しまった! と思った時にはもう遅く、「どん!」という衝撃音と共に、冷たい床板へ向かって、痛みで歪んだ顔を打ち付けて倒れた。そんな彼女の醜態を睨みつけたまま、構えを崩さないソンヒ。
ゆっくりと《旋風夜叉》の右脚が上がっていき、絵茉の頭の側まで接近すると、先程とは反対にものすごいスピードで、まるで頭蓋骨を粉砕するかのような勢いで、ソンヒは脚を降り下ろした。
はっ?!
殺気に似た邪悪な気配を、瞬時に感じ取った絵茉は、ダメージ回復を待つ間もなく床からばっ!と身をよじり、鉄槌のようなストンピングを間一髪で避けた。見ればソンヒの踵が当たった部分の床板には、稲妻のような亀裂が走っていた。
「……いつまでも寝たふりしてんじゃないわよ、あの程度でくたばっちまうアンタじゃないでしょ?」
冷たく言い放つ、ソンヒの顔を見て絵茉は、上体をむくりと起こしその場で胡座をかくと、額に手を当てて何と彼女に対し、満面の笑みを見せた。
「いやぁ、ダマされた! さすが《旋風夜叉》の名は伊達じゃないわ。まさかこう来るとはねぇ、想定外よ」
あっけらかんとした口調で喋りかける絵茉に、ソンヒは驚きつつも、努めて冷静を装い、表情を崩す事なく彼女と対峙する。
「――攻撃が効いてないのかって顔してるわね? そんな事ないって。今でも頭がズキズキ痛いし身体もちょっと痺れているわ。あなた、いい《武器》持ってるじゃない? もっと自信持っていいと思うよ」
せっかく渾身の打撃技で一矢報いたというのに、絵茉の《上から目線》な発言にソンヒはカチン! ときて、とうとう感情的になり彼女に怒鳴った。
「……何でよ? 何で私の《精一杯》がアンタには通用しないのよ?! 何で平然としていられるのよ?!」
絵茉はゆっくりと立ち上がり、ぱんぱんと袴に付いた埃を払うと、腕を小軌道で回しながら右腕を敵前に付き出した。
泰拳(ムエタイ)独特の構えだ。
そして持ち上げた左足で、大地を踏みしめるように床板に落とすと、己の視線はソンヒの黒い瞳に向いたまま動かない。
いまや感情的になった《旋風夜叉》の繰り出す変則的な蹴りが、まるで意志を持った生物のように蠢き絵茉に襲いかかる。そのスピード、威力、正確さたるや――万が一防御に失敗すれば確実に意識は飛ばされ、寒空の下で《敗北宣言》を聞く事になりかねない。
ソンヒの爪先が、絵茉の側頭部に狙いを定めて空気を切り裂き迫ってくる。ここが何もない野外であれば、距離を取って逃げる事も可能であるが、生憎ここは角力祭が行われている闘技場・神楽殿の舞台上。一旦闘いが始まった以上、この舞台を降りれば「負け」てしまうし、勿論ノックダウンすれば「負け」なのだ。だから ―― どうしても「勝ち」たければ、絶対に立ち向かわなければならない。
本部席では初居御大が、じわりじわりと声援のボルテージが高まっていく観客たちを背に、腕を組み今後の成り行きに目を凝らす。
その舞台上では息巻く女侠たちの腕と脚が交差していた。
後ろの方にいる見物客にも、皮膚と皮膚がぶつかり合って発生した破裂音が聞こえたのだ。その音は、見ているだけの人々にも絵茉の受けたであろう衝撃を伝えるのに十分だった。
果して《泰拳姑娘》は被弾してダウンしてしまったのだろうか?
否!
絵茉は己の上腕を強靭な盾と化し、頭部を一撃必殺の上段蹴りから防御すると、次に来るであろう《二の太刀》に気を配りつつ、その身体を瞬時に、開いていた相手との間合いを詰める。
ソンヒの表情が一瞬歪んだ。
裾の長い袴で遠目では判らないが、絵茉の棍のような鋭く重い膝蹴りが、彼女の鳩尾を的確に捕らえたのだ。
ソンヒは更なる一打を撃ち込むべく《用意》はしていたが、自分が考えていたより遥かに速く、そして鋭い膝蹴りを被弾してしまった為、困惑と突如襲いかかった痛みとで《次の一手》が、一瞬にして吹き飛んでしまったのだった。
この好機を逃す絵茉ではない。彼女の追撃の手は一時たりとも緩まない。白いバンデージで巻かれた左右の拳が、年令よりも幼い表情をしている《旋風夜叉》の鼻や頬骨を、そして顎に至るまで打ち砕かんとばかりに、一定のリズムで殴打し続ける。
ビジュアルの残酷さ、妥協なき闘争の凄惨さに、それまで騒いでいた見物客も水を打ったように静まり返った。《おんな》同士の対戦故に、多少好奇の目で見ていた一部の人たちにも「これは闘いである」という《既成事実》を突き付けた格好となった。
――あなたとあたしとの差はね、一瞬のチャンスを見逃さず、ちゃんとモノにする所。この《武林》において潜ってきた修羅場の数の差といってもいいわ。
固い拳の当てられた箇所が内出血を起こし、綺麗だったソンヒの顔も徐々に腫れ上がっていく。
がしっ!
絵茉は殴るのを止め、頭部を腕で挟み込みしっかりと固定すると、今度は膝頭を何度も何度も鼻柱へと叩き込んだ。泰拳独特の《首相撲》というやつだ。捕らえた相手を逃がさないように首を両の腕で固め、己に優位なポジションでの攻撃を可能とするこの戦法は、十分に距離を取って攻撃するスタイルが信条のソンヒには有効だった。
数えられない程の膝頭を喰らい続け、視線が飛んで定まらなくなった韓国人女武芸者は、意識は朦朧とし頭部は力なく上下するものの、まだ反撃の意思を捨ててはいなかった。
がつん!
――なっ?!
再び《泰拳姑娘》の脳天に雷が走る。
ソンヒは不自由な体勢をどうにか動かし、背骨をエビのように「くの字」に曲げて、踵を蠍の毒針のように相手の頭頂部へ突き刺すように蹴ったのだ。《旋風夜叉》の持つ柔らかな身体が可能とする難易度の高い技《蠍針脚》だ。死角からの蹴り技に、不覚にもダメージを受けた絵茉は、条件反射的に頭部をロックしていた腕を解いてしまう。
「噂には聞いていたがこれ程とは… 《蠍針脚》、見事なりッ!」
この彼女の超人的な技に、初居御大も見物客も驚き、大いに沸き返った。
だが、結局のところこの《蠍針脚》は「防御」の為の技であり、敵を一撃必殺で倒す事の出来る「攻撃」ではなかった。せっかく絵茉の《首相撲》地獄から脱出出来たというのに、ソンヒはがくっと片膝を付き、肩で大きく息をするのが精一杯だった。
褐色の女武芸者は、静かに前へ足を踏み出す。
蓄積されたダメージで身体はふらふら、視線は虚ろになっているが、それでも目の前にいるのが自分の《敵》と認識し、僅かな目力で睨み付けた。
そんなソンヒの姿を見て、憐れみや尊敬、驚きと慈しみ……目頭は熱くなり、様々な感情が自身に降り掛かってくる。《旋風夜叉》が自分のの相手としては最高の人間だった――という事だ。だからこそ敬意をもってこの勝負を終えねばならない、絵茉はそう決めたのだ。
一歩また一歩と、距離を狭めつつ相手の様子を伺うと、遂に意を決しソンヒ目掛けて全速力で駆け出した。
自分を仕留めに来る事は十分に理解しているものの、もう爪先すら動かすだけの余力も残っておらず、ゆらゆらと棒立ち状態の女武芸者の姿が瞳に映る。
濃紺の袴の裾を翻し、猛禽類の如く絵茉は跳び上がった。そして両膝を胸部に、両肘を頭部に突き刺すと、相手を突き破らんかの勢いで突入する。
絵茉の掲げる武芸・秋元流古泰拳の秘技《神雕雙爪》だ。
恐ろしい程勢いの付いた彼女の身体はソンヒを、固く冷たい床板へ、鈍く大きな衝撃音と共に打ち倒すと、前方へ二回転程した後やっと停止した。
絵茉は立ち上がり、くるりと振り向くと、厳しい表情で行司の方を見た。突如彼女に睨まれた、初老の男性は一瞬、その眼光の鋭さに怯んだがすぐに言わんとする事を理解すると、手にしている瓢箪形をした黒い軍配を、さっと絵茉の方へ掲げた。
「勝者……秋元絵茉ッ!!」
行司の勝ち名乗りを聞いた途端、神楽殿を中心とした《角力ノ儀》会場は、割れんばかりの大拍手と歓声に包まれた。絵茉は行司と四方の見物客に向かって一礼すると、舞台の下で待機している運営スタッフのひとりに、冷却剤を持ってくるように指示をする。
程なくして用意された、ジェルの入った冷たく柔らかな冷却剤を、内出血で腫れたソンヒの顔に優しく当て、目が覚めるのをじっと待った。
そして数分後、絵茉の膝枕の上で韓国人女武芸者が、ゆっくりと目を開ける。
……わたし、負けたの?
ソンヒが眼を、瞼を動かして訴えかける。絵茉は、試合中とはうって変わり穏やかな表情で、「そうよ」と言わんばかりに首を縦に振った。
彼女のランゲージで、自身の《敗北》を悟った瞬間、少しだけ顔色を曇らせたソンヒだったが、すぐに安堵し柔和な表情となり、顔の筋肉を動かすだけでも辛いのにほんのり笑顔まで浮かべた。
――あなた、最高の《女侠(おんな)》ね。
彼女だけにしか聞こえない、僅かな距離で《称賛の言葉》をかけた絵茉は、肩を貸し、ソンヒをゆっくりと立ち上がらせると、共に熱戦を繰り広げた《同志》を、再び四方の見物客たちに披露した。
今までに経験した事のない、身内以外から受ける多くの歓声や拍手に、ソンヒはすっかり感激してしまい、とうとう絵茉の胸元に、顔を押し当て泣き出してしまった。
「……ずっと独りだと思っていた。だけど私と同じ《武芸の道》を歩んでいる女性が貴女をはじめ、この地域にこんなに居るなんて――それに勝敗はともかく実際に肌を合わせられて……もう最高よ」
近隣に比べて、武芸が盛んだと云われているこの温泉郷であるが、その武芸人口の一割にも満たないと思われる女武芸者――いわゆる《武芸女子》の胸の内を聞いたようなソンヒの発言に、絵茉もこれまで以上に武芸の修練と、女子の武芸修行者の底辺を拡げるために努力しなければ、との思いを一層強くするのであった。
ともかく、今年の《角力祭》のテーマである《日本対多国籍軍》の初戦は、《泰拳姑娘》秋元絵茉の勝利で幸先の良いスタートを切る事が出来たのであった。
「……気合い十分だな、ジェシカ?」
控室代わりのテントの中では、次の取り組みに出場する黒髪白肌の《碧眼魔女》ジェシカ・ペイジが、何度も何度も白い皮製のオープンフィンガー・グローブで覆われた両手を組んでは放したりして、高ぶる闘志を落ち着かせようとしていた。だが自分にしてみれば、何故こんなに緊張しなければならないのか、不思議でしょうがなかった。
「おい、話を聞いてるのか?」
「あ、ああ悪いビアンカ。それで……何の用事だ?」
自分の話を彼女が全く聞いていなかった事に《装甲麗女》ビアンカは、怒るどころか「やっぱりね」とばかりに、呆れてため息をついた。
「あなたの対戦相手のリナだけど、あまり舐めてかからない事ね」
「何故? 只のスクールガールじゃない。それとも彼女はモンスターなの? 自慢じゃないけど私だって、総合格闘技ではそれなりの実績を積んで、《名前》だって少なからず知られた存在。その私があんな小娘に負ける? ハッ、冗談じゃない!」
ジェシカは苛立っていた。「負ける」などとビアンカは一言も発していないにも係わらず、ネガティブな単語にはつい、過剰に反応してしまうのだ。
「……まぁ、茶飲み話程度に聞いといてくれ。彼女……リナだけど、公式な試合の記録は高校生の参加する、全国武道大会の出場しかない 。後はみなイリーガルなものばかり ―― 《武林》でいう「果たし合い」という奴だ。己の倫理観が唯一のルールという試合を、彼女は負けなしで生き残ってきた……と、初居センセイから昨晩伺った。どう出る、女子ライト級の世界ランカーさまよ?」
そう言うと、ビアンカは白熊のような巨躯を揺らし笑った。人一倍プライドの高いジェシカが、自分を嘲笑するような彼女の態度に、数回自らの掌に拳を当て、胸の内に渦巻く怒りを、対戦相手を叩き潰す為の闘志へと徐々に変換していった。
「……それでも、相手がスクールガールである事に変わりはないわ。五分で勝敗(けり)を着ける ――いえ、三分ね。いい? 三分後に観客の歓声を浴びながら、絶対私はここに戻ってくる」
ジェシカは、側に置いてあったミネラルウォーターを、ぐっと一口飲むと立ち上がり、数秒間シャドウボクシングをして、身体の隅々まで意識が行き渡るかどうか動作確認をすると、そのままテントと外とを仕切るカーテンを開け、戦場である神楽殿へと、寒空ゆえに身体から湯気をたてながら向かった。
RINAはカーテンの隙間から、そんな気合い十分の、対戦相手であるジェシカの様子を眺めていた。 格闘技雑誌などで度々目にする《ビッグネーム》との一戦に、こちらもジェシカ同様緊張しているかと思いきや、RINAのなかではそれほどでなく、逆に普段闘う《武芸者》以外の相手とあって、展開が読めないという点でむしろ楽しみで仕方なかった。
「……あいつ、“三分で片付けてやる!" って息巻いているわ。プロのMMAファイターらしいわね、全く ―― ああやって自分の内の“弱さ” を 吐き出して、自身の気持ちを《理想の戦士像》に近付けていくの」
来るべき取り組みに備え、準備運動をしていた遥が、神楽殿上の《碧眼魔女》をみてRINAに解説をした。
「相手、相当やる気みたいよ? リナちゃんも負けずに“三分で ―― ” ってハッタリかましちゃえばいいのよ」
テントの中に敷かれた畳の上で、闘いでできた患部を、氷枕で冷やしていた絵茉もつい口を出す。そんな諸先輩からの「励まし」に、にこりと笑って応えるRINA。
「時間なんて分かりませんよ。可能ならば一刻でも早く勝負を決める ――これが闘いの原則ですから。もし相手にそれだけの実力が無ければ……そういう事です」
伸縮性に富んだ、ネイビーブルーの競技服の上に、真っ白な胴着を羽織り、RINAはもう一度黒帯をぎゅっと締め直す。たったそれだけでも気持ちは戦闘モードへと切り替わる事ができる。
これでもう、後戻りは出来ない。
目の前には、今から自分が《倒すべき相手》しか映っていなかった。
既にジェシカの待つ神楽殿に向かう間、小さく深呼吸をするRINA 。祭が始まった当初は、気になっていた見物客の声援ももう気にならない。
「Come on!」と、オーバーランゲージで挑発をする《碧眼魔女》を、下からちらりと眺めたRINAは、にやりと笑みを浮かべるとひらりと跳躍し、そのまま舞台上へと登った。
――さぁて、祭に《華》を添えましょうか……?
黒いオープンフィンガー・グローブで覆われた拳を、ジェシカに向かって突き出し、闘う意思を示したRINA 。
そんな両者の戦意を汲み取った行司は、縦に手を振って《戦闘開始》の合図を満場の見物客たちに知らせる。
いよいよ《角力ノ儀》第二戦、ジェシカ・ペイジ対武田リナが始まった ――