引き続き、イソシギの飛びものです。
伯父が残した随想の中に、綿密に当時のことが記録されており、将に実体験なので、当時の状況に想いを馳せるには絶好の記録と思いこのブログに紹介することとした。旧仮名遣いのため、読みづらい点はご容赦願いたい。5項目に分けて掲載中です。
沖縄に米軍が上陸し、戦局はいよいよ苛烈を極めてきた。七月になって東京警備旅団から伐木大隊が編成され、他部隊よりの二個中隊を以て伐木大隊が埼玉県毛呂山町に駐留することになった。自分も第三中隊長を命ぜられ、中隊を引率して毛呂山町に赴任した。東京は下町・山の手を問わず爆撃のため一面焼け野原、空襲は横浜・大宮・八王子・千葉・熊谷と次第に周辺都市に拡大していた。毛呂山町は埼玉県の八高線沿線にある小さな町で、山に囲まれた農山村であった。亭々と立ち並ぶ杉と檜の緑に映えた静かなたたずまいは、戦争は何処かという光景であった。我々の目的は、末口三寸長さ一間の杉丸太を十万本伐ることであった。東京に地下防空壕を作るための用材である。
従って、装備も伐木のための鋸、木ソリ、ちょうな等の道具が主で、小銃は二人に一挺、軽機関銃もない軽装備であった。中隊は小学校の校舎に宿泊し、中隊本部をNさんの離れに置いた。離れといっても蚕室で、一階の指揮班の五名が常駐し、自分は当番兵と二階に泊まった。戦時中の手不足のため養蚕を中止し、二階は二十畳位のだだっ広い部屋で、隅に蚕棚が積まれていた。困ったことに蚤が多かった。毛布に潜り込んでも、一晩中痒くて眠られない夜もあった。当番兵が気を利かして天幕をナップザックのようにしてくれ、その中に潜り込んで寝た。夜中痒いので起きると、パラパラと天幕の中で音がする。身体をソーと抜いて、天幕の袋を覗くと数十匹の蚤が飛び跳ねていた。(次回へ続きます)