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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

長谷川豊氏

2018-12-22 22:49:21 | 政治


>「長谷川豊氏はそもそも本音で議論したら社会は壊れるという大前提を忘れてるんじゃないだろうか(リンク)」という記事を見た。

本音 (恣意) で議論したら、社会は壊れますね。恣意とは、私意・我儘・身勝手のことです。本音には、社会性のかけらもない。

>(以下引用)
>>だから人間の本音は仲間内で管を巻くぶんにはかまわないが社会に組み込まれてはいけない。>>個人の本音はけっこうな確率でいびつでゆがんでいて社会性のかけらすらないことがほとんどなのです。

そうですね。本音は、文章にならない。ばらばらな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在します。意味も無ければ、矛盾も指摘できません。もちろん、議論にもなりません。

>>人間はその能力以上に知力や理性を鍛えることのほうがはるかに難しいものです・・・僕の短い人生という経験上はいまのところそういうことになっています。

そうですね。理性判断 (rational judgment) のできる人間になることが大切ですね。

>(以上引用)
[以下長谷川豊氏]
>「本音には社会性が無い。>だから建前は大切」という議論はよくある。

建前とは、言い訳 (口実) のことですね。

>本音で社会が統合できないなら、人類は常に本音を押し殺し建前で社会を作らなければならなくなる。

本音と建前の社会には、誠意は感じられませんね。

>そうなれば何らかの建前に収束していくのも当然であって、本能や共認を否定・捨象して出来合いの観念に飛びつく。
>(「勉強脳」が大人になっても継続し得る背景ではないか)

相手から建前を聞いて、自分の腹の虫を抑えるのですね。

>しかし、建前という観念では統合できなくなった社会にあって、照準を当てるのはむしろ本音の方だ。

本音は、良くないですね。英米人から目の敵にされます。本音には、リーズン (理性・理由・適当) がないからです。’恥を知れ’ (Shame on you!) の一語で決着がつきます。理性判断のできない人間のみじめさを初めて体験することになります。わが国は恥の国であると言われているが、この種の恥が存在しない。

>そして、本能や共認からできている「本音」と、そこに混入している自我を理解して、その発現をコントロールできれば、新しい社会を作るための観念群を構築していけるはずだと思う。

我々には、‘あるべき姿’ の内容が必要ですね。無哲学・能天気ではいられない。
あるべき姿の内容は、現実の中にはない。非現実 (考え) の中にある。
日本語を使うと、現実の内容は文章になるが、非現実 (考え) の内容は文章にならない。
非現実の内容を文章にするには、文法に時制 (tense) というものが必要である。時制があれば、過去・現在・未来の独立した非現実 (考え) の三世界の内容を文章にすることができます。時制は、英語にあって日本語にはない。
だから、我々日本人は日本語と英語の両方を学び、時制の有用性を十分に理解して、自己の考え (非現実・観念) を表明できるようにすべきであります。

>われわれは自我を恐れず、本音で議論しあうべきだ。

我々は、自己表現の手段を手に入れて、自己実現に日夜励むことができます。自他の自己表現を突き合わせることにより、建設的な議論も可能になります。大同団結して、未来社会の建設に励みましょう。


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既成の社会

2018-12-22 18:33:51 | 政治


>就職状況がいいということは、いいことでもあり、具合の悪いことでもある。>なぜなら就職とは、既成の社会組織に組み込まれることを意味するからである。

就職状況がいいと、社会が停滞するということになるのですか。

>その社会に大きな目で見て問題があるとすると、個人はどうすればいいのか。

一朝一夕には行きませんが、個人は ‘考える人’ になる必要がありますね。

>戦前の日本がいわゆる軍国主義に走ろうとしていたとき、国民は何をどう考えればよかったのか。

国民は、座して死を待つしかないのでしょうかね。単純な抵抗勢力となるのか。

>メディアの報道を見ればわかる。>メディアの人たちも、典型的に社会に組み込まれている。>だから結局はその常識で記事を書く。

そうですね。メディアの人達も時流に流されていますね。

>そのことは、戦前の新聞に目を通せば、まさに一目瞭然である。>現代なら、就職状況はいい、保育園の待機児童は多い。>そういう類いの記事になる。

そうですね。

>では就職は人生を全うすることであろうか。

そう考えるよりほかに、仕方がありませんね。

(略)
>保育園の待機児童については、常に思う。>理想的な保育園ができたとして、その時に親はいったい何をするのか。

その時、親は何もしないでしょうね。

>私は言いがかりをつけているのではない。>保育園の理事長も三十年以上はやった。>そこで感じるのは、子育ての問題に現代人は本気のようで本気ではない、ということである。

そうですね。現代人は、’本気のようで本気でない’ ですね。無哲学・能天気ですからね。

>待機児童の存在自体が問題だ。>報道を見ている限り、そう思ってしまいかねない。

そうですね。

>少なくとも政治家は、頭の中では、そう切って捨てているはずである。>切って捨てられているもの、それは何か。>子ども自身の、子どもとしての人生であろう。>結局は万事、親の都合だからである。

そうですね。報道陣も政治家もご都合主義から来る見解を述べているのですね。子供の ‘あるべき姿’ など、どこにも論じられていない。 

>子どもに投票権はない。>子どもは大人になることを前提として扱われている。>そういう存在でしかない。>世間から子ども自体としての価値が消えた。>そういってもいい。

そうですね。大人は、子供を世間から厄介払いした。

>だからそれを補っているのがペットである。>少子化になるのも、無理はない。>どこをどう見ても、そう思えて仕方がない。

ペットは、子供の代用品ですか。ペットの数を減らせば、子供は増えるのでしょうかね。

>ローマ人は大帝国を築いた。>しかしやがてラテン語を話す人たちは消えた。>おそらく古代ローマは現代日本と似たようなものだったのであろう。

古代ローマも現代の日本も、ご都合主義に根差していたのでしょうね。

>既成社会はどこに向かおうとしているのか。

‘我らは、どこに向かうのか’ は、我々にとって大切な命題ですね。答えは未来時制の内容になりますから、日本人には答えを出せないでしょうね。

>現在の日本人の常識を変えず、生き方を変えないで、そのまま経過すると、日本社会は消える。

無哲学・能天気では、そうなるでしょうね。日本語使用では、’あるべき姿’ は出て来ませんね。’あるべき姿’ は、’今は無い姿’ である。現実の中に ‘ない姿’ は、わが国では ’嘘’ の内容としてとりあつかわれます。

>どこかでまた人が増え出すというのが、大方の意見である。

相変わらずの希望的観測ですね。他力本願・神頼みか。

>そうかもしれないが、そうでないかもしれない。

May be, may be not.

>就職率がよく、したがって多くの若者が就職する。>ということは、既成社会がさらに続くことを意味する。

そうですね。<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

>つまり長い目で見ると、日本人が消えることを意味するのではないか。

そういうようなこともあるでしょうね。これは、古代ローマ滅亡の再現か。

>だから私は、現代社会からいわば外れている人たちに注目する。

そうですね。現代社会から外れている人たちは、無哲学・能天気でない可能性がありますね。

>先に挙げたような人たちを見ていると、それが悪いとは思えない。>むしろ世間から外れて当然ではないか、という気がしてくる。>むろん困ったふうに外れている人もいる。>それはいつでもあることである。>だから外れろということではない。

勿論、そうですね。


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養老孟司氏

2018-12-22 11:23:15 | 日本語脳


>私 [養老孟司=ようろう・たけし] は20歳から37年間東大で解剖をやってました。>ある時思い立って辞めた。>外へ出たらびっくりしました。>世の中こんなに明るかったのか、と。

大学の中は、暗いですからね。

>辞める時に2年先輩の教授から、「ここは我慢会だからな」と言われた。>日本の勤めは我慢会なのですね。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。日本人のメンタリティ (考え方) は昔から同じですね。

>一番我慢した人が一番偉いのです。

序列社会の鉄則のようなものですね。

>学校の卒業証書もそうです。>ちゃんと年数だけ辛抱できた証明書なのです。

辛抱のお墨付きが大切ですね。

>2年経って初めてまた東大に行った。>おれ確かにここに勤めていたことあるなーと思った。>まさに前世の感覚なのです。

郷愁ですね。

>福沢諭吉は「一身にして二世を得る」、つまり一つの体だけど二つの時代を生きた、と言っています。>昔の仲間が昔通りのことを話すのを聞いていると、自分が二人いてその中に入っていく自分と入っていない自分がいる。

世の中には、変わる人と変わらない人がいますからね。

>周りも辛抱していると、我慢会だけが人生じゃないとなかなか気がつかない。

人生には転機が必要ですね。

>辞めた瞬間に世界が明るくなったのは、そういった辛抱が全部消えたからであります。

辛抱の世界は暗いですね。

(略)
>予測と制御というか、予めこうなるというルートに沿って今やることを調整する。>その典型がロボットとミサイルです。 >で、人間はそうか、と私は聞きたい。

人生は、予測がつかないですね。神の御心に誘導されているのかな。

>死ぬまで何をするか決まっていない。>それが生きるということですが、現代生活では定年になったらどうするか、とかかなり前から準備している。

定年後の生活が楽しみですね。

>そういう生き方を見ていると、ひょっとしてあの人はロボットに生まれた方が幸せだったのでは、と思うのです。

無哲学・能天気でいれば、ロボットになれますね。

>人は変わります。>自分が何10年か生きてきた世界が前世に思えるのは素直な感覚です。

そうですね。

>どうして前世かというと色が付いていない。

前世の話は、話の筋である。言語の内容である。話の筋には色がない。非言語の記憶内容のようにナウな感じがしない。

>今私が生きている世界はものすごく明るい。

それは、現実の世界ですからね。

>ちょっと生活を変えてみると色付きだと思っていた世界が実は白黒だったことに気がつく。

目先手先の世界 (現実) 以外には、色がない。

>その感覚が日本は特に強い。>それを補強しているのが世間です。

過去は疾く風化する。わが国人の脳裏には、非現実 (考え) の独立した三世界 (過去・現在・未来) は存在しない。

>自分より周囲の考えに従って行動する。

日本人には、意思がない。優柔不断・意志薄弱である。我々の行動は、受動的な行動の連続ですね。

>私は官僚の世界で長いこと我慢会をやったお陰で、腹の底は違っていても表面は合わせられる癖がついた(笑)。

‘お前らに、俺の腹の底が読めてたまるか’ ということですね。

>私は小学校2年で終戦で、戦前の教育がポッチリ入っている。

大変な戦争でしたね。でも、一億総玉砕はまぬかれて良かった。

>大人は食い物の始末で大騒動で、子どもは放って置かれた。>こんなに子どもらしく育った世代はない。

大人は、食うことに追われた。浮浪児もたくさん出た。

>次の世代は50代前半、全共闘です。>戦後の典型的な民主主義教育を受けた。

衆愚政治・烏合の衆になるための教育だったようですね。

>正義感が強い一方殺人が多い。

力は正義ですからね。Might is right.

>40代以下で典型的なのは上祐さん。>全く意味のないことをダーと言える。

声を出すのには、意味は必要ないのでしょう。

>今の新聞は大事なことを言わないために一生懸命いろんなことを言う。

日本人は、意味 (meaning, significance) に縁が遠い国民ですね。 ‘意味・意義’ を追及する者はいない。

>もし本音を一言でも言うと大騒動ですから今は。

本音は恣意 (私意・我儘・身勝手) ですからね。

>学者にも目立ちますね。

学者・素人の区別に本音は関係がないですね。

>世の中が違った人達によって作られると多分違ってくるでしょう。>違ってきた世界を見たいような気もするし大して見たくないような気もします。

そうですね。違ってきた世界を見ると、それ相当のストレスがかかりますからね。

>(おわり)


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考えの内容

2018-12-21 20:25:21 | 教育

>働いていると日々いろいろな出来事に直面する。>全てが当初の予定通りに進むことは当然少なく、様々な問題を克服しながら期待成果の創出に向けて努力している。

そうでしょうね。

>私自身、多くの報告や相談を上司に行い、支援を求めてきた一方で、今では、多くの報告や相談を受け、日々メンバーと共に奮闘している。>物事が順風の時にはあまり考えることは少ないと思うが、逆風の時は辛いことも多く、悩み、苦しみの中で誰もが一度は「自分は何のために働いているのだろうか」と考え込む経験をお持ちだと思う。

そうですね。金の為とばかりは考えられませんね。

>特に我が社は「人材育成の支援」を生業の中心に置いていることもあって、「そもそも何のために働くのか」という問答は、若手の研修の中でも、管理職の研修の中でも、ベテランの研修の中でも取り扱うことが多い。

「そもそも何のために働くのか」の内容は、人さまざまでしょうね。

>「働く」という行為の意味に改めて向き合う機会として、今回のコラムでは、「働くとは何か」について考えてみたい。

哲学的な内容になりますね。

>少しだけ我が社の紹介になるが、リードクリエイトの社員は、「働くことが好きな社員」が相対的に多いと思われる。

それは、結構なことですね。

>「好き」という言葉に語弊があるといけないが、「自らの意思で一生懸命働いている社員」が圧倒的に多いと思う。>これは我が社が誇れることの一つだと感じている。

自発的な人が圧倒的に多いのですね。日本人には ‘意’ はあっても、それは ’意思’ ではなくて ‘恣意’ (私意・我儘・身勝手) でしょうね。

>先日も、入社2年目になる若手プランナーが早朝から本(人事関連の専門書)を読んでいる姿を見かけた。>そして、日中は訪問活動を一生懸命行い、勤務時間終了後も、黙々と読んで必死でメモしている。>我が社ではよくある光景の一つなのだ。

彼は、勤勉な人ですね。

>単純に、国が定めた社会的なルールに当てはめてしまえば、「勤務時間外の業務扱いになるから、残業せずに早く帰れ!」というのが管理者としての“正しい声掛け”になるのかもしれないが、「ここが踏ん張りどころだ。このまま頑張れ!」というのが頑張ろうと努力している人間に対する“正しい声掛け”なのだと思う。

それは、我々にお馴染みの ‘頑張って’ の掛け声のようなものでしょうね。

>彼自身の日々の行動からは、「やらされ感」は感じない。>口には出さないが、「自分はまだ足りないから、役に立てていないから、いつか貢献できる人間になりたいから」という気持ちが伝わってくるのだ。

滅私奉公にはならないのですね。

>当然、辛い時もあるだろうし、サボる時もあるだろうが、自分の意思で必死に頑張っている姿を見ると、応援するのが当然だろう。

恣意を鍛えて、意地・根性・大和魂に育てているのではありませんか。精神主義でしょうかね。

>『自分に何ができるか。自分はどのような貢献ができる人間なのか』>これは「働く」を考える時にセットで考えることだと思う。

社畜の精神ですね。社畜も家畜も貢献ですね。それでも欠けているものがある。それは、何か。

>究極のところ、「自分とは何者か」に対する自分なりの解であるのだが、この“解”を導くことが非常に難しい。

‘我々はどこから来たか’ ‘我々は何者であるか’ ‘我々はどこに行くのか’ は、誰もが考えるべき命題でしょうね。しかし、日本人には無理でしょうね。内容が非現実 (考え) だからです。

>鷲田清一氏の言葉で「“他者の他者であるという視点”からしか個性は見えてこない」というものがある。

それは、外観から判断できる個性のことでしょうね。

>つまり、個性とは個体差であり、その「差」は対象があってはじめて見えるものであり、結局のところ、自分という存在は「他者の他者」というレンズを通してしか見ることができないのである。

それは、外見のことでしょう。アニマルと同次元の個体差のことでしょう。レンズを通して見えるものに重大な違いというものはありませんね。
人間の個性は非現実 (考え) の内容であるべきでしょう。これはレンズを通しても見えません。その内容は単なるお話であるから、理解を通してしか違いを知ることができませんね。この非現実の内容が重要です。非現実の内容を現実の内容に変換できれば、それは創造力を発揮したことになります。理想社会の建設も可能になります。

>そのため、自分という個性を自分の内面のみに求めてみても、普通の人にはわかるはずがないのだ。

自分の内面を相手の内面と比較すれば、個性の違いはわかりますね。ですから、意見交換は大切ですね。

>そして、ここで言う「差」は、良い方向の差である必要がある。

善悪の方向も対話の中でおのずと判明しますね。

>つまり、「どのような貢献が自分にはできるか」、もっと言えば「どのような貢献が自分にしかできないことか」が個性であり、この解こそが、その人の価値(個性)=生きる意味(存在意義)であると私は考える。

我々には、未来社会を建設する努力が必要ですね。移行すべき社会の内容を自分自身で明らかにして、建設的な相手を求める必要があります。建設的な協力を通して、夢と希望のある生活が送れるようになります。

>「“自分は”何がやりたいか」を起点としていては、永遠に辿り着けないことなのだ。

自分のやりたいことが大切ですね。自分のやりたいことを天下に公言したらよい。公言が、自己実現の始まりになります。

>今回のテーマである「働く」とは何か。>「貢献を通じて実感する“自分が生きている証”」>これが“自分なりの答え”だ。

無哲学・能天気は良くないですね。実力・実感以上の内容が、我々には欠けているのではないでしょうか。


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国際バカロレア

2018-12-18 17:36:10 | 教育


>教育を国際レベルへ
>編集部:まずお聞きしたいのは、日本の小中高等学校の教育についてです。>2020年から文部科学省が定めた新たな学習指導要領が順次施行されますが、この指導要領には国際的な教育プログラム「国際バカロレア」の要素が組み込まれていると言われます。>IBは、世界的には有名なプログラムですが、日本人にはあまり馴染みのないものです。>ですから、そもそも、なぜIB的な教育が必要なのかと不思議にも感じます。>これは本当に必要な変化なのでしょうか。
>後藤氏(以下、敬称略):必要だと断言できますね。
>編集部:理由はどの辺りにあるのでしょうか。
>後藤 [後藤健夫=ごとう・たけお]:最大の理由は、AI(人工知能)の進化です。>この進化によって、決められた一つの答えを、決められたルールの下で出す能力は、あまり重要ではなくなっています。>そのようなことは、AIにやらせた方が圧倒的に速く、正確だからです。>ところが、これまでの日本の教育は、ともすれば試験ための学びとなり、特に正しい一つの答えを出す処理の能力を高めることに力点を置かれがちでした。

そうですね。

>こうした正解が唯一に決まる問題ばかりを解いてきたため、正解主義に陥りやすくなります。>あらかじめ唯一の正解があることが想定されていることなど社会や生活の中ではありません。>正解を求めていても本当の解決には向かないのです。>そのようなことを続けていては、これからの時代で活躍できるような人材は育てられません。

そういうことになりますね。

>編集部:なるほど、AIの進化が、IBの必要性につながっていると。
>後藤:そうです。>また今日では、少子高齢化、環境問題、不安定な国際情勢など、社会的な課題が山のように積まれています。>これらの社会課題は、解決のための“正解”が一つではなく、いくつも選択肢があります。

そうですね。個人の意見は、人人により違いますからね。

>そんな時代を生き抜いていくには、あらかじめ決められた正解を出す力ではなく、答えのない中で最善の答えを導き出す能力がどうしても必要です。

そうですね。<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

>その力を身に付けるための教育プログラムの一つがIBというわけです。

効果が現れると良いですね。

>編集部:唯一の正解のない中で最善解を導き出す力を、IBはどのように育むのですか。
>後藤:IBは「世界最高水準の教育」を目指して設計されたプログラムで、学習者の主体的で本質をつかみ取る思考力を磨くことに重きを置いています。>その目的の下、教える側ではなく、学ぶ側に教育の中心軸を置き、学習者が主体的に、そしてクリティカルに学ぶことを基本にしています。>そうした主体的で能動的な学びが、未知の問題に挑み、唯一の正解のない中で最善解を見つけるという、これからの時代に適した能力を育んでいくわけです。

主体性・能動性が必要ですね。

>編集部:IBが生まれたのは50年前。その当時はAIはなかったと思いますが、それでもIBが世界的な教育プログラムへと普及・発展した理由はどこにあるのでしょうか。
>後藤:一つは、IBが世界平和の構築を究極のゴールとしているからです。>これは、ヨーロッパにおける2度の大戦の苦い経験から生まれたものですが、世界平和の構築には、人種や言語、宗教が異なる相手が異なる考えを持っていることを認める、つまり違いを違いとして認めることが大切なのです。>それを理念として掲げてきたからこそ、IBが各国からの支持を集めたと言えます。

白人中心主義を改めたのですね。

>生きていく意味を見つける
>編集部:能動的な学びが必要とされるということは、これまでの日本の教育が受け身の学びだったということですね。
>後藤:おっしゃるとおりです。

そうですね。わが国では、弟子は師に教えを乞うばかりでしたね。

>これまでの日本の教育は、まさに受け身の学びで、言われたことを黙々と着実に処理できる人を育てる教育でした。

体育の授業でも、受け身の稽古をしますね。これは、怪我を避けるためですね。おとなしい人間ですね。

>かつての高度経済成長期には、それでよかったと言えますが、AI時代のこれからは、言われたことを黙々と処理するだけの人材の価値はどんどん下がっていきます。>いまや工場でロボットが活躍する時代です。

人間は、ロボットに仕事の座を奪われますね。

>また、受け身の教育を受けてきたマニュアル人間や指示待ち族な人たちは、AI社会の中で働き場を失うおそれもあります。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.
日本人には意思 (will) がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものが無いので、日本語脳には未来時制がない。だから日本人は、意思の内容を表現できない。仕方がないので、無為無策でいる。マニュアル人間や指示待ち族になるしかない。

>後藤:AIやロボットが人の代わりに働くようになれば、働き場のない人に「ベーシックインカム」が支給されるようになる可能性があります。>そうなったら、多くの人が働かなくなりますよね。>そのとき、やりがいや生きがいを自分で見出せないと、生きる意味を見失いかねません。>つまり、これからのAIの時代は、人が生きる意味を問われる時代なのです。>ですから、主体的に学ぶ力や、やりがいや生きがいを見つる力を養うことが大切なわけです。

各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.

>編集部:今日のAIにできないことの一つとして、自身では課題が見つけられないという点がよく指摘されます。

Every machine needs a philosophy. (各機械に哲学は必要である) とは行きませんね。

>IB的アプローチを採用する効果は、AIができないこと──つまりは、自ら課題を見出す能力を育むこととも言えそうですね。

そうでしょうね。

>後藤:そうです。
>以前から、問題発見・解決能力の重要性は指摘されてきましたが、かつての手法は、仮説を立てて、問題を切り分け、解決するというアプローチでした。>これはプログラミングにおける「バグ取り」的なアプローチでした。

バグ取りは、プログラミングの本筋ではあませんね。

>しかし、今、必要とされている問題発見・解決能力は異なります。
>編集部:どの辺りが異なるのでしょうか。
>後藤:異なる考えや意見を調整して納得解を見いだすことが求められている点です。

弁証法が必要性ですか。

>そのときに「批判的思考力」が必要とされます。>要するに、あらゆる角度から物事を多面的にとらえて本質を見いだすために検証的にとらえることです。>批判的な思考では、痩せたのではなく「ベルトが伸びたのかもしれない」と考え、検証するわけです。

想定外にされている事柄が少なくなりますね。

>さらには、知識そのものさえも批判的に捉えて検証することが必要なのです。>そのことでお互いの考えの違いを違いと認め合えるようになり、それぞれの異なった常識をすり合わせて納得解を見いだせるのです。

対話により、リーズナブルな答えを見つけるのですね。

>後藤:そのためには思考の訓練が必要です。>日本の教育はこれまで、明示的に思考力を磨く訓練をしてきませんでした。

わが国のような無哲学・能天気の国柄では、思考力は問題にならないでしょうね。

>実際、ダボス会議に出席した私の知り合いは、日本人が会議で精彩を欠くのは英語力ではなく思考力の問題だと言っています。

間違った思考は、英訳を通しても正しい考えに変換できませんね。

>その問題を解決するためにも、未知の問題に挑み、違いを違いと認めて違いを理解したり知識さえも批判的に捉えて考えたりするIB的なアプローチを、教育に取り入れることが大切なのです。

そういうことになりますか。現実の内容は頭の外にある。その内容は見ればわかる。非現実 (考え) の内容は頭の中にある。その内容は見ることができない。だから、理解が必要である。
日本人の判断によれば、見ることのできる内容は、’本当’ のこと (真実) である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも ‘嘘つき’ にはなりたくない。だから、個人的な考えを誰も明らかにしない。
日本人は、現実オンリーの世界に住んでいる。現実の世界には、唯一の正解がある。非現実 (考え) の世界には、正解の内容が多数ある。現実オンリーの世界に住む日本人は、多数の正解を無意識に捨てている。これは、大問題である。
英語には、時制がある。我々日本人は、日本語と英語を学んで、時制のある考え方を理解して役立てる必要があるでしょう。英米流の高等教育は、非現実の文章内容 (哲学) の学習を育んでくれます。


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