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中村修二氏

2017-10-28 00:57:02 | 教育
>日本でも米国でも、小学生までは違いがない。

人間ですから、違いは無いでしょうね。医療においても、人種別治療法といったものは存在しません。

>しかし、中学生、高校生になったら違いが生まれる。

それは、日本と米国では使用言語が違いますからね。言語は、人間が考える時の道具です。道具が違うと、結果も違ってきます。

>日本でも米国でも、小学生までは違いがない。

そうですね。人間ですから、違いは無いでしょうね。医療においても、人種別治療法といったものは存在しません。

>しかし、中学生、高校生になったら違いが生まれる。

それも本当ですね。それは、日本と米国では使用言語が違いますからね。言語は、人間が考える時の道具です。道具が違うと、結果も違ってきます。

>米国の場合、中学生になっても、高校生になっても、小学生と同じような好奇心をもって大きくなるが、日本の場合、そのような好奇心はない。

そうですね。礼儀作法など、日本では決まりきったことを習うのが大変なのです。現実に囚われて、非現実 (考え) にまで力が及びません。ですから、’考える人’ にはなれません。

>米国ではサイエンスの雑誌などが学生に売れるが、日本では売れない。

同感です。サイエンスは、日本人には難しすぎますね。サイエンスは哲学 (非現実) ですから。サイエンスの手法を習得すれば、哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) にもなる事が出来るのですがね。

>日本の場合、サイエンスに対する好奇心より、東大に入ることを目的にするような学生が生まれてしまうからだ。

序列判断は、日本人にとって分かりやすくて大切な内容ですからね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上とみるか・下とみるか’ の判断は日本語会話には欠かせません。日本人の礼儀作法も、序列作法になっています。上下判断を誤れば、礼儀正しい日本人にはなれません。人を見損なってはいけない。序列なきところに礼儀なし。こうした想いが日本人の強迫観念になっています。してみれば、やはり東大に入学するのがよいということになります。

>その結果、大学生になると、日米の研究に対するやる気が全然違う。

日本人は哲学に向いていません。それで、無哲学・能天気になっているのです。哲学は、ただ非常に難しい学問であると考えられています。そのような学問が英米人の教養として大学で教えられているとも考えられていません。非現実 (考え) の内容を語る学問が哲学であるとも考えていません。日本人は日本語を頼りにしていて、その日本語は現実描写のための言語だからであります。実況放送・現状報告の内容以外を語ることは、嘘をつく事であると信じています。この原則は、’話に現 (うつつ) を抜かしてはいけない’ と言い表されています。
日本語文法には時制 (tense) というものが無いので、非現実の内容を文章化できません。日本人の世界はあくまでも現実一つであり、過去・現在・未来の三世界は、頭の中に文章として留めおくことが出来ません。現実のみを語る人は浅薄であり、非現実の内容を参照しながら現実の対応策を語る人は、思慮の深い人になります。
それと、もう一つ大切なことがあります。それは、’意思のある所に方法がある’ ということです。(Where there’s a will, there’s a way.)
日本人には、意思 (will) がありません。意思は未来時制の文章内容であり、日本語文法には時制というものがありません。ですから、日本人には意思がありません。優柔不断・意志薄弱に見えます。このことが、日米のやる気の差となって現れます。日本人には理性的な能動がなくて、受動かばかりがあります。従順な人間であると考えられます。ですから、日本人は消極的です。自分の想いに反して、やる気がない人間と見られています。
この難局を乗り切る方法は、我々日本人が日本語と共に英語をも習得することにあります。さすれば、時制ある考え方も習得出来て、我々日本人はアメリカ人のポチではなくなります。


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