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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

不気味な沈黙 4/4  

2021-04-13 20:53:36 | 文化

 

>その教育改革ということでも、本来は小中のレベルでもしっかりした能力別カリキュラムを運用すべきなのですが、政治的にできない。>そこで、都市部の富裕層は子どもを塾に行かせて中学から私立に行かせるという奇々怪々なことが、延々半世紀続いているわけですが、改まりません。

 

受験勉強の過熱は学問に名を借りた処世術の活用にすぎませんね。受験戦争によりわが国の学問の興隆を見ることはありませんね。    

 

>そんな中で、国家というものが変質してきているように思います。 

 

無哲学・能天気による国家の迷走ですね。   

 

>まず、精神的な帰属の対象ということがなくなりました。

 

我が国の序列制度は崩壊しつつありますね。   

 

>右派の言論の中には、東條政権以降の敗戦政策を叩くのは「反日」だというレトリックがありますが、では、右派の世論が「親日」であり国家への精神的帰属をしているのかというと、どうも違うようです。

 

義理 (序列関係から生ずる義務) が廃ればこの世は闇になるでしょう。右派は義理堅いですかね。   

 

>国家というものを、イデオロギーを軸とした言葉のゲームの「土俵=リング」としては使っていても、国家そのものへの信任とか帰属というのはどんどん薄くなっているようです。

 

日本人の国家への帰属意識は序列制度によるものですからね。序列制度という縦社会が、民主主義という横社会に移行すると帰属意識は当然薄くなりますね。    

無哲学・能天気の国民が言葉のゲームに力を入れても空理空論にしかなりませんね。   

 

>何を言っても、裏では「アカンベー」している感じがあって、その立場から見ると左派の言論には「より単純な一生懸命さ」があり、だからこそ叩くのが面白いということになっている、それ以上でも以下でもない、そんな印象もあります。

 

そうですね。日本語を使って議論をすれば空理空論以外には存在しませんね。日本人の発現には現実があって非現実 (考え) がない。   

 

>その証拠に皇室の権威というのも、気がつくとかなり怪しいという感じになりました。>内親王という「機関」について、中の人がちゃんと機能を演じる姿勢がないとなると、今度は観客の方も皇室に「統合のシンボル」として精神的な委任・依拠をしなくなる、そんなマイナスのスパイラルが動いているかのようです。

 

そうですね。日本人の行事には儀式があって教義がない。だから儀式の催行だけがとりわけ重要になっています。儀式のみに力を入れて教義を怠ると虚しさがこみあげてきます。 生まれた時には宮参り・結婚式はキリスト教会・葬儀は葬式仏教に頼むということになりますね。教義がないので日本人は形式に力を入れないと行事は常にマイナスのスパイラルを描くことになります。   

 

>こうなると、上皇夫妻が機関と中の人との折り合いを必死でつけて、近代の中における皇室制度というのを30年模索してきた蓄積も、どんどん食いつぶされてしまう危険を感じます。

 

そうですね。儀式と教義の並立が日本人には必要なことですね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

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不気味な沈黙 3/4  

2021-04-13 20:34:37 | 文化

 

>まず新型コロナのワクチンの問題があります。>どうして確保が遅れたのか、それは厚労省が「アンチワクチン世論」とそれを煽ってきたメディアによって、過去半世紀の間、負け続けてきた歴史があるからです。

 

残念な歴史ですね。メディアは可能な選択肢を並べて国民に分かりやすく示すべきですね。   

宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。

宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)   

 

>戦略的に先手を取って進めては、反ワクチン派の炎上作戦には勝てない、だから欧米での巨大な成功事例を待って進めたい、そんな思惑もあったのだと思います。

 

処世術に従えば、役人は後追い専門にならざるを得ませんね。先見の明はあって不要なものですね。       

 

>世論つまり有権者の亡霊に厚労省は恐れおののき、必死になって自分たちを守ろうとした結果ということです。 

 

そうですね。官僚には政治責任がありませんね。三十六計逃げるに如かずですね。   

 

>その一方で、ワクチンを使わない対策ということで、世論に媚びた「ゼロコロナ」政策などを掲げる政党もあるわけで、これは高齢者の感情論を丸のみすれば、当面は票になるという悪質な姿勢以外の何ものでもないわけですが、世論の方は目が肥えていますからそう簡単には騙されないでしょう。>つまり、枝野方式の「徹底した感染対策でワクチンに頼らず感染制圧、経済は徹底バラマキで回す」というセットメニューは、財政赤字が怖いとか、借金を次代に残すのがイヤという都市の高齢層の感覚には合わないということです。

 

帯に短し襷に長しですね。ジャーナリストの分析を広めて主権者の判断に役立たせる必要がありますね。     

 

>エネルギー政策も同時です。

 

我が国は、核の傘もワクチン製造も大国頼りになっていますね。この小国の姿勢で我が政府は国民の生命と財産を守る態度になっていると考えているのですかね。国の大本が受け身であって、能動がない。指導力を発揮することなく大国の庇護ばかりを当てにする。   

 

>原発再稼働はイヤ、英語公用語化や徹底した教育改革もイヤ、ということだと、世界が激怒するまでモクモク化石燃料焚いて製造業をやった後は産業を畳み、全土がペンペン草、国民は消滅して全員が千の風に化けておしまい、ということになりかねません。

 

日本人には世界観がありません。だから、あるべき姿という次の世界への移行は想定外になっていますね。そこで、お変わりのないことが何よりなことですとなる。千の風となるのか。原子力利用は人類の火遊びでしょうね。核廃棄物の処理もできない極めて危険な遊びです。      

 

 

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不気味な沈黙 2/4  

2021-04-13 20:15:45 | 文化

 

>2010年代ぐらいから、個人的に日本というのは「課題先進国」として見てきているのですが、その延長で、ついに日本というのは、機能としての政治権力が成立しない、そんな不思議な「未来国家ニッポン」に変容しつつある、そんな評価をしないといけないようです。

 

そうですね。我が国では政治権力は成立ませんね。日本人には意思がない。そして意思の無い人間達には効果のある権力は生じませんね。 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜くのが日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)    

 

>五輪に関してがまずそうです。>東京の高齢者などには「これ以上、騒がしい国際行事はイヤ」という感情があり、更に「国と都の税金が浪費される五輪には反対」という意見、そして「外国人観光客ばかりで町が荒らされるのはイヤ」という感情論も乗っています。>そうした「オリジナルのアンチ五輪」が、今回のコロナ禍によって「外国人観客はイヤ」となり、それを政府に呑ませたら、次に想定されるのは「役員、選手団、スポンサー枠の入国反対」となるに違いありません。>そんな中で、日本でのプレ五輪の国際大会に「ビザを出すな」とか「14日の監禁検疫とPCR陰性は絶対」「日本の住民との接触禁止」などの条件が競技別に炎上して行く可能性があります。>そして、どこかの時点でポイントがゼロになると、五輪としては全体がゲームオーバーになる、そんなストーリーが見えます。>では、そんな面倒なことをしないで、サッサと中止してしまえばいいのですが、主権者はそうした委任もしていないようです。

 

ああでもなければ・こうでもない。あれではいけない・これではだめだという。しかし、主権者は自分がどうであるかを断言しない。これは駄々っ子の態度である。こうした態度は受け入れ難い。       

 

>中止したならしたで、「自民党の失政だ」とか「安倍内閣の官房長官だった菅氏は共犯」だと叩くでしょうし、そうした圧力を感じていると、内閣も官僚組織も「中止の場合のコスト」を正直に国民に説明する勇気もなくなるでしょう。

 

それは内閣総理大臣の自由意思により決まるはずですね。   

 

 

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不気味な沈黙 1/4  

2021-04-13 19:56:34 | 文化

>366038        闇の権力者よりタチが悪い。日本の政治を支配する不気味な沈黙  >伊達政宗 ( 会社員 )          21/04/09 PM09

>リンク

>主権者が権力を委任しなくなった未来国家ニッポン >現在の政治状況は、不気味な沈黙が支配しています。

 

日本人には世界観がない。だから、自他の世界観を照合する習慣もない。それでお互いに疑心暗鬼の状態になっている。これが不気味な沈黙の原因ですね。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることにもなる。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) を示したことになる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。この場合は、全ての事柄は他人事になる。これは子供のするような話である。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神を示すことができる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' '現実' の上下判断になり自己の意見が現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけであるから、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。       

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、各社どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

 

>その正体について、何も怖いもののない田原総一朗氏などは、かなり鋭く状況を指摘しています(複数のインタビュー記事による)。 >「政府内は、IOCと同じく五輪を開催したいと考えている」>「五輪を開催できないとなると、選挙はいっそう厳しくなる。すると、菅首相では戦えなくなるだろうというのが一致した見方」>「そのため、自民党内では、菅首相とポスト菅のどちらで戦うのかについての選択で悩んでいる」>「開催に向けた大きなポイントは、ワクチンの一般接種」>「だが、接種の見通しは立たない」>「ワクチン確保の本格交渉は、河野太郎のワクチン担当兼務(2021118日)から、そのため接種スケジュールが遅れた」 >まあ、そうだろうなと思う内容ですが、この程度の内容でもちゃんと指摘できているのが田原さんぐらいというのは、闇が深い感じがします。  

 

我が国においては優秀なジャーナリストが育たないのですね。

 

>闇というと、どこかに怖い権力があって、その権力に官僚組織やメディアがひれ伏している、そんなイメージですが、今回の政治の闇というのは、ちょっと深さが違うようです。>強い権力が形成されて、そのために人々が弾圧されている、そこで自由な発言が封じられているのでは「ない」からです。>むしろ、進行している事態は反対であり「主権者が権力を委任しなくなった」という政治的な現象が起きているのではないか、私にはそう見えます。  

 

民が疑心暗鬼の状態になっているのですね。これが政治の闇の正体ですね。      

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)    

 

 

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