ヒヨドリがタラの実を食べていました。
人間に備わっている感覚は、五感と言われている視覚、触覚、聴覚、味覚、聴覚であるが、第六感と言われる特殊なひらめきも感覚に含めることもある。一般的には、直感的に何かを感じ取る心の働きのことで、これはむしろ、複合的な感覚の集成ともいえるが、経験に基づくためか、だれもが持つわけではない。試行錯誤や、何かのきっかけが、原因する場合もある。
研ぎ澄まされた感覚は、集中することによって、体得する究極の業であり、感覚や感性は蓄積することによる。左甚五郎がそうであったように、芸術性を具現化することになり、まさにプロの技といえるであろう。
目標をもって段階的に部分を知り、それができるようになれば異なる技に挑戦する。すそ野を広げ、深みをつける。何度かの失敗は、成功への模索であり、ここであきらめない精神力と継続性が必要となる。師と仰ぐ達人からの指導は、時間的な面で、効率よく体得することが可能となる。しかし周りにいるとは限らず、展覧会や、実演会などの機会を使い、見ることも必要である。
感覚的な判定は、判定する側の評価として、判定を受ける側の納得性も必要で、通常段階的なランク付けを行うが、数値としてだけではなく、優、良、可、不可など相対的な評価判定も使われる。つまり、絶対評価と相対評価である。感覚の評価は、評価項目が感覚的であればあるほど評定者の能力に依存するため、評価者の選定も難しくなる。
スポーツの世界でも同様で、一定のルールの中で勝敗を決めるのはよいが、体操競技やフィギアースケートなどでは出来栄えなどの感覚要素が絡む。複数の評価項目があるので、総合得点という数値に換算する。評価を行う側を複数にして公平性を出そうとしているが、評価者が中立性を重んじていても納得が得られない場合も多いようだ。所詮神様ではないので致し方ないのであるが、感覚や表現を評価するのは難しい。
我が国の誇れる技術・技能の世界でレンズ研磨、旋盤の摺動部のきさげ等手仕上げでは、判定を行うのには、光学機械による精密測定を行い、表面のあらさを測定して行っている。人間の指や掌での感覚も凹凸の判定ではミクロン単位で判るということである。
技術、技能の発展・進歩の裏には、評価基準の高度化があり、如何に製品の精度を高め、価値を上げるかにある。両者の関係は無関係のように思えるが、実はそうではなく、評価が高度化しないと技術・技能の更なる向上は期待できない。特に機械判定ができにくい感覚の判定も、時代、場所、評価者によって基準が異なれば正しい評価にならない。感覚評価の判定にはもっと高度化した電子機器等の技術が入ることを期待している。
雲が若干あったが、晴天であったため、開園時間に合うように自宅を出発した。土日の賑わいはなかったが、すでに数人が開園を待っていた。冬枯れで、落ち葉が待っていたが、まだ紅葉は楽しめたが、冬の植物園は見るところが少ない。しかしながら、落ち葉の重なった中には草木の種や冬眠する昆虫がいるのか、シロハラ、キジバト、シジュウカラ等の野鳥が、盛んに落ち葉を掻き分けていた。
樹木は冬眠に入り、落葉樹は枯葉を落とす。しかし、樹木にとっては、受精した種を様々な方法で子孫を継いでいく。太古から続く活動であるが、野鳥や各種動物の行動を知り、遠方へ運ぼうとする。実となって野鳥のえさとなり、糞として排泄される。動物の体について移動する。風に吹かれて、遠くへ飛んでいく等樹木のどこにそのような知恵があるのであろうか、不思議でならない。
樹木が冬眠するといったが、熊や爬虫類のような冬眠ではない。春の芽吹きのための活動を行っている。新芽が冬の寒さで凍るのを防ぐための防御を行う。春や夏の活動と比較するといかにも活動を停止しているように見えるだけである。おそらくホルモンの種類と出し方に違いがあり、冬場は防寒対策を行っているのであろう。
植物園の冬場の仕事は、枯葉を集め、樹木の選定作業である。側溝に落ちた枯葉は大変な重労働である。松、真柏、杜松等の針葉樹は荒縄による雪つり、幹には菰が巻かれる。ボタンや低木には雪囲いが施工される。落下した樹木のさやや種は収集し、展示用に使うそうである。枯れ木や倒木の除去は重機を入れた作業となる。園内には各所に水場があるが、水道の凍結防止も大切な作業である。
地味な作業ではあるが、整備された植物園はいつ行っても楽しむことができる。冬場にはそれなりの整備があり、植物も生き物であるから、四季を通じて手入れは欠かせないのであろう。神代植物園は深大寺と接しいて、各所に湧水が出るようで、水場の管理も大切な仕事である。樹木等の手入れは目立たないが、縁の下の力持ち的存在である。最近は、樹木に精通したボランティアが活躍している。
鏡面に仕上げるには表面の凹凸を如何に少なくするかにある。凹凸が多ければ光が乱反射するからである。乱反射するだけではなく、表面が汚れやすくなり、水分や炭酸ガス、埃等の付着を容易にするため、反射を嫌うものにはあえて艶消し仕上げを行う。砥石を使って刃物を研ぐ場合にも共通するが、刃物の場合は、荒砥、中砥、仕上げ砥と砥石の荒さを細かいものに変える。更に木綿で作成されたバフを使ってバフ研磨を行う。
塗装した塗膜については、基材に紙を使い、表面に、コランダムなどの砥粒を吹き付けた研磨紙を使う。研削した塗膜の研ぎカスが砥粒に絡むため、潤滑のために石けん水を使うが、このときは耐水研磨紙を使う。研磨紙に砥粒の大きさによって番手が異なる。一般的には320番から段階を経て、1000番、1500番2000番と数字が大きくなるに従って、細かくなる。荒い下研ぎに番手が小さい研磨紙を使うが研ぎ足といって、砥粒の傷が付く。更に番手が大きいものを使うことによって、研ぎ足を消していく。研磨紙での研ぎが終わると仕上げに移る。仕上げにはコンパウンドという粒子が細かく油分と練り上げてある磨き材料を使う。荒目、中目、細目、極細目がある。
コンパウンド掛けを行った後は、更に細かいシリコーンワックスで磨く場合もある。ナイロン製のストッキングで塗面に残ったワックス分を拭き取り鏡面仕上げが完成する。カシューや漆を塗った面は花塗りといって塗り放しで仕上げることも多いが、通常は磨き仕上げを行う。磨き仕上げに使う漆は呂色仕上げといっている。使う漆も呂色漆である。
上述と若干異なるが、原理は同じで、研ぎは、駿河炭を使う炭研ぎから始める。炭研ぎの研ぎ足を消すのは細かく砕いた炭をふるいによって大きさを均一にした炭粉に水を加えて、木綿布を使って研ぐ。次に砥の粉を篩いでふるい、亜麻仁油などの植物性油と練ったものを使って同様に研ぐ。更にチタン白(酸化チタンの粉末)と油と練ったものを綿花か真綿に付けて磨く。最後に角粉(鹿の角を焼成して粉にしたもの)を指先に付けて磨きを行う。潤滑剤として人間の唾液を付けながら行う。炭研ぎの研ぎ足を消すのには、傷が深い場合には何度か生漆を真綿に付けてタンポ刷りを行う場合もある。
磨くことによって、光り輝くわけであるが、磨きは塗装工程の最終段階であり、それまでの工程を正しく行っていないと幾ら磨いても仕上がらない。玉磨かずば光無しとの格言があるが、人も磨かれて(多くの経験をし、人に揉まれることによって)始めて光を放すことになる。
鏡は光線の反射原理を利用して、姿、形を移してみる道具で、古くは金属製であったが、現在ではガラス製が多い。最近では基盤にプラスチックを用いたものや、真空蒸着によって金属光沢を出した様々なものも鏡としている。鏡は能舞台に使われ、松を描いてあり、鏡板といっている。この他に酒樽の蓋をいい、それを割る鏡開き、お供えの鏡餅等生活に密着したものが多い。
鑑(かがみ)の文字を使うのは、立派な人物が行う行為を規範とするお手本にも多用される。この言葉の生まれた背景は容易に想像が付く。鏡から来ているのであろう。他人の失敗を他山の石として失敗を戒めることにも通じる。
古くは金属で出来た、鋳物として制作され、裏面に起伏のある鳥獣などの模様が、表の鏡面で光を受けると、反射して模様が浮かび上がる「魔鏡」がある。磨かれた鏡面だけを見ると通常の鏡であるが、裏側の模様が浮かび上がるのは、裏面の起伏が、鏡面に組織的な歪みによって極僅かな凹凸を作るからといわれている。
古墳時代に中国から伝来した三角縁神獣鏡は魔鏡であったようである。古代人がその不思議な鏡に何かしらの神秘性を見いだし、卑弥呼が使っていた魔鏡は占いに結びついたと想像できる。宗教における隠れキリシタンが十字架を鋳込むことによって、光を当てるとクルスが浮かび上がり、信仰の対象としたらしい。隠れキリシタンならではの発想に興味が湧く。鏡が信仰の対象となるのは、神道も同様で、天照大神を象徴とした太陽を表し、これも納得できる。
最近では我が国で作り、ヨハネ・パウロ二世へ献上されたという。機械での磨きは難しいといわれ、職人が手で磨いたようである。3Dプリンターによる試作も実現しつつある。魔鏡はクールジャパンの一品として脚光を浴びることになるかも知れない。
写真の世界では湖面に映るダイアモンド富士、逆さ富士、水面の波が立っていないときに映し出される風景等の写真は、水面が鏡と同じ反射の原理を生じている。不思議さと意外性がおもしろい。この他ガラスが鏡の役割をしたビル群の中で見いだす鏡面は付近のビルの相似形を映し出す。ビックリハウスで見た凹面鏡や凸面鏡で映し出された世界も写真題材の一つである。鏡が繰り広げる世界は奥が深い。
猛禽類が飛来するとまずカラスが騒ぎ出します。水面に浮かぶ水鳥は恐れて一斉に飛び立ちます。そこを素早くねらいを付けて襲いかかるハヤブサ、でも3回に2回は失敗します。
One-Seg、 1セグメントという意味は、地上デジタル放送の周波数帯域1チャンネル分を構成する13セグメントの内の1セグメントを使って、行われている携帯や移動体受信機向けの放映サービスのことである。セグメントとは英語で断片や部分のことで、分割された周波数帯に使われる場合や、メモリの管理などにも使われる言葉である。我が国以外ではテレビ放映に使われている周波数帯が異なるため、受信機の種類によっては受信できないことになる。
従来の携帯電話では受信できなかったが、今回買い換えた新型の携帯電話にはワンセグ受信機能が付いている。利用されている方も多いと思うが、テレビからの情報はニュースや天気予報等のリアルタイムの情報をユビキタス的に得ることが出来るので、外出が多いサラリーマンにおいては重宝する機能であることは間違いない。
通常、ワンセグを受信するだけでは通信料が発生しない。NHKでも、家庭でテレビ受信契約を行っていれば新たに受信契約を行う必要はない。ただし、データ放送サイト、i-モードサイトではパケット通信料がかかる。ワンセグは、放送サービスの一つであり、テレビと同様に、移動体が使用されている環境によっては、受信できない。例えば、放送波が送信されている電波塔から離れている場所、山間部やビルの陰、トンネル、地下、建物の奥まった場所等である。
携帯電話では、電池残量を確認した後、免責事項の確認を行う。始めてワンセグを利用するときや、受信する地域が変わったときにはチャンネル設定を行う。自動チャンネル設定の機能もある。ワンセグの視聴、録画を予約することが出来、設定した日時になれば自動的に視聴や録画が開始される。録画したビデオはメモリに保存される。
ワンセグ放送は2006年4月から開始されている。利用するかしないかは個人の携帯電話の使い方に依存する。自分などさほど必要性を感じていないが、番組表も準備されているため、暫く視聴してみようと思っている。携帯電話は格段に充電能力が上がっているが、所詮、充電できない環境においては意味をなさない。多くの機能はその取り扱いを、メーカー側の意図を知らないまま、使ってこなかったのも事実である。使ってみて意外に便利であることを実感しないだけなのかも知れない。
全貌を知らずしてコメントする立場にはないが、ユビキタス社会にいる生活者がどのような情報が必要であるかを自分なりに考えてみたい。
冬型の気圧配置となり、初冬ではあるが、真冬の準備が始まった。この時期での四国や北陸地方の大雪は孤立集落が出来るほどの被害が報道されている。大型トラック130台が山道で動けなくなり、日頃、道路の状況をよく知っているドライバーであっても被害を受けた。大雪に閉じこめられ、さぞかし不安な時を過ごしたことであろう。車の場合は燃料が続く限り、空調は稼働するので心配はないが、排気部分が雪に埋まるとガス中毒となり死亡することもある。
家庭では発熱媒体の違いによって、ファンヒーター、エアコン、電気・ガスストーブ、床暖房、スチーム等、各種あるが、それぞれを使い分けて使用している。幸い、燃料となる灯油が値下がり傾向にあるため、灯油が主流となるかも知れない。停電となると電気を使う暖房機は使えない。昔ながらのオガ炭・薪ストーブや、暖炉が見直されているのも、停電を意識した対策なのかも知れない。
北海道での冬場の生活を経験したが、外気温がマイナス20℃にもなると、関東での生活と一変する。小形のガスや灯油ストーブは役に立たない。電気コタツでは部屋は暖まらないし、上半身は厚着をしても薄ら寒い。引越で持参した暖房器具の使用は止めて、燃料が灯油のポットストーブを購入した。火力はさほど強くないが、部屋に置いて、煙突を付けるタイプであった。これを一日中点けるのである。とろとろ燃えるため、部屋が暖まるまでは時間がかかるが、部屋全体を温めるため、薄着でいても暖かい。
忘れてはならないのが布団乾燥機である。大きさは50センチ大であるが、帰宅すると直ぐに布団の中に乾燥器の熱風を送り込む。1~2時間ぐらい送ると煎餅布団もフカフカになり、湿気も取っていてくれるので、快適な睡眠が可能となる。さほど値段が高いわけではなく、関東のように冬でも屋外に布団を干すが、それが出来ない北国の冬場の生活には必需品である。
先日、女房が友人から使わなくなった布団乾燥機を譲ってもらった。多機能を持つ優れもので、冬ばかりではなく夏場にも利用できるようである。夏場は熱風が終わると送風モードとなり、熱気を取るようになっている。また、熱風を送る袋はつり下げることによって、少量の衣類もハンガーに掛けて乾燥することが出来る。そこまでの利用は必要ないと思うが、布団を干せない日もあるので、これから本格的な冬には布団乾燥機が活躍することであろう。
モズは小型の猛禽類です。蛙やトカゲなどの生物を捕らえます。はえにえという行為派は、有刺鉄線や、とげのある樹木に突き刺し、その理由はよく分かっていませんが、保存食、縄張り宣言等各説があります。
携帯電話が生活に無くてはならないツールとなっているのは疑う余地もない。ビジネスではもちろんのこと、小学生であっても使用しているご時世である。携帯電話の進化は目を覆うばかりで、多くの機能が供えられていて、スマホの利用率は普通の携帯電話(ガラケイ:ガラパゴス携帯と呼ぶそうである)を遥かに凌ぎ、器用に使いこなす姿に感心するとともに、一時も休むことなく動く指先を、まるで機械のようだと思うのである。
現職のころから使用するようになってからすでに4代目であるが、8年ぶりに変えかえた。理由は簡単で、新機種の方が利用料が安くなるとのこと、そのようなことが実際にあるのだと、不思議な思いに陥ったからである。確かに、パソコンでも他の機器にしても、機能、形態、情報蓄積量、消費電力等を考えれば、相対的に初期投資費用が安価になっている。技術進歩の恩恵というものであるが、使用料金にも及ぶのである。他社の追い上げがあってのことだと自分なりに推測しているが、従量制もあるのかと思う。
携帯電話をほとんど使わなくなった。自宅にいることが多くなり、情報収集のため、インターネット利用や文章作成は、パソコンで十分である。ほとんどの電子メールもパソコンからの受発信であり、趣味としている野鳥の写真撮影は、デジタル一眼レフと望遠レンズであるので、携帯電話のカメラ機能も必要はない。携帯電話を使う頻度は極端に少ない。家族との連絡と、携帯メールがあれば十分で、それも、1日に多くて2回である。携帯利用料金は最低のランクである。
一般の電話は通じているが、日中にかかってくる電話は、保険の勧誘、葬祭関係、塗装や生活関連の宣伝等で、まったくと言ってよいほど迷惑電話ばかりである。知人や親戚からは携帯電話の方にかかるので、もはや一般電話は必要ないものに変化している。我が家においても、イエローページへの掲載も断っているし、電話事情は相当変化してきている。
さて、新機能については、防水対策が施されている点である。携帯電話が水に弱いのはかねてからの問題であった。不注意で、洗面や炊事時に、水没すれば使えなくなった。電子機器は当然であるが、乾燥させても内部に侵入した水分は容易に除去できない。それが改善したのである。電池の寿命も大幅に改善しているようである。限られた紙面ですべてを紹介できないが、新機種なりに機能は充実しているのは事実で、得をした気分でいる。