聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問113「本当に本当にしたいことだけ」ローマ書7章7-25節

2018-02-25 20:49:22 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/2/18 ハ信仰問答113「本当に本当にしたいことだけ」ローマ書7章7-25節

 十誡の最後、十番目の戒めをお話しします。

あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない

です。とても具体的ですね。ここでは「欲しくなって盗ったらいけない」と言っているのではありません。盗ったらいけないのは勿論です。けれども、盗らなくても、欲しがるだけでいけない、といいます。心の中で、人のものを欲しがる、自分のものになればいいのに、と考える。あの人にあって、自分にないことで、怒っている。そういう思いを、神様は厳しく窘められています。ただ、何も欲しがってはいけないのではありません。人が格好を見て、自分の身なりに気を遣うとしたら、自分にとっても良い場合が多いでしょう。この「欲しがる」という言葉はとても強い言葉です。心を何かにくっつける、その事ばかり考える。隣人のものを見て、あれが自分のものならいいのに、と願う強い欲望です。ご近所や友だちや回りを見て、自分にはあれがないとすごく損をしている気になる。今の時代は、奴隷や牛やろばでなく、「お隣の家はいいな。お隣の家族はいいな。あの車かっこいいな」、そういう妬みや欲は尽きませんね。そんなことを考えていたら、いつまで経っても決して幸せにはなれません。だから神様は、そういう妄想を禁じます。たとえ心の中で考えているだけでも、禁じられるのです。

問113 第十誡では何が求められていますか。

答 神の戒めのどれか一つにでも逆らうような、ほんのささいな欲望も思いも、もはや決してわたしたちの心に入り込ませないようにするということ、かえって、わたしたちが、あらゆる罪に心から絶えず敵対し、あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです。

 この戒めは、神が私たちの心を見ておられるお方だとハッキリ教えています。聖書以外の宗教や国家にも戒めや法律はあります。とても厳しい罰を決めている法律はたくさんあります。けれども、こんなふうに、心の思いにまで踏み込んだ法律は、聖書以外にないそうです。それは、聖書の神が私たちの心まで見ておられ、心の聖さこそを求めておられるお方だと、この戒めからハッキリ教えられます。また、今まで

「父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない」

とあった戒めも、そうした間違った行動の根っこには、心の中の間違った欲望が原因だ、ということでもあります。心の中にある

「欲しがる」

思い、自分のものにしたいと強く思い込む間違った願い、それが、殺人や姦淫や盗みやウソになるのです。

 今日読んだローマ人への手紙で、パウロは律法が「人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょうと言っています。欲しがってはならない、という十戒の戒めがなければ、パウロはとても真面目な人でした。見た目では、聖く立派な生活を送っていると自他共に認めていたのです。私は盗んでもいない、騙してもいない、ちゃんと生きている、と言えたのです。けれども「欲しがってはならない」と言われて、自分の中を覗いた時に、欲しがったり自分のものにしようとしたりする思いがありました。心の中にある冷たく強い欲望を否定することが出来ませんでした。しかも、それを言われて自分の心を静めようとしても、一向に拭うことの出来ない、拭いがたい強い思いがあることで、自分の罪を認めざるを得なかったのです。

 けれどもパウロはその後で、このようにも言っています。

15私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
16自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。
17ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。

 自分がしたいと願うことはせず、自分が憎んでいることを行っている。本当は、律法が言うように生きたい。人のものを見ては欲しがったりせずに生きたいんだ。人のものを妬んで欲しがって、生きても決してそれで自分の心は満たされない。私たちが本当に慕い求める正しい生き方は、人のものを全部持てる暮らしではないのです。人のものを欲しがったりしない生き方、心に損や文句を持ったりしないで、心から喜んで、自分の生き方を賢く作ったり、人と分け合う生き方こそ、人の本当の願いなのです。だから神様は、欲しがってはならないと言って下さいました。欲しがってもそれは私たちの本当の願いを叶えてはくれないと思い出させてくださいました。本当に本当に心が願っている聖い生き方、心と行動が一致した生き方へと、私たちを変えてくださるのです。

 あるクリスチャンが言っています。

「共感の欠如が、搾取を生む」。

 誰かと心と心でつながっていることがないから、人のものが欲しくなる、と言い換えられるでしょうか。妬ましくなるのは、本当は寂しい心の穴を埋めたいからなのかもしれません。もし十分幸せと思えたら、余所の家のものを欲しいとは思わないでしょう。幸せは、私たちが人と比べることを止める時に始まります。私たちの心は、神様と繋がり、人と心で繋がることを一番必要としています。それがなくて、いくらものがあっても、誰よりも沢山のものがあっても、誰よりも幸せな人ではなく、誰よりも淋しい人になるだけです。

 イエスは言われました。

マタイ六33まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

 この「求めなさい」は強い言葉です。人のものを羨むのでなく、でも無欲になるのでもなく、神の国と神の義を強く求めなさい。強く強く、素晴らしい事を、人との繋がりを、神の御心を貪るように求めなさい。比較に囚われない神の国の生き方を強く願いなさい。神の恵みに感謝して、赦し合い、助け合い、分かち合う生き方を慕い求めなさい。イエスからこの心を戴いて喜んで生きなさい。

 何かが欲しくなる時、それは本当に自分に必要なんだろうか、自分が本当に本当に欲しいものは何だろうか、考えてみましょう。私たちを本当に幸せにしてくれるのは、比べたり妬んだりする友達ではなく、私たちをあるがままに愛してくれる神様です。そして、お互いの違うままを大事にし合う人、心と心で繫がれる仲間です。そんな関係のほうがみんな幸せです。

 人は人、私は私。イエス様が下さるそんな豊かな心こそ、みんなで慕い求めたい宝です。

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Ⅰヨハネ1章1-2章2節「愛の手紙 ヨハネの手紙第一」

2018-02-25 20:39:31 | 一書説教

2018/2/25 Ⅰヨハネ1章1-2章2節「愛の手紙 ヨハネの手紙第一」

1.手紙を書くヨハネ

 ヨハネの手紙は、紀元一世紀末、新約聖書の中でも最も遅くに書かれたとされる三つの手紙です[1]。宛名はありませんけれども、このヨハネの手紙を読むと、決して不特定多数を漠然と念頭においた一方的な文章ではありません。ヨハネは読者に対して

「私の子どもたち」「愛する者たち」

と親しく呼びかけています。読み手を想いながら、慕いながら書いたのです。

私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。……私たちの喜びが満ちあふれるためです。

とある率直な表現からも感じられる息づかいです。ヨハネが願うのは親しい交わりなのです。

 これはたった五章の短い手紙ですが、

「愛」

という言葉が52回も出て来ます[2]。聞いたエピソードですが、日本で最初に聖書を印刷した時、印刷屋の「愛」という活字が足りなくなって、他の印刷屋に借りに行ったそうです。印刷屋の想定も越えていますが、神の愛は人間の理解を超えています。神の私たちに対する愛をヨハネは丁寧に語ります。とても深く、理解が難しい所もありますが、愛についての大事な忘れがたい言葉がいくつもあるのもこのⅠヨハネです[3]

 この手紙は

「初めからあったもの」

と始まります。これは新しい事ではなく、もうあなたがたが知っていることだ、と繰り返します。神が私たちを愛し、御子キリストをこの世に送ってくださった。だから私たちも光の中を歩み、互いに愛し合おう。言わば、それだけです。それをヨハネは改めて手紙に書いて送るのです。その必要がありました。間違った教えが入り込んで来た背景もありました。けれども単純な応用ですが、私たちも、神の愛やキリストの十字架の愛、そして互いに愛し合うことを生涯教えられ、ここに立ち帰る者です。何百回と繰り返して、愛の手紙を読んで養われるのです。もう分かった、知っていると思わず、絶えず繰り返して、神の愛に立ち帰る必要があります。愛の言葉をたっぷり聴かなければ、私たちは枯れてしまいます。いつも神の言葉を聴いて、愛の言葉を戴いて、主の恵みに潤されたいのです。

2.光の中を歩む

 この手紙も、ぜひそれぞれにじっくりと読んで戴きたい、というのが今日の結論ですが、その時に大事なのは、ヨハネが圧倒的な神の愛を大前提として語っている事実に気づくことです。そうでないと断定的な言葉に躓いて、苦しくなってしまうかもしれません[4]。ヨハネは私たちの罪を責めたり、無理な聖い生き方を要求したりしたいのではありません。まず神が私たちを愛して下さった。まずイエスが人となって来て下さった。それによって、私たちはもう永遠のいのちを戴いた。だから、私たちも自分に閉じ籠もらず、互いに交わりを持つ生き方をしよう。裁き合ったり憎み合ったりせず、愛されている者として愛し合おう、というのです。

 今日読みました1章5節から2章2節の段落でもそうです。神は光だから、私たちも隠したり装ったりせず、互いに交わりを持って生きる。それは罪がない、完璧な生き方をするという意味ではありません。むしろ、罪を認めて、告白しながら、キリストの赦しを戴きながら、安らいで、正直に生きていこう。なぜなら、この方こそ、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のために、御自身を捧げ物としてくださったお方なのだから、というのですね。

 新しい翻訳「新改訳2017」では、Ⅰヨハネの二章12~14節が改行と字下げをして、詩文と分かるようなレイアウトになりました[5]

12子どもたち。
私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。
13父たち。
私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。
若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
14 幼子たち。
私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。
父たち。
私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。
若者たち。
私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、
あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。

 四章7~10節の有名な箇所も同じです。

7愛する者たち。
私たちは互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。
愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8愛のない者は神を知りません。
神は愛だからです。
9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。
それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。

 この言葉はヨハネが考えたというより、当時の教会で既に歌われていた詩を引用したという事でしょう。教会は一世紀末、既に詩や歌がありました。罪が赦された恵み、神を知った喜びを歌う歌がありました。ヨハネは独特な言い回しをしていますが、その姿を、歌いながらこの手紙を書いていると想像してみてください。イエス・キリストに現された神の愛の素晴らしさを思い出してほしくて、この手紙を書いている。そういう様子が「新改訳2017」ではグッと迫るような気がします。ヨハネ自身、神の愛への感動が冷めず、それを分かち合いたい。そうした動機を心に留めて読むと、全部は分からなくても、神の愛が更に心に深く響いてくるでしょう。

 ヨハネが若い頃、イエスからつけられたあだ名は「雷の子」でした。短気で怒りっぽかったのでしょうか。その彼がイエスに愛されました[6]。「雷の子」がイエスの愛を戴いて、その後も半世紀以上かけて「愛の手紙」を書く「愛の使徒」になったのですね。教会には沢山の課題があって、厳しい人生を経てきたはずです。でもだからこそ、彼は神の愛に留まる大切さを繰り返して言うのです。その愛の人ヨハネがこの手紙で厳しく言及するのが、キリストを否定する「反キリスト」でした。4章には

「神からの霊は、人となって来られたイエス・キリストを告白する」

「イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません」

とあります。そして教会に混乱を引き起こして出て行ったのです。それは教会にとって痛ましい出来事だったでしょう[7]。だからヨハネはキリストが本当に人となって来られたと、確信を持って証言します

3.人となって来られたイエス・キリストを告白する

 この素晴らしい神秘こそキリスト教のユニークさであり中心的な信仰内容です。神の子イエスが私たちと同じ人間となって私たちの所に来られました。罪はない、聖なるまま、でも人間離れした聖人君子ではなく、本当に私たちと同じようになって下さいました。神の子がどんな意味で人となったか、小難しい事は分かりません。それ以上に、キリストが私たちの所に来られて、私たちに繋がってくださった。私たちとの深くて強い交わり・繋がり・絆をも下さったのです。キリストを否定して「反キリスト」と呼ばれている人々は、そんな事は馬鹿馬鹿しいと思ったのでしょう。神がこんな自分たち人間の世界を見て、近づきたいと思うだなんてあるわけがないと考えたのです。この手紙の中で一番強烈な言葉は四章20節かもしれません。

四20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

 そうです、目に見える兄弟を愛するのは難しい。これを引っ繰り返せば、イエスだって綺麗事や理想論としての愛は言えても、人間を、私たち一人一人を見た時に、呆れて背中を向けるに違いない、反キリストや初代教会の異端はそう考えて、キリストの受肉を一笑に付しました。信じがたい事に、キリストは私たちを見て、呆れたり見捨てたりはなさらず、近づいてくださいました。私たちを無価値や敵とは見なさず、近づいて永遠の交わりに加えたいと考えてくださいました。その驚く他ない愛をキリストから戴いて、それゆえ私たちも、愛されている者同士、互いに愛し合う、というのです[8]。これが逆で、立派な道徳やノルマで愛し合う、というなら苦しいです。愛の努力をしなければならない世界で、愛の理想を追うなら疲れます。ヨハネが言うのはそうではありません。もう愛されている。もう神が交わりに入れて下さった。この世界は、愛の神によって始まって、愛から離れた世界にキリストが飛び込んで御自身を与えられ、やがて愛し合う世界を完成する約束がある。だから私たちも愛し合い、お互いを認めていく。キリストが神であることを止めずに人間になられたように、私たちも自分であることを止めずに、人に歩み寄って、助け合い、生かし合うのです。失敗もあって当然です。罪がないなんて言えません。そのあるがままに、神の愛の手の中で、焦らず、自分をも人をも敵だと思わずに、ともに歩み、支え合う。愛とはこの気づきから始まる関係です[9]

 自分には愛するのが難しい人も、主が愛された人です。自分自身、闇に隠れたい者です。でもその自分のために主はいのちを捨てられました[10]。こういう主の愛を味わい知った老ヨハネが教える遺言として、私たちもこの愛の手紙を受け取り、読み、愛を語り、生きたいのです。

「私たちを愛したもう天の神が惜しみない愛で私たちを愛し、罪の闇から恵みの光へと招いてくださいました。あなたの愛だけでなく、互いに愛し合い、愛される交わりを与えてくださり、感謝します。私たちが愛し合うことがあなたの御心だという大胆な言葉を繰り返し聞かせて、冷たく閉じた心を癒やし、裁く心や刺々しい言葉を手放して、互いに生かし合わせてください」



[1] ヨハネの手紙は、ヤコブの手紙とペテロの手紙とともに、宛先が指定されていない、教会一般に向けて書かれた「公同書簡」と呼ばれることがあります。

[2] 原文では、「愛」アガペーが18回、動詞「愛する」アガパオーが30回、名詞形「愛する者」が6回、です。

[3] 一例として、「三1私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」「三16キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。17この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。18子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」「四7愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。11愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」「三18愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。19私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」などなど。

[4] 例えば今日読みました5-10節も、「神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行ってはいません」という言葉。これを「ああ、自分にはまだ闇がある。偽りがあって、真理に歩んではいないと読んで、自分を責め、ますます暗くなることも出来るでしょう。それとは逆に、5節で「神は光であり、神には闇が全くない」という言葉を心に止めるなら、神が光である以上、私は闇の中を歩んではいないのだ、と希望をもらうことが出来ます。8節から10節で「自分には罪がない」と言うなら、欺いていることになる、と言われるのも、自分には罪があるのだ、やっぱり自分は闇だ、と読むことも出来ますが、5節からの流れで言えば、罪がないふりをせずに、告白しながら歩むのが「光の中を歩む」という事なのです。自分を責めるのとは反対に、晴れやかになる言葉です。

[5] フランシスコ訳もそのようなレイアウトになっています。

[6] 福音書で彼は自分の事を「主が愛された弟子」と呼びました。

[7] 二章18~27節、三章7節、四章1~3節など。

[8] ヨハネはこのキリストを否定する教えにキッパリと「反キリスト」と言います。それは正しい教えに狭く閉じ籠もり、他者を切り捨てる頑固さではありません。キリストが人となって来られ、交わりを下さったのだから、私たちも互いに愛し合おう、関係を壊すような罪を捨てて、互いに愛し合おう、命を捨てることも惜しまず、困っているなら助け合おう。そういう互いへの愛へと踏み出していく生き方になったのです。目に見える人間、家族や教会の仲間、人を愛する。それは中々難しいことです。愛しやすい人を愛するのは簡単ですが、現実の人を愛するのは難しくなることがあります。ヨハネが言う「愛」は最初から理想論やヒューマニズムでの「博愛」ではなく、現実には難しい愛の事だと気づきます。この根拠も、キリストが私たちをまじまじと見て、心の奥まで知られた上で、愛してくださったに他ならない、恵みにあります。

 

[9] 私たちが罪を犯しても、キリストが私たちのために執り成して、赦しと回復を与えてくださいます。罰やさばきを恐れて生きるのではなく、愛されている者として生きるのです。神が命じる生き方は、私たちの現実を知らない、理想論での聖い生き方ではありません。人となり、生きる現場を知り尽くし、人の心の機微も本当にご存じの方が、私たちを愛され、私たちとの永遠の交わりを約束され、その上で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と新しい生き方を示されたのです。

[10] 信仰から離れている人たちにも、主は歩み寄ってくださるとも信じる希望があります。ヨハネは「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです」と言いますが、勿論、教会から出て行った人がみんな「元から本当のキリスト者ではなかった」なのではありません。人が教会から離れる大きく回り道をするには様々な事情があります。教会が「あいつは最初から偽者だったんだ」なんて言う集まりだったら帰って来たいと思わないでしょう。むしろ私たちは、私たちが神から離れ、遠く離れた歩みをしていても、主が命を捨ててまで来て下さって、神の子どもとなれる、そういう恵みを信じています。

 

ヨハネの手紙第一の「愛」リスト

 

 2:5 しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神のが確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。
2:7 する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。
2:10 自分の兄弟をしている人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。
2:15 あなたは世も世にあるものも、してはいけません。もしだれかが世をしているなら、その人のうちに御父のはありません。
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしいを与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3:10 このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟をさない者もそうです。
3:11 互いにし合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。
3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟をしているからです。さない者は死のうちにとどまっています。
3:16 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちにが分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
3:17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神のがとどまっているでしょうか。
3:18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもってしましょう。
3:21 する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。
3:23 私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いにし合うこと、それが神の命令です。
4:1 する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。
4:7 する者たち。私たちは互いにし合いましょう。は神から出ているのです。がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 のない者は神を知りません。神はだからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神のが私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神をたのではなく、神が私たちを、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここにがあるのです。
4:11 する者たち。神がこれほどまでに私たちをしてくださったのなら、私たちもまた、互いにし合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いにし合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神のが私たちのうちに全うされるのです。
4:16 私たちは自分たちに対する神のを知り、また信じています。神はです。のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
4:17 こうして、が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。
4:18 には恐れがありません。全きは恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、において全きものとなっていないのです。
4:19 私たちはしています。神がまず私たちをしてくださったからです。
4:20 神をすると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟をしていない者に、目に見えない神をすることはできません。
4:21 神をする者は兄弟もすべきです。私たちはこの命令を神から受けています。
5:1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方をする者はみな、その方から生まれた者もます。
5:2 このことから分かるように、神を、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちをするのです。
5:3 神の命令を守ること、それが、神をすることです。神の命令は重荷とはなりません。」

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