今日は終戦記念日でありお盆の中日である
いつまでも平和が続くことを願い
父母と姉 戦争で犠牲になった方たちの冥福を祈っている
住について
父は国鉄勤務だったので 鉄道局の計らいで
士別の引揚げ寮に入ることができた
料理屋だった寮は 引揚げてきた婦女子が
10世帯くらい数十人が居住しており
私たちは 2階の大広間の片隅が充てられた
18畳の部屋の四隅に各家族が陣取り4家族計16人が暮らした
母が一番年長で Sさん家族は親子4人 Kさんは3人家族
姑と嫁さんは朝鮮の人で姑さんは日本語が話せなかった
(2人は一月ほど経った頃密航して樺太に戻った)
他の家族は小部屋に暮らしていたが
ストーブがあるのは 大広間と 台所だけだったので
昼間は暖をとりに皆さんがきていた
石炭の燃料だけは豊富だったので
大きなストーブで交代に煮たきしていた
線路に落ちているコークスを拾い
コンロで燃やし中毒を起こした人もいた
苦しい生活の中でも子供たちはすぐ仲良くなったが
大人は希望も何もない生活で荒んでおり
口論が絶えなかったが 母だけは傍観していた
ここでの生活は S23年11月父が帰国するまで続いたが
母の庇護と姉たちの手助けのおかげで
精神的には苦痛がなく明るく生きられたし
恵まれていた方だったと思う
引揚げの時 父のすすめで予定より早い貨物列車に乗った
大泊でも早く船に乗ったので 留萌沖で沈むことなく
命を永らえている
戦争は絶対してはいけない