1・4 わざわいだ。罪深き国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。
5・19 彼らは言う。「彼のすることを早くさせよ。急がせよ。それを見てみたい。イスラエルの聖なる方のご計画が近づいて、成就すればよい。それを知りたい」と。
5・24 それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、枯れ草が炎の中に溶けゆくように、彼らの根は腐り、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のことばを侮ったからだ。
10・17 イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上がって、そのおどろと茨を一日のうちになめ尽くす。
10・20 その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。
12・6 シオンに住む者よ。大声をあげて喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる大いなる方。」
17・7 その日、人は自分を造った方に目を留め、その目はイスラエルの聖なる方を見る。
29・19 柔和な者は主によってますます喜び、貧しい者はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。
30・11 道から外れ、道筋からそれ、われわれの前からイスラエルの聖なる方を消せ。』」
30・12 それゆえ、イスラエルの聖なる方はこう言われる。「あなたがたは、わたしの言うことを退けて、虐げと悪巧みに拠り頼み、これに頼った。
30・15 イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。
31・1 ああ、助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬に頼り、数が多いといって戦車に、非常に強いといって騎兵に拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。
40・25 「それなのに、あなたがたは、わたしをだれになぞらえ、だれと比べようとするのか」と聖なる方は言われる。
43・14 あなたがたを贖う、イスラエルの聖なる方、主はこう言われる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らをことごとく逃亡者として下らせる。カルデア人を彼らの喜びの船で。
45・11 イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう言われる。「これから起こることを、わたしに尋ねよ。わたしの子たちについて、またわたしの手のわざについて、あなたはわたしに命じるのか。
47・4 私たちを贖う方、その名は万軍の主、イスラエルの聖なる方。
48・17 イスラエルの聖なる方、あなたを贖う主はこう言われる。「わたしはあなたの神、主である。わたしはあなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。
49・7 イスラエルを贖う方、その聖なる方、主は、人に蔑まれている者、国民に忌み嫌われている者に、支配者たちの奴隷に向かってこう言われる。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。真実である主、あなたを選んだイスラエルの聖なる者のゆえに。」
60・14 あなたを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてあなたのところに来る。あなたを侮った者どもはみな、あなたの足もとにひれ伏して、あなたを『主の都、イスラエルの聖なる方のシオン』と呼ぶ。
解説:
「この「イスラエルの聖なる方」は、イザヤの特色的な表現で、全部で二十五回(類似の表現「ヤコブの聖なる方」「あなたがたの聖なる者」などを含めると、二十八回)にも及ぶ。ちなみに 旧約の他の書では七回用いられているにすぎない。これは、イザヤがいかに神の「聖」性を重要視していたかを示しているだけでなく、イスラエルが同様に「聖」であるように求められている ことを表明している。 神はその存在において、一方において他のものを一切寄せ付けない絶対的な方、超越者である故に「聖」であり、他方において倫理的、道徳的に完全な方として「聖」である。イザヤはこの真理を、自分の召命を通して明確に経験した(六章)。「聖なる方」主はイスラエルに同じように 「聖」を求められたが、イスラエルは神に属する者として持っているべきこの重要な特性を失ってしまっていた。」鈴木昌『イザヤ書 新聖書講解シリーズ』22〜23ページ。