聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問129「アーメンってどういう意味?」Ⅰコリント1章4-9節

2018-07-01 16:15:26 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/7/1 ハ信仰問答129「アーメンってどういう意味?」Ⅰコリント1章4-9節

 今日でハイデルベルグ信仰問答の最後になります。「主の祈り」の最後の「アーメン」の話です。祈りの最後「アーメン」と言います。そう言わなければならない訳ではありませんが「アーメン」と付け加えます。「アーメン」は「これで終わりです」という意味でしょうか? お祈りの最後の挨拶とか、「いいね!」だと思っている人もいました。そして、キリスト教といえば「ああ、アーメンか」と言われて、ちょっとカチンときた経験もあるかも知れません。しかし、このハイデルベルグ信仰問答も、アーメンで結ぶのです。それはキリスト者にとって、アーメンが一番相応しいから、と言うようです。

問129 「アーメン」という言葉は何を意味していますか。

答 「アーメン」とは、それが真実であり確実である、ということです。なぜなら、これらのことを神に願い求めているとわたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。

 アーメンとは「真実です・本当です・確実です」という意味です。嘘ではありません、心からの願いです、という意味だとも言えます。そうすると、祈りの最後にアーメンと言うのは、今まで祈ってきた事が本当です、私の心からの願いです、という意味かと思いそうになります。けれども、ここではそうは言いません。むしろ、

「これらのことを神に願い求めていると私が心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているから」

と言います。私たち祈る者たちの真実さのアーメンではなくて、神さまご自身の真実さを指して、アーメンというのです。神が真実であられます、そういう意味でも、最後の言葉

「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」

とセットになっている

「アーメン」

です。「あなたのものだからです、本当に」なのです。

 聖書には「アーメン」という言葉が何カ所にも出て来ます。そして、イエスが何度も仰っているのです。新約聖書はヘブル語でなく、ギリシャ語で書かれているのですが、ヘブル語のアーメンが、旧約聖書の何倍も多く出て来ます。そして、その多くがイエスの言葉でした。日本語の聖書では「まことにまことに」と訳されていますが、イエスが繰り返して仰ったのが、本当に、という言葉での念押しでした。弟子たちに何度も「まことにあなたがたに言います」とゆっくり、力強く、丁寧に仰ったのです。

 そこで、後に沢山の手紙を書いたパウロは、イエスの事を真実な方と呼びます。

Ⅱコリント一20神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。

 神の約束が、イエスにおいて事実になった。イエスは、本当に神の約束そのもので、その言葉には何一つ偽りがなかった。だから、私たちが「アーメン」というのは、神に栄光を帰することです。神が真実な方でいらっしゃることを告白する賛美なのです。今読みましたⅠコリントの一章ではこのような言い方をしていました。

Ⅰコリント一8主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。

神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。

 神は真実です。神は真実です。この真実な主が、私たちをイエス・キリストとの交わりに入れて下さって、最後まで堅く保って、終わりの日にも責められる事がない者としてくださる。それは、私たちが真実であれば、という私たちの真実さ次第、私たちの信仰さえあれば、という事ではなく、神が真実なお方だから、なのです。黙示録にも

黙示録三14また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる-。

 イエスの名前が「アーメンである方」と言われています。イエスは、神の約束をすべて果たしてくださいました。口先で「まことにまことに言います」アーメン、アーメンと繰り返しただけでなく、ご自身が主の約束を本当にしてくださいました。

 人間が大切な手紙を書いた最後に、自分の署名をしたり、印鑑を押したりするのは、この内容が本当に嘘偽りないことを誓います、という意味ですね。誓約です。ここで偽りがあると、「公文書偽造罪」という罪に問われる場合があります。私たちが祈りの最後に「アーメン」というのは、これとは違います。私たちの側の嘘偽りなさを誓うのではありません。私たちの願い以上に、イエス・キリストが真実であられます。神が王であられます。だから、そのイエスの真実にお任せして、私の祈りや願いも、生き方や人生、私そのものもあなたにお捧げしますと祈るのです。そして、神が私たちの願いを聞いてくださる。私の側の問題や不十分さを責めて、公文書偽造罪を正されるのではないかと恐れなくて良いのです。この私の祈りも、イエス・キリストのゆえに聞いて戴ける。

 主の祈りは祈りの土台です。御名が聖とされますように、御国が来ますように、御心が天でのように地で行われますように、日毎の糧を与えてください、負い目をお赦しください、試みに遭わせず悪からお救いください、と祈りました。その祈りを授けてくださったイエスご自身が真実な方、アーメンのお方です。本当にそうなるのです。御名が聖とされ、御国が来る。皆にパンが与えられ、罪が赦され、互いにも赦し合い、悪から救い出されるゴールなのです。聖書の約束は、すべて確実に成就します。私たちがそれを信じられなくても、私たちが神の約束を十分理解できていないとしても、老人になって忘れたり何も覚えていなくなったりしたとしても、イエスは神の約束を果たしてくださる。この世界の歩みも、この宇宙そのものも、神の約束の完成に向かっています。

 人の言葉は変わります。人の言葉を信じて騙された経験があるでしょうか。親切そうな言葉や強い言葉が流行しては消えていくうちに、私たちは神の言葉もどこかで疑ってしまいます。けれども、そういう私たちの体験には収まりきらないほど、神の言葉は真実では。神は決して私たちを裏切りません。神の素晴らしい約束は今も変わりなく、やがて完全に現されます。そして私たちもそこに確実に入れられる。そういう約束を神は下さっています。アーメンは、祈りの結びだけではありません。私たちの人生の最後にも、この世界の歴史が終わる時にも、神は真実であられた、アーメンと言う日が来ます。神の真実がすべてを新しくする日が必ず来ます。その事を信じる告白でもあるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

使徒の働き二七章1-20節「絶望の中の希望」

2018-07-01 16:05:50 | 使徒の働き

2018/7/1 使徒の働き二七章1-20節「絶望の中の希望」

 使徒の働きの最後の二章はパウロがローマまで辿り着く旅行記です。あっさり省略して「嵐もあったがローマに着いた」でも良いのにあえて詳しく書きます。聖歌の「人生の海の嵐に」を思い起こす、そしてあの聖歌のように人生の嵐に悩む時の慰めになってくれる結びです。

1.旅の流れ

 この27章前半は地図を見ながら読んだ方が分かるでしょう[1]。カイサリアからシドン、キプロスの島陰、キリキアとパンフィリアの沖、リキアのミラ港に入港というコースです。

「アドラミティオ」

はエーゲ海北東の町でそこに帰って行く船を利用したのでしょう。そしてミラでアレクサンドリアの船に乗り換え、クニドへ、四国ほどの幅のクレタ島の島陰に入り

「良い港」

に着いた。二度も

「やっとのことで」

と相当風向きに難儀をして、1400kmの旅は、予定よりも大幅に遅れてしまったのです。

9節「かなりの時が経過し、断食の日もすでに過ぎていた」。

 この「断食の日」はイスラエルのカレンダーで10月頃に祝われる「贖いの日」の事ですが、地中海の船旅は9月の半ばを過ぎるともう危険で、11月11日から3月10日までは航海は行わなかったそうです。既にここまでで風は強い年でしたから、危険は予測できました。ですが、船長や船主はもう少し西の港に行きたいと欲を出してしまう。13節で穏やかな南風が吹いたのをこれ幸いと船を出します。しかし直ぐに暴風が叩き付けて船は流されてしまう。小舟を引き寄せ、綱を巻き、浅瀬に乗り上げないように、と必死です。翌日には積み荷を捨て、三日目には船具さえ投げ捨てますが、何日も真っ暗な中を揉まれながら過ごします。

「私たちが助かる望みも今や完全に断たれようとしていた」

という心境で何日もした頃[2]、パウロが立ち、

21…言った。「皆さん。あなたがたが私の言うことを聞き入れて、クレタから船出しないでいたら、こんな危害や損失を被らなくてすんだのです。

22しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もいません。失われるのは船だけです。

23昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、

24こう言ったのです。『恐れることはありません、パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。』

25ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。

26私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。

2.パウロの発言

 確かにパウロが最初に言ったように、クレタの港でパウロは警告していました。その通りになりました。パウロは船乗りではありませんが、船旅をして、Ⅱコリント十一25では

「難船したことも三度」

と言うほどの経験がありました[3]。また、船乗りの判断を当てにしたら危険なことも経験していたのでしょう。あそこで向こう見ずに船を出さず、賢く行動していたら良かった。そうすればこんな嵐に遭って結局積み荷も捨てて命まで絶望的な思いをすることはなかったでしょう。愚かな行動の結果、どんなに悔やんでも取り返しは付かないのです。

 しかし、パウロの要点はその非難ではありません。責めて後悔させて、自分が正しかったのだと今更の発言をしたかったのではないのです。その後の

「元気を出しなさい」

がパウロの要点なのです。この絶望的な状況も、絶望ではない、そこから希望を持つことが出来る。神は人間にとって、望みが絶たれたように思える状況、愚かな選択のどうしようもない結果、太陽も星も見えない真っ暗な嵐の中でさえ、希望を語ってくださる神です。パウロはその希望を宣言するのです。元気を出しなさい、と語るために立ったのであって、責めるためではありません。

 パウロがただ宗教熱心なだけでこの生ける神、創造主なる神を知らなかったらどうでしょう。ここで人々を非難して「やっぱり私が正しかった」と見下したでしょう。その後の希望も、「悔い改めたら救われる」と条件付きの救いだったような気もします。でもそうではなかった。パウロがこの時に語ったのは、夕べ主がパウロの枕元に立って

「恐れることはありません。パウロよ」

と語って、将来を約束してくださったからです。そして、パウロは自分だけが助かってローマに行けたら良い、こんな傲慢で罰当たりな連中は滅びたらいい、などとは思っていなかった。だからこそ、主との間に同船者たちの安全も話題になったのでしょう。そして、この希望が語れるまで、パウロは黙っていました。「だから言ったのに」という嫌みならいつでも言えたのに、そんな言っても仕方のないことは言わなかった。主の幻で希望がハッキリした時、初めて、立ち上がって語りかけたのです。責めるためではなく、また、この機に乗じて悔い改めや信仰を持たせるためではなく、あるいは空望みや曖昧な慰めを語るためでもなく、自分の神である方がハッキリと与えてくださった希望を、一人一人に語るため、励ますためでした。

3.神の冒険

 「使徒の働き」の最初でルカは本書の内容を

「イエスが行い始め、教え始められたこと」

と切り出しました。イエスがなさったことはもう終わったのではなく、始まりでした。イエスは今も教会に、また教会を通して働いておられ、教えておられる。人を変え、ユダヤ人と異邦人を和解させ、絶望の中に希望を語られます。死で終わりでなく、復活という望みがある。ただの道徳や宗教ではない、イエスが生きておられ、今も働いて、命の業をなさっている。そういう御業が、この最後のパウロのローマへ行く旅路に本当に力強く現されているのです。

 今も舟は人間社会や人生の譬えに使われますが[4]、聖書にも船は度々出て来ます。弟子たちは既にイエスの話を聞いて、神の国の教えやイエスの語る素晴らしい希望に心燃やされる思いをしていたはずです。群衆がその話を聞きに大挙してきたぐらい、イエスの話に元気をもらっていたのです。しかしその後、船に乗って嵐に遭ったら、途端に恐れて信仰も吹っ飛んでしまいました。でも「だからダメ」じゃない。しくじって、間違ってしまうのが人間です。そしてそういう弟子たちとイエスはいてくださる。今日の箇所もそうです。パウロの語るイエスが、嵐の中でもともにおられて、絶望的な状況から生還させてくださったのです。

 パウロは「自分の言ったとおりにしなかったから嵐に遭った」とは言いません。最初から強い向かい風だったのです。パウロは現実主義者です。「信じて祈れば嵐も恐れない」と強行突破しようとはしません。嵐がある、思うままにならない。

「良い港」

と思ったら冬を越すには適さない。それでも待った方がよい時があります。ちょっと穏やかな風が吹いて、やったと思って動き出したら暴風に襲われる。判断を間違えてしまう。そういうあれもこれもひっくるめた冒険なのです。そして神はそういう歩みを紡がれるのです。向かい風に悩まされ、明らかな警告無視で漂ったりしても、そこからさえイエスは道を開いてくださる。望みが完全に絶たれたような中にも、そこで新しい事を創造してくださる。希望を持たせて下さる。私たちが信じられなくても、神は私たちを導いて、船旅を最後まで導いてくださる。そして私たちが無謀な愚かな行動をしたり、絶望したりせず、人生に十分取り組めるよう助けてくださるのです。

 海外宣教週間です。宣教師の報告には、その働きが順調で、成果が見えることばかりを期待しやすいものです。実際には、そこにいる方々との個人的な関わりや思うままにならない状況で待たされたり思いがけない関わりをしたり、宣教師やご家族が深く心を探られたり取り扱われている様子が伝えられます。単純ではない、人間的で人が大事にされる出来事が、今も続けられています。イエスは今も生きて働き続けておられます。待ちきれず、欲を出して判断を誤り、嵐にもまれて神も希望も失ってしまうような私たちの中に、イエスは働いて下さっています。この方から希望を戴いて、元気を戴いて、その元気を無条件に分かち合っていきましょう。

「主よ、あなたは私たちの主、私たちはあなたのものです。造り主なるあなたが、今も私たちの旅路にあなたの物語を紡いでおられます。船もこの体も世界も壊れますが、そこにもあなたの御手を信じて手を開きます。変えられない過去を責める思いから救い出してください。失敗や嵐や絶望を見据え、そこにもあなたの創造の御業を信じて、慎みをもって歩ませてください」



[1] ルカはこの「使徒の働き」を、当時の地理感覚がある読者に書いています。ですから、その地理感覚がない読者は、地図や資料で理解した方がより分かります。それがないままだと、全く見当違いな読み方をしかねません。

[2] 19節には「三日目」、27節には「十四日目」とありますから、その間、一週間か十日経った頃でしょう。

[3] Ⅱコリント十一25「ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。」

[4] 古歌に「世は海よ身は浮き舟よ 心をば 舵とぞ思い 心して漕げ」というのがあるそうですが、その他多数・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする