鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

戦争の実体験 空襲1(2回シリーズその1)

2013年10月01日 00時00分01秒 | 紹介

 伯父が残した随想の中に、綿密に当時のことが記録されており、将に実体験なので、当時の状況に想いを馳せるには絶好の記録と思いこのブログに紹介することとした。旧仮名遣いのため、読みづらい点はご容赦願いたい。5項目に分けて掲載します。

 昭和20年2月、我が東部第49部隊に東京警備旅団の編成があり、自分も柏6683部隊第一大隊第三中隊第一小隊長に任命された。我が中隊から精鋭な兵を選抜し、一小隊を編成した。三月上旬、先遣隊としてK軍曹、T伍長、A上等兵等5名を引率して、金沢を出発し、東京へ向かった。任地は江戸川区の瑞江小学校であった。3月5日に到着し、10日朝到着予定の本隊のため、宿舎の割り当て、寝具の整備などの準備に忙殺された。その頃、毎日正午になると米軍機B29一機が高空より偵察のため侵入し、その都度空襲警報が発令される状況であった。

 本隊が予定通り3月10日午前0時に田端駅に到着するとの連絡が入った。折悪しく、3月8日夜敵機数百機が東京上空に来襲、下町を中心に無差別爆撃と焼夷弾の投下があり、下町一帯は火の海となる。先遣隊としては執るべき措置はない。情報によれば交通網は寸断され、山手線は普通、都電も殆ど全滅のようである。

 9日朝本隊で迎えのため、自分一人で出発する。一応、水筒と二食分の食糧を携行する。交通杜絶のため、徒歩で行くより方法がない。小松川橋を渡り、平井、両国の大通りは通れたが、一面焼け野原で、まだあちらこちらに日がチョロチョロ見える。焼けトタンの下に焼死体が見える。顔を真っ黒にし、ボロを纏った人々が、焼けた元の住処を捜しているのかウロウロしている。いくら歩いても同じような場面だ。田端への近道と思い、吾妻橋か駒形橋を渡るつもりで歩いていた。駒形橋の手前に、憲兵が立っていて交通止めという。部隊出迎えの公用だというと柵を開けて通してくれた。

 橋一杯に焼死体がうず高く積まれていた。わざわざ積んだのではなく、避難者が橋の両側から押しかけ動きがとれなくなったところを持っていた荷物に火がつき、全員焼かれてしまったものであろう。真っ黒に焼けているが、虚空を掴んで無念そうな形相の人、赤ん坊を抱えて蹲ったまま死んでいる母親、山積みの死体の下には焼けないで赤く膨れている人、人、人。男女の区別は付かない。ここだけで数百人はいるであろう。川の水面にも無数の焼死体が浮かんでいる。おそらく熱さに耐え兼ねて水に飛び込んで死んだ人たちだ。本当に悲惨な情景である。冥福を祈りながら、死体を踏まないように通った。(次回へ続きます)