わたなべ りやうじらうのメイル・マガジン「頂門の一針」 2456号 より
http://www.melma.com/backnumber_108241/
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成23(2011)年 12月8日(木曜日)通巻第3511号 <開戦記念特集号> より
http://www.melma.com/backnumber_45206/
太宰治の戦争前夜の気持ち。
日常生活に訪れた不安な緊張感。それでいてなにか突破口が開かれるかのような期待感。
第三次大戦が起こるとすれば、こんなものではないだろう。核が使われ、人類破滅だろうから。
だが、その抑止のために核が必要。
ばかなジレンマだが、これが人間世界、死ななきゃ治らなんのだわ。
http://www.melma.com/backnumber_108241/
70周年「真珠湾の真実」 平井 修一
東京裁判で東條英機閣下は博学・大川周明から頭をぽかりと殴られたが、 「東條よ、インチキ茶番の馬鹿げた法廷にまじめに付き合うな」という メッセージだったろう。
東條の宣誓供述書は占領下で洋洋社から刊行されたが、東條は恐ろしく クソ真面目かつ詳しく「大東亜戦争の真実」を語っており、嘘をニカワ で搗き固めた「米国製自虐史観」で日本人を洗脳していこうというGH Q・マッカーサーにとってはまことに「不都合な真実」だから発禁第一 号に指定され、永らくごく一部の人にしか知られていなかったという。 小生は月刊WILL(05年9月号)で知った。
小生がずっと気になっていたのは東條の次の供述だ。
<次の事柄は私が戦後知りえた事柄であって、当時はこれを知りません でした。
(一)米国政府は早く我が国外交通信の暗号の解読に成功し、日本政府 の意図は常に承知しておったこと
(二)我が国の1941年(昭和16)11月20日の提案は日本としては最終提 案なることを米国国務省では承知しておったこと・・・
(四)11月26日ハルノートを日本政府は最後通牒と見ていることが米国 側に分かっておったこと
(五)米国は1941年11月末、すでに英国とともに対日戦争を決意してお ったばかりでなく、日本より先に一撃を発せしむることの術策が行われ たることであります。11月末のこの重大なる数日の間において、かくの ごときことが存在しておろうとは夢想だに致しておりませんでした>
米国の罠、謀略、挑発にはまって日本は戦争へ引きづりこまれてしまっ た。情報力、インテリジェンスで後れを取った。日本は第2次大戦の最 大の被害者だが、それは言っても詮無い。悔しくて悲しい「民族の悲劇」 と思うしかない。
ただ子孫には言うべきことは言っておかないといけない。米国は日本の 真珠湾攻撃の1年前、既に1940年から対日戦争をしっかり準備していたの だ。英文サイト「真実はこうだ! 米国政府が国民に学んで欲しくない歴 史」は“マッカラム・メモ”を詳しく紹介している。>
>
英文http://www.whatreallyhappened.com/McCollum/
翻訳http://totopapa.iza.ne.jp/blog/entry/30549/
大要はこうだ。
<1940年10月7日、米国海軍諜報部のアーサー・H・マッカラム少佐は、 海軍のウォルター・アンダーソン提督とダドリー・ノックス海軍長官に、 レポートを提出した。アンダーソンとノックスは、フランクリン・D・ ルーズベルト大統領が最も信頼を寄せる軍事顧問である。
この“マッカラム・メモ”は、日本に米国への攻撃を挑発するための8段 階のプランを詳述している。ルーズベルトは1941年においてメモに記載 されている8つの推奨プランのすべてを実行した。8番目の挑発のあとに 日本は米国を攻撃したのだ。
米国民は政府から「日本の攻撃は驚天動地、諜報の失策」と聞かされて いたが、実は米国政府により準備されたものだった。そして米国は第二 次世界大戦へ参戦した。
このメモは1994年に機密扱いを解除され、米国政府が日本の攻撃を引き 出したかったことを証明している。真珠湾の真実が明らかにされるまで 50年もかかった>
br> 日米戦を含めた大東亜戦争で「日本悪玉論」を唱えているのは国内では GHQに洗脳された自虐史観・容共左派の反日屋くらいで、まともなオ ツムの人でそんな風に考えている人は世界中でもレア、敵性国家の中朝 露韓以外にまずいないだろう。
以下は「マッカラム・メモ」の核心部分だ。日本を挑発しようというもの で、今でも米国は己の国益のために何をするか分からないからご用心で ある。
<我々の精力的な行動により、日本人をして彼らの態度を変えさせてい くことは可能だろう。ゆえに以下の行動をとっていくことを提言する。
A)英国と、太平洋における英国基地、とりわけシンガポールの使用に ついて協議せよ。
B)オランダと、蘭領インドの基地施設使用、物資獲得について協議せ よ。
C)蒋介石の支那政府にすべての可能な支援を与えよ。
D)ひとつの長距離重艦隊を東洋、フィリピンあるいはシンガポールへ 派遣せよ。
E)二つの潜水艦隊を東洋へ派遣せよ。
F)主力艦隊を太平洋ハワイ諸島に維持せよ。
G)オランダに、日本の不当な経済要求、とりわけ原油要求には拒否す るよう主張すべし。
H)米国は英国との連携のもと、対日貿易を完全にやめる。
これらの手段により日本を戦争へ導くことができ、その攻撃が重大であ ればあるほどよい>
BBCドキュメンタリーの内容を伝えるサイトは真珠湾攻撃の当日の模 様をこう伝えている。
英文http://www.whatreallyhappened.com/pearl/www.geocities.com/Pentagon/6315/pearl.html
翻訳http://totopapa.iza.ne.jp/blog/entry/91739/
<12月7日――午前7時55分(ハワイ時間)、日本が真珠湾急襲。ハワイ の米軍は「これは訓練ではない」と急報。
12月7日――午後1時50分(ワシントン時間)。ルーズベルトがノックス 海軍長官から電話で攻撃のニュースを受けたとき、ルーズベルトととも にいたただ一人の人物であるハリー・ホプキンス(最高クラスのKGB職員 かつルーズベルトの分身)は、ルーズベルトがその報に驚くことなく 「大きな安堵」を表したと書いている。
エリノア・ルーズベルト夫人は12月7日について「This I Remember」 (「思い出すこと」)で、ルーズベルトが「より穏やかな感じになった」 と書いた。1944年10月8日のニューヨークタイムズマガジンに彼女はこう 書いている。
「12月7日は、大方の国民が受けたようなショックからほど遠く、私たち は長い間、何かそのようなものを予想していました」
12月7日――午後3時00分、「戦時内閣の会議はあまり緊張した空気で開 かれなかった。我々全員が結局、敵はヒトラーであると思っていたし、 日本は我々にその機会を与えたと思っていたからだ」とハリー・ホプキ ンスは12月7日メモに記した(R.シャーウッド著「ルーズベルトとホプキ ンス」)。
12月7日――攻撃の9時間後にマッカーサーの全空軍は驚きに捕えられ、 フィリピンから一掃された。しかし真珠湾のニュースに対する彼の反応 は全くもって異様だった。
彼は午前中ずっと部屋にこもり、空軍指揮官ブリアートン将軍に会うこ とを拒否し、陸軍省からの台湾の日本軍攻撃命令さえも拒否した。
マッカーサーはその朝、大部分の飛行機が地上にあることを確実とさせ る3つの矛盾する命令を与えた。彼は日本の飛行隊をレーダー追跡し、 140、100、80、60、そして20マイルと接近するのを確認しながら、彼の 飛行機群が確実に地上にあるよう命令を下していった。
戦略的には、世界の全ての米国の重爆撃機の半分の破壊は、真珠湾にお ける海軍の損害より深刻だった。マッカーサーは戦史に残る最も大きな 失敗を犯したか、あるいはマッカーサーは彼の軍隊が「破壊されるに任 せよ」という命令の下にあったかだろう。
それが歴史で最も大きな大失敗であるならば、彼がいかなる非難からも 免れ、司令権を保ち、ほどなく4つめの星と名誉勲章を得たことは説明 がつかず、注目に値することだ。
プランギーはこう主張している。「大統領は日本の攻撃を確実にするた め、指揮官に打ち明けて、敵が妨害なく進むのを許すよう彼らを説得し た。そうしなければどうして成功しようか?」>
真珠湾攻撃による犠牲者は、アメリカ側は死者2403人、負傷1178人。5隻 の戦艦を含めて18隻が沈没または撃破。航空機は188機が撃破、162機が 損壊。
日本側は31隻の艦隊、353機の艦載機を動員し、死者64人、撃墜29機、小 型潜航艇5隻沈没。
アメリカ側の損害は「生贄」(いけにえ)である。死ななくてもいい人 をルーズベルトは殺した。普通の感覚をもつ人は、いくら欧州で対ドイ ツ戦に参戦したいからといっても2400人もの自国民を犠牲にするような ことはしない。
政治目的のためには手段を選ばず、平然と嘘をつき、平気で国民を殺す のは共産主義者の常套手段だが、ルーズベルトはほとんどコミンテルン の手先だったようである。
当時、日本の国力はアメリカの10分の1しかなかった。非力を精神力で補 い、日本は必死に戦った。戦い抜いてついに負けたが、戦わずしてハル ・ノートを受け入れ尻尾を巻いていたら日本民族の尊厳は地に落ち、今 の日本もアジアもなかっただろう。
天皇陛下万歳! 大東亜解放戦争万歳!
東京裁判で東條英機閣下は博学・大川周明から頭をぽかりと殴られたが、 「東條よ、インチキ茶番の馬鹿げた法廷にまじめに付き合うな」という メッセージだったろう。
東條の宣誓供述書は占領下で洋洋社から刊行されたが、東條は恐ろしく クソ真面目かつ詳しく「大東亜戦争の真実」を語っており、嘘をニカワ で搗き固めた「米国製自虐史観」で日本人を洗脳していこうというGH Q・マッカーサーにとってはまことに「不都合な真実」だから発禁第一 号に指定され、永らくごく一部の人にしか知られていなかったという。 小生は月刊WILL(05年9月号)で知った。
小生がずっと気になっていたのは東條の次の供述だ。
<次の事柄は私が戦後知りえた事柄であって、当時はこれを知りません でした。
(一)米国政府は早く我が国外交通信の暗号の解読に成功し、日本政府 の意図は常に承知しておったこと
(二)我が国の1941年(昭和16)11月20日の提案は日本としては最終提 案なることを米国国務省では承知しておったこと・・・
(四)11月26日ハルノートを日本政府は最後通牒と見ていることが米国 側に分かっておったこと
(五)米国は1941年11月末、すでに英国とともに対日戦争を決意してお ったばかりでなく、日本より先に一撃を発せしむることの術策が行われ たることであります。11月末のこの重大なる数日の間において、かくの ごときことが存在しておろうとは夢想だに致しておりませんでした>
米国の罠、謀略、挑発にはまって日本は戦争へ引きづりこまれてしまっ た。情報力、インテリジェンスで後れを取った。日本は第2次大戦の最 大の被害者だが、それは言っても詮無い。悔しくて悲しい「民族の悲劇」 と思うしかない。
ただ子孫には言うべきことは言っておかないといけない。米国は日本の 真珠湾攻撃の1年前、既に1940年から対日戦争をしっかり準備していたの だ。英文サイト「真実はこうだ! 米国政府が国民に学んで欲しくない歴 史」は“マッカラム・メモ”を詳しく紹介している。>
>
英文http://www.whatreallyhappened.com/McCollum/
翻訳http://totopapa.iza.ne.jp/blog/entry/30549/
大要はこうだ。
<1940年10月7日、米国海軍諜報部のアーサー・H・マッカラム少佐は、 海軍のウォルター・アンダーソン提督とダドリー・ノックス海軍長官に、 レポートを提出した。アンダーソンとノックスは、フランクリン・D・ ルーズベルト大統領が最も信頼を寄せる軍事顧問である。
この“マッカラム・メモ”は、日本に米国への攻撃を挑発するための8段 階のプランを詳述している。ルーズベルトは1941年においてメモに記載 されている8つの推奨プランのすべてを実行した。8番目の挑発のあとに 日本は米国を攻撃したのだ。
米国民は政府から「日本の攻撃は驚天動地、諜報の失策」と聞かされて いたが、実は米国政府により準備されたものだった。そして米国は第二 次世界大戦へ参戦した。
このメモは1994年に機密扱いを解除され、米国政府が日本の攻撃を引き 出したかったことを証明している。真珠湾の真実が明らかにされるまで 50年もかかった>
br> 日米戦を含めた大東亜戦争で「日本悪玉論」を唱えているのは国内では GHQに洗脳された自虐史観・容共左派の反日屋くらいで、まともなオ ツムの人でそんな風に考えている人は世界中でもレア、敵性国家の中朝 露韓以外にまずいないだろう。
以下は「マッカラム・メモ」の核心部分だ。日本を挑発しようというもの で、今でも米国は己の国益のために何をするか分からないからご用心で ある。
<我々の精力的な行動により、日本人をして彼らの態度を変えさせてい くことは可能だろう。ゆえに以下の行動をとっていくことを提言する。
A)英国と、太平洋における英国基地、とりわけシンガポールの使用に ついて協議せよ。
B)オランダと、蘭領インドの基地施設使用、物資獲得について協議せ よ。
C)蒋介石の支那政府にすべての可能な支援を与えよ。
D)ひとつの長距離重艦隊を東洋、フィリピンあるいはシンガポールへ 派遣せよ。
E)二つの潜水艦隊を東洋へ派遣せよ。
F)主力艦隊を太平洋ハワイ諸島に維持せよ。
G)オランダに、日本の不当な経済要求、とりわけ原油要求には拒否す るよう主張すべし。
H)米国は英国との連携のもと、対日貿易を完全にやめる。
これらの手段により日本を戦争へ導くことができ、その攻撃が重大であ ればあるほどよい>
BBCドキュメンタリーの内容を伝えるサイトは真珠湾攻撃の当日の模 様をこう伝えている。
英文http://www.whatreallyhappened.com/pearl/www.geocities.com/Pentagon/6315/pearl.html
翻訳http://totopapa.iza.ne.jp/blog/entry/91739/
<12月7日――午前7時55分(ハワイ時間)、日本が真珠湾急襲。ハワイ の米軍は「これは訓練ではない」と急報。
12月7日――午後1時50分(ワシントン時間)。ルーズベルトがノックス 海軍長官から電話で攻撃のニュースを受けたとき、ルーズベルトととも にいたただ一人の人物であるハリー・ホプキンス(最高クラスのKGB職員 かつルーズベルトの分身)は、ルーズベルトがその報に驚くことなく 「大きな安堵」を表したと書いている。
エリノア・ルーズベルト夫人は12月7日について「This I Remember」 (「思い出すこと」)で、ルーズベルトが「より穏やかな感じになった」 と書いた。1944年10月8日のニューヨークタイムズマガジンに彼女はこう 書いている。
「12月7日は、大方の国民が受けたようなショックからほど遠く、私たち は長い間、何かそのようなものを予想していました」
12月7日――午後3時00分、「戦時内閣の会議はあまり緊張した空気で開 かれなかった。我々全員が結局、敵はヒトラーであると思っていたし、 日本は我々にその機会を与えたと思っていたからだ」とハリー・ホプキ ンスは12月7日メモに記した(R.シャーウッド著「ルーズベルトとホプキ ンス」)。
12月7日――攻撃の9時間後にマッカーサーの全空軍は驚きに捕えられ、 フィリピンから一掃された。しかし真珠湾のニュースに対する彼の反応 は全くもって異様だった。
彼は午前中ずっと部屋にこもり、空軍指揮官ブリアートン将軍に会うこ とを拒否し、陸軍省からの台湾の日本軍攻撃命令さえも拒否した。
マッカーサーはその朝、大部分の飛行機が地上にあることを確実とさせ る3つの矛盾する命令を与えた。彼は日本の飛行隊をレーダー追跡し、 140、100、80、60、そして20マイルと接近するのを確認しながら、彼の 飛行機群が確実に地上にあるよう命令を下していった。
戦略的には、世界の全ての米国の重爆撃機の半分の破壊は、真珠湾にお ける海軍の損害より深刻だった。マッカーサーは戦史に残る最も大きな 失敗を犯したか、あるいはマッカーサーは彼の軍隊が「破壊されるに任 せよ」という命令の下にあったかだろう。
それが歴史で最も大きな大失敗であるならば、彼がいかなる非難からも 免れ、司令権を保ち、ほどなく4つめの星と名誉勲章を得たことは説明 がつかず、注目に値することだ。
プランギーはこう主張している。「大統領は日本の攻撃を確実にするた め、指揮官に打ち明けて、敵が妨害なく進むのを許すよう彼らを説得し た。そうしなければどうして成功しようか?」>
真珠湾攻撃による犠牲者は、アメリカ側は死者2403人、負傷1178人。5隻 の戦艦を含めて18隻が沈没または撃破。航空機は188機が撃破、162機が 損壊。
日本側は31隻の艦隊、353機の艦載機を動員し、死者64人、撃墜29機、小 型潜航艇5隻沈没。
アメリカ側の損害は「生贄」(いけにえ)である。死ななくてもいい人 をルーズベルトは殺した。普通の感覚をもつ人は、いくら欧州で対ドイ ツ戦に参戦したいからといっても2400人もの自国民を犠牲にするような ことはしない。
政治目的のためには手段を選ばず、平然と嘘をつき、平気で国民を殺す のは共産主義者の常套手段だが、ルーズベルトはほとんどコミンテルン の手先だったようである。
当時、日本の国力はアメリカの10分の1しかなかった。非力を精神力で補 い、日本は必死に戦った。戦い抜いてついに負けたが、戦わずしてハル ・ノートを受け入れ尻尾を巻いていたら日本民族の尊厳は地に落ち、今 の日本もアジアもなかっただろう。
天皇陛下万歳! 大東亜解放戦争万歳!
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成23(2011)年 12月8日(木曜日)通巻第3511号 <開戦記念特集号> より
http://www.melma.com/backnumber_45206/
真珠湾攻撃から70年 開戦記念日に読むべき格好の書籍はこれ!
米国の反日ルーズベルト政権は、最初から日本をだまし討ちにする積もりだった
♪
西尾幹二『GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜』(徳間書店)
FDR(フランクリン・ルーズベルト大統領)を「日本を戦争に巻き込むという陰謀を図った狂気の男」とフーバー元大統領が辛辣に批判していた事実が、ようやく明らかになった。
この大統領のメモは米国内で、ながく禁書扱いを受けていたからだ(詳しくは産経12月8日付け紙面)。
小誌読者の多くには、いまさら多くを語るのは必要がないかもしれないが、大東亜戦争は日本の自衛の戦争であり、米国との決戦は不可避的だった。直前に様々な和平工作がなされたが、それらは結果的に茶番であり、ルーズベルトその人がどんな謀略を行使しても、日本と戦争しなければならないという確固たる信念の持ち主であったから、戦争回避工作には限界が見えていた。
開戦の報に接して太宰治は短篇「十二月八日」のなかに次のように書いた。
「早朝、布団の中で、朝の支度に気がせきながら、園子(今年六月生まれの女児)に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきり聞こえて来た。
『大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。』
しめきった雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光の射し込むように鮮やかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いている裡に、私の人間は変わってしまった。強い光線と受けてからだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹を受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」
ほとんどの国民がそういう爽快感を抱いた。後知恵で軍部に騙されたなどとする戦後進歩的文化人の史観は嘘でしかないのだ。
それにしても、米国はなぜ対日戦争を不可避的と考えたのか。それはマニフェスト・デスティニィにあることを戦前のジャーナリスト、学者、知識人の多くが把握していた。この第六巻では、読売新聞の斎藤忠の著作などを西尾氏は引用されながら、こう総括される。
「アメリカのこうした信仰は、裏返せば、ナチスとおなじではないでしょうか。アメリカはナチスを憎むといっているけれど、私たち日本人から見れば、ナチスそっくりです。ヒットラーといちばん似ているのは東条英機じゃなくてルーズベルトのほうではないでしょうか」
その比喩を西尾氏は最近鑑賞された映画『アバター』と結びつける。
「地球人が機械化部隊でもって宇宙にある星の自然を破壊する。地球人は飛行機で戦い、宇宙人(アバター)は弓矢で迎え撃つ。まさに西部劇そっくりです。西へ西へと向かいアジアを破壊しつづけたアメリカ人の根本の衝動には変わらぬものがあり、彼らの想像力もまたつねに同一です。大事なポイントはその星にすばらしい巨大な樹木があって、その一本の巨木を倒してしまえば宇宙人は全滅してしまうというのがモチーフの中心にあります。つまり、その星のすばらしい樹木はわが国の天皇のようなものなのです」
▲日本は最初から最後まで聖戦と貫いた
西尾さんが本巻に引用された斎藤忠さんは、国際ジャーナリストとして戦後も活躍したが、昭和四十年代にジャパンタイムズの主筆をつとめておられた。背丈こそ低いが古武士のような風格、片方が義眼で伊達政宗風のひとだった。
というのも、じつは評者(宮崎)は品川駅裏にあった同社に氏をよく訪ねて国際情勢の解説を聞いたり、学生の勉強会にも数回、講師として講演をお願いした。その浪花節調の明確で朗々たる講演の素晴らしさに感銘を受けたものだった。あの論客の戦前の作品が復活したことは喜びに堪えない。
そして西尾氏は、米国の壮大なる徒労をかくまとめられる。
「アメリカはいったいなぜ、また何のために日本を叩く必要があったのでしょう。戦争が終わってみれば、シナ大陸は毛沢東のものになり、共産化してしまった。アメリカが何のために日本を叩いたのか、まったく分かりません。アメリカのやったことはバカとしかいいようがありません。あの広大なシナ大陸をみすみす敵側陣営(旧東側陣営)に渡す手助けをしたようなもの」で、まことにまことに「愚かだった」のである。
しかし、この米国の病、まだ直る見込みはなく、ベトナムに介入して、けっきょくベトナムは全体主義政権が確定し、またイラクに介入して、イラクはまもなくシーア派の天下となり、アフガニスタンに介入し、やがてアフガニスタンはタリバンがおさめる「タリバニスタン」となるだろう。愚かである。
開戦記念日。こういう軍歌が歌われたことを西尾氏は最後のしめくくりに用いられる。
「父よあなたは強かった」の歌詞はつぎのごとし。
♪「父よあなたは強かった 兜も焦がす炎熱を 敵の屍と ともに寝て 泥水すすり 草を噛み 荒れた山河を 幾千里 よくこそ撃って 下さった」
嗚呼、評者も学生時代の仲間と呑む機会には二次会で歌う一曲である。
△△
米国の反日ルーズベルト政権は、最初から日本をだまし討ちにする積もりだった
♪
西尾幹二『GHQ焚書図書開封6 日米開戦前夜』(徳間書店)
FDR(フランクリン・ルーズベルト大統領)を「日本を戦争に巻き込むという陰謀を図った狂気の男」とフーバー元大統領が辛辣に批判していた事実が、ようやく明らかになった。
この大統領のメモは米国内で、ながく禁書扱いを受けていたからだ(詳しくは産経12月8日付け紙面)。
小誌読者の多くには、いまさら多くを語るのは必要がないかもしれないが、大東亜戦争は日本の自衛の戦争であり、米国との決戦は不可避的だった。直前に様々な和平工作がなされたが、それらは結果的に茶番であり、ルーズベルトその人がどんな謀略を行使しても、日本と戦争しなければならないという確固たる信念の持ち主であったから、戦争回避工作には限界が見えていた。
開戦の報に接して太宰治は短篇「十二月八日」のなかに次のように書いた。
「早朝、布団の中で、朝の支度に気がせきながら、園子(今年六月生まれの女児)に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきり聞こえて来た。
『大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。』
しめきった雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光の射し込むように鮮やかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いている裡に、私の人間は変わってしまった。強い光線と受けてからだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹を受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」
ほとんどの国民がそういう爽快感を抱いた。後知恵で軍部に騙されたなどとする戦後進歩的文化人の史観は嘘でしかないのだ。
それにしても、米国はなぜ対日戦争を不可避的と考えたのか。それはマニフェスト・デスティニィにあることを戦前のジャーナリスト、学者、知識人の多くが把握していた。この第六巻では、読売新聞の斎藤忠の著作などを西尾氏は引用されながら、こう総括される。
「アメリカのこうした信仰は、裏返せば、ナチスとおなじではないでしょうか。アメリカはナチスを憎むといっているけれど、私たち日本人から見れば、ナチスそっくりです。ヒットラーといちばん似ているのは東条英機じゃなくてルーズベルトのほうではないでしょうか」
その比喩を西尾氏は最近鑑賞された映画『アバター』と結びつける。
「地球人が機械化部隊でもって宇宙にある星の自然を破壊する。地球人は飛行機で戦い、宇宙人(アバター)は弓矢で迎え撃つ。まさに西部劇そっくりです。西へ西へと向かいアジアを破壊しつづけたアメリカ人の根本の衝動には変わらぬものがあり、彼らの想像力もまたつねに同一です。大事なポイントはその星にすばらしい巨大な樹木があって、その一本の巨木を倒してしまえば宇宙人は全滅してしまうというのがモチーフの中心にあります。つまり、その星のすばらしい樹木はわが国の天皇のようなものなのです」
▲日本は最初から最後まで聖戦と貫いた
西尾さんが本巻に引用された斎藤忠さんは、国際ジャーナリストとして戦後も活躍したが、昭和四十年代にジャパンタイムズの主筆をつとめておられた。背丈こそ低いが古武士のような風格、片方が義眼で伊達政宗風のひとだった。
というのも、じつは評者(宮崎)は品川駅裏にあった同社に氏をよく訪ねて国際情勢の解説を聞いたり、学生の勉強会にも数回、講師として講演をお願いした。その浪花節調の明確で朗々たる講演の素晴らしさに感銘を受けたものだった。あの論客の戦前の作品が復活したことは喜びに堪えない。
そして西尾氏は、米国の壮大なる徒労をかくまとめられる。
「アメリカはいったいなぜ、また何のために日本を叩く必要があったのでしょう。戦争が終わってみれば、シナ大陸は毛沢東のものになり、共産化してしまった。アメリカが何のために日本を叩いたのか、まったく分かりません。アメリカのやったことはバカとしかいいようがありません。あの広大なシナ大陸をみすみす敵側陣営(旧東側陣営)に渡す手助けをしたようなもの」で、まことにまことに「愚かだった」のである。
しかし、この米国の病、まだ直る見込みはなく、ベトナムに介入して、けっきょくベトナムは全体主義政権が確定し、またイラクに介入して、イラクはまもなくシーア派の天下となり、アフガニスタンに介入し、やがてアフガニスタンはタリバンがおさめる「タリバニスタン」となるだろう。愚かである。
開戦記念日。こういう軍歌が歌われたことを西尾氏は最後のしめくくりに用いられる。
「父よあなたは強かった」の歌詞はつぎのごとし。
♪「父よあなたは強かった 兜も焦がす炎熱を 敵の屍と ともに寝て 泥水すすり 草を噛み 荒れた山河を 幾千里 よくこそ撃って 下さった」
嗚呼、評者も学生時代の仲間と呑む機会には二次会で歌う一曲である。
△△
太宰治の戦争前夜の気持ち。
日常生活に訪れた不安な緊張感。それでいてなにか突破口が開かれるかのような期待感。
第三次大戦が起こるとすれば、こんなものではないだろう。核が使われ、人類破滅だろうから。
だが、その抑止のために核が必要。
ばかなジレンマだが、これが人間世界、死ななきゃ治らなんのだわ。
今の日本では、自衛隊員やそれに類する人以外には考えられないことです。
だから平和の有り難みを心底感じておられることと思いますが、戦争を知らぬ者は、それがわからないのです。平和ボケと云われる所以でしょう。
「天祐ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国 天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス」
この詔勅を拝したのが、つい昨日のような気がします。
私は国のために命を捧げようと決心しました。
70年経った今、当時の心境が思い出されます。
あのとき死んでいたら、現在の私はなかった・・・生きていてよかったとつくづく感じています。