極楽浄土に生まれるための真実の教えを意味する。親鸞には、浄土真宗という教団を立ち上げるつもりはなく、あくまで自分は、師である法然の教えを継承した者という態度を貫いていた。したがって、浄土真宗のことを親鸞に率いられた教団だと捉えるのではなく、親鸞を宗祖と仰ぐ教団だと考えた方が適切である。 p28
*親鸞には本願寺という寺を建立する気はなかったが、覚如は本願寺と親鸞を結びつけた。門弟たちのさまざまな集団が関東その他の地域に存在していた当時にあって、覚如は「本願寺の親鸞」を強調することで、本願寺が他の門弟たちの集団と違って特別な位置にあることを示したかったのだろう。 p41
*浩々洞の三羽烏と呼ばれた暁烏、多田、そして佐々木。いずれもが、徹底して自己省察をすることで自らの悪さや愚かしさを自覚し、そこから絶対他力へと進んだ人間親鸞を語った。これが「『歎異抄』の親鸞」像の原型となっている。 p130
*(付記:大正期の親鸞ブーム)この時期に描かれた親鸞は、大別すると、自分の煩悩に悩み、そこからの救いをひたすら求め続ける青年としての親鸞と、弟子たちと同じ目線で彼らを温かく見守る老人としての親鸞である。いずれの場合も如来の化身でもなければ神秘的なエピソードを持つ宗祖親鸞でもない、人間としての親鸞である。 p159
お読みいただきありがとうございます。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『親鸞「四つの謎」を解く』 梅原 猛 新潮社
『親鸞始記 隠された真実を読み解く』 佐々木正 筑摩書房
『親鸞』上・下 五木寛之 講談社
『親鸞 激動篇』上・下 五木寛之 講談社
『親鸞 完結篇』上・下 五木寛之 講談社
『親鸞 全挿画集』 山口晃 青幻舍
著者は「序章 あふれだす親鸞」で、まず最初に、「六つの顔」の意味を明らかにしている。
親鸞は日本人にとっては身近な宗教者として名前は誰でも知っている。東西両本願寺の宗祖である。ひときわ規模の大きい両本願寺を含めて、親鸞を宗祖とする浄土真宗は主なものだけでも10派にわかれているという。また、幾人もの有名な作家たちが「親鸞」について小説を書いている。『歎異抄』の注釈書や関連書を通じて親鸞が広く知られている。親鸞という名前が身近なものになり、歴史上実在した親鸞とは別に、人々にイメージされた親鸞像がある。それらの総体として親鸞像が存在すると言える。
私的には、学生時代に日本史の授業で「親鸞」という名を知った。倉田百三の戯曲「出家とその弟子」を読み、そこに登場する親鸞に惹きつけられ、『歎異抄』解説本を読むことが縁となり私的な親鸞像のイメージができ始めた。浄土真宗の宗祖という側面での縁はなかった。その後に、親鸞関連書籍、小説の「親鸞」伝、親鸞にまつわる社会人講座を聴講するなどで親鸞像が形成されてきている。
著者は「この本では、親鸞像を形作っている主な要素を『顔』に見立てて、そのうち特に重要な『六つの顔』がなぜ、どのように生み出されたかを、中世・近世・近現代を通して読み解いていく」(p13)ことを本書の目的にしたと述べる。それは「日本人にとって親鸞とはどのような存在であったかを説き明かすこと」(p15)であるとも言う。
但し、その読み解きにおいて、「ここでは、日本国内で暮らしてきた人々の、親鸞像の受容に範囲を限定している」(p24)と述べている。
身近で曖昧な総体としての親鸞像を分析し、著者は6つの要素を抽出した。それが「六つの顔」である。中世以降、親鸞像がどのように変遷してきたかを論じていく。現在までの親鸞像の整理が巧みに行われている。自分自身が抱く親鸞像と対比して、親鸞その人を考えてみる上でイメージのフレームワークとして役に立つ本である。
著者が論ずる「六つの顔」という要素は何か。
著者は、①如来の化身、②法然の弟子、③説法者、④本願寺の親鸞、⑤妻帯した僧・親鸞、⑥『歎異抄』の親鸞、という要素を抽出している。
そしてこれらの要素がどのようにして生み出され、親鸞像が変容してきたかを中世から始めて現代へと読み解いていく。論拠を踏まえて分析的に説明されるとなるほどと思う。
通読した印象は、敬われ崇められる聖なる親鸞像から、苦悩しつつ生ききった人間親鸞へ、親鸞像の拡大・深化が行われてきた。宗祖という親鸞像にとどまらず、宗教という枠組みをはずしても親鸞その人が人間としての学びの対象となるということかなと思う。
本書で初めて知ったことは、親鸞自身が自分の生涯について語った記録は、『教行信証』の「後序」と呼ばれる短い文章だけであるそうだ。
詳細は本書をお読みいただくとして、本書の構成と「六つの顔」の形成の関係を少し、ご紹介しておこう。
<第一章 「宗祖親鸞」の起源>
親鸞の生涯を語る原型は、親鸞のひ孫にあたる覚如(1270-1351)が制作した「親鸞伝絵」という絵巻物である。本願寺の正統性を確立する上で、「御開山」として宗祖・親鸞像を決定づけた。覚如はこの「伝絵」に①「如来の化身・親鸞」、②「法然の正統な弟子・親鸞」、③「教えを広めた説法者」の要素を描き出した。覚如自身は親鸞の没後に生まれた人なので、「如来の化身・親鸞」という要素については「取材を重ねた上で覚如が、親鸞を神秘的な存在として描いたと考えるべきだろう」(p31)と分析する。
そこには信仰集団の祖師としてのイメージ強化が意図されたのだろう。「宗祖親鸞」を決定づけたのは康永本だそうである。
親鸞像のイメージ作りは、覚如が本願寺の正統性を打ち出していく意図が反映していると読み解かれている。教団の確立という目的からは当然のプロセスかなという気がする。
裏返せば、親鸞の教えのみならず、血のつながりの維持・継承が重要な要素になっている。
<第二章 「宗祖親鸞」の決定版とは?>
この章は、第一章の経緯の論証が中心となる。覚如が詞書をした「伝絵」には3本の絵巻があるという。琳阿本と高田本が1295年に制作され、その48年後に康永本が制作された。これらの関連分析から、康永本が決定版になることが読み解かれていく。興味深い分析になっている。
例えば、「伝絵」には、「臨終来迎」は描かれていないそうだ。その理由説明をなるほどと思った。69ページをお読みいただければよい。
著者は「康永本に描かれた親鸞は、親鸞に関する事実というよりも、覚如が僧侶や門弟たちに伝えたいと思う親鸞のイメージであったと言うべきであろう」(p77-78)と言う。
<第三章 「妻帯した僧・親鸞の誕生>
「『伝絵』には、親鸞の結婚や妻に関する描写は一切出てこない。親鸞自身、自分の結婚や妻については何も語っていない」(p84)そうだ。「伝絵」は企画展などでどういうものか見た事がある。しかし詳細は知らなかった。この本で、江戸期に「妻帯した僧・親鸞」という親鸞像の形成された経緯がわかって、おもしろかった。
徳川幕府の宗教政策が根底にあったようである。本章の小見出しを列挙しておこう。
「結婚」か「妻帯」か?/ 僧侶の妻帯と戒律/ 親鸞の思想と僧侶の妻帯
日常化していた僧の女犯/ 例外だった江戸期の浄土真宗/ 親鸞の妻帯を語る伝記
『秘伝抄』と『照蒙記』/ 浄土真宗の肉食妻帯論/ 「妻帯した僧・親鸞」の普及
後世に影響を与えた『正統伝』と『正明伝』
「妻帯する宗風をはじめた僧・親鸞」の完成/ 親鸞の妻は玉日か恵信尼か
<第四章 「『歎異抄』の親鸞」と「私の親鸞」>
唯円がまとめた『歎異抄』は記憶では蓮如が封印した。明治期以降にその『歎異抄』が世に流布していく。暁烏敏著『歎異抄講話』(1911年)が嚆矢となり、『歎異抄』をモチーフとした倉田百三の戯曲「出家とその弟子」が世にベストセラーとして受け入れられて行く。様々な人々による新しい『歎異抄』の解釈を通して、6つめの顔(要素)である「『歎異抄』の親鸞」像のイメージが形成されていく。
この章では、その新しい解釈とあらたな親鸞像のイメージが詳述される。それは、「自己が抱える苦悩を親鸞へと投影し、自己の確立を求める態度」(p119)への指向である。「自己内省と罪悪の自覚」(p123)と「他力を重視していること」(p123)という特徴を持つと言う。「人間親鸞」の側面に光が当てられていく。親鸞像形成の視点が変わる。「愚かな親鸞」への共鳴という方向にイメージが変容していく。
著者は、私にとっての親鸞が語られ出したという側面を分析していく。
<第五章 大衆化する親鸞>
著者は、「自らの悪に向き合い、苦悩する人間味ある親鸞と、歴史学の立場から明らかにされた史実上の親鸞」(p154)という二つの「人間親鸞」が鍵となって、大正期に親鸞ブームが起こった状況を見つめていく。近代以前には考えられなかった「書き手自身が抱える苦悩と親鸞の人生を重ね合わせながら親鸞を語る」(p154)ことがブームを生み出したのだ。その状況が具体的に語られている。そこにはブームを可能にした出版メディアの急成長という要因があったことにも着目している。
<第六章 現代の親鸞像 -五木寛之から井上雄彦へ>
新聞に連載発表された五木寛之の小説「親鸞」と『バガボンド』を描く漫画家井上雄彦が制作した親鸞屏風を取り上げて、現代の親鸞像とその受容を分析している。
<終章 日本人はなぜ親鸞に惹かれるのか>
第一章から第六章で分析し読み解かれたエッセンスをこの章で総括していると言える。
最後に、私にとり特に印象深い箇所を引用し、ご紹介しておきたい。
*『歎異抄』における親鸞の言葉は「伝絵」には引用されず、内容も殆ど重ならない。 p22
*親鸞は、浄土真宗の宗祖とされている。本来、この「浄土真宗」という言葉は、特定の組織を指すものではなく、極楽浄土に生まれるための真実の教えを意味する。親鸞には、浄土真宗という教団を立ち上げるつもりはなく、あくまで自分は、師である法然の教えを継承した者という態度を貫いていた。したがって、浄土真宗のことを親鸞に率いられた教団だと捉えるのではなく、親鸞を宗祖と仰ぐ教団だと考えた方が適切である。 p28
*親鸞には本願寺という寺を建立する気はなかったが、覚如は本願寺と親鸞を結びつけた。門弟たちのさまざまな集団が関東その他の地域に存在していた当時にあって、覚如は「本願寺の親鸞」を強調することで、本願寺が他の門弟たちの集団と違って特別な位置にあることを示したかったのだろう。 p41
*浩々洞の三羽烏と呼ばれた暁烏、多田、そして佐々木。いずれもが、徹底して自己省察をすることで自らの悪さや愚かしさを自覚し、そこから絶対他力へと進んだ人間親鸞を語った。これが「『歎異抄』の親鸞」像の原型となっている。 p130
*(付記:大正期の親鸞ブーム)この時期に描かれた親鸞は、大別すると、自分の煩悩に悩み、そこからの救いをひたすら求め続ける青年としての親鸞と、弟子たちと同じ目線で彼らを温かく見守る老人としての親鸞である。いずれの場合も如来の化身でもなければ神秘的なエピソードを持つ宗祖親鸞でもない、人間としての親鸞である。 p159
お読みいただきありがとうございます。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『親鸞「四つの謎」を解く』 梅原 猛 新潮社
『親鸞始記 隠された真実を読み解く』 佐々木正 筑摩書房
『親鸞』上・下 五木寛之 講談社
『親鸞 激動篇』上・下 五木寛之 講談社
『親鸞 完結篇』上・下 五木寛之 講談社
『親鸞 全挿画集』 山口晃 青幻舍