今年ほどジョウビタキ♂を見たことはありませんでした。そろそろいなくなるかも知れません。
「春は名のみの風の寒さや」で歌い始める早春賦、吉丸一昌作詞、中田章作曲の唱歌である。長野県の大町、安曇野辺りの早春の状景を詩にした物で、まだ雪が残り、暦では春なのに未だ寒さが続くと歌っている。旋律は何処かで聴いたことがあると思うのは、モーツァルトの春への憧れ、K596に類似しているとのことである。
賦(ふ)は漢詩で歌を作ること、早春に賦することである。春は名だけでウグイスは鳴こうとしてもまだ寒いので声も出さないとはおもしろい表現である。穏やかな旋律は、春まだ遠し、としている季節感に相応しく、春を待ちわびる一時をうまく表現していると思う。
春を歌った曲が多いのも、日本人の感性が鋭く、長い冬の期間を耐え、白の世界から色鮮やかな陽光輝く春への憧れは、誰しも持つのであろう。北国ほどその意識は強いと思われる。最近ではむしろ北国の室内の方が、北国ではない地域に比べ暖かいようで、結構なことである。一世代前のことが歌われていたのであろうか。自然の移ろいは、季節を肌で感じ、風薫のように、空気の匂いも吸い込んで判るという。体感が大切のようである。
都会では季節感が薄れ、住みやすくはなっているものの、人工的になり過ぎているように感じているのは自分一人ではないであろう。多摩川の近くに住んでいるので、まだまだ、自然はたっぷりなのであるが、最近は、土手もサイクリングロードとなり、河川敷もグラウンド整備が進み、野原や、芦原が少なくなっている。自然をどこまで残すかは、その時代の為政者の判断によって変わるが、手つかずの場所が少なくなっているのも事実である。
整備すればするほど盲点は無くなるが、一方では自然の崩壊が進む。きれいに整備されることと裏腹の関係にあり、どちらに重点を置くかによって、自然環境の破壊と住環境の安全性とをバランス良く進める必要があろう。
多摩川は周辺工場からの汚染水垂れ流しが無くなったせいもあり、水質浄化が進み、鮭の遡上も確認されている。今はマルタウグイが遡上中で、多くの釣り人がルアー釣りを楽しんでいるが、釣られた魚に傷がつき黴菌によって多くが犠牲になっている。針の付いたテグスは放置され、野鳥の足や嘴にまとわりついた姿を見ることが多くなった。
春の暖かさに誘われ、満喫するのはよいが、自然の保護も大切であることを感じる今日この頃である。