聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ一章1~17節「大いなる卑しさ」

2015-12-13 21:47:18 | クリスマス

2015/12/13 マタイ一章1~17節「大いなる卑しさ」

 今週から映画「スター・ウォーズ」の第七作が公開されます。第一作の公開は三十年も前で、六回分のお話しを知った方が面白いでしょう。勿論、一番いいのは、エピソードⅠからⅥまで13時間半分を、全部観ることです。でも、もっと簡単に、ダイジェストや一ページにまとめようとするでしょう。或いは登場人物の名前から紹介するという仕方もある。今日のマタイの系図はそのようなものだと言っていいかもしれません。新約を読む前に、旧約を全部読む代わりに、ここに人物の名前で旧約聖書の歴史をまとめている。そう考えてはどうでしょうか。

一1アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

と始まります。アブラハムは聖書の歴史で、神に選ばれて、民族の父として覚えられる偉大な存在です。神である主がアブラハムを選び、祝福の約束を与えられました。アブラハムを祝福し、アブラハムを通して、全人類が祝福されるという約束が告げられました。そして、その末に登場したのがダビデ王です。聖書の中では、最も愛され、神に祝福された信仰者であり、イスラエル王国の基礎を築いた王です。それから約千年も経った新約聖書の時代でも、ダビデ王の時代を懐かしんでいました。実際、イエスは「ダビデの子イエス」と何度も呼ばれます。そこには、イエスにダビデ王の再来を期待する当時の熱烈な思いがあったのです[1]

 しかし、聖書を思い出すならば、ここで振り返る旧約の歴史は決して、祝福や輝かしい栄光一色ではありませんでした。アブラハムやダビデ自身、嘘や不信仰を見せました。怒りや欲望に突き動かされて、大きな罪を犯したこともありました。家庭の夫や父として、全く不適切な行動を取りました。罪は、ただの道徳の問題ではなく、信仰や家庭や社会のあらゆる関係まで破綻させたことを生々しく記します。9節のアハズ、10節のマナセ王などは大変悪い王でした。ウジヤ、ヒゼキヤ、ヨシヤなどはよい王でしたが、しかし晩年や祝福を受けた後に、油断が出来たか、大失態を演じて、晩節を汚してしまった人々です。その結果が、11節に出て来る

「バビロン移住」

です。イスラエルの民族を、神が遂に裁かれて、バビロン帝国により壊滅させられ、主な住民をバビロンに移住させる、という出来事になります。その後、ゾロバベルの時代に再びパレスチナの地に帰って来るのですが、後、13節以下の人々は聖書には記されていません。すっかり日の目を見ない家系になりました。最後に出て来るヨセフは、貧しい大工でした。ダビデ王の末裔でありながら、無名の田舎者でした。アブラハムの祝福の約束など見る影もなくなっていた。それが、この系図の示している事実でした。そのヨセフの妻マリヤからキリストと呼ばれるイエスがお生まれになった、こう記すのですね。

 3節に、タマルがユダに双子を産んだことが書かれています。タマルとユダは嫁と舅の間柄でした。しかし、ユダの操作的な振る舞いに、タマルは遊女のふりをしてユダを誘い、身籠もったのです。どちらも悪い。他にも、5節で出て来る「ラハブ」は遊女でしたし、「ルツ」は異邦人、6節にある「ウリヤの妻」はその肩書きの通り、ダビデがウリヤの妻を寝取り、ウリヤを殺して自分の妻とした、そういう存在です。本来、女性の名前を家系図に載せる習慣はなかったそうです。しかし、マタイは四人の女性の、それも立派な女性ではなく、むしろ曰く付きの女性の名前を四つも記すことで、その夫たちの間違いや恥部を浮かび上がらせます。

 本当は、こんな系図は書かなくても良かったのかも知れません。実際、次の二章に出て来るヘロデ王は、そのようにしました。自分が純粋なユダヤ人ではないことを誤魔化すために、妻に名門マカベヤ家のマリアムネを娶っただけでなく、自分の系図を揉み潰して証拠隠滅を図ったそうです[2]。マタイは、それとは正反対のことをしました。イエス・キリストがお生まれになるまでの、失敗と没落の卑しい歴史を、恥じたり隠したりしようとせず、キッチリと描くことから始めます。そして、そこにイエスがお生まれになった事を明記します。

 日本だけでなく今世界で、民族感情が強まっています。自分たちの国や民族が特別であることを訴え、立派な歴史や優秀さを求めようとしています。歴史の汚点や戦争での暴力は否定しようがないのに、「自虐史観だ」と切り捨てようとしています。二つの国がそれぞれに相手国を卑しめる事でプライドを保とうとするからますますややこしくなってしまいます。そういう中で、教会が、自分たちの良さだけを語ろう、恥に蓋をしようとするなら、キリストの誕生のメッセージも骨抜きにしてしまうだけです。聖書はその逆から語るのです。

 イエスは、祝福も王位も遠い過去になったようなヨセフの家にお生まれになりました。卑しく、低い家にお出でくださいました。でも、それによって、忽ちヨセフの家が繁栄を取り戻した訳ではありません。人々が心を入れ替え、歴史が良い方向に変わったのではありません。教会が順風満帆な歩みをしたわけでもないし、今の時代でも、信仰と愛に燃えて純粋に歩めるのが真実な教会だ、と考えるのは夢物語です。キリストを信じたら、不幸や挫折とは無縁の人生を歩むとも、聖書は保証しません。むしろ、聖書全体が示すように、私たちは苦しみや失敗、弱さを通して、深く心を取り扱われて、ますます謙り、見せかけでなく心から神に頼り、神の民とされていくのです。そして、そのような卑しい人間の歴史にこそ、神は深い憐れみをもっておいでくださり、私たちを導かれるのです。もしイエスが、恥や卑しさと無縁で、私たちの生涯も美しく取り繕ってくれる王であれば、新約聖書はこのようには書き出されなかったでしょう。キリストは、人間の罪や不完全さ、失敗や破綻の真っ只中に、卑しくなって来てくださいましたし、そのようなお方です。その卑しさが、キリストの偉大さを現しているのです。

 17節で、マタイはこの系図を、三つの十四代だと言っています。三は完全を現しますし、十四も完全の七の倍で欠け無き完全さを現しています。神がアブラハムからイエスに至る歴史に完全に十分に働いておられて、時至りキリストがお生まれになったのだ、というのです。でもマタイも最初の読者であったユダヤ人たちも気づいていた筈です。旧約に出て来た王のうち、何人かの名前が飛ばされています。また、12節以下の名前は十三代しか出て来ません。最初のエコニヤを二度数えたら十四になる。そんな明らかな「数合わせ」をマタイはしています[3]。でも、何かそんな「こじつけ」も大らかに堂々とやってのけるところがいいのです。きっちり十四人じゃなきゃとか、実は足りないとか、言い出したら切りが無いでしょう。人間の側からしたら足りなかったり苦しかったり欠けだらけ。けれどもその不完全な中で、神が働いてくださっている。そこにこそキリストがお生まれになり、私たちとともにおられ、深い祝福に与らせてくださるのです。神は私たちの不完全さも卑しさも排除せずに、そこに完全な御業を現してくださるのです。栄光を捨て、人間の卑しさの中に、想像もつかない犠牲を払って、飛び込んで来られました。だから、私たちは今も、どんなことがあろうとも、そこに主が来られ、私たちとともにいてくださると信じます。アブラハムの子、ダビデの子である主が、私の王として、祝福の中に生かしてくださるのです。そのイエスの偉大な卑しさを、感謝し崇めましょう。

 

「主が零落(おちぶ)れ果てた人間の所に来てくださった愛を、このクリスマスに改めて思い巡らさせてください。人類や教会が綴るのは今も過ちの物語ですが、そこにも憐れみに満ちた主が来られて、希望と再生を、再出発を与えてくださいます。私たちをその恵みによって、心から新しくしてください。取り繕いや言い訳を捨てて、謙虚に、砕かれて、主と人に仕えさせてください」



[1] 「ダビデ」は、マタイで15回言及されています(マルコ7、ルカ12、ヨハネ1)。「ダビデの子」としてのイエス理解が突出しているのが、ユダヤ人を読者として書かれたマタイの福音書の特徴です。王であり、羊飼いからの選び、イエスの予型であるダビデ。ちなみに、「アブラハム」は6回(マルコ1、ルカ14、ヨハネ9)です。

[2] ヘロデは系図を憎んだ。異邦人の血が混じっている事実を隠そうとして、登録所の官吏を殺して証拠隠滅を図ったそうです。(加藤『マタイによる福音書1』p.17)

[3] 8節のヨラムの次に「アハズヤ、ヨアシュ、アマツヤ」が、11節のヨシヤとエコヌヤの間の「エホヤキン」が、12節のサラテルとゾロバベルの間の「ペダヤ」が省略されている。第三区分の12節から16節までは、13代しかいない。バビロン捕囚からの六百年が、わずか十三世代? そんなはずはないのに。ダビデ以降、ルカは四二世代記している所を、マタイは二七世代のみです。

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申命記十四章「食べ、喜べ」

2015-12-06 17:02:18 | 申命記

2015/12/06 申命記十四章(1~8、22~27節)「食べ、喜べ」

 

 ある教会で礼拝の中、講壇でパーティをしたのだそうです。ソーセージやロブスター、ジャーキーやエスカルゴ、日本でならウナギや蟹、鴨などもつけたでしょうか。何をしたかったかと言うと、今日の申命記14章や旧約聖書の律法では、食べてはいけないとされていた汚れた動物たちの料理を、礼拝の最前列で楽しむ、そのギャップを体験した、というわけです。

 実際、新約聖書の「使徒の働き」十章で、旧約の律法では禁じられていた動物を食べるように示される出来事が書かれています。今私たちは、このような規定に縛られてはおらず、どんな動物や魚でも食べることを許されています。豚でも蟹でもコウノトリでも食べてよいのです。けれども、ここで言われているメッセージは変わりません。それは、

十四1あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。…

 2あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。[だから]

という事です。1節は、最初に「子どもです・あなたがたは・主の」と宣言される強い言い回しです。しかも、「主の子ども」という言い方は、初めて使われています[1]。いいえ、旧約新約合わせて、「主の子ども」というのはここだけです。神である主が、イスラエルの民を選んで、ご自分の宝の民としてくださいました。それは、主の子どもとされた強い、新しい、想像を絶する恵みです。それがここで言われています。その尊い恵みの中に既に入れられたゆえに、

 1…死人のために自分の身を傷つけたり、また額をそり上げたりしてはならない。[また]

 3あなたは忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない。

といった行動が命じられるのですね。主の子ども、主の宝の民とまでされている恵みを戴いているのだから、死人のために自分の身を傷つけたり額をそり上げたり、無意味な儀式をしないのです。イスラエルの周辺には自分を傷めて死者を供養する習慣がありました。現代でも、死者のために高いお金で戒名を買わされたり、「後追い自殺」をしたり、という考え方は染み渡っています。聖書は、そのような人間のマイナス思考に対して、自分たちを傷めることはもう止めなさいと強く言うのです。私たちは、主の子ども、主の宝の民であるからです。

 食べ物の規定もそれに通じています。主の民であることが、食べ方にも現れて、何を食べるかを注意することにもなるのです。汚れたものや死んだものは食べないし、また、周辺の宗教と関わっていたようなものもここでの禁止リストに入っている[2]。今に適応すれば、私たちの体は大切な体なのですから、体に悪い食べ物を食べたりはしないし、同時に、みんなが高いお金を払う高級グルメなどにもそそられる必要はないのです。ここに具体的な動物が挙げられていますが[3]、実際には殆ど食べる可能性さえなかったでしょう。抑もそれが本当は何の動物のことなのかさえ不明なものばかりなのです。大事なのは、どの動物が汚れているか、という問題ではなくて、神の民が、自分に与えられた立場を自覚して聖く歩むことなのです。汚れた動物さえ食べなければ良い、ということではなく、神の民が自分に与えられた価値を受け入れて、自分を傷つけて貶(おとし)めないこと。逆に、神の価値だけでは物足りなくなって、違う教えに肖ろうとしないことです。もう少し突っ込んで言えば、蹄とか反芻とか群生しないとかにもそれぞれに、象徴的な意味はあるのですが、今日はそこには触れません[4]。いずれにしても、大事なのは、こうした動物を食べないことそのものではなくて、それによって、神の民が主の前に、宝の民として歩むことです。また、食べてはならない動物よりも、食べて良い物の方が十分あるのですね。エデンの園でも禁じられたのは一本の木の実だけで、あらゆる種類の好ましい果物が豊かに茂っていました。ここでも、食べてならない以上に、豊かに与えられていることに焦点があてて書かれています。そして、22節以下では、畑から得る、毎年の豊かな収穫の感謝を主に捧げること、食べて、喜び、楽しむことに、話しが展開していきます。

 ここに示される神の民の聖い生き方は、ただ自分たちが汚れた動物を食べない、潔癖で、お高くとまった閉鎖的な生き方ではありません。むしろその逆です。26節では、家族とともに喜びなさいと言われ、27節ではそこに、レビ人も迎え入れなさいと言われます。そして、28節以下では、三年ごとには、在留異国人や、孤児や寡婦を町ごとに迎え入れるようにと言われて、賑やかな宴会が命じられているのですね。そうして、食べ、満ち足りるなら、

29…あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。

といわれるのです。この在留異国人は、21節では、死んだ動物を食べる事が認められていた非イスラエル人です。彼らは、主の民ではないので、汚れた動物を食べる習慣があったとしても咎められません。でも、そうした異国人を退けよ、そんな奴らとは一緒に食事もするな、とは言われないのです。むしろ、そうした在留異国人も招いて一緒に食べ、満ち足りる宴会にこそ、主の子ども、聖なる民としての相応しいあり方があり、主はそうした開かれた喜びを望んでおられ、祝福してくださる、と言われているのですね。

 私は、孤児や寡婦や在留異国人を招く、というのは、貧乏で困っているから、という事だとばかり考えていました。しかし、MacConvilleという注解者が「そうだったら、貧しい人を招けと書いただろう。民数記には、貧しい人という言葉自体出て来ない。貧しいから施してあげなさい、ではなく、繋がりを与えなさい」と言われているのだと書いていて、ナルホドと思わされました。孤児は親を失い、寡婦は夫を失った存在です[5]。在留異国人は故国から遠く離れた存在です。彼らも仕事に成功して、金持ちになることもあります。そうするとやっかみを持たれて、憎まれ、疎まれ、排除されて、ヘイトスピーチが今でも起きています。主の示されるのは、そのような閉鎖的な排除の方向の真逆です。ここに、帰る場所がない人たちを招き、食べさせ、お説教するよりも、恵みの主をたたえ、一緒に満ち足りる。それが、主の子どもとして進むべき道です。主が私たちを、測り知れない憐れみによって、ご自身の子どもとしてくださいました。その思いもかけない絆を戴いた主の民は、在留異国人や孤児や寡婦、絆を失った人たちと、自分の収穫を分け合って、新しい繋がりに迎え入れるよう命じられているのです。

 今、私たちは、主イエスの十字架の御業によって、食物の規定が撤廃されたことを知っています。面倒臭くなくなって良かった、という以上に、主イエスにより、私たちが、主の子どもとされた喜びを祝いましょう。その価値に相応しく、食べるにも何をするにも、自分を傷つけたりせず、恵みを戴きましょう。更にこの幸いに、他者を招き、共に神の子どもとされる喜びを祝いましょう。クリスマスは、自分たちがプレゼントをもらい、閉ざされた関係で幸せに過ごそうとする日ではなく、家族や開かれた交わりで、ともに主の恵みを味わう時として、世界中の教会がそれぞれの町で祝います。そこに、この申命記十四章が示している神の御心が成就していると言えます。私たちに与えられた聖さは、本当に豊かで開かれた喜びへの招きです。

 

「神の御子である主イエスが来て、私たちを主の子どもとしてくださったことを感謝します。自分の食生活も体も大切にせよと命じられていることを感謝します。異国人や繋がりを失った人とも共に主にある喜びを祝う新しい生き方を、どうぞ私たちの中に育て、実現してください。豊かさの裏に、行き場のない孤独を抱えた今の日本に、クリスマスの愛の光を見せてください」



[1] 申命記一31「また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。」や、八5「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない」など、主の養いや恵みに満ちた導きは重ねて言われてきましたが、「あなたがたは、主の子ども」と言われたのは初めてです。

[2] 周囲の民族も、似たような禁令は持ち、豚は食べない宗教が多くあったので、カナンの異教の拒絶という面では片付けられません(McConvile, 249)。また、衛生的な理由も提案されていますが、衛生的なことだけであれば、律法が禁じるまでもなく、避けるはずです。七25「忌まわしい」は異教と結びついた概念です。

[3] レビ記十一章にはもっと長々としたリストが挙げられています。

[4] この事に食事規定については、創世記三章との平行関係が、木内伸嘉氏によって解説されています。

[5] 彼らへの施しは必要です。申命記十18、二四17、19、二七19などで命じられています。ですが、それは、三年に一度では足りません。

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問98「私たちの願いをささげる祈り」ピリピ4章8節

2015-12-01 21:01:18 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/11/29 ウ小教理問答98「私たちの願いをささげる祈り」ピリピ4章8節

 今日は「祈り」についてお話しします。夕拝でずっとウェストミンスター小教理問答からお話しをしているのですが、ちょうど順番が、「祈りとは何ですか」という問98なのです。今回の「帰国者クリスチャンの集い」にもピッタリの内容だと思います。

 祈りについては、とても沢山の聖書の言葉がありますし、良い本が何冊も書かれています。そして、このウェストミンスター小教理問答でも、問98から107まで、10回かけて教えていますので、今日はその最初の「祈りとは何か」を簡単にお話しします。これは、きっと私たちの信仰生活にとっての大事な足がかりになることです。

問98 祈りとは、何ですか。

答 祈りとは、神の御心にかなう事柄を求めて、キリストの御名により、私たちの罪の告白と、神の憐れみへの心からの感謝と共に、私たちの願いを神にささげることです。

 これも日本語に訳すと仕方のないぎこちなさなのですが、祈りとは「私たちの願いを神に捧げること」です。何を目的にですか。「神の御心にかなう事柄を求めて」。どうしてそんなことが出来るのですか。「キリストの御名により」です。そして、その祈りにはいつも「私たちの罪の告白と、神の憐れみへの心からの感謝」が伴っていなければなりません。そのようにまとめているのですね。

 なんだかややこしいと思う方もいるかも知れません。確かに私たちが、祈りって何だろう?とゼロから学ぶなら、ややこしい定義です。でも、私たちは、ゼロではないのです。何かしらの祈りについてのイメージを必ず持っているのです。イエスもマタイ六章で、祈りについて教える時に、まず、見せかけで祈ってそれが祈りだと思っている人の真似をしてはいけません。また、長々と祈れば聞かれると考えている異邦人の真似をしてはいけません、と話されて、私たちの祈りがどれほど間違った影響を受けているか、から教え始められました。私たちはみな何かしらの「祈り」のイメージを持っています。言ってみれば「自分の願いに叶うことを求めて、人間の努力により、取り繕って、神の憐れみにお世辞を言いつつ、私たちの願いを神に叶えさせることです」ではないでしょうか。

自分が中心ですね。祈り、というよりも、交渉術とか霊感とかそういうものを考えています。神を動かして、自分が幸せになることを考えています。神は手段に過ぎません。言ってみれば、神に祈らなくても、自分が幸せになれるなら、祈りなんかしなくていい、というだけです。神を信じる事自体、面倒臭いことでしかありません。

 イエス・キリストが示してくださったのは、もっと大きく、温かく、素晴らしく、致命的な神との関係です。私たちよりも遥かに大きく、想像も出来ないほど豊かで、正しく、聖く、美しいお方です。その神は、私たちを愛して私たちをお造りになり、私たちと親子の関係を結び、永遠の交わりに生かそうとお考えです。最初の人間アダムは、その神との約束を破って、神に背を向けてしまいました。神はその人間の甚だしい無礼を怒って滅ぼしても良かったでしょうに、代わりにひとり子イエス・キリストをこの世に送って、神との関係を回復する犠牲として、その命を十字架において捧げられました。そうまでして、神は私たちが神の方を向き、神との親しい関係を取り戻されるのです。私たちは今、イエス・キリストを通して神の愛、神の偉大さ、御真実を知らされています。その神との関係を回復され、ただ自分の願いを叶えてもらうため祈る、そうでなければ祈らない、というような勘違いした関係よりも深く尊い信仰をもらったのです。

ピリピ四6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

という関係を戴いているのですね。

 この関係が明らかにしているのは、ただ祈りとは何か、だけではありません。

 神とはどんな方か、それは私たちの祈りを聞き、私たちと親しい関係を求めて止まないお方である。そして、神に自分の願い事を捧げ、神との交わりに永遠に生かされてゆく者、それが私たちだ、ということです。祈りは、神が与えて下さったプレゼントとして、私たちを神と結びつけるのです。

 けれども、そう言われると、躊躇いが生まれるかも知れません。祈りとは何かでは分からなかった事が、自分と神との関係が祈りで結ばれていると考えると、尻込みしたい自分に気づくかも知れません。

 自分が、神とのそんなに親しい関係に生かされるだなんて実感が湧かない。神にホントにそんなに信頼していいのか、自分なんかの願いを祈ったら「厚かましい」と思われるんじゃないか、自分の弱さや失敗をまだ神は赦していないかもしれない、神の御心にかなうことを求めたら裏切られたような思いをしないだろうか…。自分が愛されるなんてムリムリ~。色々な思惑が出て来るのです。

 「祈りを妨げる一番の原因は恐れです」

とジェームス・フーストンという方がハッキリ言っています。祈りは、神との人格的な交わりです。上手や下手などない、神との素晴らしい交わりです。でも、私たちは、罪や限界があって、破れた人間関係が当たり前になっています。その影響で、神との関係をも、私たちは神に信頼しきることが出来ません。親子関係の痛い傷や人間関係での失望が、神との関係にも影響を与えてしまいます。それが、祈りに尻込みをさせたり、口先だけの祈りの文句を繰り返したり、神を操作しようとする祈りになったり、期待もなく味気ない祈りになる原因です。そして、そのような自分と神との関係の貧しさ自体、どうせそのようなものだと諦めているのです。

 でも、神が求められるのは、そんな薄っぺらい表面的な関係でもないし、恐れや疑いを無視した、当たり障りのない祈りの生活でもありません。神は、ご自身の愛によって、私たちの恐れを取り除き、傷を癒やし、本当に信頼できる神との親しい関係に生かしたいのです。いえ、既にその関係に入れられているから、祈りへ招かれているのです。

 神の御心は、このありのままの私たちが神を心から愛し、互いに愛し合うことです。そんな大それた神に、私たちは自分の心の願いを祈っておささげしなさいと言われています。恐れも疑いも傷も罪も告白し、憐れみへの感謝も心から祈りつつ、神の御心に自分をゆだねるのです。その祈りの中で私たちは確かに成長させられていくのです。

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