HIMAGINE電影房

《ワクワク感》が冒険の合図だ!
非ハリウッド娯楽映画を中心に、個人的に興味があるモノを紹介っ!

【女子プロレス小説】小さいだけじゃダメかしら? 番外編 ~あしたはきっと強くなる~

2020年05月08日 | Novel

 一

 桃色のキャンバスが真っ直ぐにぴんと張られた、試合用よりも僅かに小さいリングが、ズドンという衝撃音と共に大きく上下に揺れた。

 小野坂ユカの美技・フラケンシュタイナーが炸裂したのだ。頭部からマットに突っ込んだ対戦選手はフラフラと起き上がると膝をつき、頭を振ってダメージ回復に努める。技がこれ以上ないタイミングや角度で決まり、会心の一撃ができた喜びを体内から発散させるべく、ユカはいつものように「どうだ!」とばかりに両腕を広げ大きく叫んだ。
 いつもなら速攻で返ってくるレスポンス。
 だが今日は全く静まり返ったまま。
 彼女の視線の先には動画撮影用カメラとパソコン数台、それらを操作する僅かばかりのスタッフだけで、いわゆる《有料入場者》の姿はひとりもいない――つまりこの試合の観客はゼロなのだ。
 会場も体育館やホールなどの公共施設ではなく、ユカが在籍する東都女子プロレスの道場で行われており、壁が暖色系にペイントされているとはいえ周囲の人の少なさ故に寒々しさを感じる。

 何してるんだろ、わたし――?

 ほんの一瞬ユカの頭に疑問が浮かぶ。
 だがそれはすぐに脳裏からかき消された。
 リング下に設置された放送席で、慣れない実況をおこなう元川団体代表と、解説をする同期で親友の赤井七海(あかい ななみ)の姿が見えたからだ。

 そうだ。観客はあのカメラの向こう側で、モニターを通してわたしたちの闘いに、熱い声援を送っているんだ。

 ユカが道場の周囲をゆっくり見渡す。
 いるはずのない観客たちの姿が、彼女の瞳の奥に映る。
 自分たちの闘いに対し拍手を送る者や、立ちあがって声援を送る者――当然幻覚だけどそれでもいい。
 ふぅ、とひと呼吸を付くとユカは、試合中にみせる険しい表情に戻し、まぼろしの観客たちに向かって力一杯叫んだ。

「よっしゃ、いくぞっ!」

 ユカは相手の髪を掴み、マットからその身体を無理やり引き剥がす――


 二


 ほんの数ヵ月前に発症者が確認されるや、《暴威》という表現が相応しいほど、世界中で瞬く間に感染者が増大した新型肺炎。テレビや新聞では感染者数や発生場所、それにこの病気による死者数が連日報告され、冷静さを失った一部の市民たちによって衛生用品や生活必需品が買い占められ、それがより一層彼らに先の見えない不安感を募らせるのだった。
 これ以上の感染者を増やさないために、企業各社は自宅待機や在宅勤務を命じたり、小中学校は臨時休校という措置を取った。
 当然エンターテイメント業界もその煽りを受け、当初予定されていた興行やイベントが軒並み中止や延期という憂き目に遭い、プロモーターや興行会社、それにタレント事務所は強行するか退くかの究極の選択を迫られた。

 はぁ――と重い溜め息を付き、元川は電話を切った。興行会社の代表という職業柄疲れていない日はないが、ここ最近はより一層の疲労感が第三者からにも目に見えてわかるほどだ。

「――もしかして《また》ですか?」

 団体事務所で電話対応の手伝いをしていた七海が、浮かない顔の元川に尋ねた。

「ああ、予約していた市民ホールが貸出しの中止を求めてきたよ。これで今月に組んでいた大会全てがダメになった」

 当初なら週一の間隔で、全四大会を開催予定だった東都女子プロレス。それが全てキャンセルになった事で一気に興行での収益を失った。自前の有料動画配信サービスを持っているとはいえ、これはかなりの痛手である。

 七海も先ほどから電話要員として、前売り券を購入したお客たちからのチケット代払い戻しの対応に駆り出されていた。
 また次回お願いしますね――と何度も電話口で謝るものの、団体の信用やブランド力を損ねているのではないか?と受話器を置く度に不安になる。リングの上で闘っているだけでは起こり得ない感情が七海の心へのし掛かる。

「あそこは早々と、大会中止を発表しましたよね」
「太平洋女子か。まぁバックに大手芸能プロダクションが付いてるからな。多少の事でビクともしない資本力もあるし強いよな」

 そういう元川の顔に羨望の表情が浮かんでいた。

「ですねぇ……でも団体に所属している選手たちはお金の心配が少なくても、大会毎に契約しているフリーランスの選手からしたら、堪ったもんじゃないですよね。働く場所がないですから」

 七海の言葉で我に返った元川に、再び暗い影が戻る。

「当初二週間程度といわれていた、中止や延期要請時期も延びてきたし、今でギリギリって感じだしな――」

 出来る事なら「自粛ムード」の蔓延っている世の中に対し、高らかと大会開催を唱いたい気持ちはあるが、「もしかしたら……」と最悪の状況が頭にチラつき、あと一歩が踏み込めない自分自身に元川は、正直イラついていた。

「――俺、こんなに意気地無しだったとは思わなかったよ。もっとメンタルが強いと思ってたのになぁ、七海ぃ」
「最悪の事態を想定すれば、懸命な判断だと思いますけど、《意気地無し》は今に始まった事じゃないですけどねぇ」

 救いがない七海の切り返しにムッとする元川だったが、畏まらない飾りっ気のない関係性に変わりがない事に、ホッとしたのもまた事実だった。お互いまだ平常心は維持している。

 再び電話対応に追われる七海を横目に、自分のデスクに戻った元川は両腕を組みうーんと唸ってみる――簡単に打開策は見当たらない。取り敢えず今出来る事をするしかない、《未来》の話はその後だ。
 彼は分厚い黒皮の手帳を広げ、そこに記載されてある様々な公共施設に、片っ端から電話をかけてみる。収容人数の大小関係なく、どこかひとつでも借りる事が出来れば御の字だ。

「もしもし?私、東都女子プロレスの――」
 
 八回目にかけた電話が、やっと受付を通り越え施設管理者の元まで届いた。

 


「無観客試合――ですか、ユカさん?」
「そう。せっかく生中継ができる環境と機材がウチにはあるのに、それを使わないのは勿体ないと思わない?」

 事務所が入っているオフィスビルの、真向かいにある小さな喫茶店――

 ちょっと休憩、といって電話番をサボっているユカと、仲のよい後輩である日野祐希が外がよく見える窓側の席で、コーヒーを片手にダベっていた。人当たりのよい雰囲気を持つユカだが、テレフォンオペレーターなど《赤の他人》と話す仕事は本当に苦手らしく、人手が足りないにもかかわらず早々と事務所を逃げ出し、この喫茶店へ飛び込んだのだった――真面目に電話対応をしていた祐希を無理矢理連れて。

「でも会場はどうするんです? どこの体育館も軒並み閉鎖されているじゃないですか」
「バカね、仮に体育館が借りれたとしても使用料払わなきゃならないでしょ。道場よ、ウチの道場で試合するの」
 
 ユカのアイデアをようやく理解した祐希は、なるほど!とばかりに軽く手を叩いた。後輩から送られる尊敬の眼差しに、ユカは一層得意気な表情で応える。

「で、それは代表に進言したんです?」

 祐希が問い掛けると、途端にユカの顔色が曇った。

「まだなんだよね……正直このアイデアに自身がないし。だって想像してみ? 誰ひとりいない会場で普段通りに試合する自分の姿を」
「確かにアマチュア競技ならいざ知らず、《観客がいる事が前提》の特殊なスポーツですもんね。プロレスって」

 確かに誰も見ていない所で、派手な入場や過剰な受身、それに己のピンチをチャンスに変えるべく客に対し、声援を要求または煽ったりする行為は、不必要といえるかもしれない。だが、必要最低限の技やパフォーマンスで淡々と試合を進めても、面白いものにならないのもまた事実だ。

 カラン、と来店者を知らせる軽やかなドアベルの音が、小さな店内中に響きわたる。それは休憩から戻ってこないユカたちを、捜しに来た元川だった。
 《天敵》の姿を見つけたユカは、身を縮ませ姿を隠そうとするが既にバレており、大股で席までやって来た彼により、猫のように首根っこを掴まれた。

「こらユカっ! いつまでもサボってるんじゃない」
「ゴメン代表! ちゃんと仕事するから怒らないでっ!!」
「はぁ……お前に電話番させようとした俺が馬鹿だった。ユカは事務職に向いてないって事が、今日身に滲みてわかったよ」

 しょげるユカと落胆する素振りを見せる元川の姿に、側でみていた祐希は息の合ったコントのような、ふたりの掛け合いに只苦笑いするしかなかった。
 
「へっ? じゃあ電話番はもうしなくてもいいの?」
「まあな。それより大事な話があるから、ふたりとも急いで戻るぞ」

 元川はユカの手とテーブルに置かれていた伝票を同時に掴むと、二十歳をとうに過ぎた駄々っ子を引きづるように店を出ていく。祐希は振り向きざまに見た元川の、自信に満ちた態度と表情に「何かある」と感じた。




「――というわけで、今月開催予定だった大会は全て中止になったわけだが、懸命な営業努力と先方様のご理解ご協力によって、たった一大会だが興行が打てる事となった」

 会議室に集まった、東都女子プロレスの全所属選手十名プラスレギュラー参戦している所属外のフリー選手数名を前に、元川は大会開催の旨を皆に伝えた。終息の兆しが見えない新型肺炎を前に怖気づく者も若干数みえたが、大方の選手たちは久しぶりの試合に歓喜の声を上げた。

「感染の拡大を懸念して中止や自粛を求める昨今だが、来場者様の衛生管理を徹底すれば決して無理な話ではない。今回は満員で二百人弱という小さなキャパだが、これが我々が細心の注意を配れるギリギリのラインだろう。様々な行事やイベントが中止・延期され人々の心が曇りがちな今だからこそ、この大会を決行する意味があると思うのだがどうかな?」

 想いのこもった元川の熱弁に異議を唱えるなどいよう筈がなかった。それだけ皆観客を前に試合する事に飢えていたのだ。当然元川も不安な選手に無理強いするような事はしなかった。出場する選手には毎日の検温や、帰宅時のうがい・手洗い・アルコール消毒を強く求めた。身内からも発症者を出しては元も子もないからだ。

 大会が決まり活気付く会議室の中で、他の選手と同様にユカも笑っていた。打開策として密かに考えていた、インターネット配信による無観客試合の事など、すっかり忘れかけていたその時、再び元川が口を開いた。

「それで大会の一週間前に、プロモーションとファンたちへの感謝の意を込めて、ウチの動画配信サービスを利用して道場から、数試合を組んで生中継で配信する事も同時に決定した」
「――へっ?」

 ユカの口からへんな声が出た。
 まさか自分のアイデアが、具体化されるとは思っていなかったからだ。

「どうしたユカ。何か不満でもあるのか?」
「えっ? ふ、不満なんてこれっぽっちもないけど、どうしてそんな――」

 他の誰にも言っていない、ひとりで勝手に空想していた《無観客試合の生中継》。それが現実のものになると聞いた途端、嬉しさや喜びよりも驚きの方が優り、ユカは動揺が隠し切れない。

「ちゃんと知ってるぞ。お前が映像部のスタッフたちと生中継のアイデアを密かに話し合っていた事を。事務職のような細かい仕事は向かないが、クリエイティブなプロデューサー的な仕事は出来るんだな。感心したよ」
 
 皮肉混じりだが元川から褒められたユカは、恥ずかしさで頬を赤らめ照れ笑いをする。

「そうわけだからユカ、お前が無観客試合のマッチメークをやってみろ。それと試合に関していろいろ心配事があるようだが、『やらずに後悔するよりやって後悔しろ』だ。どっちに転がったって《伝説》になるのならいいじゃないか。そうだろ?」

 意外な人からの突然の励ましは、むず痒い変な気持ちになると同時に、剥き出しの背中を掌で叩かれたように気合いが入る。
 興奮冷めやらぬユカは、未だ続く選手たちによるミーティングも何処へやら。クセの強い字でメモ帳へ参加選手の名前を書き並べ、自分と誰を闘わせたら面白いか、また誰と誰を組ませたら面白いか?と無観客試合のマッチメークを早速始めるのだった。


 遂に《決戦の日》は訪れた――

 次々と余所の団体が大会の開催中止を決めていく中で、決死の覚悟で決行される区民体育館での大会を一週間後に控えたこの日、都内某所にある東都女子プロレスの道場から自社の動画配信サービスを通じ、様々な地域に住むユーザーのもとへ無観客試合の様子が届けられていた。

 《東都女子プロレスPRESENTS ~あしたはきっと強くなる~》

 これがこの無観客試合の題名だ――当然ユカが決めた。

「――このご時世、誰が正しくて間違っているのかなんてわかりません。少なくともわたしは感染リスクが恐れられている現状で、普段通り試合を開催する団体さんを尊敬するし、リスク回避のため断腸の思いで中止を決めた団体さんもまた然りです。わたしたち東都女子は『エンターテイメントの危機』が叫ばれている今だからこそ、来週開催予定である大会を行う意味があると思うのです。そして今日――景気付けではないですけど、お客さんがひとりもいない無観客の状態で試合を行います。ここには誰もいないですが、超満員の観客がいるつもりで精一杯闘いますので、パソコンや携帯端末でご視聴の皆様も、自身が会場にいるようなつもりで応援してください!」

 普段なら《おふざけ》に走ってしまうユカの挨拶だが、この日ばかりは至極真面目に、そして丁寧に自分の想いを言葉に乗せた。カメラレンズの向こう側にいる、顔の見えない観客たちに向けて――

 このらしくない彼女の様子に、撮影するカメラマンの隣りで腕を組み、暫くリング上を見つめていた元川は感極まり、思わず鼻を啜ってしまいそうになる。だがマイクが音を拾ってしまっては、せっかくの晴姿が台無しになってしまうのを恐れ、彼は早々と後方へ引き下がっていった。
 ユカは滑稽な元川の姿を見て、プレッシャーと緊張でがちがちに固くなっていた自分の身体から、風船が萎むように余分な力が抜けていくのを感じた。

 生中継は出場全選手参加による、時間差バトルロイヤルから開始された。
 最初のふたりが試合を始めてから、以後一分おきに選手が追加されていくシステムで勝敗はフォールやギブアップの他、トップロープからリング外へ落ちたら失格のオーバー・ザ・トップロープで決まり、最後までリング内に残っていた選手が勝者というルールである。
 所属する全ての選手を視聴者にお披露目し《馬鹿騒ぎ》をしたい――ユカの強い要望だった。デビュー一年未満の若手選手同士の対決からスタートしたバトルロイヤルだが、立て続けに次から次へと選手が入場していき、瞬く間にリングの中は多くの女子レスラーたちで溢れ返る。
 誰と誰が結託するのか、或いは誰が裏切るか――大乱闘(バトルロイヤル)のはじまりだ。

「きゃあ! や、やめろって!!」
 道場の中に悲鳴が響く。試合開始から十分を過ぎ、次々と策略や奸計によって選手が脱落していく中で、何と団体のエースであるユカが数名の選手により無理矢理担がれ、ロープの外へ放り出されようとしていた。
 ユカは必死の形相でトップロープを握り、場外へ落とされまいと抵抗したが、まさかの親友・七海により裏切りのドロップキックで蹴落とされ、惜しくもユカは失格となってしまう。してやったり、と得意気な顔ではしゃぎまわる七海の姿に唖然となるユカ。しかしす戦局はすぐさま急変する。祝福する後輩たちの肩に担がれた七海が、今度は彼女らに裏切られる番だった。宙に浮いたままで不安定な状態の七海が、そのまま場外へ落とされてしまったのだ。東都女子を牽引する彼女らが脱落するなんて誰が想像できただろうか。

「――日頃の人間性が結果に出ちゃったね、七海?」
「アンタにその言葉、そっくりそのままお返しするわ」

 生き残りを懸けた闘いが、リングの間で未だ続く中、その様子を残念そうな表情で見つめる七海と、すぐ隣で笑いながら彼女を慰めるユカ。

 結果、最後までリングに立っていたのは、全参加選手の中で一番若く、また団体側も大きな期待を寄せている次期スター候補・綺羅(きら)あかりであった。
 愛玩動物のように可愛らしい彼女がレフェリーに腕を掲げられ、トレードマークのツインテールを上下させ跳ね回り喜びを爆発させるあかりの姿は、多くの視聴者のハートを一瞬で鷲掴みしたようだ。


 無観客試合はオープニングの変則バトルロイヤルに続き、四人&六人タッグマッチやシングルマッチなどが行われ、どれも白熱したファイトで動画のコメント欄やツイッター、それにLINEなどにはファンたちの熱の篭った応援や好意的なコメントで溢れ返った。どれだけ彼らが東都女子の試合に飢えていたが窺い知れる。
 また参加している団体所属やフリーの選手たちも、特殊なシチュエーションに少々戸惑いながらも、久しぶりの実戦に喜びと開放感を爆発させた。
 ここにはいない、カメラの向こう側で観ているファンたちに届かんばかりに。

 そして遂にメインエベント――再びエース・小野坂ユカの登場だ。
 対戦相手は前年末に所属していた団体を退団し、現在フリーランスで様々な団体にスポットやレギュラーで出場する《蒼き美獣》安曇野沙織(あずみの さおり)。男女問わずそのクールな美貌に惹きつけられるファンは多く、時としてラフファイトも厭わない激しい闘争心、柔軟な身体から繰り出される各種スープレックス技は、百戦錬磨のユカとはいえ過度の油断は禁物、要注意である。

 試合は激しい意地や見栄の張り合いから始まった。少しでも自分が相手より優位に立っている事を証明すべく、傷の付け合いやスタミナの削り合いが延々と続いていく。

 ユカが沙織を一発頬を張り飛ばせば、三倍のダメージで自分に返ってくる。
 逆に沙織が絞め技や極め技で絞り上げれば、ユカはそれをギリギリまで耐えて「お前の技など効かない」と態度で知らしめる。

 お互いに、我慢の限界などとうの昔に超えてしまっているが、それでも「負けたくない」の一心で、ノーダメージのふりをして強がってみせるのだ。

 試合が大きく動いたのは、沙織が一瞬の隙を付いてフィッシャーマンズ・スープレックスでユカをマットに叩き付けてからだった。彼女の美しく力強く反り返るブリッジは、普段よりも数倍のダメージをユカへ与えた。
 負けてたまるか!とカウントツーで跳ね起きたユカだったが、不意討ち気味に技を喰らったので、受身を完全に取りきれなかった彼女は朦朧とし、なかなか視点が定まらないでいた。
 これをチャンスとみた沙織は、立て続けに打撃技や得意のスープレックスで攻め立てユカに反撃の機会を与えない。観客の有り無しなど問題視していない、沙織のアグレッシブな攻撃は視聴者に、これが無観客試合である事を忘れさせる程だった。

 ――やるじゃん安曇野、あんたを対戦相手に選んだのは間違いじゃなかった。

 膝を付き乱れる呼吸を整えながら、ユカは倒すべき敵である沙織を称賛する。
 強引に起立させられ腹に二発、沙織から重いパンチを喰らったユカは担ぎ上げられるとコーナー最上段へ座らせられた――雪崩式ブレーンバスターを仕掛ける気である。しこたま攻撃を受け続けた今のユカには、十分フィニッシュになり得る技だ。
 だがそれを嫌ったユカは肘打ちでディフェンスし、相手をロープから叩き落としこれを未遂に終わらせる。

 バン! バン! バン! バン!

 リングの周りを囲む選手たちが、試合会場のように両手でエプロンサイドを叩いて反撃の場面を煽り立てた。観客のいないこの場所ではまるで意味のない行為だが、条件反射的に選手全員がこれを行い、結果的に試合会場にいるような空間を生み出していく。
 沙織がふと上を見るとユカが身体を大きく広げ、コーナー最上段から真っ直ぐ飛び込んでくるではないか。全く躊躇のない、捨て身覚悟のクロスボディを躱す事ができなかった沙織は、そのままユカの身体を抱いたままマットへ沈んでいった。
 
 これを口火にユカの追撃が始まるや、試合は優勢と劣勢とが目まぐるしく入れ替わる展開となった。
 小さい身体や機動力を活かした空中殺法や、テクニカルな固め技で序盤の遅れをユカは取り戻していく一方で、沙織も長い脚から繰り出す打撃に、強靭なブリッジから生み出される投げ技などで必死に抵抗する。

 この道場にいる皆には、ふたりの試合に熱狂し一喜一憂する観客の姿が見えていた。それが現実か幻かなどどうだってよかった、自分たちも何処にいるのかがわからなくなっていたからだ――

 

 熱く激しいふたりの意地の張り合いも、残り時間五分を切った。タイムアウトになる前に勝負を決めるべく、大技の波状攻撃がリングで展開された。出す技全てが一撃必殺の切れ味であるが、絶対に負けたくないふたりはそれをギリギリのところでクリアしていく。

 普段ならこれで試合が終ってもおかしくない、コーナー最上段から発射されたセントーンが寸前で躱され、痛みで顔を歪めるユカ。
 相手に決まればスリーカウント確実である、高角度で入る沙織の原爆固めもレフェリーが三回目のフォールを数える寸前で肩を上げられ、マットを両手で叩き悔しがる。

 徐々に減っていく時間と自分の持ち技――
 そんな時は相手よりも肉体的・精神的な余裕が、少しでも残っている方に勝利の機会は巡ってくる。

 長い脚から繰り出された沙織の膝蹴りが、ドンピシャのタイミングでユカの腹を抉り、怒涛の攻めで追い込みを掛けていた彼女に急ブレーキを掛ける。ところがユカは内蔵《なか》まで響く重い痛みを耐え、マットに這う事を拒否し眼光鋭く相手を睨んだ。
 だが抵抗も虚しく、続いて放たれた踵落としにより踏ん張っていた二肢が折れ、ユカは俯せになり桃色のキャンバスの上へ倒れた。

「お・わ・り・だぁ!」

 両手を水平に切り終了宣言をする沙織。
 そして腕を持ち足に巻き付けると、前方へ回転しユカの身体を小さく折り畳んだ。スペイン語で《芸術》を意味するラ・マヒストラルの完成だ。
 相手に逃げられないよう、全体重を預け身体を押し潰すよう固める。
 祈るような表情の沙織
 カウントを取るレフェリーの腕が一段と大きく上がった。これがマットへ落ちればスリーカウントが成立し、晴れて安曇野沙織の勝利が確定する。
 しかし――

「んがぁぁぁぁぁっ!」
 野獣のような唸り声をあげ、全身に気力を行き渡らせたユカは必死の思いで体勢を反転させ、逆に沙織の両肩をマットへめり込ませた。突然の反撃に遭い、軽いパニックに陥った沙織は思わず身体を離してしまう。

 この一瞬の隙を、百戦錬磨のユカが見逃すはずがなかった。

 彼女はすぐさま沙織の首に手を掛け、両膝を突き出しながら後ろへ倒れ込むと膝は喉元を直撃し、沙織は激痛と共に呼吸困難に陥った—―コードブレーカーが決まった。
 ここで休んでいる暇はない。
 のたうち回る沙織の碧味がかったショートヘアを乱暴に掴み、引き抜くかの如く立たせた後、片腕を首に掛け胴を両腕でしっかりとロックするや、ユカの身体は大きな弧を描く。
 最強最後の必殺技である北斗原爆固めがこの闘いに終止符を打つべく、沙織を絶妙の角度でマットへ叩き付けた。
 力強くフォールカウントを数える、レフェリーの声が耳元まで聴こえてくるが、蒼き美獣には彼に反発する気力・体力共に、これっぽっちも残されていなかった。

 スリーカウントが入った瞬間、技がするりと解けふたりは寝そべって大きく喘いだ。双方とも死力を尽くして闘った結果、勝ち名乗りを受けるどころか立つ事さえままならず、彼女らの傍へ東都女子の選手たちが取り囲み懸命に介抱するのだった。

 数分後――
 ようやく立ち上がれるまでに回復したユカは、勝者の勝ち名乗りを手早く済ますと沙織の元へ駆け寄った。まだ表情は険しく息も荒いが既に胡坐をかいて上体を起こしている。
 ユカの、健闘を称える握手の手が目の前に伸びてきた。

「――楽しかった。ありがとう、ムキになって闘ってくれて」

 感謝の言葉をかけられ唖然とする沙織だったが、照れ臭そうに笑いを浮かべ、ユカの手を握りこれに応えた。

「ユカさん、流石に東都女子のエースと云われてるだけありますね。今日はマジで完敗です、認めます。だけど一週間後――強力なパートナーを連れてきて、あなたと七海さんが持つタッグ王座、必ず奪い取りに行きますから覚悟しておいてください」

 顔も身体も痣だらけで漂う疲労感は隠せないが、瞳の奥で燃える闘志はまだ消えていなかった。


 団体初の無観客試合は、無観客である事を観る者が忘れてしまうような密度の濃い、採算度外視の激しいファイトの連続で一応の成功を収めた。そしてリング上では出場したすべての選手がリングにあがり、誰からともなく互いにハグし合い健闘を称えた。
 
 実況を終えマイクの電源を切った元川が、一目散にユカの元へ飛び出していく。
 真っ先に何て声を掛けたらいいだろう?
 どんな感じで褒めたらいいだろう?
 いろいろな言い回しが頭の中を巡りまわっていたが、いざ彼女を前にした途端に思考が一時停止した。

 向かい合うユカと元川。
 うまく回らない呂律を頬を叩いて鞭を入れ、やっとの思いで彼は言葉を吐き出す。

「やったなユカ。難しいシチュエーションの中本当に頑張った、見直したぞ!」

 普段通りの上司と部下の会話。こんな筈では……と恥ずかしさと情けなさで頭を掻く元川だが、ユカはこれを素直に受け入れた。

「ありがと、でも感じたでしょ?元川さんも。観客の姿も応援する声も全部」

 ああ、と首を縦に振り彼はこれに同調する。ユカだけでなくここにいる選手やスタッフ全てが同じだったに違いない。

 あれっ?

 元川は見逃さなかった。
 極度の緊張から解放され、気が緩んでほろりと一粒ユカの瞳から零れ落ちたのを。
 やはり天真爛漫なユカと云えども怖かったのだ。

 だからひとりの男性として
 労いと感謝と――そして愛しさで、彼女の身体を優しく包み込むように抱きしめた。

 恥ずかしさで頬を赤らめ、少し抵抗する様子を見せたユカだったが、彼の温もりや染み渡る幸福感には逆らえず、自ら力を抜き元川の方へ、プロレスラーからおんなへと戻った身体をぎゅっと密着させるのだった。


                                     終


【女子プロレス小説】小さいだけじゃダメかしら? ~ASK HER!~ ⑧(終)

2020年04月30日 | Novel

二十五
 
 我慢の刻はまだ続く。

 ダメージを負ったままの祐希は決定打を与える事ができず、ひたすらに愛果の技を喰らい続けていた。
  得意の投げ技だけでなく、固め技などを織り交ぜ攻撃に緩急をつけて、じわりじわりと猪突猛進タイプの祐希を追い込んでいく愛果の姿は、とてもキャリア三年未満とは思えない程ふてぶてしくみえた。さすが優秀な選手たちが鎬を削り合う、業界トップのメジャー団体で日頃揉まれているだけの事はある。

 だが祐希も必死に喰らい付いていく。

 劣勢となってから半分以下の手数になったとはいえ、ひとつひとつの攻撃はまだ重く、技がヒットする度に愛果の顔は苦痛に歪むが、未だ彼女が優位である事には変わりは無く、必殺技のひとつである高角度のパワーボムを仕掛けたが、逆に後方回転エビ固めで切り替えされ、危うくスリーカウントを耳元で聞かされそうになった。

 技を逆転され、必死にフォールを返す度にスタミナはどんどん奪われていく。

 どうすればいいの?――祐希は自問自答を繰り返す。

 打撃技も投げ技もことごとく巧みに防御ブロックされ、持ち駒がひとつずつ消えて無くなっていくのを実感する。あの《プロレスの達人》といわれた小野坂ユカでさえも恐怖した、あの鉄壁の防御力を破る方法など簡単には浮かぶ筈もない。

 こうなれば、幾度となく自分を勝利へ導いてくれたあれを出すしかない。

 意を決した祐希は愛果を捕まえると、超速の払い腰で彼女を投げマットへ叩き付けた。間髪入れずに彼女は頸動脈が走る首筋に腕を巻き、片方の腕を腋から入れて頭を前へ押す。そうする事で頸動脈に喰いこんだ腕がさらに締まり、脳へ酸素を運ぶ血流を止めんとする――片羽絞めの完成だ。
 グラウンド状態の関節技。相手の胴体もしっかり両腿で挟んで簡単には脱出できないはずだ。
 しかし愛果は苦悶の表情をみせながらも、重い祐希の身体を引き摺ってロープへと必死に手を伸ばす。散々痛めつけられた彼女の腕は従来の力を出せず、十分に愛果の頸動脈を締め付けられないのだ。

 愛果のロープブレークが成立しレフェリーの指示で技を解いた途端、祐希は何も考える事ができず呆然自失となった。

 ふらふらと立ちあがり、薄ら笑いを浮かべる愛果の姿に恐怖を覚えた祐希にあるのは、勝利への希望ではなく絶望のみだ。
 彼女の放つ重苦しい空気を察したのか、この勝負は愛果が勝ちだと、九割方の観客がそう思うようになった。《愛果勝利》の空気は愛果本人への後押しとなり、それを受けてか彼女の表情にはどこか余裕が窺えた。

 

 ベルトが他団体流出か――? 元川の頭の中に最悪のシナリオが浮かぶ。

「どうするユカ、プリンセス王座が太平洋女子にでも渡ったら――」
「別にいいじゃん。ベルトがいろんな団体を廻って付加価値を高めてくれたら面白いじゃないの。それにほら、無くなったらどうせまたベルト作るんでしょ?インターナショナル・プリンセス王座とか言っちゃって」

 あっけらかんとするユカとは対照的に、元川の表情は心配し過ぎで疲れ切っていた。

「やはり祐希では太刀打ちできなかったか」

 彼もまた試合の流れを愛果勝利と読んでいた。これだけ圧倒的に技能スキルの差を見せつけられれば、誰だって彼女の勝利を疑うはずもないだろう。
 だが未だユカは信じていた。技も戦略(タクティックス)も凌駕する祐希のポテンシャルの高さを。

 ここで止まるんじゃない。前へ向かって進むのよ、ゆー!

 

 愛果優勢の流れの中、祐希は苦しい時間を過ごしていた。
 両者イーブンだった観客の期待も遠い昔となり、どう愛果が勝つか?に興味の対象が移り変わっている。この嫌な空気を断ち切ろうにも反論材料はなく、只々敗北までのカウントダウンを聞く他はないような気がした。
 ネガティブな思考が頭を駆け巡り、意識が途切れた隙を見計らって愛果は、素早く祐希の背後へと廻りフルネルソンの体勢を取った。

 来るっ!――頭では次の展開が分かっていたが、身体が言う事を聞かない。

 愛果は持ち前の強靭なブリッジで、自分より重い祐希の身体を難なく宙に舞わせた。弧を描いた彼女の身体は腕を固定されており、受身を完全に取る事が出来ずに頭から落ちていった。

 愛果の必殺技である飛龍原爆固めドラゴン・スープレックス・ホールドが決まった! 
 ひしめき合う太平洋女子の同期たちの中から、この技を武器に頭ひとつ飛び抜ける事ができたフェイバリットホールドであった。
 無抵抗の状態で頭部を強打した祐希は、目の前が一気に真っ暗となる。


 
 ……さん、がんばって!

 少女は自分の持ち得る、最大限の力を込め祐希に声援を送る。
 自分より遙かに年上ばかりの観客たちは、これで愛果の勝ちが決まったと思い込んでいる。
 それならば、わたしひとりだけでもゆーさんの勝利を信じてあげなければ。
 祐希を応援してあげたい純真な気持ちが恥ずかしさを突き破り、想いは言葉となって祐希の元へと飛んで行く。
 彼女が自分の熱い想いに反応するまでずっと、少女は声を枯らし叫び続けた。

「がんばって、ゆーさんっ!」

 はっ!

 悲鳴にも似た少女の精一杯の声援が、祐希の耳に届いた瞬間ぱっと目を開いた。
 慌てて不恰好な体勢から必死に身を捩り、スリーカウントが入るコンマ数秒直前で肩をあげて、ぎりぎり試合の流れをリセットする事に成功した。

 凄い。信じられない。

 観客たちは祐希の桁違いなパワーに驚愕する。九割方愛果へ傾いていた《勝利の針》を無理矢理ゼロに戻した祐希に対し、彼らは称賛の拍手と声援を惜しみなく送るのだった。

 

「スリーカウント入っただろっ!」

 一番の自信を持つフィニッシュホールドを勝利目前で返され、振り出しに戻された現実を素直に受け入れられない愛果は、レフェリーに猛抗議するものの、毅然とした態度で彼はそれを否定する。智略によってじわじわと祐希の武器や気力を奪い取り、最高のフィニッシュまで持ってきた筈だったのに、それが全て駄目になった今、愛果は座り込んだままで立ち上がる事も出来ないでいた。
 ファンたちから熱い声援が飛ぶものの、勝負どころで必殺技を決めきれなかった事のショックが大きく、自分へのコールが励ましどころか逆に負担となり、精神的プレッシャーを感じるようになった。

 一足先にダメージから回復し立ち上がった祐希は、項垂れる好敵手の腕を捕らえ引っ張りあげた。愛果の身体は持ち上がり視界が桃色のキャンバスから、幾千の瞳で自分を注目する観客席へと移り変わる。
 闘志の光を失わず、未だ真っ直ぐな視線を向ける祐希を見て愛果は、勝負の潮目が変わった事を実感する。

 ――やっぱり強いわ、ゆーちゃんは。

 背中を押された愛果は、正面のロープへと駆けていった。
 一歩も動きたくない、という自分の意思とは無関係に身体が勝手に動き出す。そして道場で最初に習った通り硬いロープを背中でしっかりと受け、今さっき来た道をまた走って戻っていく。
 目の前には祐希が待っていた。
 自分の所へ戻ってきた愛果の身体を、彼女は掬うようにして抱え持ち上げる。
 
 パワースラムか?

 次に来る技を予測した愛果は受身を準備する。背中からの落下技ならまだ耐えられそうだ――自分ではそう思っていた。
 だが、半円を描いて着床する筈の身体が最頂点まで達した時、愛果の予測に反し脳天から一気に真逆さまに落ちていく。

 しまった、これは脳天杭打ち(パイルドライバー)だ!

 祐希は咄嗟の思いつきでパワースラムの動作のまま、途中でツームストン・パイルドライバーへと切り替えたのだった。その結果次の手を読み誤った愛果は彼女の渾身の一撃を喰らう事となった。ずどんと頭部からマットに落ちた愛果は、負荷が一気に首へ圧し掛かり身体が痺れて動けなくなる。

 

 愛果の身体を仰向けにし、体固めの体勢に入った祐希がレフェリーの顔を見る。
 肩がマットに着いているのを確認したレフェリーは、大きく腕を振り上げフォールカウントを開始した。 
 千人近くの観客が大歓声をあげているのに、祐希の耳にはカウントを数える声とマットを叩く鈍い音しか入ってこない。
 カウントが着々と進行していく中、愛果は荒い呼吸を繰り返すだけでキックアウトする素振りも見せない。
 そしてついに――最後のカウントを叩くレフェリーの手がマットから離れた。この瞬間、東都女子認定プリンセス王座決定戦の勝者が決定する。

 《剛腕少女》日野祐希だ――

 この素晴らしい大熱戦に対し観客たちは皆一斉に立ち上がり、拍手と歓声でリング上のふたりを讃えた。客の中には感動のあまり涙ぐむ者さえいた。



二十六

 ホールを埋める観衆に混じって、勝者祐希に拍手を送っていた元川がふとテーブルに目をやると、置かれていた筈のチャンピオンベルトが無い――自分の隣で試合を見ていたユカの姿も。

「――アイツめ、やりやがったな」

 知らない間に相棒がいなくなった寂しさよりも、真っ先に可愛い後輩の元へと駆け出していった事の方がなぜか嬉しくて、本部席にひとり取り残された元川は満足気な表情でふぅ、とひとつ溜息をついた。

 

  レフェリーに腕を掲げられ勝ち名乗りを受ける祐希の顔には、勝利した喜びよりも長く苦しい闘いを物語る疲労感がみえていた。好敵手に勝てた嬉しさも当然あるはずだが、今はキャリアの浅い自分がメインを無事務められた事、そして至宝・プリンセス王座の他団体流出を食い止める事が出来た安心感の方が強かった。

 急いで愛果の方に目を移す。
 技のダメージの大きかった首筋辺りに、セコンドが早急に冷却スプレーや保冷剤などがあてがいアイシングをした結果、痛々しさはみえるもののどうにか立ち上がれるまでには回復した模様だ。祐希はほっと安堵する。

 その愛果が彼女の側まで歩み寄ってきた。
 敗けた悔しさよりも、この激闘に十分満足したような清々しい表情で。

「あーくやしい。でも……おめでとうゆーちゃん、あんたがチャンピオンよ」

 差し出した手を祐希はしっかりと握り返し、どちらからともなく互いの身体を抱擁した。
 痣だらけの顔や汗でずぶ濡れの髪や肌、そして耳元へ直に聞こえる深い呼吸音――喩えようのない感情が堰を切って溢れ出しいつしかふたりは泣いていた。勝った喜びでも負けた悔しさでもない。お互いが傷付き傷付け合いながらも途中リタイアする事無く、試合を無事に完遂できた達成感が涙となり流れ出したのだ。

「まなかが……愛果が相手でホントよかった!もし違う相手やユカさんだったら、ここまで全部自分をさらけ出せなかったと思う。ありがとう、こんな私と闘ってくれて」

 涙声で発音が不明瞭で全て聞き取れたのか分からないが、何度も頷く愛果の姿をみていると、少なくとも祐希の言いたい事は理解できたようだ。

 

 おぉぉぉぉぉっ――!


 祐希たちへ届いていた歓声とは明らかに違う、毛色の異なる響きに彼女らは抱擁の手を解き、響きの源のほうへと視線を向けた。
 そこには金色に輝くチャンピオンベルトを両手で掲げ持った、小さな女性の姿があった。

「王座獲得おめでとう、ゆー。今夜の試合、ホント最高だったよ」

 小野坂ユカの突然のリングインに、祐希は信じられない!と驚きの表情をみせた。
 あの日道場で別れてから、今の今まで音信不通だったからだ。
 ユカも七海もいない今夜のホール大会、隙あらば忍び寄る不安を目一杯虚勢で撥ね退けトリを務めあげた祐希だったが、尊敬する大好きな先輩が目の前に現われたいま、新チャンピオンではなく只の後輩として、彼女に抱きつき嗚咽するしかなかった。

「ユカさぁん……正直怖かったです、心苦しかったです。でも、愛果がいてくれたおかげで何とか今夜を迎える事ができました。また逢えて嬉しいですぅ」

 ユカは抱きつく祐希の背中を撫でながら、彼女のすぐ傍にいる愛果の方をみた。
 視線に気付いた愛果はさっと涙を拭い外敵として振る舞おうと、ユカを指差して次回での一騎討ちをアピールするが、流した涙でぐしょ濡れになった顔ではまったく様にならない。

「……愛果ちゃんも、ゆーと一緒にウチの大会を盛り上げてくれてありがとうね」

 サムスアップをして愛果からの対戦要求にユカは応えてみせる。
 返事を貰った愛果は名残惜しそうな表情を浮かべながらも、ここは余所者の自分がいるべき場所じゃないと判断し、ユカに抱きつく祐希の肩を二三度叩き別れを告げると、観衆の温かい拍手に送られながら東都女子のリングを降りていった。


 もう、これ以上の幸せはない――
 ユカに自分の腰へチャンピオンベルトを付けてもらっている最中、祐希は本気でそう思った。
 だけどこれがプロレス人生の終着点ではない、あくまでも通過点である。
 今宵以上の刺激や幸福感を得るために、また明日から走り出さねばならない。
 でも今はこの幸せに浸っていたい。頑張ったご褒美として――



二十七

 数か月後――

 Tシャツと短パン姿の祐希はキャリーバッグを手に、午後に入って更に凶悪となった日差しを避けるべく、街路樹の木陰に隠れタクシー待ちをしていた。朝からもう三枚も着替えたというのに今着ているシャツの胸元辺りに早くも汗が滲んでいる。

 あー、早く冷房の入ったタクシーの中に入りたい。

 幾台と過ぎてゆく乗用車や単車を眺めながら、早く来てよと気を揉む祐希
 そして数分後、待ちに待ったタクシーが現われる。
 目の前で車扉ドアが開くと、彼女は一目散に座席へ乗り込んだ。

「はいお客さん、どちらまで?」

 祐希に行き先を尋ねる運転手。目的地を言おうと口を開いたその時――

「待って待って待って、わたしも一緒に乗せてって!」

 祐希と同じく、キャリーバッグを引っ張って駆けてくる女性の姿が。 
 愛果である。

「……お客さん、どうなさいます?」
「はい、相乗りで結構です」

 祐希はもぞもぞと尻を動かし奥の席へ移動し、後から来た愛果を車中へ入れる。

「それでお客さん方行き先はどちらまで?」

 運転手はもう一度祐希たちに行き先を尋ねる。ふたりは同じ目的地を彼に伝えた

「――倉庫街までお願いします」
「かしこまりました」

 ドアが閉まり静かにタクシーは発車した。

 

「何だよ。愛果もブッキングされてたのか、今日の《グロリアスガールズ》の興行に。全然知らなかったよ」
「えっ、ゆーちゃんツイッターとか見てないの? ちゃんとわたしの名前出てたよぉ」
「すみません……SNSとかに疎いもので」

 ふたりは今夜行われる新興女子プロレス団体・グロリアスガールズの大会にブッキングされていた。ここはまだ自前の選手は少なく、いつも他団体から数名選手を借りて対戦カードを組み、目的地である倉庫街の中にあるリング常設の小ホールで、月に二~三度興行を行っているのだった。

「どう、忙しい最近?」

 祐希は、ぼんやりと景色を眺めていた愛果に尋ねる。

「ん……あぁ、忙しいかって? まぁ実際たくさん試合は組まれているわね。試合順だって後になる事が多くなったし、他団体からの参戦オファーも増えたしで嬉しい限りよ」

 愛果はあの祐希との大熱戦の後、所属する太平洋女子プロレスのお偉いさんたちに実力を認められ、並み居る同期たちの中から頭ひとつ抜け出し今では《次期エース候補》として、現エースである水澤茜とタッグを組み、団体を担う者としての帝王学を直々に学んでいる最中であった。このまま順調に成長すれば確実に太平洋女子を代表する選手になるだろう――と、有識者やファンの間ではもっぱらの評判だ。

「でもゆーちゃん、残念だったね。もっと永くベルトを守れると思ってたのに」
「うん。ベルトは獲られちゃったけど、まだまだ射程圏内にあるから焦らずじっくりと狙っていくつもり」

 愛果の言葉通り、彼女と争われた王座決定戦を勝ち抜いて戴冠したプリンセス王座だったが、年明け早々のホール大会で行われた赤井七海との二度目の防衛戦で残念ながら負けてしまいタイトルを失っていたのだ。完全に癒えていない負傷箇所を集中的に狙われてしまい、化物じみたパワーが十分に発揮できなかったのが敗因だった。

 「王者にはまだ早すぎた」と厳しい発言も聞かれたが、あの時点で王者となれるポテンシャルを持つ選手は祐希以外存在しなかった。彼女がトップ不在の危機的状況だった東都女子をたったひとりで守ったのだ。だがユカや七海など名うての実力者がリングに復帰した今、短期間での王座移動も残念だが仕方のない事であった。
 だが祐希の顔には、ベルトを失ってしまった悔しさは見当たらない。そう、次に機会チャンスが廻ってくれば必ず獲れる絶対的な自信があるからだ。あの王座決定戦までの僅かな期間、そしてプリンセス王者であった数ケ月間が祐希を他の誰よりも成長させたのだ。


「あーバカンス取りたいっ! 海行きたいっ!……そう思うでしょゆーちゃんも?」
「何よ外国人みたいな事言っちゃって。どっちかというと私は部屋でゴロゴロ寝て過ごしたいな」
「マジか?! ホントにあんたって出不精なんだねぇ、最低」

 祐希たちふたりが、近況やプライベートの話をきゃーきゃー騒ぎながら話しているうちに、車は工場や倉庫に挟まれた狭い路地を入り、大型の倉庫のような黒い建物の前で停まった。

「今日の対戦カードだけど、ウチらタッグで当たるみたいよ?」
「ウソ? そーなの? 今日初めて聞いた」
「ちゃんとチェックしなよ、自分の仕事の話なんだから」

 目的地に着いても降りるどころか喧々囂々と喋り続ける彼女たちに、痺れを切らした運転手がとうとう強行介入した。

「……着きましたよ、お客さん方」

 穏やかに聞こえるが静かな怒りを感じる運転手の言葉に、我に返ったふたりはお喋りをぱっと止めようやく席から降り、後部トランクからコスチュームの入ったキャリーバッグを引っ張り出した。

 やれやれと厄介払いが出来たような表情の運転手は、建物の壁面に貼ってある今夜開催される《グロリアスガールズ》の興行ポスターに目をやった。

 そういえばこの場所で時々プロレスをやっているよなぁ――

 有名選手や団体ロゴなどの入ったTシャツを着た、プロレスファンらしき人物を時々ここまで運んでいた事を思いだした彼は、タクシーから離れ建物の中へ入ろうとしていた祐希たちに尋ねた。

「ちょっとお客さん方、女性なのにプロレス観戦だなんて珍しいねぇ。いま流行りの《プ女子》ってやつかい?」

 運転手から突然《プ女子》か?と言われたふたりは面食らい、そして爆笑した。

「《プ女子》か?と聞かれればそうなんだけど、ちょっと違うんだよなぁ。ねぇ?」

 愛果はそういうと祐希の方を向いた。

「そう。《プ女子》は《プ女子》でも私たちは観る方じゃなくて「やる方」なの」

 くいと顎を少し上げ、背筋を伸ばし胸を張って得意気な表情で、驚く運転手を見つめる祐希。

「こう見えてウチらはプロレスラーなのよ、おじさん――それじゃあアリガトね」


 《いい女》を気取って、意気揚々と尻を左右に振って歩いていく後ろ姿と、ポスターに掲載された彼女らのファイティングポーズを交互に見比べながら、運転手は呆けた面をしたまま建物の中へと消えていくまでしばらくの間、祐希と愛果の後を目で追うのだった。

                                                                          終


【女子プロレス小説】小さいだけじゃダメかしら? ~ASK HER!~ ⑦

2020年04月23日 | Novel

二十一

 都内では初めて雪が降るなど、今季で一番の寒さが訪れたこの日――

 半球型をした巨大なドーム式球場の隣りにある、《聖地》と呼ばれプロレス・格闘技ファンたちから親しまれている多目的ホールには、試合開始三十分前だというのに既に五百を超える人間が詰めかけ、あるものは自分が購入した座席で今夜の試合の予想を立て、またあるものは会場外の販売ブースでパンフレットなどのグッズや、休憩中や試合後に行われるツーショット撮影会の参加券を求め多くの列を作っていた。
 バルコニー席の縁には各々のファンたちが用意した、色彩豊かで個性的な横断幕が多数張られ否が応にも決戦ムードは盛り上がっていく。当然観客たちのお目当てはメインイベントである、東都女子プロレス認定プリンセス・オブ・メトロポリタン王座決定戦、日野祐希対愛果の一戦だ。

 《絶対王者》小野坂ユカが返上した【最強の証】を賭けて東都女子・太平洋女子、ふたつの団体から選ばれた次世代エース候補の両雄が、今宵「どちらが相手よりも優れているか?」を競うのだ。《女子プロレス》という底無し沼に浸かってしまったファンならば、絶対に避けては通れない一戦であろう。

 一刻、また一刻と近付く決戦の舞台を前に、観客たちは期待に胸を膨らませ、早くも爆発して散ってしまいそうな位だった。


 ふっ……ふっ……ふっ……


 規律正しい呼吸音が、ひとりだけの控室に響き渡る。
 バイプ椅子の上に脚を乗せ、両腕に負荷を掛けて腕立て伏せを延々と繰り返す、愛果の姿がそこにあった。

 試合開始二時間前に会場入りした愛果は、ずっと気持ちが昂ったままで落ち着かず、ホールの中をあてなく散歩したり控室で寝転がったりしてみたが、落ち着く気配はまるでなく結局、一番自然体でいられるトレーニングに辿り着いたのだった。

「――オーバーワークは身体に毒、よ。程々にしときなさい」

 椅子の上に手を置いたまま、身体を持ち上げ倒立をした途端、出入口の扉の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 太平洋女子のエースである水澤茜だ。
  私服姿から察するに、今日は団体側からの派遣ではなく、完全にプライベートでの来場のようだ。
 水澤の突然の訪問に驚いた愛果は、倒立のバランスを崩し椅子から落ちてしまうが、頭を床に激突させる事はなく、きれいに前転して自ら危険を回避した。たいしたバランス感覚だ。

「水澤先輩っ、何故ここにいるんです?!」
「陣中見舞いってところかな。あんた、試合前に疲れちゃったら元も子もないでしょうが」

 後輩の行動に思わず苦笑いをする水澤。かつては自分も同じような経験をしてきた故に、愛果の気持ちは痛い程よく判る。

「――落ち着かないんです、何かをしていないと」

 普段よりも大きな精神的重圧に呑み込まれ、不安で仕方がないといった様子の愛果に、水澤はやさしく肩を叩き椅子に座るように促した。

「判るわその気持ち。でもさ、東都女子ここで王座絡みの試合するのって二度目でしょ、それでもやっぱり緊張しちゃう?」

 部屋の天井を見上げて、緊張してしまう理由を一生懸命探し出す愛果。僅かな沈黙の後、結論の出た彼女は再び口を開く。

「最初の――タイトルマッチの時は王座戦自体初めてだったし、大会場でしかも《プロレスの達人》のユカさんが相手だったから、夢を見てるようで現実味が湧かなかったんです」

 愛果の屁理屈を、水澤は一切口を挟まずに黙って――口に微笑みを浮かべて聞いている。

「でも今日は違う、うまく説明できないけど違うんです。これが緊張せずにいられますかって!」

 熱弁を振るう愛果の顔は、言葉とは裏腹にどことなく嬉しそうだ。

「――いいライバルを持ったんだねぇ、愛果は。それじゃあ今日の試合、客席でじっくり楽しませてもらうわ」
「わ、わたしのベルト姿。絶対期待していて下さいね?」

 そう言うと腕に力こぶを作り、自信ありげな態度をみせる愛果。もう彼女の顔から不安は綺麗さっぱり消えていた。

 入門当時、何もできなかったあの娘がねぇ――

 自分の知らない所で勝手に成長し、すっかり頼もしくなった後輩の言葉につい笑ってしまう水澤であった。

 

 わぁ――

 女の子は初めて見る、プロレスの裏側に目を丸くして興奮する。

 基本関係者以外立ち入り厳禁である、選手控室へ特別に入室を許された祐希ファンの少女は、試合前で身支度に忙しく動き回る選手たちに戸惑いながら、祐希の状況説明を熱心に聞いていた。

「よっしゃあ!今日も勝って来るぞぉ」

 自分の出番がやって来た、祐希の同期である蒼井カンナが大声で叫び気合を入れると、扉をぶち壊さんばかりの勢いで飛び出していく。その後残っていた数名の選手たちも次々と部屋を後にし、いま控室に残っているのは祐希と少女のふたりだけとなった。

 少女は大好きな祐希と顔を見合わせる。緊張しているのが分かったのか、祐希は彼女に微笑みかけてリラックスさせようとする。

「どう、初めて見る控室の様子は。バタバタしていて色気もへったくれもないでしょ?」

 少女は何と言っていいのか分からず、ただ強張った笑顔で頷くだけだった。

「何で――」
「ん?」
「何でわたしを控室ここへ入れて下さったんですか? タイトルが懸かった大事な試合の前なんでしょ?」

 素朴かつ的確な、女の子からの質問を受けた祐希は片膝を付いて、彼女と同じ目線まで降りていくと独り言のように、ぽつりぽつりと語りだした。

「私の選手人生の中で、一番大きな勝負だからこそ、あなたに付いていて貰いたかったの」
「でも、わたしはそんな――」
「いいの。尊敬する先輩でも、仲のいい友達でもなく――最初に私のファンになってくれたあなたがいいの」

 口元には微笑みを、それでいて見つめる眼は真剣な祐希。少女は一瞬戸惑うが、自分の小さな手を握る彼女の手が、小刻みに震えているのに気付いた。

 ――日野選手もやっぱり怖いんだ。

 プロレスラー特有の虚勢を張る事なく、等身大の《日野祐希》を見せる彼女に、少女の胸の中で幼いながらも《母性愛》が芽生え出す。自分の掌を祐希の手の上に乗せて、念を送り込むように目を閉じた。

「ありがとう」

 少女の掌の甲に祐希は額を付け、彼女の放出するパワーを体内へ取り込んでいく。
 健気な少女の行動に、祐希の硬く縮んでいた心が次第に柔らかくなり、奥底に隠れていた自信が徐々に身体の中を満たす。今ならばどんな困難にも立ち向かえる――本気でそう思った。

「ひ、日野選手――」
「ゆーでいいよ。皆そう呼んでるから」
「ゆーさんは絶対勝ちます。だって、わたしが応援してるんだから」
「――そうだね。チャンピオンベルトを巻く姿、楽しみにしていてよ」

 ふたりは顔を見合わせ、にこりと笑った。

 控室の扉の向こう側から、廊下を忙しく駆け回る選手たちの靴音が響く――そろそろ自分の出番が近付いてきたようだ。 

 

二十二

 シックなスーツに身を包んだ女性リングアナウンサーが、厳かに――それでいて力強くメインエベントの開始を告げる。
 セミファイナルまで続いた熱戦の数々で、観客たちの集中力が途切れるかと思われたが、東都女子プロレスの未来を占う大事なこの一戦に、ファンたちの気持ちは醒めるどころか、桃色のキャンバスが張られたリングを見つめる視線は更に熱く燃え上がった。

 最初に観客の前へ、姿を見せたのは愛果だ。

 可愛くデザイン化された、自身の名前のプリントされたTシャツを着て、通路の両サイドにいる熱烈なファンたちにハイタッチする愛果の顔は、さっきまであった不安は嘘みたいに晴れて、今は迫る大一番が楽しみでしかたがない、といった様子だ。
 リングインしても、その笑みが顔から消える事はなく、リング下にいる太平洋女子の若手選手と二言三言会話をしたり、時折自分に飛んでくる声援に手を振って応えたりと、一秒たりとも止まる事がない。

 目一杯上がっていた口角が瞬時に下がる――対戦相手の入場曲が愛果の耳に入ったからだ。

 一方の祐希は腕を上げて、観客の呼び掛けには応えるものの、終始険しい表情を崩さずリング上の愛果から視線を逸らす事はなかった。大一番だからといって派手な入場コスチュームを着用せず、普段通り黒い大きなタオルを首に掛けただけの質素なものだが、内に秘めた並々ならぬ覚悟は十分に感じられた。
 スチール製の階段ステップを上がりリングインすると、観客の期待度は最高潮に達し様々な歓声がリングの中へ飛び込んで来る。いろいろな思惑を持った、千人近くの視線が一気に祐希へと注がれ、緊張と興奮で彼女の背筋がぶるっと震えた。

 

 この試合の勝者が手にする、東都女子プロレス認定プリンセス・オブ・メトロポリタン王座――通称プリンセス王座のチャンピオンベルトが、レフェリーによって両手で高々と掲げられる。
 桃色のベルト部分によく映える黄金色の台座が、己の存在を主張するかのようにきらりと耀きを放つと、観客の誰もが羨望の溜息をついた。

 東都女子の最高峰であるこのベルトの、眩いばかりの輝きに、愛果も祐希も息を飲む。

 握手を――と、レフェリーがコーナーで待機するふたりに促すと、どちらからともなくリング中央へ向かい微妙な距離間で歩みを止めた。

 しばらくの間両者は手を腰に当てたまま、じっと相手を見つめたまま動かない。

「――楽しいよね。ホール一杯のお客さんの前で王座決定戦、最高のシチュエーションだと思わない?」

 先に手を差し出したのは愛果だった。自信たっぷりな表情の彼女を見て、この決戦の舞台に立つに相応しいおんなである、と観客の誰もが認めた。

 相対する祐希はどうなのか?

 彼女もまた余計な力みの無い、満面の笑みをみせて愛果に手を差し出したのだった。この時点でふたりとも、団体のメンツや世代闘争など要らぬ重圧を背負う事なく、純粋に闘いを欲していた。

「最高だね。愛果は自分のステップアップの為、わたしは団体最強の証の為に――プリンセス王座は絶対に獲る!」
「ここまで来て、まだ文句を言ってくる奴がいたら?――」

 愛果が少し意地悪な質問をぶつけてみた。答えは分かってる――祐希の返答は実にシンプルだった。

「ぶっ飛ばす」

 互い同士額を付け、がっちりと固く握手を交わす。周りに笑顔が見えないように。

 頃合いを見てレフェリーがふたりを分けると、彼女らは奇襲をかける事も無く、黙ってくるりと背を向けコーナー付近まで下がっていく。


 カァァン――!


 試合の開始を告げる、ゴングの甲高い金属音が会場内に響き渡る。

 己に気合を入れるように、両者が同時にリングの床を強く踏み鳴らすと、一直線に相手に向かって駆け寄っていった。様子を見ながら周回しての接触コンタクト、という回りくどい方法をとらない所に、隠しきれないキャリアの浅さと共に、抑える事のできない相手に対する熱い想いが見てとれた。

 すかさずふたりは、がっちりとロックアップ――上腕二頭筋が隆起する。
 両者の身体は全く微動だにしないまま、リング中央で二分近くも時が流れていった。もちろん両者とも動けないわけではない、相手よりも先に退くのが嫌なのだ。
 だが均衡が破られる時が来た。パワーのある祐希が少しづつ愛果を前へ前へと押していく。一旦動いてしまった身体はどんなに下半身へ力を込めようと、もう止める事はできない。リングシューズが荒いキャンバスの上を滑り、ずるりずるりとロープ際まで運ばれてしまう。

 愛果の背中がリングを囲う黒いロープに触れると、レフェリーはすかさず祐希へ手を離すよう指示を出す。彼女は反則ファウルカウントが数えられても、なかなか愛果の身体から離れようとせず、五カウントが宣告される直前、レフェリーを嘲笑うかのようにさっと両手を離した――別れ際に愛果の胸を突いて。

 その直後、大きな破裂音が会場に響き渡った。

 激しい怒りの籠った強い音はそれまで、熱い声援を送り続けていた観客たちを一瞬で黙らせる。
 祐希の行為に腹を立てた愛果が、報復とばかりに彼女の頬を張ったのだ。

 突然の出来事に面食らった祐希だったが、すぐさまビンタを張り返しきちんと応戦する。闘争心が燃え上がった両者は、隙あらば相手の頬を撃ち抜かんと手を出し合い、早くも混戦模様となる。いちど冷静になれ、とふたりの間にレフェリーが捻じ込むように割って入るが、一度着火した彼女たちの気持ちは静まりそうにもなかった。

「ブレークっ! ふたりとも一旦離れるんだ!!」

 祐希と愛果を無理矢理に分け、レフェリーが怒鳴って注意をする。
 喧嘩まがいの攻防が試合開始早々に繰り広げられ、観客たちは彼女らの放つ狂気に当てられて大いにエキサイトした。

 

「おやっ……?」

 本部席に座っていた元川は、明らかに不審な入場客を発見する。

 丸縁サングラスに口まで覆ったニットのマフラー、それにミニマムな身体のサイズにまるで合っていないコート――常に周囲を気にし、行動に落ち着きがないその姿は不審者以外の何ものでもない。今までの所特に問題はないが、興行を安全に行う上アクシデントとなり得る芽は、早めに摘んでおかなければならない。そう考えた元川は席を立ち、足早と不審客の方に向かった。

 立ち見席でうろうろとする客に、刺激を与えないよう元川は穏やかに声を掛ける。

「ちょっとすみません、お客さ……ってお前?!」

 サングラスの隙間から覗く目に、もしや?と思った彼は、深く被ったニット帽を取り外すと見覚えのある栗色のショートヘアが現れた――小野坂ユカだ。
 正体のバレてしまったユカは、急いで元川の側から離れようとするが、長すぎるマフラーの端を掴まれてしまい、一定距離から先へは動けない。ならばと慌ててマフラーを外すも時既に遅し――男の腕力でがっちりと捕らえられたユカは、元川の誘導で本部席へと連行された。

 

「ユカ、こんな所で何してるんだよ! お前が話していたメキシコ行きはどうなったんだ?!」

 この大会の始まる一週間前、ユカは事務所で今後の予定を話している時に、前々から興味のあったメキシコへ、視察を兼ねた旅をしてみたいと言っていたのだ。就労ビザを取得していないので残念ながら試合は出来ないが、違った土地の違ったプロレスを観る事で、自分のプロレスの幅をもっと拡げてみよう――と。そんな話をしていたのにユカがまだ日本にいるので、元川が不思議がるのも当然の事だった。

 痛い所を突かれたユカは、ははは……と力なく笑うだけ。一体何があったのか?

「いや、今日搭乗予定だった飛行機なんだけどね。ちょっと寝坊しちゃってさ――フライトの時間に間に合わず乗り損ねちゃった」

 自分の意思で渡航中止を決めたならまだしも、寝過ごして強制キャンセルだとは――あまりの馬鹿馬鹿しさに、元川はつい声を荒げてしまう。もちろん周囲に配慮しながら。

「バ・カ・か・お前はっ!――でも、まぁ良かったよ。ユカがまだ日本にいてくれて」

 最後の本心の部分は、気付かれないよう小さく呟いた元川だったが、ユカがそれを聞き逃すはずがなかった。

「な・あ・に、聞こえないよぉ?」

 大きな声でわざと聞き返すユカに、気恥ずかしさの頂点に達した彼は、最初とは全く違う事を言って誤魔化す。

「祐希の晴れ姿を見れて良かったな、って言ったんだよ!」
「素直じゃないんだからぁ――まぁいいでしょ。そういう事にしておいてあげる」

 ニヤニヤしながらじっと、自分の顔を見つめるユカに元川はちょっと辟易し、彼女の小さな頭を鷲掴みしくるりとリングの方へ向ける。
 四角いジャングルの中では、祐希と愛果が激しい関節の取り合い、グラウンドでの攻防が繰り広げられていた。


二十三

「――どう思う、ユカ?」

 元川に意見を求められたユカは、じっとリング上のふたりの動きを目で追う。

 相手の腕や足関節を取ったり取られたりする、プロレスという競技を知らない者からすれば至って地味な攻防だが、最高のフィニッシュへと繋げるための大事な作業ゆえに疎かにはできない。

「青臭い――ね」
「おいおい当然だろう。奴等のキャリアから考えれば」

 彼女がふたりを馬鹿にしているものだと思い、元川は擁護に回るが実はそうではなかった。

「でもそれがいいの。余計な事を一切考えず、目の前の敵に向かって一直線に突き進む――今のあの娘らにしか出来ない、純粋ピュアなレスリング勝負。素敵じゃない」

 若さゆえ、場数の少なさゆえに一切のブレがない、きわめて馬鹿正直な闘い方にユカは好感を持ったようだ。

「仮にこの次、ふたりがシングルで闘ったら今のような純真さは無くなり、いろいろと策略を巡らしたりして手の内を温存しちゃうでしょうね。それはそれで面白いけど、今の彼女たちには似合わないよ」

 己の膝を支点にして愛果が、祐希の攻撃の源である腕を思いっきり拉いだ。呻き声と弓形に反った彼女の腕が隅々の観客たちにまで、自分の腕が折られんばかりの痛覚をダイレクトに伝達する。
 痛みに耐えながらも祐希は、愛果を乗せたまま身を引き摺って何とかロープを掴み、執拗な腕殺しから逃れる。
 だが痛めつけられていた腕は動かすのが困難で、彼女はひとつ武器を失う事となった。

 祐希の片腕を殺す事に成功した愛果は、ベルト戴冠までの道程を相手よりも一歩先んじたと感じたか、彼女に自分の得意技を仕掛ける合間に、絶妙のタイミングで弱点に攻撃を加え反撃するチャンスを与えない。腕殺しに警戒するあまり、集中力は掻き乱され、祐希は反撃の糸口も掴めずにいた。

 完全に愛果の術中にはまった。袋小路に追い詰められた今、ここから脱出するのは到底不可能な事のように思えた。
 だけど――やるしかない。東都女子最強の証であるプリンセス王座を腰に巻くために、そして何よりも目の前にいる最強の敵である愛果を打ち負かすために!


 うぉぉぉぉ!


 叫び声と共に、祐希は痛めている方の腕で、愛果の下顎へ肘打ちを抉るように叩き込む。通常時より攻撃力は落ちているかもしれないが、それでも体重差で何とかカバーできる。
 攻撃が顎に被弾した途端、愛果の意識はふわりと遠退いた。半分以下の威力しか出せないというのに何という衝撃インパクト――祐希のフィジカルの強さに彼女は舌を巻く。
 一発、もう一発と祐希は見えない壁をぶち破るかのように、思うように力の入らない腕を武器に前へ突き進んでいく。これに呼応するように愛果も負けじとエルボーバットで立ち向かう。
 序盤の息詰まるグラウンドの攻防から一転して乱打戦へと様相は急変した。
 ごつごつとした、原始的なリズムの単純な攻撃だが、洗練された現代プロレスにはない野蛮性に、観客たちは己の奥底で眠っていた野生の魂が反応し、血は滾り、感情は雄叫びとなって試合会場の中に轟いた。

 これこそがプロレスだよ――元川は沸き上がる興奮と感動で目を潤ませた。


二十四

 祐希の猛攻に何とか応戦している愛果だが、想定外の圧力に押され、次第に危機感を抱くようになった。

 こんなはずじゃ――アイツはマジで化物かよ?

 次の一発で絶対に、マットへ這いつくばらせる。愛果はそう覚悟を決め、大きく腕を振りかぶり祐希に目掛け、渾身の力で肘打ちを叩き込まんとする。

 きらりと祐希の目が輝いた。
 加速のついた愛果の肘打ちをぎりぎりで回避すると、体勢を整える隙を与えずに彼女の胴を両腕でロックし、地面から引き抜くようにバックドロップでキャンバスへ激しく叩き付けた。

 祐希の逆転劇に、大きくどよめく観客たち。
 本部席で観戦する元川もユカも、口を開けたまま放心状態となった。
 急角度で投げ落とされ、頭部を強打した愛果は、なかなか起き上がる事が出来ないでいた。一方の祐希も同じで、無理強いして腕を使ったために、患部から稲妻のように走る激痛に顔を歪め腰を落としたままであった。

 我に返ったユカは、机に置かれた記録用の時計を見る――既に試合開始から十五分を超えていた。闘いの女神は、どちらへ微笑むかをまだ決めかねているようだ。

 

 血液が流れる度に腕が疼く。患部は紫色に変色し、少し動かすのにも躊躇してしまうほどだった。バックドロップで引き寄せた勝負の流れも、追撃が出来なければ水の泡と化してしまう。祐希は額に汗を滲ませ己の身体と対話をする。

 動け、動けったらチクショウ――!

 動かない腕に檄を飛ばす祐希。ここまできて停滞は絶対に許されない。
 気持ちが焦れば焦るほど、注意は散漫となる悪循環へと陥っていく。

 突然どんっ、と押し出すような強い衝撃に襲われた祐希は、驚く間もなくふらふらとバランスを崩し、セカンドロープとサードロープの間からリングの外へ転落した。ダメージから回復した愛果が、彼女の背中へドロップキックを放ったのだ。
 彼女は睨みを利かせ、ぐるりと周りを見渡し観客たちを煽る。彼らも心得たもので次に披露されるであろう、愛果の美技をリクエストするかのように大きく響どよめいた。

 意を決し愛果は駆け出した――場外で朦朧としている祐希に向かって。
 ロープの間を難なく潜り抜け外へ飛び込むと、セカンドロープを掴んで更に自分の身体を加速させ、愛果は弓矢の如く一直線に祐希の胸元へアタックする。

 空中殺法の基本技ともいえるトペ・スイシーダが炸裂した。

 祐希は愛果もろともリングサイド席の中へ突き飛ばされる。
 周りにパイプ椅子が散乱する中、愛果は天井に向かい歓喜の雄叫びをあげ、観客たちもそれに反応し彼女の名をコールし続けた。
 レフェリーによって場外カウントが数えられる中、意気揚々とリングへ戻る愛果とは対照的に、大ダメージを負った祐希は床に仰向けになったままで、立ち上がる事ができない。

 慌ててセコンドの選手たちが駆け寄り、彼女の痛めている腕の患部にコールドスプレーを噴射し急速に冷却する。筋の隅々にまで染み渡るスプレーの効果で、腕の炎症が少しだけだが和らいだ。

 掌を数回握って力の入り具合をチェックする――若干肘や肩にかけて痛みは走るが、まだしばらく闘えそうだ。場外カウントが十を越えた辺りで、祐希はすくっと立ち上がり再びリングへと一直線に歩み出した。

 ロープ越しで待つ愛果の視線は、ずっと彼女を捕えて離さない。無論リング下の祐希だって同じだ。


 さぁ、続きを始めようじゃないか。

 時間はまだ十分にある。


【女子プロレス小説】小さいだけじゃダメかしら? ~ASK HER!~ ⑥

2020年04月18日 | Novel

十八

 はぁ、はぁ、はぁ――

 道場までの距離がこれほど遠く感じたのは初めてだった。一方的に焦る気持ちと身体がちぐはぐに感じ、もっと速く進めないのかと自分自身でもどかしくなる。
 困惑と怒りが入り雑じる祐希の気持ちとは裏腹に、まだ選手寮を出てから最初の角を曲がった場所だ。闇夜を青白い光でぼんやりと照らす街灯が、余計に彼女の中にある不安を煽っていく。
 ポケットに入れたままのスマートフォンには、元川代表からの着信履歴が何十件と刻まれていたが、祐希はそれをあえて無視する事にした。

 


 あなたたち二人で王座決定戦を行ってほしいの――


 これまで幾度となく、王座防衛を重ねてきた東都女子の顔・ユカの口から出た言葉に、ユカ打倒のために敵地へ意気込んでやって来た愛果の顔から血の気が引いた。
 自分は絶対に再び闘えるものだと信じていただけに、彼女の発言はとても信じ難いものだった。そして同時にユカが東都女子の王者としての責任から逃げたのだ、とも思った。
 愛果は隣に立っている祐希の方を見る。やはり祐希も驚きを隠せない様子だったが、外様の彼女とは違い、僅かだがユカのこの行動へ至るまでの前兆を見ていたせいもあって、愛果とは異なりある程度は納得しているところもあった。

「ユカさん、逃げるんですか? 自分が私より弱いって事を自覚して、この大事なプリンセス王座を放棄するんですか?!」

 納得がいかない愛果は、勘に触るような言葉を並べてユカを煽るが、逆にそれが後輩である祐希の逆鱗に触れてしまい、怒り心頭の彼女に胸ぐらを掴まれてしまう。その際に愛果の着ている、ブラウスのボタンが放物線を描いて弾け飛んだ。

「てめぇ……言っていい事と悪い事があるだろ! そんなにやりたいんだったらなぁ、今ここで潰してやってもいいんだぞ?」

 普段の温厚な彼女とは違い、完全に頭に血が上った祐希は「鬼」以外の何物でもなかった。殺気を周囲に振り撒き愛果へ怒鳴り散らす彼女を、あの七海でさえ羽交い絞めにするのがやっとで、いつまでも彼女を止める事が出来る自信はまるで無い。

「うるせぇ、下っ端は黙ってろ! 私はユカさんと話してんだ。お前じゃねぇよ」

 食って掛かる祐希のしつこさに愛果も遂にキレた。
 奥歯を噛み低く唸りながら、互いの髪の毛を掴んで睨み合うふたりの間に只事ではない空気が流れているのを感じ取った、周りにいる全ての選手が彼女らを分けようと、大慌てでリングの中へ雪崩れ込んだ。

 髪を掴んだまま、空いている方の手で頬を幾度と張り合う愛果と祐希。

「やんのか、コラ!」
「上等だ、やってやるよ!」

 人の波が左右へ交互に移動する。両者による乱戦がエスカレートしている様子だ。怒りで顔を真っ赤にして、腫れた頬へ更にビンタを張っていくふたりに、興奮した観客たちは贔屓の選手へ声援を送る始末だ。

 しばらく楽しそうにこの混乱ぶりを眺めていた、「事の発端」の張本人であるユカだったがそろそろ頃合いとみたのか、いがみ合う両者の間に入ると一発づつ、頭に血の昇ったふたりにビンタを張って気持ちを落ち着かせた。
 風船のように膨れ上がった頬のふたりは我に返ると、振り上げていた腕を静かに下げ、制止する選手たちの為すがままとなった。

「ふたりともやる気満々じゃん。よーし王座決定戦、これで決まりね。来月開催のホールのメイン、ふたりに任せたよ!」

 そういうとユカは、自分の関知しない所で物事が決められ怒り心頭となっている、元川代表がこちらへ向かって来るのを見て、慌ててリングから降り逃げるようにバックステージへと消えていった。

 リングに残された愛果と祐希、それに七海をはじめとする東都女子の面々は一連のユカの行動に対し、ぽかぁんと口を開けこの状況を受け入れざるを得なかった。

 

「何処へ行った、ユカは?!」

 元川が滅多に入らない選手控室へ飛び込んできた。
 皆既にリングコスチュームから私服へと着替え終わり、「選手の着替え中に代表が控室へ闖入!」などという某スポーツ紙の見出しになるような大事にはならなかったが、それよりも彼にとってはもっと大変な事態が起こっていた。

 小野坂ユカが試合会場から、黙って姿を消していたのだ。

 所在確認のため意を決して控室へ足を運んだものの、ユカが使用したと思われるロッカーには何も入っていなかった。彼はこの場に残っていた選手たちに尋ねてみるが誰一人としてユカの姿を見ていないという。着替えもせず試合用のコスチュームを着たまま、正規の通用口を通らずに会場から出ていったらしい。

「七海、ユカの居そうな場所を知らないか?」

 元川は同期で一番の親友である七海に尋ねる。しかし実際に居場所を知らない彼女は、「わかりません」と答えるしかない。七海自身も、先にバックステージへと消えたユカが、控室で待っているものだと思っていたからだ。それを聞いて元川は残念そうに溜息をつく。

「七海、ユカって携帯の番号はひとつだったよな? 俺のアドレス帳に登録されている番号を、さっきから何度も掛けているんだが全く繋がらないんだ――ったく、何処へ行ったんだよ」

 普段は滅多に怒りを顕にする事の無い元川が、控室の空気を通して手に取るように七海たちにも伝わってくる。彼の怒りは仕事上の問題などではなく、ユカとの意志疎通が出来ない苛立ちから来ていた。元川も事前に彼女から「タイトル返上からの王座決定戦開催」を聞かされていれば何の問題はなかった。だがチャンピオンであるユカが勝手に王座を放り出してしまい、王座決定戦開催をアナウンスしてしまっては完全な職務怠慢である、というのが彼の考えだった。

 元川が話す《興行会社の理論》はある程度理解を示していた七海であったが、どうしてもユカ本人の気持ちが気になって仕方がない。

「それで――ユカを見つけてどうするつもりなんですか?」
「決まってるだろ。 厳重注意に減俸だよ!自分勝手な行動がどれだけ会社に迷惑をかけているかって事を、イヤって程教え込まなきゃならん!」

 自分の思い通りにならず激昂し続ける、元川の姿に七海は幻滅し、団体を愛する気持ちで共に結ばれていた筈だった互いの、心の距離もどんどん離れていく。

「ユカがそこまでした理由って、元川さんにも原因があるんじゃないですか? 理由を言わなきゃわたし達、絶対に動きませんから」

 強い口調で楯突いた七海――元川の顔色が変わった。

 愛すべき団体も当然大切だが、やはり親友であるユカの事が最優先事項なのだ。

 それまで同志だと思っていた七海からの予期せぬ反撃に、それまで控室の中を威圧していた彼の気が、波のように徐々に退いていくのが明らかに感じられた。
 いくら隠し通そうとしても、ユカと何かあった事は隠し切れなかったようだ。
 だが彼女たちにその理由を話す事は男の意地として、最後まで避け通そうとする。目は宙を泳ぎ、真っ赤な顔をしてぶるぶると身体を震わせる、元川の姿をみて七海はちょっと可愛いな、と不謹慎ではあるがそう思った。

「ユカと俺との間に個人的な問題があるのは事実だが、今ここで全てを話す事はできない。ただ、心底彼女の身を案じている事だけは信じてくれ。心配なんだ。頼む……みんなで、ユカを捜してほしい」

 それまでの高圧的な姿とは違い、深く頭を下げ小さく声を震わせて、すがるような態度で選手たちに懇願する元川の姿に誰も言葉を発する事が出来ず、控室の中は時が止まったかのように静寂が支配する――そして数秒後、重い空気を払拭するような活気に満ちた乾いた音が響き渡った。

 七海が両手を叩いて祐希をはじめ、残っている選手たちに注意を促したのだ。

「……聞いたよね? 一刻も早くみんなでユカを捜し出すのよ。とりあえず今の所は理由は聞かないでおくわ、どうせユカが後から喋ってくれるだろうし」

 彼女は悪戯っぽい笑顔で元川の方へ目配せをするが、顔いっぱいに冷汗をかいて俯いたままの彼には、七海にいつも通りの強気な返事で応える元気も無い。選手たちはユカの居場所を探し出すべく、呆然と立ちすくむ元川を尻目に次々と控室から出ていった。


十九

 文字にできない、様々な雑音がいつ止む事もなく飛び交う街の中、祐希は懸命になって歩き回る。
 飲食店に本屋、そしてマンガ喫茶――祐希は以前、ユカに連れて行ってもらった場所や、彼女なら行きそうな場所を重点的に捜索する。しかし思い当たる場所へ足を運ぶものの全て空振りに終わり、依然ユカの居場所を発見する事が出来ないでいた。それは他の仲間たちも同じで、時折スマートフォンに入ってくる七海からの電話で分かった。

 一見穏やかだが、言葉の端々に苛立ちを滲ませる七海の声。それが祐希にとってはとても心苦しかった。

 この眠らない街の中で、一体ユカはどこにいるのだろう?

 もしかしたら、我々のこの滑稽な姿をどこか温かい場所で見ていて、ほくそ笑んでいるのかもしれない――己の内なる声に不安や懐疑、怒りが次々と沸いてくる。そんなマイナスの感情に囚われてしまう事を恐れ、祐希は冷静さを保とうと必死になって早足で雑踏の中を駆けていく。

 約一時間程繁華街を散策してみたものの、ユカ発見へと繋がる成果も進展もなかった祐希は、仕切り直しとばかりに一旦寮へ戻ってみた。

 誰もいない大きなダイニングルーム――
 普段ならば誰かしらがここにいて、練習でどんなに疲れていても明るい笑顔で迎えてくれる。そんな環の中心にいたのが小野坂ユカであった。薄暗い蛍光灯が照らす青白い光の下、テーブルに頬杖を付きながら祐希は、鳴りもしないスマートフォンを眺め此処にはいない彼女の事を思っていた。

 ――何処にいるんですか、ユカさん?

 色々な想いが頭を過り、ふと感傷的センチメンタルな気分に浸っていたその時、テーブル上のスマートフォンが着信音を撒き散らして激しく機体を震わせる。液晶画面に現れた発信者の名は祐希や、東都女子のみんなが待ち望んでいたそのひとであった。

「ユカさんっ! 今何処にいるんですか?!」

 恫喝するかの勢いで居場所を聞き出そうとする祐希。しかしスピーカーからは呼吸音は聞こえども未だに彼女からの返事はない。
 スマートフォン越しに長い沈黙が続く。
 祐希がしびれを切らせ、苛立ちをぶち撒けようとした瞬間、ユカからの返事が耳へ飛び込んできた。

「道場……あなただけには、ちゃんと話をしたいと思ってるの」

 ユカの真っ直ぐな――はっきりとした声調に、これは只事ではないと感じ取った祐希は、すぐに向かいますと短く答えると、スマートフォンを尻のポケットへねじ込み急いで寮を飛び出していった。

 

 東都女子の道場までは選手寮から歩いて約十分。普段ならば慣れもあってか然程距離を感じた事はなかったが、気が動転しているこの状態では実際の時間よりも長く遠く思える。不自然に呼吸が上がり足も縺れながらも祐希は何とか小ビルの一階にあるトレーニング施設――東都女子プロレス道場へとたどり着いた。

 この時間には閉まっている筈のガラス扉の鍵が開いている。
 鍵を管理しているのは団体代表である元川だが、きっとユカが事務所から黙って拝借したのだろう。中扉の隙間からは室内照明の光が漏れていて、彼女はこの中に居ると思うと祐希は何時になく緊張する。
 ゆっくりと引き戸である中扉を開けていくと、普段祐希自身が目にする光景が目の前に広がった。綺麗に磨かれたウエイトトレーニング器具に真っ白な練習用のリング、そしてその中には――小野坂ユカが立っていた。
 白いニットのセーターにデニム地のセミロングスカートという、見た目によく似合った幼い格好だ。
 もっとバツが悪そうに、申し訳なさそうな表情をしているのかと思ったが、自分の胸の内でここ数日間抱えていたモヤモヤを全て清算できたのか、きわめて穏やかな笑顔でユカは祐希の方を見つめる。

「ここを――東都女子を辞めちゃうんですか、ユカさん?」

 誘導尋問などという、回りくどい質問の仕方が出来ない祐希は一番聞きたい質問を、そのままユカへぶつけてみた。

「辞めないよ。ただ少しの間リングから離れたいだけ」

 東都女子らしさの象徴(アイコン)である彼女から出た弱気な発言。
 小野坂ユカらしからぬ返事に「信じられない」と云わんばかりな表情をする祐希は、彼女の両肩をがしっと掴み左右に振った。だがユカの身体は祐希のなすがまま、柳のように揺れるだけで抗う気配すらない。

 ユカの《休場》への決意が固いのを悟った祐希は、そっと彼女の両肩から手を離した。最大の理解者が自分の側からいなくなる、という寂しさが波のように心へ押し寄せてくる。

「やっぱりさ――団体の象徴、なんて大それたポジション、小さなわたしには似合わないんだよねぇ」
「何バカな事を! そんな自信のない事言わないで下さい」
「七海の後を継いで、このプリンセス王座のベルトを腰に巻いてみたけど、無責任の塊のようなわたしにゃ荷が重すぎたわ」

 明るい口調ではあるが、ユカの口から弱気な言葉が次々と飛び出す。

 普段ならば言い訳だと捉えられてもおかしくない内容だが、この特殊な環境下では彼女自身の心の叫びと受け取るのが自然であろう。とにかくユカの精神状態は限界まで疲労していたのだ。

「――あの時、事務所で元川さんと喧嘩していたのは」
「そう。“三ヶ月休ませて欲しい”って駄々こねたんだけどやっぱりね、メインエベンターが抜けたら困るって正論翳されて。いま東都女子も上り調子だしさ、彼の言ってる事も分かるのよ、旗揚げ当初からの付き合いだしね」
「――――」
「だけどこっちだって慣れないエース役に四苦八苦しながらも、次代のメインエベンターたちを育成してきたのに何の見返りもない。これって不公平だと思わない、ねぇ?」

 絶対の信頼が置ける可愛い後輩、だからだろう。祐希を前にユカは一方的に理由を捲し立てた。それはどれも祐希にとっては合点のいくものだったが、一方で何かひとつパズルの欠片が足りないようにも感じた。

「ユカさん、いちばん大事な事を隠してません?」
「何をよ」

 祐希からの質問に、ユカは不機嫌な顔をする。

「休みたい理由ですよ。口では相手の事を誉めてましたけど、あの時愛果の奴に大苦戦して“今のわたしじゃ敵わない”とショックを受けたからじゃないですか?」

 ――――!?

 彼女の顔色が瞬時に変わった。

 これまで誰にも言わず、ぐっと胸の奥底に閉じ込めていた苦い思い――それを祐希から指摘されたユカの瞳からは、ずっと隠していた悔しさや自分の不甲斐なさが、涙へと形を変えて止めどなく溢れだした。

 どんっ!

 至近距離からのユカの体当りが、祐希の分厚い身体へ衝突する。
 衝動的に仕掛けたのだろう、体重差を考慮すれば相手が絶対に倒れる筈のないこの技を、祐希は抗う事もせずリングの上へふたり一緒に倒れた。

 マットに背を付け仰向けの体勢で、自分の上に乗っているユカを眺めみる祐希。リングコスチュームではなく普段着の彼女が、馬乗りになっている姿はとても不自然に映った。

「ゆーの言う通りよ。愛果はわたし以上にプロレスの天才。もしわたしが彼女より場数を踏んでなかったら、確実にあのベルトは獲られていたに違いない――悔しい、もの凄く悔しいっ!」

 東都女子いちの《プロレスの達人》と称されるユカが、キャリア三年未満の歳下の選手に嫉妬する姿は異様にみえた。だが自分自身に厳しく、レスリングに対する向上心を常に持つ彼女ならば、それも十分にあり得るとも祐希は思った。

「だけどさ――それが当たり前なんだよね。対抗馬もなくいつまでも、トップランナーでいる事なんて絶対にあり得ない。似たような技能や個性を持った娘が現れて必ず自分のポジションを脅かしに来る、それがプロレスってもんなのよ」

 身体の上にのし掛かられ、身動きの取れない祐希は黙ってユカの《プロレス論》を聞く他はない。
 思えば彼女がここまで自分の意見を一生懸命に、他人に説いた事があっただろうか?――少なくとも自分の同期や直近の先輩へ、バカ話はすれどもユカが講義したという話を聞いた事がなかった。

「一度弱気になった王者は、もう同じ相手とは二度も勝利はできない。会社はリターンマッチを組みたがっていたけどもう御免だった。若い愛果に負けるのが嫌、とかじゃなくて前と同じ――それ以上の試合を見せる事が、今のわたしじゃ出来ないと判断したから」

 マットに背中を付け、下になっている祐希を押さえる両腕につい力が入る。

「それでユカさん――元川代表に内緒で私と愛果との《王座決定戦》を決めちゃって、怒られる前に会場から逃走したと」

 暫くの間言葉が止まる――道場の中では備え付けの自販機が、低いモーター音をたてて唸っている。

「――ホント言うとね、もうどうしていいのか分からないの。会場を飛び出してそのままトンズラしちゃおうか? とも思ったけど、あの人に何も伝えず行っちゃったら大事になるに決まってるし」

 困り果て疲れ切ったようなユカの表情。
 散々駄々をこねて爆発した子供のように、全てを放り投げ衝動的に逃げ出したはいいが、時が経ち冷静になるとやはり会社や残された選手たちの事が気になってしまう。そんなユカに祐希は優しく、そして的確な言葉をかけた。

「もっと自由に生きてくださいよ、わがままでいいんです。ユカさんが休んでいる間は、私たちや七海さんとでフォローしますから――あ、でも今日の事は元川さんにきちんと謝っておいた方がいいですよ?」

 祐希の両肩が急に軽くなる。それまで彼女の身体を強く押さえ付けていた、ユカの腕から力が抜けたのだ。自暴自棄になり混乱気味だった彼女の気持ちの中で、ようやく整理がついたようである。

 突如、ごそりと壁の向こうで物音がした。

 ユカと祐希は立ちあがり、恐る恐る音が聞こえた方向へ顔を向けると、そこには見慣れた顔が腕組みして立っていた――赤井七海であった。

「もしかしたら――と思って頃合いを見て来てみたけど、やっぱり此処にいたのね。もうちょっと逃亡場所の選択肢は無いの?アンタって娘は」

 チクリと憎まれ口を叩きつつも、ようやくユカに会えた喜びで笑みをみせる七海。そんな彼女にユカは、何を喋っていいものか言いあぐねていた。

「えーっと、あの……心配させてごめん」

 迷惑を掛けた申し訳なさと長年の付き合いから来る照れ臭さで、暫くの間をおきユカは下を向いて、最低限の謝罪の言葉をようやく口にした。

 ぎゅっ――

 何も言わず七海はユカを、胸元へ引き寄せると優しくも力強く抱擁をした。
 その姿はまるで、行方不明になっていたペットを、安全無事に保護できた飼い主のように見える。
 ユカは頬を赤らめ彼女の腕の中で為すがままとなっていた。
 突然目の前で、繰り広げられた百合的な光景に唖然とする祐希。

「ユカが無事でホント良かった。私が一緒に付いていって元川の奴ととことん話し合うから、あなたは心配する事はないのよ」

 普段祐希や、他の選手たちにみせるクールなイメージとは違う、甘ったるくで乙女ちっくな七海の態度――どれ程ユカとの親密度が高いのかが一目瞭然だ。祐希は自分とふたりとの間に、決して乗り越えられない壁を感じて思わず後退りをしてしまう。

「な、七海さん。いつから……ここに?」

 七海は決して動じる事なく、胸元へユカの顔を埋めさせたまま祐希の方を向いた。

「そうねぇ――ゆーがユカに押し倒されていた時から、かな」

 ――それってほぼ最初からじゃない!

 ユカに無理矢理マットに寝かされて、まるで漫画みたいにイケメン男子から強引に身体の自由を奪われるが如く、上から押さえ付けられていた姿を思い出し祐希は、急に恥ずかしくなって赤面する。

「さぁユカ、早速今から一緒に事務所に行きましょ。えっ、この時間に開いてるのかって? ふん、元川の奴がわたしたちの到着を首を長くして待ってるわ」

 七海はそう言うと、幼子のようなユカの手を引きリングを降りていった。
 ユカは一度だけちらりと祐希の方を振り返ったが、その後は二度と視線を合わせる事無く親友の誘導に従って道場を後にした。この急転直下な終結に祐希は呆気に取られ、疲れがどっと身体に重く圧し掛かるのであった。

 

二十

「――ふぅん、そんな事があったんだ」

 鉛色の寒空の元、温かい缶コーヒーを飲む手を止め、非常階段の手摺にもたれ掛かる祐希に、愛果が話しかけると彼女からは「うん」と短い返事がかえってきた。

 前回の大会では、セコンドを巻き込んでの大乱闘を繰り広げたふたりだったが、そこは同年代で似たような立場のふたり。台本(ブック)ではない本気の喧嘩を観客の前で行った結果、すっかり打ち解けて意気投合してしまったのであった。

 

 結局、その夜を徹して行われた元川代表とユカ(と七海)との話し合いによって、正式に東都女子の至宝であるプリンセス王座の決定戦が決まり、晴れて?ユカは王座を降りる事となった。だが彼女の方も「著しく団体の和を乱した」として、半年間の出場停止という制裁を課せられてしまうが、これはユカにとって願ったり叶ったりのペナルティーで、やや強引ではあるがこうして、ユカの要望はほぼ受理されたのであった。

 祐希と愛果は、一週間後にホールで開催されるプリンセス王座決定戦の、公開調印式のため東都女子プロレス事務所に来ていた。
 事務所の一角に設けられた会見場で、マスコミ各社が派遣する記者やカメラマンたちの前、この試合に賭ける情熱を競い合うかのようにふたりは、殺気立つ睨み合いや辛辣な舌戦などを繰り広げ、時には力強く時には可憐なポーズをカメラマンの注文に応じて撮影させるなど、来るべき王座戦へのプロモーション活動を行った。

 生真面目な性格の祐希からすれば、かなり大胆とも言える行動であるが、会見場の中に本来なら存在すべき人物――小野坂ユカが自分の側にいない事が、苦手だったプロモーション活動を積極的に行うきっかけとなっていた。普段なら自分をヘルプしてくれる、ユカの《参謀役》というべき先輩の七海もこの場にはおらず、いずれ来るであろう東都女子のトップふたり無き後のシミュレーションとも言えた。


「――絶対的なエースであった小野坂選手の欠けた穴を、キャリアのまだ浅いあなた方ふたりは埋められると思いますか?」

 チャンピオンベルトを持つ元川を中心に挟み記念撮影をしている最中、ある記者から少し意地悪な質問が投げ掛けられた。

 一般的な女子プロレスファンたちの認識では、東都女子=小野坂ユカ&赤井七海、が大多数であるなか、今度のホール大会はそのユカは欠場、七海もメインを降格という圧倒的不利な状況に加え、目の肥えたファンたちからは注目を集めているがまだ、キャリア三年以下である東都女子・太平洋女子の《将来のエース候補》である愛果と日野祐希によるメインエベント、しかも団体の至宝を賭けて争われる王座決定戦という箔まで付いてしまったこの試合に、不安視をしない認識者などはいないだろう。この場に居る誰もが思っている不安要素をぶつけられた、祐希の返答に注目が集まった。

「確かに――不安が無いと云えば嘘になります。今までこの団体を築き支えてくれた偉大な先輩方が、自分の試合の後に出てこない事に心細さを正直感じます」

 祐希の発言に、少数の記者たちから蔑むような笑みが溢れたのを、愛果は見逃さなかった。
 お前たちじゃ無理だ、失敗するに決まっている――そんな声が聞こえてきそうで、肚の底から込み上げてくる怒りをぐっと堪え、彼女の発言の続きを待った。

「だけど、これが現実なんです。やれるかやれないか? ではなく、わたしたちでやるんです! ユカと七海さんの時代だっていつまでも永遠に続くわけじゃない。だったらわたしたち下の世代が彼女らがいなくなった後の、リング上の景色を描いていかなきゃいけないじゃないですか。そんな東都女子の《未来予想図》のひとつが今度のホール大会なんです! 絶対に観る人の期待は裏切りません、これまで以上に楽しく激しいプロレスを見せていきますので、応援の程どうぞよろしくお願いします!!」

 はっきりと、力強く自分の思いの丈をこの会見場にいるマスコミ陣、更に質問をしてきた記者に向け、語り終えた祐希は深々と一礼をした。
 自己アピールが下手で引っ込み思案なあの祐希が、ここまで熱くPRする姿をみて元川はもとより、彼女を知る記者たちは思わず面食らってしまう。そして数秒間の沈黙の後――彼女のスピーチに心打たれた全ての人から応援や激賞の拍手が送られた。

 信じられない光景に目頭の熱くなった元川は「よくやった」と云わんばかりに、隣にいる祐希の脇腹を肘で軽く突く。ちくっと刺すような痛みに身体を捩らせながらも彼女も嬉しそうに笑った。

 

「あんた、やっぱり強いよ。あの重圧の中でよく堂々と、あんな大それた事を言えるよね。実はさ――わたしもちょっと感動した」

 記者会見終了後、愛果はふたりきりで話したくなって、祐希を事務所のあるフロアの外に設置されている非常階段へ誘った。
 途中で廊下にある自販機で缶コーヒーを2本買い、強めの北風が吹き抜ける非常階段の踊り場に着くや、祐希にそれを投げ渡す。
 踊り場を囲む手摺に彼女たちは並んでもたれ掛かり、コーヒーを飲みながらいろいろと話をした。己の近況や互いの団体事情、そして一番大好きなプロレスの事も。

 数ケ月前のビッグマッチで、小野坂ユカのプリンセス王座防衛戦の相手に彼女が選ばれるまで、愛果の存在を知らなかった祐希はこの場で初めて、情報などに惑わされない正確な彼女の性格やプロレス観などを知り、同じく愛果もゴツゴツとした身体からは想像できなかった、ぼっち気質な性格を知って親近感を抱くなど、お互いにとって実に有意義な時間であった。

「他の所はどうか知らないけど、東都女子うちはマジでユカさんと七海さんの二本柱で持っている零細団体なの。だけど――誰だか知らない奴に、本当の事を面向かって言われるとムカつくじゃん? だから一発カマしてやったのよ」

 祐希の、如何にも不機嫌そうな表情と大胆な発言に愛果は大笑いする。それと同時に「自分が団体を守っているんだ」という責任感を、直に感じて羨ましくも思った。

「いいな、そういうの。ウチなんて選手層が厚くわたしら中堅には陽が当たらなくて。でもその代り、練習する時間はたっぷりあるし、外の団体へ軽々と出ていける自由もあるわ――リングの下でセミやメインの試合を見る度に、『いつか見てろよ、すぐにそこまで昇り詰めてやるからな』なんて思ってる。そういうのっておかしい?」

 祐希は首を横に振って、彼女の意見を肯定した。

「全然! 愛果は正しいよ。やっぱり私らって闘う運命にあったんだよ。こんなに気持ちが通じ合う相手なんてそうそういないもん」
「何だか、ユカさんの掌の上で踊らされているような気がするけど……やっぱこれも運命なのかもね、わたしのレスラー人生の最初の転機として」

 全て悟ったような愛果の顔がおかしくて、笑いながらぱんぱんと彼女の背中を叩く祐希。

「じゃあベルトを獲るのは愛果か私か――勝負ね」

 どちらも自信に満ちた表情のふたり。

 顔を見合わせると今日一番の大きな声で笑い合った。


【女子プロレス小説】小さいだけじゃダメかしら? ~ASK HER!~ ⑤

2020年04月16日 | Novel

十五

 火照った頬に当たる、冷たい空気が心地良く感じる季節――

 目の前の見慣れた風景が、脚を動かす度にどんどん後ろへ遠ざかっていく。
  家も電柱も街路樹も、そして趣味や健康維持のために同じコースを走っている顔見知りのランナーたちも。
 全てを遙か彼方へと置きざりにし、風のように疾走する祐希。頭の中は真っ新となり、リズムを刻む自分の靴音と呼吸音が耳に入ってくるだけだ。いわば《無》の状態――彼女はこの瞬間がたまらなく好きだった。

 退院してから既に二か月を過ぎようとしていた。
 腹部の縫合跡は若干気になるが痛みも無く、彼女の体調は傷を負う以前の状態に戻り、欠場中に溜まった鬱憤を晴らすかのように基礎練はもちろん、ウエイトトレーニングやリングでのスパーリングにもつい熱が入り、やり過ぎだとみると傍にいるユカや七海から注意が即座に飛ぶ。

「焦らないでゆー。遅れを取り戻したい気持ちはわかるけど、怪我したら元も子もないからね。着実に行こう」

 長いプロレス人生の中で酸いも甘いも噛み分けたふたりの先輩。怪我による欠場から己の体調を回復させる術も、それぞれに一家言を持っているに違いない。祐希はそんなありがたい先輩たちのお小言に感謝しつつも、少しばかり過保護すぎやしないか? と正直うんざりしていた。その結果、外へ出ていく回数も自然と増えていく。道場の中はともかく、走っている時だけは誰にも束縛されず自由を感じるからだ。

 回数が増えれば走る距離も延びていく。
 調子が良ければ脚の速度をあげ、疲れると走るペースを落としたりの繰り返しで、よくボクサーや格闘家がスタミナや足腰強化のために行う本格的なロードワークというよりは、一般の人が健康維持のために行うジョギングに近いもので、散歩の延長と言ってもいい。道場では密度の濃いフィジカルトレーニングを2~3時間ほど行った後に、気分転換として近所を走ってくるといった感じだ。

 銀色の特急列車が重厚な音を響かせ、川の上に架けられている鉄橋を走り抜けていく。

 祐希はすっかり色の抜け落ちた土手の芝生へ腰を下ろし、来る途中に自販機で買った、スポーツドリンクのキャップを捻って乾いた喉へ流し込んだ。有酸素運動による新陳代謝で熱を放ち続ける身体に、冷たい液体が隅々まで染み渡って一気にクールダウンさせる。その心地良さに彼女は「はぁ~っ」と幸せそうに吐息を漏らした。
 突き抜けるような空の青さが心地良い、冬の足音が近付いている秋の昼下がり。
 祐希は眼下に映る穏やかな川の水面を、そして河川敷のグラウンドで行われている、中学校の野球部の練習の様子などを何気なく眺めた。

 周りの時間が緩やかに流れ、時折吹く冷たい風が顔の側を掠めていく。

 このリラックスした空気に祐希の表情も柔らかくなる。
 野球部員の発す掛け声や、白球を叩く金属バットの高い音がヒーリングミュージックの如く、日々の練習や寮での日常生活などで積もったストレスが彼女から取り除いていく。いつしか祐希は初めて東都女子の道場があるこの街へ――使い古した大きなスポーツバッグを手に、大きな期待と若干の不安を胸にここへやって来た時の事を思い出していた。

 いま考えれば後先考えずに随分と冒険したな、と思うけれど取り敢えず一歩でも、前に踏み出さなければ《プロレスラー》なんて夢のまた夢。
 もしかしたら地元で部活の顧問の伝手によって、企業に就職か整体師の道へ進んでいたかもしれない。
 それはそれで素晴らしい生き方だけど、卒業によって行き場の失った闘争心を満足させるには、様々な競技会や四年に一度のオリンピックではなく、月に何度も試合のあるプロレスでなければならなかった。だからいくら身体がキツいと溢しても心の充実感は半端ではなく、他の何物にも変えられない。

 なりたかったものになれた幸せ――祐希の心の中は幸福感で満たされていた。

 河川敷のグラウンドでは試合形式の練習が始まり、先輩らしき大柄の部員がまだ幼ささが残る顔のピッチャーが投げた直球ストレートを見事に捉え、白球は高く遠くへと飛んでいく。本塁打ホームランと思われた打球だったが、守備の必死の頑張りでどうにか二塁打に止める事に成功する。祐希は興奮のあまり思わず芝生から立ち上り歓声をあげた。

「ここで何してるのよ、ゆー?」

 聞き覚えのある声が祐希の耳へ飛び込んだ。

 彼女は首を回して後ろを見ると、寮の持ち物である古い自転車に乗っている、同期の蒼井カンナの姿があった。
 以前は嫉妬剥き出しの試合を祐希と行った事もあったが、今では互いの実力を深く認め合いプロレスラーとしても、また友人としても極めて良好な関係を築いていた。

「何ってカンナ……ロードワークよ。見てわからない?」
「どう頑張ってみても、サボッているようにしか見えないんですけどねぇ」

 カンナのひと言に一瞬、ふたりの間の空気が凍り付く。
 だが強張っている彼女らの表情もすぐに緩み出し、真面目くさって顔を合わせているのも馬鹿らしくなって、どちらからともなく笑い声が口から零れ出た。

 ひとしきりふたりで笑い合うと、大きく深呼吸してまたカンナが話し出す。

「ま、息抜きしたくなる気持ちも分からなくはないけど。終始あの先輩たちが付きっ切りじゃ……ね」

 祐希は敢えて返事こそしなかったが、その顔に貼り付いた薄ら笑いだけで全てが理解できた。

「カンナは夕飯の買い出し?」
「そう。当番の先輩から食材が足りないから、って買いに走らされていた所」

 そういってカンナが荷物カゴに入っている、野菜や肉などでぱんぱんに膨らんだレジ袋を指差した。材料から察するに今夜は鍋物のようである。

「そういえばもうすぐだなぁ、私の食事当番」
「マジ、ゆー? 今度はもうちょっとマシに作れよな」
「カレーライスなら、みんな大丈夫だと思ったんだけど」
「余分にスパイス入れ過ぎ! 下手さ加減にも程があるわ」

 青かった空には朱色が差し始めていた。

 周りに甲高く大きな笑い声を響かせて祐希とカンナは、寮のある方角へ来た時とは逆に、ふたり並んで真っ直ぐな土手道をゆっくりと歩いていった。

 

十六

 道場に設置されているリングの上では、年上の先輩レスラーが弱り顔をしていた――ここは太平洋女子プロレスの道場。三階に団体事務所が入っている五階建ての青い小ビルの二階部分に、普段所属選手たちが汗を流す練習場所がある。

 仰向けになって胸を上下させ、汗で顔をぐちゃぐちゃにしながらも闘志剥き出しの瞳で、リングから去ろうと腰をあげる先輩を睨みつけ、絞り出すように声を出し呼び止めようとする愛果の姿がそこにあった。

「まだです……もう一本お願いします!」

 もう何度もスパーリングをしたのだろう。彼女のピンク色の練習着は縒れてボロボロになっており、所々解れている箇所もある。相当自分を追い込んでいるのだろう。しかし相手をさせられる選手は堪ったものではなく、愛果の諦めの悪さに辟易としていた。

「どうした、何があったの?」

 騒ぎを見かねて太平洋女子のトップ選手である、水澤茜(みずさわ あかね)がマシントレーニングを中断してリングへ飛び込んできた。
 彼女が愛果とのスパーリングを拒んだ選手の方を見るも、本人は首を振り肩を竦めて「分からない」とボディランゲージで答えるだけだった。
 
 リングの上に残された愛果は大きく深呼吸を繰り返し、目には薄らと涙を浮かべている。
 水澤は彼女を見た途端に、自分の限界を超えようと必死に藻掻いているのだと瞬時に感じ取った。
 そんな愛果の姿に、かつて《絶対的な強さ》を求めて形振(なりふり)構わず突っ走っていた、過去の自分を重ね合わせる水澤だった。

 今でこそトップ選手・団体エースとして落ち着いた姿をみせる彼女だが、かつては団体を問わず格上の選手をみるや喧嘩を売り、闘う事で己の商品価値を高めてきた。強引なやり口に陰では《狂犬》などと揶揄されたがその結果、スター選手が次々に引退しどん底にまで落ちかかっていた老舗団体・太平洋女子を再び業界の盟主へと返り咲かせ、水澤目当ての新世代のファン層を獲得するまでに至ったのだった。

 四つ這いになって呼吸を整える、愛果の側にきた水澤は膝を折り、視線の高さを合わせると穏やかな口調で彼女へ語りかける。

「……倒したい奴がいるのね?」

 水澤の問い掛けに、愛果は無言で首を縦に振った。

「それでこんな無茶な事を」
「ダメですか?」

 愛果は咎められたと思い、少しムッとした表情を見せる。こいつ、上等じゃないか――水澤はそんな彼女の態度にニヤリと笑みを浮かべた。

「どうしても、というなら一度だけあなたに付き合うわ。だけどそれ以上はダメよ、身体が悲鳴を上げているもの。強くなる以前に身体を壊して引退、って事になりたくないでしょ?」

 さすが伊達にキャリアは積んでいない。

 全て見透かされている事を知った愛果は渋々ながら「はい」と返事をする他は無かった。
 あと一度だけ――現在の格付けでは決して試合で当たる事はない、雲の上の存在である水澤との、限られた時間の中行われるスパーリングで、自分自身が心底から納得できる手応えみたいな物を掴みとらなければ、と思った。

「……お願いします」

 意地と底力で愛果は勢いよく立ち上がると、体勢を低く構え相手の攻撃に備える。普段は空中技など派手で難易度の高い技を、フィニッシュにする水澤だがグラウンド技術も一級品で、タイトルマッチなど大一番の序盤には積極的に寝技を仕掛け、対戦相手の実力を査定する事もある。

 水澤は、冗談っぽく口で試合開始のゴングを鳴らすと、それまで笑っていた目元も鋭く変化し、素早く愛果との距離を詰めてテイクダウンを奪った。
 不意にマットへ寝かされた愛果は水澤の降参技サブミッションを防御しようと行動するが、技を仕掛けるスピードがコンマ数秒速かった。自分の脚を絡め逃げられないようにすると、愛果の足首を非可動域へ無理に曲げる。
 脳天へ突き抜けるような痛みで、愛果の表情が一気に歪んだ。
 だが激痛を口に出さず、フェイスロックをすべく水澤の顔に手を掛けようとするも、既にそれを読んでいた彼女は技を離して背中を取ると、逆に愛果へフェイスロックで極めて上体を弓形に反らせた。

 頬骨と背骨――ふたつの患部から同時にあがる悲鳴に、愛果もついに声を上げた。

 一度だけ、と自分で言ったにもかかわらず、水澤は愛果が何度も呻き声をあげようともスパーリングを止める事をせず、彼女が諦めずに立ち向かってくる度に身体のありとあらゆる箇所を絞め、拉ぎ、捻って抵抗する気力を奪っていった。
 圧倒的な手数の多さに愛果ではなく、まるで水澤自身の稽古のように思えてくる。
 人体はここまで変形させられるのか? と思うほど不自然に身体をねじ曲げられ、屈辱的な体勢を取らされようと彼女は、それでも頑なに降参だけは拒み続けた。決して陰る事のない瞳の中の輝き、そして根性の強さに満足気な表情を見せ、水澤は身体に絡めた手足を解き、愛果とのスパーリングを終了した。

 はぁ……はぁ……はぁ……

 リング上で大の字になり、大きく喘ぐ愛果。

 一度たりとも反撃する事も出来ずに、終始水澤の下になって極め続けられ動く事も儘ならないが、自分なりに何かを掴んだという達成感が、まだ幼さの残るその顔に滲み出ていた。愛果は肉体の疲労以上に満足感でいっぱいで、しばらく顔からにやにやが消えなかった。そして堪えていた幸福感が堰を切るや、高ぶった気持ちが笑い声へと変わり息が続くまで、誰もいなくなった道場でひとり笑い続けるのだった。

 ――次は絶対に小野坂ユカの腰から、あの似合わないベルトを奪い取って、私が王者になるんだ!

 団体エースである水澤茜直々のスパーリングによって、あれほど超えるべく藻掻き苦しんだ次のステージの前に立ち塞がっていた見えない壁は、知らぬ間に超えてしまったようだ。彼女の迷いのない表情や笑い声がそれを証明していた。

 


「――とにかく休場でお騒がせした分、現時点で最高のパフォーマンスをお客さんにお見せします」

 名の知れた派遣会社の事務所や語学教室などが入る、都内の中規模ビルのワンフロアに事務所を構える東都女子プロレスのオフィスの一角では、女子プロレス専門サイトによる祐希のインタビューが行われていた。
 近日に開催される興行に向け、そして自身の復帰戦への意気込みを記者を前に語る彼女の姿は堂々としたもので、以前のような自信の無さから来る気の弱さは微塵も感じられなかった。
 立場が人を変える――とはよく言ったもので、既にユカや七海などと並ぶ興行の売りのひとつとなってしまった今、若手の頃のように甘い事を言っている場合ではなく、東都女子の顔としての責任が求められるようになった。それがセミやメインへの起用であったり団体の広告塔としての役目であった。

 祐希は何故こんな地味なプロレスをやっている自分が、人気が出たのかは未だに分からないでいたが、ともかく団体のために出来る限りの事はしよう。と持ち前の生真面目さをフル可動させる。最後に同伴のカメラマンが、興行ポスターを手に笑みを浮かべる祐希を撮影し、今日の取材は終了した。

「はい祐希さん、お疲れさまでした!」

 記者のおつかれの声に、祐希の緊張で凝り固まっていた肩の力が抜けた。彼女はオフィスの出入口まで記者たちを送ると、彼らが乗るエレベーターの扉が閉まるまで深々と頭を下げる。


 ――それにしても、最近は事務所ここへ訪れる回数が増えたなぁ

 祐希は給湯室の近くに備えられているコーヒーメーカーから、温かいコーヒーを注ぎ入れてひと息付く。
 彼女は以前このオフィスで、代表の元川から退屈な試合を続けたため、懲罰として自宅待機を言い渡された事もあり、あまりいい思い出のない場所であるが、最近ではインタビューされる回数も増えこの場所を使うので嫌なイメージは払拭されつつあった。
 オフィスの中はパソコンのキーボードを叩く音やマウスをクリックする音、休みなくかかって来る電話の着信音などが溢れかえり活気が満ちていた。次回大会まで日にちも近く、チケット等の問い合わせの電話が次々と掛かってくるのを見て、祐希はあまりこの場に長居するべきではないと思い、プラスチック容器の中に少し残っていたコーヒーをぐっと飲み干すと、足早に給湯室から離れる。

 寮へ帰るべく通路を歩いていると、ある部屋から聞き覚えのある声の主たちが口論しているのが僅かながら聞こえた。
 語気や口調から察するに決して穏やかではない様子だ。
 オフィスに設けられている元川代表の部屋。そして中にはあの小野坂ユカがいる。
 ふたりは何を巡って激しい口論をしているのだろうか?

 突然「もういいっ!」との叫び声と共に、ユカが部屋から飛び出してきた。
 普段あまり目にしないスカート姿の彼女――仕事ではなく個人的な理由でここにやって来たらしい。ユカの顔は明らかに怒っていた。

 通りかかる祐希と一瞬視線が合った。お互いに気まずい空気が流れる。

 どちらもどんな顔をすればいいのかと表情筋が強張るが、先に動いたのはユカの方だった。
 元川との話し合いが決裂し納得のいかない顔の彼女は、先に乗り込もうとしていたエレベーターを祐希に譲り、自分は階段で下まで降りていってしまう。どこかで独りになって、煮え返るような気持ちを落ち着かせたかったのだろう。
 エレベーターの扉が閉まる直前、どんっ!と狭い階段通路の壁を叩く凄い音が、祐希の耳に入った。

 

十七

 超満員となった試合会場は、東都女子のファンたちで溢れかえっていた。用意していたおよそ二百もの観客席はびっしりと埋まり、団体側は急遽若干数の立ち見席を追加するほどであった。

 今宵の観客たちが望むものはふたつ。
 まずはおよそ二ヶ月の間休場していた日野祐希の復帰戦。欠場前に地方都市で行われた、赤井七海との挑戦者決定戦がマニアの間で高い評価を得ていて、その試合が団体が運営する動画配信サービスや、ファンがスマホで撮影した映像が動画共有サイトなどでアップロードされ、それを観たファンたちからは祐希への期待が以前にも増して高まっていたのだった。
 もうひとつは老舗・太平洋女子から前大会より参戦している、《危険な果実》愛果の今後の行方だ。前回のビッグマッチでプリンセス王者・小野坂ユカの相手として抜擢され、あと一歩の所まで追い詰めた彼女の姿はファンにも好印象で、ユカとの再戦または他の東都女子の選手との対戦が熱望されていた。果たして今宵の大会で何か進展があるのか、観客たちはまだ誰もいないリングを見つめ興奮を抑え切れずにいた。


「いけっ、祐希!」
「負けるなカンナ!」

 会場のあちこちから熱を帯びた声援が飛び交う。

 リング上では、日野祐希が対戦相手を首投げでキャンバスへ寝かせ、ヘッドロックでぐいぐいと締め上げていた。技を仕掛けている彼女の表情は真剣そのものだが、普段通りに闘える喜びに何処か嬉しそうにみえた。

 祐希が復帰戦に選んだ対戦相手は、同期の蒼井カンナだった。

 気心が知れた者同士、遠慮なくぶつかり合えるというのがその理由だ。カンナ自身も前回の敗戦を糧にトレーニングを積み重ねており、以前の自分ではない所を観客へアピールしたいと考えていた。ここで祐希に勝利して弾みをつけ、あわよくばタイトル戦線へと食い込めれば――という思惑もある。

 カンナは祐希の下になりながらも、彼女の腹に拳を複数回叩き付け脱出を図る。この攻撃が功を奏したのか、嫌がった祐希が遂にカンナを束縛していた腕を離してしまう。反撃のチャンスだ。
 素早く立ち上がったカンナは、リングに腰を下ろしたままで体勢の整わない祐希へ、積もった鬱憤を晴らすかのようにミドルキックを何発も叩き込む。不格好な蹴りだが逆にそれが観客たちへ、彼女自身の「勝ちたい」という感情を伝えていた。
 雨のように降りかかるキックの連打にじっと耐える祐希。
 顔にさえ入らなければ何発だって大丈夫だ――彼女はそう考えていた。
 事実カンナの蹴りにスピードが無くなってきたのを見計らって、不用意に放った蹴り足を摘むと身体ごと引き寄せ、彼女を後方へ高く大きく投げ飛ばしダメージを与えた。
 祐希は頭部を押さえ痛がるカンナの髪を掴み、強引に引摺り起こすとお返しとばかりに胸元へ重いチョップを一発、もう一発と連続で刻み入れカンナの体力を奪っていく。目を剥かんばかりの衝撃を受け続ける彼女の、瞳の色が次第に曇っていくのがわかった。
 祐希はカンナの身体をロープへ振り、条件反射的に戻ってくる相手の喉ぎりぎりの部位に己の、鍛えた腕を殴るように水平に叩き付ける。
 彼女のクローズラインがヒットした衝撃でまたカンナはマットの上へ倒れた。しかし祐希はまだフォールへは行かない。人差し指を高く突き上げ「もう一回」とアピールすると、観客席からは大きな歓声が沸き上がった。

 しかし祐希の二度目の攻撃は失敗した。
 再びクローズラインを喰らわそうとしたものの、今度はカンナが上手く体を入れ替えて回避に成功。逆に対角線のコーナーマットへ投げ祐希を固定すると、鋭いドロップキックを顔面へ目掛けて叩き込んだ。

 力無く前方へ転倒する祐希――カンナに勝機が巡ってくる。
 相手の身体を起こし逆羽交い締め(リバース・フルネルソン)の体勢を取ると、気合と共に祐希の重い身体を真後ろへ投げ飛ばす。
 ダブルアーム・スープレックスが見事に決まった。マットへ腰や背中を激しく打ち付けた祐希は苦悶の表情を浮かべるが、カンナの攻撃はそれだけに留まらない。投げ切った後も腕のロックを離さずそのままフルネルソンで締め続けたのだ。
 肩や首が圧迫され息苦しくなった祐希は両足をばたつかせるが、相手も必死になって締め上げているせいか、そう簡単には脱出ができない。

 ――くっ……がっ!

 ぐっと歯を食い縛り、持てる全ての力を振り絞って祐希は、カンナの羽交い締めから脱出を試みた。
 下半身に力を入れゆっくり立ち上ると、僧帽筋を隆起させて腕のロックを外していく。祐希の筋力はカンナの想像以上で、絶対に外すまいと思っていたが少しずつ意思とは関係なく、腕がこじ開けられていくのを見て戦慄する。そして――とうとう勝利への生命線であった、逆羽交い締めが外されてしまった。

 唖然とするカンナと、安堵の表情をみせる祐希。また勝敗の行方は振り出しへと戻る。

 自らロープへと飛んで加速し、祐希に対し打撃技を狙うカンナだったが、それは既に予想済みだった。戻って来るのをみるやカンナの身体をリフトアップし、彼女を高く宙に浮かせた。そして落下してきた所で身体を肩に担ぐと力一杯なマットへ叩き付ける。祐希の豪快な雪崩落とし(アバランシュ・ホールド)が炸裂した。

 目を剥いて半分戦意を失いかけているカンナに対し、攻撃の手を緩める事なく祐希は試合を終わらせるため、彼女の上体を起こしフィニッシュホールドである片羽絞めの体勢に入る 。
 型にはまれば絶対に勝負を決められる自信のあるこの拷問技は、今回も勝機を逃さなかった。鍛えられた太い腕が頸動脈を絞め、胴を脚で締め付けられて弓反りにされたカンナには最早降参するしか選択肢はなかった。

 

「……痛ててっ。相変わらずね、ゆーの馬鹿力は」

 レフェリーから勝ち名乗りを受けている祐希の隣で、マットに膝を付きダメージを逃すため頭を振っていたカンナが呟く。
 しかし《勝者》祐希の口から出るのは反省の言葉ばかりだ。

「駄目よ、全然身体が試合についていってない。もっといっぱい闘って試合勘を取り戻さなきゃ」

 長期休場が響いたのか、傍から見れば満点に近いような試合内容であっても、闘っている本人にしてみれば納得のいかない試合だったらしい。
 聞けば所々で対戦相手に、攻撃の機会チャンスを与えてしまうような隙を、無意識に作ってしまっていた事が駄目なのだという。久しぶりの試合出場で緊張していたせいか、攻守のタイミングが若干ずれてしまったのも、自己評価に厳しい祐希には減点対象だ。

 カンナが握手を求め手を差し出す。

「焦らずにひとつづつ問題をクリアしていけば、ユカ先輩からのベルト獲りも夢じゃないって……アンタが私の同期だって事、すごく誇らしく思うよ」

 祐希は差し出された手を握ると、そのまま自分の身体へとカンナを引き寄せハグをした。
 復帰戦を無事に闘い終えて、重圧感から開放された彼女の表情はとてもリラックスしていた。

「私もそう思う。いつの日かウチらふたりでメインでタイトルマッチ、やろうよ絶対」

 祐希の言葉を聞いて会場中からは、感動と賞賛の拍手が数多く送られた。

 ファンは皆彼女に期待している――難攻不落・変幻自在な王者ユカの牙城を崩せる最有力候補が、現在この日野祐希だけなのだと。カンナの身体から伝わる想いと、観客たちの割れんばかりの拍手が、祐希の中で燃えている闘志の火を更に熱く、激しくさせていくのだった。

 

 メインエベントのタッグマッチでは、招聘した無名外国人選手を相手に小野坂ユカが激しくも楽しい闘いを繰り広げている。自軍コーナーには普段通り親友・七海が頼もしげに待機し、いつもと何ら変わりのない風景が展開されていた――

 大会数日前オフィスで、元川代表との騒動があったとはいえそこはプロのレスラー、客前に出れば個人的感情は別にして、普段と同じように立ち振る舞う事ができる。実際観客は彼女のファイトを楽しんでいたし、七海もいつものユカだと思いコーナーから激を飛ばしていた。
 しかしユカの心は此処に在らずで、経験の賜物か身体や表情が勝手に反応し、誰から見ても違和感ない闘いをみせていた。まるで心と身体が別離しているような、奇妙な感覚が終始ユカに付きまとう。

「ユカっ、あぶない!」

 切羽詰まった七海の声に呆けた顔で反応するユカ。

 目の前には対戦相手の太い上腕が迫っていた。
 距離的にもう逃げ場がない状態にユカはどうすることもできず、相手のクローズラインを真正面から被弾する。軽量である彼女の身体は弩級の衝撃を前に、木の葉のように舞上がり回転しマットへ激しく叩き付けられてしまう。
 その巨体を大の字になったユカに被せ、悠々とフォールする外国人選手をみて慌ててカットに入ろうとする七海であったが、すかさずタッグパートナーが邪魔に入り彼女の助太刀を阻止する。結局七海は何もできないまま、黙ってユカのフォール負けを見ているしか他はなかった。

 この出来事に会場から落胆の溜息と、相手の強さに対する驚愕のどよめきが次々に巻き起こる。
 特にユカが直接ピンフォールを取られるなど、暫くぶりの事件だっただけに観客たちからの衝撃は大きかった。キャンバスに座り患部を押さえ項垂れるユカと、肩を抱いて彼女を励ます七海の姿がとても痛々しく見える。

 

「――どうしたんです? ユカさんともあろう人が、こんな所でつまづいちゃって」

 タッグながらも、ユカのフォール敗けでざわつきが止まらない会場に、更に追い討ちをかけるように不快な声調と発音で煽る、女の子の声がマイクによって流された。

 会場の入退場口に立つ、幼い顔に似つかわぬ灰色のスーツの女性――観客のひとりが彼女の名を叫ぶ。

「た、太平洋女子の愛果だ!」

 ファンの予想通り愛果は会場に現れた。
 前回の王座戦以降、彼女のこれからの行動が注目されていたが、今日此処に現れたという事は東都女子の至宝・プリンセス王座奪取を当面の目標に定めたようだ。

 観客たちからの声援とブーイングが、半々で飛び交うなか愛果はゆっくりと、会場を見渡す余裕さえみせて薄桃色の《四角いジャングル》へと歩いていく。

 リング上で向かい合うユカと愛果――

 不快感を露にして、愛果へ突っ掛かろうとする七海を制し、決して彼女から視線を外さないユカ。

「ユカさん、今日は直接返事を聞きに来ました――貴方の持つプリンセス王座、もう一回挑戦させてくれませんか?」

 愛果の言葉にユカは一瞬驚くが、悟られないようすぐに笑みを浮かべ平然を装う。

「愛果ちゃん。あなたからのラブコール、待ってたよ。あんなにベルトを護るのに苦労した王座戦は初めてだったからね。だけど――」

 そこまで言うとユカは、バックステージにいる日野祐希の名を叫んだ。
 リングコスチュームの上から団体ロゴの入ったTシャツを着た祐希は、ユカの呼び掛けに応えリングインする。

 リングの中で睨み合う現王者ユカに愛果、そして祐希――プリンセス王座を巡って自然に形成された三角形に、七海は此処に自分の居場所がない事を瞬時に感じ、リング下へと自ら降りていった。

「さて。これで役者は全て揃った、ってわけだ。うーん楽しいねぇ」

 頼もしげなふたりの勇姿を見比べ、気疲れと敗戦のショックで疲労困憊だったユカの顔に笑顔が戻る。

「それで、私とのリマッチの返事はどうなったんですっ?!」

 なかなか答えを出さないユカに、業を煮やした愛果がつい語気を強めてしまう。

 感情的になった彼女を見てニヤリとするとユカは、持っていた王者の証であるチャンピオンベルトを天へ掲げると、そのままキャンバスへ乱暴に投げ捨てる。
 三角形の中央へ無造作に置かれたベルト――愛果と祐希は「信じられない」と云わんばかりの表情で互いに顔を見合わせると、同時にユカの方を向いた。

 マイクを数度握り直し、自分の心の中で覚悟を決めたユカは口を開き話し出す。

 ――――――――――――――――――――――

 ユカの話に試合会場が騒然となる。
 リング上の愛果と祐希も、そして此処にいる誰もが驚く他無かった。


【女子プロレス小説】小さいだけじゃダメかしら? ~ASK HER!~ ④

2020年04月14日 | Novel

十二

 季節はすっかり秋へと移り変わったものの、まだまだ夏のそれを思わせるような眩しく強く、そして熱い直射日光が大きなサッシ窓から降り注いでいた。
 窓の外を見れば市街地に車が走り電車が定期的に往来して、何も変わらないごく普通の日常が営まれているのに、窓の内側――空調の整った病室の中では生活感というものが全く感じられず、ただ日が昇ったり落ちるのを黙って待つだけの日々が過ぎていくだけだった。快適とは決して言えない、飾り気のないベッドへ横になって、すっかり張りと艶を失った腕に点滴がたっぷりと時間を掛け一滴、また一滴と流れ落ちていく様を祐希は、容器と連結するチューブを凝視したままで表情はもちろん身体を動かす事はなかった。


 彼女は今、団体の選手寮ではなく都内の病院にて入院を余儀なくされている。
 団体発表では練習中の怪我と記載されているのみで、症状や怪我の程度など詳しい事は全く触れられていない。入院しなければならない怪我といえば普通に想像できるのは、職業柄下半身の部位――例えばアキレス腱や膝靭帯の断裂、それに半月板損傷や足首の骨折といったところだろうか。だがその程度ならばきちんと団体側もファンへ知らせているはずだ。今回症状を発表されなかった理由、それは練習中の事故ではなく全くのプライベートで、それも暴力沙汰に巻き込まれて刺傷するという、にわか信じ難い不幸アクシデントに見舞われたからだった。


 王座戦の中止が団体から発表された朝、新聞の事件欄には小さいながらも、驚くべく記事が掲載されていた。


 □□通りでけんか 20代女子プロレスラーが刺傷

 1×日午後11時20分頃、S区◯丁目□□通り付近の路地で帰宅途中の会社役員・元川瑛二さん(46)が、20代前後の若い男性3人に絡まれ暴行を受けた。揉み合いの際に元川さんと一緒にいた女子プロレスラー・日野祐希さん(22)が、男の取り出した刃渡り約5センチの果物ナイフで左腹部を刺され重傷を負った。その後男たちは通報によって駆け付けた警官たちにより、傷害の疑いで現行犯逮捕された。


 まるでサスペンスドラマか漫画のような、急転直下な展開にファンたちは驚きを隠せないでいた。どうして? 何故? と疑問符ばかりが頭の上を飛び交うだけで、待望のタイトルマッチが中止になった憤りをぶつける所もない。だがそれは被害者である祐希も同じであった。

 

 その日の夜、祐希は元川に連れられて彼の行きつけという、中華料理店へ遅めの晩飯を食べにいった。先日行われた七海との挑戦者決定戦に勝利したご褒美として、彼女から前々よりリクエストがあったので元川は律儀にもそれに応えたのだった。

 普段は選手寮のみんなとちゃんこ鍋やカレーライスなど、お手軽で家庭的なものしか食していない祐希にとって、目の前のテーブルに次々と出される、漢字の読み方が解らない高級中華料理たちは彼女を驚かせるのに十分だった。たまに街に出たときに食べる中華料理といえばラーメンや焼き餃子、それに天津飯などで、目の前に胡麻油や香辛料の香りたつ本物の中華料理が出てくる度に、向かい側に座る元川にラーメンは無いんですか? と何度も小さな声で尋ね、それが可笑しくて彼を大笑いさせ夕食はより楽しいものになった。

 食事も終わり帰宅する際、お腹が一杯なのでと祐希は歩いて帰る事を提案した。後々それが間違いだったと痛感させられるが、元川も何の疑いも無く彼女の誘いに乗った。
 往来する車のヘッドライトや色とりどりのネオン看板が煌々と輝いて、華やかだが何処か危険な雰囲気を醸し出している飲食店の並ぶ路地をふたりは談笑しながら歩いていると、前方から祐希と似たような年齢の男性三人が横並びでふたりを避ける事無く向かってくる。一見大学生風だがとても勉強しているようには見えず、教養と道徳概念の無さがそのまま顔に現れているような彼らは、右へ左へと移動し避けようとする祐希らを追いまわし、薄暗くひどい臭いのする雑居ビルの隙間へと強引に誘導した。
 下衆な笑みを浮かべ、大声で脅す彼らの言っている事は半分も聞き取れなかったが、元川の持っているお金が欲しい事だけは祐希でも理解できた。時折男たちに叩かれながら、怯えた表情で背広の内側から財布を取り出し、持っているだけの現金を彼らに渡す元川の姿を見て、祐希はむらむらと怒りが込み上げてきた。情けない態度の元川に、ではない――自分たちが大怪我のリスクと向き合って闘い稼いだお金を、どこの馬の骨とも知れない馬鹿に黙って持って行かれる事が腹立たしいのだ。

 遂にキレた祐希は、彼の財布から奪った現金を持っている男の手首を掴み、力一杯に捻り地面へなぎ倒すと元川の金を奪い返した。図体がでかいとはいえ、女だからと舐めていた彼らは逆に抵抗された事に驚く。

 やめろ、冷静になれ――

 やむを得ない事態とはいえ暴力沙汰が、表に出る事を恐れ必死に祐希を宥める元川だったが、一旦頭に血が昇った彼女を誰も止める事は出来ない。格闘技者としての本能なのか、電流のようにぴりぴりと感じる緊張感と、肚の底からじわりと湧き上がる高揚感にどこか嬉しそうな祐希は、元川を後ろに下がらせ男たちの方へ向かっていった。

 拳を固め殴りかかってきた男に対し彼女は、勢いを利用して背負い投げで道路へ大きく投げ飛ばす。受身もろくに知らずアスファルトで固く舗装された地面に、背中や腰を強打してしまい呼吸するのもままならない彼は、陸に上がった魚のように口をぱくぱくとさせ悶絶する。
 仲間の惨劇を目の当たりにし、もう一人が怯んでいる隙を付いて、今度は払い腰で地面へ叩き付けるとそのまま開襟シャツの襟を掴み、送り襟締めで一気に締め落とした。相手に過度な殴打や骨折などをさせてしまうと、女性とはいえプロのレスラーである以上、傷害罪となるおそれがある為相手を痛みや失神などで動けなくさせて、一気にこの場から逃げ去ろうというのが祐希なりの考えだった。

 口を開けたまま呆然とする男を無視して、呻き声をあげ地面に倒れている彼の仲間ふたりを横目で確認すると、道路にへたり込んで動かない元川を立たせてこの場から去ろうとする祐希。ネオンと街灯で照らされた表通りへ飛び出そうとしたその時、左腹部に何か刺されたような痛みが走った。

 自分の名を叫ぶ元川の口――だが声は聞こえない。

 元川の財布から金を奪ったあの男が、何故か自分をみて真っ青になって震えている。一体何事かと思い祐希は痛む方へ目を向けた。自分が着ている、おろし立ての水色のブラウスの上から、どす黒い染みを付けて家庭でよく見るような果物ナイフが突き刺さっているではないか。パニックに陥った彼が、普段から威嚇用として隠し持っている果物ナイフで、反射的にに祐希の腹を刺したのだ!
 まるで安っぽいサスペンスドラマのような事の顛末に、刺されてしばらくは現実味が沸かなかった祐希だったが、だんだんと大きくなっていく下腹の刺し傷の痛みと、どんどん流れ出る血液を見てこれは今、自分の身に起きている紛れもない現実なのだと理解した途端――泣き叫びながら表通りへ走っていく男の後ろ姿を見たのを最後、そのまま目の前の景色が暗転していき気を失った。

 

 早急に病院へ搬送され緊急開腹手術を行った結果、普段から鍛えぬかれた腹筋と皮下脂肪のおかげで、傷は幸い大腸などの内臓部分までは到達しておらず、ひとまず命には別条がなかったが、せっかく七海との激しい死闘の末に掴んだ、ユカとのプリンセス王座戦を泣く泣くキャンセルせざるを得なかった精神的ショックが大きく、あれほど太陽のように明るかった祐希も病室でひとり塞ぎ込むようになってしまった。プロレスがやりたくなくなった――わけではないが、以前のような日野祐希のファイトが出来るのかどうかが、不安で不安で仕方なくベッドの上で自問自答を繰り返す毎日が続いていた。
 彼女が事件に遭遇してしまった責任は全て自分にある、と感じている元川は急遽ユカや七海とも話し合い当面の間――プロレス活動が自力で再開できるまでの、しばらくの間祐希を休場させる事に決めた。以前は懲戒の意を込めて休場させた元川だったが今回は違う。本当に彼女の今後のプロレス活動、もっといえば精神的ショックから立ち直って、普段通りの生活が送れるようになる事を願っての休場だった。

 祐希が入っている個室の扉を誰かがノックした。検診の時間にはまだ時間があるのに誰だろう? と彼女は訝しい表情で扉の方を見ると、そこには背広姿の男性が立っていた。

 お見舞いに訪れた元川だ。

 見慣れた顔に祐希の表情は和らいだが、それでも通常時に比べればまだまだ固い。

「代表……」
「事情聴衆以来だな。どうだい体調の方は?」

 優しい口調で元川が尋ねるも、祐希は点滴の針が入った腕を見せ、笑顔らしきものを作るだけで何も答えない。

 そうだよな、俺は彼女に嫌われて当然だ――祐希の態度に腹を立てる事もなく、むしろそれが当たり前な感情だと、ごく自然に受け入れる元川だった。全く感情の見えない、彼女の顔を見るのが忍びなく、無意識に彼は祐希から視線を背けてしまう。

「……これまでが順調にいきすぎてバチが当たったんですよ、きっと」

 祐希は寂しそうな顔で自虐的にそう呟いたが、その言葉には同意できない元川であった。あの事件さえなければ今この瞬間も祐希はリングに立ち、もっと勝ち星を上げられただろうし、悲願だったタイトルマッチだって万全の状態で迎えられたはずだ。

 それもこれも全部自分のせい――元川は悔やんでも悔やみきれない。

「軽い気持ちで祐希、きみひとりだけを誘い食事へ出掛けた事を後悔している。もっと大勢で行ったのならこんな風にはならなかったのかも、と思うと今でも自分に腹が立つよ」

 せっかく親御さんから預かった大事な娘に、命にかかわるような大きな傷を負わせてしまった事で自責の念にかられ、元川は下を向いて奥歯を強く噛み締めた。

「代表……そんなに自分を責めないでください。正直代表から食事に誘われた時、やっと自分は認められたんだって思ったんですから。それに結果的にですが、相手に刺されてしまったのも武道家として自分がまだまだ甘かっただけです」

 意気消沈している彼を励ますため、ではないが「認められた事が嬉しかった」と祐希の口から聞いて、僅かばかりだが元川は彼女から許された気持ちになった。鼻の奥がつんとし少しでも気を抜くと涙が溢れそうになる。

「君はやっぱり――強いな。俺じゃ全然敵わないよ」

 弱々しい元川の呟きを聞いて、祐希は初めて本物の笑顔をみせた。いつものように少し照れながらも、真夏の太陽の下に咲く向日葵のような、満面の笑みを――

 

 ユカや七海、それに他の東都女子の所属選手の近況報告に、団体としてのこれからの活動プラン等々、元川は思い付くまま手当たり次第に祐希へ話した――彼女が聞こうが聞いていまいが関係なしに。

 最初はぴくりとも反応しなかった祐希だったが、彼の熱量の高い話がノンストップで耳へ入ってくるうちに、次第に白かった肌に血の気が戻り始め、頬も紅潮し出しだんだんと元川の話に引きずり込まれていく。それまで事件のショックで気持ちが沈んでいた祐希が、元川の発する“プロレス熱”に煽られたのか、自分の内側で燻っていた情熱が再び紅く、熱く燃え上がろうとしていた。

「た……タイトル戦の相手は決まったんですか?」

 祐希が入院して二週間、病室にはプロレス専門誌や試合のDVDなどを一切持ち込まず、《闘い》というものから自分を切り離していた女が、ついに自身の仕事――プロレスの情報を欲しだした。

「現在先方と交渉中だが、大会場でのビッグマッチに相応しいような、フレッシュな有望選手をブッキングする予定だ。いつものようにユカの我儘だけどな」

 タイトルマッチという重要な試合に、重傷とはいえ穴を開けてしまった事に祐希は、悔しくて申し訳ない気持ちで一杯だった。ビッグマッチまで残りひと月を切り、自分の代わりに誰がユカと闘うのかやっかみ半分で聞いてみたくなったのだ。

「余所の団体の選手、という事だけは教えてやるが、相手の名前まではユカとの約束で残念だがまだ言えないな。もし大会までに退院できたのなら、セコンド業務ではなく、ちゃんと席を用意するから自分の眼で確かめる事だな」

 結局相手までは教えてもらえず、え~っ?! と落胆の叫びをあげてむくれっ面になる祐希に、活力が戻りつつある事を確認できた元川はほっとひと安心した。

「とにかく今は、きちんと身体を直す事に全力を傾けるんだ。闘うのはそのずっと後でいい。俺もユカたち皆も、祐希がリングに戻ってくるのを信じているからな」

 あまり長居すると傷に差しつかえるだろうからと、座っていた丸椅子から腰を上げ、病室から出ようとする元川。そんな彼を扉の方まで見送ろうと、祐希はベッドから降りようとするが、元川は優しく肩を押さえそれを拒否する。
 去り際に彼は背広のポケットから、ピンク色の可愛らしい洋封筒を祐希に手渡した。宛名と差出人の文字がとても稚拙で、子供から送られてきた事が容易に想像できた。

 見舞いを終えた元川が部屋を去り、再びひとりぼっちになった祐希は彼から手渡された封筒を開く。中には欠場中の祐希を励ます内容の文章が記された手紙――ファンレターが同封されていた。
 手紙の送り主は以前に、彼女からサインをもらった事のある女子小学生で、拙いが自分への想いに溢れた文章を読んでいくうちに、祐希は送り主の顔やサインを書いた事も全て思い出した。

 事件の事は、新聞を読んでいた父親から教えられた彼女はどうしても祐希に「頑張ってください」と伝えたくて、友達にも書いた事のない肉筆の手紙を初めて送ったのだという。小学生ゆえに字はお世辞にも上手いとは言えないし、所々おかしな文章になっている箇所はあるがそれでも彼女が、祐希を元気付けようとする熱い気持ちは、文字のひとつひとつから十分に伝わってくる。


 日野選手、必ず体をもと通りになおして東都女子プロレスのリングに帰ってきてください。そしてチャンピオンベルトをとってください――


 手紙の最後の一文を読み終えた祐希は、何かが頬を伝っているのに気が付いた。
 感激のあまり無意識に瞳から大粒の涙が零れていたのだ。
 参ったな――と半笑いを浮かべ指で涙を拭ってみるが、次から次へと滴り落ちてきて止める事ができない。遂に我慢できず祐希は両手で顔を覆い隠し、暫しの間肩を震わせて嗚咽した。

 ――そうだ。こんな可愛いファンが私にはついていたんだ。腹を刺されたくらいで大好きなプロレスも、その先のタイトルマッチも諦める訳にはいけないんだ! 絶対復帰して前以上に強い日野祐希を、彼女のためにも見せてやるっ!!

 決意に燃えた彼女の目に、迷いの色は全くない。
 あれほど祐希の心に深く突き刺さっていた、刺傷事件の忌まわしい記憶も復帰意欲の強さの方が勝り、辛く悲しいネガティブな思い出は自然と浄化されていく。

 

 後日、再び見舞いに訪れた元川が見たものは、点滴台と一緒に病院内にある階段という階段を、額に汗を浮かべ黙々と登り降りする祐希の姿であった。復活への第一歩が始まったのだ――

 

十三

 某市、市営文化体育館――

 白熱した試合が、途切れる事なくセミファイナルまで続き、メインで行われる東都の至宝・プリンセス王座を懸けてのタイトルマッチの残すのみとなった。選手権試合開始に先立ち、リングアナウンサーから立会人(ウィットネス)として紹介された、白いカーディガンを羽織り黒のブラウスとパンツというエレガントな服装をした祐希が、元川にエスコートされリングサイドに設けられた本部席にやって来た。四方の壁に取り付けられた大型ビジョンに映し出される、久しぶりに公の場へ現れた祐希の姿に、特別リングサイド席に陣取っている者は当然、二階席にいる観客まで全てが歓喜と激励の拍手を送った。

 傷もすっかり癒え無事に退院する事ができ、道場で復帰に向け本格的にトレーニングを開始したのが、ほんの一週間前だというのもあり以前よりも、少し痩せ身体も幾分細くなっていたが、拍手を送る観客たちに笑顔で応える祐希を見る限り、体調面・精神面共々すこぶる良好のようだ。


 最初に入場してきたのは挑戦者の愛果(まなか)――業界いちのメジャー団体・太平洋女子プロレス所属で現在、同世代のライバルたちを差し置いて重要な試合に起用されたり、生まれ持ったアイドル並のルックスゆえ他団体からのブッキング依頼も多い、将来有望な《逸材》である。

 可憐な顔を歪め持ち前の負けん気と根性で闘う彼女の姿は、年季の入った男性客は当然の事、若年層の女性客をも虜にし早くも《次期エース候補》と、多くのマスコミやファンたちの口から飛び出すほどだ。

 入場通路の側に座る、観客たちから送られる歓声に笑顔で応え、決戦の場であるリングに向かいセミロングの茶髪をなびかせ駆けていく愛果。
 代打出場とはいえ本拠地ホームではなく敵地のリングで、それもタイトルマッチという大舞台で闘うという事に関し、緊張や恐怖心を抱いている様子も無く至って平常心で、ガチの東都女子ファンからのブーイングも過剰に意識をせず、わざわざ敵地にまで詰め掛けてくれた太平洋女子のファンや、どっち付かずの女子プロレスファンたちに愛想を振る舞う彼女の姿に、本部席に座る祐希は自分と歳もさほど変わらない愛果が持っている天性の才能を感じ、また彼女から視線を外す事の出来ないアイドル性に只々驚くばかりだった。


 愛果がリングに上がったのを見届けたかのように会場はぱっと暗転し、照明がリング周辺に灯ると、今度は先程よりもアップテンポな入場曲が館内に大きく響き渡る。
 入場ゲートに設置されている小ステージで、黄金色に輝くプリンセス王座のベルトを肩に、ポーズを決めて観客を煽る小野坂ユカ。今夜の主役の登場で、会場内の空気が明らかに変わった。
 会場人気は外敵である愛果も引けを取らないが、やはりそこは本拠地と敵地との違いで、東都の看板を背負う王者・ユカが愛果から必ず王座を守ってくれる、と強く願うファンの気持ちがびんびんと伝わってくる。リング上での闘いの直前に繰り広げられる、目に見えざる熱い闘いに触れた祐希の心はいつしか、一観客として胸が高まり血も滾るのであった


「ゆー、楽しんでる?」

 リングサイドの観客たちとふれ合いながら、薄桃色のキャンバスが張られたリングへと登る直前、ユカは本部席にいる祐希へ話し掛けた。急に声を掛けられた彼女は普段のように、思わず席から立ち上がってしまう。リングと客席とを隔てているフェンスを挟み、ふたりが向かい合う姿はまるで視殺戦のように見える。

「いいねぇ、このシチュエーション。ホントはリングの上でやりたかったけど、残念ながら今夜の相手はゆーじゃないの。まぁ見ててよ、きちんと愛果からタイトル防衛して、今度こそリングの上で向かい合いましょう」

 そう言うとユカは祐希の方へ手を差し出した。祐希もユカに向かい手を差し出しふたりは固い握手を交わす。彼女たちの顔にほんのり笑顔が浮かんだ。

 

 ビッグマッチ仕様の水色のドレスを着た、女性リングアナウンサーが選手たちの名をコールし始めた頃、元川が隣の席にいる祐希に話し掛けた。

「どうだった祐希?」

 冗談ぽい調子で祐希に尋ねるが、彼女は先程握手した手を見つめたまま、その顔には全く表情がなかった。

「……あのユカさんが緊張していた」
「そりゃあ緊張の、ひとつやふたつ位するだろう。これだけの大観衆の中だものアイツだって」

 違うんです――と否定しようとしたその時、試合開始を告げるゴングが力強く打ち鳴らされ、元川に反論するタイミングを祐希は失ってしまった。

 

 ――あれは不安と焦りから来る緊張に違いない。ユカさん自身でも上手く彼女を転がせるか自信が無いんだ、きっと。だとしたらこの試合、白熱した闘いになるのか退屈な凡戦に終るかどちらかだ。的中して欲しく無いけど。

 冷や汗で濡れて冷たかったユカの掌の感触を、握手した方の手を見ながら祐希はひとり思い出し、耳をつんざくような大歓声の中小さく呟く。

 リングの中ではユカと愛果、それぞれが自分にとってのベストポジションを得るために、付かず離れずの微妙な距離感を保ったままマットの上を時計回りで動いていた。しかしお互いが3分以上も未接触のままで、全く試合が進展しないのに観客たちが痺れを切らし始めたのを、場内の空気で感じ取ったユカは意を決し、愛果の懐へ飛び込んでいった――

 

 一時間後――

 大会も無事に終わり、レスラーたち全員が帰路について誰も残っていないはずの選手控室で、ユカはコスチューム姿のままで椅子に座り首を垂れてうなだれていた。

 普段ならば絶えず傍にいるはずの七海もここにはおらず、彼女は正真正銘のひとりぼっちとなっていた。膝の上に置いている東都女子の至宝・プリンセス王座の、ベルトの中央に貼られた黄金色のプレートも、心なしか輝きを失い色褪せてみえる。

 コツコツと低い靴音をたて、誰かが選手控室に近付いていく。
 人気の感じられない、ユカひとりだけが居る部屋の扉をそっと誰かが開けた――祐希であった。

「ユカさん――」

 久しぶりに耳にした身内からの呼び掛けに、ユカの表情が僅かに柔らかくなる。それまでの誰も側に寄せ付けなかった、彼女の心をとり囲んでいる見えない壁も祐希には全く関係ない。彼女は何の遠慮も躊躇もなく、真っ直ぐとユカの元へと歩いていくと近くにあるパイプ椅子へ腰を掛けた。

「七海先輩はどうしたんです?」
「……先に帰った。ほら、わたしって感情がすぐ態度に出ちゃう方じゃない? だから七海、気を利かせてひとりにさせてくれたんだと思う」
「子供みたいですね、ユカさん」
「ホントそうだよねぇ」

 実感の籠った、ユカのぼやきが引き金となってふたりは爆笑した。薄暗い室内照明の控室の中が、一瞬で明るい雰囲気へと変わる。

 部屋の空気が弛んだところで、祐希は早速今夜の王座戦の話を切り出した。

「――強かったですね、愛果選手」
「うん、強かった」
「正直な話、対戦相手に選んで失敗したって思いませんでした?」
「舐めてた……かなぁ。流石メジャー団体で鍛えられているだけあって、雑味のない真っ直ぐな動きをしていた」

 思い詰めた――というよりは、子供がイタズラを仕掛けるも失敗してしまった時のような、悔し恥ずかしそうなユカの表情。

 前回までの防衛戦は苦楽を共にした先輩や同期、それに自団体の後輩と身内ばかりで正直、対戦相手の顔ぶれに飽きてきた所だった。だから次回挑戦者であった祐希がタイトルマッチに出られなくなったのを機会に、外の世界に対戦相手を求めてみたくなったのだ。しかし、ユカ自身が思っていた以上に相手のレベルは高く、彼女が約5年のキャリアで得た経験に近いものを、内部競争が激しい自団体で先輩や同期、それに後輩らと闘う事で元々持っている才能を、より研磨された愛果はまさに難敵であった。

 まだ歳も若いのに、ベテラン選手のように攻め際や引き際が実にはっきりとしていて、こちらがチャンスとみて攻め立てればエスケープしていくし、逆にピンチから逃れようとすればしつこく追い駆けてくるという厄介さで、ユカが普段から得意としている空中殺法は尽くブロックされて決定打とならず、また必殺技である北斗原爆固めも巧妙な愛果の誘導で、本来繰り出すべきタイミング以外の場所で出してしまうという失態も犯してしまった。今日の試合の中で唯一、ユカが愛果に勝っていたのはグラウンドの技術ひとつのみ。デビュー前にさんざん叩き込まれたこの技術のおかげで、勝利までのあと一歩を相手に踏み込ませない事が出来たのだ。

「コーナー最上段からのセントーンもかわされ、起死回生のトペも自爆、頼みの綱の北斗原爆も決め手にならないんじゃ一瞬、ベルト流出という最悪の事態が頭を過りましたよ、私」
「相手が想定外の強さだったから。最悪それも仕方ないかなぁ、ってちょっと思ったよ? でもわたしだって仮にも団体のトップだもん、お客さんに良い所を見せられないままで負けたくないな、って」

 ユカは試合中終始焦っていた。
 似て非なるプロレスを行う歳下の愛果を相手に、東都女子イチの《プロレスの達人》と謳われる彼女が最後まで自分のペースを掴めなかった――いや掴ませて貰えなかったのだ。
 技術と負けん気がぶつかり合う、お互いの持ち味が全部出てスイングしていたいい試合だったように一見みえたが、当事者からすれば《逸材》愛果を前に、終始後手へ廻らざるを得なかった厳しい試合だった事が、彼女の表情に滲み出る疲労の色から読み取れた。

「そうだったんですか……あのフィニッシュの仕方も十分納得ですね」
「うん、お客さんには申し訳ないけど。どちらが強いか弱いかは一先ず置いておいて、このベルトを死守する事を最優先させたの」

 今までユカがリングの上で築き上げてきた、観客からの信頼と評価を落とす事にもなりかねない、言わばひとつの最終手段――賭けだった。

 本人の実力云々ではなく、確実にベルトを持ったまま帰る方法。それは一瞬の隙を突いての《丸め込み技》であった。 
 愛果が王座獲りの為に選んだ決め技、バックドロップホールドで鋭角にマットへ叩き付けた瞬間、完璧な受身でダメージを最小限に抑えたユカは、素早く身を捻って切り返すと上四方固めの体勢で押さえ込んで、彼女を動けなくすると強引にスリーカウントを奪ったのだ。王者を追い込むだけ追い込んだ愛果であったが、王者・ユカの苦肉の策により目前だった東都女子王座奪取も水の泡と化してしまったのだ。
 歓声とブーインクとが入り雑じる微妙な空気の中、疲労困憊で勝ち名乗りをレフェリーから受けるユカを横目に、何度もキャンバスを拳で叩いて悔しさを露にする愛果の姿が、本部席から試合を観ていた祐希には特に印象的に映った。

「でも……このままじゃ終われませんよね、ユカさん? ファンはもちろん自分のためにも」
「愛果もきっとそう思っているはずよ。もう一度タイトルマッチをやらせろってね。でも闘うのはわたしじゃない――」

 わたしじゃない――って? ユカの言葉に祐希は疑問を感じ、彼女の小さな顔を二度見する。

「どういう……事ですか?」

 尋ねられたユカはいつものように、善からぬ企みを思いついたような笑みを浮かべた。そして何も言わずに自分の人差し指を祐希の方へ向ける。
 彼女の言わんとする事を一瞬で理解した祐希は、驚きと興奮の入り混じった表情でユカの顔をじっと凝視するのが精一杯だった――

 

十四

 ――ちくしょう、王座獲得まであと一歩だったのに!

 都内にある太平洋女子プロレスの道場へと戻る車中、愛果は後部座席で悔し涙に暮れていた。
 多団体時代ゆえにチャンピオンベルトの意味も価値も下がっていく近頃、これほどまでに王座獲りに固執する選手も珍しい。おそらくは他団体のものでも何でも、奪えそうなタイトルは数多く獲って自身のプロレスラーとしての付加価値を高めていこうという思考のようだ。
 特に所属している太平洋女子は、業界で一番選手を抱えているためにレスラー同士の競争が激しく、一介の若手選手である愛果には何時チャンスが巡ってくるか分からない。それだけに今回の東都女子のタイトルマッチには是が非でも勝たなければならなかった。故に指先まで触れかかった念願のプリンセス王座がユカの狡猾な押さえ込みで、駄目になってしまった事が今でも悔しいし諦めきれない。

――だめだ。こんな気持ちのままで戻っても、ウチのリングでの激しい生存競争に勝ち抜く事なんて出来っこない。ここはひとつ会社に頭を下げてもう一度、東都女子のリングで闘えるよう頼んでみよう。

 試合後からずっと愛果の胸の中を巡っていたストレスは、思考を切り替えた途端霧が晴れるように治まった。それと同時に安堵と疲労による眠気が急に彼女を包み込み、身体が鉛のように重くなり両瞼も自然と落ちていく。
 愛果は何気なく窓の外の景色を眺めてみた。
 高速道路を走る車の側面に見える大小様々なビルの窓の光や、広告看板たちが放つ人工的な色彩の光が彼女の眠気を緩やかに誘い、気が付けばシートに身体を預け暗く深い睡眠の海の中へと落ちていた。


【女子プロレス小説】小さいだけじゃダメかしら? ~ASK HER!~ ③

2020年04月12日 | Novel

 真夏特有の熱く強い日差しが、カーテンの隙間から差し込んでいるのにもかかわらず、青色のタオルケットをすっぽり頭から被ったまま祐希は、一向にベッドから出ようとする気配はない。テレビの上の置時計の針は既に午前十一時を廻り、いちばん上に配置されている十二時の文字盤へと向かい進んでいた。

 本日は試合もなく練習もお休み。久しぶりの休日を祐希は、選手寮のベッドの中でひとり過ごしていた。同じ部屋で生活しているルームメートふたりは、この貴重な休みを一分一秒でも無駄にしたくないようで、爆睡する彼女を放っておいて休日を満喫すべく、さっさと寮を飛び出してしまっていた。
 一定のリズムで寝息をたて、時折右に左にごろりと寝返りを打つ祐希。
 ここ最近ハードな闘いが毎大会続いていた事もあってか、その身体に大量に蓄積した疲労が元々から出不精だった彼女を、ますます寮の外へ出る事を遠ざけていた。皆のように短い休日にわざわざ疲れた身体に鞭を入れて、外へ繰り出しては買い物やスイーツの食べ歩きなどに費やすなど無駄のように思えたのだ。それだったら一日中部屋で寝ていたほうが、どれほど肉体的にも経済的にも有益だろうか――すっかり「引き籠り」の思考と化していた祐希であった。

 廊下からぺたぺたと、軽快にスリッパで走ってくる音が聞こえたかと思うと、いきなり部屋の扉が乱暴に開けられた。

「ゆー、あんたいつまで寝てるのよ!」

 部屋へ闖入してきたのはユカだった。あまりの騒々しさに恐る恐る、タオルケットから首を出して彼女の方を見る祐希。

「ふわぁ~っ。どうしたんですか? こんな朝早くから」
「朝早く……? ってもう昼前よ。こんなにガンガン日光が入ってきてるのに、よく平気で寝られるわね」

 祐希のとんちんかんな発言に、ユカは既に呆れ顔である。

「そういうお年頃なもんで」
「バカ言ってないでさっさと起きるっ!」

 いつまでもベッドから起き上がろうとしない祐希に、苛々が頂点に達したユカは強硬手段として乱暴気味に、彼女の身体からタオルケットを引き剥がした。中から現れたのはお気に入りのロックバンドのTシャツを着て、下半身は何と桃色のショーツのみという恥ずかしい格好だった。人前にもかかわらず平気そうな顔をしているのは此処が男子禁制の女の園だ、という安心感だからだろう。
 祐希はベッドの上に放ってあったジャージ地のショートパンツを、もぞもぞと尻を動かし寝ころびながら穿くと、ようやくベッドから降りた。

「おはようございます、ユカさん」
「ゆーさぁ……わたしに叩き起こされるようになったら、もう終わりだよ?」
「以後気を付けます。ちゃんとドアに鍵を掛けて」
「そっちじゃねーわ」

 ふたりは部屋を出て、一階の広間へと向かう。
 普段は練習生を含む十名前後がこの選手寮で生活をしているが、完全オフ日である今日に限って人の気配が全く感じられない。因みにキャリアの長いユカは特に寮で生活する義務はないのだが、道場がここから近い事や皆とわいわい騒ぐのが好きな性分故、入門以来ずっとこの選手寮で暮らしているのだった。

 長いテーブルが六脚程度並べられ普段ここで皆が食事などをする広間には、ぽつりと銀色のボウルとガラスの小鉢が置かれていた。祐希がボウルの中を覗き見るとどうやら冷や麦のようである。

「どうしたんです? こんなに沢山冷や麦を」
「ほら、暑いしさっぱりした昼食がいいなと思って。棚にあった貰い物の冷や麦を全部茹でたのよ、七海もいないしヒマだったからさ」

 そういうとユカは小鉢に麺つゆを注いで祐希に手渡す。分葱や生姜などの薬味もちゃんと、他の容器に盛られており準備は万端だ。ボウル一杯に張られた水の中で涼しげに浮かぶ冷や麦をユカと祐希は、黙々と麺をつゆに付けて啜るを繰り返す。美味い不味いではなく、冷たい麺がつゆと共に喉を流れ落ちていく、何とも言えない感覚を夏という季節と一緒に味わうのだ。

「でも、珍しいですね。ユカさんが七海さんと一緒にいないなんて」

 ふたりでいてこそ自然である、彼女たち親友コンビの片割れがいない事に祐希は質問してみるが、ユカはその点に触れられたくないのか、いきなり麺を口いっぱいに頬張り「答えられません」と無言でアピールをする。 頬っぺたを麺で膨らませてハムスターのような表情をするユカに対し、先輩らしからぬ幼い行動に呆れ返りながらも何処か憎めない。まぁいいか、そんな日もあるよね――祐希はそう思う事にして再びボウルの中から冷や麦を取り出していると、何故かユカは不機嫌そうな顔をしているではないか。

「……置いていかれた」
「へっ?」

 少しばかりの怒りを含ませ、小さな声で口籠るユカに祐希は驚いた。やはり何か理由があるようだ。

「七海がさぁ……一緒にジムへ行こうって言ってたのにさ、わたしを置いてひとりで出て行っちゃうんだよ? ひどいと思わない?」
「その時、ユカさんは何してたんですか?」
「……爆睡してた」

 わ、笑っていいんだよね?――祐希は腹の底から込み上げてくる笑いと、先輩の手前笑ってはいけないという理性との間で、脂汗を額に滲ませ葛藤する。それはどんな闘いよりも辛く苦しい時間であった。

「大体七海も起こしてくれればいいのにさ……結局自分が一番大事なのよ、あいつったら」

 学校に遅刻した中学生の言い訳のようなユカの弁に、祐希の我慢も限界に近付いてきた。このままでは吹き出しちゃう、誰か早く来てぇ――平然を装う彼女の表情筋がひくひくと動き悲鳴をあげそうになっていた。

 大爆笑寸前だったその時、絶妙のタイミングで広間の扉が開いた。

「ただいまぁ……おっ、ユカとゆー。ここにいたの?」

 七海がジムから戻ってきたのだ――手には白いレジ袋をいっぱいぶら下げて。

「ななみぃ~」

 ユカは彼女の名を叫び椅子から立ち上がると、すぐさま親友の元へ駆け寄って抱きついた。室内にはクーラーが付いているとはいえ、汗でべとべとのユカが纏わりついてかなり暑苦しそうな七海。

「ゆー、ちょうどいいや。ジムの帰りにアイスいっぱい買ってきたから冷蔵庫に入れといて」

 そういうと色々な種類のアイスがぎっしり詰まったレジ袋を祐希に手渡す。寮で生活する人数分買ってきたらしくかなりの重量だ。言われた通り広間にある大型冷蔵庫の冷凍スペースに詰め込んでいると、ユカが横入りしすぐさまメロン型の容器をしたシャーベットを持っていく。

「えへへ。わたしはこれが一番好きなのだ~」
「へぇ、何かイメージにぴったりですね。子どもっぽい所が」
「なにおぅ!」
「はいはい。ユカは黙って食べましょうね――ふぅ~、この冷たい喉越し最高っ。やっぱり夏は冷たい麺に限るわね」

 子ども扱いされてぷりぷりと怒るユカを宥めながら、先程までふたりで食べていたテーブルの上の冷や麦を啜る七海。祐希は御相伴にあずかってソフトクリーム型のバニラアイスを頂いた。

「七海さん、ユカさんが置いてかれたって文句垂れてましたよ」
「なぁに言ってんのよ。ユカが約束の時間になっても、起きてこないから先に行ったんじゃない」
「お、起こしてくれたっていいじゃん」
「あんたは子どもか! 成人式をとうに済ませたいい大人が全く……」

 母親と子供の会話を思わせる彼女らのやり取りが楽し過ぎて、祐希は身を揺らして大笑いすると共にその仲の良さを羨ましがったりもした。自分が邪魔者のように思えてしまい、どうも同じ場所に居る事が躊躇われてしまうのだ。そんな祐希に七海はふと視線を向ける。彼女はバニラアイスを食べ終えてコーンの部分を齧っている最中だった。

「あ、そうそう。それでね、ジムの帰りに事務所に顔出してきたんだけど――ゆー。そろそろ覚悟しておいた方がいいわよ?」

 平坦なトーンで不安を煽るような彼女の言い方に祐希は、また自分が何か元川代表の気に障るような事をしたのではないか? と心配でしかたがない。

「わ、わ、私何かヘマでもしましたか?」
「さぁ~ね?知ぃらない。焦らなくても直に分かるわよ――良い話か悪い話かは」

 祐希は救いを求めるかのような視線で彼女を見るが、七海は意地悪そうに微笑むだけでこの件については、一切口を開こうとはしない――むしろ不安に怯える様を楽しんでいるようにも見える。完全に蚊帳の外となってしまったユカは、双方の表情を見比べては訝しげな顔をするのであった。


 謎かけのような七海の発言は、すぐさま祐希の身に現実となって降りかかった――

 話を聞いてから数週間後、いち地方の小都市で開催された興行に於いて突如として、尊敬する大先輩・赤井七海とのシングルマッチが組まれたのだ。専門誌や公式HPでもこのカードは事前に発表されておらず、祐希にしてみればまさに降って湧いたような話であった。というのも、開催六日前までの公式発表では全く別の対戦カードが組まれていたのだが、思うように前売りが捌けず営業的に苦戦していた。そこで初めて東都女子の興行を買ってくれた興行主の顔を立てるため、機が熟するまで温存していたこの切り札を急遽組み入れたのだ。

 しかし不安が全く無かったわけでもなかった。東都女子の会場に足を運ぶ観客たちの支持がここ最近、めきめきと急上昇している祐希だが、大都市はともかく地方へ行ってもその人気が通用するのか? という心配はあった。一家言持つマニアたちが集う、都内の会場では集客できるカードであっても、団体を問わず「わが町」へ年に数回やってくるプロレスを、楽しみにしている人々が集まる地方都市では全く入らない事もよくあるのだ。元川は祐希の日頃の頑張りと七海との対戦で“スター”へと化けるかもしれない可能性に賭けてみた――この大博打は見事に的中し、前日までの前売り分と当日券が飛ぶように売れたのだ。聞けばこの地方在住の観客のみならず、遠方からもこの一戦を観戦しに、様々な交通手段を駆使してやってきた強者もいるらしい。元川が思っている以上に、祐希は既に集客能力のあるレスラーへとなっていたのだ。

 何はともあれ、プロモーターの顔を潰さずには済んだのだった。

 
 会場である公共運動施設内に、綺麗に設置されていたパイプ椅子がど派手な衝撃音と共に水しぶきのように飛び散った。瓦礫のように散乱する椅子の中に埋もれているのは――祐希だ。客席へ彼女を投げ入れた張本人である七海は、観客たちが逃げ惑う中厳しい表情で祐希が立ち上がってくるのを待っていた。しかしダメージの蓄積でなかなか起き上がる事のできない彼女に、痺れを切らした七海が髪を掴んで無理矢理に引き摺り起こすと、椅子の中へ飛び込んだ際に出来た裂傷で額が切れ血が滴り落ちる。

 プリンセス王者である小野坂ユカを差し置いて、メインで組まれた時間無制限で競われるこの一戦は、人気上昇中である祐希へのご褒美などといった生易しいものではなく、開催は未定だが次回王座戦への挑戦者チャレンジャーを決める、彼女だけでなく対戦相手の七海にとっても非常に重要な試合であった。二年前に新設された際に王座決定トーナメントを勝ち抜いて初代王者となり、不本意ながらもユカに明け渡すまでは彼女の代名詞的な存在ベルトだっただけに、王座への思い入れは団体内の誰よりも強く熱い。だからこそ上り調子である後輩の追撃を完全に断ち、再び黄金のベルトを腰に巻くべく七海は祐希に対し、変に手心を加える事無くユカや他団体の猛者たちと対戦する時と同じように、妥協なきハードヒットな攻撃をガンガンと喰らわせていくのだった。

 本来は反則であるナックルパートを、祐希の額の傷へ躊躇無く撃ち込む七海。その厳しい攻撃もさるながら、勝利への異常なまでの執着心が彼女を鬼へと変貌させ、止めに入ろうとする若手選手たちも恐ろしさのあまり近寄る事が出来ないほどだ。

 大ダメージを受け困憊としている祐希には、もう反撃する力も残っていないのか?
 七海の鬼神の如く攻撃に耐えきれず、その闘志は萎えてしまったのだろうか?
 いや、彼女はじっと耐え攻撃の機会を狙っていた。
 確かに肉体的なダメージはあるがそれ以上に、デビューしてから絶えず追いかけてきた《目標》であった赤井七海に勝利したい、という気持ちの方が上回り多少の痛みなど感じている暇などない。七海本人にその気はなくても後輩という少し見下された存在ではなく、死力を尽くし倒すべき敵として認識されて初めて、自分は彼女と対等な立場となった気がした。

 既に一ダース近く額に打ち込まれた七海の拳。彼女はこれで最後と言わんばかりにぐるりと周りを見渡し、観客の反応を確かめると弓を引くように腕を大きく反らせる。

 ――今だっ!

 この僅かな隙を突いて祐希は、七海の腹へ重い蹴りを入れた。無防備な腹部に爪先がめり込んだ途端彼女の動きが一瞬止まる。そして間髪入れずに自分の鮮血で赤く染まる額を七海の頭部へ、何の躊躇なく力一杯ぶち当てた。傷口は更に広がったかもしれないが、フルスイングの頭突きを喰らった七海は大きく吹き飛びパイプ椅子の海の中へと崩れ落ちる。
 額を押さえ痛がる彼女の姿を祐希は、肩で大きく息をし暫しの間見つめていた。

 呼吸が整った頃合いを見計らい、頑丈少女は動きだし七海の赤味がかった長い髪を無造作に掴み強引に場所を移動させる。床に散らばっている椅子を蹴散らし嫌がる七海を無視して冷たく硬いコーナーポストの所まで到達すると、髪を掴んだまま思い切り鉄の塊に額をぶち当てた。ごんっ! という小さく鈍い音がし、頭部への衝撃で動けなくなった七海はがくりと膝を折ってその場にうずくまる。その間に悠々とリング内へと戻った祐希は、拳を握り四方の観客に向け、肚の底から大声で叫んだ。絶対あいつを倒してやるんだ――そう云わんばかりに。

 祐希の手加減なきラフ攻撃を受け、足取りも重くリングに帰還した七海は、ロープにもたれ掛り大きく深呼吸をした。その間も頭の中では、如何にして彼女を仕留めるか策を巡らせていた。
 身体能力や技もこの東都女子全選手の中でトップクラスである彼女が、自分より劣る部分は生憎見つからない。しかし格闘技者として最も根底の部分にある執念と根性が優れば、勝利の女神がもしかしたらこちら側に微笑んでくれるかもしれない。七海は覚悟を決めた。

 落ち着きを取り戻した七海は、相手を罵倒する言葉を叫びながら祐希の身体へ、変幻自在の蹴りを叩き込んでいった。祐希は懸命に両腕でブロックをするが、七海の脚は鞭のようにしなりガードする腕の向こう側へと、まるで無駄な努力だと嘲笑うかのようにヒットしていく。それは一撃で相手の動きを止めるような重い蹴りではなく、じわりじわりと何発も身体に叩き込んで痛みを蓄積させ動けなくさせる蹴りだった。

 ――やばい、打撃のダメージが浸透して身体が痺れてきた。このままだとやがて闘志も削がれ、相手の思惑通りになってしまう。何か善後策を打たないと!

 切れ目のないキックの雨を浴びせてくる、七海との間合いを外すのは、鋼の肉体を誇る祐希をしても困難を極めた。蓄積した身体の痛みと過去の対戦で植え付けられた恐怖心、射程範囲中に入る一歩がなかなか踏み出せないのだ。

 ――どうした? しっかりしろ日野祐希っ! お前に怖いものなんて無いはずだ。蹴りのひとつやふたつ喰らったって、簡単に壊れるほどやわなわたしじゃないっ!

 頭の中で何度も何度も、同じ言葉を唱え続けて自分を鼓舞する祐希。
 消えかかる闘志を再び熱く激しく燃やし、血肉に自信とパワーを送り込む。
 その時、廻りの空気を切り裂いて猛スピードで向かって来る、七海の蹴りの音が耳に入った。進行方向を予想するに左側頭部の辺り――確実に意識を苅りにきている。祐希は腕で頭部を保護しつつ、意を決して素早く間合いを詰めた。
 勝負を終わらせんとする七海の放つ側頭部狙いのハイキックが、振り切らんとする手前でその蹴り脚をキャッチ、同時に彼女の頭を掴んで固定すると祐希は身体を後ろに捻り七海の身体を高い軌道で投げ、マットへ頭部をめり込ませる。

 キャプチュード(捕獲投げ)が炸裂した。
 
 格闘技色の強いプロレスを好んで観ていた学生時代、祐希の最も好きだったこの技が殺気に近い匂いを放つ、七海のアグレッシブな攻撃を前にして咄嗟に出たのだった。かつて憧れ理想としていたファイトスタイルで、同じような志向を持つ七海と現在一騎討ちをしている。プロレスラーとしてこんな嬉しい事はない――祐希は頭を振ってマットから立ち上がらんとする好敵手を待つ間、ふとそんな事を思った。

 両足がしっかりとキャンバスを噛んで、全身を起こした七海へ掴みかからんと祐希が前進した。もう一発スープレックス等で彼女をマットへ叩きつけ、思い切り首や肩を締め上げれば絶対に勝てるはずだ。短絡的だが彼女にすれば確実な勝利の方程式が、かつての柔道少女を突き動かす。

 どすっ!

 祐希の鳩尾へ突き上げるような激痛が走り、彼女は思わず歩みを止めてしまう。
 スープレックスで喰らった首へのダメージに耐えながらも、七海がカウンター狙いのニーリフトを叩き込んだのだ。
 もともと打撃系格闘技の経験者で、プロレスラーになった現在でも時間をみつけてはキックボクシングのジムに通い、自分の武器の精度を高める努力を続ける彼女の膝蹴りが効かぬはずはない。勢いに乗りかけていた祐希をこの一撃で止めてみせたのだ。
 患部を押さえ屈む祐希の首に手をかけ固定すると一発、更にもう一発と連続で膝を突き刺していく七海。どてっ腹へ打撃が食い込む度に祐希の身体は浮きあがる。左右へ身をよじり膝地獄からの脱出を試みるが、首へのロックが恐ろしく固く振り解く事が出来ない。

 連続膝蹴りのダメージが祐希の顔色に表れたのを確認すると、七海は首のロックを解除し正面方向のロープへ振った。力無く背中でロープをバウンドさせて祐希が戻ってきた所に彼女は飛び上がり、右の膝を下顎部に目掛けて突き出す。祐希は反射的に掌で相手の攻撃を往なさんとするが、意外にも右膝は途中で失速し攻撃箇所へ被弾する事はなかった。
 虚を突かれて僅かの間、思考がフリーズした祐希の頬骨へ衝撃が走る。七海は二段蹴りの様に逆方向の膝頭を彼女の顔へぶち当てたのだ。
 振子の要領で勢いの増した膝蹴りを受けた祐希は、目の前が真っ暗になり真後ろへ倒れていった。

 大の字でダウンする祐希に被さると七海はレフェリーに対し、大声でフォールカウントを要請する。

 ひとつめが数えられた。目を閉じたまま動かない祐希。
 ふたつめのカウントが数えられても、彼女の身体は全く微動だにしない。険しかった七海の表情も勝利を確信したのか、少し柔らかくなっているように見える。
 レフェリーが最後のカウントをマットに叩き入れようとしたその瞬間、それまで動く気配のなかった祐希が気合と共に、右肩を上げてフォール負けを何とか回避した。
 
 勝利が目前まで迫っていた七海は愕然とし放心状態となっていた。

 よろよろと身体を左右に揺らし、必死に立ち上がろうとする祐希を見て我に返った七海は、すぐさま首に腕を巻きつけ、自分の肩に相手の腕を掛けて勢いよく持ち上げた。
 このまま後方へ倒れればブレーンバスターとなるが、七海はここから相手の身体を抱え正面に、そして頭部を砕かんばかりにマットへめり込ませる。七海の必殺技フィニッシャーのひとつである変形パイルドライバー、ファルコンアローが決まった。

 これを返されたらもう後はない――エビ反りになった祐希の身体を固める、七海の腕にも必要以上に力が入る。
 「絶対に負けるはずがない」という自信と「もしかしたら……」という不安とが交互に彼女の頭をよぎり、その表情はますます強張っていく。しかし残念ながらこの攻撃もフィニッシュになり得ず、祐希はカウントスリー寸前で身体を跳ね上げて、いつ終わってもおかしくないこの勝負をぎりぎりの所で繋ぎ止めていく。

 落ち込んでいる時間はない。
 一度で駄目なら何度でも、と七海は再び祐希を担ぎ上げファルコンアローの体勢に入る。
 もう一度この技を喰らえば今度は確実に試合は終了してしまう――そうはさせまいと祐希は、真上に自分の身体が持ち上がった瞬間、身を捻って七海の背後へと着地した。

 ――このチャンスを、絶対逃してはなるものかっ!

 真正面に落ちるべく祐希を見失い唖然とする七海が、正常に対戦相手の位置を認知するまでの僅かな隙に技を仕掛けなければ、祐希に勝機はない。だから一番自信のある、確実に相手を仕留められる技を咄嗟に選択した。
 右腕をぐるりと首に巻きつけ、七海の脇から左腕を差し込んで持ち上げ瞬時に頸動脈を締めた――元は柔道技である片羽絞めの完成だ。
 もちろん立ったままでも極める事ができるが、祐希はグラウンドの状態に持ち込み大腿部を使って胴締めも同時に行い、絶対に逃れられないよう念入りに七海の身体へと絡みつく。徐々に血の気が失せていくのを自分自身でも感じながら、七海は残された力を振り絞って祐希の技から逃れるべく、必死で抵抗し踠き足掻いた。
 
 四方を取り囲むロープに手か爪先が届きさえすればまた闘える――そう思い彼女は腕や脚を懸命に伸ばすが、リングほぼ中央というポジション故に距離がありすぎて絶望的だった。勝利を諦めずに抗う七海に対し祐希は、仰向けの状態から身体を回転させうつ伏せにして更に締めあげた。彼女の腕が、そして自分の肩が頸動脈をますます圧迫し、血液中の酸素が脳へ行き渡らなくなった七海は、目の前に三本あるロープの一番下を凝視したまま瞳からふっと光が消えた。
 最後の最後まで「ギブアップ」と彼女の口から自己申告する事無く、遂に失神してしまったのだ。

 七海の指先から力が抜けたのを見たレフェリーは危険と判断し、至急彼女の身体から祐希を剥がして容体を確認、そして介抱する。しばらくして目を閉じ眠るように小さく息をする七海を見て、当のレフェリーや慌ててリングに駆け込んできたセコンドの選手たちは「彼女は大丈夫だ」とほっと胸を撫で下ろした。この非常事態に観客は称賛の拍手も、怒りのブーイングも忘れ黙り込んでしまい、騒がしいリング内とは真逆に会場は静寂に包まれた。

 “敗者”七海の周りに多くの人間が集まっている中、彼女との死闘を制し次期王座戦への挑戦権を勝ち取った祐希は、リングの隅でロープに腰掛けひとりぼっちでリング上の騒ぎを他人事のように傍観していた。

 ――私が心底悪役(ヒール)を演じられたなら、倒れている七海先輩に向かって嫌味や罵倒のひとつでも吐いて、会場をブーイング一色に染められるのに……やっぱり私はプロレスラー失格なのかなぁ。

 ネガティブな思考が頭の中を過ぎる度に祐希の目に涙が浮かぶ。
 せっかく元川代表や七海にお膳立てしてもらったこの晴れ舞台を、台無しにしてしまった罪悪感でかつてプロとしての方向性に悩んでいた祐希の弱気な一面が現れ出した。


「バカ野郎、おまえ勝者だろ? もっと胸を張って堂々としろ!」

 聞き覚えのある声が祐希を叱咤する――セコンドに肩を借りふらふらになりながらも、マイクで怒鳴っている七海の姿がそこにあった。

 試合中はあれほど殴ったり蹴ったりされて憎くてしょうがなかった彼女だが、試合終了のゴングが鳴れば道場や寮でみせる優しい先輩へと戻る。だが無事だったとはいえ彼女が力無く失神した姿を、そうしたのが自分自身であるという罪悪感でなかなか七海の側へと寄る事が出来ないでいた。
 いつまでも躊躇している祐希の姿に苛立った七海は、とうとう若手選手の肩から腕を外して自分の脚でしっかりと歩き――脂汗を垂らし見るからに辛そうな表情で、一歩一歩祐希の方へ近付いていくと優しく彼女の身体を抱き締めた。

 七海の汗の匂いと体温を直に感じ、祐希の顔から不安の色が消え安堵の表情へと変わる。

「ったく……いつまで経っても変わらないんだから。もっともっと強くなりなさいよ、プロレスだけじゃなく度胸(ハート)の方も」
「なるべく努力……します」
「ちょっとシャクだけどユカとの王座戦、精一杯頑張ってちょうだいね」

 七海からの激励に祐希が頭を垂れ、両手で彼女の手を握り態度で応えると、それまで水を打ったように静まり返っていた観客席から一斉に、掌が痛くなりそうな程の大きな拍手が送られた。観客たちは一連の七海の行動によって祐希の勝利をようやく受け入れる事ができたのだ。

 地方興行で組まれたとは思えない――後でネットや映像ソフトでこの試合の事を知り、現地で観られなくて地団駄を踏んでしまうような、互いに死力を振りしぼって争われた決闘に近い色合いの好勝負を演じた、偉大なるふたりの女子プロレスラーに対し、感動や興奮をした観客たちからの称賛と感謝の拍手はいつまでも止むことはなかった――

 

十一

「――ここまで導いてくださった、尊敬すべき先輩である七海さんを撃破できた今、私が恐れるものは何もありません。現在チャンピオンベルトを持っているのはユカさんですが彼女の王座に挑戦させていただくという気持ちはなく、むしろ私がユカさんからの挑戦を受けて立つ位の心構えでいます」

 巡業を終え都内に戻ってから数日後、東都女子プロレスの事務所内に設営された記者会見場では試合の結果を受け、秋口に開催される大規模会場でのビッグマッチにマッチアップされたプリンセス王座戦、王者・小野坂ユカ対挑戦者・日野祐希に関しての記者会見が執り行われていた。

 団体代表である元川の司会の元、落ち着いた色合いのスーツに身を包んだユカと祐希は次々と飛ぶ各マスコミの記者からの質問に答えていた。
 元からの性格ゆえサービス精神たっぷりに受け答えするユカとは違い、奥手で話下手な祐希は何度も言葉をつっかえながらも何とか自分らしい発言を述べる事が出来た。上記の発言は他人に悪口を言う事が殆どない祐希の、王者ユカに対しての精一杯の抵抗であった。彼女の事を知らない記者はこの発言に失笑していたが、逆に祐希の実力をよく知る者たち――特に隣に座っているユカはこれを聞いて、思わず背筋を伸ばし身を正してしまうほどだった。

 記者たちからの質疑応答が終り、ふたりはカメラマンたちの前に立ち元川を中央に、右側には黄金色に輝くベルトを肩に掛けた余裕の表情のユカ、左側には緊張の面持ちで拳を固めファイティングポーズをとる祐希が立ち、シャッター音と眼が眩むようなフラッシュの中、リクエストに応じ幾度もポーズや表情を変えての記念撮影が行われた。早ければ当日中にもウェブニュースに、遅くても3日後に店頭に並ぶ専門誌には彼女らの、王座戦に賭ける意気込みや決意などが掲載され女子プロレスファンの元へと届くだろう。

 しかし僅か数日後――ツイッターやSNS等で勝敗予想が語られ出し、徐々に王座戦への盛り上がりを見せ始めたその矢先、突然団体より発表されたニュースにファンたち誰もが目を疑い、驚き、信じられずにいた。


《日野祐希、怪我の為予定されていたプリンセス王座戦は中止》――


【女子プロレス小説】小さいだけじゃダメかしら? ~ASK HER!~ ②

2020年04月12日 | Novel



 身に付けているTシャツが歩いているだけで、流れ出る汗でずぶ濡れになってしまう季節に変わった頃、祐希は東都女子に帰ってきた。二日前に彼女の実家へ元川から「戻ってくるように」と電話が入ったのだ。

 帰郷している間も、祐希は何もせずただごろごろとしていた訳ではなかった。高校時代の親友たちの協力により、昼間は母校の柔道部で臨時コーチとして後輩たちを指導し、夜は自分の《格闘技者》としての原点である町道場で子供たちを指導していたのだった。ただ口先だけのコーチングではなく、部員や生徒たちと同じようにフィジカルトレーニングから行いしっかり肉体をいじめ抜いてきた結果、休む前よりも身体のラインはよりシャープになり生白かった肌もこんがりと日焼けし、数ヵ月前までは自分のプロレスに悩んでいたとは思えない位、彼女は逞しく変貌していたのだった。

「柔道部の後輩たちと一緒に、毎日グラウンドを走っていたらいつの間にか、真っ黒になっちゃいまして……」

 ユカと七海に呼ばれ、東都女子の選手たちが日頃トレーニングをしている選手寮の近くにある、道場の敷居を久しぶりに跨いだ祐希は、更に頑丈に、そして赤銅色に日焼けた腕をふたりに見せにこりと笑った。見れば以前よりも髪を伸ばし、少年のようだったかつての面影は消えてなくなり、元より変わらぬ恵まれた体躯は別として、より女性らしくなっているのが印象的だ。

「うんうん、元気そうで何より。腕は……まさか鈍っちゃいないよね?」

 お気に入りの駄菓子を口に咥えたユカが尋ねる。ますます精悍さの増した祐希を間近で見て、一刻も早く彼女と腕試しがしたくて堪らないといった感じだ。祐希も数ヵ月のブランクを経て、自分が今どこまで出来るのか? ユカという最高で最強の相手に、仕上がり具合をチェックしてみたくてうずうずしていた。

「試してみます? 実は不安で不安で仕方なかったんですよ」
「じゃあ決まりね。う~んワクワクするぅ」

 ふたりとも質は違えど、互いにいい笑顔をみせ合っている。至って健康的な上下関係に目を細めた七海は、勝手に傍観者を決め込んで手にしたペットボトルの緑茶を口に含んだ。 

 一旦ロッカールームへ入り練習着に着替え終えた両者は、道場の中央に設置されているリングへと登ると距離を取って向かい合った。柔道場の畳とは違う、鉄骨の上に隙間無く並べられた木板が、足を踏み出す毎にぐっと浮き沈みする不思議な感覚や、リングの表面を覆うキャンバスが、レスリングシューズと摩擦してキュッと鳴る音など、祐希にとっては全てが懐かしく――そして新鮮に感じた。
 どちらからともなく一歩前に進んだかと思うと、腕を絡めてがっちりと組み合い祐希を“査定”する為のスパーリングが開始された。誰もいない――いや、リング上で闘うふたりと、一部始終を見届けている傍観者の計三人がいる道場の中は、靴とキャンバスが擦れる音とリングの弾む音、そして激しい呼吸音だけが聞こえるのみだ。
 祐希は緊張していたのか、開始序盤はユカによって簡単に背中を奪われる。何度も持ち上げられマットに這いつくばされたが、肝心の関節技だけは極められてなるものかと全神経を、そして全筋力を集中して細心の注意を払う。だが実戦経験の差なのか、ユカは彼女のディフェンスを嘲笑うかのように足や手首を掴んでは引っ張り、折り曲げ、そして捻った。関節を極められる度に低い呻き声をあげる祐希にリングの外から七海の激が飛んだ。

「ゆー、落ち着いて。焦れば焦るほどユカの思うつぼよ!」

 何もさせてもらえず頭に血が上りかけた祐希だったが、七海のアドバイスで冷静さを取り戻すと今度は自らが積極的に動き出した。こうなると彼女の圧倒的な体力を前にユカがたじろぐ番だ。幾度とあぶない場面があったが、先輩の意地からか関節技を取られる事は辛うじて避ける事はできた。しかし彼女の圧力の前に次第に技を極めきれなくなり、まるで根元から刈り取るかのような強烈な足払いで、マットに何度も倒され押し潰されるユカ。
 胸の奥の闘志は最高潮に達しているが、互い同士は決して激高しラフファイトへ走る事はなく、一定のリズムを刻みながら相手を掴んでは倒し、体勢を変化させながら身体の節々を絞めていく様は一種独特の美しさを醸し出していた。くるくるとリングの上を回転する両者の姿は、互いの尾を喰わんとし環状になる、《ウロボロスの蛇》のイメージがオーバーラップする。 

 ふたりがこれまで培ってきた、技術と身体能力で描く《格闘芸術》に心奪われていた七海がふと左腕の腕時計を見ると、彼女らがスパーリングを開始してから既に40分を越えようとしていた。

「もう終りにしない? ふたりとも」

 練習着のTシャツは水を被ったように汗でずぶ濡れ、呼吸も荒くなってきたふたりは七海の言葉を合図に組み合うのを止めた。熱で顔を上気させ、ロープにもたれ掛かり大きく肩が上下するユカと祐希。

「はぁ……はぁ……。以前より更にレベルアップしてるんじゃないの? もうお姉さん疲れたわよ」
「ふぅ……ユカさんにそう言っていただけると、凄く自信になります」

 しばらくして呼吸も落ち着いてきた両者は、リング中央へ移動すると膝を折って正座をし、相手に対し深々と頭を下げる。スパーリングの終了を見届けた七海は、労いの拍手を送りながらリングの中へとあがっていった。

「ユカ、ゆー、お疲れ様。良いものを見せてもらったわよ」

 先輩からおほめの言葉をいただき、嬉しさと照れ臭さで祐希の顔にはにかんだ笑顔が浮かぶ――子供のように頬を赤く染めて。


 翌日、都内・某市民センター――

 祐希にとっては久しぶりの実戦の場。ギャラリーからの歓声や怒号、それに溜息などが入り混じるプロレス会場独特の空気が肌から直接反応し、緊張感と同時に高揚感もふつふつと湧き上がってくる。

 彼女は第一試合オープニング・アクトにラインナップされ、対戦相手は同期の選手である蒼井カンナ。祐希が欠場している間にまぐれながら先輩選手からピンフォールを奪い、東都女子のファンの間では目下人気急上昇の選手だ。自信に満ちた相手の表情から上り調子である事は、団体内における現在の力関係パワーバランスに疎い祐希の目から見ても明らかだった。
 それまでの明るかったコスチュームカラーを黒に変え、小麦色によく焼けた鋼の肉体・茶色を通り越えて金髪に近いヘアカラーとなった祐希に、まるで初めてみる選手のような視線が四方から突き刺さる。腕を組んだまま相変わらず仏頂面でみつめるマニアたちはともかく、多くの東都女子のファンの記憶からは試合ぶりも見た目も地味だった祐希の存在は薄れており、マイナーチェンジをして突如現れた彼女に皆戸惑いを隠せないでいた。

 何さ、あんたの居場所はもう無いんだよ――

 カンナは表情と態度で祐希に訴えかけるが、祐希は一向に動じる気配はない。それだけ心身ともに充実した状態だという事だ。時折ちらりと相手の方をみるが過剰に反応せず、ストレッチなどをしてじきに始まる闘いへと備える。

 試合開始のゴングが鳴るや、カンナは奇襲攻撃とばかりに顔面狙いのドロップキックを放つ。長い脚から繰り出された蹴りは彼女の思惑通りの場所にヒットし、祐希は鼻血を吹き出して後方へ転倒した。決して反則ではないが、カンナのえげつない攻め方に勝敗以外の、何か別の感情を感じた祐希は、急激に沸き上がる怒りを抑えて体勢を整える。
 今度は祐希が打撃技を仕掛けてみる。右へ左へと序盤の定番である肘打ちを繰り出すが、相手は受けるセールために胸板を突き出す事もせず、ひたすら攻撃を避けまくって――いや、逃げ回っていると言った方が正しいだろう。とにかくカンナは彼女との試合を成立させる気など最初から無く、観客を前に自分に対して「指一本も触れられない」無様な姿を見せて祐希の存在を貶めようと企んでいたのだ。

 

「キツいなぁ……これは。カンナに試合させたのまずかったかしら? ゆーの同期だからって安心して任せたのに」

 観客からは見えない、選手入退場口の裏側でリング上の様子を眺めていた七海が呟いた。後輩たちに対し、意識してなるべく公平に接するよう心掛けているつもりだが、これでは気持ちを新たに再びリングへ戻ってきた祐希が不憫でしかたがない。危険すれすれな攻撃を幾度と喰らい続け、怒りに任せて反撃しようにも相手が逃げてしまいどうする事もできず、彼女のスタミナは無駄に消費していくだけだった。

「う~ん、合同練習の時にもうちょっとシメとけばよかったかな。何もできなさそうな人畜無害な顔をして、実はえげつない一面を持っているだなんてまるでマンガね、カンナちゃん。でも――」

 七海のいる場所から反対側の壁に寄りかかって、同じように試合を覗き見していたユカが残念そうにいう。だが言葉とは裏腹にそれほど恨めしい感情は持っていないようで「これもプロレスのひとつ」だと割り切っている様子だ。
 七海がユカの顔をじっと見る。

「相手が試合をする気が無いのなら、自分から勝負を仕掛ければいい。いくら見栄えビジュアルが良くっても結局、お客さんは強い者に惹かれていくものなのよ」

 さぁて、どうする祐希?――ユカと七海は息を飲んで、彼女なりの打開策の行方を見守った。

 

 なにひとついい所の見せられない祐希に、観客から罵声が浴びせられる。いつもなら5分で試合にカタが付いても不満をいう輩が、五分を過ぎても彼女が攻めあぐねている姿に苛立ち始め、口々に文句を垂れるのだった。

「何やってるんだ!」
「あんな相手、さっさとシメちゃえよ!」

 わかってるよ、そんな事――そう叫びたい気持ちをぐっと飲み込み、カンナからの攻撃を受け続ける祐希。

 幸い最初のドロップキック以外は大した威力も無いので、身体中に攻撃を受け続けるも実はダメージは少ない。ただ相手を勘違いいいきもちにさせるために過剰オーバーに苦しんでいるだけなのだ。スタミナも切れだしてきて、そろそろ試合を終えたい彼女が接触コンタクトしてくるのは目に見えている。
 突如全速力でロープの方向へと駆けていくカンナ。
 自身の必殺技である高角度後方回転エビ固め(ウラカン・ラナ)を決める気だ。
 はぁはぁと息を切らせて祐希は、腰を折り棒立ちとなり相手が帰ってくるのをじっと待つ。そして彼女が戻ってきて、肩へ手を掛け真上に飛びあがった瞬間を見計らって腰へ腕を廻し、カンナを捕える事に成功する。

 しまった!――顔面蒼白となるカンナ。

 祐希は相手が仕掛けた技の勢いを利用して、自らが膝を折りそのままカンナの後頭部をパワーボムの要領でマットに激突させた。マットがたわむほどの勢いで頭を叩き付けられたカンナは一瞬意識が飛ぶ。

 逃げなきゃ殺される、と本能がけたたましく非常ベルを鳴らす。
 
 背をマットにつけたまま祐希から距離を取ろうとしたが時すでに遅し、足を掴まれているカンナは何処にも逃げる事ができない。不敵な笑みを浮かべながら見下ろす祐希が、彼女にはまるで悪魔のように思えた。
 瞬時に祐希の巨体がカンナの状態に覆い被さる。休場期間に心身ともに鍛え直し、ますます筋肉の密度が増した祐希の身体は、細身な彼女には到底ひっくり返す事など不可能に近い。全く身動きが取れないカンナの首を抱え込むと祐希は、袈裟固めの体勢をとり彼女の上体を思いっきり反らせた。

「ヘイ、ギブアップ?」

 大声でレフェリーが技をきめられているカンナに意思確認をする。両足をばたつかせ必死で脱出しようと試みるが、一度型にはまってしまえば逃げる事などもう無理だった。
 太い腕で抱えられた頭を強引に胸元へ密着させられ、呼吸が困難であるカンナは顔が真っ赤になる。ロープへ救いを求めたくとも器用に足で片腕を極められ、二重の苦しみの中カンナはこのまま耐えるか、ギブアップして敗けを認めるかの究極の選択を迫られた。

 ぱんぱんぱんぱんっ!

 空いている方の手で祐希の背中を何度も叩く――降参ギブアップの意思表示だ。圧迫感と肘関節の激痛に耐えかねたカンナは遂に負けを認めたのだ。レフェリーが慌ててふたりを分けると技から開放された安堵と、それまでの耐え難い恐怖でカンナは涙で顔を濡らしていた。

 祐希はそんな彼女をみてはっと我に返った。
 試合中は憎くて憎くて殺してやりたい程だったが涙に暮れているカンナの顔を見た途端、練習生時代共にデビューを夢見て切磋琢磨していたあの頃が頭の中でフラッシュバックしたのだった。

 祐希の手が自然とカンナの手を掴んで立ち上がらせる。怒り心頭で不機嫌だった表情も和らぎ、普段の日野祐希へと戻っていたのを確認したカンナは、指で涙を拭い称賛と謝罪の意味を込めた熱い抱擁を交わす。自分のした事を恥じているのかちょっぴりぎこちない彼女の笑顔に、祐希はこれで闘いが終った事を実感した。

「じゃあ――先にいくね。カンナ強いもん、また一緒に闘える日が来るよ」
「うん。絶対あんたの所まで辿り着いてやるから、それまで辞めるなよ」

 彼女らが目の前の好敵手へエールを贈る姿に、感動したひとりの観客が拍手をする。それが呼び水となり次第に数は増え最終的にはほぼ全員の観客――斜に構えたマニア連中までも――がリング上の両雄に拍手を送っていた。長期休場明けの祐希の東都女子マット復帰戦、いや彼女の試合自体がこれまでとは違い、多くの観客から支持された証拠だ。

 控室へ戻る道中に観客たちから、賞賛や激励の言葉を頂いて祐希は朧気ながらも進むべき自分の方向性が見えた。今はまだそれが正解だとは言い難いけれど、そこに突き進んで行ければ間違いなくプロレスラーとしてレベルアップでき、人々の記憶に残る存在になるはずだ――もう祐希に迷いは無い。己に自信が無くただ淡々と闘っていた過去の自分とはオサラバだ。

 バックステージへ入ると、彼女の試合を覗き見していたユカと七海が拍手で迎えてくれた。「ゆー、よかったよ!」と直接言葉で伝えてくれたのはもちろんだが何よりも、尊敬する先輩たちが満足気な表情をしているのが、祐希にとって一番の励みになった――

 

 お目当ての選手のグッズを入手しようと、会場である市民センターの一角に設営された狭い物販スペースは多くの人で溢れかえっていた。ちょうどセミファイナル前のリング調整の為に約十五分間の休憩時間が設けられ、気合の入ったファンたちは、直接選手たちからサインが貰えるTシャツやポートレートなどのグッズを、此処ぞとばかりに購入していた。
 人気が高い選手の前にははやくも、大勢の客が長い列をつくり並んでいるが、いわゆる《若手選手》たちの前にも、数は少ないが純粋に彼女たちを推している熱狂的なファンが陣取り、グッズ購入と引き換えに「未来のスター候補」たちとのお喋りを楽しんでいる。

 若手の域をとうに超え、《中堅》と呼ばれるカテゴリーへと差し掛ろうとしていた祐希だが人気の面では全然だめで、それが証拠に彼女のブースの前には誰ひとりとして並んでいなかった。時折思い出したようにひとりかふたり、人気選手の列に並ぶのを諦めた輩が現れて仕方なくポートレートを購入していくのが精々だった。自分の周りにいる選手たちが次々と用意したグッズを売り捌き、またはその上にサインペンを走らせていく様子を羨ましそうに眺めている祐希の元へ、小学校高学年と思わしき女の子が親御さんであろう男性に連れられてやってきた。 

「あの――これ下さい」

 そういって女の子は、以前のコスチューム姿が映っている祐希のポートレートを指差した。突然の事で驚くやら嬉しいやらで、どんな表情を作っていいかわからない祐希は素っ頓狂な声をあげて対応した。彼女の厳つい身体に似合わぬ声のトーンに女の子は少し笑った。

「はい、ありがとうございます――サインは欲しいかな?」
「お願いします」

 女の子が購入したポートレートに自分のサインを、丁寧にペンで刻みつけていく。サインを書いている間、彼女は無言で熱い眼差しを送り続けるのが気になった祐希は逆に質問をしてみた。

「こう言っちゃ興醒めかも知れないけど――本当に私のサインでいいの?」
「初めてお父さんに連れられてプロレスを観に来たのですが、さっきの試合をみて一発でファンになりました」
「本当? うれしいなぁ。はい、これ」

 祐希はサインを書き上げたばかりのポートレートを彼女に手渡すと、少女は何度も目を通し嬉しそうな笑顔を見せる。

「わたし――中学校へあがったら柔道を始めます! 日野選手みたいにわたしも強くなりたいから」
「うん、がんばって!」 

 そういうと祐希は彼女の小さな手を取り、女性らしい優しさが十分に感じられる握手をする。自分が応援する選手から握手をもらって、小学生の女の子は嬉しさと感動で瞳を潤ませた。

 ――やった! ちゃんと私にも応援してくれるファンがいるんだ、嬉しいなぁ

 父親の手に引かれブースを去っていく、女の子の後ろ姿にいつまでも手を振って見送りながら彼女はしばらく余韻に浸っていた。試合を通じて観ている人に興奮と感動、そして希望を与えられるような存在になる――プロレスラーになる際に思い描いていた夢がいま現実のものとなり、なかなか興奮が覚めやらない祐希の元へ客がひとり、またひとりと増えていきサインを求め行列らしきものを作っていた。彼女のプロレスがやっと周りのファンたちから認められたのだ――

 



 この日祐希が《プロレス開眼》したきっかけを後日販売された、東都女子プロレスの公式パンフレット内のインタビューで語っている。

 

 ――あの試合がきっかけでお客さんの、日野選手を見る目が変わりました。

祐希「(笑顔で) はいっ! 長く暗いトンネルの出口がやっと見えた、って感じでしたね」

 ――それまでも若手らしからぬ《強さ重視》のファイトをしていたのに、お客の反応は薄かったですね。

祐希「ええ、驚くほどに(笑)。実はあの当時と今の闘い方ってあまり変わってないんですよ」

 ――組んで、投げて、極める……ですよね。じゃあ当時と今との相違点って何でしょうか?

祐希「そうですね――相手の攻撃に耐える時間が以前より長くなった、という所でしょうかね」

 ――それはよくわかります。

祐希「前は焦り過ぎて、よーいドン!それいけーって感じで周囲を気にする余裕も無かったんですが、ある日先輩から「おまえ身体が頑丈なんだから、もっと技を受けてみたら?」とアドバイスされたんです。そうすれば自分の得意技がより映えるから、って。目からウロコでした、プロレスってたくさん技を出せばいいってものじゃないんだ!って――正直身体はキツイですけど(笑)」

 ――ホントだ(笑)、身体中アザだらけ。

祐希「この身体の痛みと引き換えにいま、本当の意味でプロレスをエンジョイできていますから仕方ないですね。いまこうしてプロレスについて楽しく話せるのも、偏に私の事を叱り励まし続けてきた先輩や、東都女子の仲間たちのおかげだと思っています――これからもお客さんから呆れられない程度に突っ走りますんで、応援よろしくお願いします!」

 

 祐希の生活は一変した。
 かつてはあまりにも試合内容が固く、「つまらない」との判断で強制的に休場させられていたのが嘘のように、毎大会彼女の試合が組まれるようになった。自然と出場順も徐々に後の方になり、格の高い選手との対戦が多くなるにつれ、彼女に熱視線を送るファンの目も増えてきている。そんな状況に祐希はやりがいを感じ、自分を応援してくれている人たちを失望させないため、日々の練習にも自然と今まで以上に熱が入る。

「自分のファイトがお客さんたちをエキサイトさせているのと共に、お客さんが自分をみる真剣な眼差しが更に《プロレスラー》としての自我を高めてくれるの」

 いつだったかユカや七海たちに食事へ連れて行ってもらった時、七海が雑談中に漏らした言葉が頭の中でリフレインする。最初に耳にした時にはまだデビューしたてで、彼女の言葉の意味が全然理解できなかった祐希だったが、今では実体験としてよく分かる。それだけリング内外での経験を重ね、自分のプロレスというものを試行錯誤してきた結果だ。祐希は今、プロレスが楽しくてしょうがなかった――


 リングの上で祐希は、プリンセス王者・小野坂ユカと対峙した。

 道場でのスパーリング等では何度も顔をあわせている両者だが、観客を前にしての対戦は今回が最初であった。それだけ祐希の番付も上がってきた証拠である。ただし残念ながらシングルマッチではなくユカには七海、祐希には龍咲がパートナーとして付いているタッグマッチではあるが、それでもプロレス人生初めてのユカや七海との試合にしてメインエベントという事で、祐希の顔に映る緊張の色は隠せないでいた。

 龍咲と七海との闘いから始まったこの試合、長身同士の両雄が繰り出す多彩な蹴り技やダイナミックな投げ技などで会場を沸かせた後、東都女子ファンが待ちに待った注目のマッチアップが実現した。ほんの数か月前までは絶対に組まれないし期待もされなかったふたりの組み合わせに観客は、本日一番の歓声をリングに向かって送った。

 ユカがミニマムな体型を活かしたスピーディーな攻めで、大柄な祐希をテイクダウン、そして各種グラウンド技で彼女のスタミナと戦意を削ごうと試みるが、同じく寝技を得意技とする祐希は技が完全に極まる手前でこれを上手く切り替えし続け、逆に技を仕掛けてユカに悲鳴をあげさせた。
 体重が祐希にある分、グラウンドでの攻めでは分が悪いとみたユカは早速、相手と距離を取っての空中技へと方向転換した。彼女のスピードについていけない祐希は何度も死角からの飛び蹴りを喰らい、あるいはヘッドシザースで投げられ翻弄されっぱなしとなった。

「ゆーちゃん、落ち着いて! カッとなったら絶対ダメっ!」

 コーナーに控えている龍咲がアドバイスをする。
 苛立ちが募り目の前が霞がかってきた祐希は、何とか落ち着きを取り戻し呼吸を整える。そしてロープをリバウンドさせ猛スピードで彼女の元へ駆けてくるユカの身体を捕えると、柔道技である払い腰で円弧を描くように投げマットへ強く叩き付けた。頭を押さえ苦悶の表情を浮かべるユカへ追い討ちを掛けるべきか一瞬考えた祐希だったが、自身のダメージの蓄積を考慮してここは一度引き下がる事を選択した。

 攻守は時を追う毎に目まぐるしく入れ替わり、攻め時とみれば4人は入れ替わり立ち替わりにリングへ入り容赦ない攻撃を加えていく。闘いが熱を帯びるにつれ一対一が基本のルールに関わらずふたり同時、あるいは協力しての攻撃が行われ一秒でも早く相手チームを屈服させる事に全力を傾ける。
 ノックアウトを狙った七海の鋭い蹴りを、上手く躱してキャッチした龍咲がドラゴンスクリューで彼女の身体を回転させダウンさせるや、続く祐希が回転した際に痛めた膝へ、全体重を乗せたエルボードロップを叩き入れ膝へのダメージを蓄積させていく。

 この好機を逃してはなるものか、と祐希は素早く脚を取るとクロス・ヒールホールドで絞り上げる。足首を捻じ曲げられた七海の膝靭帯に電流のような激痛が走った。マットを拳で殴りつけ、必死の形相でこの痛みに耐えようとする彼女に対し、祐希は足首のホールドを緩める事無くますます捻る角度を深めていく。もうギブアップまであと一歩――その時、祐希の眼前に黒い影が覆ったかと思った次の瞬間、顔面に割れんばかりの痛みが広がった。

 龍咲の懸命なブロックを掻い潜り、コーナーポスト最上段からユカがニードロップを敢行したのだ。
 技を解き顔を押さえて悶絶する祐希。
 その間に痛む脚を引き摺るように這って自軍コーナーへ戻り、七海は改めてユカとタッチをする。レフェリーは目視で選手交代を確認した。

 相棒はしばらく動けないだろう、ならば自分が勝負を決めてやる! と意気込むユカは痛む祐希の顔面へエルボーバットを無茶苦茶に叩き入れる。内出血で徐々に腫れあがっていくがそれでも彼女は、怯む事無く必死になって応戦した。
 両者共一歩も引かない激しい乱打戦を制したのは――キャリアに勝るユカであった。
 彼女は唸りをあげる祐希の剛腕を紙一重で躱すと背後へ回り胴をホールドする。「スープレックスで投げられる」のを防ぐため条件反射的に、祐希は背後を取り返すがそれはユカが仕掛けた罠であった。自分の胸下に巻かれた太い腕を外し背負い投げの要領で彼女を前方へ投げとばす。手首を掴まれたままキャンバスの上へ背を付けた祐希は、立ち上がろうと後転して体勢を整えようとするが、それを阻止せんとユカはエビの状態となった彼女を、両脚で固定しブリッジをして圧を掛け逃げられなくした。欧州式足折り固め(ヨーロピアン・クラッチ)が決まった。

 両手首を掴まれたまま仰向けの身体をくの字に折り曲げられるという、きわめて屈辱的な体勢のなか脱出すべく懸命に藻掻く祐希だったが、思いの外ホールドが強くて逃れられず断腸の思いでスリーカウントを聞く事となってしまう。

 ――やっぱり……まだまだ遠いのか? ユカさんまでの距離って

 龍咲から肩をぽんと叩かれ健闘を労われている中、レフェリーによって腕を高々と掲げられ、四方の観客に勝者である事を誇示するユカと七海を、祐希は恨めしそうな表情で見つめていた。ユカは持参してきた眩しく金色に輝くプリンセス王座のベルトを、無念さで頭を垂らす祐希の目の前へこれ見よがしにかざし「自分が東都女子のトップである」事を無言でアピールした――近い将来、このベルトにチャレンジするのは祐希、おまえだと言わんばかりに。


【女子プロレス小説】小さいだけじゃダメかしら? ~ASK HER!~ ①

2020年04月08日 | Novel



 スポンサーの企業名がプリントされた青色のコーナーマットに、力無く青白い顔色で力無くもたれ掛かる茶髪の対戦相手を、岩のようなごつごつとした肉体とは対照的な「田舎顔」をした少女はもの悲しげに見つめていた。腰に手を当て、仁王立ちで反撃を待っていたが、対戦相手の目の奥には既に生気が感じられない。
 もうこれ以上の進展は望めない――諦めの表情をみせた少女は、相手の髪を鷲掴みすると首投げでマット中央に寝かせ、大蛇が獲物を仕留めるかの如く肩口から、素早く太い腕を巻き付け一気に締め上げた。
 既に抵抗する力も意思も残っていない対戦相手の先輩レスラーは、あっという間に彼女の上腕を叩いて降参の意思表示をする。
 試合は10分も経過しないうちに、剛腕少女の勝利が確定した。
 だが、圧勝ともいえる彼女の勝利にもかかわらず、ギャラリーの視線は実に冷ややかだった。プロレスを初めて生観戦する初心者らしき観客以外、彼女の勝利を讃える拍手を送る者がいないのがその証拠だ。

 工事用の車両が往来し倉庫が建ち並ぶ一角にある、資材置場にも似たこの場所は小さいながらも、マニアが多く集う会場としてファンや関係者にも知られており、ここで歓声が貰えれば興行を打つ団体や闘っている選手は、お墨付きを頂いたといっても言い過ぎではない――彼女の一直線なファイトぶりは、観戦歴の長い猛者連にはお気に召さなかったようだ。
 まばらに聞こえてくる拍手に送られ控室に戻っていく勝者は、もう一度振り返り観客の方を見る。
 何とも皆つまらなそうな表情だ。
 試合内容が悪いのか、対戦相手のレベル不足なのか。もしかすると自分自身にプロレスラーとしての技量が欠けているのかも――そう考えると、ますますどうしていいのか分からなくなった日野祐希(ひの ゆうき)は、じっと自分を見つめる客の視線が恐ろしくなり、急いでバックステージへと引き下がっていった。

 リング上では、アイドルチックな衣装の若い女性リングアナウンサーが、次の試合に出場する選手の呼び出しを開始するところだった――

 お待ちどおさま、という店員の声と共におんなふたりが座るカウンター席へ、白い鉢に盛られた熱々のラーメンが運ばれる。ひとつは澄み通ったスープが綺麗な塩ラーメン、もうひとつは白濁したスープの豚骨ラーメンだ。彼女たちは同時にいただきますと手を合わせると、湯気で一杯の器に遠慮なく顔を突っ込み麺を思う存分啜った。

「七海さん――どうしたらいいんでしょうね、自分?」 

 今夜の興行が終了し、選手たちがそれぞれ帰路に着くなか祐希は、本日のメインを務めた先輩レスラーの赤井七海を、遅めの食事に誘い、今自分が抱えている悩みを聞いてもらっていた。
 人に相談する時点で、ある程度結論は決まっている――なんてよく言うが実際のところ祐希には、解決の糸口すら見いだせずにいた。だからこそ経験豊富で何よりも自分と同じ、武道経験者であるプロレスラー・赤井の助言を聞きたかったのだ。

「ゆーも遂に“新人”卒業か。デビューしてしばらくは只、一生懸命にファイトしていれば出来不出来に関係なく拍手を貰えるけど、月日が経ってくると自分に対し、お客さんの求めるものが大きくなると簡単にはいかなくなるのよね」

 七海はかつて自分も通過してきた道を振り返り、独り言のようにつぶやいた。

 今でこそ《東都女子プロレス》のエース、常にトップコンデンターの地位にいる赤井七海だが、デビューして最初の数年は武道経験者特有の融通のなさによって、なかなか芽が出ない時期があった。

「こっちがガンガン前に出て行っても、向こうが攻撃を嫌がって避ければ空回りしているように見えるし、第一痛そうな顔を対戦相手にも観ているお客さんにも見せるのが抵抗があったわ。ゆーもそうでしょ?」

 祐希はただ黙って首を縦に振り、七海の問い掛けに返事をする。

「わたし――格闘技色の強いプロレスが好きだったんですよ。ゴツゴツとした打撃戦やグラウンド技のテクニカルな攻防に惹かれて“自分も将来やってみたいな”って思ってましたけど……実際見るのとやるのとでは大違いで」

 祐希は苦笑いをしてラーメン鉢を覗き込みながら、自分のプロレス体験を語りだした。

 彼女は幼い頃に、習い事のひとつとして通っていた柔道の町道場で、指導者によって非凡な格闘センスを見い出され、中学や高校には地域で《強豪校》と呼ばれる所へ進学し、日々の厳しい稽古により己の強さに磨きをかけたその結果、中総体やインターハイ等全国規模の大会に出場し好成績を収めるほどの実力者となった。

 プロレスとの出会いは、高校時代に柔道部の夏期合宿で友人が持ってきた、男子の格闘系プロレス団体のDVDがきっかけだった。

 それまでも何度かテレビでちらりとプロレスの映像は観たのかもしれないが、あくまで自分のやっている事とは別物と意識し記憶していなかった。食堂に置かれた薄型テレビに映し出された試合は自分たちの行う《格闘技》の試合にも似た緊張感あふれるもので、この奇妙な《格闘スポーツ》に祐希は一瞬で虜になった。そしていつしか、当面の《将来の夢》だった柔道整復師への道を後回しにし、リングの上で大観衆を前に闘う《修羅の道》を志すようになったのだった。

「一度はみんな通る道なのよ――自分がリングでやりたい事とお客さんが求めているものにズレがあると、どうしたらいいのか悩んじゃうよね……私も昔はそうだったもん」

「今や東都女子《不動のエース》である七海さんが…… それでどうやって克服したんですか?」

 赤みがかった長い髪を気にする事なく、魚介系の出汁が効いた塩スープの底に沈む、中太麺を七海はずずっと音をたて、一気に口の中に頬張る。

「自分らしく闘う事――かな。無理にファイトスタイルを変えたり過剰なキャラクター付けをしても、お客さんから騒がれるのはホンの一瞬だしね。それだったら好きな事やって長くないプロレス人生を楽しく過ごした方がいいよね? 拍手や歓声なんて試合を頑張ったご褒美みたいなもんよ」

 納得したような、でもちょっぴり不満げな面持ちで《先輩》からのアドバイスに耳を傾ける祐希。彼女の体育会系特有のバカ真面目さに、思わず吹き出しそうになった七海は、祐希のラーメン鉢に自分の叉焼をそっと浮かべた。

「……何ですか、これ?」

「プロレスについて深く悩んでいる後輩へ、先輩からのプレゼント。そのうち《答え》は自ずと出てくるから、焦っちゃダメよ」

 そういうと七海は、鉢に残っていたスープを全部飲み干すと、カウンターテーブルに置いてあったレシートを手に取りレジへ向かう。どうやら今夜のラーメン代を奢ってくれるようだ。

 自分から無理を承知で誘い、有難い《助言》をいただいた上に食事代まで払ってくれる大先輩に、ますます頭が下がらない祐希であった。だが、これからの自分の《進むべき道》が見えず、悶々とした不快な気持ちは胸に引っ掛かったままだった――

 古代ローマ神殿をイメージしてデザインされた、金色のプレートが中央に輝く紫のチャンピオンベルトが、これから対戦する相手、そして観客たちに対して「誰が東都女子で一番強いのか」を無言でアピールする。だが当の所持者の身体のサイズに全くフィットしておらず、権威を示すために腰に巻いているのではなく、彼女がベルトに巻かれているといったほうが観る側も納得するだろう。

 東都女子プロレス認定王座《プリンセス・オブ・メトロポリタン》現王者である《能天気ダイナマイト》小野坂ユカが、ショートボブの茶髪を振り乱しながら笑顔で四方のコーナーへ駆けあがり、この会場に足を運んでくれた――そしてメインイベントまで席を立たずに観てくれているお客様に対し両手を振って感謝の意を表した。団体内で最も背が小さく体重の軽い彼女ではあるが、プロ意識とプロレスに対する熱い想いは、ここに所属しているどの選手にも負けない自信がある。

 目の前に立っている今日の対戦相手は、ユカがデビューして1年後の入門ながらもビジュアルの良さと、どんな攻撃にも耐えうるディフェンス力の高さで人気を上げてきた《微笑みの重戦車》龍咲真琴(りゅうざき まこと)だ。
 黒光りするロングヘアーと少々垂れ気味の瞳はどこかおっとりとした印象を抱かせるが、一旦こうと決めたらテコでも動かない意思の強さを持っていて、本日のタイトル戦も本人の猛アピールにより王者・ユカが指定した査定試合や、タッグマッチを含む数回の前哨戦をクリアし、ユカはもちろんの事、東都女子のファンたちにも頑張りが認められやっと漕ぎつける事ができた――もっとも、この「下剋上」的な状況を設定し、一番楽しんでいるのはユカ本人だったりするのだが。

 勝手気まま・自由奔放なプロレス生活を送り、これまでタイトルとは無縁だったユカだったが、友人で《絶対王者》と呼ばれていた赤井七海の欠場により、急遽組まれた王座決定戦において現在は別の団体で活動する、かつてユカを指導した先輩レスラー・浦井冨美加との死闘を征し勝利した事で団体の顔となり、同時にエースとしての責任感が芽生えたのだった。

 過去の防衛戦では、前王者である七海や浦井とのリマッチが行われ、興行的にも観客の満足度も高かったものの、同期やキャリアの長い選手との闘いが続き、早かれ遅かれ飽きられてしまうと考えたユカは、次の挑戦者は自分よりキャリアの浅い、《スター》までのボーダーラインが見え隠れしている有能な選手だと決めていた――その第一弾選手が龍咲真琴だった。
 身長もあり、前髪を横一文字に切り揃えたロングヘアーという日本人形的な可愛らしさで徐々に人気の出始めている彼女を、更にステップアップさせ自分や七海に続く東都女子の《人気商品》となってもらうためユカは一肌脱いだのだ。

 ゴングが鳴るや否や、龍咲は気合い十分の表情でチャンピオンへ一直線に猛突進、ワンピースの白いリングコスチュームの挑戦者は白羽の矢の如く、自分より小さなユカの身体に体当たりし彼女を遠くへ吹き飛ばす。軽量のユカは成す術も無く勢いよくエプロンの端まで転がっていった。
 まどろっこしいチェーンレスリングではなく、小細工無しに「ベルト獲り」を自己主張してきた龍咲に、転倒時に打った頭を振り意識を取り戻しながらも、心の奥底から湧き上がるワクワク感が抑え切れず笑顔を隠せないユカだった。

 片膝をつき立ち上がろうとしたユカだったが、すぐさま駆け寄ってきた龍咲に頭部を掴まれ乱暴に引き起こされると、奇声と共に鋭角な肘打ちを二発三発と休みなく顎部辺りへ打ち込み、ユカに攻撃の隙を与えまいとする。独特なチャンピオンの攻撃リズムに持って行かれないよう立て続けに攻め続ける――これがキャリアの浅い龍咲の導き出した《作戦》だった。

 ブレーンバスター、ペンデュラム・バックブリーカー(振り子式背骨折り)、そしてネックブリーカー・ドロップ……

 身長を生かした高低差のある技を喰らい手も足も出せない王者に、血気盛んな挑戦者は休み無く次々と攻撃を加えていった。その鬼気迫る表情に普段から彼女を応援しているファンはもちろん、他の観客たちも龍咲のベルト獲りを後押しするかのように大声援を送るのだった。

 ――まこさん、表情に余裕がないなぁ。途中でスタミナ切れなきゃいいけど

 セコンド業務のため他の選手同様、リング周辺で身体を縮ませてふたりの闘いを目で追っていた祐希が呟く。会場に蔓延する押せ押せムードに飲み込まれて観客たちが気付かない、龍咲の瞳に浮かぶ焦りの色を読み取ったのだ。
 実際の所、龍咲真琴の持ち味はプロレスリングの定石に則って進めていく、長期戦も可能な至ってクラシカルなスタイル。だが今日の試合では大技を取っ替え引っ替えするばたばたとした、普段の彼女とは真逆な落ち着きのなさが浮き彫りとなっていた。

 つまり、王者である小野坂ユカの手中にはまった――という事だ。

 この試合タイトルマッチの前に組まれた、前哨戦といえる数回のタッグマッチに於いて実はユカは龍咲に敗れている。それも今のようなハイスパートな技の畳み掛けでだ。自分の理想とするレスリングではなく、相手に休みを与える事無く攻め続ける、怒涛の波状攻撃こそユカからベルトを獲る方法――と勘違いさせたのだ。こうして百戦錬磨の王者ユカは自分が敗ける事で、己の持ち味よりも体力的にキツくても確実にベルトを獲れる(かもしれない)方を選択させたのだった。

「まんまとユカの掌に乗せられた――ってわけね」

 息を潜め、微動だにせずリング上の事の成り行きを見守る祐希の、傍にやってきた七海がぽつりと呟く。祐希は彼女の姿が視界に入り慌てて隙間を作った。

「やっぱりわかりますか――友達だから、ですか?」
「同じだけ歳を重ねたプロレスラーだからよ。ユカは相手の持ち味を奪った事でひとつ優位に立ったわけだけど、それでも相手が試合での手の抜き方を知っていたなら策略なんてちっぽけなもんよ。だけどがむしゃらだけが取り柄の若造なら――」 

 そういうと七海は龍咲を指差した。己の小さな身体に攻撃を受け続け、リングの上で四つ這いになり痛みに顔を歪めるユカを前にし、一歩も踏み出せずに腰を折り荒い呼吸をして立ち止まる龍咲。顔からは滝のように汗が流れ落ち、あれほど爛々と輝いていた瞳もすっかり曇っていた。遂にスタミナが切れたのだ。

 ここが攻め時なのに――気持ちは逸るが身体がいう事を聞いてくれない。龍咲は自分の浅はかさを恨んだが時既に遅し、疲労と倦怠感で重くなった身体に鞭打つ間に王者が行動を開始した。中腰になり低くなった龍崎の頭部を腕で挟みヘッドロックでユカは絞り上げる。張り詰めていた警戒心も解け耐性の低くなっている身には単純な技だがこれが実によく効く。頭の中で駆け回る痛みから逃れようと龍咲は、彼女の股に手を入れ持ち上げると定石通りに、バックドロップでマットに叩き付けようとするが、そんな事くらいお見通しなユカは少しも慌てる事もなく、自ら後方回転し着地すると龍咲の顎を両手で掴み、背中に両膝を立てそのままキャンバスへと倒れた。脊髄に走る激しい痛み――彼女は背骨折りバック・クラッカーを喰らったのだ。

 この一撃で形勢が逆転されてしまった龍咲には、もうユカを追い込むだけの手立ても体力も無くなった。気持ちだけが焦り何ひとつ、反撃する事が出来ない歯痒さに苛まれる。

 「立てっ!」というユカの厳しい声に、ふらふらと身を起こした彼女を待っていたのは正面のコーナーから飛翔し、自分の方へ向かって来る小さな王者の姿だった。ユカはコーナーポストからダイブすると空中で前方回転した後片足をぴんと伸ばし、龍咲の胸板を突き刺すように蹴り飛ばす。彼女のファンがいうところの《ライダーキック》が見事に炸裂すると、大きな龍咲の身体はくの字に屈し後方へと転がっていく。

 おぉぉぉぉっ!

 観客たちは一斉に歓声をあげた。

 最早為す術のない龍咲に、とどめを刺すべくユカは彼女へ正面から密着すると、自身の必殺技であるノーザンライト・スープレックスで投げ、相手の身体を白いキャンバスへとめり込ませたのだ。今でこそ使い手も多いこの技だが、繋ぎ技でなく確実にフィニッシュを決める事のできる者は数少ない。身体が小さいユカにとっては、背後からのスープレックス技よりも仕掛けやすく且つ、見映えや観客に対しての説得力もある大事な技なのだ。一寸も身体を動かす事の出来ない挑戦者は、黙ってレフェリーが叩き奏でるスリーカウントを聞くしか他はなかった。

 試合終了のゴングが打ち鳴らされるや、下でセコンド業務に付いていた祐希はすぐさまリングの中へ滑り込み、敗者である龍咲の元へと駆け寄ると、ダメージが大きい頭部から首の辺りにかけて保冷剤を当てて患部を癒す。つい先程まで一緒だった先輩の七海は王者・ユカの側に付き、チャンピオンベルトを腰に着けたりと甲斐甲斐しく世話をしている。
 あれだけ大技を連発し攻め続け、一時は「ベルト移動か?」と観客たちに思わせた龍咲だったが、結局終わってみればユカが最後に見せた猛攻だけが印象に残る試合内容となった――それもたった三つの技だけで。


 ――何時いつもよりもユカさん、大きく見える……これが王者の風格ってやつなのか?

 龍咲を介抱しつつ祐希は王者の方に目を向けた。セコンド業務中のため自分の視線が下からだという事もあるが、ユカの身体に纏わり付く大量の汗が、天井にある大きな照明装置の光線を受けきらきらと輝いてみえる。疲労の色は隠しようがないが彼女はそれでも、自身のトレードマークである太陽のような明るい笑顔を作り、応援してくれた観客たちに向けて目一杯振る舞って、観ている者の気持ちを幸福ハッピーにさせる。
 最後まで観戦して下さったお客様を満足させ帰路に就かせる。これがメインエベンターの務めというものよ――直接言葉に出さないが、音声ではなくその立ち振舞いや態度で祐希はそう言われているような気がした。

 祐希の全身にぶわっと震えが走る。

 寒さではなく極度の興奮によるものだ。この感覚、以前にも感じた事がある――彼女は必死になって記憶を掘り起こした。

 そうだ。プロレスラーになる前に初めて、東都女子でユカさんの試合を見た時だ。

 ユカは第二試合か三試合目に出場していたにもかかわらず、常に客席からの視線を気にして攻守共に気合の入った試合を見せ、同期らしきパートナーや対戦相手の先輩たちをも喰ってしまう活躍ぶりで、結局負けてしまったものの興奮して全身が熱くなり、周りの観客たちと一緒に夢中で拍手を送ったのを思い出した。

 大声援に応え、四方の客席に手を振っているユカの視線と偶然合う。
 時間にすれば数秒もないが祐希にすれば大変長く感じられた。
 会場の音も周りの景色も全てフェイドアウトし、リング上にはユカと自分のふたりだけの時間が流れる。
 普段からそして練習の時ですら、一対一で視線を向けあうなどキャリアと格が離れた彼女らには有り得ない事だった。
 この団体で最年長のキャリアを誇るユカにはいつもかしこ誰かが声を掛け、彼女を慕う人間からは囲まれていて下っ端である“若手”の祐希からしたら、おいそれと気軽に話し掛けてはいけない、というイメージを勝手に作り出していた。だが当の本人は近寄ってくる人物の、年齢や地位で壁バリアを作ったりはせず、基本的にどんな人間でもウエルカムである。特に自分と同じプロレス好きなら尚更の事だ。

 口元をきゅっと締め、無言で王者と見つめ合う祐希。ユカは何事か?と一瞬驚いた表情をみせたが、すぐに満面の笑みを浮かべ隣りにいる七海に二言三言会話をすると、別方向から聞こえる声援に応えるべく、彼女から視線を外し移動をした。

 短いながらも大先輩と“視殺戦”を交えた祐希。視線が外れた途端、緊張が解けどっと疲労感が全身にのし掛かったが、それと同時に幸せな気持ちにもなり自然と口元も弛んだ。そんな不思議な感覚に取り付かれている祐希に、親友の世話を終えた七海が声を掛ける。

「何してんの、ゆー?」

 七海の声に我に返った祐希は、慌てふためき「あっ、えっ?」と言葉にならない返事を繰り返すのが精一杯だった。普段の真面目で礼儀正しく、かつ冷静沈着な祐希からは想像できない激しく狼狽える姿に、七海は驚くと同時に笑いが込み上げてきた。

「ほら、まこちゃんに肩を貸して、控室まで送ってやって頂戴」

 七海の指示によって普段の姿に戻った祐希は、早速龍咲の腕を自分の肩に廻してゆっくりとリングを降りていった。観客から送られる労いの拍手の中、肉体的・精神的な疲労でふらふらの彼女に歩幅を合わせ、他の選手の誘導によって控室までの通路を歩いていく。

 試合会場ホールを抜けバックステージに戻ると、選手や団体職員など人の数はそれなりにいるが会場の中のような、大声量の野太い歓声や身体が火照るほどの熱気はそこにはなく、急に現実に戻されたような不思議な感じになる。この場所にいるのが身内ばかりだと確認した龍咲は、自ら祐希の肩から腕を外しそれまでの疲労困憊ぶりが嘘のように、しっかりとした足取りで歩きコスチュームの姿のまま床に座り込むとふぅ、と一息付いた。

「いやぁ、やっぱ上手いわユカさん。たった3手よ? あれだけでお客さんの視線を自分の方へ持っていくんだもん。勢いだけじゃあの《小っこいバケモン》には勝てないわよ、ゆーちゃんもよぉく覚えておく事ね」

 そんな、自分なんてまだまだですよ――そう祐希は言いかけるが、見れば龍咲の目は薄らと涙が浮かび上がっていた。
 人生初の王座戦タイトルマッチを終え、その重圧から解き放たれた彼女は余程緊張していたのだろう。心の箍が外れた途端に緊張感は涙へと形を変え、瞳から零れ落ちようとしていたのだ。そんな龍咲の姿を見たらおいそれと、自分を見下したようなつまらない返事を返すなんて絶対に出来ない、と思った。だから頭の中で言葉を選んで選び抜いて、彼女の意思に沿うような返事を真っ直ぐに、そして力強い口調で発した。

「ありがとうございます。次に機会が巡ってきたらユカさんを、私が倒します」

 実際はそんな機会がいつ、巡ってくるかなんて想像する事すらおこがましい程キャリアは当然、東都女子のファンたちからの人気も低い祐希だったが、彼女の地力の強さだけは団体にいる誰もが知っている。だから後輩の頼もしい返事に龍咲は、満足気に首を縦に何度も振った。

「何してんの、ふたりとも?」

 七海が控室に戻ってきた。どうやら親友ユカの世話から解放されたようだ。その表情には疲労感が漂っていて、余程過剰なファンサービスをユカが行い、彼女がそれを制すのに精一杯だった事が容易に想像できた。

「お疲れ様です。ゆ、ユカさんは一緒じゃないんですか?」
「あーユカはね、今隣りの部屋で元川さんにこってり絞られている所」

 東都女子の代表である元川氏にあれこれと厳しく注意され、小さい身体をより縮ませてしゅんとするユカの姿を想像すると、不謹慎ながらも「可愛いな」と思ってしまう祐希であった。

「――それでユカからの言付。タイトルマッチ手当貰ったんで、ふたりとも焼肉へ一緒に行かない? って」

 龍咲と祐希は互いの顔を見合わせると、七海の方へ同時に向いて「行きますっ!」と大きく返事をする。そんなかわいい後輩たちの、己の食欲に素直な態度を見て七海は、嬉しいやら呆れるやらでもう笑う他なかった。


 いつものように五分も経過しないうちに、祐希の眼下にはフィニッシュホールドである裸絞めを極められて、すっかり伸びてしまった対戦相手が横たわっていた。客席からは僅かばかりの拍手と、マニアたちからの批判の声――彼女の憂鬱の日々は、終わりが見えないまま今日も続いていた。
 バックステージやオフ日など、仕事の時以外で仲間たちと会うのは楽しいし安心感もある。しかしいざ試合が始まるや、どうしたら自分のファイトを見て驚きや興奮の声をあげさせる事ができるのか? と、悩みが解決しないまま時間だけが過ぎていく。

 強いだけで試合自体にメリハリがない。
 ハラハラしないから観ていてつまらない。

 東都女子を支持しているマニアたちからはそういう声も飛ぶが、祐希はその批評に甘んじようとは全く思わなかった。プロレスラーが強くて何が悪いのか? それに相手のレベルに合わせて手加減するだなんて、それこそ対戦相手にも観る人にも失礼ではないか? フィジカルの強さを前面に出す自分のファイトスタイルを曲げてまで人気なんて得たくない。祐希は外野からの声に辟易し意固地になっていた。

 気の乗らないファイトを続けていたある日、とうとう団体代表の元川に呼び出されてしまう。

 めったに立ち寄る事のない、事務所のいちばん奥にある彼の部屋に通された彼女は、元川から開口一番こう告げられた。

「お前、少しの間休んでいろ」

 どこも身体はおかしくないし、怪我だってしていないのに「休め」とはどういう事なのか? 納得がいかない祐希は元川に食って掛かったが、そんな彼女の怒りを受け流すかのように涼しい顔で説明を始めた。

「一部の選手の間から不満がでてるんだよ。もう祐希とは闘いたくありません、とな。どういう事か分かるか? お前と試合をしても一方的すぎて面白くないよって意味だ。そりゃあ人間だから勝負が掛かれば勝ちたいのはわかる。だけど興行である以上負けなければならない時だってあるんだ。だがいつもお前の“負け試合”には余裕があり過ぎて、勝った相手が損しているように見えて仕方がないんだよ」

 代表の意見はもっともだ。しかし勝敗がどちらに転ぶにせよ、自分に納得のいく負け方・勝ち方をしたい祐希は反論する。

「お言葉ですが代表。リアリティのある勝敗を見せたかったら対戦する相手にも、それ相当の努力と鍛錬が必要だと思いますが? プロレスの仕組みに何の不満はありませんが、こればかりは絶対に譲れません」

 元川は眉間に皺を寄せ困惑の表情を浮かべると、部屋にある布張りのソファーに力無く腰を下ろした。おおよそ分かっていたが、ここまで祐希が強情だともう手に負えない。

「思ってた通り硬いな……入りたての頃の七海を見てるようだよ。とりあえずしばらく休んでよぉく頭を冷やす事だな。出場して欲しい時にまた連絡するよ」

 

 元川との話し合いを終えて去り際に、白一色で面白味のない彼の部屋のドアに一礼した祐希は大きな溜息をつく。
 クビではない――が試合ができない以上、お金の入ってくる道筋が途絶えてしまった祐希は少し顔を曇らせた。東都女子プロレスの社員である彼女は会社から給料を貰っているが、試合をする事で得ていた特別手当――ファイトマネーが入らないので基本給の金額だけでは生活が出来ない。余所の団体で試合をしたくとも東都女子が選手たちのブッキング業務を受け持っているので無理だし、そもそも人気の無い祐希に声を掛けてくれる団体もなかった。彼女はいわゆる飼い殺し状態となったのだ。

 首を力無く下げ、重い足取りで団体事務所のあるビルから外に出た時、聞き覚えのある声がした。

「よぉ、頑丈少女っ!」

 こんな色気のないあだ名を付けて喜んでいるのは、祐希が知る人物でひとりしかいない――

「ユカ……さん」

 小野坂ユカだ。可愛い後輩が事務所に呼ばれたと聞いて、わざわざ駆けつけてきたのだった。

「クビじゃないよね、クビじゃないよね?」
「そういう事を、公衆の面前で大声で言わないで下さいよ。解雇ではないですが――」

 祐希は事務所での元川との会談を、この小さな大先輩に説明した。出場停止だと聞いてユカは安心したが祐希は浮かない顔だった。

「うん、まぁ元川さんの言う事もわかるよ。プロとしての最低限の心構えっていうのかな? そういうのはさ。だけどわたしは断然ゆーの意見を支持しちゃうけどね。弱く見られたくなければしっかり練習して、どんな当たりにも負けない身体を作るのがプロレスラーってもんでしょ、絶対」

 火傷しそうな程熱い口調で語るユカの姿が、祐希には実に頼もしく心強かった。自分と似たような思想を持つ者の応援に、この人の後輩で本当によかったな――彼女はそう感じた。

「誰だよ、そんな軟弱な事言ってるヤツは……さてはあの娘かな? 今度スパーリングの機会があったら泣くまでシゴいてやろっと。ひひひ」

 前言撤回。こんな怖い先輩を絶対敵に回してはいけない。獲物を見つけた肉食獣のようなユカの目つきにぶるっと震える祐希であった。

「ま、冗談はともかくとして、ゆっくりリフレッシュできるいい機会じゃない。それでゆーはどうするつもり?」
「試合もできないのに寮に閉じ籠っていても悶々としそうですし、しばらくの間実家に戻ってみようと思います」
「それがいいよ……じゃあ暫しの間お別れだね。あ、練習も欠かさずに続けてね? それとこれ――」

 そういうとユカは、肩に掛けている鞄の中から茶封筒を取り出し祐希に手渡した。少し重みの感じる封筒の中には、結構な金額の紙幣が入っていた。

「七海からの餞別……って別に辞める訳じゃないか。生活するのに困るだろうからって彼女、僅かだけど受け取ってほしいって」

 そこまで私は、先輩たちに目を掛けられていたのか――! 嬉しさと申し訳無さで遂に感極まった祐希は、人目も憚らず肩を震わせ嗚咽を漏らした。

「いい? 誰からも注目されなくても、わたしたちはゆーの事を見守っているし応援している。だから――辞めようなんて思わないで? ちゃんとここに戻ってきて。これがわたしと七海の願いよ」

 瞳から溢れ出る涙がアスファルトの道路へこぼれ落ちる。止めようとしてももう無理だった。だけど先輩からの励ましの言葉にちゃんと返事をしなければと祐希は、鼻水をすすり顔を上げた。

「ありがとうございます。きっと私、わたし――」

 これ以上言葉が続かない。
 だけどその気持ちだけはユカの心にも十分に伝わった。
 歳上ならではの賢明さもあり、時には幼児のような純粋さもみせる不思議な先輩・ユカは、大きな祐希の身体を抱くと優しく肩を叩き、涙と鼻水まみれでひどい顔になった後輩の、気の済むまでずっと励ましたのであった。

 

 翌日、早朝――誰からの見送りを受ける事も無く、日野祐希はキャリーバッグひとつだけを手に選手寮を出た。終わりのわからない長期休暇がいつまで続くのかわからないが、とにかく休場前よりも身も心も大きくなってここに戻ってこよう。祐希はタクシーの中、寮周辺の馴染みの風景を朧気に眺めながらそう決意した。

 ちらりとスマートフォンの画面に表示される時刻に目を移す。あと二十分もすれば、彼女を故郷へと運ぶ列車が最寄りの駅のホームに到着するはずだ――


天気のいい日はプロレスでも――【最終回】

2018年01月30日 | Novel

 両者は相手をマットへ平伏させる為に、厳しい鍛錬によって培った肉体と技を惜しみなくぶつけ合った。来生が殴れば愛果も負けじと殴り返し、愛果が蹴れば来生もまた蹴り返す。肉体同士がぶつかり合う音とふたりの叫び声だけがリングの中に響き渡るが、観客たちはもっと内面的な――《レスリング》という言語による彼女たちの会話を心で感じ想像し、己が信奉する選手たちを力一杯応援した。
 愛果の身体が、捻りながら弧を描きマットに突き刺さった。来生が必殺技として好んで使用する捻り式バックドロップが炸裂したのだ。スピード、入射角度、そしてタイミング。どれを取っても申し分ない精度で技は決まった――だがそれでも愛果は立ち上がる。来生は化け物でも見るかのような目で彼女を見て愕然とし慄いた。名も知れぬローカル団体の、それもお嬢様レスラーゆえに受身の技術も大した事はないのだろうと正直舐めていたのだ。しかし「これひとつだけでもお客さんを沸かせられる」と、さゆりから徹底的に受身を叩き込まれた愛果は技のダメージが下半身まで及び、がくがくと膝を震わせるがそれでも相手をしっかりと睨みつけ、両足でマットを踏み締め立っている。
 それまで来生を支えていた絶対の自信とプライドが揺らぎ始めた。これまでも何度か他団体選手と試合をした事はあっても負けた事は一度も無かった。「もしかしたら……」とネガティブな思考に憑りつかれた瞬間、それまで感じた事の無い恐怖感が湧き上がり、意識と身体とが正常にリンクせず対戦相手に隙を見せてしまう。
 相手をテイクダウンさせてマットへ寝かせ、力一杯締め上げてこの試合を一秒でも早く終わらせよう――余裕を失った来生の頭にはそれしかなかった。膝を小刻みに震わせるも、目だけは闘志を失う事なく輝かせている愛果に向かって来生は叫びながら突進する。だが愛果との距離があと数歩と迫った時、彼女の膝の揺れがぴたりと止まった。勢いが付き過ぎて最早止まる事も出来ない来生は、愛果の懐へ吸い込まれたかと思うと素早く身体を横へ一回転させられ、彼女の膝頭で腰周りを激しく打ち付けられた――カウンター技である風車式背骨折りがベストなタイミングで決まった。

 痛打した腰を押さえマットの上で激しく悶絶する来生に対し、愛果はさらに追い打ちをかける。相手の脚を掴み身体をエビのように反らせると、自分の首に来生の脚をマフラーのように掛ける一方で片腕を足を絡めて固定する。背中から腰にかけて言葉に出来ない程の痛みが走り「ロープへ逃げる」という選択肢すら浮かぶ余裕が無くなった彼女は、痛恨の思いでマットを激しくタップし、レフェリーへギブアップの意思表示をするのだった。大会数日前の道場での練習で、さゆりから直々に教わった変形ストレッチマフラーホールド《スコルピウス(蠍座)》が決まり、愛果ゆうは《太平洋女子 vs こだまガールズ全面対抗戦》の大事な初戦を見事勝利で飾ったのだった。

 がっくりと肩を落とし、敗北の悔しさを隠しきれない来生の元へ、“勝者”である愛果が近寄ってきた。辛うじて勝ちを治めたものの愛果とて無事ではなかった。相手の厳しい打撃技や投げ技を受け続けた彼女も、コスチュームから露出している肌には赤や青のアザが浮かび上がり、身体の至る場所がズキズキと鈍く痛んでいた。
 愛果は真っ直ぐ手を差し出し、来生に握手を求める。
 彼女の瞳からは憎しみは既に消え、互いに全力を出し切って闘った者としての敬意が感じられた。最初は躊躇するものの憐みや蔑みのない、相手の純粋な気持ちを読み取った来生は愛果の手を握ると、さっぱりとした表情で高々と腕を上げ満場の観客たちに“勝者”を紹介した。太平洋女子とこだまプロレス、双方の団体のファン達は女子プロレスの“メジャーシーン”に新たに誕生したニューヒロイン・愛果と、潔く負けを認めた来生に対し惜しみなく拍手と歓声を送り続けた。

 試合が終り、愛果は痛む身体を押して控室に続く通路を駆けていく。メイイエベントに登場する神園さゆりのセコンドとして同行するためだ。さゆりからは「付かなくてもいい」と言われていたが、どうしても彼女の闘う姿を、レスラーとしての生き様を間近で感じたいと半ば強引に志願したのだ。
 控室のドアを開けると、既に身支度を終え出番を待っているさゆりの姿があった。派手な色彩の和柄が刺繍された着物風のロングガウンに身を包む、彼女の姿はまるで約15年前の全盛期当時を思わせた。

「さゆりさん……」

「モニターで観てた――凄くいい試合だったわ。さて、今度はわたしが頑張らなくちゃ」

 さゆりから声を掛けられた途端、それまで張り詰めていた緊張の糸が解け瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。有り得ない程の重圧と恐怖を自分ひとりで必死に堪え闘ってきたが、控室に入り彼女の顔を見て安心すると、それまで閉じ込めていた感情全てが一気に流れ出たのだ。感極まってしがみ付き嗚咽を上げる愛果に、さゆりは微笑みを浮かべやさしく背中を撫でてなだめるのだった。
 坊主頭をしたこだまプロレス練習生が、入場の時間が来た事を告げにやって来ると、さゆりの表情は優しげな大人の女性から目付きも厳しい戦闘モードへと一変した。

 水澤……お望み通り見せてやるよ、元アイドルレスラーの本気ってやつを。

 団体ロゴの入ったTシャツを被った愛果を隣に従え、さゆりは大型照明に照らされ白く輝くリングへと向かい、颯爽と歩みだす――

 カーテンで仕切られた入場口の手前では、ゴー☆ジャス譲治が今日の主役の登場を待っていた。さゆりが一番好きな、少し照れたような笑顔で。
 譲治は無言で彼女の肩を軽くぽんと叩き「頑張れよ」と激励すると、さゆりも軽く彼の腹に肘鉄を喰らわせ、分厚い胸板に顔を摺り寄せてハグをした。ふたりに言葉は不要だった。スキンシップだけで互いの想いが、肌を通して十分に伝わってくる。

 ――青コーナー側より、こだまガールズレスリング・神園さゆり選手の入場ですっ!

 カーテンの向こう側より、リングアナウンサーによる紹介アナウンスが聞こえてきた。さゆりと愛果、そして譲治は互いに顔を見合わせると、観客たちが期待に胸膨らませて待ち構えている大ホールへと飛び出していった。爆音で流される入場曲をものともしない大歓声が、彼女たちこだまプロレス勢に浴びせられる。特に知名度という点ではどの選手よりも高いさゆりには8割方の観客たちから声援が飛んでいた。こだまプロレスや動画サイトにアップロードされてる過去の試合映像を観て知った若いファンや、かつてテレビ中継や実際に生で試合観戦した事のあるオールドファンに至るまで、年齢・世代を超えて《神園さゆり》を応援するこの状況にさゆりは感激に打ち震える。試合の始まる前から黙々と燃やし続けた闘志が、大歓声によって更に大きく、熱く燃え上がった。
 スチール製のステップを一気に駆け上がりロープを潜って、リングの中央に立ったさゆりは両手を広げると、会場より生まれる歓声を全て独り占めするかの如く、ぎゅっと抱き抱えるような仕草を見せる。ファン心理を刺激する心憎い彼女のポーズに観客たちはまた唸った。

 館内の照明が一旦落とされ、今度は赤コーナー側の入場ゲートより今宵の“もうひとりの主役”である水澤茜が現れた。エナメル加工された銀色のロングベストを羽織った水澤は、リング上に立つさゆりの方を向き右腕を高々と掲げた後、ゆっくりと指を拳銃(ピストル)の形に変え撃つ仕草をして彼女を挑発する。場内に赤と青のスポットライトの光が交互に照らされる中、水澤は自身の入場曲のリズムに乗って気の向くまま身体をくねらせダンスを踊るように、観客たちが待ち構えているリングへと続く通路を進んでいった。リングサイドに設置された本部席では、太平洋女子の社長である緒方が彼女の入場する姿に満足げな笑みを浮かべる――先月の大会では、さゆりについての案件で関係に亀裂が入りかけた両者だが、今この場に彼がいる事から推測するに水澤の、緒方に対する不信感は払拭された模様だ。

 あいつ、格好いいなぁ――さゆりは熱狂するファン達とスキンシップを取りながら、こちらへ向かう水澤を見て素直にそう思った。内面に秘めているモノが違うと言えばそれまでだが、最後まで「可愛い」と持て囃されていた現役時代の自分が、年齢を重ねても遂に辿り着かなかった「格好いい」を、あの若さで既に備え持っている事を同時に嫉妬もした。

 遂に相まみえた因縁の両者。レフェリーからボディチェックを受ける間も決して相手から目を離さない――いや、彼女たちが「獲物」としてあまりにも魅力的で目が離せないのだ。特に水澤は待ちに待った「自分を更なる高見へ上げてくれる」相手と直に対峙して、顔には出さないものの嬉しくて仕方がなかった。さゆりも同様で現在の女子プロレスの頂点トップが如何ほどの者なのか、直接肌を合わせられる事に感謝する。公営体育館の収容人数を遥に超える超満員フルハウスの観客たちは、両団体のトップ同士が顔を合わせるこの光景に、背筋をぞくぞくさせ試合開始のゴングを今や遅しと待ち侘びていた。
 体育館の柱に掲げられている大時計が、午後7時45分を指した瞬間――30分1本勝負で争われる両者の、闘いの始まりを告げるゴングが遂に打ち鳴らされた。

 観客たちは序盤のセオリーとして、基本的ベーシックなレスリングの攻防からスタートするのだろう、と予想していたが、実際に目に映る光景は全く違っていた。抑えきれない感情を爆発させるべく、試合早々からハイスパートを仕掛けてきたのだ。素早く水澤がさゆりの首を取りヘッドロックで締め上げると、嫌がるさゆりは彼女の胴に腕を廻し後方へ下がりロープに背をつける。当然ブレークの声がレフェリから上がるもののそれを無視し、ロープの反動を利して相手を正面側のロープへと振った。身体に加速がつき、さゆりへ仕掛けていたヘッドロックが外れた水澤は勢いのままロープへと走ると、次はショルダータックルか何か別の技を狙い猛突進するがさゆりは冷静にマットに伏せそれを回避、戻ってきた所へすかさずドロップキックを放つ。だが水澤も彼女の攻撃は読んでおり、顔面を標的ターゲットとしたフロントハイキックで迎撃した。着弾まであと数センチという所でカウンター攻撃を喰ってしまったさゆりは、頬にリングシューズの跡を付け大きく後方へ飛ばされマットへと落下した。
 痛む顎骨を手で押さえさゆりは立ち上がり、更なる攻撃を加えんと足を振り上げた水澤に対し今度は中国武術の後掃腿――プロレス風に言えば水面蹴りで彼女の軸足を刈り取ってダウンさせ、お返しとばかりに腹部へ近距離のニードロップを突き刺す。膝頭をまだ固めていない腹筋へともろに喰らった水澤は、痛みに顔を歪め横に転がってさゆりから距離を取った。
 患部を押さえ、睨み合って停止する彼女たちに場内からは拍手と歓声が沸き起こる。多くの観客たちはこれまでの闘いに無かった、「殺るか、殺られるか」の緊張感溢れるふたりの攻防を全面的に支持したのだ。
 水澤は立ち上がると、這うような低いタックルでさゆりの胴へ腕を絡み付け、そのまま背後へと回り間髪入れずに投げっ放しのジャーマンスープレックスで後方へ遠く投げ捨てる。だが持ち前の反射神経で危険を察知したさゆりは、自らバック宙をして頭部へのダメージを回避させると今度は、彼女の長い脚へ低空のドロップキックを放ちマットに跪かせると、腕を取ってラ・マヒストラル(横回転十字固め)で綺麗にパッケージしフォール勝ちを狙う。しかし水澤も不自然な体勢から強引に切り返し、事無きを得て大きく安堵の溜息をつく。
 約5センチばかり水澤の方が背が高いとはいえ、ほぼ同サイズの両者の攻防はスピーディーかつスリリングに富んだものとなり、秒単位で攻守が入れ替わってしまうので観客たちは一瞬たりとも目が離せない――もちろん闘う選手たちの方も。
 一転して今度はマットレスリングでのせめぎ合いとなった。隙あらば相手の首や腕、そして足首に至るまで掴める箇所は全て掴み、締め、拉いだ。だが技が完全に極められてしまえばそこでジ・エンドとなってしまうので、 ふたりは持てる力を振り絞って固定されるのを防いだり、極められるポイントを意図的にずらしたりしてサブミッションから逃れようとする。水澤の持つ柔術系の関節技もさゆりのプロレス流関節技も、相手の防御力の高さによってなかなか極める事が出来ず、幾度となくブレークの掛け声がレフェリーから発せられた。休む事無く続けられる裏の読み合い、知恵の輪の解き合いのようなグラウンド技の応酬にふたりの息は次第に上がっていく。

 ――これっ、これよ。私が求めていたものは! 互いが持つプロレスラーの“格”を奪い喰らい合う、果し合いのような試合をずっと待ち望んでいた。アンタが負けても格が下がる事は無いかもしれないけど、逆に勝てば誰も並び立つ者がいない処まで私は行ける!―― よしっ喰ってやる、勝ってやるっ!

 上昇志向の塊のような水澤は目をぎらぎらと輝かせて、標的であるさゆりに向かって再び迫っていく。だがさゆりだって簡単に負ける気などさらさら無い。スタンド技やグラウンド技など、どれも一発でも喰らえば即負けが決定してしまう危険な攻撃を、寸前のところで躱し、往なし、防いでいった。彼女の気が休まる暇も無い。

 ――さすが、現在の女子プロレス界のトップを走っているだけはあるわ。攻撃力に防御力、それに備え持ってるカリスマ性……正直厳しいけど相手にとって申し分ない。絶対に喰われてなるものかっ!

 リングアナウンサーが観客たちに試合開始から15分が経った事を告げると、皆はえっ? と驚いた。過去にアナウンスされたはずの5分目、10分目の経過報告が全く記憶にないからだ。それだけ観客たちはリング上で繰り広げられる、おんなふたりの息詰まる闘いに魅了されているに他ならない。しかし試合時間が残り半分を切ったものの一進一退の闘いが続き、誰もがクライマックスを未だ予想出来ずにいた。

「ごれが一流同士の闘い……凄いけれど、この先どうなるんでしょう代表?」

 リング下でずっと試合を見守っていた愛果が、鉄柱を挟んで隣にいる譲治に尋ねてみた。もちろん明確な答えは期待していないが「さゆりの一番近くにいる人」の意見をふと聞いてみたくなったのだ。

「さあな。プロレスの女神様だって決着(けり)の付け方に戸惑っているんだろう、きっと」 

 愛果の顔を見る事なく、譲治はまるで独り言のように彼女に返事をした。実際、さゆりと水澤の間には身体的な差も世代的な差も、試合中のふたりからは今の所感じられない。しかし長丁場となれば、肉体年齢の若い水澤に分があるのは誰の目から見ても明らかで、どこで勝敗を分ける分岐点(ターニングポイント)が発生するのか観客たちは目を凝らして、リング上で起こっている全ての出来事に注視する。
 水澤がコーナーポスト下でダウンしている――直前の展開で彼女は、ロープに振られ戻って来たさゆりから変形ネックブリーカードロップを喰らい、マットへ後頭部を叩き付けられたのだ。このチャンスを逃してはならぬとさゆりはコーナーポストを駆け上がり、落下技を仕掛けるべく相手に狙いを定めた。

 ――?!

 ぐらりとほんの一瞬、目下に寝そべる水澤の姿が歪む。それと同時に疲労感が身体に圧し掛かり、どっと冷汗が流れた――スタミナが切れ始めたのだ。

 ――冗談じゃない、こんな時にっ

 自己否定と焦りで心拍数も上昇、コーナー上でさゆりはロープを掴んで停止したままで、水澤がその間に回復しその場からいなくなった事も気が付かない。

 がつっ!
 頭部に走る激痛と共に、彼女の網膜に映る景色はぐるぐると回転し、やがて全てが真っ暗となった。コーナー上から動かないさゆりの死角に素早く廻った水澤が、ロープを利したジャンピングハイキックで蹴り墜としたのだ。ほんの一瞬の隙を突かれ、ダメージを負ったさゆりは踏み留まる事も出来ず、コーナー上からセーフティマットの敷かれている場外へと抗いもせず落下していった。
 大歓声に沸き上がる会場とは裏腹に、リングの周りにいる人間たちは言葉を失い、時が止まったかのように立ちすくんでいた――無論、仕掛けた水澤も含めて。

 さゆりの落ち方があまりにも自然過ぎる、と水澤は思った。プロレスラーは「魅せる受身」を常日頃練習をしているが、それが発動されるのは何も技を受ける時だけでない。場外へ転落する際にも、遠方の席に座る観客にも分かるよう見た目は危なげに、且つダメージを最小限に留めるような受身を取るのだ。だが彼女の今の落ち方は明らかに事故で、危険を察知して辛うじて頭部は守ったが背中を強く打ち付け、さゆりは動けなくなっていた。
 咄嗟に水澤は、本部席の緒方の方を見た。だが「プロレスラー」ではない彼は、アクシデントに関する解決策など持っている筈もない。彼に出来るのはストーリーを考える事と会社を運営させる事だけだ。彼女の悲痛な視線に緒方はどうする事も出来ず、ただ下を向くだけだ。予期せぬ事態に《キャラクター》という殻の内側にある、本来の水澤が顔を覗かせ顔面蒼白となる。

「さゆりさん! さゆりさんっ!」

 愛果も自分の目の前で、倒れたまま動かないさゆりを見て、パニックに陥りかけていた。一刻でも早く側に寄って彼女を揺さぶり起こしたいと、一歩前に出かけたが譲治は腕を掴みそれを強引に引き留める。

「何でなんですかっ?! さゆりさんの事が心配じゃないんですか!」

 ヒステリック気味に怒鳴る愛果の肩を掴み、落ち着いてと冷静に語りかける譲治。最初は感情的になり理解出来なかった愛果だったが、彼の真剣な眼差しと肩から伝わる体温で、次第に落ち着きを取り戻していく。
 譲治は更にリング上で、自分のキャラクターを放棄して怯えてしまっている水澤にも、観客たちに気が付かれない様にアドバイスをした。

「心配要らないよ、茜ちゃん。ちょっと落ち方が悪かっただけだ。直に回復するからそのまま怖い顔して待ってて」

 試合中そんなに怖い顔かな、私?――納得いかない表情の水澤を余所に、目を閉じて倒れたままのさゆりの側に寄り添うと譲治は、パンパンと手を叩き大声で語りかけた。決してさゆりの容態を全て把握しているわけではない、だが公私と共に大切なパートナーとなった譲治には、何故だか不安はなく根拠の無い自信だけはあった。

「さゆりさん、皆が待ってるよ。だから……辛いかも知れないけど起きてっ」

 大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら、譲治は彼女の反応を見守る。
 彼の呼び掛けからワンテンポ遅れて、さゆりの指がぴくりと動いた。やがて掌は拳へと形を変え彼女はゆっくりと上半身を起こす――さゆりは無事だ。

 愛果は涙ぐんで彼女の名を叫ぶ。水澤も安堵の表情でほっと胸を撫で下ろす。

「……痛ててて、ちょっとミスったわ。本音を言えばこのまま寝ていたいけど、お客さんが――水澤が期待して待っている。だから行かなきゃ」

 譲治の肩を借りてさゆりは、床から身を剥がすように立ち上がった。足元が若干ふら付いているが時間の経過と共に回復するだろう。譲治は念のため彼女の瞼を開けて、瞳孔を確認するが特に大きさに異常はない。

「うん、あと少し。悔いの残らないよう存分にシバき合って頂戴ね」

「ひどーい! それが“恋人”に言うセリフ?」

 いい笑顔だ。これなら残り時間内は問題なく闘えるだろう。譲治はさゆりの背中を優しく擦りながら、闘いの舞台であるリングへと送り出す。
 リング上で待っていた水澤が、ロープを開けてさゆりを招き入れる。彼女なりの最大限の敬意の表し方にさゆりは、にこりと笑みを浮かべ黙ってそれに従った。
 リングへ無事に舞い戻った《フェアリーファイター》は再び宿敵と対峙した。だが以前のようなギスギスとした空気はなく、どこか落ち着いた社交場のような空気が流れていた。ここは己の意見を言論ではなく力と技によってぶつけ合う、最もシンプルかつ公平な場所。自分の優秀性を誇示したければ――相手を腕ずくで叩き伏せるしかない。

 さゆりが水澤に握手を求め手を差し出した。彼女もそれに応じ手を握り返す。

「――残り時間、全力で突っ走るわよ」
「また途中で、ガス欠起こさないで下さいね。先輩?」

 ふたりが手を離した瞬間、互いが背後のロープへ走り加速を付けると、合わせ鏡の如く同時にドロップキックを放ち、相手へ着弾し損ねたふたりはマットへと落下した。しかしまだ攻撃を諦めていないさゆりたちは、素早くヘッドスプリングで身体を起し次の展開に備えた。
 相手をグラウンド戦へ持ち込もうと、さゆりがフライング・ヘッドシザーズを仕掛けた。だが既にこれを読んでいた水澤は側転で切り返し、マットに寝そべる事を拒否する。お返しに後方からさゆりに飛び付きくるりとエビに固めた水澤だったが、この技も相手がしっかり腰を落とす僅かな隙をついて、さゆりは身体を回転させフォールを狙う。ふたりの裏の読み合い、技の返し合いに観客たちはまた熱いエナジーを放出させる。一旦敗北へのフラグが立ったかと思われたこの試合だが、持ち直したさゆりの猛攻により再び勝敗の行方は分からなくなった。
 水澤は素早く立ち上がると、まだ片膝を付いたままで体勢の整っていないさゆりに対し、強烈なミドルキックを撃った。踏ん張りの利かないさゆりは彼女の容赦ない蹴りをもろに受け、ロープを超えて場外まで転がっていった。

「よし、行くぞぉ!」

 この試合、初めて水澤が観客たちに声を出してアピールした。彼女は反対側のロープへ飛び助走のスピードを上げると、場外で胸を押さえ呼吸を整えているさゆり目掛け駆けていき、セカンドロープを踏み込んで高く上に飛び上がった後、全身を捻って相手に体当たりを喰らわせた。旋回式ボディアタック――《トルニージョ(竜巻)》が見事に炸裂しさゆりは大の字になって倒れる。この水澤の美技に観客たちは、驚愕のどよめきと賛辞の拍手を惜しみなく贈った。
 一足先にリングへ帰還した水澤は、ダメージを蓄積させたまま戻って来たさゆりの腕を担ぐとロープ越しのブレーンバスターを狙い持ち上げた。だがこれを嫌がったさゆりは足をばたつかせ、重心を下げてこれを回避すると彼女の横っ面へ強烈な張り手をぶちかます。目の奥がぐらりと揺れ意識が一瞬遠退いた次の瞬間、水澤の首を両手で固定したさゆりは、エプロンサイドへ尻餅をついてトップロープを相手の喉元へ押し当てた。さゆりの体重が乗掛かった自分の首をロープで激しく打ち付けた水澤は、強い衝撃と共にロープの反動で大きく後ろへ飛ばされてれてしまう。
 マットに寝そべった水澤を確認したさゆりは、自分もトップロープへ飛び乗りバウンドさせて跳躍力を蓄えると、くるりと後ろ向きになり大きな弧を描いて空間を舞い水澤の身体へ全身を叩き付けた――スワンダイブ式のムーンサルト・プレスが決まった。しかしレフェリーのカウントはツー止まりで試合はまだ続いていく。

 試合時間が残り5分を切った。これまでにも普通の試合では、十分にフィニッシュになり得た場面は幾つもあった。だが、そうはならなかったのはさゆりと水澤の、勝利に懸ける執念と相手に対する意地や見栄、そしてどの選手よりも防御力・耐久力が優れていたからに他ならない。水澤は生まれ持った天賦の才能で、さゆりは練習と過去の試合から得た経験で相手の攻撃を凌ぎ、躱し、往なしてきたのだ。

 あぁぁぁぁぁっ!

 水澤が激痛に喘ぐ。さゆりの関節技でのフィニッシュホールドである、変形羽根折り固め《フェアリーズ・ボウ》がガッチリと極まったのだ。腕や上半身に走る痛みに奥歯を噛み締め耐え、マットの上を藻掻きながら必死に逃げ場を探し求める。逃げられてたまるかと、渾身の力を振り絞って締め上げるさゆり。何とかロープに辿り着き、レフェリーの「ブレーク」の声と共にさゆりの身体が離れた瞬間、水澤は安堵の表情を浮かべた。
 再び両者がスタンドの状態になると、真っ先に水澤はさゆり目掛けて鋭角な肘打ちを喰らわせた。被弾した箇所が赤く染まる中、さゆりも負けじと同じ技で反撃しごつごつとした肉弾戦がふたりの間で繰り広げられる。二発、三発と打つ度に戻ってくる打撃は自分の力以上のものを感じ、既に疲労している身体にますますダメージが蓄積されていき遂に、水澤はさゆりとのエルボー合戦に力尽き前屈みになってしまう。この千載一遇のチャンスを逃してはなるものか、とさゆりは止めの一撃を喰らわすべく大きく腕を振りかぶった。

 ――よし来たっ!

 この時を待ち構えていた水澤はにやりと笑うと、さゆりの攻撃を流し自分の方へ彼女の身体を引き込んで回転し腕を取った。飛びつき腕十字固めが電光石火の如く極まり、さゆりの肘が伸ばされ今度は彼女が悲鳴を上げる番だ。痛みから逃れようと、曲げられている方の手を掴み上体を起こそうと必死になる。己の背筋力をフルに駆使して立ち上り、腕十字固めを何とか防ぐ事はできたが、水澤はそれを察知していたのか今度はグラウンドの状態から三角締めへと移行し、頚動脈を自分の肩と相手の大腿部で締め付けられたさゆりの顔には苦悶の色が浮かぶ。逃げれば逃げるほど太腿が喉へ食い込み、血液中の酸素が遮断されますます意識が遠退いていく。そして――さゆりは脱力し動かなくなった。
 涙を流しながら、さゆりの名を何度も叫ぶ愛果。だが目を閉じ、ぐったりと寝そべったままの彼女からは何の反応もない。水澤はそんな彼女の姿に安堵と喜びとが入り混じった表情を見せ、コーナーポストの金具に足を掛け最上段へと昇っていく。いよいよ彼女一番の必殺空中弾《メエルシュトレエム》を放つ時が来た。残り試合時間がいよいよ3分を切った頃に訪れた最高の、そして最後のチャンス――コーナーの真下で最後の時を迎えるさゆりに、しっかりと狙いを定め自分の中でゴーサインを出すと複雑な捻りを身体に加えながら落下していった。水澤の体重プラス空中回転により発生した圧力をまともに喰らったさゆりは、目をひん剥いて悶絶する。
 ワン、ツー……とレフェリーがマットを叩きフォールカウントを取る。あとひとつ数えられれば水澤の勝利が確定する――だが三つ目を叩き入れようとした時、急にレフェリーは振り上げた手を止めカウントを停止した。全身全霊を込め、立ちはだかる最強の敵に放った最高の一発が返された? 勝利を確信していた水澤は食って掛かるがレフェリーが指した指の先を見て愕然とした。さゆりの足がサードロープに触れているのだ。気が逸りすぎてフォールする際に、ロープとの距離など位置確認を怠ってしまった事に水澤は顔を手で覆い天を仰いで悔しがる。

 頭皮に痛みが走った。背後から誰かが髪を掴んでいる――さゆりだ。呼吸も荒く目は虚ろだが、それでもしっかり立っている。

「――落ち込む暇があったら、とどめを刺しに来いよバカ」

 生気の無い顔で笑うさゆりを見て、水澤は得も言われぬ恐怖を感じ背筋が凍った。
 どんっ!
 水澤の腹に一発、さゆりは頭突きを喰らわし足元をふらつかせると続いて左右の張り手を顔面へ、最後にハイキックを首筋に叩き込み精神的ダメージから未だ立ち直っていない彼女の肉体に大打撃を与えた。全身の力が抜け落ち、膝から崩れ落ちる水澤の身体をさゆりは背後へ回り抱きかかえると、両腕を羽交い絞めで固定し、ひと呼吸で一気に彼女もろ共ブリッジをした。腕が固定され肩が上がらない水澤は、受身を取る事も出来ずそのままマットに後頭部を痛打した。一時現役を退いてから十数年、ずっと封印していた神園さゆり最強の必殺技《ウイングロック・スープレックス・ホールド》が炸裂する。羽根をもがれた《天使》は成す術も無く奈落の底へ墜ちていく――
 だが燃えたぎる闘志を打ち消すかのように、突如ゴングの音が場内に鳴り響いた。30分間の試合時間が終了したのだ。リング上の熱い闘いに息を飲んで見守ってきた観客たちはゴングの鈍い金属音を聞き、ようやく我を取り戻す。

 パチパチパチパチ……!

 何処からともなく自然発生的に、ふたりの闘いに敬意を表し拍手が沸き起こった。正直もう少し――出来れば決着が付くまで観ていたいというのが本音だが、死力を尽くし精根尽き果てるまで闘った彼女らに、「これ以上」を求めるのは酷というものだ。さゆりが羽交い絞めのロックを外し力無く座り込んでいる。その表情からも疲労の色が見て取れた。そのすぐ隣では水澤が仰向けになって、胸を大きく上下させ深呼吸をしている。彼女も同じく疲労困憊ですぐにマットから立ち上がれずにいた。

「さゆりさんっ!」

 愛果と譲治が試合終了と同時に駆け寄ってきた。仲間の存在に気が付いたさゆりは残っていた力を振り絞り腰を上げると、ふたりの元へふらふらと歩いていき辿り着いた譲治の懐へ自身の身体を預けた。彼の体温を感じようやく彼女の顔に笑顔が戻る。対する水澤も若手選手による懸命のアイシングで、身体の痛みを緩和してもらいどうにか立ち上がれるまでに回復した。
 レフェリーがふたりの腕を上げて、観客たちに引き分けを宣告した後本部席からさゆりにマイクが渡される。どうやら彼女は水澤に何か言いたいらしい。それが自分に対する叱責なのか賞賛なのかわからない水澤は、マイクが拾う彼女の荒い呼吸音が止むのを下を向いてじっと待っていた。

「――水澤、あなた本当に最高の選手よ。時代の潮流ってやつを自分の身体で感じてつくづくわたしは“昔の人間”だって事を痛感した。だから、もうわたしに構わないで頂戴。あなたは既に現在の女子プロレス界の最高峰、こんな過去の遺物に付き合っていちゃ駄目なの。あなたを倒す事を夢見る、若い子たちの高い壁であり続けなさい。もしそれでどうしても悩んだりする事があったら――わたしを頼りなさい。好敵手(ライバル)にはなれないけど、茶飲み友達としては大歓迎だから」

 さゆりの話が終った瞬間、水澤は目に涙を浮かべて彼女にハグをした。その身体はどこか震えていて、孤高の存在で居続ける事への不安と重責に必死になって耐えてきた事はさゆりにも十分伝わってきた。だからこそ自分よりも格上の選手を求め、闘う事で心の平穏を得ていたのかもしれない――無敵であるが故に守備に入るのではなく、常に攻め続ける挑戦者(チャレンジャー)としての本来の自分の姿を見失わないように。さゆりは闘っている時とは違う、素の水澤茜に触れたような気がして急に愛おしくなり、まるで幼子をあやす様に優しく髪を撫でるのであった。

 過去と現在、異なる世代同士が衝突した《夢の対決》は、記録の上では引き分け――つまり勝者も敗者も存在しない中途半端な結末を迎えた。しかしこの一戦を目撃した観客一人ひとりの中では、それぞれ異なった結末を胸に帰路に就く事だろう。全体的に水澤が試合を支配していた主張する者もあれば、いや、さゆりが最後まで喰らい付いていたと思う者もいるだろう。勝敗が付いていない事に不満を漏らす者、逆に未決着だから次に闘う時が楽しみだと期待する者――プロレスにはいろいろな感じ方があってもいい。只の時間切れ引き分けではない、《一流》にカテゴライズされるふたりが心技体を駆使して闘い、制限時間内に勝負が付かなかった《死闘》の真の勝敗は闘った本人しか分からない。
 この試合に対し、水澤はコメントを求められても一切語る事は無く彼女のファンや、ゴシップ好きのプロレスマニアからはさまざまな憶測が飛び交ったが、彼女は別にそれでもいいと思った。さゆりも同様で、試合後の会見でこの一戦について聞かれた際に「どっちが勝者かって? それは観た人が決めてください」と短いコメントを残したきり二度と口を開く事は無かった。だが後日、親しい人たちの前ではこんな事を語っている。

 ――勝った負けたで言えば「勝った」って言えるわね。水澤との? いや違うわ、団体としてよ。だってあんな大きな団体から喧嘩を売られたけど、借金までして舞台をセッティングし、必死でチケット売り捌いてその結果、大入り超満員だったんだから太平洋女子に「勝った」って胸張って言えるわよ。それまでどこの女子プロレス団体もやった事が無いんだから当然よ。

 その時のさゆりの表情は、満面の笑みだったという――

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――  

 そして季節はいくつも流れ、また春が訪れる。

 市民の憩いの場である大公園には桜の花が満開に咲き誇り、しばらくの間雪で覆われていたこの地域の景色をまた違った、明るい雰囲気へと変えてくれる。まだ朝晩は身を切る寒さが残るものの、日中は陽気に包まれて暖かく冬場は外出を躊躇していたような人々も、今では何の気兼ねも無く、思い思いの場所へ足を運んでいる。

 そんな中、《こだまプロレス》は今年最初の野外興行を、この大公園で開催していた。
 大勢のギャラリーが見守る中、肌の露出が多いセパレートスタイルのリングコスチュームで登場した神園さゆりは、暖かな日の光を全身に受け大きく背伸びをした。

 ――気持ちいいな。やっぱり天気のいい日は外でのプロレスよね。

 どこかまったりとした空気感を醸し出しているさゆりに対し、簡素なリングコスチュームでまだあどけなさが残る先月デビューしたばかりの新人選手は、がちがちに身を固くし緊張している。そんな彼女にさゆりは肩を抱いて気持ちを落ち着かせると、目の前にいる対戦相手へちらりと視線を送るとこう語りだした。

「見てごらん、白いコスチュームを着た彼女……愛果ちゃんねぇ、あなたと同じ歳の頃にここに来たんだけどね、いっぱい負けていっぱい泣いてそれでもいっぱい練習して――今じゃ太平洋女子のタッグチャンピオンにまで成長したのよ。だからあなたも負ける事を恐れちゃ駄目。敗北を次の勝利への糧としなさい」

 新人選手はかつてのさゆりの弟子――つまり自分の姉弟子である愛果ゆうへ目を向けると深く一礼する。自分の後輩である彼女の、微笑ましい行動に愛果はふと目を細めた。

 愛果はあの対抗戦の後、さゆりの斡旋によって太平洋女子へ定期参戦するようになり、そこで練習と実戦経験を重ね大学卒業後に太平洋女子へと籍を移したのだ。“レジェンド”神園さゆりの寵愛を受け、エース・水澤茜にも目を掛けられる存在である愛果には同世代の選手から嫉妬されたが、それをひとりずつ己の実力で黙らせていったのは流石としか言うほかは無い。
 そして現在ではその水澤とタッグを組み、何と太平洋女子認定のタッグ王座を保持するまでに成長したのだった――本日の試合の隣りにも、あたり前のように水澤が傍に寄り添っている。

「さゆりさん、今の愛果はアンタが知っているかつての愛果じゃないよ。かつての愛弟子から倒される覚悟、出来ている?」

 水澤が挑発する。かつてのように自分自身にプレッシャーを掛け続けトップの重責をひとりで担っていた、狂気に近い雰囲気を纏う水澤茜はそこにはいなかった。余分な力が抜けさゆりと同様に、プロレスをエンジョイしようとする彼女は前以上に魅力的に映る。事実さゆりとの一戦をきっかけにファンになったという者も多いと聞く。やはり生まれ持ったカリスマ性は偉大である。

「さゆりさん、さっさと負けて早く譲治代表と式を挙げたらどうですか? 待ってますってきっと」

 愛果もさゆりに向かい口撃するが、逆にそれが怒りに火を付けたようで彼女は愛果の髪を掴むと刺すような視線で睨み返す。

「うるせーバカ! もうちゃんと決まってるよ……今年の6月だよ。だから愛果ちゃんたち、ご祝儀よろしくお願いね♡」

 ちょっぴり恥ずかしげに、しかし喜びに満ちた表情で態度とは裏腹に結婚式の報告をするさゆりだが、愛果のトンチンカンな発言にますます怒りの火が燃え広がった。

「勝利で恩返し……ってのはダメですか?」

「物理的なもんに決まってるだろ! おいレフェリー、さっさとゴング鳴らせ! 絶対愛果から一本取ってやる」

「と、いう事だから愛果。後はよろしくね」

 いきり立つさゆりを見てこりゃ手が付けられない、と思った水澤はリング内に愛果ひとりを置いて、早急にロープの外へと逃げ出した。危険察知能力は相変わらず早い模様だ。

「そんなぁ~。さゆりさんも水澤さんもヒドイよぉ」

 涙目の愛果をよそに、おんなたちの大混戦はゴングの音と共に開始された――

 
 ―――終