聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問57-58「安息日の主」 マルコ2章23~28節

2015-07-20 07:59:03 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/07/12 ウェストミンスター小教理問答57-58「安息日の主」マルコ2章23~28節

 

 ウェストミンスター小教理問答の順番を三回脱線しましたけれど、今日からまた元に戻して、問五七から見ていきます。十戒の解説を見ていましたので、その途中から、第四戒の「安息日を聖とせよ」のお話しをしていきます。けれども、これは夕拝ですね。日中の礼拝に来られなくて、夕拝に来ている、という方が殆どです。ですから「安息日」について、と聴いただけで、後ろめたい気分になってしまう人もいるかもしれません。最初にお話ししておきたいと思います。安息日の律法も、私たちを裁くために書かれているのではありません。神様は、私たちに安息を与えようと願って下さる、愛の父です。

 十戒の中でも最も長いのは、神礼拝でもなく、殺人の禁止でもなく、姦淫の禁止でもなく、この安息日のことです。ウェストミンスター小教理問答でもそれだけ長く解説していますから、一度では話しきれず、三回に分けてお話しします。それぐらい、私たちが休むことを神様は願っておられるのですね。安息日の律法によって、私たちに重荷を負わせよう、というのではありません。そういう風には聴かないでください。主は、私たちの重荷を下ろさせてくださるお方であって、安息日律法という重荷をもう一つ増し加えたいのではありません。ですから、この第四戒は、夕拝に来ている私たちにとっても、必ず、解放や安息を与えるものであるはずです。

問五七 第四戒は、どれですか。

答 第四戒は、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も――それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」です。

問五八 第四戒では、何が求められていますか。

答 第四戒は、神が彼のことばにおいて定めておられる一定の時間、すなわち、七日のうち丸一日を、ご自身に対して聖なる安息日となるように、神に対して聖く守ることを求めています。

 長いですね。最初の

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」

だけでも良いのかもしれません。でもそれだけでは、分からないことがいくつも分かります。その一つだけを今日は見たいと思います。それは、ここでは神は私たちが休むことを命じるだけではなく、家族や使用人や家畜も休むことを願っておられます。

 そして、そもそも神ご自身が世界を作られたとき、六日間で作られた後に、七日目に休まれたからだ、と言われています。

 この「休む」という言葉を、出エジプト記31章17節では「憩う」と言い換えていますが、それは「ひと息つく」「重荷を下ろす」という言葉なのですね。勿論、神にとっても、流石に天地創造は大変だったから疲れた、という意味ではありません。しかし、神は天地を造っても疲れを知らずにまだまだ新しい物を作り続けた、というお方でもありませんでした。そこで休まれて、ひと息いれるお方でした。憩いを愛されるお方です。今日の、マルコ2章28節で、イエス様がご自分のことを、

「人の子は、安息日にも主です」

と仰いましたが、正確には「安息においてさえ主です」という意味です。イエス様は「安息の主」でさえあられます。

 このイエスから目を離してしまうと、私たちは休むことが出来なくなります。安心できないので、たくさんの心配事を抱え、お金を稼ぎ、忙しくしています。

あるいは、休むと言っても、遊びに出かけたりお金をかけて楽しんだりすることで「気晴らし」をするばかりで、そこでも何かしら気忙しい思いや勝ち負けを考えている所がないでしょうか。

 それは、安息をされた神の「憩い」とは違う、ただの「娯楽」やイベント、レジャーであって、神が下さる休みとは違うのですね。そして、休みたい、疲れた、休みがない、と言いつつ、でも実は、何となく忙しくしていないと不安だったり、落ち着いて座っていられなかったりするのも、特に日本人ではありがちです。休むよりも働かなくちゃ、礼拝に行く暇があったら稼いだり遊んだりしないと時間が勿体ない!と言われるのです。もちろん、聖書も第四戒も、働くな、遊ぶな、と言っているのではありません。週の六日は働きなさい、と言っていますし、その六日間だって働く時間は制限されていました。働いたり、家族で過ごしたり、楽しんだりすることを全部否定されたのではないのですね。それとバランスの取れる形で、週に一度の安息日を守りなさい、なのです。

ユダヤの社会は、週に一度は、奴隷も家畜も含めた社会の全体が仕事から離れて、神様の言葉を聴き、礼拝するようにと定められたのです。

 現代の日本は、それとは違いますし、キリスト教が広まっていったばかりのローマ社会も、そのような律法の世界ではありませんでした。まだ日曜が休みでもなかったので、日曜の仕事を終えてから、キリスト者たちは集まって来て、礼拝をささげたのです。初代教会の礼拝は、夕拝が中心だったのですね! それが彼らの安息日の守り方でした。私たちも、それぞれに事情があります。夕拝に来ている皆さんの過ごし方は、十分尊いのだと思います。そして、忙しい中に夕拝も付け加えるのではなくて、忙しい中だからこそ、夕拝に来て、神様から憩いをもらっていきたいですね。

 時間をどう使うかというのは、信仰と無関係ではなく、私たちの価値観そのものです。私たちは折々に、安息の主の前に静まることが必要です。

どうぞ普段の生活でも急がないようにしてみましょう。あえて最後に並び、立ち止まり、「お先にどうぞ」と言ってみてください。安息の主が下さる穏やかな心を、大事にしましょう。心が疲れたり、焦ったり、不安があったりする私たちは、世界を作られた神が、私たちにいのちを下さり、必要を満たして養って導いてくださることを思い出すことがどうしても必要です。イエス様の十字架と復活の御業を聴くことが本当に必要なのです。私たちの重荷をイエス様が担ってくださいました。私たちの重荷の重さをイエス様は知っておられます。そのイエス様を、急がずに、仰ぐことが、主の安息に生かされる人生になるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルカ15章11~32節「喜びへ至る物語」東大和刈穂キリスト教会 講壇交換説教

2015-07-05 21:47:02 | ルカ

2015/06/21 ルカ15章11~32節「喜びへ至る物語」東大和刈穂キリスト教会 講壇交換説教

 

 気ままに生きる兄としっかり者の妹、と言えば寅さんですが、今日の放蕩息子は、真面目で堅物の兄と、自由気ままで魅力的な弟、という組み合わせです。この組み合わせも、たくさんの映画が思い浮かびます。「エデンの東」「イン・ハー・シューズ」や「重力ピエロ」。「アナと雪の女王」も近いかもしれません。この喩え話も、典型的な長男と典型的な次男、という読み方も出来ます。皆さんは、兄と弟どちらに、より感情移入できますか。弟は、生きている父に財産をねだり、遠くの街で遊び使ってしまいました。父のもとで真面目に働いてきた兄は、帰って来た弟を受け入れることが出来ません。兄息子には、こんなふざけた物語を聞く耳はなかったのです。兄が思い描いていたのは、そういう物語ではなかったのです。

 実は、弟も彼なりの成功物語を思い描いていたはずです。自由になって、遠くの国でありったけのお金を使えば、きっと幸せになれる。そういうストーリーを夢見ました。退屈な人生では詰まらない。伝統とか仕事とか決まり事とか、こんな生活は鬱陶しい。自分の夢がかない、楽しんで暮らすハッピーなドラマ。それが自分の人生であるべきだ、と飛び出したのです。

 兄息子は、忠実に汗水流して働けば、その努力がやがて報われると考えていそうです。

29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。

30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

 兄の頭にあったのは、長年、黙々と父に仕え真面目に働いてきた自分こそ、もっと感謝や報いがあるべきで、遊び暮らしてきた弟はもう「私の弟」とさえ呼びたくない、顔も見たくない、という考えです。

「仕える」

には「奴隷のように仕える」というニュアンスがあります。喜んで仕えていたわけではなくて、不平や不満が積もり積もっていたのです。でも、それを我慢して働き続けたのだから、自分こそ正しく、報われるべきと自負して疑いませんでした。

 それは、この一五章の1節2節が示しているように、当時のユダヤの指導者、宗教家たちがイエス様に対してとった呟きでした。真面目に正しく、禁欲的に生きてきた自分たちを差し置いて、清く正しい生き方の出来ない庶民を受け入れて食事をする仲間としている。そんなイエスの生き方が許せなかった。否定したかったのです。自分たちの努力や真面目さが神に喜ばれるのだと思い描いていたストーリーが否定されることを、彼らは力尽くで抵抗したのです。

 イエスが父と兄息子の対話に託して、いいえ、このルカの福音書全体、そして新約だけでなく旧約も含めた聖書全体で語っておられるのは、父の家から飛び出して散々好き勝手に生きてきた人間を、神は家に迎え入れてくださる、という物語です。真面目になったり、償ったり、真剣に赦しを乞えば受け入れてもいい、という神ではなく、神の方から、人間に近づき、息子として迎え入れるために、最上の着物や肥えた子牛も惜しまず、いいえ、神ご自身のもっとも大切なひとり子イエスさえ屠らせなさってまで、喜んで迎え入れてくださる、という物語です。この、神ご自身の限りない憐れみによって、私たちは、神の家に、世継ぎである子ども(ご子息、ご息女)として迎え入れていただく結末が約束されているのです。

 私たちは、この神の喜びを知らされています。弟息子をも走りより、子牛を屠ってまで迎え入れる父の愛を、私たちもいただいています。兄息子は正しく立派なようで、喜びも憐れみも欠いていて、彼の方が父からは遠く離れていました。だから、私たちは自分の行いや努力、奉仕や信仰を誇ったりしないように、謙った愛を持つ必要があるのです。

 ご存じですね?

 しかしそうだと分かっている筈なのに、どうでしょうか。分かっている筈なのに、なお、私の中には、あわよくば弟息子のように、夢物語が叶ったり、一攫千金のチャンスに恵まれたり、ドラマのヒーローのように、特別な存在になりたいという、子どもじみた憧れがあります。あるいは、自分の努力を誇り、「いい説教でした」と誉められることを妄想したり(笑)、他の人を蔑んだり、妬んだりする自分がいます。人の喜びを喜べず、怒りに悶々としている自分がまだいます。知識や経験で分かったつもりでも、心にはまだ、福音とは違う、恵みの神ならぬものを抱えています。放蕩で幸せになりたい、自分が頑張って神にも認めさせなければならない。

 イエスは、私たちにこの物語を、福音の物語を語ってくださいました。それは、ただの物語ではありません。神の世界に対するご計画が凝縮された物語です。天地が過ぎ去っても滅びない御言葉が、やがて喜びの宴会が始まると語っています。神は、この喜びに至る物語を聞かせてくださるのです。父は兄息子を怒ったり説教したりせず、ただ言いました。

31…『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。

32だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返ったのだ。いなくなっていたのが見つかったのだ。楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

 奴隷のように仕えて来ようが、戒めを破ろうが、それ以前に、いっしょにいること、それが父の喜びでした。既に、父はすべてを与えていたのです。しかし、そこにいなかった弟息子は、父にとっては死んでいた。それが生き返った、見つかった。だから、楽しんで喜ぶのが当然だとだけ言います。ただそれに気づいて怒りや不満を捨ててほしい、というようです。

 この「当然」が私たちにとっても当然となることが、福音です。やがて、永遠の祝宴が始まる時、そこにある喜びは、兄が思い描いたご褒美でもなく、弟が夢見た快楽でもありません。それは、私たちを愛してくださる神の喜びです。御子イエスがご自分を与えてくださる尊い喜びを、私たちは永遠に祝うのです。その喜びに至る物語の中に、私たちは今生かされています。その喜びは、どんな批判や不満よりも強い永遠の喜びです。

 主が語られたこの喩え話は、私たちの物語です。福音は、否定しようのない現実です。私たちの心も、人生そのものも、イエスの福音の物語によって上書きされて、置き換えられていくのです。今、私たちはその途上にあります。まだ心には、福音とは違う考えがすぐ始まります。でも有り難いことに、それは必ずしくじります。そしてそのことを通して、私たちはますます主の恵みに信頼するのです。

「私は戒めを破ったことは一度もありません」

と言えなくてもいいのです。なぜなら、神が願っておられるのは立派な行いではないからです。私たちは、神の測り知れない喜びへと入れていただくのです。

 それは最終的には、というだけではありません。今の生活もまた、喜びに向かう歩み、その恵みの福音を知らされて、新しくされていくはずです。喜んで仕える歩みです。私たちの中にある様々な渇きや憧れや不満や怒りも、主が取り扱ってくださいます。苦しみや恥も、後悔も足りなさも、すべて主はご存じで、私たちを迎え入れてくださいます。今主は私たちとともにいて、ともに仕えてくださっているのです。

 

「主よ。あなたのものが全部私のものであるなら、私のものも全部あなたのものです。そして、あなたの喜びを現すために、惜しみなく献げるべきものです。私たちがその喜びに生きるために、毎日この主の福音を聴かせてください。本当に主の愛によって、私たちの心の奥深くを癒され、重荷を下ろして、あなたを賛美し、礼拝し、心からお仕えする歩みをお恵みください」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウェストミンスター小教理問答97「ふさわしいと思ったら大間違い」

2015-07-05 21:42:29 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/07/05 ウェストミンスター小教理問答97「ふさわしいと思ったら大間違い」

                                                        Ⅰコリント11章26~29節

 

 シンデレラの二人のお姉さんは、王子様の花嫁になろうと一生懸命綺麗にして、自分こそお姫様にふさわしいとアピールしました。そして、シンデレラには、おまえはパーティに来なくていいわ、とドレスを滅茶苦茶にしてしまいます。でも、そのシンデレラに魔法使いがドレスを着せてくれて、王子様はシンデレラを后に選びます。姉や継母は、自分こそ相応しいと自惚れれば自惚れるほど、自分の醜い心を暴露していましたね。

 これは、映画やおとぎ話にもよく見られるパターンです。「自分こそふさわしい、いやいや自分こそ」と言っている人たちはやっぱりダメで、「あんたなんかダメよ」と言われていた主人公が選ばれる、というのですね。実は、教会でも同じ事が起きるのです。毎回毎回の聖餐式のたびに、それが起きています。さっきのコリント書では、

十一27したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

と言われていました。これを「相応しくなければ、聖餐式でパンを食べ杯を飲むことは出来ないのか!」と思っている人も多いのです。でも、それは、イエス様が十字架に掛かって、肉を裂かれ、血を流されて死んでくださったことを思い出しながら、パンと杯を戴きなさいよ、という意味です。

 イエス様の十字架の死は、私たちのための死でした。罪に死んでいた私たちを救い、神のものとして取り戻してくださるために死なれたのです。決して、私たちがよいことをしたから、立派だったから、ではありません。もし「イエス様が私のために死んでくださるくらい、私はふさわしい人間なのだ。だから、私には、聖餐に与る権利があります」などと言う人は、イエス様の十字架がちっとも分かっていない、ということですね。逆に、「私はイエス様に死んでいただくには、全くふさわしくないのに、でもその私のために、イエス様は十字架に死んで下さいました。ただただ、イエス様の大きな愛に感謝します」と言う人こそ、ふさわしいわけです。

問97 主の晩餐をふさわしく受けるために、何が求められていますか。

答 主の晩餐にふさわしくあずかろうとする人々には、[第一に]主の体をわきまえる知識について、[第二に]主を糧として生きる信仰について、また[第三に]悔い改めと愛と新しい従順について、自分自身を吟味し、ふさわしくないままで来て飲み食いし、自分に裁きを招くことがないようにすること、が求められています。

 主の体を弁える、というのは、今お話しした通りです。主の体は十字架に裂かれました。パンと杯をいただくとき、イエス様の十字架は、私たちにとってはただ勿体ない恵みだったことを知っている必要があります。ふさわしくないことを弁える知識です。

 二つ目の「主を糧として生きる信仰」も、自分には立派な信仰がありますと言えなければ相応しくない、ということではありませんね。むしろ、イエス様ご自身によって養われなければ、私たちの信仰は死んでしまいます。私たちはイエス様を必要としているものです。人が食べ物を必要としているように、病人が薬を必要としているように、私たちはイエス様を必要としています。相応しくないほど、弱り、病んでいるからこそ、イエス様の御体につながり、養っていただくことがどうしても必要なのです。

 ただね、それは神様に向かって言うだけではないことですね。

主の聖晩餐や礼拝に来る時には、「私はふさわしくないです。神様のもったいない恵みによって救われて、パンとぶどう酒をいただけることを本当に感謝します」と言っているけれど、普段の家庭や学校や仕事では、シンデレラのお姉さんのようになっていたらオカシイですね。お祈りするときは「小さな私を愛してくださってありがとうございます」と言っているけれど、お祈りが終わったら、人のことを馬鹿にしたり、すぐに張り合ったり競争したりするのは、それはやっぱり相応しくないですね。

 「[第三に]悔い改めと愛と新しい従順について」とあります。これは、神様との関係だけではなくて、毎日の生活でのことでもあります。私たちが、家や学校や地域で、自分の罪を正直に認めて正直に神様の方を向いて悔い改め、愛をもって生きることが、イエス様が私たちに命じてくださった「新しい従順」です。礼拝や教会と、外の普段の生活を切り離すのではなく、全部が神様の前にある人生の道なのです。そこで、私たちが神様に養われて、愛し合って生きることが、神様の世界に対する目的なのです。

 けれども、エデンの園で神から離れて以来、人間は、神を自分から切り離しています。だから、毎日の生活で、人と競争したり、シンデレラのお姉さんたちのように、張り合ったり、見栄を張ったり、意地悪をしたり、するのですね。私も、牧師でもつい、心が焦ったり暗くなったりしてしまいます。イエス様に愛されているのに、心の中で人を見下してしまったり、自分勝手なことを考えたりしてしまいます。でも、イエス様はそういう私を「ふさわしくない」と拒まれるのでしょうか。いいえ、そういう私のために、イエス様は十字架にかかり、よみがえってくださいました。そういう私だからこそ、イエス様を「いのちのパン」として戴く必要があります。そして、イエス様は、私たちの罪を赦すだけでなく、私たちの生活の中で、悔い改めと愛と新しい従順をもって生きるように、私たちを養い、導いてくださるおつもりなのです。

 これは、レンブラントの「天使と格闘するヤコブ」という絵です。ヤコブはとても狡く、自分に自信が持てないで、逃げ回りながら人生を生きてきた人でした。成功して、沢山の家畜を持ちましたが、それでも、その心には恐れがありました。ある夜、神の使いがヤコブを捕まえて組み伏せて、一晩中相撲を取ったのだそうです。ヤコブは逃げられません。神様からもう逃げることは出来ないのだととうとう観念したとき、帰ろうとする御使いにヤコブは言いました。「私を祝福してくださるまでは、あなたを帰らせません」。この言葉を御使いは待っていたのです。今でもそうです。私たちが神様からの祝福、助けを戴かなくては、毎日の生活は、競争や意地悪や嘘でいっぱいになってしまいます。疲れて、心が折れて、人を傷つけてしまうだけです。イエス様の恵みが必要です。イエス様、どうぞ私を養って、あなたに従えるようにしてください。そういう思いをもってイエス様の恵みにあずかりましょう。そのような思いこそ相応しい陪餐です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

申命記十章(12~22節)「もう、心を柔らかくして生きよう」

2015-07-05 21:39:40 | 申命記

2015/07/05 申命記十章(12~22節)「もう、心を柔らかくして生きよう」

 

 16節に「うなじのこわい者」という言葉がありますが、どういう意味でしょうか。知らない方にとっては、「うなじがこわい? 首の後ろが恐ろしい? どんな後ろ姿なんだろうか?」と不思議がっても当然でしょう。これは、馬や家畜が轡(くつわ)をはめられて誘導されている時に、そっちには行きたくない、と頑固に首を曲げない様子を表しています。馬が首の後ろを固くして、素直に従わない様子です。そこから、頑なさ、頑固さ、不従順を指すのに「うなじのこわい者」という表現をしているのです。ここでは、

16あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。

と言われています。心を覆いを剥いで、首の力も抜いて、主に従いなさい、と言うことです[1]

 申命記の十章12節から、次の十一章の最後までは、一章から続いてきた内容と、次の十二章からの戒めとをつなぎ合わせる、蝶番(ちょうつがい)のような役割を果たしています。今までは、イスラエルの民に、過去の出来事を思い出させてきました。エジプトを脱出してから四十年間に渡る歩みで、どのような主の御業に与ってきたのかを思い起こさせてきたのです。その最後、前回の九章からこの十章の11節のところでは、イスラエルの不信仰、背信の歴史を語っていました。神を怒らせるようなことを何度もしてきたのです。決して「自分たちが特別に善良だったから神に選ばれたのだ」などと勘違いして思い上がってはいけない。自分たちが神に逆らい、主を怒らせ続けて来た「うなじのこわい民」であったことを忘れてはいけない。そして、主がその自分たちをも厳しく罰しつつも、繰り返して赦し、考えられないほどの憐れみをかけて、今日まで導いてきて、今、新しい地に入らせようとしていてくださるのだ。そのことを詳しく思い出させた上で、今日の箇所に入っているのです。

12イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、

13あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。

と言われているのです。

「主の命令と主のおきて」

は、十二章から二六章までに詳しく記されます。今から三千五百年も昔の事ですので、文化も時代も隔たった生活だったことを念頭に置く必要があります。神の言葉は不変ですが、それが、それぞれの文化にあった、多様な適用があるわけです。時代や民族の違いを飛び越えて、そのままを全部行えという事ではないのです。

 主が求めておられるのは、事細かな規定や難しい道徳を守る、という行動ではありません。それを守らないと神が怒られるとか、完璧を要求されるスパルタ教師のような神、という想像は、ここから掛け離れたイメージです。主は、私たちを愛されるお方、恵み深く、私たちを何度も赦し、憐れんでくださった方です。天地を造られた、偉大で、力あり、恐るべき神が、私たちを愛されて、歩むべき道を示してくださるのです。私たちの幸せのために、命令や掟を下さるのです[2]。この神への信頼と心からの服従こそが、大事なのです[3]

17…かたよって愛することなく、わいろを取らず、

とありますね。偏って愛さない。「私よりも他の人の方が立派だからあっちの方が可愛いだろう」とか、「私が大変なのは神が愛してくださっていないからだ」。いいえ、神は偏って愛する方ではなく、私たち一人一人を愛されているのです。

 賄賂を取らない、とはどういうことでしょうか。神は、私たちを愛されていますから、私たちにも愛をもって従うことだけを求められます。もし、愛なしに恐れや冷たい頑固さを持ったまま、「神を怒らせないため、一応の正しい生き方をして、奉仕や献金、礼拝出席も適当にしておいて、神のご機嫌を損ねないようにしよう」と思っていたら、それは神に賄賂を送るようなことです。主は、そんな行為や犠牲を贈り物として贈れば宥められる方ではありません。私たちが、心を覆い隠さず、柔らかな心をもって、主に全面的に信頼し、主の御心に従うことを、ただそれだけを求めておられるのです。

 でもそれは、神との関係ということだけではありません。直後にこう続きます。

18みなしごや、やもめのためにさばきを行い、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。

19あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。

 ここに端的に言い表されているように、主が民に命じられるのは、神を心から愛することと表裏一体の、弱者を愛し、異質な人を大切にする、という生き方です。神を愛して、礼拝や宗教に没頭して、世間や社会には一切目を向けない、というのではないのです。むしろ、私たちの毎日の生活で、人を大切にし、特に弱い人や居心地の悪い思いをしている人を大切にしていくことを主はお命じになります。それが、主が十二章以下で与えられる命令の本質です。[4]

 イエス・キリストはまさしく、そのような神の御心を現してくださいました。ご自身が、貧しくお生まれになり、遊女や嫌われ者、外国人と偏りなく接し、彼らを喜ばれ、慰め、励まし、尊んでくださったお方です。そして、私たちのために十字架の苦しみの死をさえ遂げられて、その後によみがえられました。私たちは、この主を、私たちが心から賛美するに相応しい方、信頼し、恐れ、愛するお方として信じて礼拝しています。その神とのタテの関係は、私たちの毎日のヨコの関係にもいのちを吹き込むのです。

 私たちの毎日の生活や人間関係は、この神の聖なる愛を必要としています。孤児や寡婦が象徴するように、思いがけない事故によって傷ついたり、伴侶や親からさえ、深く苦しめられたりする現実があります。心を頑なにせざるを得ないような現実があります。そのことを、主は深い痛みをもって見ておられ、届いて下さいます。頑なな心を主の愛によって、解きほぐし、柔らかくしてくださいます。そのような愛を私たちが頂いて、私たちもまた心を柔らかくして、愛し合い、手を差し伸べることを、神は命じておられるのです[5]

 弱者や死に行く人にさえ愛を表した人の筆頭の一人、マザー・テレサの言葉を紹介します。

「呼吸するように、当たり前に愛しましょう」

 それを願って、主は戒めを下さっています。律法を守らなければ救われない、というのではありませんでした。頑張れば愛する者になれる、と言っているのでもありません。でも、愛さなくてもいい、とも主は仰せられません。私たちが完璧に守ることを求められるのではなく、主によって本当に深く豊かに愛されていることによって、目を開こうとされるのです。そして、私たちの生きる道が、自分で自分を守ろうとする生き方から、他者を大切にする生き方にあると示してくれる。それが律法なのです[6]。主の愛に心を柔らかくしていただきましょう。

 

「大いなる恐るべき神が、限りなく私たちを愛し、私たちに心からの献身と他者への愛を求めてくださっていることを感謝します。私たちの心を、恐れや頑なさから救い出して、呼吸するように愛する者とならせてください。混沌の中、健やかに自分を捧げ抜いたイエス様の業に、どうぞ私たちをも与らせてください。御言葉によって、私たちを聖く守り、導いてください」



[1] 「心の包皮を切り捨てなさい」は、明らかに、割礼の内面性を表しています。儀式としての割礼は、男性の包皮を切る事ですが、それは、心や生き方における、神に対するOpennessというリアリティを象徴していました。

[2] 勿論それは、私たちのしたいようにさせてくださる、という意味ではありません。私たちが感情や欲望や思いつきのままに取った行動は、どれほど私たちを後悔させることでしょうか。

[3] ここでの第一のテーマは「愛」である。しかしそれは、「愛せよ」との命令ではなく、神の御民に対する愛(を覚えさせること)である。(R. C. Craigie, p.204)

[4] 20節以下でも、もう一度、主を恐れ、主に仕えることが勧められます。主はあなたの賛美、主はあなたの神で、大きなことを行われ、あなたを空の星のように多くされた、とあります。この主の偉大さは、私たちが主を心から信頼し、誉め称え、喜ぶようにというものです。でもそれだけではないのです。その主への信頼によって、私たちの毎日の生活、人間関係、生きていく価値観も方向付けられていく、というのです。貧しい人や難民、差別されている人を、大切にする生き方へと後押しするのです。

[5] この愛は、情緒的な愛ではなく、命令と掟によって導かれていく実践的な愛です。規則などないほうが自由に愛せる、という誤解が現代は蔓延しています。しかし、主は私たちにルールを与えてくださることによって、私たちがより健やかに、より具体的に、愛し合うようにと配慮されています。それがなければ、愛したいと願いながらも、色々な思いに流されて、もっと傷つくようになるのです。たとえば、「愛していれば、結婚していなくても、同棲やセックスをしてもいいじゃないか」というのが現代の風潮ですが、実際には、結婚というルールに縛られない関係は、相手への献身や責任をともなうことを回避しようとするわけで、問題(妊娠、喧嘩)などによって簡単に解消されてしまいます。「姦淫してはならない(男女の結婚を重んじ、それ以外のセックスをしない)」という戒めは、堅苦しい以上に、人間を守ります。この意味でも、最近の「同性婚」という考えの根本には「結婚は個人の自由・権利」という考えがあり、「自分を与えるのが結婚」という聖書的な理解とは、スタートからしてずれていると言えます。晩婚化、セックスレス、独身者の増加…それはみな、「愛」そのものの自己中心化の現れです。だとすると、その根にある「孤独」「不安」「低い自己肯定感」から癒されていく必要があります。それを癒すことが出来るのは、人間ではなく、キリストの福音だけです。

[6] もし、これをレベルダウンして、御心に従わなくてもいい、人を大切にしなくてもいい、自分勝手に生きても、人を傷つけてもいい、と言われたらどうだろうか? 私たちは幸せになれるだろうか。そんな人になりたいだろうか。難しい教えではあっても、大切なことを大切にし、何度でも示してくれるから、聖書は私たちにとってかけがえのない道だと言えることは明らか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする