神代植物園の池の近辺でアオジを見つけ近接で撮ることが出来ました。
趣味や情操教育の場は必要ないとは言えないが、学校教育だけでは不安な家庭は、補填的学習の場を教育産業に託すことになる。しかし、教育産業は、学校教育の二番煎じであり、ここでの学習成果が人生の活路にどのように役に立つかは定かではなく、学校教育の欠落部分である将来社会人となるために必要な、社会性を身につける準備教育には代替できないのであり、投資効率から見ると親の意図とは裏腹な機会に対し、矛盾を抱えることになる。
例として言えることは、社会性の付与を高めるためのスポーツジムや倶楽部については健康面や、規律の面からすると相対的な意味において選択肢の一つとして考慮されても良いであろう。
3.企業内教育の縮小化または撤退
企業や官庁への就職は自営するもの以外は、社会人として人生の大半を過ごす機会となる。企業等は新入社員に対し、企業等の掲げる理念や組織等を示し、一定の新入社員教育を課してきた。企業人としての心構えであり、定款に基づく詳細な内規に至るまで、その方法等は企業等によって異なるが、一種の人材育成の機会であった。導入時点での受け入れ教育はどこも行っているが、以後の教育機会は縮小か撤退の状況となっている。
何時の時代でも、人材育成は莫大な費用がかかるため、企業の業績や景気に左右され、利益が減益になると、まず始めに人材育成部門が合理化され、縮小か撤退の憂き目に遭う。
そのような不安定さを抱えながら、人材育成は続けられてきたが、非正規社員やアルバイトなどの従業員が正社員に比べ増加の傾向に転じると、人材育成の必要性は低下し、併せて、年功序列制賃金体系が、成果主義や実績賃金制となることによって、人材育成の基盤が崩壊の危機に直面している。
企業等への就職は就職試験によって判断される。主たる評価内容は学力試験である。学力試験の結果だけでは企業が必要とする、企業人となる条件を具備した者の抽出は難しいはずで、企業なりに採用後の育成によって、それを行ってきたが、もはや、その機会が消滅していることは嘆かわしいと言わざるを得ない。今までは、採用後に人材育成プランが適用されて、社会人としての能力を付与することができたが、それが出来なくなってしまえば、果たしてどのような方策があるのであろうか。
国も手をこまねいているわけではなく、企業が行う職業能力開発に対しては一定の助成措置を持っているため、企業側の負担は少なくて済むが、施設や、指導者を新たに抱えるにはそれなりの負担が発生する。技術やノウハウの継承問題や若手後継者不足の解消には、高齢者の再雇用年齢の引き上げや、在職期間の延長を行うばかりではなく、即戦力にならなくても、企業内教育訓練の先頭に立つ人材育成の担当等、従来と異なる制度を採り入れては如何であろうか。(次回へ続きます)
1.学校教育の知識偏重化と集団指導の弊害
学校が初等、中等教育の公的機関として担ってきた役割は大きい。少子化社会への移行は既に始まっていて、若い世代の人口減少が顕著に表れてきている。教師一人当たりの受け持ち生徒数は減少傾向となっていて、個別指導の絶好のチャンスでもあるが、個別指導は授業に付いていけない子供の補填的な役割であり、本来教育の原則である、潜在能力を顕在化するための方向ではない。個別に教育プランを作成し、それに基づく連続的な教育を行うとする変革が未だ手が付けられていない。このことは、財政面での限界があり、集団教育を個別教育に移行する動きが難しいからなのであろう。
集団教育に甘んじてきた行政の責任もあるが、その弊害は、中庸、標準化という仕上がり像に押し込める教育方法により、歪な競争社会を助長する反面、知識偏重化を増大してきた。このような教育環境の中では、他人を思いやる心は生まれてこないであろう。知識偏重は社会の動きに目が向けられなくなり、若い内に経験しなければならない社会の仕組みや、働く事への就業体験が無視され、社会人として必要な準備教育は殆どされてこなかった結果、どのように生き、どのような職業に就きたいかのイメージすら出来ない多くの若者を排出してきた事実が物語っている。
2.家庭教育の限界または崩壊
世襲制は伝統産業、芸能、一部家内労働等にその名残はあるが、多くの平均的なサラリーマン世帯においての家庭教育は、高度に複雑化されたネットワーク社会においては、殆ど機能しなくなっている。共稼ぎ世帯が殆どとなり、学校行教育が終わった後の家庭学習は、教える家族が居ないため、教育を生業とする塾、予備校、○○教室などの外部専門家集団に任すことになる。(次回へ続きます)
大人とはなんぞやという視点で成人の日に論争を試みることが活発化しているように感じている。どの番組も、この手の議論は苦手なのか、的を射ているようには思えず、感情論や推測、期待感等多用な意見があり、隔靴掻痒感は否めない。自らの経験からすると大人への関門は階段を上るように進む、人材育成の問題を孕んでいるという結論にたどり着いた。
紙面を見ていると某酒造メーカーの広告に、成人となった方への賛美と共に、お祝いのメッセージが載っていた。伊集院 靜氏の文章である。ご参考のために一部を抜粋すると以下の通りである。
真の大人というものは己だけのために生きていない人だ。
誰かのためにベストをつくす人だ。
金や出世のためだけに生きない、卑しくない人だ。
品性のある人こそが、真の大人なのだ。
「メッセージの題名は、「むかい風を歩くんだ」である。全文を掲載できなかったが、大人という関門への達成像を語っているように自らは捉えた。
だが、このメッセージは確かに言い得ている部分もあるが、疑問となった、多用な意見の出る背景を知ることが出来ないため、釈然としないのである。20歳に至るまでの若者が置かれている現状を、幾つかの項目に分けて分析を行ってみた。
1.学校教育の知識偏重化と集団指導の弊害
2.家庭教育の限界または崩壊
3.企業内教育の縮小化または撤退
4.期待される大人像
(次回へ続きます)
今日は成人の日で旗日である。新たにこの日を迎えられた方に対しては、大人の仲間に入られ、心から祝福したい。どのような感動を持つのであろうか、年齢で子供と大人を区分けしているわけであるが、どこで線を引くかは、国によって数歳の違いがある。我が国においても、武士の元服は15歳としていた時代があった。最近では18歳に引き下げる動きがあるが、関係する法律を手直ししなければならず、国民の同意も必要であろう。
何を基準にと考えれば、成人式を基準にする必要はない。むしろ、育った環境や、自立性があると周りが判断種れば、子供から脱皮した大人としての立場を得られると思う。相対的な判断が根底にあると思っている。大学に籍を置く学生においても18歳になった時点で、児童手当の適用はなくなるし、選挙権はないが、結婚することも可能である。
精神的な成熟や、肉体的にも社会人として活動できる。労働省で使われてきた労働力の年齢上の区分けは、15歳以上、64歳となっているが、このことは、中学校までが義務教育なので、義務教育を終了していれば、正式に働くことができると考えてよい。最近は上位学校への進学がほとんどで、職業訓練の対象年齢も高卒に変わってきていて、単純な労働を除き、中卒で就職する職域は限られてきた。
20歳というと短大卒業がその年齢に当たる。すべての人間が、20歳を迎えると大人となった行動を行うかというとそのような状況ではないし、たとえ、大学院を卒業したとしても、自立できていない人間も多い。大人とは、成人したということは果たして何であろうか。様々の状況が考えられるし、その解釈は多様である。性差によっても違いがあるし、地域によっても異なるであろう。学歴はあまり関係ないようである。年齢が若くても、年がいっても、それだけでは語れない。
では、自立しているかどうかは、15歳になれば賃金を得ることができるので、賃金を得ることではない。社会参加も十分に行っていれば、大人と何ら変わることはない。今までは結婚し、家庭を持っていれば、自立したといわれていたが、親の同意があれば16歳でも結婚可能である。
大人といったが、大人の定義が曖昧であるため、なかなか結論には至らないが、常に相対的なもので、自らの考え方や行動が相対的に漠然とした大人のイメージに合うかどうかだと考えられるため、明確に答えることができないようだ。いえることは子供が持っていないものを持っていて、立ち振る舞いができることだろう。子供との違いにヒントがありそうである。
成人の日を前にして、ちょうど日曜日であったが、早朝から小学生が集めて回る注連飾り、門松、輪飾り等の供出をお願いする声が聞こえた。連休に当たったためか、今日が、どんと焼きを行う日らしい。晴天に恵まれ、風もなかったので、神代植物園に行って、写真を撮った後、昼食と初詣を兼ねて深大寺へ行くことにした。
ガソリン価格が値下がりしているため、途中ガソリンを入れてから出発したが、バイパスの歩道には多くの人が行き来していて、町内会主催の餅つきがあるそうで、そのためか、近くの公園には人集りがしていた。正月の賑わいは今日で終わるような気配が漂っていた。なぜか分からないが、線香花火の燃え残りが最後にぱっと火花を発するように思えた。
世間はそう長々と正月を祝う気分ではないのかもしれない。成人の日が1月15日と決まっていて、長く続いてきたが、連休に結びつけることになって、今年は12日になるとのことである。15日正月といって、お屠蘇を飲み、小豆が湯を炊いてこの日に食べていた。小正月(女正月)といっていたと思う。正月の接待等で女性の活躍を労う(ねぎらう)日とされていたが、いつしかそれが遠い彼方へ行ってしまったようで、慣習からなくなっている。
神代植物園は、冬の風景と、春まだ遠しで、紅梅は堅い蕾をようやく開こうとしていたが、枯れ葉に敷き詰められた遊歩道は、霜柱を崩す音がしていた。しかし、何故か野鳥は元気よく飛び回っていて、思いがけぬ収穫もあった。四十雀の群れに参加したエナガとヤマガラである。それに上空には猛禽類、ギィーギィーと鳴くコゲラも混じっていた。
昼食は、植物園から出て、深大寺の参道にあるそば屋である。参道は初詣客で大変混雑していて、どこのそば屋も順番待ちの列で繁盛していた。この参道の出店には、達磨を形取った目の入らないだるまが売られている。本堂で初詣を済ませ、焼香の紫煙を身体に浴びた。身体の痛みや患っている場所に紫煙を浴びると治るといわれているので、御利益に預かろうとする善男善女に合流した。
お炊き上げの場所が設けられていて、お役目が終わった正月飾りで山になっていた。深大寺は禅宗の寺で、元三大師が開祖といわれている名刹である。湧水に恵まれていて、そばを供する店が多くある。初詣の賑わいは、言祝ぎによくあう。お迎えした年の始まりは、精神の清らかさをも表しているようで、今年一年が安泰で、健康に過ごせるようにと願い初詣を終えた。
全国展開している食品大手企業の異物混入事件の報道があった。以前にも製造過程で混入すると考えられるポリエチレンやビニールなどの小片が入り得ることは何度かあったが、どこにでもいるハエやゴキブリなどの生物の死骸などは工場内の密閉化で防ぐことができるが、製造工程に携わる従業員が行った餃子への化学物質の混入は防ぎようがない部類といえそうである。異臭がしたために大事には至らなかったようであるが、複雑化した販路など真相究明するまでは相当の日数を要した。
今回は人間の歯が抜け落ちて混入したとのことで、マスクをしての作業中に不注意で落としたものか、意識的に混入されたかは今後の調査に任される。考えにくい事件であり、どのような検出が必要であるかも再チェックしなければならない。非破壊検査や抜き取り検査、目視検査、磁気検査等行われているが、自動化によってもたらされる新たなリスクも考えられる。
従業員への信頼を失うことは経営者にとっては避けなければならない一線であるが、従業員教育の大切さは、その手段、時期、程度、回数等見直すべき事柄であろう。食品の製造に当たっては特に、衛生面ばかりでなく、市販される製品が、消費者の口にはいるわけであるので、消費期限、賞味期限、含有物質等、法に乗っ取って、適正に対応がとれているのか常時監視の目を光らせる必要がある。
最近はあまり聞かなくなったが、スーパーマーケットなどの販売店を利用する客が、故意に食料品へ縫い針等を差し込む事件があった。どのような反感があったのかは分からないが、不特定多数を対象とした卑劣な行為であり、決して許されることではない。
穿った見方かもしれないが、端から見ると食品流通業界の効率化で、組織が分断されているように見える。各部署の専門化による役割分担と、経営効率は当然であるが、末端では、アルバイトや、非正規の社員がほとんどで、マニュアル化は徹底しているが、どこか消費者の思いとはかけ離れてきている。
消費者がそっぽを向けば、企業側がいくら謝ってみても信頼関係が失われ、企業は倒産の憂き目にある。過去にその例はいくつもあり、平素からの信頼関係向上のために、企業ももっと努力を惜しまず、慎重にならなければならないであろう。
親指の傷
年末年始休暇は、地域の個人病院でも適用されて、当然であるが、救急病院や、輪番制の指定医療機関以外は診療を行っていない。長い休みを取る病院では、1月7日までの長丁場である。年末に負傷した親指の初診療は1月8日になってしまった。午前中は診療を受ける患者で無理なので午後からの診療を受けたが、開始時間前であっても5人ほどが記帳し、順番を待っていた。
親指の状況は当日の夜から腫れ上がり、痛みも強かった。内出血しているので、爪の色が青く縁取りされていて、爪の付け根が盛り上がり、皮膚との間がはっきり分かるようになっていた。熱を持っていたし、何かに触れると痛みを強く感じていた。3日目ぐらいにパンクし、体液と血液とが混じった液体が大量に出てからは、腫れや痛みは徐々に治まり、応急手当で、救急箱に入っているリバノールガーゼを巻いて様子を見ていた。
診療に行った外科クリニックは自宅から10分足らずの所にあり、自転車で行った。爪を剥がされると痛い思いをすると思い、乗り気ではなかったが、意を決していくことにした。順番がきて、診察室に入り、院長に見てもらい、事故当時のことを聞かれ、患部を見てからレントゲンを撮ることになった。現像処理が終わるまでの時間は長く感じたが、再び診察室に呼ばれたときはパソコンのディスプレーにレントゲン写真が写っていた。今ではネガフィルムではなく、ファイルとなって、マウスをクリックするだけで、画像が拡大・縮小が可能となっていた。
レントゲン写真で左右の親指を比較した陰画(ネガ)が写っていて、院長の説明が始まった。親指の骨折はないとの所見であった。骨折していれば、陰画に黒い線が現れるとのことであった。患部を消毒し、ガーゼを巻いて治療が終わり、しばらく様子を見ることとなった。爪が死んでいれば、新たな爪が出てくるそうで、旧の爪が浮いてくれば、取り除いてくれるとのことで化膿しないように、化膿止め(抗生物質)を処方してもらった。
爪を剥がさずにすんだが、しばらくは不自由すると思う。親指の負傷が他の指の酷使によって、手全体に関係することを知ったが、ちょっとした不注意がもたらした今回の顛末である。蛇足であるが、病院が1週間を超える休暇に入っても、混乱を生じないのは、バックアップ体制があることではあるが、さほど重症の患者がいないことも原因していたのかもしれない。