本書は書き下ろしの作品で、2020年7月に単行本として刊行された。
クリムトの「婦人の肖像」という作品と葛飾北斎の肉筆浮世絵を絡めたアートミステリー小説である。上掲の本書表紙には、葛飾北斎の『富嶽三十六景』の中の「神奈川沖浪裏」をひとひねりして一層ダイナミックに転換した絵に仕立てられている。内表紙の裏面には「装幀 泉沢光雄 装画 影山 徹」と記されている。
19世紀末、オーストリア帝国末期時代の画家、グスタフ・クリムトの「婦人の肖像」は実在する。北イタリア北部、内陸部のピアチェンツァに所在し、イタリア近代絵画コレクションを中心に展示するリッチ・オッディ近代美術館の所蔵作品である。この作品が1997年2月22日の夜間に盗難に遭った。だが、その作品が2019年12月に、なんと当美術館の外壁表面を覆うツタを庭師が除去したとき、金属製の小さなドアが発見され、その中から黒いビニール製のごみ袋に入れられたこの作品が無傷の状態で見つかったと言う。鑑定の結果真作であると判明したそうだ。史実である。
レンブラント作「ガラリヤの海の嵐」が1990年にアメリカにあるガードナー美術館から盗まれたというのも事実だ。23年後にFBIは容疑者を特定したと発表しているが、未だ取り戻されてはいないようだ。
一方、明治時代初期のお雇い外国人の一人にフェノロサが居る。岡倉天心とともに法隆寺の夢殿を訪れ、それまで秘仏であった救世観音菩薩像をその封印から解き放ち、世に開示させたことで有名だ。フェノロサは在日中に日本美術を大量に購入し、そのコレクションをアメリカに持ち帰った。帰国後、一時期ボストン美術館東洋部の主管となっている。彼のコレクションは後に売却され、ボストン美術館等に分散所蔵された。これもまた史実である。
つい先日、原田マハ著『たゆたえども沈まず』を読み、明治時代に林忠正がパリに住み、日本美術商として活躍していた事実を知った。彼は勿論、浮世絵も手広く扱ったそうである。また、当時、同様に日本美術品を扱う山中商会がこの業界では大手として海外活動をしていたという。
クリムトの「婦人の肖像」、北斎の肉筆浮世絵、フェノロサ・コレクション、林忠正、山中商会等のキーワードと史実が、この小説としてフィクションを織り交ぜ巧妙なアートミステリーに仕立て上げられている。美術ファンにとっては特に楽しめる作品の一つと言える。なぜなら、古美術関連の業界裏話や浮世絵知識などがふんだんに盛り込まれているからである。真作贋作問題がとりあげられていく。キーワードレベルであるが、著者はその中で「春峯庵事件」にも言及している。この事件のことを私は本書を介して、調べてみて遅ればせながら初めて知った。
東京の古物商吉崎為一郎が、22年前の1997年に行方不明となっていたクリムト作「婦人の肖像」を発見したと報じた。それに本物という鑑定書が付いていると発表した。ところが、イアン・ノースウィッグがマリアとともに、若い頃にリッチ・オッディ近代美術館から直接自分たちで盗み出し、本物を手許にそのまま所蔵していた。22年間という歳月は、贋作を真作と称し、世に出すには良い時期でもある。イアンは自分の目で吉崎の手許の作品を確かめに行く。だが、この行動がイアンが日本で実行する仕事に影響を与えて行く羽目にもなる。
「婦人の肖像」発見報道より、7ヵ月前に、一人の青年が銀座通りにある骨董店九龍堂に北斎版画「瀑布図」の初摺・井伏鱒二の肉筆原稿・尾形光琳の硯箱の3点を紙袋に入れて売りにきた。店主は30万円で買うという。その青年はそれをさらりと受け入れて立ち去った。読者はさりげない形で九龍堂とこの青年を記憶に残す。なぜ話が、ここに飛ぶのか。実はこれがこのストーリーの重要な伏線になっていた。読み進めて気づいたことだが・・・・。
さて、このストーリーの軸となる部分に触れておこう。
このストーリーの本筋である。イアンが吉崎の所有する「婦人の肖像」を自分の目で確認した後、アメリカに帰国する。空港でCIAのマクベインに待ち伏せされる。マクベインはイアンに仕事を依頼する。マクベインはイアンが本物の「婦人の肖像」を被匿していることを知っている。それを匂わせ、絵画盗難事件は彼の関心外であるとして、イアンに仕事を押し付ける。絵画盗難事件そのものは、アメリカではFBIの所管なのだ。
マクベインの説明がおもしろい。あるギャングが、レンブラント作「ガラリヤの海の嵐」を持っていて、それを人道に対する罪で国際刑事裁判所から逮捕状が出ている人物-ある国の大統領-に売ろうとした。だが、その人物は日本画コレクションを欲しいという。北斎の肉筆浮世絵である。まさに希少価値のあるものだ。実在するかどうかも不詳。そこで、ギャングはレンブラントの盗難絵画を日本画と交換し、要人と取引をすることを考えたという。CIAはその要人を取引のためにアメリカに引き寄せ、取引現場でその要人を逮捕したいのである。そのためにイアンにはそれに該当する日本画を入手して欲しいという。盗難絵画事件はFBIが担当し、取引現場での要人逮捕をCIAが担当するという分担なのだ。CIAは金の用意ならできるが、自分たちでは日本画コレクションには関与できない。
マクベインは北斎の浮世絵を入手できれば、要人逮捕後に交換にレンブラントの絵をイアンに引き渡すという。勿論、ガードナー美術館に一旦収納され、美術館とイアンの間での売買契約をCIAが成立させる形でである。
CIAは、北斎の肉筆浮世絵が本物でも贋作でも関与しない。要人側の依頼を受けた鑑定人がそれらの作品を本物と鑑定して納得すればそれで良いということなのだ。
イアンは「婦人の肖像」についての問題も解決する必要があり、日本の古美術には知識はないがこの仕事を引き受ける。
マクベインはCIAの下部組織で働く有馬陸人をイアンのもとに協力者として送り込む。かれは葛飾北斎に関しては折り紙付きの博識なのだ。ここで、イアン、マリア、陸人がまずチームを組む。
この本筋に対して、関連するする流れが複数織り交ぜられていく。
1.吉崎は発見したクリムトの作品をオークションの場に出す意志はない。相対取引で売るつもりなのだ。実業家の清水谷貴美が「婦人の肖像」を30億円で購入すると宣言する。彼は話題性を狙っていた。一方で、この作品が贋作ではないかという噂が流れ始める。
そこで、清水谷は購入側として、別のエージェントに真贋鑑定をさせたいという購入条件をつけた。ここから、吉崎の思考と行動に揺らぎが出始める。
その経緯の中で、イアンが密かに策動を始めて行く。
このサブ・ストーリーは、吉崎と清水谷の関係の進展につれて、他のサブストーリーにも関連していく。
2.吉崎の手許にある「婦人の肖像」についての真作贋作問題は、ボストン美術館に飛び火していく。それは吉崎が「朱鷺の会」という日本の古美術に特化した集団の一員であることを看板にしてきたことと関連する。ボストン美術館はルービーズのアーサー・グリムウェードに協力を依頼する。ルービーズは城田伸次を日本に情報収集のために派遣する。
城田は上司の指示でイアンとコンタクトをとる。イアンは東京で城田から日本古画の現在の流通状況を含め、この業界の裏話を知る。フィクションと現実を織り交ぜた狭間で話が展開していくところが興味深い。日本の古美術品業界の実情が垣間見えてくる。
それは、真贋鑑定問題の難しさに関係していくことでもある。
3. イアンは北斎の肉筆浮世絵を求めて、城田の同伴で日本の古美術商を一週間かけて訪ね歩く。本物を入手できそうにない。そのプロセスで、城田からの情報を含め朱鷺の会の歴史と現状を知り始める。そして、既に訪れていた古美術商中の有力な一店とのコンタクトに絞り込んでいく。そこは今は朱鷺の会から抜けていた。それがマクベインから引き受けた仕事を成功に導く契機にもなる。
勿論、この流れはイアンの仕事の本筋に直結するものである。さらに、イアンは清水谷に浮世絵へ目を向けさせることにより、清水谷・吉崎を巻き込み彼らを自滅させ手玉に取る作戦を組み込んで行く。相互に騙し合いが繰り返されるというおもしろい展開に引きこまれていく。
サブ・ストーリーがほぼパラレルに進展しながら、それがこのストーリーの本筋、つまりメイン・ストリームの方向に収斂していく。そのプロセスで真実味を帯びていくのが、日本人に買い戻されて日本に送られたのではないかというフェノロサコレクションのうわさである。なぜその可能性があるのか・・・・そこがまさに虚実皮膜のところ、フィクションの醍醐味、おもしろみといえる。美術ファンにはロマンを感じさせる設定になっている。 事実は小説より奇なり、ということが現実にあればワクワクするのだが・・・・。
著者がこのストーリーの中に記しているいくつかの文にふれておこう。
*日本の古画には無数の偽物がある。明治の初めに日本に来ていた欧米人が古画をはじめとする日本古美術を当時の欧米人に紹介し、バカみたいに売れた。・・・・腕のある絵師に、海外に売るための絵を描かせる美術商がいても不思議ではない。狩野派の絵の鑑定士が四人しかいなかったというから、誰も絵を鑑定できなかったということである。
骨董の世界は、「大枚を払う余裕のある者は真物を買い、金のない蒐集家にはそれなりの、甲羅に合ったものがある」という。 p30-31
*版画は、初摺にしか本当の価値はないんです。初摺は二百枚と言われています。p112
*今となれば、もっとも価値の確実な日本の古画は、日本という国に封がされたまま、内部に倦むほどの絵画があり、かつ誰もその価値に意識を向けようとしなかった1880年代に、莫大な金を持って日本中を回ってほしいままに集めたビゲロー、モース、フェノロサのコレクションにあるものではないだろうか。 p157
*海外に渡った美術品は名だたる美術館に大切に保管され、その価値を認められて丁重に扱われている--などと考えてはならない。多くは死蔵されている。母国日本人にその価値がわからないものを、どうして外国のキュレーターに理解できるだろうか。 p157
このストーリー、現時点での既知の事実結果と整合性した形でエンディングとなる。ている。
この小説の副産物は、江戸時代の浮世絵、浮世絵版画について、無意識のうちにその幅広い知識の一端が読者にインプットされていくことにある。浮世絵に親しみを感じることになると思う。特に北斎については一歩深く知る機会にもなることだろう。
些末なことかもしれないが、一個所気になる点がある。
有馬陸人がイアンに北斎の生涯についてレクチャーする文脈での記述にある。
「師匠の意に背いて勝川を破門になると、後の四、五年は俵屋宗達を名乗り、狂歌絵本などを手がけた。・・・・・・八十九歳で亡くなるまでに、宗理、可候、辰政、戴斗、北斎、為一、画狂人、卍老人と目まぐるしく名前を変えている。」(p108)の個所にある。
「後の四、五年は俵屋宗達を名乗り」は「宗理」の誤植ではなかろうか。勿論、陸人が説明する中での陸人のミスとして笑っておくこともできる。だが、事実データのレクチャーという設定場面であるので、基本的にそんな説明をするはずはないだろう。なぜなら、陸人は北斎に関して、折り紙つきの博識という設定なのだから。
俵屋宗達自身も謎多き絵師だが、その名が有名なだけにこの個所を読み、アレッと気になった。
いずれにしても、虚々実々の騙し合いが登場人物たちのそれぞれの側で繰り広げられていくというおもしろいストーリー展開である。
序でに触れておきたい。単行本の表紙・裏表紙を見ていて気がついた。北斎の絵を回転させて巧みに組み合わせ浪に翻弄される舟の数を増やしてデフォルメし、いわば本歌取り的な趣きになっている。波浪と数多の舟が円として回転運動を続ける意匠なのだ。波浪が裏表でつながり、二つの円運動が生み出されている。そこで富士山が4つある。これもおもしろい。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連する関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
すみだ北斎美術館 ホームページ
北斎について
信州小布施 北斎館 ホームページ
小布施と北斎
葛飾北斎 :ウィキペディア
神奈川沖浪裏 :ウィキペディア
婦人の肖像 (クリムト) :ウィキペディア
【第2話】法隆寺夢殿・救世観音像 発見物語 :「近代『仏像発見物語』をたどって」
アーネスト・フェノロサ :ウィキペディア
フェノロサ :「コトバンク」
山中商会 :ウィキペディア
春峯庵事件 :ウィキペディア
春峯庵事件(1)浮世絵贋作事件のあらまし :「ARTISTIAN」
春峯庵事件(2)浮世絵贋作事件関係者のその後 :「ARTISTIAN」
ボストン美術館を楽しむ7つの秘密 アートナビイゲーター ナカムラムニオ
第1話 ボストンの三銃士 モース、フェノロサ、ビゲロー 1-2
絵画盗難事件一覧 :「Art & Bell by Tora」
米史上最大の美術品盗難事件の謎 :「Bloomberg」
米史上最大の美術品盗難事件から23年、FBIが容疑者特定 2013.3.19 :「REUTERS」
「キュレーター」の意味とは?美術界やネットでの仕事内容も紹介 :「TRANS.BIZ」
キュレーター :ウィキペディア
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
クリムトの「婦人の肖像」という作品と葛飾北斎の肉筆浮世絵を絡めたアートミステリー小説である。上掲の本書表紙には、葛飾北斎の『富嶽三十六景』の中の「神奈川沖浪裏」をひとひねりして一層ダイナミックに転換した絵に仕立てられている。内表紙の裏面には「装幀 泉沢光雄 装画 影山 徹」と記されている。
19世紀末、オーストリア帝国末期時代の画家、グスタフ・クリムトの「婦人の肖像」は実在する。北イタリア北部、内陸部のピアチェンツァに所在し、イタリア近代絵画コレクションを中心に展示するリッチ・オッディ近代美術館の所蔵作品である。この作品が1997年2月22日の夜間に盗難に遭った。だが、その作品が2019年12月に、なんと当美術館の外壁表面を覆うツタを庭師が除去したとき、金属製の小さなドアが発見され、その中から黒いビニール製のごみ袋に入れられたこの作品が無傷の状態で見つかったと言う。鑑定の結果真作であると判明したそうだ。史実である。
レンブラント作「ガラリヤの海の嵐」が1990年にアメリカにあるガードナー美術館から盗まれたというのも事実だ。23年後にFBIは容疑者を特定したと発表しているが、未だ取り戻されてはいないようだ。
一方、明治時代初期のお雇い外国人の一人にフェノロサが居る。岡倉天心とともに法隆寺の夢殿を訪れ、それまで秘仏であった救世観音菩薩像をその封印から解き放ち、世に開示させたことで有名だ。フェノロサは在日中に日本美術を大量に購入し、そのコレクションをアメリカに持ち帰った。帰国後、一時期ボストン美術館東洋部の主管となっている。彼のコレクションは後に売却され、ボストン美術館等に分散所蔵された。これもまた史実である。
つい先日、原田マハ著『たゆたえども沈まず』を読み、明治時代に林忠正がパリに住み、日本美術商として活躍していた事実を知った。彼は勿論、浮世絵も手広く扱ったそうである。また、当時、同様に日本美術品を扱う山中商会がこの業界では大手として海外活動をしていたという。
クリムトの「婦人の肖像」、北斎の肉筆浮世絵、フェノロサ・コレクション、林忠正、山中商会等のキーワードと史実が、この小説としてフィクションを織り交ぜ巧妙なアートミステリーに仕立て上げられている。美術ファンにとっては特に楽しめる作品の一つと言える。なぜなら、古美術関連の業界裏話や浮世絵知識などがふんだんに盛り込まれているからである。真作贋作問題がとりあげられていく。キーワードレベルであるが、著者はその中で「春峯庵事件」にも言及している。この事件のことを私は本書を介して、調べてみて遅ればせながら初めて知った。
東京の古物商吉崎為一郎が、22年前の1997年に行方不明となっていたクリムト作「婦人の肖像」を発見したと報じた。それに本物という鑑定書が付いていると発表した。ところが、イアン・ノースウィッグがマリアとともに、若い頃にリッチ・オッディ近代美術館から直接自分たちで盗み出し、本物を手許にそのまま所蔵していた。22年間という歳月は、贋作を真作と称し、世に出すには良い時期でもある。イアンは自分の目で吉崎の手許の作品を確かめに行く。だが、この行動がイアンが日本で実行する仕事に影響を与えて行く羽目にもなる。
「婦人の肖像」発見報道より、7ヵ月前に、一人の青年が銀座通りにある骨董店九龍堂に北斎版画「瀑布図」の初摺・井伏鱒二の肉筆原稿・尾形光琳の硯箱の3点を紙袋に入れて売りにきた。店主は30万円で買うという。その青年はそれをさらりと受け入れて立ち去った。読者はさりげない形で九龍堂とこの青年を記憶に残す。なぜ話が、ここに飛ぶのか。実はこれがこのストーリーの重要な伏線になっていた。読み進めて気づいたことだが・・・・。
さて、このストーリーの軸となる部分に触れておこう。
このストーリーの本筋である。イアンが吉崎の所有する「婦人の肖像」を自分の目で確認した後、アメリカに帰国する。空港でCIAのマクベインに待ち伏せされる。マクベインはイアンに仕事を依頼する。マクベインはイアンが本物の「婦人の肖像」を被匿していることを知っている。それを匂わせ、絵画盗難事件は彼の関心外であるとして、イアンに仕事を押し付ける。絵画盗難事件そのものは、アメリカではFBIの所管なのだ。
マクベインの説明がおもしろい。あるギャングが、レンブラント作「ガラリヤの海の嵐」を持っていて、それを人道に対する罪で国際刑事裁判所から逮捕状が出ている人物-ある国の大統領-に売ろうとした。だが、その人物は日本画コレクションを欲しいという。北斎の肉筆浮世絵である。まさに希少価値のあるものだ。実在するかどうかも不詳。そこで、ギャングはレンブラントの盗難絵画を日本画と交換し、要人と取引をすることを考えたという。CIAはその要人を取引のためにアメリカに引き寄せ、取引現場でその要人を逮捕したいのである。そのためにイアンにはそれに該当する日本画を入手して欲しいという。盗難絵画事件はFBIが担当し、取引現場での要人逮捕をCIAが担当するという分担なのだ。CIAは金の用意ならできるが、自分たちでは日本画コレクションには関与できない。
マクベインは北斎の浮世絵を入手できれば、要人逮捕後に交換にレンブラントの絵をイアンに引き渡すという。勿論、ガードナー美術館に一旦収納され、美術館とイアンの間での売買契約をCIAが成立させる形でである。
CIAは、北斎の肉筆浮世絵が本物でも贋作でも関与しない。要人側の依頼を受けた鑑定人がそれらの作品を本物と鑑定して納得すればそれで良いということなのだ。
イアンは「婦人の肖像」についての問題も解決する必要があり、日本の古美術には知識はないがこの仕事を引き受ける。
マクベインはCIAの下部組織で働く有馬陸人をイアンのもとに協力者として送り込む。かれは葛飾北斎に関しては折り紙付きの博識なのだ。ここで、イアン、マリア、陸人がまずチームを組む。
この本筋に対して、関連するする流れが複数織り交ぜられていく。
1.吉崎は発見したクリムトの作品をオークションの場に出す意志はない。相対取引で売るつもりなのだ。実業家の清水谷貴美が「婦人の肖像」を30億円で購入すると宣言する。彼は話題性を狙っていた。一方で、この作品が贋作ではないかという噂が流れ始める。
そこで、清水谷は購入側として、別のエージェントに真贋鑑定をさせたいという購入条件をつけた。ここから、吉崎の思考と行動に揺らぎが出始める。
その経緯の中で、イアンが密かに策動を始めて行く。
このサブ・ストーリーは、吉崎と清水谷の関係の進展につれて、他のサブストーリーにも関連していく。
2.吉崎の手許にある「婦人の肖像」についての真作贋作問題は、ボストン美術館に飛び火していく。それは吉崎が「朱鷺の会」という日本の古美術に特化した集団の一員であることを看板にしてきたことと関連する。ボストン美術館はルービーズのアーサー・グリムウェードに協力を依頼する。ルービーズは城田伸次を日本に情報収集のために派遣する。
城田は上司の指示でイアンとコンタクトをとる。イアンは東京で城田から日本古画の現在の流通状況を含め、この業界の裏話を知る。フィクションと現実を織り交ぜた狭間で話が展開していくところが興味深い。日本の古美術品業界の実情が垣間見えてくる。
それは、真贋鑑定問題の難しさに関係していくことでもある。
3. イアンは北斎の肉筆浮世絵を求めて、城田の同伴で日本の古美術商を一週間かけて訪ね歩く。本物を入手できそうにない。そのプロセスで、城田からの情報を含め朱鷺の会の歴史と現状を知り始める。そして、既に訪れていた古美術商中の有力な一店とのコンタクトに絞り込んでいく。そこは今は朱鷺の会から抜けていた。それがマクベインから引き受けた仕事を成功に導く契機にもなる。
勿論、この流れはイアンの仕事の本筋に直結するものである。さらに、イアンは清水谷に浮世絵へ目を向けさせることにより、清水谷・吉崎を巻き込み彼らを自滅させ手玉に取る作戦を組み込んで行く。相互に騙し合いが繰り返されるというおもしろい展開に引きこまれていく。
サブ・ストーリーがほぼパラレルに進展しながら、それがこのストーリーの本筋、つまりメイン・ストリームの方向に収斂していく。そのプロセスで真実味を帯びていくのが、日本人に買い戻されて日本に送られたのではないかというフェノロサコレクションのうわさである。なぜその可能性があるのか・・・・そこがまさに虚実皮膜のところ、フィクションの醍醐味、おもしろみといえる。美術ファンにはロマンを感じさせる設定になっている。 事実は小説より奇なり、ということが現実にあればワクワクするのだが・・・・。
著者がこのストーリーの中に記しているいくつかの文にふれておこう。
*日本の古画には無数の偽物がある。明治の初めに日本に来ていた欧米人が古画をはじめとする日本古美術を当時の欧米人に紹介し、バカみたいに売れた。・・・・腕のある絵師に、海外に売るための絵を描かせる美術商がいても不思議ではない。狩野派の絵の鑑定士が四人しかいなかったというから、誰も絵を鑑定できなかったということである。
骨董の世界は、「大枚を払う余裕のある者は真物を買い、金のない蒐集家にはそれなりの、甲羅に合ったものがある」という。 p30-31
*版画は、初摺にしか本当の価値はないんです。初摺は二百枚と言われています。p112
*今となれば、もっとも価値の確実な日本の古画は、日本という国に封がされたまま、内部に倦むほどの絵画があり、かつ誰もその価値に意識を向けようとしなかった1880年代に、莫大な金を持って日本中を回ってほしいままに集めたビゲロー、モース、フェノロサのコレクションにあるものではないだろうか。 p157
*海外に渡った美術品は名だたる美術館に大切に保管され、その価値を認められて丁重に扱われている--などと考えてはならない。多くは死蔵されている。母国日本人にその価値がわからないものを、どうして外国のキュレーターに理解できるだろうか。 p157
このストーリー、現時点での既知の事実結果と整合性した形でエンディングとなる。ている。
この小説の副産物は、江戸時代の浮世絵、浮世絵版画について、無意識のうちにその幅広い知識の一端が読者にインプットされていくことにある。浮世絵に親しみを感じることになると思う。特に北斎については一歩深く知る機会にもなることだろう。
些末なことかもしれないが、一個所気になる点がある。
有馬陸人がイアンに北斎の生涯についてレクチャーする文脈での記述にある。
「師匠の意に背いて勝川を破門になると、後の四、五年は俵屋宗達を名乗り、狂歌絵本などを手がけた。・・・・・・八十九歳で亡くなるまでに、宗理、可候、辰政、戴斗、北斎、為一、画狂人、卍老人と目まぐるしく名前を変えている。」(p108)の個所にある。
「後の四、五年は俵屋宗達を名乗り」は「宗理」の誤植ではなかろうか。勿論、陸人が説明する中での陸人のミスとして笑っておくこともできる。だが、事実データのレクチャーという設定場面であるので、基本的にそんな説明をするはずはないだろう。なぜなら、陸人は北斎に関して、折り紙つきの博識という設定なのだから。
俵屋宗達自身も謎多き絵師だが、その名が有名なだけにこの個所を読み、アレッと気になった。
いずれにしても、虚々実々の騙し合いが登場人物たちのそれぞれの側で繰り広げられていくというおもしろいストーリー展開である。
序でに触れておきたい。単行本の表紙・裏表紙を見ていて気がついた。北斎の絵を回転させて巧みに組み合わせ浪に翻弄される舟の数を増やしてデフォルメし、いわば本歌取り的な趣きになっている。波浪と数多の舟が円として回転運動を続ける意匠なのだ。波浪が裏表でつながり、二つの円運動が生み出されている。そこで富士山が4つある。これもおもしろい。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連する関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
すみだ北斎美術館 ホームページ
北斎について
信州小布施 北斎館 ホームページ
小布施と北斎
葛飾北斎 :ウィキペディア
神奈川沖浪裏 :ウィキペディア
婦人の肖像 (クリムト) :ウィキペディア
【第2話】法隆寺夢殿・救世観音像 発見物語 :「近代『仏像発見物語』をたどって」
アーネスト・フェノロサ :ウィキペディア
フェノロサ :「コトバンク」
山中商会 :ウィキペディア
春峯庵事件 :ウィキペディア
春峯庵事件(1)浮世絵贋作事件のあらまし :「ARTISTIAN」
春峯庵事件(2)浮世絵贋作事件関係者のその後 :「ARTISTIAN」
ボストン美術館を楽しむ7つの秘密 アートナビイゲーター ナカムラムニオ
第1話 ボストンの三銃士 モース、フェノロサ、ビゲロー 1-2
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「キュレーター」の意味とは?美術界やネットでの仕事内容も紹介 :「TRANS.BIZ」
キュレーター :ウィキペディア
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
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