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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

過剰敬語 3/3  

2021-04-26 10:56:56 | 文化

 

> たかが言葉遣い、と思うなかれ。 

 

階称 (言葉遣い) が淘汰できなければ、考える手段としての日本語は使い勝手の悪い言葉にとどまるでしょうね。

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)  

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。思慮ある人は ’純粋によく観察する’が、凡人は ‘期待したもの’ しか見ようとしない。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>メディアの政府や総理に対するおかしな尊敬語は、私たちにもじわじわと効いてきている。  

 

そうですね。

 

>(編集部・小長光哲郎)

>AERA 2021426日号より抜粋       

 

 

 

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過剰敬語 2/3  

2021-04-26 10:09:21 | 文化

 

>作家の松本清張や日本文学者のドナルド・キーンを担当してきた編集者で、報道番組のコメンテーターも務める堤伸輔さん(64)は、「敬語へのなじみが次第に薄くなり、日本人にとって敬語が難しいものになっているからでは」と語る。

 

責任と関係のない上下判断は価値観の歪みにしかなりませんね。偏差値教育のほころびのようなものでしょうね。        

 

>「お年寄りに対してなど、年齢の上下関係で敬語を使うことが日常生活で減ってきています。 >その結果、どんな敬語の使い方がその状況における『適正水準か』が、わかりにくくなっている。 >敬語の使い方に自信がないと、人は過剰敬語になりがちなんです」 

 

そうですね。相手に損を掛けないようにすることが主眼となりますね。英語や中国語には階称はありませんからね。英米人も中国人も自分の親の名前や国家元首の名前を呼び捨てにしますね。だから、彼等とのやり取りに日本人は違和感をもちますね。        

 

> たとえば、「菅総理はこう言いました」と言おうとするとき、「こいつ失礼だなと視聴者に思われないか」と一瞬でも頭をよぎれば、「菅総理はこうおっしゃいました」と言ったほうが安全だと考えるかもしれない。 >瞬時の判断で敬語をどう使うべきかわからない場合、人は自分を守るために敬語を過剰に使う傾向があるのではないか。>堤さんはこう話す。

 

そうですね。日本人はこうして我が身の安全を図るのが常識ですね。世俗的な序列社会の崩壊が進んでいますね。          

 

>「そういう私たちの言語生活の変化が過剰敬語を生み、テレビの現場にもその波が及んでいる、ということだと思います。

 

そうですね。敬語はあって無用なものですね。   

 

>メディアだけではありません。>たとえば、野党による国会質疑の場面でも、『攻める』べき野党が、『総理、ご見解をお伺いできませんか』などと言うシーンをよく見かけますよね。>『総理の見解はどうですか』で十分なはずですが、対等な立場で相手を問いただすべき野党議員も、過剰敬語を頻発しているのが現状です」   

 

そうですね。皆が相手を呼び捨てにする ‘お前と俺’ の平等社会にはなれませんね。      

 

> 堤さんが最近気になる過剰な表現は、他にもある。 >その一つが、新聞記事などでよく使われるようになった「〇〇大臣はこう指摘した上で、□□と述べた」というときの、「指摘した」という書き方だ。

 

>■安易な「指摘」の使い方 >「そこで何か本当に大事なことを言っていたり、相手の言った間違ったことに対して『指摘』したりならわかります。>そうではなく、『政府としては状況を注視していきたいと指摘し』などは『指摘』でも何でもないですし、『述べ』あるいは『言い』で十分です。  

 

そうですね。 言葉の意味の勉強が必要ですね。Thesaurus (分類語彙辞典) を使うと便利ですね。  

 

>敬語ではないけど、『相手が何か大したことを言っているかのように』思わせる言い方を、実はメディアはひじょうに安易に使っています。

 

そうですね。歯の浮いたような空虚な発言が多すぎますね。   

 

>これも、同じ流れの中にある『広い意味での過剰敬語』だと思います」  

 

権威付けに役立つのでしょうかね。雰囲気に酔って中身がない。   

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。

 

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」   

 

フランク・ギブニー氏 (Frank Gibney) は、自著 <人は城、人は石垣> (Japan The Fragile Superpower) の中で、日本語と英語の違いについて、次のように述べています。

 

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じ込められていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味を持つ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず論理的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行なわせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には to be にあたる適当な動詞がない。“being とか reality のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。(引用終り)   

 

 

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過剰敬語 1/3  

2021-04-26 08:22:55 | 文化

 

>AERA dot. >「菅総理は言いました」は視聴者に失礼だと思われる?  >政治家に過剰敬語を使う背景  > 2021/04/22 08:00

 (

>菅義偉首相 (c)朝日新聞社  © AERA dot. 提供

>「総理がおっしゃっている」「総理がご判断される」。

>テレビ番組のキャスターや出演者が、総理大臣に尊敬語が使うことが当たり前になっている。  

 

そうですね。日本語には階称 (言葉遣い) がありますからね。朝鮮語にも階称があるので朝鮮人も似たような発言になりますね。「私は、偉大な金日成大元帥様が設立され、偉大な金正日大元帥様が輝かせてくださり、敬愛する金正恩元帥様が率いてくださる栄えある朝鮮少年団に入団し…」といった調子で宣誓することになりますね。世俗的な価値観によるゆがみを感じますね。   

 

>本来ならメディアは、権力監視役として政治家に過剰に尊敬語を使う必要はない。  

 

そうですね。世俗的な序列はあって無用なものですね。  

 

>背景に何があるのか。

 

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、世俗的な序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制から家元制度・やくざの一家に至るまでの構造的につながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域にまで達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。    

 

>AERA 2021426日号から。

>*  *  *

> 敬語に対する勘違いは、なぜ生まれているのか。

 

日本人には意思がない。従って責任もない。にも拘わらず世俗的な序列だけが厳として存在している。この現実が人々の精神的混乱を呼び起こすことになる。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

 

 

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