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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

愛国心のあり方 2/5  

2021-04-28 23:49:22 | 文化

 

>批判した人を弾圧し、出版を差し止め、言論の自由を奪ったことで『自分たちは素晴らしいことをして、周りの国に感謝されていて、聖なる戦いをして勝っている』と嘘を思いこまされたわけです。

 

勿論、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ (ヘルマン・ゲーリング)。           

 

>その反省のもとに戦後日本は進んできた。  

 

反省の程度にもよりますね。軽々しい反省は怪我のもと。意思のない人たちには、責任感覚もないですね。

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)       

 

>それを踏まえると中国のやっていることは怖い。

 

中国人のやっていることは昔から変わらない。

中国は中原の鹿を追う伝統的な覇者の国である。覇者の物語は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。独断専行に陥りやすい。漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。    

 

>愛国じゃない人を排除することは、国自体を危険な方向に導く可能性があります。 >民主主義を求める香港でやることがいいとは思えないですね。

 

そうですね。覇者の国は権威主義の国ですね。権威主義の国は民主主義の国とは敵対関係にありますね。香港内には不俱戴天の敵対関係が存在しますね。民主主義が勝つ方策が必要ですね。      

 

 

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愛国心のあり方 1/5  

2021-04-28 23:29:38 | 文化

 

>日本政府を批判する人間は『反日』なのか。 >「非愛国者」を排除した香港から考える「愛国心のあり方」 > ハフポスト日本版 2021/04/27 07:53

 (略)

>「愛国心」を盾に、権力に不都合な人間を政治の場から排除する仕組みが出来上がる。>香港で実施される選挙制度改革のことだ。

 

愛国心は権威主義者がわが身を守る仕組みですね。   

 

>選挙に立候補する人を事前に「愛国者」かどうか調べ、条件を満たさない人間はふるい落すことができる。 >自分たちと違う人間は「愛国者」じゃないから批判すべきだー。 

 

万事権威主義者の都合によるものですね。愛国者は単なる掛け声のようなもの。  

 

>香港のように制度化まではされていなくても、「愛国」という言葉は世界中で都合よく使われている。 

 

そうですね。愛国は権威主義者の好む言葉ですね。朕は国家ですから。      

 

>例えば、政権を熱烈に擁護するネット右翼は批判する人たちを「反日」と呼ぶし、「アメリカ・ファースト」を掲げたトランプ前大統領の支持者はこぞって「愛国者」を標榜した。>一体、真の愛国とは何を指すのか。

 

愛国者以外に言いようがないですね。主義主張がない人たちの集まりですね。       

 

>日本と香港にルーツを持ち、香港事情に詳しいフリーライターの伯川星矢(はくがわ・せいや)さんと、ネット右翼やアメリカのQアノン(※)に対する考察を重ねてきた批評家の藤田直哉さんが語り合った。

>(以下引用) >※Qアノン...アメリカのインターネット掲示板発祥の陰謀論。>アメリカの民主党や財政界などは『闇の政府』に支配されており、それと闘う英雄がトランプ前大統領だとする。>2021年1月の連邦議会襲撃事件にも信奉者が参加していたことが分かっている。>日本国内のQアノン信奉者を『Jアノン』と呼ぶこともある。>(以上引用) >© ハフポスト日本版 >(以下引用) >香港の選挙制度改革は中国の国会にあたる全人代で提起され、3月30日に可決された。>立法会(議会)選挙に立候補する際、新設された「資格審査委員会」が、立候補者が香港政府に忠誠を尽くすか判断する。 >(以上引用)

>伯川星矢さん(以下、伯川):>一見、定員数が増えたように見えますが、直接選挙の割合が減ったのが大きなポイントです。>親中派の多い業界に割り当てられる職能別選挙があり、そこが厚くなっている。>実質後退といっていい内容です。

>藤田直哉さん(以下、藤田):>「愛国」と「反中勢力」という言葉を聞くと、第二次世界大戦の日本を思い出します。>アジア全体に大きな被害を与えるような戦争を起こしてしまいましたが、当時の民主主義はそれを食い止められなかった。>暴走した理由の1つは批判ができなくなったことです。

 

そうですね。日本人にとって批判は難しいですからね。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

 

 

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