kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

孤独と悲しみと

2023年03月07日 | 古典聞きかじり
古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」第47回 を聞いてのメモ。

大伴家持(おおとものやかもち)の歌

うらうらに照れる春日にひばり上がり 心悲しも独し思へば

うららかな日差しの春の日、ひばりは空高く飛んでいる
ひとりで物思いにふけっている私の心は、悲しい


古文の教科書に出ている家持の歌。

この歌が「素晴らしい!」と言われるようになったのは、100年ほど前らしい。
『万葉集』は1200年余り前にできたので、この歌が「秀歌」と見なされてなかった期間は、非常に長い。

評価が高まったのは、明治以降で、日本の近代国家形態が成立した「近代」以降のこと。

「孤独の表現」を受け止められるのは、西洋文化が溶け込んだ後で「近代的な自我」を認識できるようになったから、だそうだ。


宮廷歌人は、天皇への「過大な期待」を並べ、それを称えた。
皇族や官僚の「長寿」を寿いだ。

しかしこの歌は、喜びの季節と躍動する生命の傍に置いた我が身の「淋しさ」を歌っている。

その淋しさに、共感する私たち。

「期待は失望の母」であり、「長寿を祝われる」のは「老いている」ことのあかし。
ほめたたえる言葉と裏腹の「現実」は、ただただ悲しい。

だから、1000年以上後の世に生きている私たちにも、理解できるのだと思う。

(家持の淋しさの原因は、政治的に抹殺される勢力側だったからですが…。
 またの折に…)

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懐かしいお名前

2023年01月31日 | 古典聞きかじり
「古典講読」の講師・鉄野昌弘さんが編者の一人だったので、
KADOKAWA『万葉集の基礎知識』を買った。
1年近く前のこと。
気になる項目を読んでいただけだったが、先日、ぼ~っと読んでいたら
懐かしいお名前があって、びっくり!

「五音と七音のリズム」(第1章の、第3節の、第2項)
(茶色の字が引用文)

五音と七音の句は、万葉集に載る歌の基本となっている。ではなぜこの二種類が基本となっているのか。『日本古典文学大辞典』の「和歌」の項目(担当は久保田淳)内の「声調」には、「和歌はいずれの歌体にせよ、五音と七音を基調とするが、なぜこの二種が選ばれたのかはいまだ十分説明されていない」と述べられている(1985年)
また、赤羽淑も、「和歌の韻律」において、「和歌における五七五七七という定型の成立は、わが国固有のものであるのか、中国詩型の影響によるものであるのか、それはいまだに解決を見ない難問である」と述べている(1993)。久保田淳・赤羽淑の掲出に導きを得て、諸説を掲げよう。


藤原定家を筆頭に、平安時代の和歌などの研究者であった赤羽淑さんは、家が近くだし、何かとご縁もあったので、親しく付き合っていた方なのだ!

で、本文の続き、どんな「説」が掲げられているかというと
日本固有とする説・本居宣長(18世紀末の国学者)

中国詩型の影響によるとする説
先進国である中国の「五言詩・七言詩」の句調に範をとった影響を排除することはできない(青木正児・1970年)

国語教育においては
文部省学習指導要領(2017年)
「古文や漢文を声に出して読むことで、心地よい響きやリズムを味わう」

結論として、筆者(廣川昌輝)は、愛略、以下のように締めくくっている。

「五音・七音のリズムの由来」という分からない点に拘泥するのではなく、「日本の古文・和歌」と「中国の漢文・漢詩」に共にある「五音・七音」の「ここちよい響きやリズム」を見出して感じ取ろう。日本が多くの文化を隣国中国から学んだことを理解し、子どもたちの教育においては、未来志向の文化交流を育もう。

以上、『万葉集の基礎知識』の下記ページより

 1、万葉集の内側 
  三、歌のかたちとくふう
 (2)五音と七音のリズム

ちょっとばかり専門的な文章を、端折って書き留めたので、分かりずらいかも…。
実際の本文を読んでくださると、正確ですが。

*****

話を戻して、赤羽淑さんのお宅にお邪魔した折には
たくさん写真を撮りました(庭の花です)
あの花の数々を紹介すれば
ブログが途切れることはないとも、考えているところ…💦

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焼き滅ぼさむ天の火

2023年01月30日 | 古典聞きかじり
君が行く道の長手(ながて)を繰り畳(たた)ね 焼き滅ぼさむ 天(あめ)の火もがも

<現代語訳>あなたが行く長い道のりを手繰り寄せて、
      焼き尽くしてしまう天の火がどうしても欲しいものだ

高校の教科書に出てくるので、よく知られている和歌だが、その背景は実に深い。

古くからの貴族の家柄にあった中臣宅守(なかとみの やかもり)は
宮中の下級女官・狭野茅上娘子(さのの ちがみの おとめ)を娶ったため
越前へ流罪となった。
刑の内容は「法華経を写し、七重の塔を造る」だった。

狭野娘子(さのの おとめ)が、
宅守(やかもり)の出発にあたって詠んだ和歌

奈良の平安京から越前までの遠い道のりを、たぐり寄せてたたんで
燃やしてしまうことができる天の火が欲しい!
(道が無くなれば、越前には行けないだろう)

これに答えて、宅守(やかもり)も和歌を返した。
2首から14首のまとまりで、計9回。
それらが『万葉集』に出ている。

宅守(やかもり)の罪は、宮中の女官を妻にしたこと。

宮中の女官は、たとえ下級であっても、天皇が妻にすることがあり得るので
「不敬罪」になった。

当時の刑法である「律(りょう)」は、唐のものを輸入し
そのまま使っていたので、実態に合わず、運用は恣意的だった。

天皇は、寛大な政(まつりごと)をするために
大赦を発したが、例外も多く
流罪になっていた宅守(やかもり)は、許されなかった。

宅守(やかもり)の流罪がいつ解けたかは不明だが
のちに都に戻った記録はある。
茅上娘子(ちがみのおとめ)については、記録がない。

*****
当時、天然痘が大流行していた。
政権の中枢にあった藤原不比等をはじめ
4人の息子も全員、天然痘で若死にしていた。

民衆も3人に1人は天然痘で亡くなったといわれる。

*****
天然痘の流行について
663年、日本が白村江で敗れた後も
新羅に対しては高圧的な態度を取り、朝貢を要求していた。
対等を主張する新羅と折り合わず、要求を受け入れさせるため
736年、「遣新羅使」を派遣するが、門前払いされた。

そのころ、新羅では天然痘が流行っていた。
使節団は病にかかり、暴風雨にも遭うなどで
多くの犠牲を払いながら1年半の歳月をかけて
737年、無駄足で都にたどり着いた。

使節団の帰国直後、都をはじめ、一般民衆にいたるまで天然痘が大流行した。
病を収めるには神仏に頼るしかない。
聖武天皇が、741年に「諸国国分寺建立事業」を始めた経緯。

*****
中臣宅守(なかとみの やかもり)
中臣一族は、古くからの貴族。
大化の改新で功のあった中臣鎌足は、死の前日、天皇から「藤原姓」を賜った。
中臣一族で藤原姓を名乗れたのは、不比等の一族だけ。
他の一族は、政治の要職には就けず、中臣姓のままで、神祇官として祭祀のみを担当していた。

ー----
以上、古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」(40)
を聞いての覚え書き。
2023年3月11日まで「聞き逃しサービス」があります。

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歌詞を見なくても歌えた

2023年01月14日 | 古典聞きかじり
幼くて、まだ字は読めなかった頃の孫が
TVアニメで、終わりに流れるアニメソングを
流暢に歌っているのを見て、びっくりした!

TV画面の下に、歌詞の字幕は出ているが
テンポが速くて、すぐ消えてしまう。
でも、孫に字は関係ない。
TVの音声に合わせて、楽し~く歌うのだ。


ラジオで『万葉集』の歌謡の話を聞いて
昔の孫の姿を思い出した。
『万葉集』に残っている歌(五七調で長々続くのを「長歌」
その終わりの、五七五七七の短いのを「反歌」という)は
天皇がイベントなどで多くの人を集めた時
人々の心を一にするために
大勢が声をそろえて歌ったものだそうだ。

当時、文字はなかったが、
遣唐使で唐の文化を学んが人々が持ち帰った漢字を、使える人がいた。
そういう人が、漢字を当てて書き残していた歌などを
大伴家持らが、編纂して(集めて、整理して、台詞をつけたりして)
『万葉集』ができたとのこと。

キラキラネームは「万葉仮名みたい」と言われる。
その根拠となっている『万葉集』の文字列。
意味を酌量して読むものも、意味は気にせず音だけ借りているものもあり
それらがまぜこぜになって
句読点・改行なしで、筆で書いた続け字で
ぎっちりと連ねてあったらしい。
難解だと思うが、ほかには方法がなかった。
当時の人は、読めたのだろう。

平安時代になって、かな文字ができると
難解な万葉仮名は見向きもされなくなり
50年ほど前の人が書いたものでも、読まれなくなっていた。

なお、「仮名(かな)」は、正式でない仮の文字という意味。
正式な文字は漢字で「真名(まな)」。
「名」は「文字」のこと。


『万葉集』が見直されたのは平安中期。
天皇の命で、宮中の和歌所「梨壺」において
5人の歌人が『万葉集』の写し書き・整理などを行った。

今私たちが、写真で見ることができる
改行や返り点などがついた筆書きの文字の『万葉集』は
そこがスタートとのこと。
(大伴家持が編纂した『万葉集』の元本は、現存しない)


「昔の人は、どうしてそんなことができたんだろう」と思うことがよくある。
器用で記憶力バッチリで、脚力もあって、力持ち。

現代の人々は、便利なものが身近にあって使えたので
そんな能力を保持しておく必要がなくなったからだと思う。

子どもを見ていると
「文明の長~い発達過程を、一気に駆け抜けているのかなあ?」
と思わされて、うれしくなったりもする。
身につけなきゃならないものはいっぱいあるので
必要ないものは振り落としていくのが『成長』なんですね。

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貧者の問い、窮者の答え

2022年12月31日 | 古典聞きかじり
なかなか書けなかった『貧窮問答歌』について
年の瀬ギリギリに記しておきます

山上憶良は、出身は貴族ではないが、40歳で遣唐使に抜擢され、5年ほどして帰国した。
帰国したら、都は、明日香から平城に遷っていた。

憶良は「従五位下」という一番下の位を得て貴族になり、
伯耆守(ほうきのかみ)を経て、太宰守(だざいのかみ)になった。

そこで、大宰帥 (だざいのそち)として赴任してきた上級貴族の大伴旅人 (たびと) と
地位を超えた友人となり、和歌を深めることになる。
旅人は64歳、憶良は69歳。
令和の出典で脚光を浴びた『梅花の歌』など一連の大宰府の文学集団で、旅人のブレインだったのは憶良であった。

任を終えた旅人は京に帰り、間もなく亡くなる。
憶良も京に帰り、引退したようだ。
引退後の作品が、『貧窮問答歌』。
「貧者と窮者の問答」とも、「貧窮に関する問答」とも考えられる。
(有名な歌なので、ネットで参照できます。
ここではラジオで聞いたメモを紹介します)


先ずは「貧者からの問い」

雨は夜更け過ぎに雪に変わる。
そんな夜はどうしようもなく寒いので、塩を肴に、カス酒を飲む。
「我を置いてほかに人物はいない」と誇ってみるけれど、
自意識だけでは寒さに勝てない。
布団をかぶって袖なしの服を重ねても寒い夜。
(ふと、他人のことを考えてみる)
我より貧しい人は、どうしているだろう。
父母は飢えて凍えているだろう。
妻子どもは食べ物を欲しがって泣いているだろう。
こういう時、あなたはどうやって、人生を渡っているのか。

(貧相な容貌に貧しい衣食。プライドだけは高い。
 憶良の自画像と思われる)


『窮者』が登場して答える

天地は広いというが、私には狭い。
陽や月は明るいというが、私のためには照らしもしない。
他の人も皆そうなのか、私だけなのか。

偶然に人として生まれ、人と同じに体をしているのに
綿もなくボロが1枚。
竪穴(たてあな)の家は、つぶれかかり曲がって傾いている。
直土に藁を敷いて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、私を囲んでうめくだけ。

かまどに火の気はなく、甑(こしき)には蜘蛛の巣がはって、飯を炊くことも忘れた。
ヌエドリ(トラツグミ)のようにヒーヒー言っている。

こんな暮らしなのに、「短いもののはしを切る」例えどおり
鞭をもった里長が、「労役に出てこい」と寝床にまで呼び立てに来る。

これほど、世の中は、どうしようもないものなのか。


反歌
世の中を憂しとやさしと思へども
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば


この世間を、つらいもの、恥ずかしいものと思うけれど、
そこから飛んで離れることはできない、鳥ではないので。

 (注) やさし:貧しくて恥ずかしい
     「鳥」は自由の象徴


この歌は、引退後の憶良が、現職の官人に奉ったもの。
筑前の守として巡行中に知った民衆の暮らしを、
政(まつりごと)に知らせる意図があったと思われる。

<ここから私見>

「貧者」は、袖なしではあるが、重ね着ができるほど服がある

「窮者」は海藻の海松(みる)のようなボロが1枚だけ。
 海藻のミルは、コンブやワカメより細く、モップのような形。

「着るもの」はどんなものだったろう。
 糸や針はなかったと思う。
 毛皮を着るとしても、なめしたり整えたりは??

電気毛布と羽毛布団に入り、断捨離を浮かべつつ、『貧窮問答歌』を聞く哀しさ。
ことさらに寒い夜でした。

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現在の遷都事情

2022年12月01日 | 古典聞きかじり
「古代国家の遷都」について、ネットで確認していたら、国交省のHPに行き当たった。

「古代における遷都と都の形成過程」
    村井 康彦 京都市美術館 館長

とても分かりやすいので、ご覧下さい
(先日の、私のブログよりはるかに親切丁寧…あたりまえだけど)

21世紀の新しい体制に変えていくための起爆剤、契機にするのだという大きな意図があるならば、「首都」の移転ではなく、「首都機能」の移転では意味がない。
首都機能が移っても東京は全く変わらない、心配はいりません、というのでは、何のために首都機能を移すのかわからない。


そういえば、「首都機能の移転」という言葉は、聞かなくなった。

国交省のページ内で調べたら、

遷都の提言がされたのは、昭和30年代(1960年頃)。

これを受け、政府や国会で検討を始めたのが、昭和50年(1975年)2月(48年前!)

その後30年近く審議し、平成16年(2004年)12月、次の報告。
分散移転や防災、危機管理機能などの考え方を深めるための調査、検討を行う

調査検討はエンドレス。移転はしないってことですな。

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『万葉集』の時代

2022年11月30日 | 古典聞きかじり
『万葉集』は630年頃から759年までの歌を納めている。
630年は舒明天皇の時代で、都は飛鳥。
759年は奈良時代中期で、都は平城京。
その間約130年。

この130年は大変な時代だった。
唐と新羅の連合軍を相手に戦争をした「白村江の戦い」があり(663年)、
大海の皇子が天皇に取って代わった「壬申の乱」もあった(672年)
クーデター(暴力的手段での政権交代)は何回も起こっていた。
そして、「日本」という国号ができたのもこの時代。

以上は、古典講読「歌と歴史で読む『万葉集』」の、初めの頃の解説。
そのなかで気になった「古代の遷都」を調べた。



私ではまとまらなかったけど、手元にあった『埋もれていた奈良の都』の解説は分かりやすかった。

そこからの抜き書きに、手元のメモを加え、長くはなるが、書きとめます。
<以下のページ>

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古代日本の宮殿と都

2022年11月29日 | 古典聞きかじり
たびたびあった遷都

古代では、天皇の居所は一代ごとに、あるいは一代に数度も移り変わるのが常だった。

斉明天皇の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)は、655年建設。その年末に焼失。
663年からの白村江の戦いで、指揮のため筑紫の朝倉宮に滞在していた斉明天皇は、その地で崩御。
白村江の戦いは大敗。実質的に支配していた中大兄皇子は、
667年、飛鳥から近江大津京に遷都。即位して天智天皇に。
5年半のち、天智天皇は崩御。

天智亡きあと、壬申の乱で権力を掌握した天武天皇は、大和へ戻り、
飛鳥浄御原(あすかきよみはらのみや)を建設。(672年から。20年間)

その天武の妻・持統天皇は694年、藤原京を建設。16年間。

奈良の都:平城京

藤原不比等を中心にした権力は、古い飛鳥の権力から離脱するため、和銅元年(708年)、平城京の建設を宣言。
710年、遷都を敢行。

その後、聖武天皇は平城京を離れ、遷都を繰り返したが、5年後に平城京へ戻ったので、
平城京は、7代70年にわたって、都であり続けた。

新しい政治を目指して平安京へ

奈良時代の終りに即位した桓武天皇は、新しい政治を開始しようと、784年に長岡京へ、そして
794年には平安京へと移動した。

京(みやこ)がなくなった奈良は、東大寺や興福寺の門前町となっていく。

平城京の跡は、親王たちに与えられた。

政治的な要請から建設された都市は、その基盤が失われると消滅する。
京内の道路も、水田になっていった。

「埋もれていた奈良の都」
千年の時を経て保存運動が起こる


埋もれていた「平城京」に目を向けた人が現れたのは、幕末。
某奉行所の役人は、自製の測量車を使って旧都跡を測量し、地図を作製した。

その半世紀後、
奈良県の技師が調査研究し、成果を広めた。

それを知って、平城京の顕彰保存に一生をかけた植木職人がいた。

その後、民間有志により、保存運動が進められ、
戦後の1952年、文化財保護法による特別史跡指定された。
(続きは、いつか…)

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竹は藤にやられる

2022年11月27日 | 古典聞きかじり
またまたご無沙汰でした。
NHKラジオの古典講読、「歌と歴史でたどる『万葉集』」での講師の話が頭から離れず、悩み多き昨今だったので、つい…。

そんな折、
「親戚の竹林で、藤が勢いを増し、藤のツルに絡まれた竹が、まとまって林の外へ倒されそう。
そのツル退治に20日通っているが、まだまだやっつけられない」と困っている話を聞いた。

「まあ、それはお疲れ様です」と言えばいいのに…。
うっかり、「そこは、藤が乗っ取るんですよ…」と言ってしまった。

そう、729年の「長屋王の変」のこと。

長屋王の父は、たけちのみこ(高市皇子)。
長屋王を排斥しようと、館を包囲し、妻子まで自害させ、一族を滅亡させたのは原氏。

天皇の外戚として、権力を固めていくスタートが、これ。

ところで、長屋王の側近だった大伴旅人は、その前年728年の春、大宰帥(だざいのそち)として赴任させられており、都(平城京)から遠く離れた大宰府で、長屋王の滅亡を知った。

その頃の宴での歌。
328)あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり
 作者は、大宰府の様子を報告する役目を終え、奈良の京から戻ってきた小野老(おののおゆ)

330)藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君
作者は、大宰府の防人を司る大伴四綱(おほとものよつな)
「奈良の都を思ほすや君」と呼びかけられた「君」は大伴旅人であろう。

331)我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ
作者は大伴旅人。それでも都に帰りたい。帰るところは都しかない。

この宴は、すっかり暗い雰囲気。
暗いままでは終わりに出来ないと思われ、置かれた歌。

337)憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ



<付記>
近年になって「長屋王」の名が広く知られたのは、遺跡の発掘による。

1988年1月、平城宮跡の南東隅が長屋王の邸宅跡だと分かった。
出土した多数の木簡を調べた結果を、奈良国立文化財研究所が発表した。
「そごう」のデパート建設にあたり、1986年から発掘調査が行われていた。

・1989年「奈良最大の都市型本格百貨店」として開業した「奈良そごう」は、10年余りで閉店、

・跡を継いだ「イトーヨーカ堂」も業績不振により、閉店

・現在は、観光型ショッピング施設「ミ・ナーラ」になっている。

<最後までお読みいただきありがとうございました>

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昔も、長生きした人はいた

2022年11月13日 | 古典聞きかじり
古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」を聞いて、そう思った。

近くの荒れ地や河原、それから農家の庭先にもセンダンの大木があったりする。
木が薄紫の花で覆われると思うのが、山上憶良が大伴旅人に贈ったこの歌。

妹が見し 楝(あふち)の花は散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに

大宰帥(だざいのそち)に任命され、筑紫に下った旅人は、着任早々に妻を亡くした。
そのつらい気持ちを慰めようと、憶良は、漢文、漢詩、長歌、反歌にまとめ、旅人に捧げた。
その反歌の一つにあるのが、あふち(センダン)の花。

ラジオで聞いた解説を書くと長くなるので、その内容から外れた部分を、少し。

この時、大伴旅人(『万葉集』を編纂したとされる大伴家持の父)は、64歳。
当時としては、高齢での赴任。

対し、筑前守(ちくぜんのかみ)あった山上憶良は、69歳。
41歳で遣唐使の書記官に任命され、唐に渡ったのが出世の糸口となり、
帰国後、中級官人の一番下の位を受け、筑前守に就いていた。

筑紫で旅人との交流を契機に、遣唐使の経験で得た漢籍の知識に基づく膨大な作品を残した。
「子等を思ふ歌」や「貧窮問答歌」などはよく知られる。
亡くなったのは、74歳とされる。

長生きと言えば、藤原定家も。
定家は80歳で亡くなったが、天文学でも引用される日記『明月記』は、56年間の記録。
その定家の話は、また今度。

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