自分も壕に退避して数分経つと泥の落下も止んだ。直ちに炊事場付近に行くと土手に五人の軍曹が胸から上をやられて倒れている。西門に立哨していたN二等兵は、機関砲で頭をやられ即死。直ぐ近くにT上等兵・H軍曹が倒れている。壕の中の兵隊を呼んで、担架で教室に運び込む。医師の手配をしたが、連絡が取れない。衛生兵では手がつけられないほどの重傷である。K軍曹が何かものいいたげであったが、こと切れてしまった。結局、六人の軍曹と上等兵・二等兵各一人計八人が戦死した。
自分の命令で伏せろといったとき、伏せていたらおそらくあと二、三人は助かったと思う。自分の近くで伏せていた三人の兵が無事であったことを考えると無念でならない。戦地でなく東京で死んだのではやりきれない。しかし、東京も戦地になったと思えばやむを得ないことと思う。
翌朝、爆弾の穴を調べたところ、瑞江大通りに沿って約15メートル位離れた線上に約10メートル置きに計19の大きな穴があいていた。直径5メートル位、深さ3メートル位の大きな穴だ。19発目が土手から5メートル位のところで爆発した最後のものであった。もし、後一発落とされていたら、我々が伏せていた近くに落ち、自分たちも直撃されて木っ端微塵に吹き飛ばされていたであろうと思うと慄然とした。と同時に人の運命は将に紙一重であることを泌々と感じさせられた。
毎年4月4日の命日には、家の仏壇で亡くなった兵士達の冥福を祈っている。三十三回忌には自分一人で花束を持って瑞江小学校を訪れ、戦死した地と思われる場所に花束を捧げた。戦後の改修で小学校も鉄筋化され、場所も若干移動したらしく、校長の言では新川の中にあるのではと説明された。それにしても今にして思えば悪夢の一日であったとしか思えない。(このシリーズ最終回です)