kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

貧者の問い、窮者の答え

2022年12月31日 | 古典聞きかじり
なかなか書けなかった『貧窮問答歌』について
年の瀬ギリギリに記しておきます

山上憶良は、出身は貴族ではないが、40歳で遣唐使に抜擢され、5年ほどして帰国した。
帰国したら、都は、明日香から平城に遷っていた。

憶良は「従五位下」という一番下の位を得て貴族になり、
伯耆守(ほうきのかみ)を経て、太宰守(だざいのかみ)になった。

そこで、大宰帥 (だざいのそち)として赴任してきた上級貴族の大伴旅人 (たびと) と
地位を超えた友人となり、和歌を深めることになる。
旅人は64歳、憶良は69歳。
令和の出典で脚光を浴びた『梅花の歌』など一連の大宰府の文学集団で、旅人のブレインだったのは憶良であった。

任を終えた旅人は京に帰り、間もなく亡くなる。
憶良も京に帰り、引退したようだ。
引退後の作品が、『貧窮問答歌』。
「貧者と窮者の問答」とも、「貧窮に関する問答」とも考えられる。
(有名な歌なので、ネットで参照できます。
ここではラジオで聞いたメモを紹介します)


先ずは「貧者からの問い」

雨は夜更け過ぎに雪に変わる。
そんな夜はどうしようもなく寒いので、塩を肴に、カス酒を飲む。
「我を置いてほかに人物はいない」と誇ってみるけれど、
自意識だけでは寒さに勝てない。
布団をかぶって袖なしの服を重ねても寒い夜。
(ふと、他人のことを考えてみる)
我より貧しい人は、どうしているだろう。
父母は飢えて凍えているだろう。
妻子どもは食べ物を欲しがって泣いているだろう。
こういう時、あなたはどうやって、人生を渡っているのか。

(貧相な容貌に貧しい衣食。プライドだけは高い。
 憶良の自画像と思われる)


『窮者』が登場して答える

天地は広いというが、私には狭い。
陽や月は明るいというが、私のためには照らしもしない。
他の人も皆そうなのか、私だけなのか。

偶然に人として生まれ、人と同じに体をしているのに
綿もなくボロが1枚。
竪穴(たてあな)の家は、つぶれかかり曲がって傾いている。
直土に藁を敷いて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、私を囲んでうめくだけ。

かまどに火の気はなく、甑(こしき)には蜘蛛の巣がはって、飯を炊くことも忘れた。
ヌエドリ(トラツグミ)のようにヒーヒー言っている。

こんな暮らしなのに、「短いもののはしを切る」例えどおり
鞭をもった里長が、「労役に出てこい」と寝床にまで呼び立てに来る。

これほど、世の中は、どうしようもないものなのか。


反歌
世の中を憂しとやさしと思へども
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば


この世間を、つらいもの、恥ずかしいものと思うけれど、
そこから飛んで離れることはできない、鳥ではないので。

 (注) やさし:貧しくて恥ずかしい
     「鳥」は自由の象徴


この歌は、引退後の憶良が、現職の官人に奉ったもの。
筑前の守として巡行中に知った民衆の暮らしを、
政(まつりごと)に知らせる意図があったと思われる。

<ここから私見>

「貧者」は、袖なしではあるが、重ね着ができるほど服がある

「窮者」は海藻の海松(みる)のようなボロが1枚だけ。
 海藻のミルは、コンブやワカメより細く、モップのような形。

「着るもの」はどんなものだったろう。
 糸や針はなかったと思う。
 毛皮を着るとしても、なめしたり整えたりは??

電気毛布と羽毛布団に入り、断捨離を浮かべつつ、『貧窮問答歌』を聞く哀しさ。
ことさらに寒い夜でした。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現在の遷都事情

2022年12月01日 | 古典聞きかじり
「古代国家の遷都」について、ネットで確認していたら、国交省のHPに行き当たった。

「古代における遷都と都の形成過程」
    村井 康彦 京都市美術館 館長

とても分かりやすいので、ご覧下さい
(先日の、私のブログよりはるかに親切丁寧…あたりまえだけど)

21世紀の新しい体制に変えていくための起爆剤、契機にするのだという大きな意図があるならば、「首都」の移転ではなく、「首都機能」の移転では意味がない。
首都機能が移っても東京は全く変わらない、心配はいりません、というのでは、何のために首都機能を移すのかわからない。


そういえば、「首都機能の移転」という言葉は、聞かなくなった。

国交省のページ内で調べたら、

遷都の提言がされたのは、昭和30年代(1960年頃)。

これを受け、政府や国会で検討を始めたのが、昭和50年(1975年)2月(48年前!)

その後30年近く審議し、平成16年(2004年)12月、次の報告。
分散移転や防災、危機管理機能などの考え方を深めるための調査、検討を行う

調査検討はエンドレス。移転はしないってことですな。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『万葉集』の時代

2022年11月30日 | 古典聞きかじり
『万葉集』は630年頃から759年までの歌を納めている。
630年は舒明天皇の時代で、都は飛鳥。
759年は奈良時代中期で、都は平城京。
その間約130年。

この130年は大変な時代だった。
唐と新羅の連合軍を相手に戦争をした「白村江の戦い」があり(663年)、
大海の皇子が天皇に取って代わった「壬申の乱」もあった(672年)
クーデター(暴力的手段での政権交代)は何回も起こっていた。
そして、「日本」という国号ができたのもこの時代。

以上は、古典講読「歌と歴史で読む『万葉集』」の、初めの頃の解説。
そのなかで気になった「古代の遷都」を調べた。



私ではまとまらなかったけど、手元にあった『埋もれていた奈良の都』の解説は分かりやすかった。

そこからの抜き書きに、手元のメモを加え、長くはなるが、書きとめます。
<以下のページ>

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代日本の宮殿と都

2022年11月29日 | 古典聞きかじり
たびたびあった遷都

古代では、天皇の居所は一代ごとに、あるいは一代に数度も移り変わるのが常だった。

斉明天皇の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)は、655年建設。その年末に焼失。
663年からの白村江の戦いで、指揮のため筑紫の朝倉宮に滞在していた斉明天皇は、その地で崩御。
白村江の戦いは大敗。実質的に支配していた中大兄皇子は、
667年、飛鳥から近江大津京に遷都。即位して天智天皇に。
5年半のち、天智天皇は崩御。

天智亡きあと、壬申の乱で権力を掌握した天武天皇は、大和へ戻り、
飛鳥浄御原(あすかきよみはらのみや)を建設。(672年から。20年間)

その天武の妻・持統天皇は694年、藤原京を建設。16年間。

奈良の都:平城京

藤原不比等を中心にした権力は、古い飛鳥の権力から離脱するため、和銅元年(708年)、平城京の建設を宣言。
710年、遷都を敢行。

その後、聖武天皇は平城京を離れ、遷都を繰り返したが、5年後に平城京へ戻ったので、
平城京は、7代70年にわたって、都であり続けた。

新しい政治を目指して平安京へ

奈良時代の終りに即位した桓武天皇は、新しい政治を開始しようと、784年に長岡京へ、そして
794年には平安京へと移動した。

京(みやこ)がなくなった奈良は、東大寺や興福寺の門前町となっていく。

平城京の跡は、親王たちに与えられた。

政治的な要請から建設された都市は、その基盤が失われると消滅する。
京内の道路も、水田になっていった。

「埋もれていた奈良の都」
千年の時を経て保存運動が起こる


埋もれていた「平城京」に目を向けた人が現れたのは、幕末。
某奉行所の役人は、自製の測量車を使って旧都跡を測量し、地図を作製した。

その半世紀後、
奈良県の技師が調査研究し、成果を広めた。

それを知って、平城京の顕彰保存に一生をかけた植木職人がいた。

その後、民間有志により、保存運動が進められ、
戦後の1952年、文化財保護法による特別史跡指定された。
(続きは、いつか…)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹は藤にやられる

2022年11月27日 | 古典聞きかじり
またまたご無沙汰でした。
NHKラジオの古典講読、「歌と歴史でたどる『万葉集』」での講師の話が頭から離れず、悩み多き昨今だったので、つい…。

そんな折、
「親戚の竹林で、藤が勢いを増し、藤のツルに絡まれた竹が、まとまって林の外へ倒されそう。
そのツル退治に20日通っているが、まだまだやっつけられない」と困っている話を聞いた。

「まあ、それはお疲れ様です」と言えばいいのに…。
うっかり、「そこは、藤が乗っ取るんですよ…」と言ってしまった。

そう、729年の「長屋王の変」のこと。

長屋王の父は、たけちのみこ(高市皇子)。
長屋王を排斥しようと、館を包囲し、妻子まで自害させ、一族を滅亡させたのは原氏。

天皇の外戚として、権力を固めていくスタートが、これ。

ところで、長屋王の側近だった大伴旅人は、その前年728年の春、大宰帥(だざいのそち)として赴任させられており、都(平城京)から遠く離れた大宰府で、長屋王の滅亡を知った。

その頃の宴での歌。
328)あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり
 作者は、大宰府の様子を報告する役目を終え、奈良の京から戻ってきた小野老(おののおゆ)

330)藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君
作者は、大宰府の防人を司る大伴四綱(おほとものよつな)
「奈良の都を思ほすや君」と呼びかけられた「君」は大伴旅人であろう。

331)我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ
作者は大伴旅人。それでも都に帰りたい。帰るところは都しかない。

この宴は、すっかり暗い雰囲気。
暗いままでは終わりに出来ないと思われ、置かれた歌。

337)憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ



<付記>
近年になって「長屋王」の名が広く知られたのは、遺跡の発掘による。

1988年1月、平城宮跡の南東隅が長屋王の邸宅跡だと分かった。
出土した多数の木簡を調べた結果を、奈良国立文化財研究所が発表した。
「そごう」のデパート建設にあたり、1986年から発掘調査が行われていた。

・1989年「奈良最大の都市型本格百貨店」として開業した「奈良そごう」は、10年余りで閉店、

・跡を継いだ「イトーヨーカ堂」も業績不振により、閉店

・現在は、観光型ショッピング施設「ミ・ナーラ」になっている。

<最後までお読みいただきありがとうございました>

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔も、長生きした人はいた

2022年11月13日 | 古典聞きかじり
古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」を聞いて、そう思った。

近くの荒れ地や河原、それから農家の庭先にもセンダンの大木があったりする。
木が薄紫の花で覆われると思うのが、山上憶良が大伴旅人に贈ったこの歌。

妹が見し 楝(あふち)の花は散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに

大宰帥(だざいのそち)に任命され、筑紫に下った旅人は、着任早々に妻を亡くした。
そのつらい気持ちを慰めようと、憶良は、漢文、漢詩、長歌、反歌にまとめ、旅人に捧げた。
その反歌の一つにあるのが、あふち(センダン)の花。

ラジオで聞いた解説を書くと長くなるので、その内容から外れた部分を、少し。

この時、大伴旅人(『万葉集』を編纂したとされる大伴家持の父)は、64歳。
当時としては、高齢での赴任。

対し、筑前守(ちくぜんのかみ)あった山上憶良は、69歳。
41歳で遣唐使の書記官に任命され、唐に渡ったのが出世の糸口となり、
帰国後、中級官人の一番下の位を受け、筑前守に就いていた。

筑紫で旅人との交流を契機に、遣唐使の経験で得た漢籍の知識に基づく膨大な作品を残した。
「子等を思ふ歌」や「貧窮問答歌」などはよく知られる。
亡くなったのは、74歳とされる。

長生きと言えば、藤原定家も。
定家は80歳で亡くなったが、天文学でも引用される日記『明月記』は、56年間の記録。
その定家の話は、また今度。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古墳と「万葉集」の伝説歌

2022年10月17日 | 古典聞きかじり
   NHKラジオ『古典講読』、「歌と歴史でたどる『万葉集』28」より
万葉集には、地方の伝説を詠んだ長歌がある。その一つが、
高橋虫麻呂の長歌、菟原処女(うないおとめ)伝説。

摂津国菟原(うない:現在の芦屋から神戸市東灘区辺り)にいた菟原処女(うないおとめ)は、たいそう美人だった。
たくさんの男が集まってきたが、中でも、菟原壮子(うないおとこ)と血沼壮子(ちぬおとこ)は、競り合って求婚した。

菟原処女は、「自分のために2人が戦っていることを嘆く」と母親に告げ、あの世へ去っていった。
夢でそのことを知った血沼壮子は後を追い、
それに遅れた菟原壮子も負けじと後を追った。

3人が死んでしまったことに親族は悲しんで、処女墓(おとめはか)を真ん中に、
その東と西に壮子墓(おとこはか)を造った。

今の私たちには理解できないこと2つ。
「あの世へ行く」と告げる娘を、母親が送り出したこと。
「夢は異界との間をつなぐもの」らしく、あの世で娘に会えること。
伝説なので、そーですか、じゃないと、話は続かない。

ところで、この墓は現存する。
大阪と神戸の間の海岸近く、阪神電車沿線に、2キロ弱の間隔で3基ある古墳で、

真ん中にあるのが、「処女塚(おとめづか)古墳」、3世紀後半の築造、
全長70mの前方後円墳。

その東にあるのが、「東求女塚(ひがしもとめづか)古墳」、4世紀後半か。
全長80mくらいの前方後円墳だったが、今は形を成してない。

西にあるのが「西求女塚(にしもとめづか)古墳」、3世紀後半の築造。
墳丘98㎡の方墳であったが、今は前方後円墳に整備された。

これらは地元の豪族がよく目立つように作ったが、200~300年も経てば、分からなくなったことだろう。
そして、3基の古墳の由来を語るものとして、「死んで愛を成就する物語」が、創作された。
「語り継ぎ、言い継ぎゆかん」の奈良時代の精神により、長歌に残したのだろう。

ここからは、私見。
古墳は、豪族が自分の権勢を誇示するため造った。
巨大な石で石室を作り、土を盛り、石で固め、埴輪で飾った。
しかし時が経つと、誰の墓かは分からなくなる。
(文字はなかった)
石は別の用途にされ、埴輪は砕け。積み上げた土は流れてしまった。
飛鳥の石舞台古墳がその姿になっている。

ウチの近くにも、古墳がある。
草木に覆われて、中に入る気はしないけど。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人に知られで くるよしもがな

2022年10月12日 | 古典聞きかじり
「百人一首」25番、三条右大臣 (さんじょうのうだいじん)
名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな

現代語訳
そういう名を持っている逢坂山のさねかずらよ、人に知られず愛しい人の所に来る方法を知りたいものだ。



玄関の日除けにサネカズラを植えている。
近くの山から種をとってきたもの。
外壁の塗り替えなどで撤去したあと、植え直して、今はささやかに育っている。
まだ小さいのに、地面を這っているツルは4メートルくらいも伸びて、
ポストに侵入しようとしていた。

逢坂山、さねかずら、くる、には2重の意味が含まれている。
そのことを説明すると、たいてい嫌われるので、省略。
(メンドくさい、長い話はうんざり…)
ただ、サネカズラを見て、よく分かったのが「くる」。
「繰る」と「来る」のかけ言葉。

ウチの玄関のように狭ければ、一目であちらからこちらへと分かるけど、
山の中だと、手繰り寄せてようやく、どこまで伸びているか分かるんだと思う。

他人(ひと)に知られないで、来る方法があればなあ、と
サネカズラに問いかける貴族男の気持ち、な~るほど。

ポストに忍び込もうとしているウチのサネカズラ、
三条右大臣が見たサネカズラより上手(うわて)だわ(-"-)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あかときつゆに我れ立ちぬれし

2022年10月03日 | 古典聞きかじり
わがせこを大和へやると さよふけて あかときつゆに われ立ちぬれし

現代語訳
愛するひとを、自分の手の届かない大和へ発つのを見送っていると、夜も更けて、明け方の露に濡れてしまった

大伯皇女の、この歌を知ったのは高校の授業でだったが、深く印象に残った。
解説は、
謀反の疑いをかけられた大津皇子は、大和から、伊勢の斎宮(さいぐう)である姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)に、別れの挨拶に来た。
それを見送る大伯皇女は、弟の運命を嘆きつつ立ちすくんでいた。夜も更け、朝露に濡れていた。


でも、分からなかったのは、死刑が宣告された大津の皇子が、大和から伊勢まで一人で姉に会いに来た、という状況。
まあ、おかまいなく、この歌がずっと好きだった。

しかし、NHKラジオの『古典講読』を聞いたら、解釈は違った。

大津の皇子は、686年9月9日、天武天皇が崩御すると、皇太子・草壁皇子に取って代わろうとして、行動に移した。

天皇の祖先である天照大神を祀っている伊勢神宮。
天皇及び皇位を継承するものだけが奉幣できる伊勢神宮は、勝手に御幣を捧げて祈願することが禁じられる「私幣禁断」がある。
それ以外のものが奉幣するのは、皇位を狙う仕業として厳禁される。

伊勢神宮で、天照大神に仕える初代斎宮は、姉である大伯皇女。
大津は自分こそが正当な皇位継承者であると自認して、まず神宮に奉幣しに来た。
そして、神宮から15キロ離れた斎宮にいる姉に会ったのだ。
(大伯皇女が、手引をした)

大和(飛鳥浄御原宮:あすかのきよみはらのみや)に戻った大津の皇子は、誅(しのびごと)が発覚し、10月2日に捕らえられ、翌日3日、自害させられた。享年24歳。

11月、大伯皇女は斎宮の任を解かれ、大和へ戻った。

なるほどね~。
高校で習ったのは、60年前の解釈。
もやもやした解釈より、ストンと腑に落ちる見解でした。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柿本人麻呂、文字で残した長歌

2022年07月23日 | 古典聞きかじり
NHKラジオの古典講読:歌と歴史でたどる『万葉集』を聞いている。

「そうだったのか!」と思うことが度々で、楽しい。

前回は、
「柿本人麻呂の高市皇子挽歌(たかちのみこばんか)」だった。

講師は、「非常に長いので、テキストを見ながら聞いて下さい」
と言った。
5・7調で長々述べたのを「長歌」と言うが、確かに長い。

それは、人麻呂が「文字で歌を書く歌人だったから」、との解説。

「万葉集」の時代は、かな文字がなかった。
口頭で伝えられた歌を、字の書ける人が、漢字にあてて書き残していた。
当然、長い歌はなかった。

人麻呂は枕詞を多用する。
例えば、「鳥が鳴く」は「あづま」の枕詞。
「あづま」の人は「鳥が鳴く」ように、
分からない言葉を発するから。(失礼ね!)


『万葉集』の本、近くの本屋さんに適当なのがなく、
古い本(昭和8年発行)を使っている。
初版は大正14年(1925年)だから、100年近く前に出版された本。

数年前、本の整理をしていた人から、もらった。
奥様の叔母さんが使っていた本、とのことだった。

もらったものの、そのまま本棚にしまい込んでいた。
きれいな本で、ちゃんと読めるし、何より、正確。
90年ぶりに、やっと陽の目を見たのかな?


閑話休題:60年前の話。

人麻呂の『百人一首』の歌
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾のながながし夜を ひとりかも寝む

これを、高校で古文の先生は、次のように解説してくれた。

「長い夜をひとりで寝るのだろうか」と言うことを、
枕詞や形容詞で飾った歌だ。

そうかなあ…。このもやもや、近々晴れるかも。





   昭和8年8月25日 7版発行
   定価 1 円 80銭

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする