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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

実現塾 3/3  

2021-04-01 01:27:23 | 文化

 

>人間関係は、<西欧> では自己正当化・他者否定’  <日本> では周りと一体化である。 

 

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)    

 

>“溶け合うのかor闘い潰すのか”。>ただし、西欧人だって、赤ん坊がみんなそうであるように最初は一体化欠乏の塊。>根本には縄文精神がある。

 

縄文精神は無哲学・能天気の状態ですね。   

西欧人には、大人になる為の勉強がある。それは自己の哲学を得る技術を習得することであります。大人になる為の勉強がなければ無哲学・能天気になる。       

 

>■日本の縄文体質がこわされたのはいつ? >日本には、中国、朝鮮から、筋金入りの私権原理の武装勢力が入り込んできた。>(呉。楚。徐福。日本各地に上陸し、国をつくっていく。百済が唐に滅ぼされて、大量に日本へ。皇室をつくった=皇室は朝鮮人)>共認原理の日本人は“みんな仲間”でみんな歓迎。

 

なれ合いですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。   

 

>戦争は起きず、彼らはたちまち支配層に。

 

戦後の我が国におけるマッカーサの支配のようなものですね。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)   

 

>庶民は彼らを「おかみ」と奉って遠ざけ、自分たちは村落共同体を維持。  

 

自分たちの序列社会の維持だけが目的ですね。  

 

>>明治維新:黒船の脅威→盲目的に西欧思想を吸収。

 

猿真似の本領発揮ですね。処世術に基づく学習意欲では、実学 (技術) は習得できるが、哲学 (考え) はダメですね。      

日本人はそもそも「夢(dream)」とか「信条(creed)」や「信念(conviction)」という言葉が嫌いである。だから、つかみどころのない人間になっている。日本ではこれらは歯の浮くような言葉に聞こえる。非現実 (考え) の内容は、日本語の内容としては意味がないからである。考え (構想) の内容がつかめない。それで日本人は政治音痴になっている。 

 

>敗戦後のGHQ支配:強制圧力をもって個人・民主・自由主義の植え付け。  

 

思考停止の民族にはもっぱら暗記力が頼りですね。  

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) <日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。

、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり)    

 

>私権意識は入り込むものの、ごく一部のインテリのみにとどまる。

 

私権意識はインテリの付け焼刃のようなものですね。   

 

>70年豊かさを実現=日本人は活力最高潮。  

 

滅私奉公の効果でしたね。わが国には、人手不足はあっても頭脳不足はありませんでした。   

 

>それが一気にドン底へ。>何があった? 

 

あまりにも原始力に頼りすぎたせいでしょうね。再起不能でしょうかね。それも本人次第でしょうね。      

 

>農村から都市へ→村落共同体・大家族の崩壊。

 

農民の子孫は都市に出てサラリーマンになった。そして核家族を作った。     

 

>見合い結婚から恋愛結婚が主流となり、「核家族」ができあがる。

 

日本人もやっと西洋並みになったのですかね。表向きは自主的な行動が可能になったのですかね。      

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

 

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実現塾 2/3  

2021-04-01 01:07:43 | 文化

 

>・しかしそれは、村落共同体を超えた社会や国家のことは「自分とは関係ない」と捨象する意識を根付かせることになった。

 

そうですね。日本人には世界観がない。  

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、高度な文法の使用ができない子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。        

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

>◎結局、朝鮮から来た支配階級は3000年前から私権収束しているが、大半の農漁民はほぼ縄文体質のままで、庶民が私権収束を強めていったのは、せいぜい明治以降150年に過ぎない。>◎縄文体質と自我・私権はもともと背反するので、私権の衰弱スピードは日本人が段違いに速い。>私権が衰弱すれば、私権と一体化されてきた独占欲の性も、どこよりも速く衰弱する。

 

そうでしょうね。日本人には意思がない。意思の無いところには方法がない。

 

>◎それが、日本人の活力がダントツで世界最下位である理由である。

 

仕方がないから諦観する。座して死を待つばかりで活力がない。   

 

>と同時に、日本人の私権収束が段違いに弱いということは、脱私権⇒本源収束の可能性をどこよりも豊かに秘めているということでもある。 

 

お金は目的にはならないが有力の手段にはなる。だから、お金は大切です。しかし、お金を手段ではなく目的にしている人は、守銭奴 (けちん坊) として嫌われます。手段を目的化しているからです。これが空しい原因です。 人生の目的を確かめておきましょう。 

 

>【追求ポイント】>■共認原理の縄文体質と、私権原理の個人主義、その違いはどこから? >西欧:長期乾燥→餓え死の危機→遊牧部族が農耕部族に襲いかかり皆殺し:人類最初の戦争 >→共同体が完璧に破壊 >→集団の統合のため、西欧人独特の契約観念を生み出した。 

 

西洋人は何事も契約ですね。   

 

>アジア:敗けた方が強い方に服属するのみ。>共同体が残存。>特に日本は海で隔てられた島国。>原始共同体のまま生きてきた。  

 

我が国のように敵も味方も同一民族ばかりでは、民族浄化 (皆殺し) は考えられませんね。    

 

>◎日本人は人類の起源に近い。>本源性をそのまま体現している 

 

そうですね。日本人は生まれた時のままのような精神状態ですね。   

 

>■そもそも縄文体質とは? >自然との関係は、<西欧> では敵対・征服 ex.)西欧科学’  <日本> では調和・一体化’  である。  

 

日本人の自然に溶け込む有様は、他のアニマルと似ていますね。   

 

 

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実現塾 1/3  

2021-04-01 00:47:31 | 文化

 

>【実現塾】「活力どん底の日本人の可能性」の追求ポイントです。>【1】日本人の活力が、ダントツで世界最下位なのはなんで? >■どこから見てもドン底。>なぜ?

 

日本人には意思がないからでしょう。  

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく 

 

>・大人の労働意欲の世界比較のデータ「前向きに仕事をしている社員6%」  

 

意思の無い日本人の行動には受動があって能動がない。  

 

>・性の衰弱:セックスレス、若者に“女は厄介”“性を嫌悪”という意識が蔓延  

 

能動的にはなれないから性も衰弱するでしょう。   

 

>・本来元気なはずの子供が、ゾンビみたい。

 

我が国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。ゾンビの世界は夢幻の如くになっているのでしょうね。    

 

>3000年来の人類の生きる目標は、お金・地位・身分:私権の獲得。>ただし、それは貧困という万人にかかる絶対的な圧力があったから。 >’70年代、日本が世界のトップをきって豊かさを実現→私権の圧力が一気に衰弱。   

 

まるで我が世の春がきたような気分でしたね。     

 

>先進国共通なのに、なぜ日本だけ? →民族体質の違い。>西欧人は個人主義。>日本人は“和をもって尊しとなす”縄文体質。  

 

日本人は反個人主義。わが国においては個人主義 (individualism) は利己主義 (nepotism) と間違えられやすいですね。     

 

>5500年前イラン高原で始まった皆殺しの略奪闘争が、西洋にも東洋にも伝播して原始共同体が悉く破壊され、大陸全体が力の原理=私権原理によって統合されることになった。 >・他方、日本は大陸から離れた島国なので、共認原理の原始共同体のまま残存していた。 >・しかし23002200年前、中国での戦乱で敗れた呉や越の軍団、あるいは始皇帝配下の徐福の率いる大船団が、日本各地に上陸し各地に小さな国を作っていった。 >・私権原理を知らず共認原理しか持ち合わせていない縄文人は、力の原理の渡来人に簡単に服属し、あるいは歓迎して受け入れた。 >そして、彼ら渡来人が支配者となっていった。 >・続いて15001400年前、高句麗に敗れた新羅や、唐・新羅に敗れた百済の王族・貴族たちが、次々と日本に渡来。 >天皇を頂点とする国家を形成した。 >・しかし、共認原理の縄文人は、力の原理に対応する術を持たないので、彼ら支配階級をお上として切り離し、自分たちは村落共同体を形成して相変わらず共認原理で生きてきた。 

 

それは馴れ合いの習慣ですね。  

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。         

政治家にも、政治哲学がない人が多い。我々の未来社会の有様を大衆に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っている。上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことにより仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。 

 

 

 

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