kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

古墳と「万葉集」の伝説歌

2022年10月17日 | 古典聞きかじり
   NHKラジオ『古典講読』、「歌と歴史でたどる『万葉集』28」より
万葉集には、地方の伝説を詠んだ長歌がある。その一つが、
高橋虫麻呂の長歌、菟原処女(うないおとめ)伝説。

摂津国菟原(うない:現在の芦屋から神戸市東灘区辺り)にいた菟原処女(うないおとめ)は、たいそう美人だった。
たくさんの男が集まってきたが、中でも、菟原壮子(うないおとこ)と血沼壮子(ちぬおとこ)は、競り合って求婚した。

菟原処女は、「自分のために2人が戦っていることを嘆く」と母親に告げ、あの世へ去っていった。
夢でそのことを知った血沼壮子は後を追い、
それに遅れた菟原壮子も負けじと後を追った。

3人が死んでしまったことに親族は悲しんで、処女墓(おとめはか)を真ん中に、
その東と西に壮子墓(おとこはか)を造った。

今の私たちには理解できないこと2つ。
「あの世へ行く」と告げる娘を、母親が送り出したこと。
「夢は異界との間をつなぐもの」らしく、あの世で娘に会えること。
伝説なので、そーですか、じゃないと、話は続かない。

ところで、この墓は現存する。
大阪と神戸の間の海岸近く、阪神電車沿線に、2キロ弱の間隔で3基ある古墳で、

真ん中にあるのが、「処女塚(おとめづか)古墳」、3世紀後半の築造、
全長70mの前方後円墳。

その東にあるのが、「東求女塚(ひがしもとめづか)古墳」、4世紀後半か。
全長80mくらいの前方後円墳だったが、今は形を成してない。

西にあるのが「西求女塚(にしもとめづか)古墳」、3世紀後半の築造。
墳丘98㎡の方墳であったが、今は前方後円墳に整備された。

これらは地元の豪族がよく目立つように作ったが、200~300年も経てば、分からなくなったことだろう。
そして、3基の古墳の由来を語るものとして、「死んで愛を成就する物語」が、創作された。
「語り継ぎ、言い継ぎゆかん」の奈良時代の精神により、長歌に残したのだろう。

ここからは、私見。
古墳は、豪族が自分の権勢を誇示するため造った。
巨大な石で石室を作り、土を盛り、石で固め、埴輪で飾った。
しかし時が経つと、誰の墓かは分からなくなる。
(文字はなかった)
石は別の用途にされ、埴輪は砕け。積み上げた土は流れてしまった。
飛鳥の石舞台古墳がその姿になっている。

ウチの近くにも、古墳がある。
草木に覆われて、中に入る気はしないけど。


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人に知られで くるよしもがな

2022年10月12日 | 古典聞きかじり
「百人一首」25番、三条右大臣 (さんじょうのうだいじん)
名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな

現代語訳
そういう名を持っている逢坂山のさねかずらよ、人に知られず愛しい人の所に来る方法を知りたいものだ。



玄関の日除けにサネカズラを植えている。
近くの山から種をとってきたもの。
外壁の塗り替えなどで撤去したあと、植え直して、今はささやかに育っている。
まだ小さいのに、地面を這っているツルは4メートルくらいも伸びて、
ポストに侵入しようとしていた。

逢坂山、さねかずら、くる、には2重の意味が含まれている。
そのことを説明すると、たいてい嫌われるので、省略。
(メンドくさい、長い話はうんざり…)
ただ、サネカズラを見て、よく分かったのが「くる」。
「繰る」と「来る」のかけ言葉。

ウチの玄関のように狭ければ、一目であちらからこちらへと分かるけど、
山の中だと、手繰り寄せてようやく、どこまで伸びているか分かるんだと思う。

他人(ひと)に知られないで、来る方法があればなあ、と
サネカズラに問いかける貴族男の気持ち、な~るほど。

ポストに忍び込もうとしているウチのサネカズラ、
三条右大臣が見たサネカズラより上手(うわて)だわ(-"-)

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あかときつゆに我れ立ちぬれし

2022年10月03日 | 古典聞きかじり
わがせこを大和へやると さよふけて あかときつゆに われ立ちぬれし

現代語訳
愛するひとを、自分の手の届かない大和へ発つのを見送っていると、夜も更けて、明け方の露に濡れてしまった

大伯皇女の、この歌を知ったのは高校の授業でだったが、深く印象に残った。
解説は、
謀反の疑いをかけられた大津皇子は、大和から、伊勢の斎宮(さいぐう)である姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)に、別れの挨拶に来た。
それを見送る大伯皇女は、弟の運命を嘆きつつ立ちすくんでいた。夜も更け、朝露に濡れていた。


でも、分からなかったのは、死刑が宣告された大津の皇子が、大和から伊勢まで一人で姉に会いに来た、という状況。
まあ、おかまいなく、この歌がずっと好きだった。

しかし、NHKラジオの『古典講読』を聞いたら、解釈は違った。

大津の皇子は、686年9月9日、天武天皇が崩御すると、皇太子・草壁皇子に取って代わろうとして、行動に移した。

天皇の祖先である天照大神を祀っている伊勢神宮。
天皇及び皇位を継承するものだけが奉幣できる伊勢神宮は、勝手に御幣を捧げて祈願することが禁じられる「私幣禁断」がある。
それ以外のものが奉幣するのは、皇位を狙う仕業として厳禁される。

伊勢神宮で、天照大神に仕える初代斎宮は、姉である大伯皇女。
大津は自分こそが正当な皇位継承者であると自認して、まず神宮に奉幣しに来た。
そして、神宮から15キロ離れた斎宮にいる姉に会ったのだ。
(大伯皇女が、手引をした)

大和(飛鳥浄御原宮:あすかのきよみはらのみや)に戻った大津の皇子は、誅(しのびごと)が発覚し、10月2日に捕らえられ、翌日3日、自害させられた。享年24歳。

11月、大伯皇女は斎宮の任を解かれ、大和へ戻った。

なるほどね~。
高校で習ったのは、60年前の解釈。
もやもやした解釈より、ストンと腑に落ちる見解でした。

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柿本人麻呂、文字で残した長歌

2022年07月23日 | 古典聞きかじり
NHKラジオの古典講読:歌と歴史でたどる『万葉集』を聞いている。

「そうだったのか!」と思うことが度々で、楽しい。

前回は、
「柿本人麻呂の高市皇子挽歌(たかちのみこばんか)」だった。

講師は、「非常に長いので、テキストを見ながら聞いて下さい」
と言った。
5・7調で長々述べたのを「長歌」と言うが、確かに長い。

それは、人麻呂が「文字で歌を書く歌人だったから」、との解説。

「万葉集」の時代は、かな文字がなかった。
口頭で伝えられた歌を、字の書ける人が、漢字にあてて書き残していた。
当然、長い歌はなかった。

人麻呂は枕詞を多用する。
例えば、「鳥が鳴く」は「あづま」の枕詞。
「あづま」の人は「鳥が鳴く」ように、
分からない言葉を発するから。(失礼ね!)


『万葉集』の本、近くの本屋さんに適当なのがなく、
古い本(昭和8年発行)を使っている。
初版は大正14年(1925年)だから、100年近く前に出版された本。

数年前、本の整理をしていた人から、もらった。
奥様の叔母さんが使っていた本、とのことだった。

もらったものの、そのまま本棚にしまい込んでいた。
きれいな本で、ちゃんと読めるし、何より、正確。
90年ぶりに、やっと陽の目を見たのかな?


閑話休題:60年前の話。

人麻呂の『百人一首』の歌
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾のながながし夜を ひとりかも寝む

これを、高校で古文の先生は、次のように解説してくれた。

「長い夜をひとりで寝るのだろうか」と言うことを、
枕詞や形容詞で飾った歌だ。

そうかなあ…。このもやもや、近々晴れるかも。





   昭和8年8月25日 7版発行
   定価 1 円 80銭

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昔も今も、政治的課題

2022年07月04日 | 古典聞きかじり
また、万葉集の話。

NHKラジオの「古典講読」6月25日と7月2日は、柿本人麻呂の和歌でした。
講師の説明です。

政治的課題などとと言うと、芸術性や感動は無縁と思われがちだが、
それは、近代以来の、西洋由来の文学概念で考えるからそうなる。

和歌は、宮廷で生まれ、宮廷を中心に維持されてきたので、
政治と拘わりがないはずがない。

人々の前で歌われ、共感を引き出して集団を一体化させるためのツールであるから、
人々を感動させなければならないし、
高い芸術性を持っていなければならない。

そのような和歌を作る役割を担っていたのが、柿本人麻呂だった。


「令和」を発表したときの政府の説明、記憶にありますか?
ウソの説明でも真に受けて、感動して喜んでたなあ…。

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万葉集の歌:吉野よく見よ

2022年06月23日 | 古典聞きかじり
天智天皇は、乙巳の変(いっしのへん)で、蘇我氏を倒して権力をとった天皇、
天武天皇は、壬申の乱で、天智の子(大友皇子)に勝利して即位した天皇です。

天武天皇は、このような皇位継承争いが千年の後まで起こらないよう、
皇子たちに誓わせるため、皇后と、6人の皇子を伴い
765年5月5日、吉野に行幸しました。

その時、天武天皇が詠んだ歌。

よき人の  よしとよく見て  よしと言ひし
吉野よく見よ  よき人よく見

(ワタクシ流口語訳)
よき人(立派な人)が よい所だとよく見て よし(の)と言った
この吉野をよく見なさい、よき人よ〈皇子たちのこと)よく見なさい


「よし」を強調した歌。
『万葉集』が編纂(へんさん)されたのは、仮名がない時代なので、
次にように、六種類の「よし」が記されています。

人乃 見而 常言師 見与 四来

6人の皇子は
草壁(くさかべ)皇子 天武3子、母は天智次女、皇后(持統天皇)
大津(おおつ)皇子  天武2子、母は天智長女、皇子4歳の時、母死去
高市(たけち)皇子  天武長子、母は豪族の娘
河島(かわしま)皇子 母は女官
忍壁(おさかべ)皇子 天智天皇の子
志貴(しき)皇子   天智天皇の子

『日本書紀』のこの件、
「久遠の平和を誓い合った愛情あふれる情景」で「深く感銘を受けた」と
、亀井勝一郎は『大和古寺風物詩』に書いています(昭和17年秋)。

その著書での、『日本書紀』の読みくだし文。



天武天皇が亡くなったのは、この吉野行幸から11年後の686年でした。

しかし、天皇の死の直後(20日ほど)、皇后は、
「大津の皇子が謀反を企てた」として自殺させます。

さらに、都を奈良に移したあとの729年には、
皇位継承の有力候補、長屋王も無実の罪によって滅ぼされます。

長屋王は、父が天武天皇の長子である高市皇子、
母は、天智天皇の娘であり、元明天皇の姉、
妻は、文武・元正天皇の姉妹でした。

これらの「天皇後継争い」については、歴史の本に出ています。

一方、
天武天皇が6人の皇子に、
「6人は違う腹から生まれてきたが、同じ腹から生まれた兄弟のように慈しむ」といって
、襟を開いて、一人一人を抱きしめた。
千年の後まで平和であるよう、血族の争いを憂い、和を願った。

などは、『万葉集』やの解説や、小説・漫画、観光ガイドで私たちが知るところです。
*
*
さて、次の「大友皇子と大伯皇女(おおくのひめみこ)」の放送は、
もっともっと厄介な講義だったので、
『万葉集』の聞きかじりを書くのは、いったん休止します。
(最後までお読みいただき ありがとうございました)

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万葉集の歌と、歴史

2022年06月18日 | 古典聞きかじり
NHKラジオの「古典講読」、この4月からのテーマは
歌と歴史でたどる『万葉集』

興味深く聴いています。
予約録音しているので、寝る前に何度でも聞けます。
(私の睡眠用特効薬)

テーマの「歌と歴史でたどる」部分
私は「歌」よりも「歴史」が気になります。

講師は、その歌がよまれた時代や人間(姻戚)関係の説明に
大部分の時間を使っています。
(それが理解できれば、歌は日本語ですから)

万葉集の時代(6~7世紀頃)の世の中と天皇等の動きは、
「これが『日本書紀』の記述です、と言う風に説明しています。

『日本書紀』は、天武天皇の命でまとめられた「わが国最初の歴史書」。
編者は、天武天皇の皇子のひとり、舎人親王(とねりしんのう)などで
天皇の死(686年)の後、720年に完成。

「変」や「謀反」、「百済出兵」など
激動の社会を生き抜いた天智天皇は、671年12月没。46歳。

翌672年7月に「壬申の乱」を勝ち抜いた大海人皇子(天武天皇)は
安定した基盤つくりを始めた。
天武天皇の死後は、皇后の持統天皇に受け継がれ
この時代は、「天武・持統朝」と呼ばれる。


私が学んだ半世紀以上前は、
戦前の「皇室史観」への反省から
「勝者の書いた歴史書の丸呑みはよくない」とされていたが
文武・持統朝以降では、『日本書紀』記述の信憑性も認められているようだ。

奈良の各地での発掘や研究が進み、
奈良市で、長屋王邸宅跡が見つかったのは、1988年。
わが国最古の銅銭「富本銭」の鋳造跡は、1998年。

私の手元には、『日本書紀』からの項目を
敬語びっしりで説明した本もあり
記述内容の矛盾を説明した本もあり。
あちこち読んだり、60年前を思い出したりもして、混乱中。

マスコミ報道で注目を浴びたニュースでも
その時々で、途切れているもんですね。
歴史の流れとして「和歌」で説明されると
何とも、まとまらないまま、
1週間も10日も過ぎています。

しばらくご無沙汰の経緯説明でした。

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古代王族の婚姻(2)

2022年06月05日 | 古典聞きかじり
『万葉集』のような、古代での人間関係を見ていると
今の感覚では、どうにも受け止められないことに、王族の婚姻があります。

今度は、兄と妹の結婚について。


上の系図のように、敏達天皇と推古天皇は、父親が同じ欽明天皇です。
推古の母(堅塩媛)と、小姉君は姉妹で、姉妹型一夫多妻。
兄弟に馬子がいます。

小姉君の子が崇峻天皇で、592年に馬子に暗殺されたんですね。

推古の妹?小姉君の子(姪)と、推古の兄?(用明天皇)の子が、聖徳太子。
聞き覚えのある名前だけど、ややこしいし、納得もしにくいですね。

一方で、庶民がどうだったかは分からないです。
万葉集で、山上憶良の
「憶良らは いまはまからむ 小泣くらむ そのかの母も 吾を待つらむぞ」
の歌からは、父・母・子の家族を想像してましたが、実際はどうだったんでしょうか。
今後の放送が気になる所でもあります。

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古代王族の婚姻(1)

2022年06月04日 | 古典聞きかじり
NHKラジオの古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」を興味深く聞いています。

テーマに「歴史でたどる」とあるように、放送では「歴史」面が多い。
「権力闘争の歴史」で重要なのが婚姻であり、
人間関係、氏族同士の関係を作るものなので、
愛とか何とかじゃなくて、政治そのものなんですね~。

「日本古代では母系の持つ力が相対的に大きいので、
女性をどうやり取りするかが非常に重要だった」


あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る

よく知られているこの歌、
天智天皇の妻:額田王が、かつての夫:大海人皇子に贈った恋歌として、
ロマンチックに想像されていますが…。

天智天皇には多数の妻がいて、額田王はそのうちの一人。当時40代。
大海人皇子との間に生まれた十市皇女が、彼らの孫を産む年頃。
歌がうまく、宴会でのスターでした。
彼女の和歌を、会場で唱和し、団結を固めていたそうです。
(平仮名がなく、漢字で記された和歌は、難解で読み間違いもある、
それを後にまとめて『万葉集』ができた)

天智天皇は、中大兄皇子の時、大化の改新の実行者でした。
大兄(おおえ)は、皇子の年長者のこと。
その次の皇子なので、中の大兄です。



天智天皇と大海人皇子は同母兄弟。

天智天皇は、娘4人を、弟:大海人皇子の妻にしました。
うちの一人が持統天皇になり
別の娘を
持統の子:草壁の皇子と結婚させ、元明天皇になりました。

姉妹型一夫多妻婚。

天智天・天武の妻が何人か、年表の資料で調べたけど分からない。
やりとりしているからでしょう。

大海人皇子、皇后は持統。
(妻は10人位、うちの一人が額田王)

天武天皇になった大海人皇子と、持統天皇の子孫が、
のち何代かの天皇を継承していきます。


今の時代感覚では、すんなり入り込めないことばかり。

話変わって、大河ドラマは、
鎌倉時代の権力闘争を現代感覚にアレンジししていますね。
こちらはこちらで、付いて行けないことが多いです。

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ことわざに登場する人物の No1は?

2017年11月01日 | 古典聞きかじり

クイズです♪
歴史上の人物で、ことわざに登場する人物ナンバーワンは誰でしょう?

NHKラジオ第2の「御伽草子へのいざない」。
先日(10月22日・29日)の内容から紹介します。

ことわざに出てくる人名では、ある人物が突出しています。
というか、他の人物ではことわざになりずらいから、また、この人物だけはとてもユニークだからです。
殆どは江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃によって広まりましたが、元々は「御伽草子(おとぎぞうし)」にとりあげられています。

その人の生い立ち。
時は12世紀末、平安時代終わりころのこと。
熊野の別当(寺社で働いていた人)の何某は、50歳になっても子がいなかったので、「若一王子(にゃくいちおうじ)」に申し子を祈願します。
めでたく懐妊したが、なかなか生まれない。3年たって生まれた時には、髪は長く、歯は生えそろい、手足の筋肉はついて歩きました。
そして「何とまあ、明るい世界であることよ」と叫んだ。

親は鬼の子と思って山に捨てます。
熊野詣に来た五条の大納言がこの子を見つけ、拾って帰り、「若一」と名づけて神の子として育てます。

若一は7歳になって比叡山に預けられたが、荒々しく乱暴で追い出されます。
自分で髪をそり、○○(クイズの答)と名乗る僧兵になります。

刀鍛冶師や鎧兜師の所に行き、作ったばかりの武具を奪い取ります。
お金持ちから金品を奪い取る「いさかい修行」に出かけます。
仕えるべき主(あるじ)を探すためですが、狼藉が過ぎる暴れっぷりが繰り出されます。
そんな折、洛中で、鞍馬山から出てきた御曹司・牛若と出会います…。


というわけで、ユニーク人物ナンバーワンは、武蔵坊弁慶でした。
科学的には説明できない事柄であったり、室町と平安がごちゃ混ぜな年代的虚偽もあります。
それは、色々な人によって「武蔵坊弁慶」が語り継がれるうちに、「英雄だが失敗もする」「強面だが涙もろい」「猛々しいが滑稽でもある」といった弁慶像が出来上がったため、だとか。

以下に、弁慶に関することわざ等を書き連ねます。よく知られているものは、説明省略。

「内弁慶」

「弁慶の七つ道具」  「選挙の七つ道具」と、お役所でも使うみたい…。

「弁慶に薙刀」  「鬼に金棒」と同じ

「ぎなた読み」は、「弁慶にな、ぎなた」のように、読点(区切り)を間違えると意味が分からないことを言います。

「仕事成合飯弁慶」 仕事はいい加減なのに、飯はたらふく食う

「弁慶の泣き所」

「弁慶の立ち往生」

上の写真は、多肉植物「ベンケイソウ」の仲間のセダム色々。
なかなか枯れない強い草なので、弁慶にちなんでこの名が付いてるそうです。

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