kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

昔も今も、政治的課題

2022年07月04日 | 古典聞きかじり
また、万葉集の話。

NHKラジオの「古典講読」6月25日と7月2日は、柿本人麻呂の和歌でした。
講師の説明です。

政治的課題などとと言うと、芸術性や感動は無縁と思われがちだが、
それは、近代以来の、西洋由来の文学概念で考えるからそうなる。

和歌は、宮廷で生まれ、宮廷を中心に維持されてきたので、
政治と拘わりがないはずがない。

人々の前で歌われ、共感を引き出して集団を一体化させるためのツールであるから、
人々を感動させなければならないし、
高い芸術性を持っていなければならない。

そのような和歌を作る役割を担っていたのが、柿本人麻呂だった。


「令和」を発表したときの政府の説明、記憶にありますか?
ウソの説明でも真に受けて、感動して喜んでたなあ…。

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万葉集の歌:吉野よく見よ

2022年06月23日 | 古典聞きかじり
天智天皇は、乙巳の変(いっしのへん)で、蘇我氏を倒して権力をとった天皇、
天武天皇は、壬申の乱で、天智の子(大友皇子)に勝利して即位した天皇です。

天武天皇は、このような皇位継承争いが千年の後まで起こらないよう、
皇子たちに誓わせるため、皇后と、6人の皇子を伴い
765年5月5日、吉野に行幸しました。

その時、天武天皇が詠んだ歌。

よき人の  よしとよく見て  よしと言ひし
吉野よく見よ  よき人よく見

(ワタクシ流口語訳)
よき人(立派な人)が よい所だとよく見て よし(の)と言った
この吉野をよく見なさい、よき人よ〈皇子たちのこと)よく見なさい


「よし」を強調した歌。
『万葉集』が編纂(へんさん)されたのは、仮名がない時代なので、
次にように、六種類の「よし」が記されています。

人乃 見而 常言師 見与 四来

6人の皇子は
草壁(くさかべ)皇子 天武3子、母は天智次女、皇后(持統天皇)
大津(おおつ)皇子  天武2子、母は天智長女、皇子4歳の時、母死去
高市(たけち)皇子  天武長子、母は豪族の娘
河島(かわしま)皇子 母は女官
忍壁(おさかべ)皇子 天智天皇の子
志貴(しき)皇子   天智天皇の子

『日本書紀』のこの件、
「久遠の平和を誓い合った愛情あふれる情景」で「深く感銘を受けた」と
、亀井勝一郎は『大和古寺風物詩』に書いています(昭和17年秋)。

その著書での、『日本書紀』の読みくだし文。



天武天皇が亡くなったのは、この吉野行幸から11年後の686年でした。

しかし、天皇の死の直後(20日ほど)、皇后は、
「大津の皇子が謀反を企てた」として自殺させます。

さらに、都を奈良に移したあとの729年には、
皇位継承の有力候補、長屋王も無実の罪によって滅ぼされます。

長屋王は、父が天武天皇の長子である高市皇子、
母は、天智天皇の娘であり、元明天皇の姉、
妻は、文武・元正天皇の姉妹でした。

これらの「天皇後継争い」については、歴史の本に出ています。

一方、
天武天皇が6人の皇子に、
「6人は違う腹から生まれてきたが、同じ腹から生まれた兄弟のように慈しむ」といって
、襟を開いて、一人一人を抱きしめた。
千年の後まで平和であるよう、血族の争いを憂い、和を願った。

などは、『万葉集』やの解説や、小説・漫画、観光ガイドで私たちが知るところです。
*
*
さて、次の「大友皇子と大伯皇女(おおくのひめみこ)」の放送は、
もっともっと厄介な講義だったので、
『万葉集』の聞きかじりを書くのは、いったん休止します。
(最後までお読みいただき ありがとうございました)

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万葉集の歌と、歴史

2022年06月18日 | 古典聞きかじり
NHKラジオの「古典講読」、この4月からのテーマは
歌と歴史でたどる『万葉集』

興味深く聴いています。
予約録音しているので、寝る前に何度でも聞けます。
(私の睡眠用特効薬)

テーマの「歌と歴史でたどる」部分
私は「歌」よりも「歴史」が気になります。

講師は、その歌がよまれた時代や人間(姻戚)関係の説明に
大部分の時間を使っています。
(それが理解できれば、歌は日本語ですから)

万葉集の時代(6~7世紀頃)の世の中と天皇等の動きは、
「これが『日本書紀』の記述です、と言う風に説明しています。

『日本書紀』は、天武天皇の命でまとめられた「わが国最初の歴史書」。
編者は、天武天皇の皇子のひとり、舎人親王(とねりしんのう)などで
天皇の死(686年)の後、720年に完成。

「変」や「謀反」、「百済出兵」など
激動の社会を生き抜いた天智天皇は、671年12月没。46歳。

翌672年7月に「壬申の乱」を勝ち抜いた大海人皇子(天武天皇)は
安定した基盤つくりを始めた。
天武天皇の死後は、皇后の持統天皇に受け継がれ
この時代は、「天武・持統朝」と呼ばれる。


私が学んだ半世紀以上前は、
戦前の「皇室史観」への反省から
「勝者の書いた歴史書の丸呑みはよくない」とされていたが
文武・持統朝以降では、『日本書紀』記述の信憑性も認められているようだ。

奈良の各地での発掘や研究が進み、
奈良市で、長屋王邸宅跡が見つかったのは、1988年。
わが国最古の銅銭「富本銭」の鋳造跡は、1998年。

私の手元には、『日本書紀』からの項目を
敬語びっしりで説明した本もあり
記述内容の矛盾を説明した本もあり。
あちこち読んだり、60年前を思い出したりもして、混乱中。

マスコミ報道で注目を浴びたニュースでも
その時々で、途切れているもんですね。
歴史の流れとして「和歌」で説明されると
何とも、まとまらないまま、
1週間も10日も過ぎています。

しばらくご無沙汰の経緯説明でした。

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古代王族の婚姻(2)

2022年06月05日 | 古典聞きかじり
『万葉集』のような、古代での人間関係を見ていると
今の感覚では、どうにも受け止められないことに、王族の婚姻があります。

今度は、兄と妹の結婚について。


上の系図のように、敏達天皇と推古天皇は、父親が同じ欽明天皇です。
推古の母(堅塩媛)と、小姉君は姉妹で、姉妹型一夫多妻。
兄弟に馬子がいます。

小姉君の子が崇峻天皇で、592年に馬子に暗殺されたんですね。

推古の妹?小姉君の子(姪)と、推古の兄?(用明天皇)の子が、聖徳太子。
聞き覚えのある名前だけど、ややこしいし、納得もしにくいですね。

一方で、庶民がどうだったかは分からないです。
万葉集で、山上憶良の
「憶良らは いまはまからむ 小泣くらむ そのかの母も 吾を待つらむぞ」
の歌からは、父・母・子の家族を想像してましたが、実際はどうだったんでしょうか。
今後の放送が気になる所でもあります。

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古代王族の婚姻(1)

2022年06月04日 | 古典聞きかじり
NHKラジオの古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」を興味深く聞いています。

テーマに「歴史でたどる」とあるように、放送では「歴史」面が多い。
「権力闘争の歴史」で重要なのが婚姻であり、
人間関係、氏族同士の関係を作るものなので、
愛とか何とかじゃなくて、政治そのものなんですね~。

「日本古代では母系の持つ力が相対的に大きいので、
女性をどうやり取りするかが非常に重要だった」


あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る

よく知られているこの歌、
天智天皇の妻:額田王が、かつての夫:大海人皇子に贈った恋歌として、
ロマンチックに想像されていますが…。

天智天皇には多数の妻がいて、額田王はそのうちの一人。当時40代。
大海人皇子との間に生まれた十市皇女が、彼らの孫を産む年頃。
歌がうまく、宴会でのスターでした。
彼女の和歌を、会場で唱和し、団結を固めていたそうです。
(平仮名がなく、漢字で記された和歌は、難解で読み間違いもある、
それを後にまとめて『万葉集』ができた)

天智天皇は、中大兄皇子の時、大化の改新の実行者でした。
大兄(おおえ)は、皇子の年長者のこと。
その次の皇子なので、中の大兄です。



天智天皇と大海人皇子は同母兄弟。

天智天皇は、娘4人を、弟:大海人皇子の妻にしました。
うちの一人が持統天皇になり
別の娘を
持統の子:草壁の皇子と結婚させ、元明天皇になりました。

姉妹型一夫多妻婚。

天智天・天武の妻が何人か、年表の資料で調べたけど分からない。
やりとりしているからでしょう。

大海人皇子、皇后は持統。
(妻は10人位、うちの一人が額田王)

天武天皇になった大海人皇子と、持統天皇の子孫が、
のち何代かの天皇を継承していきます。


今の時代感覚では、すんなり入り込めないことばかり。

話変わって、大河ドラマは、
鎌倉時代の権力闘争を現代感覚にアレンジししていますね。
こちらはこちらで、付いて行けないことが多いです。

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ことわざに登場する人物の No1は?

2017年11月01日 | 古典聞きかじり

クイズです♪
歴史上の人物で、ことわざに登場する人物ナンバーワンは誰でしょう?

NHKラジオ第2の「御伽草子へのいざない」。
先日(10月22日・29日)の内容から紹介します。

ことわざに出てくる人名では、ある人物が突出しています。
というか、他の人物ではことわざになりずらいから、また、この人物だけはとてもユニークだからです。
殆どは江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃によって広まりましたが、元々は「御伽草子(おとぎぞうし)」にとりあげられています。

その人の生い立ち。
時は12世紀末、平安時代終わりころのこと。
熊野の別当(寺社で働いていた人)の何某は、50歳になっても子がいなかったので、「若一王子(にゃくいちおうじ)」に申し子を祈願します。
めでたく懐妊したが、なかなか生まれない。3年たって生まれた時には、髪は長く、歯は生えそろい、手足の筋肉はついて歩きました。
そして「何とまあ、明るい世界であることよ」と叫んだ。

親は鬼の子と思って山に捨てます。
熊野詣に来た五条の大納言がこの子を見つけ、拾って帰り、「若一」と名づけて神の子として育てます。

若一は7歳になって比叡山に預けられたが、荒々しく乱暴で追い出されます。
自分で髪をそり、○○(クイズの答)と名乗る僧兵になります。

刀鍛冶師や鎧兜師の所に行き、作ったばかりの武具を奪い取ります。
お金持ちから金品を奪い取る「いさかい修行」に出かけます。
仕えるべき主(あるじ)を探すためですが、狼藉が過ぎる暴れっぷりが繰り出されます。
そんな折、洛中で、鞍馬山から出てきた御曹司・牛若と出会います…。


というわけで、ユニーク人物ナンバーワンは、武蔵坊弁慶でした。
科学的には説明できない事柄であったり、室町と平安がごちゃ混ぜな年代的虚偽もあります。
それは、色々な人によって「武蔵坊弁慶」が語り継がれるうちに、「英雄だが失敗もする」「強面だが涙もろい」「猛々しいが滑稽でもある」といった弁慶像が出来上がったため、だとか。

以下に、弁慶に関することわざ等を書き連ねます。よく知られているものは、説明省略。

「内弁慶」

「弁慶の七つ道具」  「選挙の七つ道具」と、お役所でも使うみたい…。

「弁慶に薙刀」  「鬼に金棒」と同じ

「ぎなた読み」は、「弁慶にな、ぎなた」のように、読点(区切り)を間違えると意味が分からないことを言います。

「仕事成合飯弁慶」 仕事はいい加減なのに、飯はたらふく食う

「弁慶の泣き所」

「弁慶の立ち往生」

上の写真は、多肉植物「ベンケイソウ」の仲間のセダム色々。
なかなか枯れない強い草なので、弁慶にちなんでこの名が付いてるそうです。

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イロイロ書いたシェークスピア

2016年04月22日 | 古典聞きかじり
年代の語呂合わせで覚えた「シェークスピア没、1616年」
今年2016年は没後400年です。

生は、1564年4月23日、
没は、1616年4月23日。生まれたのと同じ日。
52歳。沙翁(さおう・しゃおう)とも言われます。

イロイロ書いたものを読んだことがなくても、何となくわかった気になってしまうのは、
To be or not to be, that is the question.
のように超有名な台詞があるし、エッセイ・パロディ等々、雑多な読み物があふれているからでしょう。

ところで、1616年は徳川家康の没年でもあります。こちらは75歳。
俗説では、徳川家康はタイの天ぷらがあたって死に、
沙翁は腐ったニシンを食べて死んだ、となっています。

どちらも真相は不明とのこと.いずれにせよ,シェイクスピアは死の3年前に故郷のストラトフォードに隠居し,詳細な遺言状を遺すなど,幸福かつ周到な晩年を過ごしたと言われています.
「2016年はどんな年? シェイクスピア没後400年」
岩波書店のホームページです。
ここに紹介されている中で読んだのは、次の1冊だけです。

〔岩波ジュニア新書〕シェイクスピア物語 小田島雄志

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定家も芭蕉も病持ちだった

2015年01月19日 | 古典聞きかじり
芭蕉は

NHKラジオ古典講読「奥の細道~名句でたどるみちのくの旅」を聞いているので思いが及ぶのですが…。

『奥の細道』は、芭蕉が、弟子の曾良を伴い、新暦の1689年5月に江戸深川を出発、東北・北陸を旅して8月下旬に大垣に着くまで、600里(2400km)の紀行文です。

時に芭蕉45歳、曽良は5歳下。

この旅の目的は、素晴らしい景色を眺めること、旅先での人との出会いでした。


江戸での暮らしを経験した武士や商人が各地におり、江戸での俳諧の流行が地方にも広がっていたので、その仲間との再会がありました。
歓迎もされ、俳諧の席に招かれることで、新たな門人の獲得もありました。
(芭蕉の真筆による色紙や短冊が各地に残っています)

しかし150日の旅が順調だったわけではなかったんですね。
芭蕉には痔と胃病の持病があったとか。

厳しい残暑が続き、「翁、気色すぐれず」と体調が芳しくなかったり、
(曽良は芭蕉を「翁」と記します、自分のことは「予」)
「早川にて翁つまづかれて衣類濡れ、川原に暫く干す」とか
「病おこりて事をしるさず」として記載がないときもありました。

曽良自身も暑さに参った時期もありました。
「俳諧の席に翁だけが出かけ、予は行かずに養生している、医者から3日間、薬をもらった」とか。
金沢でのこと。

以上、ラジオでの「第41回の解説」の一部です。

定家も芭蕉も、身体頑健には程遠い人だったんですね
何の関係もない私ですが、何だか安心できる発見(気づき)でした。


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