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武侠片 ~中華幻想剣侠物語の魅力~ ⑥ (最終回)

2015年10月11日 | 武侠映画
其の九 古装片ブーム ~最後の黄金時代~

 中国返還まで残り7年と迫った1990年の香港では、武侠小説の第一人者・金庸の同名小説を80年代香港映画界の革命児、ツイ・ハーク(徐克)とキン・フーが手を組み映画化した(最終的にはキン・フーは途中降板)一大武侠映画プロジェクト『スウォーズマン 剣士列伝 / 笑傲江湖』が公開された。中華圏ではおなじみの物語を現代感覚に溢れた映像で大スクリーンに蘇らせた本作は評判を呼び、続く91年の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明 / 黄飛鴻』の爆発的大ヒットにより、香港映画界最後の黄金時代というべき《古装片 (時代劇) ブーム》が幕を開けた。
Swordsman:笑傲江湖(スウォーズマン 剣士列伝) / 1990

 この古装片ブームのキーワードはずばり《再生》。金庸や古龍といった武侠小説や過去の武侠映画の名作、黄飛鴻に方世玉などの古典的な英雄物語を、代的アレンジを施しスクリーンに蘇らせたのだ。「蘇ったの」は物語やキャラクターだけではなく、『少林寺』などの大陸産クンフー映画に主演した「かつての」スーパースターだったジェット・リー (李連杰) を再び人気クンフースターの座へとカムバックさせ、また女優ではブリジット・リン(林青霞)が「最後のあだ花」の如く、ツイ・ハーク作品はもとより数多くの武侠映画へと出演、彼女の“十八番”である凛々しい男装姿は劇場へ詰めかけた観客たちを魅了した。
 一方で80年代クンフー映画不況期において現代アクションを細々と撮っていたユェン・ウーピン(袁和平)やラウ・カーリョンといった“巨匠”たちも、この古装片ブームの恩恵を受けて数々の武侠映画のヒット作に、監督や武術指導として携わり見事第一線へ復帰することが出来た。またブーム(とスターたちのギャラの高騰)による俳優不足で、ジェット・リーに続く新規武術系俳優も続々と参入。80年代にデビューしながらも時期が悪く、スター街道に乗れなかったドニー・イェン (甄子丹) や大陸出身の新人、チウ・マンチェク (趙文卓) らはこのブーム時に武侠映画のヒット作に数々出演、スターとしてのステイタスを得て次のステップへの糧とした。
Swordsman2:笑傲江湖Ⅱ 東方不敗(スウォーズマン 女神伝説の章) / 1992


Ashes of Time:東邪西毒(楽園の瑕) / 1994

 数多くの香港スターたちが誕生・または復活した古装片ブームは結局、売れ線重視の為旧作リメイクの連続や、出演するスターたちの顔ぶれに変化がない事が災いしてか、94年頃にはその熱も冷めてしまう事となる。トレンドとしての武侠映画「再生」には成功したものの結局、次へと続く新たなスタイルをこの時期に、最後まで作り出すことが出来なかったのだ。中国返還前の香港に湧き起こった、映画界をあげての一大ムーヴメント《古装片ブーム》はこうして幕を閉じたのだった。


最終章 武侠映画、新世紀へ
※王度蘆の筆による武侠小説『臥虎蔵龍』の書影と新聞連載時の画像

 2000年代に突入すると、それまで東南アジアを中心に上映されていたローカルムービーであった武侠映画が突如《国際化》する事となった。台湾出身でアメリカを拠点に活躍する映画監督アン・リー(李安)が発表した、王度蘆による武侠小説を原作とする『グリーン・デスティニー / 臥虎蔵龍』が米アカデミー賞の外国語映画賞他4部門で受賞するという快挙を成し遂げたのだ。これ以降、海外からの投資を集めやすい武侠映画は中国映画の《主力商品》となり、ますます作品が《大型化》される事となる。
Crouching Tiger, Hidden Dragon:臥虎藏龍(グリーン・デスティニー) / 2000

 作品規模の大型化は、それまでアクション映画とは無縁だった中国本土のアート系映画作家たちを、武侠映画の世界へ引っ張り込み、その作品を期に新たなファン層を獲得するなど好循環を生み出した。その最たる例は、それまでも独特の色彩感覚で既に《中国映画界の巨匠》の地位にあったチャン・イーモウ(張芸謀)であろう。ジェット・リー他多くの香港系スターを起用して撮った歴史アクション『HERO / 英雄』は、『グリーン・デスティニー』を遥かに凌駕したチン・シウトン(程小東)によるワイヤーアクションの妙技と、イーモウ独特の色彩美あふれる撮影によって武侠映画に芸術性を与えた。この『HERO / 英雄』の成功はイーモウに新たなキャリアを得たといっても過言ではないだろう。1920年代に中国で誕生した武侠映画は長き歳月を経てようやく「生まれ故郷」へと戻ってきたのだ。
Hero:英雄 / 2002


House of Flying Daggers:十面埋伏(LOVERS) / 2004

 中華男児なら誰もが一度は憧れるという《武侠世界》。このセンス・オブ・ワンダーに満ち溢れた漢の世界に夢抱く者がひとりでもいる限り、武侠小説――そして武侠映画は未来永劫生まれ続けるに違いないだろう。



武侠片 ~中華幻想剣侠物語の魅力~ ⑤

2015年10月11日 | 武侠映画
其の七 香港新浪潮

 1970年代後半の香港映画界では、それまでの撮影所育ちではない、欧米で教育を受けその後テレビ業界で活躍した「新しい才能」が映画界へ続々参入し、いわゆる「商業主義」的ではない「作家主義」な作品を次々と発表。フランスの《ヌーベル・バーグ》にも似たその革新的な映像ムーヴメントは後に《香港ニューウェーブ(香港新浪潮)》と呼ばれ、映画界入り以前にテレビドラマや、ドキュメンタリー番組製作に関わってきた若きディレクターたちは、これまでの映画とは違う新感覚の映像表現や物語の語り口、商業監督では着目しなかった独自のテーマ性や自分なりの主張を「映画」というキャンパスに描き、また、ありきたりな通俗娯楽映画に食傷気味だった、若い観客たちもそれらの作品に対して強烈に支持をした。日本でいえばATG映画人気に近いかも知れない。

 相変わらず量産され続けるショウ・ブラザーズ系の伝統的な武侠映画は、もはや年間興行収入トップテンのラインナップに上る事はなくなり、逆にテレビで放映される武侠ドラマは「手軽に視聴できる」事と、長編の多い武侠小説を映像化するのに「連続ドラマ形式」が最も適していた事が要因でこちらは大人気を博した。またラウ・カーリョンやジャッキー・チェン、サモ・ハンキンポーらの台頭によってコメディ系クンフー映画が興行収入ランキングに挙がるようになった事で「劇場用」武侠映画の人気は下降気味であった。だからこそ《香港ニューウェーブ》の監督たちは、この古典的な題材である《武侠もの》に「改善の余地」を見い出してモダンで斬新な切り口で挑戦し、規制の多いテレビでは作る事の出来ない、新しい武侠映画のスタイルを生み出そうとしたのではないか?と思う。例えば『名劍』は古美術的な色彩感覚と、細かなカット割りでそれまでにない躍動感を生み出したアクション演出、『碧水寒山奪命金』は中国大陸ロケによる広大な大自然をバックに主人公一行はロードムービー的な逃避行を行い、『蝶變』では動物パニック・ホラーの要素に加え軽功等の武侠映画的な「武功」の否定、物語途中で主人公が「退場」し残されたサブキャラクターたちは凄惨な殺し合いを繰り広げる。
The Butterfly Murders:蝶變 / 1979


The Enigmatic Case:碧水寒山奪命金 /1980


The Sword:名劍 / 1980

 これらの「映像実験」は結果的には集客要素にはならず、興行収入もプラスにはならなかったが彼らの提示した「新しい武侠映画」の表現手法は、更に商業映画のエッセンスと融合し、後の香港アクション映画には欠かせない「定番」要素となっていく。


其の八 幻想の復活
※80年代の神怪武侠片復活のきっかけのひとつだと思われる、82年連載開始の黄玉朗による武侠コミックス『如来神掌』カバー画像


 1980年代に突入すると欧米のSFX作品の影響もあってか、それまで「過去の遺物」であった神怪武侠片が突如復活する。テレビで武侠ドラマを観ている人たちをもう一度劇場へ連れ戻そうと、60年代とは違う遥かに進歩した特殊効果を駆使した武侠映画が、この80年代初頭にはいくつか生まれている。

 武侠映画の原点回帰ともいえる「ファンタジーの復活」への兆候は、1976年の金庸原作『天龍八部』や『五毒天羅』等の作品で見る事が出来る。日本の特殊技術専門会社の協力で生み出されたカラフルな「気」による対決シーンは、生身の格闘場面だけでは味わう事のできない驚きと興奮に満ちた素晴らしいものであった。ショウ・ブラザーズではこの前後に『中国超人 インフラマン』や『北京原人の逆襲』などの特撮ファンタジー映画を発表していた関係もあってか、その「副産物」として前記の特撮武侠映画が生まれた可能性はある。また83年のハーベスト社超大作『新蜀山剣侠』ではアメリカから特殊技術のスペシャリストを招聘、その結果欧米SFXと香港映画伝統のワイヤー・アクションとが融合され、それまで誕生しえなかったファンタジー世界を生み出した。これらの特殊技術は後の香港映画へと受け継がれ、80年代後半に多数公開された香港製特撮ファンタジー映画を生み出す基盤となった。
Buddha's Palm:如來神掌 /1982


Descendant of the Sun:日劫 /1983


Zu : The Warriors from the Magic Mountain:新蜀山劍俠(蜀山奇傳 天空の剣) / 1983

 武侠もののフィールドは既にテレビへと移行し、稼ぎ頭だったクンフー映画も「時代遅れ」の感が強くなり、人々の嗜好が欧米型のモダン・アクションものへと流れていくこの時代。業界の寵児となった《香港ニューウェーブ》系列の監督たちが取り入れた「欧米型エンターテイメント要素」と「伝統的中華文化」とがミックスされた結果、東西の特撮ファンタジー映画に引けを取らない《新・神怪武侠片》が誕生したのだ。ただし製作期間やコスト面などの問題から、他のブーム時のように大量に製作されることはなく、年1~2本のペースで発表されるに留まった。

武侠片 ~中華幻想剣侠物語の魅力~ ④

2015年10月10日 | 武侠映画
其の六 “浪漫武侠片”― 楚原と古龍
※ショウ・ブラザーズ撮影所にて、ブルース・リー親子と写真に納まるチュー・ユアン監督

 1960年代末から70年代初頭の香港を賑わせた《武侠世紀》も落ち着き始め、その象徴的存在であったチャン・チェが台湾へと拠点を移した1970年代中頃、混迷する武侠映画に求められていた「次の一手」を老舗ショー・ブラザーズが早々と打ち出した。同社に所属する職人監督チュー・ユアン(楚原)による、台湾の人気武侠小説家・古龍の作品を映画化するプロジェクト、《浪漫武侠片》路線である。

 チュー・ユアンは60年代より文芸作やコメディなど多方面で活動していて、72年にはチャン・チェ式暴力浪漫武侠片の女性版ともいうべき、レズビアンを扱った変格武侠片『エロティック・ハウス 愛奴』を発表するなど斬新なテーマでも娯楽映画として消化できる手堅い技術を持つチュー・ユアンが、「暴力」で溢れかえった武侠映画の世界で見つけた「次の一手」は、愛と友情にあふれた侠客たちのロマンティック・ストーリーだったのだ。
Killer Clans:流星蝴蝶劍 / 1976


The Magic Blade:天涯明月刀(マジック・ブレード) / 1976


Clans of Intrigue:楚留香(武侠怪盗英雄剣) /1977

 香港の金庸や梁羽生と並ぶ高い映画化率を誇る古龍は1956年に小説家デビュー。やがて「食うために」と1960年代頃より武侠小説を発表し、欧米のハードボイルドや推理小説のような高いエンターテイメント性と独特な文体が人気を博し、代作も含め80余もの作品を生涯に残した台湾武侠小説界の巨人である。また彼は早くから映画にも手を染め、自身の小説をショウ・ブラザーズが映画化した『蕭十一郎』(1971)に脚本家として参加、1975年より開始されるチュー・ユアンによる連続映画化の一方で、多くの中小映画会社製作の武侠・クンフー映画に脚本を執筆したり、挙句の果てには寶龍電影公司なる映画会社を1980年に設立するなど映画界との関係も深い。
※古龍と『蕭十一郎』が掲載された誌面写真


Swordsman at Large:蕭十一郎 / 1971

 誰が敵か味方か分からないサスペンスフルな古龍式武侠映画は、その後の香港や台湾の武侠・クンフー映画作りに大きなインスピレーションを与え、たとえばジャッキー・チェンの羅維影業時代の初期作品では古龍が脚本を書いていたり、秘伝書をめぐり各派入り乱れての争奪戦を描いた『蛇鶴八拳』(1977)では古龍脚本ではないもののその多大な影響が見て取れる。

 愛と友情と裏切りが交錯する70年代中期の武侠映画は、ブルース・リー亡き後冷え込んでしまった業界に復活の糸口を与えたものの、結局は乱作によるクオリティー低下で再び人気を落としてしまう。やがてショウ・ブラザーズ傘下のテレビ局TVB(無綫電視)による、金庸の原作を映像化した武侠ドラマが人気を博すと次第に武侠映画の興行価値は下落していくのであった。

武侠片 ~中華幻想剣侠物語の魅力~ ③

2015年10月10日 | 武侠映画
其の四 ゴールデン・ハーベストの武侠片

 1970年「会社への不満」を理由に、ショウ・ブラザーズに於いてナンバー・ツーの地位にいたレイモンド・チョウ(鄒文懐)によって設立されたゴールデン・ハーベストは、かつて同社に所属していたブルース・リー(李小龍)やジャッキー・チェン(成龍)主演作などのクンフー・アクション映画の印象が強く、あまり《武侠映画》のイメージは湧き辛いがちょうど設立当時、世間は《新派武侠片》ブームで沸きかえっていたせいもあってか創業作『アンジェラ・マオ 8人のドラゴン / 天龍八将』(1971)をはじめ、ハーベスト社がブルース・リーを獲得し一大クンフー映画ブームを起こしてからも、しばらくはクンフー映画と並行して武侠映画も数多く製作された。
The Invincible Eight:天龍八將(アンジェラ・マオ 8人のドラゴン) / 1971

 初期ハーベスト製武侠映画で特筆すべきは、ショウ・ブラザーズの豊富な女優陣にも巻けず劣らずの、華やかな新人女優たちの魅力と新進気鋭の武術指導者、サモ・ハン・キンポー(洪金寶)の大活躍が挙げられるだろう。
 創業間もなくしてハーベストは、フレッシュな人材を求めて一大オーデションを行い、そこでノラ・ミャオ(苗可秀)、アンジェラ・マオ(茅瑛)、マリア・イー(衣依)らを獲得、《嘉禾三大玉女》と謳われた彼女らの初期主演作にはいくつか武侠映画があり、一足先に《女ドラゴン》路線に走ったアンジェラはともかく、ノラやマリアが演じる他の作品におけるヒロイン役とはまた違う、凛々しく若さあふれる勝気な女剣士ぶりが印象的だ。
The Angry River:鬼怒川(アンジェラ・マオ 鬼怒川) / 1971


The Comet Strikes:鬼流星 / 1971

 そしてサモ・ハンは、師であるハン・インチェが武術指導を担当する作品の助手として活動する一方で、多くのクンフー・武侠映画で絡み役や、2~3番手の悪役として初期ハーベスト製クンフー・武侠映画にて活躍する。こうした努力が実を結んだ結果、単独で数々の作品で武術指導を任されるようになり、さらに巨躯がトレードマークの個性派アクション俳優、後には映画監督として若くしてハーベストの屋台裏を支えるまでになっていったのだった。現在香港映画の重鎮としてリスペクトされているサモ・ハンの原点は、間違いなくこのゴールデン・ハーベストの創世期にある。切れ者のチョウ社長の元、新旧の「才能」たちが集ったハーベスト社が《帝国》ショウ・ブラザーズを脅かすのに時間がさほどかからなかった……
The Fast Sword:奪命金劍 / 1971


其の五 武侠世紀 ~ハンディキャップな女侠(おんな)たち~

 キン・フーの『大酔侠』、続くチャン・チェの『片腕必殺剣 / 獨臂刀』の大ヒットをきっかけに、香港や台湾では武侠映画の製作ラッシュが始まり、いわゆる《武侠世紀》と呼ばれる大武侠映画ブームの幕が切って落とされた。

 現地の映画スターたちはこぞって剣客や女侠に扮し、当時流行の《新派》にチャン・チェ式の「剛陽系」武侠片や、女優たちが活躍する昔ながらのオールドスタイルな武侠片、そして悪玉が主役だったり奇妙な兵器などが登場する奇想天外な、変格武侠片とも呼ぶべき珍品などが続々と製作、更には隣国である韓国製作の武侠片までもが輸入・北京語吹替えで上映され、ますますジャンル人気は盛り上がっていく。
Wrath of the Sword:怒劍狂刀 / 1970

The Eight Dragon Swords:龍形八劍 /1971

The Mad Killer:瘋狂殺手 / 1971

Fearless Fighters:頭條好漢 / 1971

 どのジャンル映画でもそうだが、人気がある程度安定すると既存のキャラクターを女性化させる《女性版》というのが登場する。古くから女優たちの活躍が盛んだった武侠映画でもその例に洩れず、人気だったハンディキャップ(不具者)・ヒーローも続々と女性版が製作された。このジャンルには、新派武侠片誕生の源のひとつである日本製時代劇の『座頭市』シリーズ、中華ハンディキャップ武侠片の開祖である『獨臂刀』からの影響や模倣が見受けられ、香港はもちろん――特に日本映画の需要が高かった台湾では、多くの女性版・盲目剣士や隻腕剣士が登場しブームをを彩った。
Golden Sword and the Blind Swordswoman:盲女金劍 / 1970

The Seisure Soul Sword of a Blind Girl:盲女勾魂劍 / 1970

Deaf and Mute Heroine:聾啞劍 / 1971

One Armed Swordswoman:女獨臂刀 / 1972

 1971年にはアメリカから帰国したブルース・リーによる、武器ではなく素手での格闘を中心としたクンフー映画が人気を呼ぶと、ますます武侠映画熱もヒートアップし彼が急逝する73年頃まで《武侠世紀》は続くこととなる。

武侠片 ~中華幻想剣侠物語の魅力~ ②

2015年10月09日 | 武侠映画
其の二 張徹―暴力の美学 


 キン・フーにより一大センセーションを巻き起こした《新派武侠片》路線を更に推し進めたのが、《百萬導演》 ことチャン・チェ(張徹)であった。
 彼は、それまで女優中心だった武侠映画に露骨なまでの男性主義(マチズム)を持ち出して、それまでにない骨太なチャン・チェ式武侠浪漫を観客に提示した。アクションも決して舞踊的ではなく、もっと力強く泥臭さにあふれたファイトを展開、そしてヒーローたちは復讐や仇討ち等「己の目的」を完遂するまでは幾度となく斬られても立ち上がり、最終的には血の海となった修羅場で、本懐を遂げたヒーローが屍の山に囲まれて闘死するという、《盤腸大戦》 と呼ばれるチャン・チェ独自のスタイルで、それまでの武侠映画では感じ得なかった 《暴力性》と痛快なダイナミズムが社会運動に明け暮れていた1960年代当時の学生や労働者の観客たちから絶大な支持を受け、作品は大ヒットを連発、彼は一躍“時代の寵児”となった。その人気は代表作である『片腕必殺剣 / 獨臂刀』(1967)が、香港映画の興行収入ではじめて100万香港ドルを超えるという偉業を成し遂げた事からも窺い知ることができるだろう。

One Armed Swordsman:獨臂刀(片腕必殺剣) / 1967


Golden Swallow:金燕子(大女侠) / 1968


 またチャン・チェは、自分の元から多くのスター俳優や優秀なスタッフを輩出しているのも特徴的で、ジミー・ウォング(王羽)を筆頭にデビッド・チャン(姜大衛)、ティ・ロン(狄龍)、フー・シェン(傅聲)、チェン・カンタイ(陳観泰)や倉田保昭などは、彼の作品からスターへの道を歩み出し、また武術指導家のラウ・カーリョン(劉家良)やチャン・チェの助監督だったジョン・ウー(呉宇森)は後に独立、やがてそれぞれが香港アクション映画の名匠となった。生涯に多くの人材、そして武侠・クンフー映画の傑作を世に出したチャン・チェは、間違いなく武侠映画史にとって決して欠かす事のできない大人物なのである。

New One Armed Swordsman:新獨臂刀(新・片腕必殺剣) / 1971


其の三 まぼろしの王国―國泰機構

 この章では、直接武侠映画とは関係ないかも知れないが、1950~1960年代にかけて繰り広げられた武侠小説さながらの映画会社同士の覇権争いについて触れたいと思う。

 この当時の香港には、《電影帝国》であったショウ・ブラザーズ(氏兄弟香港有限公司)と東アジア映画界の覇権を巡って争っていた、現在では忘れ去られてしまった幻の映画製作会社が存在した。シンガポール出身の華僑で英国ケンブリッジ大学で学んだコスモポリタンである、ロク・ワントー(陸運濤)率いる国際電影懋有限公司(電懋)である。
 1950年代中頃よりそれまでマレーシアやシンガポールなど、東南アジアで争われていた両社の興行合戦は香港へと場を変え、互いの所属するスター俳優や有能なスタッフの引き抜きなど、激しいやり取りを繰り返し熱いバトルを展開していたが1963年、期せずして同時期に製作していた同一題材の映画の上映がターニングポイントとなり、次第にパワーバランスはショウ・ブラザーズへと傾き電懋は劣勢となっていく。そして1964年、アジア太平洋映画祭が行われていた台湾において、ロク・ワントー夫妻及び映画関係者の乗った飛行機が墜落し全員死亡するという、痛ましい事故により電懋の「息の根」は止められ、東南アジア映画界の覇権はショウ・ブラザーズが掌握する事となったのである。
            
※両者の明暗を分けた黄梅調映画『梁山伯與祝英台』(1963)ショウ・ブラザーズ版ポスター

※ロク・ワントーらを死亡させた飛行機事故を伝える記事

 その後電懋は、國泰機構有限公司と名を変え再出発を図るが、かつてのようにショウ・ブラザーズに「喧嘩を売る」ような勢いはもはや無かった。1966年以降に隆盛を極めた《新派武侠片》ブーム時にはかなりの数の武侠映画が國泰でも製作され、その中には《変化球》的な意欲作も存在したがショウ・ブラザーズ作品のようにブームの中心になるような作品を生み出すことは出来ず、1970年頃にひっそりとその活動を終えた。
 だが、活動を停止した國泰の映画スタジオは、同時期ショウ・ブラザーズを離脱した有志たちにより設立された新会社《ゴールデン・ハーベスト》(嘉禾電影有限公司)のスタジオとして引き継がれ、東南アジア映画界の覇権争いの第二ラウンドが開始されることとなる。
The First Sword:第一劍 / 1967


Escorts Over Tiger Hill:虎山行 / 1969


A Pearl in Command:四武士 / 1969


Mad, Mad, Mad Swords:神經刀 / 1969
※國泰武侠片ポスターのアートワークは、社風からだろうか?欧米並みに洗練されたセンスの物が多い。

武侠片 ~中華幻想剣侠物語の魅力~ ①

2015年10月08日 | 武侠映画

前章 黎明期

世界初の《武侠映画》は1928年に作られた『火焼紅蓮寺』といわれている。近代長編武侠小説の祖とされる『江湖奇侠傳』の1エピソードを映像化した、悪の巣窟・紅蓮寺を舞台に繰り広げられる、武芸者たちによる正邪入り乱れての闘いを描いたこの作品は大変な人気を博し、武侠映画が禁止される31年までの間になんと18本もの続編が作られたという。こうして中国映画界に《武侠もの》という新たなジャンルが誕生した。

※当時の武侠映画の多くは戦災などで焼失してしまったが、辛うじて後世に残ったこの『紅侠』は当時の武侠映画ブームを窺い知る事の出来る貴重な一本である

 やがて日中戦争を原因とする、国内の情勢不安により禁止されてしまった武侠映画は、まだ映画文化が発展途上だった香港へと移る事となる。そして大戦終了後の1949年、クワン・タクヒン(関徳興)の『黄飛鴻正傳』を発端とする武侠映画ブームが開始された。
 50年代へと入ると新聞では梁羽生・金庸ら当時新進気鋭の作家たちによる数々の《新派武侠小説》が掲載され好評を博し、またそれらを原作とした武侠映画も同じように大衆の人気を得た。特に幻想味の強い《神怪武侠片》は60年代中盤まで実に数多く作られ、その大半は前後編や三部作など連続活劇スタイルで上映されて、新聞の連載武侠小説を読むかの如く、映画の主人公たちの行く末が気に掛かる観客たちは、足繁く劇場へと詰めかけたのだった。



其の一 それは胡金銓からはじまった

 そんな旧態依然のままであった武侠映画に《変化》が訪れたのは1966年の事であった。
 俳優出身の映画監督であるキン・フー(胡金銓)が、西部劇や日本の時代劇のような映画的カタルシスに満ちた新感覚の武侠映画『大酔侠』を発表したのだ。カメラマン・賀蘭生(西本 正)や武術指導者のハン・インチェ(韓英傑)らと苦心の末完成させた“京劇の映画的アダプテーション”なる武闘表現は、それまでの舞台演劇的な殺陣とは違う、静と動とのコントラストをはっきりとつけた「間」や、剣同士が当たる時に発せられる効果音を入れたリアルかつスピーディー、そしてトランポリンを使用した立体的なアクションで、多くの観客たちの支持を集めた。

Come Drink with Me:大酔侠 / 1966

               
※《新派武侠片》の先駆けといわれている『雲海玉弓縁』(The Jade Bow / 1966)ポスター

 そして『座頭市』シリーズに代表される日本製アクション時代劇の人気や、先に公開されたニュースタイル武侠映画《新派武侠片》である『雲海玉弓縁』の後押しもあって、結果『大酔侠』はアジア各地で大ヒットを記録する。本作のヒット以降もキン・フーは、独自の映像スタイルによる武侠映画を次々と発表、1971年に発表した『侠女』は後にカンヌ映画祭において高等技術委員会グランプリを受賞するなどその国際的評価は高い。
 彼が後の武侠映画に残した最大の「発明」は、宿屋において侠客同士が自分の武功(武術の技)を披露し、相手より精神的に優位に立とうとする《客棧戯》なるシークエンスは、多くの作品で模倣され現在では武侠映画にはなくてはならないおなじみの見せ場となっている。


Dragon Gate Inn:龍門客棧 (残酷ドラゴン 血斗竜門の宿) / 1967

 ファンタジー一辺倒だった武侠映画を、次の段階へ推し進めた偉大なパイオニア――それがキン・フーなのだ。