2014/06/1508 「神は天地を創造し治める」イザヤ書45章18-22節
ウェストミンスター小教理問答8
前回は、神の「聖定」についてお話ししました。
問7 神(の聖定とは、何ですか。
答 神の聖定とは、それによって神が、ご自身の栄光のために、起こってくる一切のことを前もって定めておられる、そのような御心の計らいにしたがった、神の永遠の御計画です。
その神様の、聖なる永遠のご計画は、どのように実行されるのか、が今日の話です。
問8 神は彼の聖定を、どのように遂行されますか。
答 神は、創造と摂理のみわざによって、彼の聖定を遂行されます。
創造と摂理。そして、ウェストミンスター小教理問答は、次の問9と10で「創造」について、そして、問11と12で「摂理」について教えていく構造になっています。聖定は神様のご計画(いわば、設計図)ですが、それを現実に移したのが、建築とメンテナンス、あるいは、舞台制作と上演にあたる、創造と摂理なのです。ウラを返せば、私たちが生きているこの世界は、丸ごと神様の聖定が形を取ったものなのです。この世界のすべて、一つ一つが、神様の聖定の現れです。私たちは聖定そのものを直接理解することは出来ません(それは永遠であり、宇宙のすべてに渡る途方もないものです)。ただ、この世界を見て、また摂理が実行されていく現実を通して、聖定の断片に触れることが出来るのです。ただし、私たちの側のメガネが罪で曇っているために、ねじ曲げて理解してしまいかねません。ですから、聖書をよく読み、神様の聖定についての基本的なことを知っておくことが大事です。出来事から御心を決めつけるのではなくて、聖書から出来事を見ていくようにすることで、私たちは間違いから守られるのです。
今日は、創造と摂理の御業によって、と二つを並べています。この事もよくよく心に留めておきましょう。中には、どちらか一方だけにしてしまう人もいるからです。
たとえば、創造だけ、という人たちの考え方を「理神論」と言います。世界の創造者としては認める。もっとあけすけに言えば、世界がなぜ存在しているのか、その理由を説明するためにだけ、神の存在を持ち出した方が都合が良いので、神の創造を言う。けれどもそれだけです。後は、神は世界を作ったまま、もう関わってはおられない。人格的な方と考える必要も無い。奇蹟だとか摂理や啓示だとかも考えない。この「理神論」という立場は、「時計仕掛けの世界観」とも言われます。精巧な時計を職人が作った。でも、動いてしまえば、時計職人が放っておいても動き続けている。そうやって、神の手を離れて、この宇宙という大きな機械は今も動き続けている、と考えます。でも、私たちはそうは信じません。神が、聖書を通して主張されているように、今に至るまで全てを治めておられ、深く関わっておられ、創造だけでなく摂理をも働かせておられると信じます。もし、神が背を向けてしまわれたら、人間も世界もたちまち存在できなくなるでしょう。何よりも神は、聖書において、世界を作ったご自身との関わりに生きるよう、私たちに叫んでおられるのです。
同時に、創造を言わずに、摂理だけを考える人たちもいます。何かあると「神様の御心だ、恵みだ、あるいは試練だ。偶然じゃない」と言うけれども、この世界そのものが神の手になるものであることはあまり重視しないのです。信仰というのが、人格的で、個人的なのですが、自然とか社会、政治や世界全体を見る時には、それはそれ、と分けてしまうのです。こういう考えを「二元論」と言います。信仰の世界と現実の世界を分けて考えてしまう。ヘブル書の十二章2節に、
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
とありますが、イエス様は信仰だけでなく、世界の創始者であり、完成者であるのです。そして、世界を創造されるみわざと、完成へと導かれる摂理のみわざは、聖定の遂行です。その聖定のご計画の中に、私たちの救いがあります。私たちに信仰を始められ、この信仰を終わりまで守ってくださるのです。ですから、その創造のみわざは、私たちの救いや信仰を見据えつつ作られた世界であり、摂理もまた、私たちの救い、成長、教会の歩みを益するようにと働いていくのですね。
私たちは、つい、信仰と生活を切り離してしまいます。そして、信仰が強くなるには、奇蹟とか特別なことが必要だと考えたがります。モチロン、神様はご自身の力を見せるために、偶然では片づけられないことをなさることもあります。でも、忘れないでいたいのは、世界そのものが神様の作品であり、自然法則やこの世界にある普通のこともまた全て、神様が考え抜かれて私たちに用意してくださった舞台だ、という事実です。世界の存在そのものが、神様の御手による奇蹟です。特別な奇蹟だけが、神様の存在を証ししたり、神様の栄光を現したりするのではなく、この世界そのものが、神様の存在を証ししており、神の栄光を現しているのです。そして、私たちの周りに起きる出来事が、困難だったり、戦いだったり、病気や悲しい出来事であったりしても、それが祈っても祈っても変わらなくても、私たちの信仰にとってマイナスにはならない。むしろ、それが私たちの信仰を成長させるのだ、と信じるのです。
今日のイザヤ書の言葉で、神様は力強く主張しておられます。ご自身が天地を創造された大いなる神である。偶像とは違うのだから、
22わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。
本当に力強い宣言です。世界を作り、今も治めておられる方が、私たちに関わり、ご自身を信じて救われるようにと招き、救いと祝福を約束してくださっています。でもそれは、私たちの理解の到底及ばないほど、大きなご計画の中にあります。その確かなご計画の中心には、イエス様がこの世界のまっただ中に飛び込んでこられ、どん底にまで低くなられた十字架があります。そこに私たちの歩みもまた、確かであることが保証されています。すべてのことが私たちの益となるようにしてくださる、との約束は、聖定と創造、摂理という御業に裏付けられています。創造と摂理。今日のポイントとして心に刻みましょう。
2014/06/22 ルカ17章11~19「神をあがめるために戻って来た」(#273 )
先回、私たちは、弟子たちに対して、イエス様が仰った言葉を聴きました。
6…「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら…言いつけどおりになるのです。
信仰は、信じる私たちの側の信じる力が弱いとか小さいとかいう問題ではない。そう断言されました。ですから、続く今日の癒やしの記事でも、
19…あなたの信仰が、あなたを直したのです。
と結ばれるのも、この感謝するために戻って来た人の信仰が立派だったから、それだけ優れていたから、というような事ではありません。「この人は、私たちよりも優れた信仰を持っていたのだ-私たちはこの人ほど感謝も足りないし、立派な信仰でもない」と引け目を感じたり卑屈になったりするとしても、そこで終わってはなりません。私たちの信仰は、からし種のように最も小さいものに喩える他ないとしても、その信仰さえ神様からの賜物であり、神がその信仰を通して豊かに働いて下さることを信じるのです。自分の信仰は貧しくとも、私たちの神である主は力強いと信じるのです。そして、その通り、ここでも、当時は不治の病としてどうしようもなかった病気、汚れているとして町中に住むことさえ認められなかった病をさえ、イエス様は癒してくださったのです 。
しかし、この十人の患者たちは、最初イエス様を見た時に、
13声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
とあります 。「癒して」ではなく「あわれんでください」でした 。ただ病気が癒えるだけではなく、社会からも疎外され、宗教的には汚れていると見做されて、身を寄せ合って暮らしていた。彼らは遠くから、叫んで、憐れみを乞い求めたのです。イエス様が彼らに、
14…「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」…
と言われた時、彼らは祭司の所に向かいました。祭司は、「汚れ」として扱われていたこの病気がきよくなったかどうかを判断し、宣言する役目を負っていたのです。ですから、祭司に見せることで、社会的な回復が始まるのです 。彼らはそこに行きました。癒されてから、ではなく、癒される前に、イエス様の言葉を信じて進みました 。そして、その行く道の途中で、彼らはきよめられていることに気がつきました。そして、
15そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
というのです。「サマリヤ人」とは、エルサレムのあるユダヤと北のガリラヤとの間に挟まれたサマリヤの地域に住む人々ですが、彼らはアッシリア捕囚の時に連れて来られた人々とイスラエル人との混血で、宗教的にも異教徒の習慣が混じったものを身につけていました 。そうした歴史を背景にして反発し合っていた間柄です。それが、同じ病気のため追い出されていた者同士、この時は十人で一緒に暮らしていたようです。ところが、イエス様を通して病気がきよめられたことに気付いた時、
18神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
とイエス様を嘆かせることになってしまいます。求めた憐れみをいただいて、病気を癒されただけでなく、祭司にきよいと言ってもらって社会復帰も果たせそうです。でも、その憐れみを感謝するために戻って来たのは一人だけ、このサマリヤ人でした。
私たちはこういう癒やしの記事から、「感謝を忘れてはいけません」というような「正論」めいた説教を引き出すだけなのでしょうか。イエス様に直接お願いして、こんな奇蹟に与る話自体、私たちとは別世界の話のようです。その溝を感じたままなら、感謝や、癒される信仰、などといくらひねくり回しても、こんな箇所は、何の役にも立たないのです。
でも、イエス様も別の意味でここに一つの見切りをつけられたのです。この奇蹟の後、イエス様は癒やしをなさるのは二度だけ、十八章の最後と、ゲッセマネの園でペテロが耳を切り落とした人の耳を癒された、その二回だけです 。奇蹟が信仰を引き起こすわけではないことは、十六章31節でも明言されました。癒やしや奇蹟のあるなしが問題ではありません。問題は、私たちが、私たちを憐れんで下さる主を求め、その恵みに感謝するかどうか、です。ここでも、このような憐れみ深い癒しさえ人を神に立ち返らせるのではない事が教えられているのです。奇蹟がないからと主を捨てる人は、奇蹟があっても感謝するために引き返しては来ない。それは、救いに至る信仰ではないのです。
あなたの信仰が、あなたを直したのです。
これは、正しくは「救った」と訳すべき文章です 。それも、完了時制ですから、
あなたの信仰が、あなたをもう救ってしまったのです。
という言葉です。ルカはこの言葉を4回も繰り返します 。けれども、先にも言いましたように、自分を救えるほど立派な信仰だ、というのでは決してないのです。この言葉を言われるのは、罪深い女、長血の女、サマリヤの病人や物乞いをしていた目の見えない人。いずれも、敬虔さを求める人々の眼中にはないような人でした。そういう人が、イエス様に憐れみを乞い求めたとき、そのイエス様に縋る信仰は、救いを得させる信仰だと言われます。自分の信仰がどれだけ熱心か、純粋か、という問題ではなく、ただイエス様を求めるという対象が正しかった故に、彼らは思いがけず、救いにさえ与ったのです。
でも、こうして新たに立ち上がって行く時、人々は好奇の目で見るでしょう。かつて汚れていたもの、というレッテルは生涯つきまとうかも知れません 。主イエスへの信仰故に迫害も受けたはずです。やがてまた病にかかったでしょうし、確実に死にました。主は、人生のあらゆる問題を解決して、いつまでもバラ色になさる方ではありません。癒やしだけで満足した残りの九人は、感謝を忘れただけでなく、癒された事自体忘れたでしょうか。それとも、癒やしが人生を明るくするわけではないことにいつか気付いて、戻って来たのでしょうか。奇蹟や癒やしを求める以上に、病や困難を通して、憐れみ深い主に出会い、賛美する者となることが幸いなのです。戦いや虚しさに塞ぐような人生の旅路をも、すでに救われた喜びを歌いながら歩めることにこそ、幸いがあるのです。
午後にコンサートがあります。多くの讃美歌作者たちは、目が見えなかったり、愛する人を亡くしたり、病や鬱に悩みました。その中で、主イエスに出会い、本当に明るい讃美歌を書きました。その尊い財産を今も私たちは歌っています。奇蹟や癒やしは過去のことではありません。次回見ますように、今も、主の御業は私たちのただ中で続いています 。
「憐れみ深い主が、私共の魂の深い必要を満たし、あなた様のもとにひれ伏し感謝する信仰を与えて、賛美の歌を歌わせてくださいます。願いが叶わなくとも、主イエス様のもとに帰って御名を崇め感謝する者とならせて下さい。私たちの人生そのものを、死の影の谷を通りながらも天の故郷に帰って行く旅路とし、その喜びの歌を歌い続けさせてください」
文末脚注
1 讃美歌273「わが魂を」「アメリカの説教者ヘンリー・W・ビーチャーという方が、次のような有名な言葉を残しているそうです。「地上に君臨したあらゆる帝王の名誉を勝ち得るよりも、ウェスレーのこの曲のような賛美歌を書きたいものだ。ニューヨーク一番の金持ちになるよりも、このような歌の作曲者になりたいものだ。金持ちは、しばらくすれば人々の記憶から消え去る。その人について何一つ話されなくなる。しかし人々は、最後のラッパの音とともに天使の群れが遣わされるときまで、この賛美歌を歌い続けることだろう。さらに神のみ前で、誰かがきっとこれを歌うことになると思う」
2 この律法は、私たちに罪や汚れを、自分のこととして考えさせるためのものであって、この病気にかかった人が特別に「汚れている」と差別されてはならないものでした。つくづくと、自分の汚れ、きよめの必要、憐れんで戴く他ない惨めさを思い、神にすがるため。今も私たちは、様々な形で「あわれんでください」と祈らされるのは、罪を抽象的にでなく、リアルに思い知る恵みである。感謝へと引き上げられるお取り扱いである。
3 「先生」エビスタテースは、ルカだけが6回使う言葉。いずれもイエスに対して。五5、八24(×2)、45、九33、49、十七13。
4 「あわれんでください」は、ルカが、十六24(金持ち)、十七13、十八38、39(エリコの盲人)だけで使い、神やイエスに対してのみ用いる、信仰的な言い方。しかし、その言い方が救いに至る信仰を保証するのではないことは、今日の箇所と十六章の金持ちの台詞が裏付けています。憐れみを求めるとは口だけで、憐れんでもらったら、もう忘れてしまうことがあるのです。憐れまれた、だから、感謝だ、憐れんで下さった神に栄光を帰します、というのが救いに至る信仰です。
5 ツァラアトの言及は、ルカでは、四27、五12前後、七22とここだけですが、四章と七章の2箇所は、教えの中なので、実際の登場はここと五章の2回です。
6 行くだけの信仰はあった。期待もあった。信じていた。でも、求めていた者が得られた時、感謝や賛美には心が行かなかった。信仰の弱さ、ではない。信仰の目的・本質が違っている。
7 Ⅱ列王十七24~41、参照。
8 この前の癒やしは、十四章1-6節の「水腫をわずらっている人」の癒しです。
9 「直した(救った。ソーゾー)」 六9、七50、八12、36、48、50、九24、56、十三23、十七19、33、十八26、42、十九10、二三35、37、39。
10 ルカ七50、八48、十七19、十八42。そして、いずれも時制は、後述の「完了形」です。
11 新改訳聖書は、第二版で「らい病」としていたのを、第三版で「ツァラアト」と音訳にしました。詳しい経緯に触れるには十分な紙面が必要ですが、ハンセン病のために苦しみ、差別を受け、人生を断絶された方々の深い苦しみに対して、教会も鈍感であり残酷であったことの反省をともなった変更です。今でも、第二版を使ったり、第三版を使いながらも「これは「らい病」のことです」と無邪気にも言ってしまったりする神経に対して、教会はもっと敏感でなければなりません。ハンセン病、また、精神障害者、犯罪加害者、同性愛者、被差別出身者、またそうした方を身近にしながら、それを公に出来ないでいる苦しみがあります。それに対する教会の鈍感さに、他人事めいた差別意識があることを真摯に認め、悔い改め、学び、変わっていかなければなりません。
12 憐れみを求め(キリエ)、恵みをいただき(福音説教)、栄光を帰し(グロリア)、感謝をささげ(祈りと献金)、派遣される。これは礼拝のパターンそのものです。
先回、私たちは、弟子たちに対して、イエス様が仰った言葉を聴きました。
6…「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら…言いつけどおりになるのです。
信仰は、信じる私たちの側の信じる力が弱いとか小さいとかいう問題ではない。そう断言されました。ですから、続く今日の癒やしの記事でも、
19…あなたの信仰が、あなたを直したのです。
と結ばれるのも、この感謝するために戻って来た人の信仰が立派だったから、それだけ優れていたから、というような事ではありません。「この人は、私たちよりも優れた信仰を持っていたのだ-私たちはこの人ほど感謝も足りないし、立派な信仰でもない」と引け目を感じたり卑屈になったりするとしても、そこで終わってはなりません。私たちの信仰は、からし種のように最も小さいものに喩える他ないとしても、その信仰さえ神様からの賜物であり、神がその信仰を通して豊かに働いて下さることを信じるのです。自分の信仰は貧しくとも、私たちの神である主は力強いと信じるのです。そして、その通り、ここでも、当時は不治の病としてどうしようもなかった病気、汚れているとして町中に住むことさえ認められなかった病をさえ、イエス様は癒してくださったのです 。
しかし、この十人の患者たちは、最初イエス様を見た時に、
13声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
とあります 。「癒して」ではなく「あわれんでください」でした 。ただ病気が癒えるだけではなく、社会からも疎外され、宗教的には汚れていると見做されて、身を寄せ合って暮らしていた。彼らは遠くから、叫んで、憐れみを乞い求めたのです。イエス様が彼らに、
14…「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」…
と言われた時、彼らは祭司の所に向かいました。祭司は、「汚れ」として扱われていたこの病気がきよくなったかどうかを判断し、宣言する役目を負っていたのです。ですから、祭司に見せることで、社会的な回復が始まるのです 。彼らはそこに行きました。癒されてから、ではなく、癒される前に、イエス様の言葉を信じて進みました 。そして、その行く道の途中で、彼らはきよめられていることに気がつきました。そして、
15そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
16イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
というのです。「サマリヤ人」とは、エルサレムのあるユダヤと北のガリラヤとの間に挟まれたサマリヤの地域に住む人々ですが、彼らはアッシリア捕囚の時に連れて来られた人々とイスラエル人との混血で、宗教的にも異教徒の習慣が混じったものを身につけていました 。そうした歴史を背景にして反発し合っていた間柄です。それが、同じ病気のため追い出されていた者同士、この時は十人で一緒に暮らしていたようです。ところが、イエス様を通して病気がきよめられたことに気付いた時、
18神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
とイエス様を嘆かせることになってしまいます。求めた憐れみをいただいて、病気を癒されただけでなく、祭司にきよいと言ってもらって社会復帰も果たせそうです。でも、その憐れみを感謝するために戻って来たのは一人だけ、このサマリヤ人でした。
私たちはこういう癒やしの記事から、「感謝を忘れてはいけません」というような「正論」めいた説教を引き出すだけなのでしょうか。イエス様に直接お願いして、こんな奇蹟に与る話自体、私たちとは別世界の話のようです。その溝を感じたままなら、感謝や、癒される信仰、などといくらひねくり回しても、こんな箇所は、何の役にも立たないのです。
でも、イエス様も別の意味でここに一つの見切りをつけられたのです。この奇蹟の後、イエス様は癒やしをなさるのは二度だけ、十八章の最後と、ゲッセマネの園でペテロが耳を切り落とした人の耳を癒された、その二回だけです 。奇蹟が信仰を引き起こすわけではないことは、十六章31節でも明言されました。癒やしや奇蹟のあるなしが問題ではありません。問題は、私たちが、私たちを憐れんで下さる主を求め、その恵みに感謝するかどうか、です。ここでも、このような憐れみ深い癒しさえ人を神に立ち返らせるのではない事が教えられているのです。奇蹟がないからと主を捨てる人は、奇蹟があっても感謝するために引き返しては来ない。それは、救いに至る信仰ではないのです。
あなたの信仰が、あなたを直したのです。
これは、正しくは「救った」と訳すべき文章です 。それも、完了時制ですから、
あなたの信仰が、あなたをもう救ってしまったのです。
という言葉です。ルカはこの言葉を4回も繰り返します 。けれども、先にも言いましたように、自分を救えるほど立派な信仰だ、というのでは決してないのです。この言葉を言われるのは、罪深い女、長血の女、サマリヤの病人や物乞いをしていた目の見えない人。いずれも、敬虔さを求める人々の眼中にはないような人でした。そういう人が、イエス様に憐れみを乞い求めたとき、そのイエス様に縋る信仰は、救いを得させる信仰だと言われます。自分の信仰がどれだけ熱心か、純粋か、という問題ではなく、ただイエス様を求めるという対象が正しかった故に、彼らは思いがけず、救いにさえ与ったのです。
でも、こうして新たに立ち上がって行く時、人々は好奇の目で見るでしょう。かつて汚れていたもの、というレッテルは生涯つきまとうかも知れません 。主イエスへの信仰故に迫害も受けたはずです。やがてまた病にかかったでしょうし、確実に死にました。主は、人生のあらゆる問題を解決して、いつまでもバラ色になさる方ではありません。癒やしだけで満足した残りの九人は、感謝を忘れただけでなく、癒された事自体忘れたでしょうか。それとも、癒やしが人生を明るくするわけではないことにいつか気付いて、戻って来たのでしょうか。奇蹟や癒やしを求める以上に、病や困難を通して、憐れみ深い主に出会い、賛美する者となることが幸いなのです。戦いや虚しさに塞ぐような人生の旅路をも、すでに救われた喜びを歌いながら歩めることにこそ、幸いがあるのです。
午後にコンサートがあります。多くの讃美歌作者たちは、目が見えなかったり、愛する人を亡くしたり、病や鬱に悩みました。その中で、主イエスに出会い、本当に明るい讃美歌を書きました。その尊い財産を今も私たちは歌っています。奇蹟や癒やしは過去のことではありません。次回見ますように、今も、主の御業は私たちのただ中で続いています 。
「憐れみ深い主が、私共の魂の深い必要を満たし、あなた様のもとにひれ伏し感謝する信仰を与えて、賛美の歌を歌わせてくださいます。願いが叶わなくとも、主イエス様のもとに帰って御名を崇め感謝する者とならせて下さい。私たちの人生そのものを、死の影の谷を通りながらも天の故郷に帰って行く旅路とし、その喜びの歌を歌い続けさせてください」
文末脚注
1 讃美歌273「わが魂を」「アメリカの説教者ヘンリー・W・ビーチャーという方が、次のような有名な言葉を残しているそうです。「地上に君臨したあらゆる帝王の名誉を勝ち得るよりも、ウェスレーのこの曲のような賛美歌を書きたいものだ。ニューヨーク一番の金持ちになるよりも、このような歌の作曲者になりたいものだ。金持ちは、しばらくすれば人々の記憶から消え去る。その人について何一つ話されなくなる。しかし人々は、最後のラッパの音とともに天使の群れが遣わされるときまで、この賛美歌を歌い続けることだろう。さらに神のみ前で、誰かがきっとこれを歌うことになると思う」
2 この律法は、私たちに罪や汚れを、自分のこととして考えさせるためのものであって、この病気にかかった人が特別に「汚れている」と差別されてはならないものでした。つくづくと、自分の汚れ、きよめの必要、憐れんで戴く他ない惨めさを思い、神にすがるため。今も私たちは、様々な形で「あわれんでください」と祈らされるのは、罪を抽象的にでなく、リアルに思い知る恵みである。感謝へと引き上げられるお取り扱いである。
3 「先生」エビスタテースは、ルカだけが6回使う言葉。いずれもイエスに対して。五5、八24(×2)、45、九33、49、十七13。
4 「あわれんでください」は、ルカが、十六24(金持ち)、十七13、十八38、39(エリコの盲人)だけで使い、神やイエスに対してのみ用いる、信仰的な言い方。しかし、その言い方が救いに至る信仰を保証するのではないことは、今日の箇所と十六章の金持ちの台詞が裏付けています。憐れみを求めるとは口だけで、憐れんでもらったら、もう忘れてしまうことがあるのです。憐れまれた、だから、感謝だ、憐れんで下さった神に栄光を帰します、というのが救いに至る信仰です。
5 ツァラアトの言及は、ルカでは、四27、五12前後、七22とここだけですが、四章と七章の2箇所は、教えの中なので、実際の登場はここと五章の2回です。
6 行くだけの信仰はあった。期待もあった。信じていた。でも、求めていた者が得られた時、感謝や賛美には心が行かなかった。信仰の弱さ、ではない。信仰の目的・本質が違っている。
7 Ⅱ列王十七24~41、参照。
8 この前の癒やしは、十四章1-6節の「水腫をわずらっている人」の癒しです。
9 「直した(救った。ソーゾー)」 六9、七50、八12、36、48、50、九24、56、十三23、十七19、33、十八26、42、十九10、二三35、37、39。
10 ルカ七50、八48、十七19、十八42。そして、いずれも時制は、後述の「完了形」です。
11 新改訳聖書は、第二版で「らい病」としていたのを、第三版で「ツァラアト」と音訳にしました。詳しい経緯に触れるには十分な紙面が必要ですが、ハンセン病のために苦しみ、差別を受け、人生を断絶された方々の深い苦しみに対して、教会も鈍感であり残酷であったことの反省をともなった変更です。今でも、第二版を使ったり、第三版を使いながらも「これは「らい病」のことです」と無邪気にも言ってしまったりする神経に対して、教会はもっと敏感でなければなりません。ハンセン病、また、精神障害者、犯罪加害者、同性愛者、被差別出身者、またそうした方を身近にしながら、それを公に出来ないでいる苦しみがあります。それに対する教会の鈍感さに、他人事めいた差別意識があることを真摯に認め、悔い改め、学び、変わっていかなければなりません。
12 憐れみを求め(キリエ)、恵みをいただき(福音説教)、栄光を帰し(グロリア)、感謝をささげ(祈りと献金)、派遣される。これは礼拝のパターンそのものです。