68回目の終戦(敗戦)記念日がやってくる
戦後生まれの方が多くなり あの頃を知る者も少なくなった
12歳7か月で終戦を迎えたが
あの頃の衣・食・住を振り返ってみよう
昭和20年8月樺太から
母と姉妹弟7人 着の身着のままで引揚げてきた
伯父を頼って道南の木古内に一旦落ち着いたが
10月上川郡士別町の引揚げ寮に移った
衣について
お金があっても 物のない時代で 何処にも売っていない
皆 夏服に従姉からのおさがりを羽織っていただけであった
頂いた 綿の代わりに海藻が入った布団を 踏んでならして敷き
肩を寄せ合って寝たが 夜中寒くて目が覚めた
布団は布だけで綿替わりの海草は
隅の方に団子のようになっていた
翌朝10月24日初雪が30㎝位も積り そのまま根雪になる
軍隊毛布と軍服が配給になったので
それぞれの洋服に作り直して寒さをしのいだ
靴下も配給の軍足(踵がないので子供でも履けた)
小学校4年生の妹は雪道を夏靴で学校へ通ったが 破れてしまい
足が凍え泣きながら帰ってきたことがあり 不登校になる
母は和服だったが 夏のセルの単衣にもんぺをはき
買い出しの時は 角巻替わりの軍隊毛布姿だった
私は着るものも靴もないので 女学校を休学し
弟妹 一緒の部屋の小さな子供たちの子守とおさんどん
翌年女学校へ入り直した 配給になった軍隊の防寒靴を履き
クラスメートにドタ靴と笑われたが 暖かいので平気だった
今思えばミッキーマウスのような感じである
洗濯は たらいでゴシゴシだが 着替えもなく
石鹸は魚油の臭~い粗悪品
垢だらけの衣類や頭にはシラミが沢山住みつき
毎晩シラミ取りが日課だった
それでも母と一緒にいられて 恵まれた方だったかもしれない
今引っ越し準備で 有り余った衣類の整理をしているが
あの時のどん底生活を思うと贅沢過ぎる無駄ばかりで
反省しきりである
昭和21年北海道士別高等女学校時代
クラスに1着だけの配給の制服が当たり 嬉しかった