タイトルの「利休椿」という言葉に惹かれてかなり以前に購入していたのをやっと読んでみた。勝手に長編と思い込んでいたのだが、開けてみると7作をまとめた短編集で、最後のタイトルが「利休椿」である。末尾の「解説」の記録によると、1994年から1996年にかけて各誌に発表された短編を収録したという。1997年5月に単行本(実業之日本社刊)となり、2006年11月に、単行本をもとに加筆推敲されて文庫本化されている。
「山三の恋」「関寺小町」「辻が花」「天下百韻」「包丁奥義」「笑うて候」「利休椿」と短編の題を並べてみると、やはり「利休」を冠した「利休椿」という題名が私を含む一般的読者にとっては一番アトラクティブな印象ではなかろうか。千利休はたぶん誰でもしている有名人。利休の椿って何だろうとまず目に止まり、惹きつけられる。他の題からは、名古屋山三、小野小町、辻が花染め、くらいの語彙をすぐに連想するが、その先で少し距離を感じる。「天下百韻」から直ちに里村紹巴と明智光秀の連想はできなかった。「包丁奥義」「笑うて候」になると??? 私には何の連想もすぐには働かなかった。
それでも、並べてみるとこの短編集は日本の歴史に題材を取った歴史時代小説だということがわかる。
各短編を少しご紹介してみる。
「山三の恋」
尾張国那古屋(名古屋)出身の名古屋山三郎は蒲生氏郷の小姓となる。24歳のとき会津若松で氏郷がにわかに死んだ。衝撃を受けた山三郎は剃髪、出家したが、心にかかる女人のことを確かめたくて、還俗し京に戻る。その女人との出会いとなった場所に足を向ける。清凉寺から愛宕参道を一町ばかり行った竹林の先である。そして、文禄元年、21歳の折に、紫の頭巾で顔を包んだ老女に名指しで声をかけられたことから回顧していく。「わがお仕えするお方さまの、命を懸けた一生に一度の恋のためなれば・・・」と老女は山三郎に言ったのだ。老女の名は九条という。この導入部が興味を惹きつける。
その山三が清水寺の境内でからまれているところを助けた加賀座の大夫・白糸と黒谷の真如堂の紅葉見物に行く。そして、偶然あの九条という老女を見かけ、その後を追跡していく。老女を問い詰めた結果、「お方さま」と呼ばれた女人に5年ぶりに再会し、意外な事実を知ることに・・・・・。それが山三に禍をもたらす。
歴史に残る秀吉の嫡子出生にまつわる噂話を巧みに採り入れた美男子山三のエピソードとしておもしろい。
「関寺小町」
寛永11年正月12日、仙洞御所の能舞台で、能楽師、49歳の喜多七太夫は演目として「関寺小町」を舞うと思い定めた。
秀吉は七太夫の才を愛し、金春座の大夫、金春禅曲のもとに10歳のときに弟子入りさせ、さらに禅曲の次女、静乃と縁組みさせた。だが、禅曲は演目での肝心なところは「これは金春家の一子相伝ゆえ、教えることはできぬ」と突き放した。七太夫の天賦の才を恐れたのである。
「関寺小町」は難曲中の難曲で、大和四座ではあまりの難しさゆえに、60年近く演ずる者はなかったという。なぜ、喜多七太夫がそれを承知でこの「関寺小町」に挑むのか。その理由が語られて行く。
七太夫は「関寺小町」を完璧に演じきった。だが、七太夫は処分を受ける身となる。
能の世界のしきたりと天賦の才への妬みが生み出す醜い一面が描かれている。
「辻が花」
堀川端の辻が花染め師、藪木千竹の弟子である義一が直面する切なく哀しくかつ妖しさを含むストーリーである。義一は平野神社境内で白玉椿を画帖に写しているときに、高貴な女人を垣間見て心を妖しく騒がせられる。ふらふらと女人のあとをつけ、四条家の姫君だと知る。身分の違いを知りつつ、義一はもう一度会いたいと恋情をつのらせる。
仕事に手がつかぬ義一の様子を師匠は見抜き、義一をとがめる。十日後、師匠の供をして、さる堂上公家の屋敷を訪れることになる。それは聚楽第への輿入れのための嫁入り支度の衣裳の依頼だという。師匠は、五領の衣裳の内、一領を義一に任せるつもりだと言う。何と、その依頼主は四条三位中将隆昌。義一が垣間見た女人の父だった。その時、かの女人が眉子姫という名だと知る。
義一がどういう行動をとるか。そこが読ませどころとなっていく。
「天下百韻」
興福寺の小者をつとめていた父が亡くなると、家のたつきを支えるために松井紹巴は13歳で興福寺の塔頭、明王院の喝食となった。喝食の身を嫌悪する紹巴はその境遇から抜け出し、行くすえは天下を取りたいと望む。己の知恵と力で何ができるか。友の信徳丸との語らいの中から紹巴が活路を見出したのは連歌師になる道である。紹巴が連歌師として名をなすために行った権謀術数のプロセスと生き様が描き出される。里村紹巴の誕生である。紹巴はさらに連歌師よりももっと高みにのぼりつめる野望を抱く。そこには、明智光秀が洛西愛宕山で催した連歌の会が絡んでいた。連歌師として招聘された紹巴は、この折り光秀らとともに天下百韻を詠む。
後に、紹巴は秀吉に発句の事を尋ねられ機知により死罪を免れることに。さらにその後の紹巴の生き様を簡潔に最後に語り加えている。
どこまでが史実なのかはわからないが、里村紹巴の生涯をイメージできる短編である。
「包丁奥義」
慶長2年、有馬の湯で湯治のため逗留していた風間三十郎は、湯宿角ノ坊のあるじから「池ノ坊」にお忍びで泊まる客のために料理を作る助力を頼まれる。その客とは秀吉の正室、北政所づきの筆頭女官、孝藏主だという。同行した庖丁人が暑気あたりで倒れたことによる。三十郎が作った料理を孝蔵主は堪能することになった。
これが思わぬ波紋を引き起こす。
有馬の湯治から京の庵に戻った翌日、三十郎のもとに北政所に仕える者だという美童が現れ、北政所の命令だと言い、三十郎を駕籠に乗せて大坂城に連れて行く。三十郎は北政所のために、大奥の台所で料理を作る羽目になる。だが、これは一種の試しであった。
秀吉が行った醍醐の花見は有名である。秀吉が花見料理のことを口にした時、淀殿づきの女官頭が淀殿の方に任せていただければと秀吉に言った。そこから花見の膳における女の戦いが始まることに。淀殿側は大草流包丁術宗家、遊佐大膳を起用する。
三十郎は北政所のために料理の腕を振るうことを求められる。相手が遊佐大膳と聞いたとたんに、三十郎はその役目を引き受ける決意をする。花見の裏での料理の戦いの始まりとなる。
太閤秀吉の醍醐の花見にこんな視点もあったか・・・・と興味深い短編である。
「笑うて候」
安楽庵策伝は京都誓願寺の五十五世法主となり紫衣を勅許された高僧である。だがそれよりも、落語の祖として一般には良く知られている。晩年に『醒睡笑』という小咄集を書き残した。「希世の咄上手」といわれた。その策伝が(あいつだけには敵わなかった)と思う男がいたという。その男とは泉州堺の鞘職人、杉本甚右衛門。
策伝の回想という形で天正12年から天正15年にかけてのエピソードが語られる。杉本甚右衛門とは、ある期間、秀吉の御咄衆の一人となった曽呂利新左衛門のことである。
策伝と新左衛門が笑わせるという点で競い合ったという時期があったというのがおもしろい。曽呂利新左衛門のエピソードをもっと知りたくなってきた。
「利休椿」
大徳寺塔頭、聚光院で庭の世話をしていた又左は利休に見込まれ、椿専門の花作りとして独り立ちした。伏見指月の丘の宇治川を見下ろす日当たりのよい土地に立てられた草庵に住み、広い庭に100本をこえるさまざまな椿の木を植えている。利休が又左のために土地と家を用意した。又左は独立して7年目に朧月という品種を生み出し、利休の期待に応えた。
利休は聚楽第のなかに二畳台目の茶室と書院を造り、それにふさわしい庭を造作するよう秀吉に命じられたという。又左は利休からその庭にふさわしい椿は何かと問われる。
又左は利休が既にふさわしい椿を脳裡に描いていると知りつつ、求めに応じて利休と椿談義を行う。利休は夢を見た話を又左に語る。「わしは、紫の椿が花入れに活けられているのを見た」と。紫の椿を探して欲しいと又左は依頼される。
紫の椿を茶室に飾りたいという利休の執念が、いつしか椿の花作り又左の執念になっていく。紫椿の探索は、遂に又左が故あって二度と戻るまいと封印した故郷・大洲に足を向けることになる。又左の回想と大洲への紫椿探しの旅が進展していく。又左の封印の理由が読ませどころとなっている。
又左が京に戻ってから半月後、利休は関白秀吉の勘気をこうむり、切腹して果てた。
幻の紫椿の物語。ロマンを感じさせる一方、又左の封印に関心を抱かせる興味深い設定になっている。短編末尾の一行を引用しておこう。
「いまも、指月の丘に椿の銘木が多いのは、又左の夢の名残かもしれない。」
最後に、著者の「あとがき」に触れておこう。
著者はこれら諸雑誌に発表された短編について、「桃山時代は、日本のルネサンスと言っていい」と断言し、その上で「桃山を生きた美の変革者たちの凄絶な生きざま」を書きたかったと述べている。そして、著者自身、京の西山の山中に咲く紫の椿を見たと記している。
本書を読んで、初めて調べて見て、著者・火坂雅志が2015年2月26日に58歳で病没していたことを遅ればせながら知った。合掌。
ご一読ありがとうございます。
本書からの波紋でネット検索してみた事項を一覧にしておきたい。
名古屋山三郎 :ウィキペディア
名古屋山三郎 :「コトバンク」
謡蹟めぐり 関寺小町 :「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」
関寺小町 :「能楽師 久田勘鷗」
辻ケ花 :ウィキペディア
辻が花について :「辻が花染め工房 絵絞庵」
天女花 :「GANREF」
里村紹巴 :ウィキペディア
里村紹巴 :「コトバンク」
愛宕百韻 :「コトバンク」
愛宕百韻 :「K's bookshelf」
第25話 曽呂利新左衛門(生年不詳-1603年) :「関西・大阪21世紀協会」
秀吉のお伽衆、曽呂利新左衛門 :「レファレンス協同データベース」
火坂雅志 :ウィキペディア
火坂雅志文庫一覧
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
「山三の恋」「関寺小町」「辻が花」「天下百韻」「包丁奥義」「笑うて候」「利休椿」と短編の題を並べてみると、やはり「利休」を冠した「利休椿」という題名が私を含む一般的読者にとっては一番アトラクティブな印象ではなかろうか。千利休はたぶん誰でもしている有名人。利休の椿って何だろうとまず目に止まり、惹きつけられる。他の題からは、名古屋山三、小野小町、辻が花染め、くらいの語彙をすぐに連想するが、その先で少し距離を感じる。「天下百韻」から直ちに里村紹巴と明智光秀の連想はできなかった。「包丁奥義」「笑うて候」になると??? 私には何の連想もすぐには働かなかった。
それでも、並べてみるとこの短編集は日本の歴史に題材を取った歴史時代小説だということがわかる。
各短編を少しご紹介してみる。
「山三の恋」
尾張国那古屋(名古屋)出身の名古屋山三郎は蒲生氏郷の小姓となる。24歳のとき会津若松で氏郷がにわかに死んだ。衝撃を受けた山三郎は剃髪、出家したが、心にかかる女人のことを確かめたくて、還俗し京に戻る。その女人との出会いとなった場所に足を向ける。清凉寺から愛宕参道を一町ばかり行った竹林の先である。そして、文禄元年、21歳の折に、紫の頭巾で顔を包んだ老女に名指しで声をかけられたことから回顧していく。「わがお仕えするお方さまの、命を懸けた一生に一度の恋のためなれば・・・」と老女は山三郎に言ったのだ。老女の名は九条という。この導入部が興味を惹きつける。
その山三が清水寺の境内でからまれているところを助けた加賀座の大夫・白糸と黒谷の真如堂の紅葉見物に行く。そして、偶然あの九条という老女を見かけ、その後を追跡していく。老女を問い詰めた結果、「お方さま」と呼ばれた女人に5年ぶりに再会し、意外な事実を知ることに・・・・・。それが山三に禍をもたらす。
歴史に残る秀吉の嫡子出生にまつわる噂話を巧みに採り入れた美男子山三のエピソードとしておもしろい。
「関寺小町」
寛永11年正月12日、仙洞御所の能舞台で、能楽師、49歳の喜多七太夫は演目として「関寺小町」を舞うと思い定めた。
秀吉は七太夫の才を愛し、金春座の大夫、金春禅曲のもとに10歳のときに弟子入りさせ、さらに禅曲の次女、静乃と縁組みさせた。だが、禅曲は演目での肝心なところは「これは金春家の一子相伝ゆえ、教えることはできぬ」と突き放した。七太夫の天賦の才を恐れたのである。
「関寺小町」は難曲中の難曲で、大和四座ではあまりの難しさゆえに、60年近く演ずる者はなかったという。なぜ、喜多七太夫がそれを承知でこの「関寺小町」に挑むのか。その理由が語られて行く。
七太夫は「関寺小町」を完璧に演じきった。だが、七太夫は処分を受ける身となる。
能の世界のしきたりと天賦の才への妬みが生み出す醜い一面が描かれている。
「辻が花」
堀川端の辻が花染め師、藪木千竹の弟子である義一が直面する切なく哀しくかつ妖しさを含むストーリーである。義一は平野神社境内で白玉椿を画帖に写しているときに、高貴な女人を垣間見て心を妖しく騒がせられる。ふらふらと女人のあとをつけ、四条家の姫君だと知る。身分の違いを知りつつ、義一はもう一度会いたいと恋情をつのらせる。
仕事に手がつかぬ義一の様子を師匠は見抜き、義一をとがめる。十日後、師匠の供をして、さる堂上公家の屋敷を訪れることになる。それは聚楽第への輿入れのための嫁入り支度の衣裳の依頼だという。師匠は、五領の衣裳の内、一領を義一に任せるつもりだと言う。何と、その依頼主は四条三位中将隆昌。義一が垣間見た女人の父だった。その時、かの女人が眉子姫という名だと知る。
義一がどういう行動をとるか。そこが読ませどころとなっていく。
「天下百韻」
興福寺の小者をつとめていた父が亡くなると、家のたつきを支えるために松井紹巴は13歳で興福寺の塔頭、明王院の喝食となった。喝食の身を嫌悪する紹巴はその境遇から抜け出し、行くすえは天下を取りたいと望む。己の知恵と力で何ができるか。友の信徳丸との語らいの中から紹巴が活路を見出したのは連歌師になる道である。紹巴が連歌師として名をなすために行った権謀術数のプロセスと生き様が描き出される。里村紹巴の誕生である。紹巴はさらに連歌師よりももっと高みにのぼりつめる野望を抱く。そこには、明智光秀が洛西愛宕山で催した連歌の会が絡んでいた。連歌師として招聘された紹巴は、この折り光秀らとともに天下百韻を詠む。
後に、紹巴は秀吉に発句の事を尋ねられ機知により死罪を免れることに。さらにその後の紹巴の生き様を簡潔に最後に語り加えている。
どこまでが史実なのかはわからないが、里村紹巴の生涯をイメージできる短編である。
「包丁奥義」
慶長2年、有馬の湯で湯治のため逗留していた風間三十郎は、湯宿角ノ坊のあるじから「池ノ坊」にお忍びで泊まる客のために料理を作る助力を頼まれる。その客とは秀吉の正室、北政所づきの筆頭女官、孝藏主だという。同行した庖丁人が暑気あたりで倒れたことによる。三十郎が作った料理を孝蔵主は堪能することになった。
これが思わぬ波紋を引き起こす。
有馬の湯治から京の庵に戻った翌日、三十郎のもとに北政所に仕える者だという美童が現れ、北政所の命令だと言い、三十郎を駕籠に乗せて大坂城に連れて行く。三十郎は北政所のために、大奥の台所で料理を作る羽目になる。だが、これは一種の試しであった。
秀吉が行った醍醐の花見は有名である。秀吉が花見料理のことを口にした時、淀殿づきの女官頭が淀殿の方に任せていただければと秀吉に言った。そこから花見の膳における女の戦いが始まることに。淀殿側は大草流包丁術宗家、遊佐大膳を起用する。
三十郎は北政所のために料理の腕を振るうことを求められる。相手が遊佐大膳と聞いたとたんに、三十郎はその役目を引き受ける決意をする。花見の裏での料理の戦いの始まりとなる。
太閤秀吉の醍醐の花見にこんな視点もあったか・・・・と興味深い短編である。
「笑うて候」
安楽庵策伝は京都誓願寺の五十五世法主となり紫衣を勅許された高僧である。だがそれよりも、落語の祖として一般には良く知られている。晩年に『醒睡笑』という小咄集を書き残した。「希世の咄上手」といわれた。その策伝が(あいつだけには敵わなかった)と思う男がいたという。その男とは泉州堺の鞘職人、杉本甚右衛門。
策伝の回想という形で天正12年から天正15年にかけてのエピソードが語られる。杉本甚右衛門とは、ある期間、秀吉の御咄衆の一人となった曽呂利新左衛門のことである。
策伝と新左衛門が笑わせるという点で競い合ったという時期があったというのがおもしろい。曽呂利新左衛門のエピソードをもっと知りたくなってきた。
「利休椿」
大徳寺塔頭、聚光院で庭の世話をしていた又左は利休に見込まれ、椿専門の花作りとして独り立ちした。伏見指月の丘の宇治川を見下ろす日当たりのよい土地に立てられた草庵に住み、広い庭に100本をこえるさまざまな椿の木を植えている。利休が又左のために土地と家を用意した。又左は独立して7年目に朧月という品種を生み出し、利休の期待に応えた。
利休は聚楽第のなかに二畳台目の茶室と書院を造り、それにふさわしい庭を造作するよう秀吉に命じられたという。又左は利休からその庭にふさわしい椿は何かと問われる。
又左は利休が既にふさわしい椿を脳裡に描いていると知りつつ、求めに応じて利休と椿談義を行う。利休は夢を見た話を又左に語る。「わしは、紫の椿が花入れに活けられているのを見た」と。紫の椿を探して欲しいと又左は依頼される。
紫の椿を茶室に飾りたいという利休の執念が、いつしか椿の花作り又左の執念になっていく。紫椿の探索は、遂に又左が故あって二度と戻るまいと封印した故郷・大洲に足を向けることになる。又左の回想と大洲への紫椿探しの旅が進展していく。又左の封印の理由が読ませどころとなっている。
又左が京に戻ってから半月後、利休は関白秀吉の勘気をこうむり、切腹して果てた。
幻の紫椿の物語。ロマンを感じさせる一方、又左の封印に関心を抱かせる興味深い設定になっている。短編末尾の一行を引用しておこう。
「いまも、指月の丘に椿の銘木が多いのは、又左の夢の名残かもしれない。」
最後に、著者の「あとがき」に触れておこう。
著者はこれら諸雑誌に発表された短編について、「桃山時代は、日本のルネサンスと言っていい」と断言し、その上で「桃山を生きた美の変革者たちの凄絶な生きざま」を書きたかったと述べている。そして、著者自身、京の西山の山中に咲く紫の椿を見たと記している。
本書を読んで、初めて調べて見て、著者・火坂雅志が2015年2月26日に58歳で病没していたことを遅ればせながら知った。合掌。
ご一読ありがとうございます。
本書からの波紋でネット検索してみた事項を一覧にしておきたい。
名古屋山三郎 :ウィキペディア
名古屋山三郎 :「コトバンク」
謡蹟めぐり 関寺小町 :「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」
関寺小町 :「能楽師 久田勘鷗」
辻ケ花 :ウィキペディア
辻が花について :「辻が花染め工房 絵絞庵」
天女花 :「GANREF」
里村紹巴 :ウィキペディア
里村紹巴 :「コトバンク」
愛宕百韻 :「コトバンク」
愛宕百韻 :「K's bookshelf」
第25話 曽呂利新左衛門(生年不詳-1603年) :「関西・大阪21世紀協会」
秀吉のお伽衆、曽呂利新左衛門 :「レファレンス協同データベース」
火坂雅志 :ウィキペディア
火坂雅志文庫一覧
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