聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2013/2/10 ローマ書八12-17「私たちが神の子どもであること」

2013-02-27 10:33:25 | ローマ書
2013/2/10 ローマ書八12-17「私たちが神の子どもであること」
イザヤ書六三7-19 詩篇七三篇

 ローマ書八章に入り、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださる。そのように力強い宣言を聞いてきました。そして今日また、力に満ちた慰めの言葉を聞いたのです。
 改めて繰り返しますが、ここでは命令や警告ではなく、事実と福音を告げています。
「12ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
13もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
 これもまた、私たちに「肉に従って生きてはなりませんぞ」と脅しているのではないのです。もし、とは言いますが、これは私たちの選択を迫っているのではなく、事実を述べています。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいない。もし肉に従って生きるなら、私たちは死んでいた。しかし、御霊によって生きる者とされて、からだの行いを殺す者、すなわち、肉に従って歩むのではない者とされたのだから、私たちは生きる。10節11節でも、私たちは生きている、生かされている。これが、福音によって与えられた事実であるのです。これが、14節の、
「14神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」
と繋がっていくのですが、続いて、
「15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」
と言われます。人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けた。奴隷は、従わなければ罰せられる、言う通りにしなければ怒りを買う、役に立たなくなれば捨てられる。そういう関係です。中には善いご主人もいるでしょうが、基本的には、奴隷というのは主人の御用や便利のために存在を許された手段に過ぎません。そこにある関係は、人格的な関係ではなく、条件的な関係です。そこには、気に食わなければ捨てられる、という恐怖があります。
 けれども、キリストが与えてくださったのは、神の子ども、という関係です 。そこにあるのは、御霊に従わなければ捨てられるとか、神様を喜ばせなければ怒らせてしまうという恐れは、一切ありません。また、神様は、その聖なるご性質のゆえに、罪に対しては怒られます(それも、激しく、厳しく、最終的には永遠に怒られます)が、決して私たちを恐怖によって支配しよう、怒りや「見捨てられ不安」といったもので動機づけようとはなさいません。むしろ、そうした動機付けではなく、神の子どもとされて、永遠に、何があっても切れることのない親しい関係の中に入れられたことを知らせたい。そして、恐れや不安、何かしなければ見捨てられるという動機付けから解放されていくことを願っておられます。
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」
と言われる通りです。私たちは、恐れではなく、また自分のしたことによって左右されるような思いではなく、愛によって、また神様の主権的で一方的に注がれた愛に動機づけられて、自分というものを(また、すべての周囲の人を)考えていくのです。
 自分の肉で頑張って生きようとする、というのでなく、神の御霊が私たちを導かれる。それは、私たちは神の子どもである、と言い換えられる事実があります。更にパウロは、「子としてくださる御霊」にかけて、「私たちは[その]御霊によって、「アバ、父」と呼びます」と付け加えます。この「アバ」という言葉は、よく説明される通り、言葉をようやく話せるようになった赤ちゃんが、父親を「アッバ、アッバ」と呼ぶ親しい呼びかけです。大きくなって人前でうっかりお父さんを「アバ」と呼んだら恥ずかしいとされるような、限りない親しみの籠もった言い方。そういう言葉で、神様を呼ぶことが出来る。勿論、「そんなに気安く呼んだら窘(たしな)められるのではないか」と恐れる必要は全くない。恐れ多いことですが、本当にそれほど親しい関係を与えられているのです。
 ところで、この「「アバ、父」と呼びます」とあるのは、「叫ぶ」という言葉です。そして、榊原康夫先生の注解によると、神に向かって使われるのは三回だけだそうで、いずれも生死の瀬戸際のような、必死の状況下での叫びです 。叫ぶ、ということ自体がそうですが、御霊によって「アバ、父」と叫ぶ、という言葉遣いは、私たちが静かに、親しみや信頼を込めて呼ぶ、その状況が、生死の境目、「死の影の谷」を行くような状況であるとしても、とのニュアンスを伝えています。のんびり、長閑(のどか)に「お父さん」とベタベタするのでなく、もっと厳しい、嵐のような状況下でも、神への深い信頼をもって、父よ、と呼ぶのです。「こんな厳しい目に遭わせて、神なんて信じられない」と恨(うら)みを零(こぼ)すのではないのです。悲しみや痛みに翻弄されながらも、なお神の子として、父なる神の愛を信頼して、神に「アバ、父」と叫ぶのです。(これが、この八35以下に具体化されるのです。)
「16私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」
 これは、15節の続きです。子としてくださる御霊、この方にあって「アバ、父」と呼ばせてくださる御霊、その御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださる、という繋がりです。つまり、御霊が私たちが神の子どもであることを証ししてくださるとは、15節で言っていた、私たちが御霊によって、「アバ、父」と叫ぶようにされている事実のことなのです。カルヴァンを引用する、榊原先生の解説をそのまま孫引きしてみましょう。
「わたしたちが神の子であるということ、また自分たちが本当に信者であるということがはっきり分かるのは、祈るときにおいてである。…祈りにおいて、「アバ、父よ」と叫ぶ祈りをしている事実が、まさに“私は神の子なんだなあ”ということを「あかしする」のである。だから、祈らないクリスチャンというのは、自分がクリスチャンであることをいつも確信し続けることができない、ということなのです 。」
 更に、17節では、「相続人」と言われます。
「17もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
 「神の相続人」とは、神を相続とする、ということです。詩篇七三篇でダビデが、
「25天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。
地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。
26この身とこの心とは尽き果てましょう。
しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」
という、あの相続です。そして神が私の相続、神が私のものとなってくださるために、私たちは今、キリストと苦難をともにしている。それによって、キリストと栄光をともにする将来が約束されているのですが、その「栄光」とは、神が私の相続となる、という「栄光」なのです。
 肉に従う生き方は、恐怖や不安を秘めている生き方です。神の愛は、そのような恐怖を取り除き、神の一方的な愛に安らいで、もう私たちが神の子であるという動かされない事実を約束してくれています。しかし、だからといって、私たちが、そこに甘んじて楽ばかりを求めたり、苦難を不服としたりする、というのではないのです。神が私の相続となってくださっていることだけで十分とし、恐怖があろうとも脅かされない。叫ぶような状況でも、神の、父としての御愛を信じて動かされない。そればかりか、キリストが苦難を負われることなしに栄光をお受けにならなかったように、私たちもまた、苦難を負うことにこそ、地上における神の子らの歩みがあることを心する。あるいは、私たちが神を相続させていただくためには、なお多くの苦しみを経て、私たち自身の思いをきよくされ、取り扱っていただく必要があると知っている。だから、苦しみそのものはその時は辛いわけですが、やはり恵みであるわけです。それによって、神が私の相続であることで十分と喜び、また、私たちも他の人と、恐れや律法による関係ではなく、本当に自由で、愛によって動かされる関係を築き上げていきたいと願うのです。

「恵みによって私共を救い、神の子、神の相続人としてくださった主が、恵みならざる一切のものから私共を救い出してください。アバ、父と呼ぶ祈りの中で成長させてくださり、苦難を通して精錬してください。そのすべてに、見えざる御霊の確かな手がある。ですから、私共もまた、他者を恵みによって愛する者と強いてでもならせてください」

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2013/01/27 ローマ書八9-11「イエスをよみがえらせた方の御霊が」

2013-02-27 10:31:56 | ローマ書
2013/01/27 ローマ書八9-11「イエスをよみがえらせた方の御霊が」
ゼカリヤ書二6-13 イザヤ書五七15-19

 短い、このたった三節の中に、「もし」という言葉が三度繰り返されます。原文を読みますと、9節の後半も「もし」という言い方をしているのです 。もし、キリストの御霊を持たない人であれば、キリストのものではありません、と直訳できます。あまり、もし、もし、と畳みかけられると、自分はどうなんだろうか、神の御霊が自分の中に住んでいるのだろうか、キリストが私のうちにおられるのだろうか、と何となく不安に思わないではなくなる。自分は大丈夫だろうか、と落ち着かなくなる気もします。
 けれども、これも原文を読むとハッキリするのですが、9節は実は、「あなたがたは、しかし、」という言い方で始まるのですね。非常に強い言い方で、
 「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。」
 そして、そのことに加えて、
 「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるのであれば」
なのです。つまり、「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられますか、どうですか、ダメだったら話は別ですけれど、御霊が住んでおられるのであれば、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるですけれどね」、そんな曖昧な話をしているのではないのですね。あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいる。なぜなら、神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるわけですから。そのように言っているのです。
 繰り返してお話ししてきましたように、パウロはこのローマ書の前半では、キリストの福音を語っています。キリストの一方的な恵みによる救いです。だから、ここではパウロは読者に向かって、こうしなさい、ああしなさい、肉によらず御霊に従いなさい、というような命令・勧告はほとんどしていません。ここでもそうです。前回の8節まででも、肉にある者は神を喜ばせることが出来ません、と言っていたのですが、それは、あなたがたが肉の中にあるなら神様を喜ばせることは出来ませんよ、気をつけなさい、と言いたかったのではない。この9節でハッキリと、
 「けれども、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」
と言い切っているのです。ただ、それが無条件に、ではなくて、神の御霊が私たちのうちに住んでおられるということが前提・証拠としてある。ただの言葉ではなく、本当に私たちのうちにおられる。それを裏付ける事実として、御霊が私たちのうちに住んでおられる事実を持ち出しているのです。同じ事が、あとの「もし」にも言えます。
 「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」
 けれども、パウロは読者の教会に、キリストの御霊を持たない人がいるかもしれない、と考えているのではありません 。あなたがたはキリストのもの。私たちはもう罪の奴隷ではなく、神の奴隷、義のしもべである、と言ってきたのです 。ある方は、キリストのもの、というのを言い換えて、キリスト者、クリスチャンと説明します。あなたがたがキリスト者であるという以上は、神の御霊が住んでおられるのだ。神の御霊が住んでくださったからこそ、私たちがキリストを信じ、悔い改め、神に従おうと歩み始めることが出来た。それは、人間の力、肉によっては決して始めることも、願うことも出来ないものでした。しかし、キリストが私たちを捉えてくださいました。
 「キリスト・イエスにある者」
としてくださいました。それは、ただ私たちの与(あずか)り知らないところで所属が変わったとか役所かどこかで手続きがなされた、というだけの話とは違うのです 。御霊が私たちを捉え、御霊が私たちの中に住んでくださっている。それによって、私たちが新しく、キリストのものとなって、信仰や悔い改めをいただいているのです。私たちはキリストのもの、キリスト者、である。そのように言えるのは、ただキリストが私たちに、御自身の御霊を通して住んでくださっているからなのです。
「10もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」
 この10節の「霊」は私たちの霊ではなく、定冠詞付きの霊、すなわち、神の御霊です。私たちの体は死んでも、私たちの霊や魂は死なない、という霊肉二元論ではありません。からだは罪のゆえに死んでいる(やがて死ぬ、ではなく、今、生きながら罪に死んでいる状態である)としても、その私たちのうちにキリストがおられ、いのちの御霊が生きていてくださる。そう言っているのです。エデンの園で主に背いたアダム以来、罪と共に死が人類に入って来ました。しかし、キリストが私たちのうちにおられるなら、義の故に-あの、十字架において果たされた義、不義なる者を義としてくださる神の義のゆえに-御霊が私たちの中に住まわれ、私たちのいのちとなっていてくださるのです。これが次の11節にも繋がっていくのです 。
「11もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
 内容的には10節を繰り返して強調しているのですが、さらに一歩踏み込んでいる、とも言えます。特に、「イエスを死者の中からよみがえらせた方」と二度も同じ事を言う辺りに、パウロの熱い思いが伝わってこないでしょうか。十字架に死なれたイエス様を、父なる神は御霊によってよみがえらせなさいました。もちろん、イエス様御自身、永遠で全能の神ですから、イエス様がよみがえった、と言っても可笑(おか)しくはないのですが 、聖書は御父が御霊によってイエス様をよみがえらせなさった、イエス様はよみがえらされた、といつも受け身で語っています。そして、そのイエス様をよみがえらせた方の御霊が、私たちのうちにも住んでおられて、この私たちのからだ(私のからだ、皆さんのそのからだ)に住んでいてくださる。イザヤ書五七15にも、主が民の中に住まわれる、という言い方がありました。他にもあちこちに、聖書の契約が、主が民の中に住まわれることを柱とするものとして語られています 。主が私たちのうちに住まわれる、というのは、聖書の救い理解、神の民のあり方を語っています。けれども、それが私たちのからだに住まわれる、と言われているのですね。私たちのこのからだ、生身のこのからだに、神が御霊を住まわせておられる。それは、この私たちのからだは、生きているようであっても罪に死んでいる、実際の死に向かってゆっくりと朽ちていくようなからだであるけれども、そこにイエス様のよみがえりのいのちを持つ御霊がいのちとなっておられて、このからだを生かしてくださるためだ。そう言われているのです。
 当然ですが、イエス様の御霊が復活のいのちをもって私たちのうちにおられるからといって、私たちが死ななくなるわけではありません。病気が健やかに癒えるとか、鋼(はがね)のように頑強なパワーを持つと約束されているのでもありません。むしろ、どんなに健康で肉体美を誇るような体であったとしても(実際、ギリシャの彫刻のような体が当時も憧れられていたわけですが)、それをも「死すべきからだ」「罪のゆえに死んでいる」とパウロが言い切るように、やがては死ぬからだの健康をどんなに飾ったところで御霊のいのちとは別のものでしかないのでしょう。私たちのからだは、本当に不思議な力や構成を持っている神秘的なものでもありますが、同時にやはり、朽ちるもの、病気をしたり老化したりするものです。また、現代の医学では、DNAだとか脳の働きやホルモンバランスなどが解明されてきて、それぞれの体の要素から、私たちの性格や行動、感情、男女差、好みなどがどれだけ影響を受けて、縛られているか、ということも言われています。そういう、このからだの中に、御霊が住んでおられる。私たちの弱さ、脆さ、痛み、不自由…。そういうものを全部ご存じの上で、御霊が私たちのうちに住まわれている。そして、私たちを、不老不死や無病息災とは根本的に異なる、イエス様の復活のいのち、自分を与えるいのち、厳しくも思いやりに満ちたいのち、神によって与えられた十字架の道を委ねきって生き、死ぬ、そういういのちに満たしてくださるのです。
 主イエス様をよみがえらせた方の御霊が、私たちのからだにも住んでおられる。これは物凄い事を言っているわけです。あまりに凄すぎて、ピンと来ないこともあるでしょう。そして、それに比べれば遥かに些細(ささい)であるはずの日常的なこと、周囲の人間、また自分自身の問題などに思いを向けて、不満や虚しさを訴えてしまったりするのです。だからこそ、私たちがキリスト者であるからには、このからだがよみがえりのいのちの御霊によって生かされているのだ、と心に教え、目を天に向けて、本当に主にあって自由にされ、何者にも振り回されず、主に結ばれて歩む者とされたいと願うのです。

「いのちの御霊が私共を住まいとしておられます。私共の貧しさ、弱さや欠けを先刻承知の上でこの私共のからだ、歩みを通して、イエス様の愛、死、いのちを現したもう。そのお約束に私共をお委ねします。主が私共の主であられることがどれほど尊く、確かであるかを共に知り、信じて歩ませてください。総会をも祝し、ひとりひとりが主の宮として成長する中で、この教会の歩みが主のいのちを輝かせるものとなりますように」

文末脚注

1 ただし、9節の最初は、あとの3回と違う、エイペルという言葉です。後の3回はエイです。
2 「さらに、読者がたは、ここで御霊が、今度は「父なる神の御霊」、今度は「キリストの御霊」として、無頓着に呼び変えられていることに注意しなければならない。これは、単に、御霊の満ち満ちた方が、われわれの仲保者であり・首(かしら)でありたもうキリストの上にひろがり、これにより、そこから、われわれのひとりびとりにもその分け前が注がれるからだけではない。それのみでなく、この同一の御霊がまた、その本質を一つにし、永遠なる同一の神性を持ちたもうところの、御父と御子とに共通な御霊であるからでもある。しかし、そうであるけれども、われわれは、キリストによることなくしては、神との連絡を何一つも持つことがないので、使徒は慎重にも、われわれから遠くへだたっておられるように見える父なる神〔の御霊〕というところからはじめて、次にキリスト〔の御霊〕へとくだって来るのである。」カルヴァン、206頁
3 ローマ書六6、18など。
4 ローマ書八1。
5 永遠の聖定ということでは、世の始まる前、すでに神の側で私たちの救いは定まっていました。十字架において、私たちの救いのみわざは成し遂げられました。その意味では、私たちは、自分の外において救いが果たされたことを信じます。しかし、その「外」の救いが私たちの「中」に働いて、信仰があり、救いを確証することが出来る、という事実もあるのです。Extra nos(私たちの外)での救いが、In nobis(私たちのうちに)来るという両面が、改革主義的な救い理解の特徴です。
6  「神の子たちが霊的であると価値付けられるのは、彼らが完全・無欠な完成されたものになっているがゆえにではなく、ただ、かれらのうちで始まっている新しい生命のみのゆえにである」カルヴァン、206頁
7 他にも、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ書二20)、「私にとって生きることはキリスト死ぬこともまた益です。」(ピリピ書一21)などが、この箇所とこの解釈に重なります。
8 事実、イエス様は御自身を「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来るときが来ます」(ヨハネ伝五28)、「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです」(ヨハネ伝六39)、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ伝十一25)とおっしゃいます。イエス様のことばによって、死者はよみがえる、と明言されています。ただ、それは、御霊抜きに、ではなく、御霊が「イエスの御霊」としてお働きになる、御子のみわざでもあるのです。御父、御子、御霊は、バラバラに働かれるのではなく、三位一体としてそれぞれにお働きをなさるのです。
9 出エジプト二九46「彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼の間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。」など。

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2013/01/20 ローマ書八5-8「御霊に従う者」

2013-02-27 10:29:52 | ローマ書
2013/01/20 ローマ書八5-8「御霊に従う者」
エレミヤ書四二章 詩篇六三篇

 肉と御霊、という対比が何度も出て来ます。ローマ書の特徴的な表現ですが、前回も申しましたように、ここで言う「肉」とは、文字通りの「肉体」とか「物質」という意味ではありません。また、肉体の欲望が汚らわしく忌むべきものだ、という意味でもありませんし、広く道徳的な悪全般を指しているわけでもありません。その人自身としては真面目に正しく生きようとしているとしても、神から離れたまま、その正しさを果たそうとする。そのような、根本において神から離れて、自分が中心になっている生き方を、「肉」と呼んでいるのです。
「 5肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」
 神に背を向けたまま、自分の考え、願い、欲、そうしたものに従って生きる者は、自分のことしか考えません。そこから、結局は、あらゆる罪や汚れが出てこないわけには行かないのです。それをパウロは、結局は「死」だと言い切ります。
 「 6肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」
 この、5節の「もっぱら考えます…ひたすら考えます」という言葉も、6節の「思い」という名詞も、同じギリシャ語の動詞形と名詞形です。これは、後の十四6では、「(日を)守る」とある言葉で 、マタイ十六23では、イエス様がペテロに、
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」
と叱りつけた言葉でもあります。新共同訳で「重んじる」「評価する」「うぬぼれる」などと訳されています。肉に従う者が重んじること、肩入れをして、過大に評価していることは、肉的なことであり、最後には死に至ること、いのちなる神に背くことでしかありません。神のことを思わないわけではないけれど、大事にしているのは、肉のこと、自分のことなのです。御霊によって導かれるところでは、いのちと平安だと言いますが、肉に導かれるのは死であり、平和を捨ててでも自分の思いを貫こうという思いでしかないのです。
「 7というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」
 肉に導かれてある限り、根本的な性質上、神に対して反抗するし、神の律法に服従しようとはしない、いや出来ないのです。
 「 8肉にある者は神を喜ばせることができません。」
 肉にある者がどんなに真面目に一生懸命に、立派な生き方をしたとしても、社会では絶賛されて、歴史に名を残すこともあるかも知れないとしても、神を喜ばせることはない、と言われます。それは、その人の根本的な願いが、神に向いていないからです。神を、天地万物の主であり、永遠のお方である神を本当に思うなら、神に相応しく、恐れ畏(かしこ)んで、思わずにはおれないものです。しかし、「肉にある者」は、自分が中心です。神様も、自分の脇役とか、人生の引き立て役だとしか考えようとしません。それが「肉」という表現の指すものだからです。ですから、神を神とするという根本がないのですから、神を喜ばせることは出来ないのです。
 けれども、何度も申していますように、これは、私たちに対して、「あなたがたは肉に従っていませんか。肉の思いを持っている限り、神を喜ばせることは出来ませんよ。肉に従うのではなく、神に従いなさい」と命じたり警告したりしているのではないのですね。パウロは八章でも命令や勧告は一切していないのです。言っているのは事実であり、これを知ってほしい、というのがパウロの願いです。
「 1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
 そう歌い上げて始まった八章です。そのことを頭に入れておいていただきたいのです。 「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない、という驚くべき宣言、文字通りの「福音」を語っているのです。4節でもハッキリと、
 「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たち」
と言っていたのです。キリスト者は、「肉に従う者」ではなく「御霊に従う者」である。そうパウロは言っているのです。私たちキリスト者は、自分が「まだまだ御霊に従わず、肉に従っているなァ。御霊に属することよりも、肉的なことばかり考えているなァ。神を喜ばせることが出来ていないなァ」などと考えてはいけないのです。それよりも、神が私たちを、御霊にある者としてくださった。
 「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」
と言われたとおり、私たちはキリスト・イエスにある者、御霊にある者である。そう信じなさい、とパウロは言っているのです。
 確かにまだまだ私たちは、肉的なことを考えることが多く、御霊に属すること、神の律法に服従することを考えるには貧しいものです。しかし、それが大事なのではありません。大事なのは、私たちが、キリスト・イエスにある者とされている、という事実であるのです。私たちのわざが第一なのではなく、神のみわざが第一に仰がれ、重んじられるべきなのです。そこに私たちの慰めも希望も生じるのです。
 注意してください。私たちの中に、御霊の思いや肉の思いがある、とは言われていないのです。私たちの心の中に、善と悪が宿って葛藤している、悪を選んでしまう、そういう次元の話ではないのです。私たちが、御霊の中にある、ということです。神の大きな御手の中に私たちが既にある、ということです。また、「御霊に従う」とあるのも、私たちが御霊に従おうと名乗り出て、勝手に御霊に従おうとしたり、挫折して「もう無理だ」となったりする、そういうものではありません。まず、
「 2…キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した…」
のです。まず、神が力強く働いてくださったのです。その導きによって、私たちが御霊に従うことも始まったのです。(ここでパウロが、七章後半の「私」「私」から、「あなた」に舵を切ったことにも気づきましょう。これは、「あなた」なのです。)神があなたを導かれたからこそ、あなたは御霊に従う者とされたのです。そして、いろいろな雑念(ざつねん)、煩悩(ぼんのう)が今なお根強く残ってはいるとしても、御霊に属することを重んじる、その素晴らしさを認める、結局は自分の欲や願いよりも、神様の御心がなりますようにと祈る者とされており、そうした信仰において成長を与えられているのです。いのちと平安を思う者としていただいているのです。そして、8節の裏を返せば、なんと神が私たちを喜んでくださっているのです。神を喜ばせることが出来る者とされている…。
「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。
救いの勇士だ。
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、
その愛によって安らぎを与える。
主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」
 この主の喜びの中に、私たちが今ある。私たちが神を喜ばせるようなわざをしたら、御霊にある者となる、のではないのです。神が喜んで、何の重んじるに値することのない私たちを、不思議にも、有り難くも、選んで救ってくださった。キリスト・イエスの贖いに与らせ、御霊に導かれる者としてくださった。私たちが今なお不十分で、失敗ばかりしているとしても、それでも神は私たちを喜んでくださって、養い育ててくださるのです。
 そのことを踏まえた上で、私たちがますます御霊に従い、心の奥深くまで、生活の隅々にまで神様の恵みが染み渡るようにとの招きも語られます。恵みによって生かされているのですから、私たちもまた恵みに生きる。人を裁いたり、利用しようとしたりするのでなく、掛け値なしに愛するようにとの勧告も語られます。特に十四18には、互いの違いを踏みにじることをせず、本当に相手を生かそうとするよう勧める中で、
 「このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。」
と言われます 。神様が、私たちをそのように成長させてくださる。御霊が私たちを導き、従わせ、御心に生きる者、神の恵みによって生活する者とならせてくださる。主の恵みの大きさに包まれている事実を知るときに、今まだ自己中心で人を傷つけてしまう肉的な私も、主の喜びを滲み出す者へと工事中なのだと信じさせていただくのです。

「いのちと平安を追い求める心は、小さいようでも、私共が御霊の中にあることのしるしであり、かけがえのない宝です。肉の思いはまだ大きくありますが、あなた様がこれを打ち砕いて、恵みの思いを育て、実らせてくださることを、ますます信じ、願わせてください。主の御愛とご計画の偉大さに捉えられているとの福音に安らがせてください」


文末脚注

1 他に、ローマ書では、十二3、16、十五5、名詞形で八27「御霊の思い」で出て来ます。名詞形は、新約聖書でもローマ書の四節だけで用いられています。
2 ゼパニヤ書三17。
3 他にも、Ⅰテサロニケ二4「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」、Ⅰテサロニケ書四1「終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。」などがあります。

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2013/01/13 ローマ書八1―4「御霊に従って歩む私たち」

2013-02-27 10:28:26 | ローマ書
2013/01/13 ローマ書八1―4「御霊に従って歩む私たち」
エレミヤ書三一31~37 イザヤ書三八10~20

 ローマ書八章に入ります。いくつもの、有名な言葉があります 。また、この八章の素晴らしさを歌い上げる言葉も沢山あるようです。私自身、この八章最後の言葉を愛唱聖句としてきたこともありますから、一節々々に取り組むことを楽しみにしています。
「 1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
 こういうわけ、とはどういうわけかと言いますと、やはり五章、六章、七章で展開してきた福音を受けて、でしょう 。こういうわけで、と今まで語ってきたこと。しかし、パウロは改めて、もう一度言います。
「 2なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
 人間の中に働いているのは、「罪と死の原理」です。罪を犯そう、何でも自己中心に考えよう、神にだって自分の生活を明け渡したくはない。そういう「原理(法則)」が重力のごとくに人間を支配しています 。そこで、いくら律法や道徳を与えられたところで、それさえも罪と死の原理は取り込んでしまうだけでしょう。しかし、そうした人間が、キリスト・イエスにあって、「いのちの御霊の原理」に支配されるようになります。御霊が私たちを支配し、いのちへと導いてくださる。まだ罪や死の残党は残っているのですけれども、その全てを通しても、御霊が私たちを御心に適う者へと整えてくださる。それは、万有引力の法則のように、それ以上に確実に私たちを導くのです。
 もちろん、それは私たちが何もしなくていい、ということではありません。罪や頑なさを握り締めたままでも大丈夫、というのではなく、いのちの御霊の原理は、私たちの罪を悔い改めさせ、頑なな心を砕かれた心へと導かれるのです。罪と死を握り締めたままでも永遠のいのちもいただける、ということはあり得ません。私たちの両手を開き、すべてを主の手に委ねるようにされていく。それが、救いの恵みです。しかし、私たちが何かをする、という以前に、まず、キリスト・イエスにあって、なされた救いの御業に私たちの土台を確(しっか)りと据えなければなりません。
「 3肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」
 ここで注意したいのは、「肉によって無力になったため、私たちにはできなくなっていることを、神はしてくださった」と言っているのではない、ということです。律法が出来なくなっていること、です。私たちが無力になっていることは、ここまででも散々述べられてきました。ですから、律法という本来素晴らしいものさえも、罪を処罰することは出来ませんでした。いくら人間に律法を与え、努力して罪から救われよ、と発破をかけたところで、人間の罪ある性根(しょうね)を叩き直すことは不可能です。この場合の「肉」とは、悪いこと、不道徳なこと、という意味ではありません。むしろ、パリサイ人やガラテヤ教会に宛てて言われているように、人間が神様に百パーセント頼るのでなく、自分の力を頼みとして生きることを、「肉」と言っているのですね。神様の恵みに委ねるのではなく、自分を誇り、真面目に正しく生きていれば良い、それが肉の思いであり、それは結局、無力で、神様を喜ばせることが出来ようはずがないのです。律法でさえ、そんな人間を生まれ変わらせ、罪を処罰することは出来ませんでした。
 しかし、神がひとり子イエス・キリストを私たち人間と全く同じように、肉体を持つ存在としてお遣わしになり、その肉において、罪を処罰してくださいました。それは、勿論、イエス様の十字架を第一に指しています。罪がもたらす処罰を全部御自身に引き受けてくださったのです。それによって、逆に罪を処罰し、無効化されました。しかし、それだけではありません。イエス様は、その肉体において歩まれた三十年余りの生涯において、完全に律法に従われ、罪の誘惑に完全に打ち勝たれたのです。そういうイエス様の聖なる歩みにおいて、罪の罰をすべて引き受けるという消極的面と、律法を守り抜くご生涯を歩まれたという積極的面と、両方で、イエス様は罪を処罰されたのです。それは、律法にはなし得なかったことでした。
 なぜそのようなことをクドクドというのかと言いますと、4節にこう纏められている言葉を、今日特に覚えたいからです。
「 4それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
 この、御霊、聖霊、という言い方を、パウロはこれまで4回しか使っていませんでした 。しかし、この八章では19回も、聖霊が登場します。この後、九章以下で使われる回数よりも多いのです。それは、それだけこの八章の内容と御霊との関係が深いことを物語っているのでしょう。そして、言うまでもなく、
 「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たち」
というのも、この肉体を離れて死んだとき、あるいは、この世界とはなるべく関わらずに生きる、という意味ではなく、イエス様が肉体を取られたように、私たちもまた、この肉体の中にありつつ、肉の思いに従うのではなく、御霊に従って歩む、ということです。それが大事でないなら、イエス様もわざわざ肉体を取ってご苦労されることはなかった。イエス様が肉のからだを取られたのは、人間がこの肉の体において、罪に打ち勝ち、神に従うようにならせるためであった。この事を深く心に留めたいと思うのです。
 御霊に従う。いのちの御霊の原理が私たちを解放した。こういう素晴らしい言葉を聞くと感心はします。けれど、いざ自分の現実生活が始まると、そんな綺麗事は言っていられないと私たちは思い始めるのではないでしょうか。礼拝と生活をわけて、諦めてしまうところがないでしょうか。しかし、パウロは言います。イエス様は、肉を取ってきてくださった、と。私たちのこの体と同じ体で、「…罪深い肉と同じような形でお遣わしになり…」とわざわざ言われるような形で、イエス様はこの世に遣わされました。その続きで、私たちが、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む、と言われるのは、私たちのこの体での生活-罪を犯し、神から離れてしまう、そのままでは本当に惨めに滅ぶしかない、この私たちのありのままの人生-の中に、「律法の要求が全うされるためなのです。」と言われているのです。
 しかし、ここでも注意してください。律法の要求を全うしなさい、と命じられているのではありません。以前にも言いましたように、このローマ書の前半、十一章までの間には六11から19節の間に出てくる命令以外、いっさい、命令はありません。ここでもそうです。私たちが律法を守らなければならない、律法の要求を全うしなければならない、ではないのです。それは私たちには出来ないことでした。しかし、そのような私たちを、キリストが肉体を取られて、御自身の生涯において罪を処罰されたことによって、いのちと御霊の原理に生きる者としてくださいました。御霊に従って歩む者、キリスト・イエスにある者としてくださいました。ただし、そこから引き離そうとするものがあるのです。神を忘れた肉の思い、罪と死の原理というものがこの世界にも、私たちのうちにもまだあります。自分で律法を全うできるとか、自分の生き方で神様を喜ばせることが出来るとか、一方的な恵みによる救い、ということを忘れたり小さく考えたりする原理が働いているのです。ですからパウロはこの手紙を書いているのですし、私たちにもこれが聖書という形で保存されて伝えられているのです。
 私たちは、この、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない、と言い切れる程の、いのちの御霊の原理の中に捉えられている事実を味わい、覚えるように、と呼びかけられています。まだ、罪の力は働いています。私たちも罪を犯すし、肉の思いを抱えています。それも、本当に心の奥に、自分でも気づかないほど、深く、広く、神に逆らう思いに病んでいる私です。それでも、どんなにボールを高く放り投げても、絶対に万有引力の法則の方が強くて、地面に戻って来るように、私たちは、いのちの御霊の原理に捉えられていて、何が起ころうとも、私たちがどんな者であろうとも、必ずやいのちへと導かれていく。御霊が導いてくださっているのです。
 私たちが、ではなく、主が、私たちの歩みの中に、律法の要求を全うしてくださる。私たちは自分で頑張ろうとか、人を批判したりとかしがちですが、私たちが欠けだらけであっても、そこに生きて働く主を信じるのです。人の願いや貧しい思いを遥かに超えた、主のみわざが必ず現される。そのように、この八章を通じてパウロが歌い上げていく声に、本当に深く励まされ、慰められ、希望をもって新しくされていきたいのです。

「私共は今、御霊に従って歩む者である、と教えてくださり、ありがとうございます。まだまだ不完全であり、肉の思いに囚われてしまう者ですが、いのちの御霊の原理は罪と死の原理よりも遥かに勝っていますから、平安を持つことが出来ます。どうぞ、主が私共の歩みの中に、この約束の御真実を現してください。真にそれを待たせてください」


文末脚注

1 たとえば、「11もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」、「14神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」、「26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」、「28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」、「31では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。33神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。34罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。35私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。36「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。37しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」など。
2 元の文章では、最初に「決してない」が来ます。それだけに、パウロの言いたいことが、今までのことを全部受けて、キリスト・イエスにある者が絶対に、罪に定められることがないと確信を歌っているのだと覚えたいのです。
3 「今は」も時間的に取るよりも、キリストにある現在の現実を指す言い方でしょう。
4 シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』参照。
5 一4「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」、二29「…文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」、五5「…なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」、七6「…その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」

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2012/12/30 ローマ書七14―25「主イエスへの感謝」

2012-12-31 09:43:17 | ローマ書
2012/12/30 ローマ書七14―25「主イエスへの感謝」
創世記八6―22 詩篇五一篇

 今年の最初からローマ人への手紙を説教してきました。最後の礼拝を、この赤裸々で凄まじい言葉を聞いて終わるということになりました。
「15私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」
 このような言葉が延々と羅列されています。こうした言葉に戸惑う方も大勢いるでしょう。しかし、とても深く共感できる、自分の中にもこのような思いがある。するべきこと、本当にしたいと思うことが出来ずに、そんなことはしたくないと思っていることをしてしまう。まさに、これは自分の思いだ。そう思い、パウロの言葉が身近に感じられて、慰められる。そういう読み方をしている方は、それ以上に多いのかも知れません。自分の弱さ、という言い方をしてもよいでしょう。ローマ書は難しいと考えられることが多いのですが、この箇所だけは好きだ、という方だっているかもしれません。
 ただし、改めて、パウロが言いたいことはそれだけなのか。「あの大先生でさえも、心中では酷い葛藤に苛(さいな)まれていたんだな」-そういう読み方で終わっていいのか、と考えさせられました。
 ある人たちは、このような罪の苦しみは、きっとパウロがイエス様と出会う前のことを思い出しながら語っているのだろう、と考えます。イエス様にお目にかかって、もうこの煩悶からは解放されたのだ、と考える人も少なくありません。しかし、パウロはこれを現在形で語っています。また、22節には、
 「…私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、」
とありますが、神の律法を喜ぶことが出来るのは、キリストを信じる前ではなく、聖霊によって心を新しくされ、信仰を持つようになって後のことです。ですから、これは、信じて救われる以前の心境だ、と説明することは出来ないのです。あるいは、信じてからもしばらくはそういう罪の意識から逃れることは出来ないときがあるけれども、ある瞬間(聖化とか聖霊体験、「第二の恵み」などと呼ばれますが)、罪を浄められて、完全に純粋な心を持つようになる、それまでのことだ、と教える教派もあります 。しかし、これもまた、そのようなことは聖書に教えられていません。パウロが、
 「私は罪人のかしらです」
と言ったのは晩年だったのです 。
 では、これはパウロのこの時のホンネなのか、と言いますと、これはまたこれで、別の問題が持ち上がります。23節には、
 「…私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしている…」
とあります。しかし、先の六章ではこれと反対のことを言ってきたのです。
「六17神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
18罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」
 このような言葉はどうなってしまうのでしょうか。いいえ、ローマ書の全体や、ピリピ書やテサロニケ書の、喜びと確信に満ちた言葉がすべて、綺麗事、タテマエだった、ということにもなりかねません。
 一体、パウロはここで何を言いたいのでしょうか。それは、ここまで何を言ってきたのかを思い出すことから始まります。それは、人が救われるのは決して律法を守ることによってではなく、ただイエス・キリストの恵みによる、それが福音である、ということでした。そして、それならば律法は何なのか、それを守るために律法が与えられたのでなかったら、律法は罪なのか、ない方がよかったというのか、という反論を想定して、そうではない、と言ってきたのです。
「七12…律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」
「14私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」
 そういって、ここに今日の「告白」が述べられていくのですね。
 ですから、一言で言えば、これは、恵みがなくて、律法だけの下にあるとしたら、そこで明らかになるパウロの姿、なのです。本当は、これだけではないのです。これが現実の全てではないのです。喜びや感謝、確信や希望はあるのです。けれども、パウロがここで想定している、それも心配しすぎな想定ではなくて当時も今も根強く人間の中に残っている神の恵みへの軽率な反抗心という反対が正しいとしたら、どうなるか。救いを望んでも、善を行いたいと心から願っても、なおそれが出来ずに、かえってしたくない悪を行ってしまう、そういう罪を、いやというほど気づかされるだけだ。そうパウロは言っているのです。
「20もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」
 パウロは責任転嫁として、私じゃない、私の中の罪なんだ、と言っているのではありません。もしそうなら、24節で、
 「私は、ほんとうにみじめな人間です」
という必要もなかったでしょう。だって、それは私ではないんですから。けれども、パウロは責任逃れではなくて、自分の中に罪が宿り、いいえ、罪が自分を虜(とりこ)にして、自分の力や努力ではそれに勝つことは出来ない、と述べているのです。それが現実だ、と言うのではないのですよ。現実には、律法の下にはなく恵みの下にあるのです。そして、自分の力によってではなく、恵みの力、「わたしを強くしてくださる方」の力によって勝利をいただけるのです。でも、そうではなくて、律法だけを与えられて、頑張れと言われているだけであれば、罪に勝つことは出来ない。
 前回の7節以下で見ましたように、その罪とは盗んでしまうとか悪事を働いてしまう、という罪ではありません。むさぼり、心の中であれこれを欲しがり、妬み、自分の欲や願望が神となってしまう、という罪です。それをどうしようも出来ないのが私たちです。律法は、そのような私たちの罪を明らかにします。そのうち守れるようになる、ではなくて、どれほど守れないかを知るほかない。そして、その最後には24節の叫びになるのですね。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。
 私を救い出してくれるのは誰か。それは私自身ではない。他の人でもない。律法そのものでもなかった。そこから、次の25節、
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」
という言葉が出てくるのです。そうです。律法は私たちを自分の罪と向かい合わせ、誰かの救いを求めさせ、すなわち、私たちの主イエス・キリストを通しての神への感謝へと至らせるのです。ですから、もし律法がなければ、私たちは自分の罪、惨めさということに気づきさえせずに、相変わらず自分は結構良い人間だ、やれば出来る人間だ、神様もそれが分かっているから救ってくださるんだ、ぐらいに考えてしまうに違いないのです。
 ですから、私たちは自分の罪との葛藤を覚えたり無力さや弱さに自己嫌悪したりすることがあるわけですけれども、ここを読んで、「あぁ、パウロも同じような葛藤があったんだな」と、安心したり「どうせキリスト教もそんなものか」と決めつけて終わる、というのではないのですね。これは律法だけ、恵みなしの努力だけ、という世界であれば、という話です。そこでパウロは、救い出してくださる方、主イエス・キリストに至り、感謝に溢れています。私たちもまた、自己嫌悪したり傷を舐め合ったりして終わるのではなくて、そこから主イエス・キリストを仰ぐ。無力な私たちのうちに、力強く働いてくださる神を仰がせていただくことが出来るのだと気づかなければなりません。
 「みじめ」という言葉は、ただ恥をかくとか情けないという以上に、滅びに至るしかない悲惨、という意味での惨めです。この言葉は、聖書にもう一度だけ使われます。黙示録三17です 。自分が惨めであることが見えず、豊かだと思っていたラオデキヤ教会のように、あるいは自分の惨めさが自分の罪のせいではなく、人のせいだと思っていたら、また、それ以前に、神の律法を本当に願いとしているよりも、憎むべき罪、むさぼりや妬みや自己中心を愛して、嘆くこともない-そういうこともまた、私たちが陥りやすい危険であります。福音がなければ私たちがとことん悲惨である、そのことを知って深く謙るときに、神への感謝が溢れるのです 。どうか、この福音の素晴らしい力に与るためにも、御言葉により自分自身の誤魔化し得ない罪を見つめ、悔い改めて新年を迎えたいものです。

「私も他者も、あなた様の恵みに包まれなければ、本当に惨めなものであると、今一度心に刻ませてください。奢(おご)ったり嘆いたり裁いたりする闇から、福音の光によって救い出してください。ここまで導かれてきたのも、これからも、主の恵みの中にある。感謝します」

文末脚注


1 このような立場は、「キリスト者の完全」(本物のキリスト者は完全に聖となって歩めるのだ。そうでない教会は堕落している)という考えを保持する教派に見られます。宗教改革期の急進主義(アナ・バプテストなど)やウェスレー主義、ホーリネス(昔の?)など。
2 Ⅰテモテ一15。
3 その他、六章全体を再読してください。
4 「あなたは、自分が富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」。
5 ハイデルベルグ信仰問答2「この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたがどれだけのことを知る必要がありますか。答 第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか、第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、ということです」(吉田隆訳、新教出版社)。



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