平泉の金色堂須弥壇(こんじきどうしゅみだん)内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められている。須弥壇の柱や全体に施された螺鈿(らでん)・蒔絵(まきえ)・透かし彫り宝相華文(ほうそうげもん)等の加飾は見事なものである。平泉中尊寺を中心とした地域には秀衡(ひでひら)塗りといわれている漆器椀が有名である。
この椀の加飾から発生した秀衡塗りは呂色(ろいろ:磨き仕上げ)黒塗りや、紅溜(べにだめ)塗りをした上塗りの上に菱形に切った金箔を張り付け、朱色・潤み色(うるみいろ)で、唐草模様や雲形模様を描いている。漆は浄法寺産のものが使われており、金箔は陸奥(みちのく)の金として北上川から砂金として取られたという説がある。金色堂は奥州藤原氏の初代藤原清衡により建立された。藤原清衡の命により、京都の漆職人が呼び寄せられ、金色堂須弥壇を塗り上げたようで、塗りの技法も京都の漆職人から伝授されたと考えても不思議ではない。
何故東北地方にも漆器産業が生まれていたかという疑問は、冬場の仕事としての側面を見いだすことが出来る。湿気が多い場所は漆の乾燥と関係がある。空気中の水分が、漆液が持つウルシオールという物質と反応し、酵素(ラッカーゼ)の力によって固化するからである。外気温が室温より低いと外気と接触する壁面などには結露を起こし、室内の湿度は高くなる。湿度が高くないと漆は乾かない(膜となって固まらない)から、湿度が高いところが作業場として最適の場所であった。
湿気は重要であるが、この点は湿度や温度管理を行う漆風呂があれば何とかなる。最も重要なポイントは、現状維持に始終するのではなく、産業として発達するには需要が継続すること、つまり、財力がある依頼主がいて、関連職種の集合体があり、行政も産業奨励をしなければ、何れは廃(すた)れてしまう。
嘗ては、東北地方の山村で漆器を塗って、製品は行商によって売られていたようである。昔はそれでもよかったが、では、このような伝統産業を残し、継続し、更に発展させていくためにはどのような方策があるのか、国内ばかりではなく、海外に目を向けて、販路を広げるには対象国の生活習慣を知り、需要の喚起を行うなど集団として、積極的な展開が望まれる。直ぐには良策は見つからないが、伝統を守り続けることの難しさ、すなわち、現在置かれている業界を取り巻く背景を関係者が共通認識として持つことが第一歩となる。(このシリーズ最終回です)