聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ28章1-10、16-20節「イースターの大喜び」復活主日説教

2017-04-16 15:35:50 | 聖書

2017/4/16 マタイ28章1-10、16-20節「イースターの大喜び」復活主日説教

 主イエスは十字架の死からよみがえられました。これは、教会が宣教する福音の柱です。キリストの死と復活こそ、教会の土台です。それを信じて洗礼を受け、キリスト者となるのです。しかし、誰も「自分はもう福音が分かった」と言える信仰者はいません。キリスト者は、繰り返し繰り返して、十字架に死によみがえられたイエスのことを聴き続けて、驚き続けるのです。

1.よみがえったではなく、よみがえらされた

 イエスはよみがえられました。十字架に殺された金曜日から数えて三日目の日曜の朝、女達がイエスの墓に行って御体に香料を塗ろうとした所、大きな地震があったと2節にあります。

 2すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。

 3その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。

 劇的な光景です。4節で、番兵達が恐ろしさのあまり震え上がって死人のようになったとあるぐらいの衝撃的な場面ですね。イエスの復活を再現しようとしたら、ここは見せ所かもしれません。しかし、そのような圧倒的な場面が強調されるかと思いきや、肝心のイエス御自身はここでは現れません。御使いは女たちにイエスがここにはおられないこと、よみがえられたこと、弟子たちにイエスは先にガリラヤに行っていると伝えるよう言うのです。イエス御自身が、栄光や勝利のお姿で出て来るわけではありません。その言葉を信じて女達が走って戻ると、途中でイエスが出会ってくださるのですが、そこにも神の子らしい特別さはありませんでした[1]

 イエスはよみがえられました。でもそれは、イエスが神の子だから死にも負けずに三日目に復活され、墓の中からご自分で出てこられた、という書き方ではないのです。「よみがえられた」も、受動態の

「よみがえらされた」

で、ご自分の力で復活したと言うより、神がイエスをよみがえらせてくださった、という言い回しです[2]。勿論、イエスは神の子であり、死に勝利する命を持っておられます。しかし同時に、イエスは完全に人となられました。私たちと同じ人間となられ、神の子としての力や特権に逃げることなく、またそう誘いかけるサタンの挑発にも最後まで乗らず、徹底的に人として生きました。そして十字架で死なれました。その三日目の復活も、神の子イエスだから死にも負けずによみがえられた、ではなく、人として死なれたイエスを、天の父なる神がよみがえらせなさった、そういうメッセージです。その時、御使いが墓の入口の石を転がして、大きな地震が起きました。でもイエスがなさったのではありませんでした。御使いの力も借りずに墓から出るより、石を動かしたのは御使いであり、イエスの力や存在は地震を引き起こしたり、輝きで圧倒したりするようなものではなかったのです。

2.イエスの「権威」とは

18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

 そう、イエスには権威があります。嵐を静め、病を癒やし、奇蹟を行われました。墓の石を動かしたり吹き飛ばしたりパンに変えることだって出来たでしょう。しかし、そういう奇蹟の力は、本当に人を変え、人を生かすことが出来ないこともイエスの生涯は証明したのです。事実ここでも、御使いを目で見て震え上がった番兵さえ、11節から15節にある通り、多額の金に目が眩んで、捏(でつ)ち上げの作り話に口裏を合わせました。どんな圧倒的な奇蹟や感動や興奮も、人の心を根本から造り変えることは出来ません。

 イエスは、天地で最高の権威をお持ちです。しかし、それを見せつけて脅迫したり脅したりして人を操作しようとはなさいませんでした。むしろ、イエスは御自身を与え、徹底的に人として歩まれました。人間としての限界や痛み、もどかしさ、悲しみや苦しみを担われました。失敗や間違いを犯す、実に人間くさい弟子達を愛され、ともにおられました。神に立ち帰り、謙って、赦し合い、憐れみ深くなり、仕え合う、神の子どもとして生きる道を示されました。力尽くや見せかけなしに、真実に、愛をもって、父なる神への信頼をもって生き抜かれました。そのような生き方は人々にとって余りにも斬新で、抵抗されました。抵抗され、十字架につけられてしまいました。しかし、その十字架でもイエスは御自身を与え続け、父なる神への心からの信頼をもって、人として死なれたのです。

 それは弟子達にとって本当に驚きでした。イエスが死なれて悲しかっただけではありません。愛や正義を説きながらも、いよいよという時には雷を降らせたり御使いを呼び寄せたりして、敵を蹴散らす-それなら人間にはまだ分かります。イエスが奇跡的な力や権威を持ちながら、最後でさえその「伝家の宝刀」を抜かず、死なれたお姿は理解を超えていました。人の思い描くイメージを全く覆して、力よりも愛に生き抜かれたイエスでした。それは、人間的には失敗者の人生でした。十字架の死などと言う最悪の、のろわしい死に方でした。しかし、そのイエスを神はよみがえらせなさいました。その負け犬のような生き方が、実はメシヤの道でした。

3.このイエスの弟子として

 復活なさったイエスは、弟子たちに現れ、こう言われました。

19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 「あらゆる国の人々」とあります。ユダヤ人からすれば、とんでもないことでした[3]。自分たちだけが選民イスラエルである。他の国の人々は呪われて、救われる価値がない人だ、と決めつけていました。その人々の所に行き、割礼や何かの条件を満たすこともないまま同じように弟子とする、洗礼(バプテスマ)を授けて同じ仲間にする、なんて考えたこともなかったはずです。でもイエスは仰ったのです。あらゆる国の人々の所に行きなさい。その人々にわたしが命じた教えを守るよう教えなさい。神に立ち返り、神のものとして生きる道、神に信頼して、希望をもって祈る道、非暴力の道、分け隔て無く人と接し、罪人や子ども、最も小さい者を迎え入れて生きる道を教えなさい、と派遣されました。

 それは余りにも楽観的すぎて、世間知らずか革命に思えます。しかしそれこそ命であり、勝利であり、神が最後には認めてくださるのです。イエスの復活は、その敗北のような生涯を、神は顧みておられ、永遠の価値を認められるという証拠です。イエスは徹底的に人として生きられ、命に至る道を歩まれました。どんな民族、どんな過去がある人とも分け隔て無くされました。御自身が、プライドとか賞賛とかなしに人を迎え入れました。神を信頼し、力に力で抵抗しようとせず、罪人の赦しと回復を宣言され、常識をひっくり返して死なれました。このイエスを、父なる神はよみがえらせることで、イエスに天地における最高の権威が与えられたことを宣言なさいました。

 大事なのはイエスを私たちの救い主だと信じるだけではありません。イエスは私たちに、命を与えたいのです。ただ

「イエスを救い主だと信じれば、イエスが復活されたという事実を受け入れれば、死後に永遠のいのちがもらえる」

というような意味ではありません。今、私たちが、神に愛されている者であることを知り、イエスの愛を知り、そうして私たちが、自分の弱さやどんな罪や、人種や文化の違い、暴力や犯罪がある中で、だからこそ、イエスが示された希望の生き方、ともに生きる生き方、非暴力の道、イエスが命じて下さった教えに従う、価値ある生き方を歩ませたいのです。私たちは弱く、18節のような疑う者です。でも20節でイエスがともにおられると言われます。イエスの復活は、私たちが今生きる道につながっています。

「イエスを復活させた主が、私たちにも命を下さることを感謝します。イエスを導かれた主が、私たちにもその道を歩ませようと願い、導かれることを感謝します。本当にイエスはよみがえられました。私たちの疑い、弱さ、誤解よりも大きく、事実、主は今も私たちとともにおられます。ここに命があります。その喜びと希望をもって、それぞれの生活に向かわせてください」



[1] ここには、女たちが御使いの言葉に素朴に従った時、思いもかけず主との出会いが用意されていた、というメッセージを聞き取ることが出来るでしょう。主の言葉に従って生きる時、私たちは予期せぬ出会いや恵みにしばしば驚かされるのです。それは決してささいなことではなく、かけがえのない喜びです。

[2] 参照、山﨑ランサム和彦氏のブログ「鏡を通して」の「復活の福音?」。特に、「復活と父なる神」の項に。 https://1co1312.wordpress.com/2015/04/06/%E5%BE%A9%E6%B4%BB%E3%81%AE%E7%A6%8F%E9%9F%B3/

[3] マタイの読者として意識されているのはユダヤ人です。

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問61「何をするかより大切なのは」使徒16章19-34節

2017-04-09 20:57:26 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/4/9 ハ信仰問答61「何をするかより大切なのは」使徒16章19-34節

 

 私たちはよく「信仰」という言葉を、「立派な信仰」「信仰がある」「信仰が弱い」という言い方で言います。キリスト者に対しても、「あの人の信仰はすごい」とか聞くことがあります。少し前に「何とか力」という言葉が流行りました。生きる力、片付ける力、悩む力、など何でも「力」になっていました。そうすると、「信じる力」「信仰力」という本も書かれるかも知れませんね。しかし、もし私たちの信仰が、私たち自身の信じる能力によるのだとしたら、ちょっと不安にならないでしょうか。教会では「信仰によってのみ」とか「信じましょう」などとよく言いますが、それを私たちがちゃんと信じられるかどうか、私たちの信じる力にかかっているのだとしたら、キリスト教も結局は自分頼みだ、ということになってしまいます。今日のハイデルベルグ信仰問答61はそういう誤解に対して、ちゃんと丁寧に信仰の整理をしてくれる言葉です。

問61 なぜあなたは信仰によってのみ義とされる、と言うのですか。

答 それは、わたしが自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、というのではなく、ただキリストの償いと義と聖だけが神の御前におけるわたしの義なのであり、わたしは、ただ信仰による以外にそれを受け取ることも自分のものにすることもできない、ということです。

 最初の文章をよく心に留めてください。

「自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、というのではなく」

なのです。私たちの信仰に価値があるから、神が「よし。君の信仰は立派だから、感心した。あなたは救ってあげよう」と言われる…そういうことでは断じてないのです。私たちの信仰力で、神が受け入れてくださるというのではないのです。そうではなく「ただキリストの償いと義と聖だけが神の御前におけるわたしの義なので」す。私たちには神を喜ばせ、神の愛を引き出すような何か立派なことをすることは出来ません。信仰だろうと何だろうと、神の期待に添うようなことをしなければならない、そういう対等な関係はないのです。私たちが何かをすることではなく、キリストの償いとキリストの正しさ、キリストの聖(聖さ)を頂く以外に、私たちの望みはありません。そして「ただ信仰による以外にそれを受け取ることも自分のものにすることもできない」のです。信仰とは、キリストの償いや義や聖を受け取り自分のものにすることです。

 先ほどの使徒の働きで、パウロとシラスは掴まって牢屋に入れられました。しかし、夜中に地震が起きて、不思議なことに牢屋の戸が全部開きました。監獄の看守はそれを見て、囚人達が全員逃げ出したと思い込みました。囚人を逃がしたなら、当時は逃がした看守や見張りが責任をとって、囚人と同じ罰を受けることになっていたそうです。ですから、この看守は自分が罰を受けることを恐れたのでしょう、剣で自分を刺して死んでしまおうとしたのですね。しかし、パウロたちは逃げていませんでしたし、大声で叫んで

「死んではいけない。私たちはここにいる」

と言ったのです。驚いた看守は、剣を捨ててペテロのもとに駆け寄ってこう聞きました。

30そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。

31ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます」とパウロは言いました。「何をしなければなりませんか」への答として「頑張って信仰を持ちなさい」と言ったのでしょうか。それを聞いて囚人が「よし、じゃぁイエスとは誰だかよく分からないけれど、そのイエスとやらを信じる立派な信仰者になろう」そう思ったとしたらどうでしょうか。信じるとは、私たちの側の真面目な、純粋な、熱心な信仰心だったのでしょうか。日本には「鰯の頭も信心から」という言葉があります。「鰯の頭」なんて詰まらない者だろうと何だろうと、信じさえすれば不思議に有り難いものに見えてくる、という意味です。信じる者は鰯の頭でも、イエスの御名でも、なんでもいいのでしょうか。いいえ、これは「何をしなければなりませんか」に対して、パウロが「いいえ、何をするかではなく、主イエスを信じなさい。」そう言って

32そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。」

と繋がるのです。主の言葉、イエスとはどんな方かを説いた上で、それを信じるよう、受け入れるようにと求めたのです。

 宗教改革の時、こういう言い方をするようになりました。

「信仰とは魂の手」である。

 魂の手。神の恵みを受け取る手。イエスは私たちに、ご自分の償いや義を下さいます。その時、私たちに代金は求められません。見返りに何かするとか、純粋な信仰を求めもなさいません。何か善い物を手に掴んで持って行くのではなく、逆に、空っぽな手を差し出すのです。あれこれ大事に思っているものは脇に置いて、イエスに手を伸ばすのが信仰です。そうして、ただ、イエスが下さる恵みを受け取ることが求められているのです。何も持っていなくて良い。勿論、その手が綺麗か、汚れてないか、そんな事でもらえるのでもないはずですね。また、もらった人が「自分の手が綺麗だから、このプレゼントをもらえたのだ」といい気になって考えるとしたら、ひどい勘違いだと思われるでしょう。イエスが果たしてくださった救いを、私たちは受け取るだけ。それが信仰です。私たちの信仰には、まだまだ不明な所もあります。不純物が混じっています。直ぐに弱るようなものです。それだからイエスから救いが頂けないなら、誰も頂けないでしょう。信仰という魂の手が美しい手で健康的でないならダメ、というなら絶望的です。その逆で、私たちが汚れて、病気で、イエスの恵みを必要としているから、そしてそれを私たちとしてはただ頂くしかないから、精一杯手を差し伸ばして、くださいというのです。そして、そうして頂くなら、イエスは必ずそれを私たちに下さるのです。

「救われるためには何をすればいいのですか」

という必死の問いに対して、何かをすることではなく、

「イエスを信じなさい」

と答えたこの言葉にこそ、驚くべき良い知らせがあります。

 そしてそのように言って下さるイエスとはどんな方かを私たちが知っていくこと、イエスが私たちにどのように生きるべきかを聖書を通して学んでいくことで、私たちの信仰はますます養われていきます。決して、なんだかよく分からないけれども、ただ信じて、ついていくというような怪しげな信心ではないのです。

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マタイ26章36-46節「わたしといっしょに」棕櫚の主日説教

2017-04-09 20:52:49 | 聖書

2017/4/9 マタイ26章36-46節「わたしといっしょに」棕櫚の主日説教

 今週と来週の説教は受難週とイースターのお話しします。今年の「棕櫚の主日」はゲッセマネの祈りを、先週お話しした「主の祈り」の「試みに遭わせず」に絡めて聞きたいと思います。

1.ゲッセマネの祈り

 この箇所はイエスが十字架に死なれる前夜、木曜日の夜中の出来事です。エルサレムの街中で十二弟子と一緒に、最後の晩餐をなさったイエスは、街を出てオリーブ山に行かれました。その山の「ゲッセマネ」という場所でイエスは、三時間ほど祈られたのです。その後、47節でイエスを売り渡した弟子のユダや群衆達がやって来てイエスを捕らえ、朝まで裁判が行われ、翌朝九時には十字架にかけられるのです。その前夜に、イエスはゲッセマネで祈られました。

 この時のイエスの思いは38節でハッキリと知ることが出来ます。

38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

 イエスは十字架を前に、しずしずと、あるいは堂々とされてはおられませんでした。むしろ、悲しみのあまり死ぬほどです、と、死にそうなほどの悲しみに打ちひしがれていました。近づいている十字架を前に、恐れず勇敢に立ち向かう姿ではなく、悲しみに押しつぶされそうなお姿です。それを隠すこともなく弟子達にお見せになったのです。そして、

39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

 まず「ひれ伏して祈って」が異常です。当時の祈りは、立って、目と掌(てのひら)を天に向けて祈るのが通常でした。それが正式な祈りの姿勢でした。しかしここでのイエスはひれ伏して祈られます。立っていることさえ出来ませんでした。それほどイエスの悲しみは深く、立つ力さえ抜けてしまったのです[1]。そしてあろう事か「出来ますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。潔さなどかなぐり捨て、この期に及んで、十字架を負わずに済ませられるなら取り下げてください、と祈られたのです。なんということか、と思いませんか。

 それほどイエスが受けられた十字架の苦しみは深かった。数時間後の十字架を想うだけで立っていられないほど深くすさまじかったのです。イエスは十字架を受けるために来られました。それを心から負ってくださいました。しかし十字架そのものは、決して喜ばしいものでもへっちゃらでもありません。人の想像を絶する、恐ろしく、逃げ出したい杯でした。そして実際イエスはその悲しみに耐えきれず、十字架刑としては驚くほど短時間で息を引き取られたのです。

2.「悲しみ」の人

 もう一つ心に留めたいのは、それが「悲しみ」であったことです。「恐怖」や「苦しみ」ではなく「悲しみ」でした。イエスは十字架の上で、私たちに代わって死んでくださいましたが、それは神の怒りや罰を受けた苦しみ以上に、悲しみの経験でした。この事は、イエスが十字架の上で語られたのが

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[2]

というお言葉であった事からも明らかです[3]。神から見捨てられる、とはどれほど恐ろしい、いや、悲しいか、私たちは想像すら出来ません。また、「どうして」とイエスは言われますが、その理由をイエスは最初からご存じだったはずです。それでも

「どうして」

と叫ばずにはおれないほどの辛い事だったのでしょうか。あるいは、そこで人間イエスとしては予期していなかった、もっと悲しい思いをされたのでしょうか。そうしたことは私たちの理解を超えた神秘です。説明したり納得したり出来ない、神が御子イエスを見捨てるという異常なことがなされたのです。それは、イエス御自身にとっても悲しすぎる、辛すぎることでした。私たちはただその叫び平伏すお姿を、驚きをもって受け止め、噛みしめて味わい、主の恵みを感謝するばかりです[4]

 その悲しみを、イエスは隠されませんでした。悲しみのあまり死ぬほどだと弟子達に打ち明けられました。非常識にも地べたに這いつくばり、叫び涙と汗まみれになって、「過ぎ去らせてほしい」と無様に祈るお姿を、恥じたり隠したりなさいません。苦しみや十字架にも耐える屈強なヒーローではありません。抑も

「悲しみ」

と言われたように、イエスは繊細な心、傷つきやすい感情をお持ちでした。私たちの悲しみを深くご存じのお方であって、悲しみや恐れを退ける方ではなかったのです[5]。そして、ここで一緒に連れていかれた三人の弟子は、選び抜かれた頼もしい弟子達だったでしょうか。いいえ、直前の33節以下の通り、イエスはペテロがまもなくご自分を知らないと否定し、逃げていくことをご存じでした。彼らはそれを否定しましたが、イエスはその弱い現実をご存じでした。しかし、自分を見捨てることを承知の上で、その彼らをそばに置かれ、彼らにご自分の悲しみを打ち明けられ、無力に祈る姿を見せたのです。弟子達とは違い、ご自分の弱さをそのままに差し出され、ともに祈るよう招かれました[6]

3.祈っていなさい

 41節の

「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」

という言葉は、誘惑への対策として祈れ、ではなくて、祈っていることの大事さを、誘惑に陥らないためにも、と強調されての言葉です。イエスは38節で、ご自分の姿を心に焼き付けよう仰いました。イエスはご自分の悲しみも弱さも隠さず、神に祈りつつ、しかし悲しくて悲しくて死にそうだとしても、

「あなたの御心のようになさってください、どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞ御心の通りをなさってください」

と祈られました。見栄とかプライドとかなく、ご自分の悲しみや恐れをもそのままに差し出される、天の父との本当に深い、飾らない関係がそこにはありました。そのような神との関係を私たちにも与えてくださいました。でも、それを私たちに与えてくださるために、十字架の上で、ひととき父から見捨てられるという想像を絶する悲しみを味わわれたのです。そしてそのイエスの測り知れない十字架の御業によって、私たちは神との決して切れることのない関係を頂きました[7]。私たちも、神を

「わが父」

と呼び、心の思いをそのまま申し上げ、神への信頼をもってお従いしてゆく絆、「祈り」を頂きました。

 この時の弟子達は祈らずに眠ってしまいました。自分たちは大丈夫、決して躓かないと大見得を切った弟子達は、誘惑に負ける以前に、神との親しい交わりを知りませんでした[8]。苦しみにあって殺されても自分は挫けない、強く立派だと胸を張りたかったため、祈りもしなかったのです。反対にイエスは、悲しみや弱さを恥じることなく父に打ち明け、弟子達にも見せて、自分の力ではなく、神の御心を願って、力を頂いたのです。無様な言葉や悲しみをも隠さず、祈り続けられました。そしてそのイエスが弟子達に、私たちに言われます。「目を覚まして、祈っていなさい」。一緒に祈ろう、と強く招かれて、十字架にかかってゆかれたのです。

 誘惑に陥らないために祈るのではありません[9]。イエスが信頼し抜かれた神が、私の父ともなってくださいました。その深く素晴らしい関係から引き離そう、「祈らなくても大丈夫だ、祈っても祈らなくても関係ない、悲しみや弱さを覆い隠し、虚勢を張って生きていけば良い」。そう囁く誘惑が世界を覆っていますし、私たちもまだそう信じかけるのです。イエスはその嘘から私たちを救い出してくださいました。御自身の犠牲をもって、私たちを天の父との素晴らしい関係に入れてくださいました。そのイエスとともに私たちは祈るのです。決して独りで祈るのではありません。イエスが私たちをそばに招いてくださったからこそ祈るのです。そのためにイエスは死ぬほどの悲しみを味わい、苦しみの杯を受けられたのです。この受難週、祈らなくても大丈夫、などと思わず、イエスとともに祈る時、祈りを回復する時としましょう[10]

「私たちのため想像を絶する悲しみに遭われた主よ。私たちはあなたを必要としています。あなたは私たちの弱さや失敗、悲しみもご存じの上で、この私たちと一緒にいたいと願われます。何と測り知れない恵みでしょう。与えられた祈る幸いを感謝いたします。主の愛を疑う誘惑から救い出し、神の子どもとされた感謝と喜びに溢れて、祈りつつともに歩ませてください」



[1] ルカの福音書では「二二44イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とも書かれています。

[2] マタイ二七46「三時頃、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

[3] これをマタイは十字架の上でイエスが言われた唯一の台詞として記録しています。

[4] ヘブル七7「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

[5] イザヤ五三3「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」

[6] 弟子達の事は11人全員を気遣い、愛しておられた。しかし、特にこの三人には御自身との親しい関係を持たれ、御自身の栄光と弱さとをお見せになって、彼らを育てたもうた。それは更に彼らが、自分たちの弱さを見せつつ、教会を建て上げるためだった、と言えるのではないか。

[7] 「イエスはあなたのために地獄に行くことさえ願われたのだ。あなたのいない天国に行くくらいなら、と……」マックス・ルケード『ファイナルウィーク』234ページ。

[8] 「肉体は弱い」とは体力の問題ではない。ペテロ達は屈強な漁師達。夜も明け方まで漁をする生活を続けてきた。荒れ狂うガリラヤ湖を、徹夜で漕いで切り抜けようとした。そういう「体力」ではなく、神に頼らない「肉」です。対照されている「心」は「霊」であり、「御霊」もしくは「神につながる霊」を指します。すなわち、「祈らなくても頑張っていれば大丈夫」とは「肉」の生き方で、弱く危ない生き方であり、「神に頼らなければ自分は弱い」とわきまえるのが「霊」的な生き方であり、強く安全である、ということです。

[9] 誘惑に陥らない手段として祈りを考えてはならない。祈りという神との関係・会話を続けることが、誘惑への勝利。祈り・信仰から引き離そうとするのが神との関係。その意味では、誘惑に負けないようにとかその他のための熱心な(あるいは習慣的な)祈り自体が、誘惑にかかっている、ということもあり得る。祈りの言葉を並べ立てるだけで、神に聞こう、神を愛そう、神に信頼しよう、というものがないならば、何か違うものを神としているのだから。

[10] 祈祷会に来なくても大丈夫、とは思わずに、参加できる時には来て欲しい。受難日礼拝も参加して欲しい。それは形ばかりであるかも知れないが、少なくとも、それぞれの生活で祈って欲しい。それが難しいからこそ、祈祷会があるのだ。

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問59-60「子どものように受け入れよう」ルカ18章15-27節

2017-04-02 15:45:19 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/4/2 ハ信仰問答59-60「子どものように受け入れよう」ルカ18章15-27節

 前回まで、ハイデルベルグ信仰問答では「使徒信条」に沿って私たちの信仰を確認してきました。その話はいったん最後まで行き、今日の所ではその総括をします。

問59 それでは、これらすべてを信じることは、あなたにとって今どのような助けとなっていますか。

答 わたしがキリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となっている、ということです。

 ここで

「これらすべて」

と言われているのは、問58までお話しして来た「使徒信条」の中身の事ですね。その中でも何度も「益」「慰め」について語ってきましたが、ここではもう一度

「今どのような助けとなっていますか」

と問いかけるのです。そしてそれが、

「私がキリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となっている」

というまとめになるのです。「使徒信条」を信じることは、私たちが今、キリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命を受け継いでいる、という助けになっているのです。

 これはとても大切なことだと思います。言い方を変えれば、毎週毎週「使徒信条」を礼拝で読み、いつでも暗唱できるぐらい覚えているとしても、それが助けになるとは思っていないこともあるのではないでしょうか。ですから改めて、「使徒信条」を信じることは私たちに素晴らしい助けとなることなのだと確認させてもらいたいと思うのです。

 お気づきでしょうか。「使徒信条」には

「義とされ」

という言葉はひと言も出て来ません。

「永遠の命」

は最後の最後に出て来るだけです。だから、これらすべてを信じることが、私がキリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となった、ということだというのは飛躍があるのではないでしょうか。でもそれをあえてそう言ったというのが大事なのだと思います。特に、このハイデルベルグ信仰問答が書かれた、16世紀の時代に問題となっていたのは、人が神の前に義とされるにはどうしたらいいのか、というテーマでした。当時の教会では、キリストが私たちを受け入れてくださるために、人間も献金をしたり、善い業を積んだり、儀式をしたりしなければいけないと考えていました。そういう考え方が教会にも広く浸透していました。それと同じ考えは、今読んだように聖書の時代にも根深くあって、聖書の中で何度も取り上げられています。

18またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

 そしてこの人は、イエスが上げられた十戒の言葉にも

21すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」

と断言しました。しかし、イエスが最終的に仰ったのは、そういう立派な生き方でなく、

22…そのうえで、わたしについて来なさい。」

という言葉でした。そして、

27イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

という、神が与えてくださる救いでした。人は、神が何をして下さるかを分からないまま、自分たちが何をしたらいいだろうか、他人と比べて大丈夫だろうかどうだろうか、と考えます。神様を喜ばせるようなことをしないと、きっとダメだろう、と思います。「使徒信条」はそういう問題に直接は答えていないように思えます。でも、そういう問題に答える代わりに、神がどのようなお方か、キリストが何をしてくださったか。聖霊が何をしてくださるのか。そういう事を告白していきます。キリストは、処女マリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座してくださった。それは私のためです。キリストが私たちのためにしてくださったことの大きさです。人が「何をすれば、自分は救われるのか、神に受け入れていただくためには何をしたらいいのか」と思い悩む深い問いに、神御自身が何をしてくださったかを持って答が与えられたのです。そこで、次の問60はこう言います。長い答です。

問60 どのようにしてあなたは神の御前で義とされるのですか。

答 ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰のみによってです。すなわち、たとえわたしの良心がわたしに向かって、「お前は神の律法すべてに対してはなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている」と責め立てたとしても、神は、わたしのいかなる功績にもよらずただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとして、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果たされた服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け取る時だけなのです。

 長いです。でもここで丁寧に言われています。私たちの心にある思いは、

「お前は神の律法すべてに対してはなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている」

と責めたがるのです。けれども、神は、私のいかなる功績にもよらずただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とを私に与えてくださいます。それは、私たちが頑張って果たそうと思い描く理想よりも遙かに素晴らしいキリストの尊い御業でした。ですから、「使徒信条」を告白することは、私たちを神に受け入れていただくにはどうしたらいいのか、永遠のいのちを受けるには私が何をしたら良いのか、という悩み一切から、私たちを自由にするのです。

 そして、それは今ここでの私たちを助けてくれるものです。なぜなら、私たちは、父なる神と、主イエス・キリストと聖霊なる神とがどんな方であるかを「使徒信条」を通して確認して、深い安心と喜びを土台に生きることが出来るからです。自分の心に責められても、それよりも大きな神の赦し、永遠の命を信じて歩めるのです。

 勿論、勉強や生活や友だちのこと、考えるべきことは沢山あります。聖書はそうしたことにも知恵や光をくれて、私たちを応援してくれます。しかし、そういうあれこれはあるにしても、それが神様の大きな物語の中にあることを知っています。恐れたり不安になったりせず、神の子どもとして歩ませていただけます。それは大きな助けです。

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「礼拝⑯ 最高の頼もしさ」マタイ4章1-11節

2017-04-02 15:31:39 | シリーズ礼拝

2017/4/2 「礼拝⑯ 最高の頼もしさ」マタイ4章1-11節

 「主の祈り」最後は一番しっくり来る願いですが、実は何を願っているか問われる祈りです。

1.試みに遭われるイエス

 イエスは私たちに

「試みに遭わせず悪より救い出し給え」

と祈るよう教えられましたが、そう祈るよう教えられただけではありません。今日のマタイ四章にはイエスが悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って、四〇日の断食をなさって、試みに遭われたことが書かれています。これは、三章でイエスが洗礼を受けた後、四章17節以降、宣教活動を始められるに先立って、荒野へと追いやられて試みに遭われた、という順番になっています。洗礼を受けてすぐに活動を始められたのではなく、悪魔の試みを受けることが相応しかったのです。そしてイエスは、ここで神の子どもとしての奇蹟や権威を振るって悪魔を一掃するのではなく、徹底的に一人の人間として対峙されました。私たちと同じ、弱さを持ち、特別な力などない、人間として、厳しい試練のふるいにかけられたのです。そうなさってから、イエスは活動を始められ、教えられ、あの主の祈りを祈るようにと授けられたのです。

 それ以降も、イエスの御生涯は試練の連続でした。何よりもあの十字架の苦しみにおいて、イエスが受けた試みは人間として最も厳しいものでした。イエスの御生涯全体は、始めから終わりまで、試みから救い出すことがテーマでした。私たちと同じ試みを受けて、私たちを試みから救い出すためでした。

ヘブル二18主は御自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。[1]

 イエスは私たちの人生が試みの中にあることをご存じです。私たちが弱く、試みに負け、騙されてしまう者で、助けが必要であることもご存じです。そして、御自身が人として試みに遭われ、それがどれほどの強力なものであるかも、誰よりもご承知です。そのイエスが

「試みに遭わせず悪より救い出したまえ」

と祈るように教えられたのは、本当に深く、切実な思いで、私たちの弱さをご存じで、悪から救い出したいと願ってのことであるに違いありません。そのためにこそイエスはおいでになって、御自身が厳しい苦しみをお受けになったのですから。

 イエスご自身がまず試みと対峙されたのは、私たちが試みの中にあるからです。人間は騙されっぱなし、負けっ放しで、それにさえ気づかないのです。同じ荒野でひもじい状況にあれば、私たちは石をパンに変える力が欲しいのです。高い所から飛び降りても守られて、みんなをアッと言わせたい。自分の願う支配を手にするためなら、悪魔にひれ伏したり妥協したりしてしまうのです。そういう生き方をイエスは否定され、神を深く信頼して生きる道を示されました。

2.試みとは何か

 「試み」というと何か厳しいこと、辛い苦しみ、病気や災難、恥ずかしい思いを私たちは考えがちです。「苦しい目に遭わせないで、でも禍から救い出してください」と祈りがちです。しかし試練とは、ただ苦しいとか嫌なことではないのです。神が私たちに下さった大切な関係を、様々なものによって傷つけてしまうことです。現に私たちは、神から愛され、互いに愛し合うようにと命を与えられているのに、その素晴らしい恵みを信じられず、自分の世界に閉じこもりがちです。そこから出て来るのは痛いことです。自分が頼りにしていたものがなくなるのは、苦しい経験です。しかし、それを避けて、温々と自分の世界にいたいと思うなら、主の祈りは、そういう誘惑からこそ救い出されるようにという意味ではないでしょうか。そして、試練には耐えられない弱さを正直に、謙虚に告白しつつ、しかしそれ以上に、あらゆる悪から、また悪魔の騙くらかしから、必要ならば強いてでも救い出して下さい、という祈りなのです[2]

 主の祈りが教えられた「山上の説教」では、人に見られるために施しや祈りや断食など善行をする誘惑が警告されました[3]。また人を赦さない誘惑も釘を刺されました[4]。お金の誘惑、心配しすぎる誘惑、人を裁く誘惑も語られていました[5]。更に、伝道で華々しい成功を収めたことさえ誘惑になることも仰いました[6]。勿論、肉欲や偶像崇拝などのあからさまな誘惑も聖書は上げていますし、私たちは秘かな楽しみをも十分注意すべきです。それと同じぐらい、本来は良いこと、正しさや確かさが神御自身よりも求められやすく、それは一層厄介な誘惑だとも聖書は教えます。

 「山上の説教」では、天にいます私たちの父が憐れみ深いように、私たちも憐れみ深くなることをイエスは繰り返されます。その事を忘れさせたり、後回しにさせたり、曖昧にしたりする事はすべて誘惑です。ですから、私たちにとって必要なのは、何が誘惑かを決めたり、誘惑を避け罪を犯さないことに焦点を合わせたりすることではありません。むしろ、神の愛をたっぷりと頂き、私たちの天の父として信頼し、その神の子どもとして、私たちも嘘や偏見や悪口や足の引っ張り合いを止めた生き方を願い(頑張る、でなく!)私たちの心も体も生き方も、神に差し出すことです。それを恐れ、神を疑い、信頼しきれないとしたら、それこそ悪魔の誘惑の声です。悪魔の誘惑は、様々な形を取ります。罪を犯すまいとするばかりで、今ある恵みを心から楽しまず、目の前にいる人を批判するとしたら、それも誘惑なのです。

3.神の愛の中に生きる

 先に申し上げたように、イエスのお働きは人間を試みて神から引き離す悪魔の働きを討ち滅ぼすという大事な一面がありました。そのためにイエス御自身が人となられ、試みを極限まで味わわれ、具体的で巧妙な誘惑について教えられました。そのようなイエスのお姿そのものが、私たちを誘惑から救い出してくれる手がかりです。もしそのことを忘れて、「試みに負けたら、流石(さすが)の神様も見捨てるに違いない」と思っているなら、それこそはサタンの思う壺です。

 先週知って、来週の学び会で見ようと思っている短い動画があります。麻薬や薬物依存の解決に取り組んだポルトガルでの試みを紹介した動画です[7]。依存症というのはまさに「誘惑」の問題でしょう。そこで紹介されていたのは、依存症の解決は罰則や禁止ではなく、繋がり、支援、友情、コミュニティを育てる方策なのだ、という実例です。繋がりがない時に、人は寂しさや虚しさを埋めるため、薬物やギャンブル、インターネットなど何でもいいから飛びつくのです。罰や非難や叱責、賞罰はそのような孤独をますます強めるだけです[8]。だから、薬物を使おうと使うまいと友となる、支援をする、繋がり続ける。社会復帰を助け、喜びや苦しみを分け合う。そういう取り組みが、驚くほどの成果を上げ、依存症患者は半減したのです。

The Root Cause of Addiction 日本語字幕版  

 これは本当に素晴らしい事例です。そして、今日の祈りについても、引いては私たちの信仰生活そのものについても、とても大切な光を投げかけています。<誘惑に負けたら私から離れて行ってしまう神>を念頭に置いているなら、私たちは誘惑に引かれます。そもそも誘惑に負けるのは、その方が「とりあえず」でも安心できるからなのです。心にある孤独や不安を埋めたくて、薬物やギャンブル、仕事や買い物や食べ物や恋愛に飛びつくのです。淋しさから何かにしがみつき、人の道を踏み外してしまうのです。そこに、誘惑に勝つことを求める神や罰で脅すお説教をしてもダメです。それは症状であって、問題は神から離れた深い孤独なのですから。

 神はそんなアプローチはなさいません。神はご自身を私たちの

「天にいます父」

という「つながり」を結んで下さいました。イエスは私たちと同じように試みを受け、誘惑の苦しみ、人としての寂しさを味わわれました。最後は十字架の上で、神から見捨てられる孤独さえ味わわれました。その上でなお、イエスは天の父を見上げられました。イエスのお姿は、私たちを決して見捨てず、離れず、どんな過ちからももう一度立ち上がらせてくださる天の父を示しています。だから、私たちは、他のものによって自分を満たそうとしなくなっていけるのです。そして

「私たちを試みに遭わせず」

ともに祈る繋がりへと、私たちは召されたのです。[9]

「天のお父様。「試みに遭わせず悪より救い出し給え」と祈る事を、諦めずに求めてくださるあなたであることを感謝します。あなたとの喜びに満ちたつながりを感謝します。それを恥ずべき誘惑や、自分の正しさに替えかねない私たちの惨めさを、あなたは憐れんでくださいます。どうぞ深い恵みに立ち戻らせ、あなたの下さる慰めを注いで、主にある回復をなしてください」



[1] また、「ヘブル四15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。16ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

[2] この第六祈願の二つの文章の関係には、三つの可能性があるでしょう。①「試みに会わせない」=「悪から救い出し」(最も一般的です)、②「試みに会わせない形で、悪から救い出し」(最も事実上願われがちな妄想です)、③「試みに会わせない」しかし、もっと大事なのは「悪から救い出し」。接続詞の「alla」は逆接の「しかし」の意味ですから、③の関係と理解するのが妥当でしょう。

[3] 六1-9。

[4] 六13-14。確かに、主の祈りの文脈から考えると、「御名をあがめさせ…御国を来たらせ…御心が行われ」ることから引き離すもの全てを「試み」と理解することも出来ましょう。特に直前の「私たちの負い目をお赦しください」とのつながりは顕著です。更に、マルチン・ルターの妻カタリナは、「私たちが赦してもいない罪を赦したと思う誘惑からお救い下さい」という注を残しています。

[5] 六16-18、19-34、七1-5。

[6] 七22。

[7] http://krikindy.blogspot.jp/2017/03/blog-post_28.html。また、記事としてもいくつかのものがヒットします。たとえば、http://shindenforest.blog.jp/archives/61397011.html。

[8] あるいは誘惑に勝ったご褒美ということさえ、「いつかは見捨てられるかもしれない。本当の自分の苦しみはダメな証拠でしかない」と思わせるだけです。

[9] このことは、AAの12ステップが示している道筋です。

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