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蹴撃天使RINA 〜おんなだらけの格闘祭 血斗!温泉の宿?!〜  【最終回】

2017年04月30日 | Novel

「明日、とうとう帰っちゃうんだね。ちょっと寂しいなぁ」

 手に持ったグラスの中の僅かに残ったビールを、ぐるぐると揺らしながら目の前のRINAに呟く、ちょっぴり感傷的な気分の絵茉。
 《角力祭》が終了したその夜、初居大人をはじめこの祭に参加した選手やスタッフなどが集まり、祭の成功と参加者たちの労をねぎらう《打ち上げ会》が繁華街にある居酒屋にて開催された。初居による挨拶と乾杯の音頭の後、闘いの重圧から解放された女武芸者の面々は思いのまま飲み、テーブルに並べられた美味しい料理を食したりして、この楽しい“束の間の休息”を十二分に味わっていた。グラスを片手に彼女たちは武芸やプライベートなどを話題に、熱の入ったガールズトークを繰り広げ、話す側も聞く側も皆笑顔になって心地の良い時間を過ごしている。

「はい。そろそろ冬休みも終わっちゃいますし……」

 絵茉の言葉に、控えめに笑うRINAだったが、本当の所はまだ絵茉や遥たちと一緒にいたいと思っていた。だけど自分は此処の住人ではなく余所から来た只の旅行者に過ぎないし、地元へ帰れば高校生活や大好きな“彼氏”との日常が待っている――彼女たちとの別れを“大人”であるふたりよりも、恐れ寂しがっているのが実は彼女であった。

「でもまぁ、学生だから仕方ないよね。もし機会があったら――そうだ、春休みにでもまたおいでよ!今度はあたしん家に泊めてあげるからさ」

 絵茉はRINAの方へ、ぐいっと身体を密着させ自分の妙案をまくし立てた。しこたま飲んでいるのか、彼女の息がちょっと酒臭い。
 RINAが苦笑いを浮かべ返事に窮していると、横から絵茉の視界を遮断するようにビアンカが現れた。絵茉はつまらなそうな顔をしてRINAの側から一時退却する。

「よぉ、スクールガール! 目一杯飲んでるかい?……ってソフトドリンクをだけどね」
「あ、はいビアンカさん。十分に楽しんでいます」

 ふたりは互いに手にしているグラスを重ね合わせる。ビアンカはレモン割りの焼酎、RINAはコーラだ。

「――それで大丈夫なんですか、旦那さん?」
「ああ、リナが心配する事じゃないって。みんなダーリンが悪いんだ――女の恨みは鬼より怖いのよん」

 満面の笑顔のビアンカを、あの時の光景がフラッシュバックし複雑な想いのRINAは、只々彼女に“同意”するしかなかった。
………………

 祭が終わりすぐの事――ビアンカは傷の手当てもそこそこに、参加したRINAをはじめとする女性集団の前に、既にボロボロとなっているケンジを引き摺って連れてきた。顔は青痣だらけ、目は死んだ魚のように虚ろな彼は恐怖に顔を引きつらせ“最強の嫁”の側で小さくなって、女武芸者たちの蔑んだ視線に晒されていた。

「や、やめろよビアンカ。昨夜だって散々伯父貴に搾られたんだ、もう……勘弁してくれよぉ」

 情けない声で懇願する旦那にビンタを食らわす《装鋼麗女》。試合でも十分決定打となりうる彼女の平手打ちをもろに受け、意識を“此処ではない何処かの世界”へ飛ばすケンジ。

「ダメよ! リナに全身全霊をもって死ぬ気で謝罪しなさいっ!! ひとりの少女の人生を狂わせかけたって自覚、ちゃんとあるの?!」

 そういうとビアンカは、ケンジを強引に跪かせると足で頭を押さえつけ、額をぐりぐりと地面に擦り付けた。擦れる痛さと彼女の重さに耐え切れない彼は、目の前のRINAに泣き叫ぶように許しを乞うた。

「うぅっ、ごめんなさい……ゴメンナサイ……ごめんなさいぃぃぃっ! 」

 これが自分の“貞操”を奪わんとした男の末路なのか――殺しても殺し足りない程憎い相手のはずなのに、この醜態ぶりを見せつけられると馬鹿負けするというか、何だかこんな輩を相手にする事自体無駄なような気がしてきたのだった。だからRINAはすうっとケンジの視線まで下りていき

「……わかりました、あなたの謝罪を受け入れます。だから――二度と私の前に姿を現さないでください」

と冷たく言い放ち、くるりと背を向けてその場を離れた。
 許された――と安堵するケンジだったが、意外な所から“第二波”が襲ってこようとは夢にも思わなかった。

「わたし、この人にエッチな事されそうになったよ」

 《旋風夜叉》ソンヒだった。話を聞けば数年前に町で声を掛けられ、強引にラブホテルに連れ込まれかけたとの事で、もちろんビアンカとは結婚済みの時期である。わなわなと口を震わせているケンジに更なる余波が直撃する。

「それだったら私もよ。ジムでトレーニングしてる時に彼が寄ってきて、“練習見てやるよ、こう見えても俺格闘技やってんだぜ”なんて言って、ひとの身体をべたべたと触ってさ。あまりにもしつこいんでチョークスリーパーで締め落として逃げてきたけどね」 

 今度はジェシカの“爆弾発言”だ。たて続けに露にされるケンジの“悪事”に、奥方であるビアンカの顔色が徐々に変わっていった。

「それじゃあ“犯罪者予備軍”じゃなくて、正真正銘の“犯罪者”じゃない。ダメじゃん!」

 絵茉が叫んだ。怒りと蔑みの視線がおんなたち全員から、一斉に向けられるケンジ。我慢ならなくなったビアンカは軽々と彼の身体を、頭の上までリフトアップすると力一杯地面に叩き落とした。身体を強く打ち付け苦悶の表情を浮かべるケンジに、休む間もなくRINA以外の女武芸者たちからは蹴りが降り注がれる。痛みと恐怖で動く事の出来ない彼は悲鳴を上げ、ただ蹴りの雨嵐を受け続けるしかなかった。

「女の敵!」
「この変態っ!」

 家にはこの鬼より怖い《装鋼麗女》が、そして地元の名士である最強の伯父貴が常に自分を監視しており、仮にこの土地を逃げおおせても伯父貴の一声で、武林の好漢たちとその弟子たちが草の根を分けて追ってくるという絶望的な状態にケンジは、自分の軽率な行動を悔やみ涙と鼻水で顔を濡らし泣いた――

………………

「それでビアンカさん、これからどうするんですか?」

 RINAが尋ねる。《装鋼麗女》はグラスの中身を一気に飲み干すと淡々と語り始めた。

「ん? 離婚は――しないよ。これまでも、そしてこれからもダーリンと一緒に生きていく。確かにダメな旦那だけどいい所だってちゃんとあるし、そこに私は惹かれたの。だからちゃんとダーリンを叱り、時々なだめて“真人間”にみえるよう上手くコントロールし、彼の妻として生きていくのよ」

 恥ずかしさか飲み過ぎか、原因は分からないけど頬を赤らめて嬉しそうに語るビアンカに、彼への愛情を十分に感じ取ったRINAは、地元にいる“彼氏”の事をふと思い出してちょっぴり妬けた。

「リナぁ、もう帰っちゃうの~? センセイは寂しいぞぉ」

 ビアンカがこの場を離れると、入れ替わるように今度はジェシカとソンヒが現れた。すっかり出来上がっている彼女たちはお互い肩を組んでけらけらと笑っている。誰から見ても“別嬪さん”なこのふたりだが、武林では《旋風夜叉》《碧眼魔女》という恐ろしい通り名で知れ渡る、女武芸者である事が俄かには信じ難い。

「はい。名残惜しいですけれど……」
「うん。あなたとの試合はとってもエキサイティングだった。この先の格闘人生に於いても二度と経験できないようなね。これからは今日の試合で味わった、スリルや興奮を求めて闘っていくんでしょうね、きっと私は」

 RINAの手を両手で包むように握り、興奮ぎみに語るジェシカ。試合時に施していた、ゴスロリ風の隈のようなアイメークを落とした彼女は、“善人丸出し”なとても穏やかな顔をしていた。

「リナ、今回貴女とは闘う機会がなかったけど、来年こそは対戦出来るよう初居センセイにお願いしておくからね!」

 いや、来年の事はわからないんですけど――そう言おうとしたRINAだったが、ヤル気満々のソンヒに何言っても聞かないだろうなぁ、と思って口に出すのを止めた。

「それでね、今日絵茉と闘って決めたんだ。私――もっと外に敵を求めようと思うのよ。だから、ジェシカが所属するチームに入って総合格闘技に挑戦するんだ。今の私よりもっと強くなるために!」

 《目標》を定めたソンヒの目は輝いていた。誰が何処で自分と同じく、女性で武芸を修練している人物がいるのか分からず、孤独感を感じていた彼女が同じ地域に、しかも複数人存在している事を知り、実際に拳を交し合った今、目先が内から外へと向くようになり、もっといろんな武芸者たちとボディ・コミュニケーションを取ってみたくなったのだという。

「そうですか! 頑張ってください、ソンヒさん。私も陰ながら応援しますね」

 RINAはソンヒの手を取り、笑顔で握手を交わす。《旋風夜叉》はそんな彼女の優しさがたまらなく嬉しくてつい、ほろりと一粒涙をこぼした。

「――お疲れ様、リナちゃん」

 ソンヒを強引に引き連れ、何だかよく分からない奇声を発して“次の標的”に向かうジェシカの後、RINAの“本命”であった遥が側にやってきた。彼女はあの全員が集まった舞台上を最後に、一度も会話をしていない。だからあの時、何故自分に対し“敵意”のような熱視線を向けたのか? その真相を聞きたかったのだ。だが遥は、無言でビールを飲み、皆が楽しく騒いでいる様子を眺めているだけで何も言わない。自分で見えない“壁”を作ってしまい、誰からの干渉も寄せ付けないようなムードを漂わせている彼女に、RINAはなかなか話しかける事が出来ないでいた。
 ふたりの間にだけ、重く気まずい時間が流れていく――この硬直状態を打開すべくRINAが口火を切った。

「なんで……ですか? 私、遥さんの気に障るような事しましたか? 至らない所があれば――」
「全然そんな事ない。むしろリナちゃんは十分すぎる程出来た子よ」

 彼女が話を終える前に、割り込むように遥がこれに応える。だがRINAは彼女の言葉をそのまま受け取ってよいのか、と考える――“答え”はまだまだ見つからない。

「でも若いのに大したものだわ、こっちが発信した“ラブコール”にちゃんと気付いているもの。武林の評判は伊達じゃないって事ね」

 やっぱり彼女は私に闘いを挑んでいる!――ようやくRINAの頭の中で、全ての情報の欠片(ピース)が繋ぎ合わさった。
 遥がすっと《蹴撃天使》の耳元へ口を近付ける。

 …………っ

 誰にも聞こえないような小さな声で語りかけた。
 RINAはこくりと首を縦に振り、「了解」の意思表示をするともう一度だけ遥と睨み合った。何が彼女を突き動かしているか知る由もないが、この闘いだけは避けるわけにはいかなかった。特に尊敬する“先輩”からの申し出であれば尚の事、だ。
 離れた場所にいる妹分の絵茉から声が掛かると、遥は何事も無かったかのように周りに笑顔を振りまき、普段通りの様子で彼女の方へ向かった。一方、重く圧し掛かるプレッシャーから解放されたRINAは、大きく安堵のため息をつき、グラスに残ったコーラを乾いた喉へ一気に流し入れる。手の中で温められ、すっかり炭酸が抜けたグラスの中のコーラは、只の砂糖水へと成り果てていた。

 

 早朝九時――
 温泉旅館『白鶴館』の駐車場に、一台の軽トラックが止まった――絵茉だ。彼女は、温泉街の中心部にある、高速バスが発車する大型バスターミナルまでRINAを送っていく為、投宿先であるこの旅館へとやってきたのだ。
 外気に触れ冷たくなった手を擦りながら、旅館の待合室ラウンジに入るとさっそく彼女の姿を捜した。しかしそこには他の客もおろか、部屋の掃除をしている数名の仲居さんしかいなかった。
 絵茉の姿に気付き、旅館の女将が小走りで近付いてきた。

「あら絵茉さん、おはようございます。どうなさったんですか? こんな朝早くに」
「ええ、リナちゃんを町のバスターミナルまで送っていこうかと――彼女、まだ部屋ですか?」

 女将は、彼女の言葉に不思議そうな顔をする。

「リナちゃん……? 今朝早々――三十分ほど前ですかね、チェックアウトされて既に出て行かれましたけど。てっきり彼女、絵茉さんと何処かで落ち合うとばかり」

 絵茉の顔が蒼白となる――もしやあの娘、また“トラブル”に巻き込まれたのかも? 不安が胸の中で大きくなり抑えきれなくなった彼女は、居ても立ってもいられなくなり、慌てて旅館を飛び出していった。

 ――リナちゃん、一体何処へ行ったのよ?!

 山と木々に囲まれた辺りの景色を、慌ただしく目で追いRINAの姿を捜すが、既にこの場所にはいないと感じた絵茉は、アテはないがとにかく広範囲を捜索してみようと、逸る気持ちで軽トラックを疾走させた。

 冷たい雪がちらつく中、山間にある野原へ黒い軽自動車が進入してきた。こんな早朝に、しかも観光地でもないこの場所に人がやって来る事自体異状であった。降り積もる粉雪で白く染まった枯れ草の上に、轍を描いて車が停まると中から女性がふたり降りてきた。
 遥とRINAだ。
 彼女たちは横並びになり、白い息を口から吐き出しながら野原の中央付近へ向かい歩いていく。その間一切無言で視線も合わさない。鉛色の寒空の下、ふたりしかいない山間の景色は何処か“異世界”を感じさせずにはいられなかった。
 遥がぴたりと歩みを止めた。
 RINAは側を離れると、2m程の距離を取った後彼女と向かい合う。
 互いの、鋭い眼光がばちばちっと交錯する。

「――リナちゃん、覚悟はいい?」

 遥の問いに、目の動きだけで返答するRINA。
 着用していた上着を脱ぎ、地面へと放り投げ戦闘に備える両者。地面に積もった雪を踏み固めながら、じりじりと間合いを詰めていく。
 彼女たちの頭の中で、“試合開始”の号令が聞こえた瞬間、ふたり同時に胸部へ向けて前蹴りを繰り出す。防御など一切考えていなかった彼女たちは、相手の蹴りをもろに喰らい、大きく後ろへと転倒した。
 患部を押さえ苦々しい表情の両者。
 相手より、一歩でも優位に立ちたい彼女らは表情を元に戻し、背筋力を使って跳ね起きると今度は、顔を狙っての回し蹴りだ。これも高く上がった脚同士が交差しダメージを与える事が出来なかった。
 一度ならず二度までも、攻撃に失敗し苛立つ女武芸者ふたり。《蹴撃天使》の通り名を頂く彼女たちらしく、蹴りを中心とした攻撃のロジックが似通っているので、“合せ鏡”のような展開となっていた。
 遥は停滞する闘いの流れを変えるべく、相手にない技術――レスリングで勝負を決めようと、地面を蹴ってダッシュするとRINAに、矢のような胴タックルを敢行した。スピードと体重差による衝撃の強さで、人形のように宙に浮いたRINAは、そのまま落下し雪原へ身体を激突させる。
 背中を押さえ悶絶する《蹴撃天使》。突破口を開いた遥は間髪入れず、彼女の腕を取ると腕ひしぎ十字固めの体勢に入る。しかし極められまいと上体を起こして、必死で腕を掴みこれを防御する。だが遥の「引く力」は異常に強く、最強女子高生といえども、命綱ともいえる腕のグリップも保つ事も厳しくなってきた。このままだと確実に、肘の靭帯が伸ばされ自ら「敗北」を口にしなければならない――想像しただけでも我慢ならないRINAは、技が掛かっている状態ながら無理矢理立ち上がると、真下となった遥の顔を力一杯踏みつけ“関節地獄”から脱出した。
 技からは逃れられたものの、極められていた方の腕に力が入らず苦悶の表情のRINAに、遥は追い討ちを掛けるべく患部を容赦なく蹴り続け“潰し”にかかった。片腕が利かないとなると拳打による攻撃はおろか、防御にも支障をきたしてしまう為彼女にとっては死活問題だ。遥の蹴りが腕を直撃する度に骨まで響くような痛みに襲われ、無事な方の腕のみで必死で防御するもののどこか心許ない。相手の猛攻にRINAは次第に追い詰められていく。
 がつっ!
 ガードを固めていた腕を、力で押し切って遥の蹴りが側頭部へヒットする。とうとう腕一本での防御にも限界が来た。 RINAはダメージを受けよろよろと身体を揺らすが、意地と気合で何とか踏み止まり地面へ倒れる事を拒否する。遥はもう一度――今度は確実にダウンを奪うべく渾身の一撃を放った。
 RINAのポニーテールが宙を舞ったと同時に、遥の腹部に激痛が走る。彼女の目にも止まらぬ速さ後ろ蹴りが、ずばりと肚に突き刺さったのだ。蹴り脚を廻り切る途中でストップさせられ、耐え難い痛みで身体をくの字に曲げる遥に、休む暇なくRINAの黒いタイツで覆われた膝頭が襲い掛かる。突き上げるような飛び膝蹴りは無防備の顎へヒットし、推進するRINAの身体と一緒に遥は、雪に覆われた大地へと転倒した
 身体を重ね合い、胸を上下に動かし苦しそうに呼吸するふたり。
 止む事なく降り続く雪が、彼女たちの身体を白く染めていく。RINAは痛む身体を起し、遥の身体から身を剥がすと横並びになって大の字に寝転がり、天から舞い落ちる粉雪を仰ぎ見た。

 ――何やってるんだろ? わたしたち

 興奮で熱くなっていた頭の中が、雪の冷たさと外気の寒さでクールダウンされて、次第に冷静さを取り戻していくと、RINAは闘っている事が馬鹿馬鹿しくなってきた――何もかも無意味なのだと、そう思えたのだ。遥との闘いには何の“テーマ”があるのか? この闘いの果てに達成感なんてあるはずがない、あるのは相手に対する失望と後悔だけだ。どちらが勝っても負けても!

「もう……やめません? こんな事」

 《闘い》は一方が闘争心を失った時点でそれは《暴力》となり、「対戦相手」から「加害者と被害者」という関係へと移り変わる。だからRINAは闘いの中止を求めた――遥とはいつまでも好敵手ライバルでいたいから。
 黙ったままの遥。はぁはぁとリズミカルに発せられる呼吸音だけが、この《ふたりの世界》で唯一聞こえる音だった。
 そして――ようやく口を開いた。

「――どうやらここが“武芸者”と“獣”との境目のようね。わかったわ、この勝負“無し”にしましょう」

 彼女もこの重圧から解放され安堵したのか、上体を起こし胡坐をかいてリラックスした体勢を取る。厳しかった表情から一転、いつもの温和な遥の顔に戻り、それを見てRINAは安心する。
 再び沈黙が続く――だが居心地はそんなに悪くない。遥が次に口を開くまで少女はじっと待つ事にした。

「上手く説明はできないけど感覚的に“何かが足りない”って気がしたのよ」

 天を仰ぎ見ながら、ぽつりぽつりと語りだす遥。

「《角力祭》でビアンカと闘った事で、ある程度の手応えは掴めたと思う。だけど――再び闘いの世界へ身を投じるには“もうひと押し”が必要だった。ぽんと私の背中を押してくれる人が」

 彼女の言葉に、黙ってこくりと頷くRINA。

「それがわたし――だと。それで遥さんの期待に応えられたのでしょうか?」

 RINAに問われると、遥はいろいろな感情が入り混じる微妙な笑顔を見せた。

「まぁね。こちらの一方的な“ラブコール”を受けてくれた事は本当、感謝している。実際にリナちゃんとの闘いは、十分すぎる程私にいろんな事を思い出させてくれたわ。闘う歓びもダメージを受けた時の痛みも――相手への嫉妬心もね」
「…………」
「闘っていてね、気付いたの。あの時私をトップの座から蹴落とそうとした、同期の子と自分はいま同じなんだ、って。自分を超える“才能”を持つ、一番近くにいる人物に嫉妬し憎み、己の能力の限界を認めず自分の前へ歩んでいく事を良しとしない――自分が一番嫌っていた、なりたくないと思っていた人間に成り果てようとしていた――ありがとう、リナちゃん。大事な事を思い出させてくれて」

 遥の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 格闘家として純粋に闘える歓びとは逆に、相手への憎しみや嫉妬という相反する感情がせめぎ合い、暴走する一歩手前で自ら退いてくれたRINAには感謝してもしきれない

「遥さん……あなたと闘えた事は正直嬉しかったし、同時に怖かったです。途中で致命傷を負い、“一生闘えなくなるんじゃないか?”と思うぐらい厳しい攻めでした。わたしから闘いを降りたのは、そうする事が後輩としての役目だと思ったから――間違っていましたか?」

 遂に感極まった遥は、RINAを力一杯抱きしめた。
 ごめんね、ごめんね、ごめんね―― 
 感謝、謝罪、後悔、慙愧――あらゆる感情が涙の粒となって頬を伝い流れる。彼女の腕の中に包まれながらRINAは「これでよかったんだ」と安堵の表情をみせた、目には薄らと涙を溜めて。
 土手の上を白い軽トラックが、軽快なエンジン音を響かせて走ってきた。――絵茉の車だ。彼女は慌てて停車させるとドアを開け、雪原にいるふたりに大声で叫んだ。

「遥姉ぇ! リナちゃんっ!」

 一刻でも早く彼女たちに接近したい。絵茉は逸る気持ちで土手を下っていくが、途中で雪に足を取られ転倒。そのまま真下まで雪煙をあげて転がり落ちていった。
 あまりにも突然の事で、抱き合ったままぽかんと口を開け唖然とする遥とRINA。
 しばらくして身体の回転は止まり、ベージュ色のロングコートに貼り付いた雪を払い落すと、絵茉は立ち上がり雪原のふたりに腕を広げて飛びついた。
 彼女の勢いに押されて、一緒に雪の上へ大の字に倒れる遥とRINA。自分たちの、あまりにも滑稽な姿についおかしくなって、RINAが声をあげて笑い出した。見栄や虚勢も張っていない、あまりにも自然で年相応な、女の子らしいRINAの姿に、“姉”ふたりもつい釣られて笑ってしまった。痺れるような寒さの中、雪原の上は暖かい笑い声で溢れ返った。

「あー可笑しい……でも絵茉、よくここが判ったわね?」

 遥は不思議そうな顔で絵茉に尋ねた。彼女に言わせれば別に難しい事ではなく、幼い頃から自分たちはこの野原を遊び場や練習場としていたし、遥が多感な時期には、何か心配や不安等があるといつもひとりでここに来て、何時間も考え事をしているのを見ていたので今回ももしかして――と思い、自然とここへ車を走らせたというわけだ。

「まったく――行動パターンが昔っから変わんないね、遥姉ぇは。それで結論は出たの?」
「うん……もう一度プロレスラーに戻ろうかな、って。無理を言ってリナちゃんと闘ってみて、やっぱり私は“闘う側の人間”なんだって気付いたの」

 再び“修羅の道”へ歩み出す事を決意した、遥の表情は心底明るかった。絵茉がこんな吹っ切れた遥の顔を見たのは、プロレスラーを目指して上京する前にふたりで会った時以来だった。

「頑張ってください遥さん!わたし、応援しますから――」

 RINAが言いかけた途中、悪寒と共に鼻の奥から、むずむずと耐え難い生理現象が湧き上がってきた。こうなると出来る事といえば、口に手を当て身体を縮ませるしかない。
 はくしょんっ!
 小さな身体からは想像できないくらい、大きなくしゃみが勢いよく飛び出した。驚いた“姉ふたり”の視線を一手に浴びて、RINAは顔を真っ赤にして恥ずかしそうに下を向いた。

「あはははは! それじゃあ私ん家に戻ろっか?このままだと皆風邪引いちゃいそうだしね。リナちゃん、高速バスの時間までまだ大丈夫だよね?」

 遥の問いに、RINAはこくりと首を振って返事をする。

「遥姉ぇ、あたしカフェラテ飲みた~い」
「はいはい。リナちゃんは?」
「わたしは……ミルクティーをお願いします」

 絵茉とRINAは遥を挟むように寄り添うと、彼女は大きく両手を広げ嬉しそうな顔で、ふたりの肩を抱き自分の方へ引き寄せる。遥や絵茉、そしてRINAもこの幸福な時間がいつまでも続けばいいな、と蕩けんばかりの空気の中で願った。しかしもうしばらくすれば彼女たちも――そして自分も、忙しい“現実”の世界へ戻っていかなければならない。ならば一瞬だけでも、目一杯この素敵な時間を楽しもうじゃないか。RINAは自分の頬に、遥の体温を感じながらそう考えていた。

                                                                                                                            終


                           


蹴撃天使RINA 〜おんなだらけの格闘祭 血斗!温泉の宿?!〜  【第十回】

2017年04月30日 | Novel

 続けてふたつも、“女性の範疇”を超える激しい《奉納角力》を見せられた、見物客たちの興奮度は最大限に達していた。例年行われている男衆による、“喧嘩”に近い原始的(プリミティブ)な角力を楽しみにしていた地元の“常連さん”たちも、個々の思想・理念や培った格闘技術をぶつけ合う、武芸高手たちによるクオリティの高い闘いに満足し《奉納角力》も新たな時代が到来した事を実感する。
 同時にこの《イベント》の勧進元・マッチメーカーである初居御大も、地元民や遠方からの見物客たちの、熱戦に次ぐ熱戦で興奮し紅潮した顔をみて、今大会の成功を確信していた。

 ――あとは遥が、上手い事締めてくれればいいんだがなぁ

 初居は白くなった短髪を撫でつけながら“大トリ”の事を考えていた。もちろん今井遥との“付き合い”は長く、彼女がどんなファイターなのかも熟知しているが、なに分“勝負”というものは水物で気候に体調、そして精神状態の好不調で勝敗が左右されるし、十年間の空白期間が格闘能力にどう影響しているのか全くわからない。まぁ絶頂期の半分でも動ければ御の字だろう――と彼は思った。
 遥自身も、日々の喫茶店経営の合間を縫って、《武芸者》としての基礎トレーニングは欠かさず継続していたものの、実戦経験は十年前の――あの忌まわしき最後の試合以来行っておらず、その点を問題視していた。妹分の絵茉や“二代目”を継承するRINAが見せた、レベルの高い試合をテントの中から観戦し往年のファイティングスピリットは戻りつつあるが、その精神に見合うだけの動きが実際に出来るのか?何度も自信と不安が交錯する。

 ――情けないなぁ。こんなくだらない事を、いつまでも考えているなんてわたしらしくもない。勝ち負けなんて二の次じゃない? 当たって砕けろ、よ!

 ぴしゃりと自分の頬を打ち気合を注入する遥に、普段着へ着替え終えた絵茉が近付いた。

「次の遥姉ぇの試合……セコンドに付かせてもらうわ」
「どうぞご勝手に。でも、側なんかにいたら気軽に観戦なんかできないわよ……本当にいいの?」

 姉貴分からの問いに、絵茉は黙って縦に首を振った。

「あたしはね、ずーっと遥姉ぇの近くにいたいの。それで遥姉ぇと一緒にドキドキしたいの!……ダメかな?」

 自分と同じ視線の高さに彼女がいる筈なのに、遥の目には最初に出逢った頃――まだ小学生だった頃の絵茉の姿が映っていた。ひとりぼっちで泣き虫で……そしていつも遥の後ろにくっ付いて行動していた彼女が鮮明に脳裏に蘇る。

 ――変わらないね。大きくなったのは背丈と態度だけ、ってか

 遥は両手で絵茉の手を握りしめた、何処にも行かないようにしっかりと強く。

「セコンドは任せたわ。一緒に……一緒に闘おうね、絵茉」
「うん、おねえちゃん!」

 “最高の相棒”と手を繋ぎ、並んで決戦の場へと向かう遥と絵茉。彼女の心にはもう一片の迷いも無かった。そして神楽殿の舞台上では《装鋼麗女》が腰に手を当て、対戦相手が上ってくるのをじっと待っていた。

「ふん。逃げずによく此処まで来たな、ハルカ!」
「当然でしょ? とにかくあんたを一発ぶん殴らないと気が治まらないのよ」

 お互いが、先制攻撃である“憎まれ口”を叩く。ほんの挨拶程度ではあるが会場は大いに盛り上がった。しかし遥は彼女の言葉のトーンに違和感を覚えた。昨夜のビアンカの激昂ぶりとは全く違っていたからだ。あの時の“憎しみ”が継続していれば、もっと“憎まれ口”にパワーがあり心に突き刺さっている筈なのに、今のビアンカの言葉はプロレスの“マイクパフォーマンス”以外の何物でもなかった。
 どこか居心地の悪さを感じたままの遥に、欧州最強の女が無言で接近する。気が付けば胸と胸を突き合わせ、これ以上ない程至近距離で睨み合っていた。
 顔の彫りが深い彼女の、暗闇から覗くような鋭い眼光で見つめられると、普通なら恐怖で身がすくんでしまいそうだがそこは“ファイター”である遥の事、しっかりと「メンチを切」って応戦する。

「……昨夜はすまない。私の勘違いだったようだ」

 突然ビアンカが他の誰にも聞こえないよう、小さな声で謝罪をした。

 ――えっ?

 一瞬耳を疑う遥。あまりにも唐突過ぎて現実味がなく、素直にこれを“謝罪”と受け取ってよいものか彼女は戸惑った。

「全て初居センセイから話を聞いた。うちのダーリンがトラブルの原因だという事を」

 なんだ、ちゃんと全部判ってるじゃん――遥は今日のビアンカから、“怒り”が感じられなかった理由をやっと理解した。

「あはは、まんまとあんたの組んだ“アングル”に乗せられた、というわけね」
「こうでもしなきゃハルカと闘えないと思ったから。こんな私を軽蔑するか?」

 彼女の言葉に、やはりビアンカ・レヴィンは闘うに値する女だと、元・人気女子プロレスラーの胸は騒いだ。

「いや、逆に感謝しているわ。正直ね――退屈してたのよ、今の生活に」

 自分だけに打ち明けてくれた、遥の“偽らざる本心”にビアンカは「やっぱりね」とニヤリと笑った。個人差はあれど一度でも“闘いの世界”に身を投じると、アドレナリンが大放出されて生まれる独特の高揚感は、なかなか忘れられないらしい。
 《装鋼麗女》は健闘を誓い合うべく、すっと短く拳を前に突き出した。客の前でおおっぴらにやると悪玉(ヒール)VS善玉(ベビーフェイス)の対立構造が崩れてしまうので、人目に触れずこっそりと行う――遥より幾分若いのに“昔気質”な考え方のビアンカであった。そんな彼女の意を汲んで遥も、自分より大きな身体のバッドガールを睨みつけたまま、拳をこつんと小さく当てて“挨拶”をした。
 行司から「離れるように」と注意され、ふたりはそれぞれ対角線の先へと一旦分かれる。

「――遥姉ぇ、あいつと何話してたのよ?」

 絵茉が、自分が待機している舞台の角に戻ってきた遥へ、不安げな表情で訊ねる。姉貴分は、そんな彼女に向かって「心配ない」とばかりに、優しい笑顔を見せた。

「あいつは“策士”だね。すっかり彼女の描いたストーリーラインに乗せられちまった」
「え?」

 話がさっぱり分からない、絵茉の頭の上に「?」マークが点灯する。

「“心配するな”って事よ――もしもの事があったら頼むわね?絵茉。わたしに不測の事態が起こった時も、逆に起こしそうになった時も」

 随分ヒドイ事言ってるなぁ――最後のひとことが気になったが「遥姉ぇらしいなぁ」と、彼女の発言をいつも通り、あたり前のように受け入れてしまう絵茉であった。
 遥が、赤いジャージ上のファスナーに手を掛け、ゆっくりと下に降ろす。中から現れたのは桜の柄がプリントされた、ワンピースタイプのリングコスチューム……絵茉は見覚えのあるこのコスチュームを見てはっと息を飲んだ。それは十年前に彼女が、あの「最後の」試合の時に着用していたものだったからだ。遥は沈黙を守った十年の時を経て、再び「あの時の」続きをやろうという覚悟の表れだ――敗北も屈辱も全て自分の中で消化して。
 金色と黒で配色された、ダークなイメージのリングコスチューム姿のビアンカが、一足先に舞台中央へ戻って“強敵”今井遥を待ち構えている。

「――始めぃ!」

 縦に手刀を切り“戦闘開始”を知らせる行司。その瞬間、一気に身体から開放された野獣の如き闘気に慄いて、慌てて彼女たちの側から離れた。

 うぉぉぉぉぉ!!
 「結びの一番」の開始に、会場の至る場所から声援が飛び交った。見物客をはじめ、対戦相手であるビアンカに至るまで誰もが《悲劇の女子プロレスラー》今井遥の“復活劇”に期待していたのだ。
 両者は円を描くようにゆっくりと舞台上を周回し、徐々に距離を詰め自分の“攻撃範囲”へ誘い込もうとする。近付いたと思えば一旦離れ、また離れたと思えば接触可能な距離まで近付き、相手の見えない保護壁(バリアー)を少しづつ削っていく。
 差し出した腕と腕が蛇のように絡み合い、それぞれの首筋や肘へ纏わりつき、相手を自分の有利なポジションへ手繰り寄せようと、ロックアップの攻防が始まった。両足をしっかりと床に付けて腰を落とし踏ん張ると、今持っている全ての筋力をこの“力比べ”に集中させる。
 腕や首など、全身にビアンカの体重がずっしり重くのし掛かり、遥は身体の自由を奪われて、前へ押す事も後ろに引く事も出来ない。みるみるうちに彼女の身体は、《装鋼麗女》の攻撃範囲内へと引き摺り込まれていった。
 大木のような太い腕が遥の頭に巻き付いた――ヘッドロックを取られてしまった!
 常人を超えたパワーでビアンカは、顎下から頬骨の辺りをぐいぐいと締めあげる。前腕部の硬い部分が顔の骨と密着して発生する、激しい痛みが遥の頭部を襲う。日常茶飯事にこの技を喰らう“現職”ならば、痛みに耐えつつ次の“展開”を考える事が出来るが、十年の間“一般人”をしていた彼女には酷な状況だ。《装鋼麗女》の腕と脇との間に、頭部を挟まれている遥の顔が既に真っ赤になっている。
 どかっ!どかっ!!
 ビアンカの鳩尾へ肘を叩き入れた。
 身体の奥に眠っていた、プロレスラー時代の記憶が遥を動かしたのだ。驚いて咄嗟に離してしまった相手の腕を掴み、背負い投げで床へ投げ飛ばすと今度は反対に、突き立てた膝を支点にし腕を力一杯引っ張った。ロックアップからのヘッドロック、そして切り替えしてのアームロックというプロレスリングの基本ムーブに、見物客たちからは大きな歓声が一斉にあがり、これからの試合展開を更に期待する。
 ビアンカは身をよじって、逆方向に曲げられていた自分の腕を取り立ち上がると、掴んだまま離さない遥の腹部へ二度三度とトーキックをぶち込んだ。凄まじい威力に彼女の身体は浮き上がり、衝撃に耐えきれず遂には手を離してしまう。
 両者の身体は一度離れ、それぞれが次の攻撃への機会チャンスを窺った。
  遥を捕らえようとビアンカが再び手を伸ばした。しかし足で蹴っ飛ばしてこれを防御する。ぴりっと走る痛みに顔を歪める《装鋼麗女》。
 今井遥の猛攻が開始された。
 急接近して蹴りを、腿や膝の裏へ入れれば一旦距離を取り、また近付いては蹴るといった「ヒットアンドアウェイ」戦法で、相手の体力・集中力を徐々に削ぎ落としていく。
 キックが決まるや、ぱちんと乾いた炸裂音がビアンカの脚から発生し、その都度彼女の顔が苦痛に歪む。遥の蹴り自体も、攻撃が成功する度にスピードや切れがアップしていくのが、傍目でも分かったし自身も足応えを感じていた。

 ――いける、いけるわ! 身体が自分の意思通りに動いてるっ!

 右や左に、ローからミドルへと蹴りを打ち分けて《装鋼麗女》の体力を奪う遥。往年の《蹴撃天使》ぶりを思い出させる攻撃に、「彼女の“完全復活”だ!」と会場から大きな歓声が湧きあがる。

「いけっ、遥姉ぇ!」

 この蹴撃ラッシュに絵茉も、縁から身を乗り出して声援を送る。このまま好調をキープできれば“欧州最強の女”から勝ちを奪えるかもしれない、いや絶対勝てる!――そう思った。
 しかし、ダウンを奪うべく渾身の蹴りを放った途端、軌道をしっかり読んでいた《装鋼麗女》にキャッチされてしまう。蹴り足を脇に挟まれ、不安定な状態の遥へビアンカがにやりと笑ってみせると、自慢の剛腕で短距離からのクローズラインを、殴りつけるように彼女の首筋に叩き入れた。喰らった瞬間、ぐらっと意識が一瞬遠退き、遥は無防備の状態で頭から硬い床板へと激突した。
 ビアンカは頭を抱えうずくまる遥を見下ろすや、顔色ひとつ変えず彼女の胸や腹へ、重いストンピングを連続で叩き込む。無抵抗の遥は蹴られる度に、陸に打ち上げられた魚のように大きく身が跳ねた。
 陽から陰へ。見物客の歓声が、一気に悲鳴へと変わる――「相手が強過ぎる」と誰もがそう思った。やはり十年のブランクからの“復帰戦”の相手が、リングに上がる回数が全盛期に比べ減ったとはいえ、未だ現役女子プロレスラーのビアンカ・レヴィンである事が、遥に対して勝手に抱いていた「勝利という幻想」を打ち砕くのに十分すぎたのだ。
 目の前の惨劇に、思考が停止し呆然としていた絵茉だったが、状況を把握するや大声で遥の名を絶叫した。

「遥姉ぇ……おねえちゃんっ!!」

 自分の拳を、荒ぶる感情のまま床をどんどんと強く叩く。周りは何も見えない、彼女の網膜にはダウンする遥の姿しか映っていなかった。
 ビアンカが醜く口を歪め、首をかっ切るポーズをみせた。早くも試合終了フィニッシュを周囲の観衆にアピールすると、グロッキー状態の遥の身体を引っこ抜くように、自分の頭の高さまで軽々と持ち上げる。この場にいた熱心な女子プロレスファンには、《装鋼麗女》が必殺技のラストライド(高角度パワーボム)を敢行する事は十も承知だった。もしこの荒業を喰らえば、今度こそ遥は一溜りもないだろう、とも。
 自分が舞台の上へ飛び出して、彼女を助け出してあげたいという感情をぐっと我慢して、尊敬する最愛の“姉”の姿を見つめる絵茉。
 あああああああああっ!
 見物客たちが悲鳴をあげた。
 遥の身体をグリップした腕が、勢いよく振り下ろされいよいよ“死への滑降”が始まった。絵茉は“最悪の結末”が目に浮かび思わず目を閉じてしまう。

「……させるかよっ!」

 誰もが“負け”を覚悟していたその時、遥が肚の底から叫んだ。そして脚をビアンカの首に引っ掛けると、落下する力を利用して股下へ向かって反り返る。惰性のついた《装鋼麗女》の身体は大きく、前方へ回転した。逆転技のウラカン・ホイップだ。驚きの喜びの入り混じった大きな歓声が、“諦めムード”で冷え切っていた会場に再び沸き起こる。
 ふらふらと立ち上がるビアンカに遥は、胸にパンチの連打を叩き入れ、上下へ鋭く重い蹴りを撃ち込んでいく。打撃の猛ラッシュでビアンカの身体は少しづつ後ろへ退いていった。突如遥が跳ね、全身をぐるりと傾けた瞬間、大きく勢いのついた脚が鉈で刈るように《装鋼麗女》の肩口へ突き刺さった。必殺の胴回し蹴りが決まり、彼女の巨躯はもんどり打って倒れる。
 打撃がヒットした箇所に力が入らず、苦悶の表情を浮かべるビアンカ。
 これが最後のチャンスかもしれない――そう直感した遥は目の下にいる“雌熊”の頭部を狙って蹴りを放った。が、同じく勝利への執着心の強いビアンカは蹴り足をキャッチし、非可動域に捻じ曲げながら持ち上げた。パワー系サブミッションであるアンクルホールド(足首固め)が極まった。
 こいつを忘れていたなんて――遥は自分の爪の甘さを、足首の痛みと共に実感したが、悔やんでいる場合ではない。ここまで来たら“勝利”へ向かって前へ突き進むしかないのだ。
 片足を掴まれている不安定な状態で、バランスを取りながら立ち上がると飛び上がり、空いている片方の脚でビアンカの頭部を蹴った。彼女の踵がこめかみにヒットし、その瞬間視界がぐらりと揺れ、足首を掴んでいた手を離してしまう。
 ダメージが重く、よろよろと左右に傾く《装鋼麗女》。
 遥は気合一閃飛び上がり回転すると、大きく脚を開き、己のふくらはぎを相手の喉元へ、巻き付けるように打ち込んだ。現役時代には毎試合のように使用し、ニックネームであった《蹴撃天使》のイメージを、ファンに決定付けた彼女の“代名詞”的な技、フライング・ニールキックがずばりと決まった!
 ビアンカの巨躯は大きく後方へ飛ばされ、大音量の衝撃音を響かせて床板へと仰向けに倒れる。
 寝転がる《装鋼麗女》に追い打ちを掛けるべく、遥は彼女の上に跨ると顔に肘打ちを連続で叩き入れる。打撃によってビアンカの額が切れ出血すると、見物客のボルテージは更に上がり、社の外まで聞こえんばかりのボリュームで騒ぎ叫んだ。

「いけぇ遥っ!」
「どんどん攻めろ!!」

 だがビアンカも押されっぱなしで終わらせる気はない。攻撃する相手の腕をキャッチし、勢いに任せて身体を反転させると今度は彼女が逆襲に転じた。固めた拳を鉄槌のように振り下ろし、遥の顔をめちゃめちゃに殴る。優勢と劣勢が交互に入れ替わるスリリングな攻防に、見物客たちも勝敗の行方を気にする事を忘れ、ただリズミカルに相手を殴打する様に酔いしれた。
 息をするのも惜しい程に、ふたりの打撃戦をじっと見守る絵茉。
 グラウンドでの攻防でも決着が付かず、痺れを切らした両者は立ち上がりスタンドでの勝負へ切り替え再び打ち合いを開始する。
 遥の肘や足が、ビアンカに突き刺さる度に被弾部分へ痛みが走る。
 《装鋼麗女》の重量感のある拳撃が、遥の身体にダメージを堆積していく――攻撃と受難を交互に繰り返し、お互いの体力は残り少なくなっていた。
 膝に手を置き、はぁはぁと肩で息をする両者。
 先に動いたのは遥だった。
 “勝利”への執念を込めた肘打ちを全力で放つ元祖《蹴撃天使》。これが己の最高速度ではないものの、ヒットすれば確実に仕留められる自信はある――しかし渾身の一撃は、彼女の想いとは裏腹に空を切ってしまった。
 身体に堆積された疲労が、前へ一歩踏み出した膝を折り遥のバランスを崩してしまったのだ。
 ああ、やっぱ駄目だったか――ゆっくりと下りていく視線は、歯を食いしばり自分へ向かっていく好敵手ライバルの姿を捉えていた。
 黒い影が唸りをあげて接近する。それはビアンカの腕に巻かれているサポーターの色だった。額から鮮血をたれ流し凄い形相で駆けてくる《装鋼麗女》最後の武器である、クローズライン系の打撃技《ヴァルキリー・ハンマー》を、下からすくい上げるように遥の顎の下に叩き付けた。
 顎から脳天へ衝撃が突き抜け、四股から力が失われた遥は勢いに流されて後方へ回転する。一旦惰性の付いた彼女の身体は、最早自分の意思で止める事もできず、みるみるうちに神楽殿の縁へと転がっていった。
 絵茉が口を押さえ絶句する。
 騒がしかった見物客たちの声援はフェードアウトし、この場所だけが時が止まったかのような錯覚を覚えた。
 どすっ
 物体が地面に落下した音がした――それは遥の身体だった。この瞬間、《装鋼麗女》ビアンカ・レヴィンの勝利が決まった。
 落胆の溜息が、大勢の観衆の口から一斉に吐き出される。が、瞬時に暗いムードを一掃するように、勝者ビアンカを讃える拍手が自然発生的に、ずっとふたりの“死闘”を目の当たりにしていた人々から沸き上がった。
 ゆっくりと地面から身を起こして、顎を手で押さえ無事を確認する遥へ、舞台の上からビアンカが手を差し出した。

「――やっぱりあなたは“最強の女闘士”だったよ、ハルカ」

 彼女が差し出した手を遥は、躊躇なく握り舞台の上へと引き上げてもらう。

「いや強いのはビアンカ、あんただよ。結果はあんな負け方だったけど、どうあがいても「勝てる」見込みはなかったわ。今日の所はわたしの完敗ね」
「今日の所は……? まだわたしに勝つ気でいるつもりなの?」
「あれっ、そう言わなかったっけ?」

 取組中の険しい表情とは違い、ようやく“戦闘モード”から解放され笑顔になったふたりは、どちらからともなく抱き合い互いの健闘を讃えあった。
 遥は、舞台の下で目を潤ませて拍手をしている絵茉に、「上がってこい」と目で合図すると嬉しそうな顔で靴を放り脱ぎ、ふたりのいる場所へ駆けあがる。間近で無事に闘い終えた遥の姿をみて安心したのか、それまで必死で堪えていた涙が彼女の目から溢れ出た。

「泣くんじゃないわよ、絵茉。本当に小さい頃から変わんないんだから……」

 指で涙を拭ってあげる遥。彼女も強がってはいるものの、擦れ気味な涙声だけは隠せない。

「いいもん。今までも――ずっとこれからも遥姉ぇの“妹”でいるんだからっ」

 遥は「馬鹿っ」と軽く絵茉の肩を拳で小突くと、彼女の身体を掴み自分の胸元へ寄せて抱きしめた。
 この感動的なふたりの抱擁が引き金となり、試合を終えテント内で休憩していた、RINAをはじめとする《角力ノ儀》の参加者たちがぞろぞろと現れ舞台へと上がり、全員が対戦相手ならびに他の選手の健闘を讃えあい労う。
 RINAが参加者たちと、にこやかに握手や抱擁を交わしている最中、焼けるような熱い視線を感じて急に振り返る。
 視線を向けていたのは遥だった。
 しかし、今まで接してきた彼女とは明らかに違う、まるで鋭利な刃物のような気配を強く感じる。遥の意図はわからないが――只事ではない事だけは“格闘女子高生”も察していた。
 胸の中では早まる鼓動と共に、“危険”を知らせるサイレンがけたましく鳴り響いていた。


蹴撃天使RINA 〜おんなだらけの格闘祭 血斗!温泉の宿?!〜  【第九回】

2017年04月30日 | Novel

 ジェシカは、軽くファイティングポーズを取ると、上体を左右に揺らしながら、RINAを自分のペースに誘わんとするが、そんな単調な惑わしに引っ掛かる程、彼女も単純ではなかった。 ジェシカのこの行動に、頬もつい自然と弛んでしまう。
 そんなRINAの表情をみて、“自分は馬鹿にされている”と受け取った北欧の女闘士は 、「掛かってこい」とぽんぽんと軽く、自分の頬にパンチを当てて挑発すると、空気を斬り裂くような素速いジャブを二~三発放った。直撃すればノックアウト間違いなしのジェシカの攻撃に、ポニーテール女子高生は少しも慌てる事もなく、拳の軌道を見極め、顔にヒットする一歩手前で回避する。

 この一連の動作をみて、ジェシカは考えを改めざる得なくなった。

 ――彼女は素人ではない!

 となると、自分自身が「怖い」という感情を抱く前に、一秒でも速く相手を床板に這いつくばらせねばならない ―― そう直感した女闘士は、今度は低い体勢で素早く《蹴撃天使》の背後を取ると、腹の辺りで腕をグリップさせ、柔軟で強い己の背筋力を用い、RINAをスープレックスで後方へと投げ、彼女の身体を硬い床板に叩き付けようとした。
 大きく弧を描く軽量なRINAの身体。だが、彼女は床に打ち付けられるどころか、激突する前に自らが後方回転して脱出し、頭部へのダメージを防ぐ事に成功した。普段リング上で行っている総合格闘技の試合からは、思いもよらないほど《自由》な発想の《蹴撃天使》のディフェンスに対し、ジェシカの焦りは増すばかりだ。

 ――どうする? 何をすればいい?

 ジェシカは自分自身に問いかける。僅かな時間ながらも対策を考慮した結果は、あまりにも単純かつ、格闘における基本的な答えにたどり着いた。
 とにかく前に出て相手を思い切りブン殴る――これしかない。
 先程とは風を斬る音が全く違う、スピードと体重が乗った剛腕を、連続で目前の女子高生に撃ち込んでいく碧い瞳の戦士。ジャブやフックなど様々な拳種を用いRINAの意識を刈ろうとするものの、こちらの意図とは関係なく全て寸前で避けられてしまい、自分の拳に何の感触もない事が腹立たしく思えてくる。
 そんな苛立ちの真っ只中にあるジェシカの目前に、黒い影が飛び込んできた――RINAのオープンフィンガー・グローブだ。
 しまった! と我に返る《碧眼魔女》。
 被弾を食い止めるため、急いで腕のガードを上げる。
 RINAのフックが予想通り頬骨へ飛んできたので、自らの上腕部分で可愛らしい彼女の、“見た目”よりも重い攻撃をブロックした。そのパンチの力強さに、ガードした腕に当たった瞬間びりびりと電留が走るかの如く痺れた。
 間髪入れずに今度は、腕の痺れも吹き飛ぶほどの痛みが、ジェシカの腹部を襲う。

 ――うっ!

 RINAの放った後ろ蹴りがヒットしたのだった。
 背を向け回転した事すら分からないほどのスピードに、目が付いていけなかった彼女は思わず、被弾した箇所を押さえ片膝をついた。最初のフックは蹴りへの「餌撒き」だったのだ。彼女は痛みと共に、相手の蹴りが見切れなかった事に戦慄し、顔をさぁっと青くする。
 おおっ!
 見物客からは、大きなどよめきが巻き起こった。
 誰ひとりも「今どきの女子高生」である彼女に対し、これっぽっちも期待をしていなかったからだ。それだけに見た目とファイトっぷりとのギャップに驚き、欧米人格闘士との体格差をものともせず押しまくる姿に声をあげた。

「いいぞ、ねェちゃんっ!」

 地元民であろう、中年男性が彼女に向かって下品な声援をおくると、それに呼応するように歓声や笑い声が会場中に飛び交う。見物客たちの視線は、完全にRINAが奪った格好となった。

 顔を青くしたのは対戦相手のジェシカだけでなかった。
 本部席で、伯父である初居大人の監視下の元、この《角力ノ儀》を観戦しているケンジは、卑怯な手を使ったとはいえ、弱々しく自分に怯えていた昨晩のあの女子高生が、著名な女子格闘家を相手に対等……いや、それどころか戦闘レベルの違いをみせ圧倒する姿をみて、背筋の凍る思いがした。

「何、顔を青くしておるんじゃ?」

 背後から伯父に声を掛けられ、びくっ!と身を震わせるケンジ。

「いやっ、俺全然ビビッてねーし」

 虚勢を張った態度とは対象的に、声が少し震えている。

「ははぁん。ひょっとしてお前、RINAの凄さに驚いておるんじゃろ?」

 ケンジの、分かりやすい動揺の仕方に、初居御大のニヤニヤ顔が止まらない。

「あの娘はな、あの年齢で、気性も荒く、腕に覚えのある強者どもが大勢集まる、武林の《果し合い》では未だ敗けておらん。修練もサボりがちで、悪い連中とフラフラ遊び回っていたお前さんとは、“度胸”と“覚悟”が違うわい」

 “偉大な”叔父にチクリと釘を刺され、先程の態度とは一転して小さくなるケンジ。舞台上で闘う《蹴撃天使》を目の前に、彼は自分勝手に抱いている怒りや嫉妬心、そしてあの叔父も認める《強さ》に対し、羨望の眼差しで眺めるしかなかった。

 ――ちくしょう……でも、凄ぇよなアイツ。認めたくはねぇが結局、同じ舞台(ステージ)に上がれる《器》じゃなかったって事か、俺は。

 ケンジの視線の先――神楽殿では女格闘士ふたりによる、男性に負けないほどの、火花散る激しい闘いが続けられていた。

 拳や脚が風を斬って迫り来る。その音が耳をかすめる度に身体がびくりと反応した。眼前の美少女が放つ、動作ひとつひとつが“自信”に満ち溢れていた。
 RINAの、変幻自在な攻撃を何とかかい潜り、何度目かのトライでようやく腕を取る事のできたジェシカは、ブリッジを利かせた素早い巻き投げで、彼女を固い床板へ叩き付ける事に成功した。
 身体が綺麗に宙を舞い、背中を強く打ち付けたRINAは顔をしかめる。だが内心は悔しさだけではなく、本気の「プロ格闘家」の実力を身をもって体感でき、むしろ満足気だった。
 ジェシカはグラウンドでの打撃を狙い、RINAの身体に跨がろうとするが、それを瞬時に察した彼女は横転して回避しようとする。だが、マウントが取れないとみた《碧眼魔女》は膝をついたまま、低い体勢からのニーリフトを数発、四点ポジションの状態にあるRINAへ横っ腹めがけて撃ち込む。
 ずしっ。
 膝頭が脇腹をえぐるように突き刺さり、その鋭い痛みでRINAの呼吸が一瞬止まる。患部を押さえうずくまる事も出来ず、ぐっと奥歯を噛み締め、ジェシカの顔から決して目を離さずに、彼女の次の行動に備えた。
 勢い付いた碧眼の女闘士は、スリーパーホールドを仕掛けようとRINAの細い胴に、トレーニングによってぎりぎりまで絞り込まれた、ふたつの太腿をフックし首へ腕を回さんとした。前腕が頸動脈に入り力一杯締め上げれば、彼女はタップして「降参」の意思表示をするか、もしくは脳に酸素が行き渡らなくなり、気絶してしまい「戦闘不能」で試合終了となる――はずだ。
 だが勝ちを急いだが為に、仕掛けが少し甘かった。
 大腿による胴へのフックが不完全だった故、RINAが勢いよく腰を浮かすと、ジェシカの体勢は崩れ彼女の身体からずり落ちてしまったのだ。《勝利》に繋がる頼みの綱だった、スリーパーホールドも腕が外れてしまい、せっかく自分に勝機が廻ってきたというのに、痛恨のミスで振り出しに戻ってしまう。
 うつ伏せになって目をつむり、“ガッデム!”と何度も呟くジェシカ。試合開始時にはあれほど自信に満ち溢れていた《碧眼魔女》だったが、ことごとく勝利へのチャンスを潰されて意気消沈しかけていた。
 耳元で空気を裂く音がした。無慈悲にもRINAは、顔面へめがけて蹴りを放ったのだ。気持ちと肉体とが上手くリンクしていない、現在のジェシカには酷な状況である。

 ――回避しなければ!

 頭ではわかっている。だが「危険信号」を己の身体の隅々にまで伝える事ができず、「その場から逃げる」か「ディフェンスする」かで混乱してしまい、相手の攻撃を回避させる動作がワンテンポ遅れたのだった。その結果、膝をついて屈んでいた彼女の顎にRINAの蹴りがきれいにヒットしてしまい、身体は衝撃で流れて冷たい床板に自分の頭を強く打ちつけた。ジェシカの緑がかった長い黒髪が、経年により磨耗した床に、まるでスポイトで水を垂らしたように広がった。
 患部からじんじんと伝わる痛さよりも、自分が何もできない悔しさや恥ずかしさで、なかなか床から身を剥がす事が出来ずにいる彼女に対し、RINAは自分の左手首を指差して、試合前に「三分で片付ける」と吠えていたジェシカを、馬鹿にするようなゼスチャーをみせたのだ。見物客からはRINAを支持する歓声と笑い声が巻き起こった。一流とはいかないまでも、それなりに知名度のあるジェシカには、この状況はかなりショックだったに違いない。
 そのとき、消えかかっていた彼女の、闘志に再び火を着けるような出来事が起こった。

「がんばれー、ジェシカせんせい!」
 ――!?

 彼女は、可愛らしい声援が聞こえた方向を目で追う。中高齢者が多い祭の見物客のなかに、その「声の主」である、小学校就学前であろう女の子のグループを発見した。それは彼女が普段、町の英語塾で講師をしているときに、自分の事を慕ってくれている生徒たちだったのだ。寒風で頬は林檎のように紅く染め、「大好き」な先生の、初めて見るであろう闘う姿に声を枯らし、目を真っ赤にして応援する姿にジェシカは感激した。それまで彼女を形作っていた、自信満々で高圧的な《女闘士》の鎧は外れ、優しく子供好きな本来の性格が現れた瞬間であった。
 声も出さず、子供たちの方を向いたまま固まっているジェシカに、RINAが穏やかなトーンで話しかける。

「……もう準備はいいですか?」

 《蹴撃天使》の言葉に反応し、ゆっくりと顔をあげたジェシカは、先程まで全身から発していた、何者も拒絶するかのような威圧感はすっかり消え失せて、余分な力が抜けきった本来の《自分》を取り戻していた。それはRINAにも伝わったようで安堵と期待の微笑みをジェシカにみせる。

「ええ。あの子たちの一生懸命応援する姿を見てるとね――“何気取っていたんだろう、わたし”って思えちゃって。どんな攻撃を繰り出しても余裕でかわす貴女に対し、どんどんムキになってしまい自分を見失いかけた時、あの子たちの精一杯の声援を聞いて素直になれたの。だから――もう絶対迷わないわ」

 そう言うと穏和な笑顔をみせるジェシカ。初めて見た“嘲笑”ではない自然な笑みにRINAは、何だか訳もなく嬉しくなった。

「約束の“三分”はとうに過ぎたけど、ここからが本当の――わたしとジェシカさんとの闘いです。OK?」

 RINAが拳をぐっと突き出した。彼女の“戦闘再開”の合図にジェシカも同じ動作で応える。

「ええ、ワクワクするわね。闘う事が“楽しい”と感じるなんていつ以来かしら」

 ふたりの拳がこつりと重ね合った瞬間、互いは素早く別離しファイティングポーズを構えた。
 彼女たちがするのは奉納角力の続き。しかし小休止の後――特にジェシカの場合――では気持ちの入り具合も違っていた。ギスギスとした殺気に近いものではなく、緊張感を保ちつつもっと、“闘い”をエンジョイしようと気分一新したのだった。
 内腿に狙いを定めてローキックを放つ《碧眼魔女》。
 彼女の呼吸に合わせ防御の体勢を取るRINA。
 攻撃するジェシカの脛と、ガードで出されたRINAの脛とが激しくぶつかり合った。
 再度チャレンジすべく続けて蹴りを放つジェシカ。彼女の重い蹴りが、最強女子高生の脛へ幾度と打ち込まれた。防御で何度も脛にキックを受け続け、次第にRINAの足の感覚が鈍くなっていく。
 休む暇もなく、唸りをあげてジェシカの蹴撃が迫ってきた。
 反射的に足を上げたRINAだったが、何故か脛に衝撃は走らなかった――その意味を理解するのに時間はかからなかった。
 先ほどのローキックは実はフェイントで、ジェシカは素早く彼女の背後を取ると、間髪入れずにスープレックスを敢行した。一度はRINAの、超人的な反射神経により阻止されたが今度は注意深く、投げるスピードやタイミング、落とす角度等を変化させてRINAへ再び仕掛けたのだった。
 胴へのグリップから投げるまでの間があまりにも速く、投げ技への対応が遅れてしまい結果、彼女は鈍い衝撃音を廻りに響かせて硬い床板へと落下した。
 幸いぎりぎりで受身を取り、大事には至ってないものの頭部への衝撃は避けられず、頭を押さえて転げまわるRINA。
 どん――
《蹴撃天使》は胸部への圧迫感を感じた――ジェシカがマウントポジションを取ったのだ。頭痛に顔をしかめて見る彼女の姿は、自信に満ち“強者”の威厳を感じさせた。
 殴る、殴る、殴る!
 《碧眼魔女》はひたすらRINAの顔面へパンチを入れ続けた。綺麗だった顔が切り傷と腫れで次第に変色していく。
 この凄惨な状況を前に、舞台上唯一の“男性”である行司は「試合続行か否か」の判断を迫られていた。年端も行かぬ女の子が危機的状況にさらされているのを目の当たりにし、取組を止めようとするのは《男》として当然の心理ではあるし、かといって未だ闘志に燃えるRINAの眼(まなこ)を見ると、一刻の情にほだされ中断させてしまうのは《行司》として正しいのか悩んでしまう。だが唯一判っているのはこのままでは彼女が危険だ、という事だけだ。

「どうしたのよ? 早くストップさせなさい!」

 ジェシカが、躊躇する行司に怒鳴る。
 その戸惑いは攻撃している側である彼女も同じだった。《勝利》に最も近い状況にある“優越感”からかくる想いなのか、早急に試合を止めてくれないと「いくところまで行っ」てしまうので、第三者判断で《レフェリーストップ》という采配を期待しているのだ。事実、日頃のトレーニングで培われた筋肉量から生まれる、彼女のパワー溢れるパンチは説得力十分である。
 だがそんな憂慮も一瞬にして吹き飛んだ。
 上から降ってくる拳の嵐を受けながらも、RINAは太腿でがっちり固定されている上半身を、左右によじったり反らせたりせながら、この不利な体勢から逃れるべく“抵抗”を試みているのだ。
 呼吸すらままならないシチュエーションの中で、大きく深呼吸して肚に力を溜めこむRINA。只でさえ赤い顔色を更に真っ赤に染め、全ての力をを腹筋と背筋に割り振り一気に爆発させた。

「~~~~~!!」

 下から湧き上がる、尋常でない力の波に圧倒されたジェシカの体勢はぐらり崩れ、彼女とRINAとの間に隙間が生じた。まるで針の孔のような、このミニマムすぎる機会を逃してはならないと《蹴撃天使》は必死で身をよじり、とうとう危機的状況下から脱出する事に成功する。
 まさか――! と目の前で起こった“現実”に、意識が追い付かず放心状態のジェシカ。が、徐々に事実を脳が受け入れていくにつれ自然と笑みがこぼれた。それは自分を蔑ますような卑下した笑いではなく、相手の凄さに対し“リスペクト”の意味を持つ笑いだった。

 はぁ……はぁはぁ……

 リズムの狂った呼吸をし、こびりついた鼻血と殴打されて出来た腫れで、ぐちゃぐちゃな顔をしたRINAが立ち上がる。彼女も同様で笑顔でこれに応える。
 ジェシカが意を決し、拳を固め渾身の一撃を放つ。被弾すれば即KO間違いなし!の勢いで打ち込んだ彼女のストレートだったが、思惑とは裏腹に拳はRINAの顔面には到達しなかった。碧眼の女闘士の攻撃よりも更に速く、腸(はらわた)をえぐるような重いボディブローを一発叩き込んだのだ。耐え難い痛みで、意思とは裏腹に後退りをしてしまうジェシカ。
 一発、更に一発とRINAの攻撃の数が増えていくと同時に、次第に彼女の圧力に押され、ジェシカの手数が少なくなっていった。一進一退の攻防に、見物客の声援はますます熱を帯びていく。性別や年齢層を問わず皆、神楽殿で激しく打ち合うふたりに釘付けになっているのだ。
 ジェシカがニーリフトを狙いRINAの首に手をかけた。自分の元へ彼女の身体を手繰り寄せ、膝頭を下顎へ打ち込めばこの状況を打破できる――そう思っていた。しかし現実は非情だった。RINAは落ち着いて両手でブロックすると、反対にジェシカの顎へアッパーカットを叩き込んだのだ。衝撃で脳が揺れ視界が乱れる。“生命線”であった首のグリップも外れ、スローモーションのように彼女の身体は床板へと膝から崩れ落ちていった。
 それと同時にはらりと、RINA自慢のポニーテールがほどけ髪の毛が肩に垂れ下がった。ジェシカが倒れる際、無意識に彼女の髪を掴んでしまい、ポニーテールを纏めていたヘアゴムが切れてしまったのだ。肩まで掛かる長髪姿となったRINAはそれまでの「少女」のイメージとは違い、何処か艶めかしく少し大人びた印象を与える。
 上下に大きく肩で息をするRINAは、中腰で待機し事の成り行きをじっと見守った。騒がしい筈の声援も気にならず、耳にはダウン状態の、ジェシカの荒い息遣いだけが聞こえていた。

「……まだ続けますか? 正直ご遠慮したいんですけど」
「全くだわ。この試合……貴女の勝ちよ」

 ジェシカ自らが遂に“敗北宣言”を口にした。
 どどんっ!
 和太鼓の皮が破れんばかりに強く打ち鳴らされた――広く周りの見物客たちに、《蹴撃天使》RINAの勝利が知らされたのだ。激しい闘いの末“勝者”となった、女子高生ファイター・武田リナを祝福せんと、多くの人々から拍手と声援が贈られた。
 RINAが倒れているジェシカに手を差し出す。

「立てますか……?」

 彼女の言葉にこくりと頷くと《碧眼魔女》は彼女の手を借りて立ち上がった。自ら“敗北”を選択し、この死闘の幕を引いた彼女の顔は実に晴れ晴れとしている。

「悔しくない――と言えば嘘になるけど、これ以上闘い続けるのは私の実力では無理だった。リナ、あなたという素晴らしいファイターと闘えた事を誇りに思うわ」

 そう言うとジェシカはRINAにぎゅっと強く、労いと尊敬の意味合いを持つ熱いハグをした。彼女から伝わる体温や匂いを感じながら、RINAはこれで全て終わったのだ、と実感するのであった。
 泣き声と共に、ジェシカの可愛い生徒たちが神楽殿の縁に押しかけてきた。大好きな「先生」が敗けてしまったのでどの子の顔も涙で濡れている。

「ありがとう……もう、みんな泣かないの。最高の笑顔をね、先生に見せてちょうだい!」

 舞台上から、ひとりひとりの目元に浮かぶ涙を拭き取り、優しく抱きしめている心温まる光景を、傍でしばらく見ていたRINAだったが、邪魔をしてはいけないと思い彼女の後姿に向かい一礼し、早々と舞台を降りて選手控室のテントへ向かった。
 その途中で、腕を組みじっと自分の出番を待つ遥と目が合う。

「遥さん……」

 彼女は何も言わなかったが、笑顔でRINAの健闘を祝い労ってくれた――RINAにはそれで十分だった。

 遠くで祭囃子が聞こえてくる中、刻々と《角力ノ儀》最後の取組である今井遥対ビアンカ・レヴィンの開始が迫っていた。


蹴撃天使RINA 〜おんなだらけの格闘祭 血斗!温泉の宿?!〜  【第八回】

2017年04月28日 | Novel

 しまった! と思った時にはもう遅く、「どん!」という衝撃音と共に、冷たい床板へ向かって、痛みで歪んだ顔を打ち付けて倒れた。そんな彼女の醜態を睨みつけたまま、構えを崩さないソンヒ。

 ゆっくりと《旋風夜叉》の右脚が上がっていき、絵茉の頭の側まで接近すると、先程とは反対にものすごいスピードで、まるで頭蓋骨を粉砕するかのような勢いで、ソンヒは脚を降り下ろした。
 はっ?!
 殺気に似た邪悪な気配を、瞬時に感じ取った絵茉は、ダメージ回復を待つ間もなく床からばっ!と身をよじり、鉄槌のようなストンピングを間一髪で避けた。見ればソンヒの踵が当たった部分の床板には、稲妻のような亀裂が走っていた。

「……いつまでも寝たふりしてんじゃないわよ、あの程度でくたばっちまうアンタじゃないでしょ?」

 冷たく言い放つ、ソンヒの顔を見て絵茉は、上体をむくりと起こしその場で胡座をかくと、額に手を当てて何と彼女に対し、満面の笑みを見せた。

「いやぁ、ダマされた! さすが《旋風夜叉》の名は伊達じゃないわ。まさかこう来るとはねぇ、想定外よ」

 あっけらかんとした口調で喋りかける絵茉に、ソンヒは驚きつつも、努めて冷静を装い、表情を崩す事なく彼女と対峙する。

「――攻撃が効いてないのかって顔してるわね? そんな事ないって。今でも頭がズキズキ痛いし身体もちょっと痺れているわ。あなた、いい《武器》持ってるじゃない? もっと自信持っていいと思うよ」

 せっかく渾身の打撃技で一矢報いたというのに、絵茉の《上から目線》な発言にソンヒはカチン! ときて、とうとう感情的になり彼女に怒鳴った。

「……何でよ? 何で私の《精一杯》がアンタには通用しないのよ?! 何で平然としていられるのよ?!」

 絵茉はゆっくりと立ち上がり、ぱんぱんと袴に付いた埃を払うと、腕を小軌道で回しながら右腕を敵前に付き出した。
 泰拳(ムエタイ)独特の構えだ。
 そして持ち上げた左足で、大地を踏みしめるように床板に落とすと、己の視線はソンヒの黒い瞳に向いたまま動かない。
 いまや感情的になった《旋風夜叉》の繰り出す変則的な蹴りが、まるで意志を持った生物のように蠢き絵茉に襲いかかる。そのスピード、威力、正確さたるや――万が一防御に失敗すれば確実に意識は飛ばされ、寒空の下で《敗北宣言》を聞く事になりかねない。
 ソンヒの爪先が、絵茉の側頭部に狙いを定めて空気を切り裂き迫ってくる。ここが何もない野外であれば、距離を取って逃げる事も可能であるが、生憎ここは角力祭が行われている闘技場・神楽殿の舞台上。一旦闘いが始まった以上、この舞台を降りれば「負け」てしまうし、勿論ノックダウンすれば「負け」なのだ。だから ―― どうしても「勝ち」たければ、絶対に立ち向かわなければならない。

 本部席では初居御大が、じわりじわりと声援のボルテージが高まっていく観客たちを背に、腕を組み今後の成り行きに目を凝らす。
 その舞台上では息巻く女侠たちの腕と脚が交差していた。
 後ろの方にいる見物客にも、皮膚と皮膚がぶつかり合って発生した破裂音が聞こえたのだ。その音は、見ているだけの人々にも絵茉の受けたであろう衝撃を伝えるのに十分だった。
 果して《泰拳姑娘》は被弾してダウンしてしまったのだろうか?
 否!
 絵茉は己の上腕を強靭な盾と化し、頭部を一撃必殺の上段蹴りから防御すると、次に来るであろう《二の太刀》に気を配りつつ、その身体を瞬時に、開いていた相手との間合いを詰める。
 ソンヒの表情が一瞬歪んだ。
 裾の長い袴で遠目では判らないが、絵茉の棍のような鋭く重い膝蹴りが、彼女の鳩尾を的確に捕らえたのだ。
 ソンヒは更なる一打を撃ち込むべく《用意》はしていたが、自分が考えていたより遥かに速く、そして鋭い膝蹴りを被弾してしまった為、困惑と突如襲いかかった痛みとで《次の一手》が、一瞬にして吹き飛んでしまったのだった。
 この好機を逃す絵茉ではない。彼女の追撃の手は一時たりとも緩まない。白いバンデージで巻かれた左右の拳が、年令よりも幼い表情をしている《旋風夜叉》の鼻や頬骨を、そして顎に至るまで打ち砕かんとばかりに、一定のリズムで殴打し続ける。
 ビジュアルの残酷さ、妥協なき闘争の凄惨さに、それまで騒いでいた見物客も水を打ったように静まり返った。《おんな》同士の対戦故に、多少好奇の目で見ていた一部の人たちにも「これは闘いである」という《既成事実》を突き付けた格好となった。

 ――あなたとあたしとの差はね、一瞬のチャンスを見逃さず、ちゃんとモノにする所。この《武林》において潜ってきた修羅場の数の差といってもいいわ。

 固い拳の当てられた箇所が内出血を起こし、綺麗だったソンヒの顔も徐々に腫れ上がっていく。
 がしっ!
 絵茉は殴るのを止め、頭部を腕で挟み込みしっかりと固定すると、今度は膝頭を何度も何度も鼻柱へと叩き込んだ。泰拳独特の《首相撲》というやつだ。捕らえた相手を逃がさないように首を両の腕で固め、己に優位なポジションでの攻撃を可能とするこの戦法は、十分に距離を取って攻撃するスタイルが信条のソンヒには有効だった。
 数えられない程の膝頭を喰らい続け、視線が飛んで定まらなくなった韓国人女武芸者は、意識は朦朧とし頭部は力なく上下するものの、まだ反撃の意思を捨ててはいなかった。
 がつん!

 ――なっ?!

 再び《泰拳姑娘》の脳天に雷が走る。
 ソンヒは不自由な体勢をどうにか動かし、背骨をエビのように「くの字」に曲げて、踵を蠍の毒針のように相手の頭頂部へ突き刺すように蹴ったのだ。《旋風夜叉》の持つ柔らかな身体が可能とする難易度の高い技《蠍針脚》だ。死角からの蹴り技に、不覚にもダメージを受けた絵茉は、条件反射的に頭部をロックしていた腕を解いてしまう。

「噂には聞いていたがこれ程とは… 《蠍針脚》、見事なりッ!」

 この彼女の超人的な技に、初居御大も見物客も驚き、大いに沸き返った。
 だが、結局のところこの《蠍針脚》は「防御」の為の技であり、敵を一撃必殺で倒す事の出来る「攻撃」ではなかった。せっかく絵茉の《首相撲》地獄から脱出出来たというのに、ソンヒはがくっと片膝を付き、肩で大きく息をするのが精一杯だった。
 褐色の女武芸者は、静かに前へ足を踏み出す。
 蓄積されたダメージで身体はふらふら、視線は虚ろになっているが、それでも目の前にいるのが自分の《敵》と認識し、僅かな目力で睨み付けた。
 そんなソンヒの姿を見て、憐れみや尊敬、驚きと慈しみ……目頭は熱くなり、様々な感情が自身に降り掛かってくる。《旋風夜叉》が自分のの相手としては最高の人間だった――という事だ。だからこそ敬意をもってこの勝負を終えねばならない、絵茉はそう決めたのだ。
 一歩また一歩と、距離を狭めつつ相手の様子を伺うと、遂に意を決しソンヒ目掛けて全速力で駆け出した。
 自分を仕留めに来る事は十分に理解しているものの、もう爪先すら動かすだけの余力も残っておらず、ゆらゆらと棒立ち状態の女武芸者の姿が瞳に映る。
 濃紺の袴の裾を翻し、猛禽類の如く絵茉は跳び上がった。そして両膝を胸部に、両肘を頭部に突き刺すと、相手を突き破らんかの勢いで突入する。
 絵茉の掲げる武芸・秋元流古泰拳の秘技《神雕雙爪》だ。
 恐ろしい程勢いの付いた彼女の身体はソンヒを、固く冷たい床板へ、鈍く大きな衝撃音と共に打ち倒すと、前方へ二回転程した後やっと停止した。
 絵茉は立ち上がり、くるりと振り向くと、厳しい表情で行司の方を見た。突如彼女に睨まれた、初老の男性は一瞬、その眼光の鋭さに怯んだがすぐに言わんとする事を理解すると、手にしている瓢箪形をした黒い軍配を、さっと絵茉の方へ掲げた。

「勝者……秋元絵茉ッ!!」

 行司の勝ち名乗りを聞いた途端、神楽殿を中心とした《角力ノ儀》会場は、割れんばかりの大拍手と歓声に包まれた。絵茉は行司と四方の見物客に向かって一礼すると、舞台の下で待機している運営スタッフのひとりに、冷却剤を持ってくるように指示をする。
 程なくして用意された、ジェルの入った冷たく柔らかな冷却剤を、内出血で腫れたソンヒの顔に優しく当て、目が覚めるのをじっと待った。
 そして数分後、絵茉の膝枕の上で韓国人女武芸者が、ゆっくりと目を開ける。

 ……わたし、負けたの?

ソンヒが眼を、瞼を動かして訴えかける。絵茉は、試合中とはうって変わり穏やかな表情で、「そうよ」と言わんばかりに首を縦に振った。
 彼女のランゲージで、自身の《敗北》を悟った瞬間、少しだけ顔色を曇らせたソンヒだったが、すぐに安堵し柔和な表情となり、顔の筋肉を動かすだけでも辛いのにほんのり笑顔まで浮かべた。

 ――あなた、最高の《女侠(おんな)》ね。

 彼女だけにしか聞こえない、僅かな距離で《称賛の言葉》をかけた絵茉は、肩を貸し、ソンヒをゆっくりと立ち上がらせると、共に熱戦を繰り広げた《同志》を、再び四方の見物客たちに披露した。
 今までに経験した事のない、身内以外から受ける多くの歓声や拍手に、ソンヒはすっかり感激してしまい、とうとう絵茉の胸元に、顔を押し当て泣き出してしまった。

「……ずっと独りだと思っていた。だけど私と同じ《武芸の道》を歩んでいる女性が貴女をはじめ、この地域にこんなに居るなんて――それに勝敗はともかく実際に肌を合わせられて……もう最高よ」

 近隣に比べて、武芸が盛んだと云われているこの温泉郷であるが、その武芸人口の一割にも満たないと思われる女武芸者――いわゆる《武芸女子》の胸の内を聞いたようなソンヒの発言に、絵茉もこれまで以上に武芸の修練と、女子の武芸修行者の底辺を拡げるために努力しなければ、との思いを一層強くするのであった。

 ともかく、今年の《角力祭》のテーマである《日本対多国籍軍》の初戦は、《泰拳姑娘》秋元絵茉の勝利で幸先の良いスタートを切る事が出来たのであった。

 

「……気合い十分だな、ジェシカ?」

 控室代わりのテントの中では、次の取り組みに出場する黒髪白肌の《碧眼魔女》ジェシカ・ペイジが、何度も何度も白い皮製のオープンフィンガー・グローブで覆われた両手を組んでは放したりして、高ぶる闘志を落ち着かせようとしていた。だが自分にしてみれば、何故こんなに緊張しなければならないのか、不思議でしょうがなかった。

「おい、話を聞いてるのか?」
「あ、ああ悪いビアンカ。それで……何の用事だ?」

 自分の話を彼女が全く聞いていなかった事に《装甲麗女》ビアンカは、怒るどころか「やっぱりね」とばかりに、呆れてため息をついた。

「あなたの対戦相手のリナだけど、あまり舐めてかからない事ね」
「何故? 只のスクールガールじゃない。それとも彼女はモンスターなの? 自慢じゃないけど私だって、総合格闘技ではそれなりの実績を積んで、《名前》だって少なからず知られた存在。その私があんな小娘に負ける? ハッ、冗談じゃない!」

 ジェシカは苛立っていた。「負ける」などとビアンカは一言も発していないにも係わらず、ネガティブな単語にはつい、過剰に反応してしまうのだ。

「……まぁ、茶飲み話程度に聞いといてくれ。彼女……リナだけど、公式な試合の記録は高校生の参加する、全国武道大会の出場しかない 。後はみなイリーガルなものばかり ―― 《武林》でいう「果たし合い」という奴だ。己の倫理観が唯一のルールという試合を、彼女は負けなしで生き残ってきた……と、初居センセイから昨晩伺った。どう出る、女子ライト級の世界ランカーさまよ?」

 そう言うと、ビアンカは白熊のような巨躯を揺らし笑った。人一倍プライドの高いジェシカが、自分を嘲笑するような彼女の態度に、数回自らの掌に拳を当て、胸の内に渦巻く怒りを、対戦相手を叩き潰す為の闘志へと徐々に変換していった。

「……それでも、相手がスクールガールである事に変わりはないわ。五分で勝敗(けり)を着ける ――いえ、三分ね。いい? 三分後に観客の歓声を浴びながら、絶対私はここに戻ってくる」

 ジェシカは、側に置いてあったミネラルウォーターを、ぐっと一口飲むと立ち上がり、数秒間シャドウボクシングをして、身体の隅々まで意識が行き渡るかどうか動作確認をすると、そのままテントと外とを仕切るカーテンを開け、戦場である神楽殿へと、寒空ゆえに身体から湯気をたてながら向かった。

 RINAはカーテンの隙間から、そんな気合い十分の、対戦相手であるジェシカの様子を眺めていた。 格闘技雑誌などで度々目にする《ビッグネーム》との一戦に、こちらもジェシカ同様緊張しているかと思いきや、RINAのなかではそれほどでなく、逆に普段闘う《武芸者》以外の相手とあって、展開が読めないという点でむしろ楽しみで仕方なかった。

「……あいつ、“三分で片付けてやる!" って息巻いているわ。プロのMMAファイターらしいわね、全く ―― ああやって自分の内の“弱さ” を 吐き出して、自身の気持ちを《理想の戦士像》に近付けていくの」

 来るべき取り組みに備え、準備運動をしていた遥が、神楽殿上の《碧眼魔女》をみてRINAに解説をした。

「相手、相当やる気みたいよ? リナちゃんも負けずに“三分で ―― ” ってハッタリかましちゃえばいいのよ」

 テントの中に敷かれた畳の上で、闘いでできた患部を、氷枕で冷やしていた絵茉もつい口を出す。そんな諸先輩からの「励まし」に、にこりと笑って応えるRINA。

「時間なんて分かりませんよ。可能ならば一刻でも早く勝負を決める ――これが闘いの原則ですから。もし相手にそれだけの実力が無ければ……そういう事です」

 伸縮性に富んだ、ネイビーブルーの競技服の上に、真っ白な胴着を羽織り、RINAはもう一度黒帯をぎゅっと締め直す。たったそれだけでも気持ちは戦闘モードへと切り替わる事ができる。
 これでもう、後戻りは出来ない。
 目の前には、今から自分が《倒すべき相手》しか映っていなかった。
 既にジェシカの待つ神楽殿に向かう間、小さく深呼吸をするRINA 。祭が始まった当初は、気になっていた見物客の声援ももう気にならない。

 「Come on!」と、オーバーランゲージで挑発をする《碧眼魔女》を、下からちらりと眺めたRINAは、にやりと笑みを浮かべるとひらりと跳躍し、そのまま舞台上へと登った。

 ――さぁて、祭に《華》を添えましょうか……?

 黒いオープンフィンガー・グローブで覆われた拳を、ジェシカに向かって突き出し、闘う意思を示したRINA 。
 そんな両者の戦意を汲み取った行司は、縦に手を振って《戦闘開始》の合図を満場の見物客たちに知らせる。
 いよいよ《角力ノ儀》第二戦、ジェシカ・ペイジ対武田リナが始まった ――

          


蹴撃天使RINA 〜おんなだらけの格闘祭 血斗!温泉の宿?!〜  【第七回】

2017年04月28日 | Novel

 雲ひとつない晴天の冬空に、花火の破裂音が何度も鳴り響いた。この地域に住む住民たちが、年に一度の楽しみとしている《角力祭》の開始を告げる合図だ。この花火の音をきっかけに地元住民たちや観光客たちは、ぞろぞろと開催場所の大鍬神社へと集まっていくのだ。

 祭最大の目玉である、一般参加による格闘大会《角力ノ儀すもうのぎ》が始まるまで、まだしばらく時間があるというのに、既に境内はごった返しており、人々は神社周辺に数多く立ち並ぶ露店へ集まり《食い歩き》を楽しんだり、また年配の方々は今年の《角力》の勝敗について、喧々諤々議論したりして各々楽しいひととき過ごしていた。だがそんな《好事家》たちをもってしても、今年の角力祭の勝敗を予想するのは難しかったようだ。
 例年であれば「何処どこの何某」と、参加者の素性がわかっているので勝敗予想も立てやすかったが、今回彼らの《知っている顔》といえば毎年参加している秋元絵茉のみで、プロレスラー時代を含めてここ十年近く、祭の舞台には上がっていなかった今井遥の現在の実力は全くの未知数であるし、RINAや三人の外国人参加者たちについては全く《情報》など持ち合わせてはいなかった。ほぼ知らない《参加者たち》の顔ぶれ、ましてや全員が女性という異例の“初物尽くし”に、昔から祭を観続けている年配たちは戸惑いを隠せず「初居様も遂に色ボケしたのか?」など“悪口”が飛ぶ始末である。しかしそんな《堅物》の常連とは違い、若年層や“一見さん”の観光客にはおおかた興味を持ってもらえたようで、角力祭史上初となる、“おんなだらけ”の《角力ノ儀》の開始を今や遅しと待っていた。

「は~い、神事の会場はこちらになっておりまーす、くれぐれも前の方を押さないようご注意願いまぁす!」

 角力祭のスタッフの証である白い法被を着て、紅白の鉢巻きを頭に締めたケンジが、拡声器を片手に大勢の見物客の誘導を行っていた。もっともケンジ本人はこんな雑務が面白いはずもなく、祭に出られない悔しさと伯父である初居の監視下でこき使われている惨めさが、彼の《不満》となってその表情に現れていた。

「こらっ、ケンジ! もっと真面目にやらんかぁ!」

 高齢とは思えぬ大きな身体を揺らして、初居御大がケンジの元へ駆けより叱咤する。

「お、伯父貴ぃ?! やべぇ!」
「……事の流れからいえば、お前さん今頃は拘置所へ放り込まれて、もっと惨めな思いをしている身の上なんじゃぞ。もっとそれを自覚してしっかり働かんかい!」

 本来であれば《強姦未遂》とはいえ、被害者であるRINAが警察に訴えれば、ケンジは逮捕されていてもおかしくない状況であった。だが初居御大が彼を「自分の観察下に置く」という話で、この事案は《手打ち》となったのだ。もし仮にケンジが不穏な動きをみせようとも、初居の手元には絵茉が撮影した《犯行現場》の動画データはあるし、もし彼の監視下から逃げ出せたとしても、《武林》の好漢たちによる広大なネットワークを駆使して、居場所を見つけ出す事も容易である為、《武》の才能のないケンジにとっては完全に“八方塞がり”な状況であった。

「でも……自分が出られなかった祭に何の意味があるんだよ? これだったら家でじっとしていたほうが、ナンボかマシじゃねぇか?!」

 ケンジの自分勝手な屁理屈に、初居は「またか」と肩を落とした。

「それだからお前は、いつまでたっても“一人前の男”として認められんのじゃ! いいか? 目先の不満ぐらいでブツブツ言うな、もっと先を見据えろ。ワシがせっかく《特等席》で奉納角力を見せてやる、と言ってるんじゃから、ケンジは彼女らの闘いをしっかり目に焼き付けて、来年の角力祭に出られるように努力せい!」
 
 熱い伯父の言葉にケンジは魂を揺り動かされるが、《女性だらけの出場者》という、例年では有り得ない“奇妙な事態”が彼の脳裏に引っかかり、完全には納得しきれないでいた。そんなケンジの空気を察したのか初居は話を続ける。

「……なぁケンジ、強さとは何も男性だけの《専売特許》ではないぞ? お前さんとは別の世界の《住人》である武林の女性たちは、数多の英雄・好漢に引けを取らぬほどの強さを持っておる。そんな彼女たちが今回この祭に期せずして一堂に会したんじゃ、彼女たちを舐めてかかると痛い目にあうぞ」

 伯父の言葉にケンジは、妻であるビアンカの顔がふっと脳裏をかすめた。

 ――あぁ、そういえば夫婦喧嘩になるとアイツには、全く歯が立たねぇもんなぁ。

 《最凶の身内》の存在を思い出し、ようやく納得したケンジであった。

 

 

「絵茉さ~ん、おまたせしました」

 闘いの舞台となる神楽殿より、少し離れた場所に設置された、角力祭出場者の控室であるビニールテントの中へ、遥に連れられてRINAが入ってきた。ロングの髪をゴムでひとつに束ね、白い上衣と濃紺の袴という古武道然とした清楚な出で立ちに着替えた絵茉が、ふたりを笑顔で出迎える。

「遅いじゃないの。さては遥姉ぇの“趣味”に付き合わされて、いろいろコスチュームを着せられてたな?」
「リナちゃんの素材自体がいいもんだから、イメージが湧いちゃっていろいろ引っ替え取っ替え着せているうちにこんな時間に……十分堪能させてもらいました、はい」

 満足げな表情をした遥をみて、RINAと絵茉は顔を見合わせて笑った。

「まったく遥姉ぇは、いつまでたっても可愛いモノに目がない《少女趣味》が抜けないんだからぁ。おかしいと思うでしょリナちゃん?」
 
 少々呆れ顔の絵茉に対し、RINA自身は言葉を発せず、ただニコニコと笑うだけで否定も肯定もしない。しかし笑顔の裏側に隠された疲労の色を、絵茉は見逃さなかった。

「ふぅ……あ、そうそう。それで遥姉ぇコーディネートのコスチューム、どんな感じ?見せて見せて」

 絵茉が興味津々に、茶色のコートに身を包むRINAに目を移す。じっと彼女が自分の身体を見つめるので、《蹴撃天使》は顔を真っ赤に染めて恥ずかしがった。

「リナちゃん、見せてやりなよ。あ、何ならコートのボタン外そうか?」
「結構です!」

 遥の冗談を、真剣になって怒るRINA。年長者ふたりの意味ありげな「にやにや」が止まらない。
 視線を浴び気恥ずかしさ一杯で、思い通りに動かない手で少女は、ひとつひとつゆっくりとボタンを外し、コートの襟元を徐々に広げていく。

 おおっ!

 絵茉が感嘆の声をあげる。コートが開帳されるとその中から、《蹴撃天使》と胸の辺りに大きく刺繍された、純白の空手着の上衣とネイビーブルーのセパレートとスパッツという、極めてシンプルかつスポーティーな出で立ちが登場した。

「どう? いいでしょ。現役時代の最初の頃に使っていたコスチュームで、リナちゃんのイメージにピッタリなのが残っていたので、寸法を彼女の丈の大きさに合わせ直したんだけど」

 絵茉は黙って、ぐっと親指を立て「満足」の意思表示をした。もっともRINA本人は、コスチュームが伸縮性に富んだ素材の為、ヒップの曲線が丸わかりである事が気になって仕方がなく、なかなかコートを全部脱げずにいた。

「恥ずかしいです、遥さん。せめて空手着のズボンを穿かせて……」
「あまいっ! 何度も言うようだけどこれは《お祭》なの。目立ったモン勝ちなのよ。せっかく参加者で一番若いんだからそれらしい格好をして、少しでも観客の視線を自分の方に向けないと!」

 ――それって遥姉ぇ、完全にプロレスラーの思考だよ?

 絵茉はそう思ったが敢えて口に出さなった。自分の余計なひと言が、絶対に遥の怒りに火を注ぎそうな気がしたからだ。彼女から注意を受けるRINAをみて絵茉は「悪かった」と心の中で詫びた。

「……それで、遥姉ぇの方はどうなのよ? まさかTシャツに短パンじゃないでしょうね?」
「失礼なっ! やると決めた以上、ちゃんとコスチューム着てきたわよ!……だけど見せるのは今じゃない、本番の時まで楽しみに待ってなって」

 自分ひとりだけが、上下白いラインが入った赤色のジャージ姿の遥に向かって、絵茉とひとり羞恥プレー状態のRINAは「ひどい!」とブーイングを飛ばす。そんなふたりからのブーイングにも全く意に介さず遥は、ただ黙って笑みを浮かべるだけだった。

 外では客寄せの花火の音が、未だに鳴り続いていた―― 

 時計の針が正午を回り、神楽殿では神事の時のみに着装する、特別な装束を纏った宮司が御払いの儀式を行い始めた。それまで人ごみで騒がしかった境内も、この時ばかりは水を打ったように静まり返り、バックグラウンドで流される雅楽の音色が、この場所を現実世界から神聖な空間へと変貌させていく。
 ひと通り御払いの儀式が終わると、神社職員によるアナウンスがスピーカーから聞こえてくた。

「今年の出場者の入場でございます。皆さま、どうぞ盛大な拍手でお迎えください」

 大勢の見物客からの拍手に迎えられ、角力祭に参加する六人のおんなたちが次々と神楽殿へと上ってくる。やはり参加者のなかで一番声援が多いのは、知名度が高い《地元の英雄》である遥だ。突然のレスラー引退から五年、全く表舞台に姿を現さなかった《女子プロレスの元スター》が、こんな一地方の祭に参加するなんて夢にも思わない、遠方から来た見物客にとっても、古くから彼女の事を知っている地元民にとってもこれは《ビッグ・サプライズ》であった。

「えっ、あの“悠木はるか”が? こいつはビッグマッチ並みの価値はあるぜ!」
「よくぞこの、角力祭の舞台に戻ってきた。お帰り遥ぁ!」

  久しぶりの《公の場》に少々緊張した面持ちで、声援に応え手を振る遥。一方毎年参加している絵茉にも、顔見知りの地元のひとたちから「絵茉ぁ、今年もがんばれよ!」と声援が飛ぶ。根っからの“お祭り女”である絵茉は、あちこちから掛かる応援の声に笑顔にVサインで返答した。
 次々と多くの人々から声を掛けられる遥たちをみて、RINAはちょっぴり羨ましいな、と思った。こんなに大勢の人たちが盛んに各参加者の名を口にする中、存在自体を知らない事もあるが、他の誰よりも年齢も体格も遥かに劣る彼女には、「こんな娘が……」という冷やかな視線はあっても、激賞や応援の声などは一度も上がらなかった――つまりRINAの存在は「人数合わせの参加者」という認識であって、誰のひとりも彼女の勝ち負けには最初から期待していないのだ。
 誰かがRINAの肩をぽんと叩いた。遥だった。
 顔を観衆がいる正面に向けたまま、彼女はRINAに静かに語りかける。

「……気にする事ないよ。すぐにこの見物客全員が、《蹴撃天使》リナちゃんに釘付けになるから」

 大先輩からの《励まし》に、緊張と疎外感で強張っていたRINAの表情が幾分か和らいだ。

 歓声と拍手の中で行われた、《角力ノ儀》参加者たちのお披露目も無事に終わり、遥たち日本人組とビアンカをリーダーとする外国人勢とが、神社職員たちの誘導でそれぞれ神楽殿の東西へと移動し、これから取組を行う者以外は舞台の側に座り待機した。
 現在、神楽殿の舞台上にいるのは――《泰拳姑娘》秋元絵茉と《旋風夜叉》チェ・ソンヒだ。
 お互いは視線を一度も逸らす事無く、じっと睨みつけたまま行司の「開始」の合図を待つ。
 襟に黒いラインの入った、跆拳道の道着を身に着けたソンヒが、拳を握りゆっくり腰を落とす。絵茉も負けじと、両腕を曲げ片足を浮かせる、泰拳独特の構えを取り来たるべき戦闘に備えた。
 押し潰されそうなほどの、ふたりから発せられる圧力に耐え切れず、行司がついに口を開く。

「――始めぃ!」

 号令と同時に、本部席の側に設置されている、朱塗りの大太鼓がどんっ!と大きく打ち鳴らされ、待ちに待った《角力ノ儀》第一試合が遂に開始された。
 それまで騒がしかった歓声のトーンが若干落ち、見物客たちは両者の出方を固唾を呑んで見守る。

「イヤァァァァァ!」

 先に動いたのはソンヒだった。
 上下に跳ねてリズムを身体に刻むと、相手を威嚇する甲高い掛け声と共に、切れの良い高速回転の後ろ回し蹴りを、絵茉の頭部に狙いを定めて放った。鞭のようにしなやかな蹴り足が、空気を切り裂いて迫ってくる。もし接触すればダウンは確実に免れないだろう。
 絵茉は足をすぅーっと引き、身体を後ろにのけ反らせると、僅かな距離でこれを回避した。
 おおっ! と一斉にどよめく見物客たち。
 だがソンヒの猛攻はそれだけに留まらなかった。
 目標を失った蹴り足が戻ってくると、間髪いれずに今度は脚を斜め四十五度の角度に上げ、機関銃のような連続蹴りで彼女に迫る。頭や喉元、それに胸などの部位を的確に捉え、一度も着地する事なく正確に打ち込まれる足刀。しかしそのキックの“教科書通り”な正確さ故に、百戦錬磨の絵茉にすべて腕でブロックされ、勝敗を左右するような一打を絶対に許さなかった。
 にやり
 ソンヒが不敵な笑みを見せた。
 気が付けば、嵐のような蹴打の猛攻により、絵茉の立ち位置は舞台の隅に追いやられ、踵を一歩でもずらせば約一メートル真下の、がちがちに踏み固められた土の上へ落下し、《勝負》がついてしまう状況となっていた。絵茉はちらりと後ろを見るが焦りの色は全く無く、ただ目の前の対戦相手の、次の動作に注意して微動だにしない。
 すぐ側で風を斬る音がした。
 最後のひと押しとばかりに、ソンヒは胸部に目掛けて横蹴りを放ったのだ。
 あまりにも「思い通りの展開」に、退屈を通り越して怒りすら覚えた絵茉は、ソンヒが放った《だめ押し》の蹴り脚をキャッチし、腋に挟んで固定すると残った手で喉をぐっと掴み、軸足を払い舞台の床板へとひっくり返した。
 びたん!と音をたて、板の上に仰向けになるソンヒ。

「あんたの《武芸》ってこの程度?」

 絵茉は冷たく、そして悲しげな眼差しを彼女へ向けた。怒りや蔑みが入り混じる、絵茉の瞳の奥に蠢く複雑な想いを読み取ったソンヒは、何故自分に対し、そのような感情を抱いているのかが理解できない。
 わたしとあいつとは勝敗を競う《敵同士》であり、どんな内容で勝ったところで問題はないはずだ――ソンヒはそう考えていた。
 だが絵茉は違っていた。互いが持つ武の技術を最大限に駆使し、ギリギリの状態で勝負する事を望んでいるのだった。その結果仮に自分が敗けたとしても納得がいったであろうが、《コミュニケーション》が取れないまま安易に勝敗を決められたならば、悔やんでも悔やみきれない。もっとも絵茉本人は負ける気など最初からないけれども。

「あいつ……何をこだわってるんだよ? 勝てば万々歳で、文句なんか無ぇじゃねえか」

本部席にて、初居御大の隣りに座らせられているケンジが、舞台上の絵茉を見て吐き捨てるように言った。《出来損ない》の自分からすれば、彼女が「格好つけている」様に見えたからだ。

「――そこが絵茉の長所であり、短所でもあるのじゃ。自分が闘いに《ロマン》を求めていても、相手が同じ考えとは決して限らんからな」

 初居がケンジの言葉に対し補足をする。彼の目も舞台上を向いており、互いが顔を合わせないまま会話が進んでいた。

「伯父貴、珍しく考えが合うじゃねぇか」
「まぁな。だが絵茉とソンヒとの格闘技術の差を考慮すれば、特にに最短で勝負を決める程ではないじゃろうて」

 伯父の言葉に驚愕するケンジ。

「えっ、あんなキレッキレのキックでか!?」
「ソンヒの放つ蹴り技の精度や速度、それに威力は確かに凄いものがある。しかし絵茉からしてみればそんなのは全て《想定内》であって、驚くべき要素ではないという事だ。だからそれ以上のもの……“技術のキャッチボール”的な、お互いの魂をぶつけ合うような攻防を望んでいるし、彼女ならそれが出来ると信じているから、あのような態度に出ているんじゃよ」

 《武芸者》らしい伯父の解説を手掛かりにケンジは、女武芸家たちの次の展開に注目すべく、じっと舞台を凝視する。

 絵茉の言葉に衝撃を受けつつも、ソンヒは平静を装いゆっくりと、床板から身を剥がし立ち上がった。

「私の《武芸》がこの程度かって……? 冗談じゃないわ」
「そうね、昨晩のあなたの闘いっぷりは尋常じゃなかったものね。じゃあ今は何? ふざけているの?」
「なっ……!」

 怒りで顔色を朱に染めたソンヒだったが、血の気は一瞬で引き、今度は逆に冴えない表情と変わっていった。見れば彼女の唇や指先が微妙に震えている。

「《ウケ狙い》の派手な蹴りは必要ないの。あなたの、普段通りの“魂の入った”蹴りをあたしに叩き込んで来なさい!」

 力強く自信に満ちた絵茉の言葉が、それまで固かったソンヒの表情を柔和にし、全身をがんじがらめに縛っていた《見えない鎖》を断ち切った。心と肉体に掛けられていた枷から、解き放たれた彼女から放たれる《闘気》にはもう迷いの色はない。

「ふん……後悔するわよ? 血に飢えた雌虎ほど、厄介なものは無いんだから――覚悟しな!」

 デモンストレーション気味に繰り出される、パンチやキックの風を斬る音が先程とは違い、程よく脱力しているのがよくわかる。それを確認した絵茉は前髪をかき上げ、口角を僅かに上げ微笑んだ。

 ――さぁ、始めよっか?

 絵茉は誰にも聴こえない様に小さな声で囁くと、《旋風夜叉》ソンヒは黙って頷いた。 
 床を蹴りあげ、すばやく相手との間合いを取ると、絵茉に向かいミドルキックをジャブのように右へ左へ撃ち放ち、相手の《攻撃範囲》を徐々に狭めていく。

「イャァァァッ!」

 再び肚の底から掛け声を発したかと思うと、ソンヒの身体は既に高速回転を始めていた。

 ――来るかッ?

 しっかりと腕を上げ、防御の体勢に入る絵茉。思わず握る拳に力が入る。
 上段から勢いよく、鉈の如く振り下ろされる右脚。だが彼女との距離が遠すぎる――フェイントだ。その辺は十分に予想していたのか、絵茉の身体は微動だにしなかった。
 が、次の瞬間、《泰拳姑娘》の顔から《余裕》の表情が消えた
 ソンヒが振り下ろした右脚で床を蹴り、天井高く舞い上がったかと思うと、今度は逆の脚による高角度の回転蹴りを、側頭部に狙いを定めて発射したのだ。回転による遠心力で更に威力が増し、仮に被弾すれば只事では済まないはずだ。
 絵茉は冷静に着弾地点を推測し、しっかり防御できるよう半歩分、身体の位置を退かせる。 
 しかし――その時、脳天を起点に痛みが全身を突き抜けた。
 次の回転蹴りもフェイントだったのだ。ソンヒはもう一度身を捻り、利き足である右脚で、絵茉の脳天に踵を叩き込んだのだ。


蹴撃天使RINA 〜おんなだらけの格闘祭 血斗!温泉の宿?!〜  【第六回】

2017年04月28日 | Novel

 初居は背広を脱ぎネクタイを緩めると、RINAの前で胡坐を組んで座る。そして両手を上下左右へ、千手観音の手のように動かして己の内功を徐々に高めていった。最初は《男性》を前に怯えた様子だった少女も、彼から放たれる優しく包み込むような《気》に反応して、次第に心の扉を解いていく。

「……セーターを脱いで。上半身下着だけになって、ワシに背中を向けなさい」

 初居の言葉にRINAの眉がぴくりと動いた。後ろで様子を眺めていた遥たちもざわつく。
 嫌がられるだろうか?と、初居は半ば諦めていたが、驚く事にRINAは躊躇なく自ら進んでセーターを脱ぎ、ブラジャーのみの姿となって白くすべすべした背中を差し出した。彼女もまた大きな《慈悲の心》で接してくる初居大人を、固く信用し切っているのだ。RINAの《覚悟》に対し、彼は満足そうに頷いた。
 彼の全てを包み込むような《人間力》、一点の曇りもない清らかな《気》のパワーによって、固く閉ざされている彼女の、心の《開錠》がいま始まろうとしていた。

「……ふんっ!」

 《大人》は手を合わせ、内功を強く練り生成すると、ふたつの掌を少女の背中へ押し当てて、息を大きく吐き出し《気》のバルブを一気に開放した。
 掌を介して、初居の《気》が激流の如く大量に放出される。

「熱っ……!」

 RINAが、ちりちりと焼けつくような熱さを感じ、小さく唸った。
 弱り切った体内へ熱を持った《気》が休みなく送り込まれ、それまで青白かった肌の色も、毛細血管の活動が活発になるにつれ、次第に赤み掛かっていく。熱による代謝により噴出した汗で、少女の身体はしっとりと濡れて艶めかしく輝き始めると同時に、《気》を充填する初居の白いワイシャツにも汗染みが広がり、額には大粒の汗が光る。

「汚れた《気》を体内から全て吐き出せ。そうすれば新しい《気》が体内に廻り、お前さんは更に強靭な内功を得られるのじゃ」

 絶え間なく注入される初居の新たな《気》によって、RINAの体内に蓄積する汚れた《気》が燃焼され、それが熱となって身体中の隅々へ燃え広がった。彼女は熱を体外へ排出させるべく、何度も何度も深呼吸を繰り返す。RINAの精神を侵していた毒素はやがて汗に、そして涙となってどんどん排出されていき、最初は乱れていた呼吸のリズムも徐々に規則正しくなっていった。
 燃えるような熱さの中で、少女の脳裏にあの忌々しい記憶がプレーバックする。浮かんでは消え、再び浮かぶ思い出したくもない《惨劇》の記憶が次々と波のように押し寄せた。

 いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!

 突然、突き抜けるような、オクターブの高い少女の叫び声が劇場内に響き渡った。
《自己防衛》で心の奥底にしまい込んでいたマイナスの感情が、自然と悲鳴と変換され一気に噴出したのだ。
 ケンジの下衆な笑顔、 皮膚を這い回るざらざらとした舌触りや唾の匂い、そして口の中とふたつの胸に残るごつごつとした指の感触――自分が《強姦》される場面が脳裏をよぎる度に、胃から上ってくる不快感によりRINAの口内は苦味で一杯になる。
 彼女は口に手を押さえ、目に涙を浮かべて吐き気を必死に我慢する。人前で《嘔吐》する、という汚らわしい行為に羞恥心を感じ、なかなか吐き出せずにいるのだ。
 躊躇する少女に対して初居が叫ぶ。

「身体の中のものを放出しろ! 全部外に吐き出して楽になるのじゃ、リナ!」
 
 RINAはこみ上げる嘔吐感を堪え、ちらりと遥たちの顔を見る。ふたりは苦しむRINAに対し、目を背けたくなる衝動を抑え、彼女を勇気づける為に「うん」と頷いた。
 そんな少女に、畳み掛けるように御大は問いかける。

「……夢も希望もなく屍のように生き続けるか、生きて身に降りかかる災いと闘うか。それはお前さん次第だ。さぁどちらの人生を選ぶ?《蹴撃天使》RINAっ!」

 吐き気に耐え、目から涙をぼろぼろとこぼしながら、ぐちゃぐちゃになっている思考を整理する。果たして自分は《何者》なのか? 突然降りかかった《惨劇》に縛り付けられて人生を棒に振るのか、それとも闘い続ける事で心身ともに成長していくのか?
 僅かの……本人には永遠に感じられる程長い間、自問自答を繰り返した結果――ついに、口から乳白色の嘔吐物が吐き出された。同時に背中から初居の掌が離れる。
 床に手を付き、痙攣する胃を鎮める為に、はぁはぁと大きく肩を上下させて深呼吸をするRINA。

「リナちゃんっ!」

 内功の充填が完了した事を見計らって、遥たちが彼女の側へ駆け寄っていった。
 RINAは絵茉と遥の顔を交互に見る。どちらも安堵の表情を浮かべているのを見て、彼女の胸は一杯になる。一方遥たちもRINAの目や肌の色に、先程までは微塵も映っていなかった《生気》が戻っているのに気付き、「彼女はもう立ち直った、大丈夫だ」と確信した。《蹴撃天使》の完全復活である。
 上半身が下着姿のままのRINAの身体に、遥は落ちていた自分のコートを掛けてあげた。

「ありがとうございます……初居大人、この御恩は決して忘れません。それに遥さん、絵茉さん。ご心配おかけしました」

 深々と《恩人》たちに頭を下げ、感謝の言葉を述べるRINA。その表情からは自信と武芸者としての《誇り》が見受けられ、御大も目尻を下げ大変満足そうに頷いた。

「……どうやらそっちの問題は解決したようね」

 突如、彼女たちの輪の中に飛び込んでくる、微妙なイントネーションの日本語――《装鋼麗女》ビアンカをはじめとする、三人の外国人女武芸者が揃ってRINAたちの前へ現れた。

「だけど――こちらの方はまだ終わっていないわ」

 臨戦態勢をとる三人。熱く闘志剥き出しの目は、まだ彼女たちの《闘い》が終わっていない事を雄弁に物語っていた。特にビアンカは「夫に手をだした」と未だに思い込んでおり、遥を目の敵にしているのだ。

「口で言っても理解し合えないのなら、直接身体で会話する……しかないか、なぁ絵茉?」
「残念だけどそうみたい、遥姉ぇ」

 ふたりも拳を握り締め、《敵》の攻撃に備えた。
 じりじりと距離を詰め睨み合う両軍、その時一陣の風が遥の前を吹き抜けた。
 《蹴撃天使》RINAだ。
 事態が掴めずに、固まったままの外国人武芸者たちの元へRINAが向かっていく。
 茶髪の東洋系女性が、咄嗟に反応して前に出た。少し遅れて黒髪の北欧美女も動き出す。
 RINAはその場で垂直に跳び、両脚を大きく広げて双方にいる、《敵》の胸元を蹴った。少女のちいさな身体からは想像もつかない《圧力》に、ふたりは成す術もなく吹き飛ばされる。
 続けて彼女は、蹴った武芸者の身体を《壁》として利用して方向転換すると、ビアンカの方に向かって旋回し後ろ蹴りを喉元へと放つ。だが巨体の割には反射神経の高い《装鋼麗女》は、素早く防御体勢を取りRINAの足刀を掌で受け、そのまま突き飛ばした。
 バランスを崩しそのまま床へ落下すると思われた《蹴撃天使》だったが、彼女もまたビアンカが防御したのをしっかりと目視しており、体勢を崩すことなく空中で後方回転して着地し、地に足が着いたと同時に“鋼鉄の淑女”のどてっ腹へ、目にも止まらぬ速さでボディーブロ-を叩き込んだ。
 さすがにこれには反応出来なかったビアンカは、苦悶の表情を浮かべ、腹を押さえて前屈みに膝をつく。
 人間業とは思えない、この一連の動作にこの場にいる全員が、目を丸くして《当事者》であるRINAに注目した。

「……ここじゃない、私たちが闘うべき場所はここじゃないわ」

 手を前に突出し、両陣を制しながらRINAが放つその言葉に、《敵》も《味方》も一斉にはっ!と我に返る。

「その通り! 闘いの舞台……それは明日の角力祭じゃ!」

 初居大人も少女に続いた。
 目だけを左右に動かし、この場にいる六人の女武芸者たちの顔や姿を、頷きながら確認する御大。

「リナちゃん、それに遥たち。ちと紹介が遅くなったが、この三人の女性が今回の角力祭の参加者たちじゃ」

 初居の言葉と同時に、彼の側へと集合する三人の外国人女武芸者たち。

「まずは黒髪が特徴的な《碧眼魔女(へきがんまじょ)》ジェシカ・ペイジ。総合格闘技の選手で、数々の大会にも出場する実力者じゃ。この町で英語塾講師をやっておる」

 自慢の黒髪をかき上げて、ちらりと一瞥をくれ澄ました表情をするジェシカ。キツメのアイシャドーの奥に隠された、善人丸出しの優しげな目を見る限り根っからの《悪い人》ではないが、相手を突き放すような態度をわざと取って、《悪役(ヒール)》を決めこんでいる所が実に健気で可愛らしい。

「次に茶髪の彼女。《旋風夜叉(せんぷうやしゃ)》諸 松姬(チェ・ソンヒ)。普段は食品加工会社で勤務しているごく普通のお嬢さんだが、彼女もまた跆拳道の有段者だ」

 初居に紹介され、深々とお辞儀をするソンヒ。K-POPアイドルを思わせるような、童顔かつ丸顔の女性ではあるが、彼女の視線は先ほどまで激しくやり合っていた、《泰拳姑娘》絵茉から一度も外れる事は無かった。

「最後はビアンカ・レヴィン。これは遥が良く知っているな? 名前も経歴、そして実力も」

 一瞬ちらりと目が合ったが、すぐに顔を強張らせて無視をするビアンカの「わかりやすい」態度に、遥は思わず苦笑いした。

「はい、しっかりと……しかしこの感じですと、私も祭に“参加”するかのような《流れ》なのですが大人?」
「そうかも知れんな。じゃがワシは、参加者であるジェシカとソンヒをここに連れて来たまでじゃ。お前さんたちの《個人的》な因縁は全く関係ない。これは《闘いの神様》のお導きかも知れんぞ」

 初居の言葉に、遥は少し寂しいような、それでいて嬉しいような複雑な表情を見せた。

「彼女の《勘違い》はさておいて、やっぱり“お前には普通の女性としての生活は無理”といってるんでしょうね、神様は……いいでしょう、角力祭に出場させていただきますよ。それで大人、取組などは決まっているのですか?」

 遥の言葉にビアンカが反応し、呪詛のように「ダーリンを盗った」と繰り返し呟きながら、彼女を強く睨んだ。

「取組か? それならもう、既に各々が勝手に意識し合っておるじゃろ。このまま互いの《因縁》を明日の試合でぶつければいい。つまり――

 秋元絵茉 対 諸 松姫
 武田リナ 対 ジェシカ・ペイジ
 今井 遥 対 ビアンカ・レヴィン

という、《日本》対《多国籍軍》の全面対抗戦じゃ! 江湖に名高い《蹴撃天使》RINAの特別参加と元祖《蹴撃天使》である遥の復帰戦という《目玉》がふたつも揃えば、明日の祭も盛り上がる事間違いなしじゃて!」

 わっはっはと気持ちよく初居が笑う。
 祭の《主催者》からすれば、これ以上はない好条件が《偶然》重なった事もあり、笑いが止まらない気分であろう。もっともRINAを除いた参加者たちも、同じ地域にこれほどの《使い手》がいた事が嬉しくてたまらなかった。日頃町の不良や暴漢相手ぐらいにしか使えなかった、鍛え上げた武芸の技を大勢の見物人が来る大舞台で、しかも同じ女性同士で手加減なしに競える日が来ようとは、昨日までは思ってもみなかったのだから。
 《飛び入り参加》のRINAにしても、人知れず行われる武芸者同士による《果し合い》は、何度か経験しているものの、観衆の前でのオープンな闘いは、高校一年生の夏に一般参加した武道の全国大会以来であった。

「あなたが《蹴撃天使》RINAね? 噂に聞いていたよりずっと小さくてキュートで――とても手強い。明日の祭が本当に楽しみだわ」
「《碧眼魔女》ジェシカさん、私もあなたの《総合》での活躍を度々専門誌でお見受けしています。遥さんじゃないけど“世間は思っているより狭い”ですね。お互い、純粋に《凄い闘い》を皆に見せましょう!」

 他の二組とは違い、双方には《因縁》めいた感情(エモーション)がなく“余ったもの同士”で組まれた取組、という印象は否めないが、それだけに持ち得る能力を繰り出して、他の武芸者たちの闘いを「喰ってやろう」と意気込む両者。

「泰拳だか何だか知らないけど、蹴り技にかけてはわたしのほうがずっと上だからね。だから明日、覚悟しておきなさい! みんなの前で恥かかせてやるから」
「はぁ? どの口が言うのよ。最後まで舞台に立っているのはこのあたしなんだから。絶対思い知らせてやる!」

 一方の絵茉とソンヒは、最初の遭遇(ファーストコンタクト)で闘志に火が点いたのか、もの凄く互いの武芸を意識しており、どちらの打撃技が優れているのか?と早くも睨み合い、火花をバチバチと散らしていた。

「私のダーリンの心を一瞬でも奪ったものは……この手で粉砕するっ!」
「……一番面倒くさい相手と当たっちまったかな、わたし?」

 勝手に《勘違い》し、ひとりで怒りに燃えているビアンカに対し、「もう勘弁して」とばかりに疲れた表情で頭を抱える遥。
 おんな同士の闘志が交錯する中、初居大人の高笑いは止む気配もなかった。

 ◇ ◇ ◇

 温泉旅館《白鶴館》の大浴場の中に、RINAの悲鳴が響き渡った。

「きゃぁぁぁ! くすぐったいですってば、絵茉さん!」
「ダメだって、隅々まで《汚れ》を洗い流さないと! ほら、前向いて」

 恥ずかしがって嫌がるRINAをよそに、絵茉はボディソープでたっぷり泡立てたタオルを、彼女の控えめな胸元へ 押し当てると、力一杯ごしごしと擦りつけた。

「あんな男の《痕跡》なんか、ひとつ残らずキレイさっぱり消し去って心機一転、新たな気持ちで闘いに臨んでもらわなくちゃね」
「お気持ちはすごくありがたいですが、でも……恥ずかしいよぉ」

 気恥ずかしさに既に涙目のRINA。そんなふたりの様子を、大きな浴槽で身体を浮かせてお湯に浸かっている遥がにやにやしながら眺めていた。
 あの《騒動》の後、遥と絵茉はRINAと一晩過ごす事になった。心の痛手から立ち直ったばかりの彼女が心配だったのはもちろんだが、それ以上に彼女の事を心配していた初居大人が「お前たち、リナちゃんと一晩一緒にいろ」と宿泊費プラスアルファをぽんと払ってくれたのだ。

「あ、そういえば遥姉ぇと御大との関係、聞き忘れていた。やっぱり《男と女》の関係?」

 絵茉が冗談めかして言ったその瞬間、彼女の頭に遥が投げたプラスチック製の風呂桶が、見事にヒットする。

「殴るよ? あのお方はね、わたしの現役時代に《後援会長》をして下さっていて、いろいろとお世話になった……ただそれだけの話」
「つっ……普通に殴られるより痛いって」

 顔を真っ赤にしてぷんぷん怒る遥と、頭を押さえて痛がる絵茉。彼女らのやり過ぎな《ドツキ漫才》を目の当たりにして、RINAは口をあんぐりと開け、引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
 胸からお尻まで隅々に至るまで丹念に磨き上げられ、すっかり綺麗になったRINAは絵茉と共に大浴槽へ冷えた身体を潜り込ませた。お湯の熱がスポンジのように全身に沁み渡り、その気持ち良さから思わず「ふぁぁぁ」と同時に声が出るふたり。
 RINAは絵茉たちの恵体に目を移した。見事な曲線を描くボディラインに、自分の倍はある形状の良いふたつの胸――バレないように視線を何度も往復させて、明らかに劣る自分のボディパーツと比較しひとり落ち込む十七歳であった。
 天然の温泉成分を、白い肌に撫でつけながら遥が言った。

「……リナちゃん、明日あたしの家で《衣装選び》するからね」
「衣装って……普段着では駄目なんですか?」

 RINAが不安そうに遥に尋ねる。

「やっぱこういう“ハレの日”にはそれなりの格好で臨む、っていうのが道理だと思わない? 道の喧嘩じゃないんだし。それに《目立ったモン勝ち》じゃん、お祭って」

 遥の熱い《力説》に、絵茉も話を被せてきた。

「そうそう。あたしは自分の道着を着ていくから、リナちゃんは遥姉ぇの《着せ替え人形》になって、目一杯遊ばれてちょうだいね~」

 どうやらこの中で、一番の年少者であるRINAは《姉》ふたりの格好の《おもちゃ》となっているようで、その事を十分自覚している彼女は苦笑いで返答するしかなかった。

「……お手柔らかにお願いします」

 大浴場におんな三人の、大きな笑い声がいつまでも響き渡った。角力祭は明日の正午から開始される――本番まで待ったなし、だ。


蹴撃天使RINA 〜おんなだらけの格闘祭 血斗!温泉の宿?!〜 【第五回】

2017年04月28日 | Novel

「……選手交代ね。絵茉、リナちゃんをしっかり守っていて」
「う、うん……」

 絵茉は痛む身体に鞭を打ち、よろよろとRINAの側へ向かう。ビアンカは絵茉を追おうとするが、しっかりと経路を阻んでその先へ向かわせない遥。

「おー《かつての英雄》ハルカ・ユーキのお出ましか。これはとんだビッグ・サプライズね」
「思い出したわ、《装鋼麗女》ビアンカ・レヴィン……数年前まで欧州では向かう所敵無し、と謳われていた最強女子プロレスラー。突如消息を絶ったかと思えばこんな田舎町でお目に掛かれるとは……世間は思っているほど狭いわね」
「全くだわ。さぁ……掛かってきなさい、言っておくが私の方が《今の》あなたより何倍も強いっ!」

 腰を低く下げ、両手を大きく広げて遥を威嚇するようなポーズをするビアンカ。

「当然でしょ、こんな《おばさん》相手に勝てなくちゃ《装鋼麗女》の名が廃る、ってなもんよね」

 一方の遥は“弱い”と認めながらも“まだ自分の方が強い”と逆説的にアピールし、相手にプレッシャーを与え精神的に揺さぶりをかけた。
 ビアンカが叫び声と共に、丸太のような腕を遥へ目掛けて大振りさせた。空気を切り裂く音が耳に届く。
 遥は猛る剛腕を間一髪の所でかい潜ると、体勢を低くしまま突進し、がら空きの胴体へタックルをした。《装鋼麗女》の身体が僅かに浮き上がり、ずるずると数センチ後退する。
 “倒されてなるものか”とビアンカは彼女の上半身へがぶり、体勢を押し潰そうとぐっと体重を掛ける。背骨が軋み、床に上半身が付きそうなぎりぎりの状態を必死で遥は堪えた。

「舐めんじゃねぇ!」

 遥がありったけの背筋力を駆使し、背中にビアンカを乗せたまま立ち上がると、相手の腕をロックし身体を後方へ反らす。リバース・スープレックスにより低い弧を描いて投げられた彼女は、低い衝撃音を轟かせて固いコンクリートの床へと激突した。
 ビアンカの美しいブロンドヘアーが、長い間掃除もされていない床に、積もる埃にまみれて灰色に染まる。
 頭を左右に振り乱し、髪に付着した埃をまき散らしながら立ち上がろうとするが、突如目の前に、白い運動靴が猛スピードで接近してきた。それは一足先に体勢を整えた遥が放つ、顔面への蹴り足だった。
 確かに“手応え”は感じた。だが被弾する寸前に両腕で顔をガードしたビアンカは、肉体への被害を最小限に抑える事ができた。それでも遥のキックの圧力は凄ましく、電流の如く痺れが腕へ走り、蹴りを受け勢いのついた身体が再び後方へひっくり返る。
 ビアンカと遥はポジションを入れ替えながら掴み合い、肉のぶつかる重低音と共にごろごろと、遠くへ転がっていた。
 遥から借りたコートを被り小刻みに震えるRINAを抱き、心配そうに遥たちの様子を見守る絵茉。

「大丈夫……帰れるから、みんなで一緒に帰れるから」

 絵茉は独り言のように何度も、何度も傷心の少女に呟いて励ました。その言葉に反応したのか、力無く、それでも精一杯に笑顔を見せ、彼女に応えてみせるRINA。
 突如RINAの目が、天井の一点を見据えたまま止まった。
 異変に気付いた絵茉。その時、天井に組まれた鉄骨の梁からふたつの《影》が奇声と共に飛び降りてきた。

「いぁぁぁぁぁぁぁ!」

 絵茉たちの前に、舞い上がる埃の中から二名の女性の姿が現れる。ひとりは黒く髪を染めゴスロリ調メイクを施した、透き通るような白い肌を持つ北欧系美人、もうひとりは前髪の一部に金色のメッシュを入れた、童顔の東洋系女性であった。
 先程のビアンカと比較すればどちらも《普通》の体格をしているが、それでも彼女たちから伝わってくる《闘気》は武芸者以外の何者でもない。絵茉はRINAを自分の背後に隠し、腕を前に伸ばし戦闘態勢をとった。
 東洋系女性が甲高い掛け声でジャンプし胴を高速旋回させ、打点の高い蹴りを出した。絵茉は爪先が触れるか触れないかの微妙な距離でこれを回避するが、僅かに遅れて北欧美女が、後ろへ重心が掛かった足を掃腿で綺麗に刈り取った。この時間差攻撃に完全に不意を突かれ、褐色の女武芸者は後方へ転倒した。
 手応えを感じたふたりは互いに顔を見合わせると、次に同時に鋭い上段回し蹴りを放つ。半円の軌道の先には上体を起こしたばかりの絵茉の顔があり、もし被弾すれば一溜りもない。彼女は咄嗟に両肘を剣先のように突き出し顔を防御した。

 ぴしっ!

 女武芸者たちの脛に固い肘が突き刺さる。ひび割れるような乾いた痛みが、骨から脳へと走った。

「この野郎っ!」 

 脛を押さえうずくまる敵に対し、絵茉は脚を大きく広げて至近距離からドロップキックを撃ち、ふたりをまとめて床へ吹き飛ばした。更に攻撃を加えようと敵を追いかけていく絵茉。
 そこには、ぽつりと戦闘不能のRINAだけが取り残されていた。
 《闘えない》自分の為に、必死で闘ってくれているふたりの友人たちを、何気なく遠目でみていると、よろよろと歩く鉢巻き男の姿が少女の視界へ入ってきた。
 ケンジもRINAの姿に気付き、お互いの視線がかち合った。
 まだ精神的ショックから立ち直っていないRINAは、彼と目が合った瞬間、硬直してしまいその場へ座り込んでしまう。

「へへへ……丁度いいや。《仕切り直し》と行こうじゃねぇか?」

 汗で整髪料は溶け落ちて、トサカ立っていた髪の毛も垂れ下がり、だらしない長髪となっていたケンジが、自分へ危害を加える気配のない武道少女の元へ、一歩一歩じりじりと距離を縮めていく。
 闘わなくちゃ――頭の中では十分すぎる程判っている。だが未遂に終わったとはいえ、彼に強姦されかかった忌々しい体験により、RINA自身の《おんな》としての本能が《武芸者》というアイデンティティーを拒絶してしまっていた。
 とうとう壁際へ追い詰められ、身体を小さく縮ませて目をつむるRINA。幼子のような彼女のポーズにケンジは打ち震えるような感動を覚え、卑しい笑顔を浮かべながらゆっくりと手を伸ばす。
 その時―― 

「やめんか!」

 その場にいる人間全員が、肚に振動を感じるほどの怒声が劇場内に響き渡る。その声を合図にビアンカをはじめ、外国人女性武芸者たちが一斉に攻撃の手を止める。
 突然の《終了宣言》に、一瞬戸惑う絵茉と遥。
 舞台の袖口から、革靴と固いステッキの音を舞台の床に響かせ、何者かが皆の前に姿を現した。
 白く短い髪に細い目、そして彼の《人生》そのものが刻み込まれたかのような皺が縦横に走る顔。誰がどう見たって《ただものではない》事が一目瞭然である――RINAと絵茉とは入れ違いで、黒い高級車に乗って神社の中へと消えたあの老人《その人》であった。
 老人が、獲物を射るような鋭い眼光で周りを見渡すと、RINAたち三人以外は皆静まり返り頭を垂れる。勧善懲悪ものの時代劇のような、あまりにも壮観な光景に、絵茉は目を白黒させた。

「凄い……いったい誰だろう、あの人は?」

 彼女がぽつりと呟くと、遥が慌てて駆け寄ってきて絵茉の口を押えた。

「ばかっ、口のきき方に気を付けな! あの方はね……」

 普段からは想像できない狼狽ぶり。どうやら遥だけは彼の《正体》を知っているらしい。
 ゆっくりと、足元に注意しながら舞台から降り、呻き転がっているケンジの配下などを完全に無視して、謎の男はRINAたち三人の元へやってきた。
 遥は絵茉の頭を無理矢理押さえつけ、この恰幅の良い老人に対し深々と頭を下げる。

「……ご無沙汰しております、初居(そめい)大人」

 《初居》と呼ばれた老人は、先ほどまでの恐ろしいほどの威圧感は何処へやらで、遥に挨拶をされた途端に細い目を、更に細くして柔和な笑顔を見せた。

「おぉ、遥か。そう固くなるな、ワシをただの《じじい》だと思ってリラックスすればよい」

 そういうと初居老人は、壁に寄りかかり小さくなっているRINAに近付いた。すっかり《男性》に対して恐怖感を植えつけられた少女は、彼が少し手をかざしただけでびくっ!と反応する。笑顔は崩さないものの、初居老人に少々困惑の色がみえる。

「は、遥姉ぇ? この《初居》さんって……知ってる人なの?」
「知ってるも何もこの御方はね――」

 遥が話し出したその時、それまで黙ってこの光景を見ていたケンジが大きな声で怒鳴った。

「邪魔するなよ、伯父貴!」

 ケンジの声に反応し、眉をぴくりと動かす初居老人。そして腰を持ち上げ彼の元へと歩いていった。
 対峙する伯父と甥っ子。百戦錬磨の雰囲気を漂わせる巨躯の老人に対し、ただ粋がっているだけの若造。どちらに分があるか一目瞭然であろう。

「“邪魔するな”とはどういう事だ、ケン坊」
「あいつの……あいつのせいで俺が、三年越しの念願だった祭に出れなくなった一番の《元凶》なんだよ。だからこうして復讐しようと――」
「なるほど。《蹴撃天使》を自分の《武》では敵わなんので、人員と精神的負担を与えて憂さを晴らそうと……こういうわけじゃな? 馬鹿めが。だからいつまで経っても祭には参加できんのだ!」
「なっ……?! お、俺はもう子供じゃねェ、それに誰よりも強いっ!」

 子供のような甥の《言い訳》に、しばらく耳を傾けていた初居老人は情けないような、それでいて悲しそうな表情をケンジに向けると、素早く重い拳を彼のどてっ腹にぶち込んだ。
 老齢の男性が放ったとは信じ難い、目にも止まらぬ速さのボディブローに反応すらできなかったケンジは、口から嘔吐物をまき散らしながら、四~五メートル後方へと人形のように吹き飛んでいき、破損され積まれた連結椅子の上へがしゃん!という音を立てて落下する。
 憐れケンジは白目を向いて気絶した。

「ふん、物事の分別が未だに付かないクソガキめが」

 『骨皮震打(こっぴしんだ)』――遥は老人の放った《武功》の名を口にする。

 《大人(たぁれん)》こと初居幸太郎(こうたろう)は、かつてこの地域はもちろん、東日本一帯にまでにその名を轟かせていた江湖の英雄であった。
 この地に古くより伝わる東方起源の格闘術を習得し、岩をも砕かんとする、その重く剛強な拳技から彼は武林では《金剛鐡臂(こんごうてっぴ)》と称され、多くの好漢英雄たちに尊敬されまた恐れられた。闘いの第一線から退いた後、彼は生まれ育ったこの里で会社を興し多くの温泉掘削工事に携わり、全国に名の知れる大温泉街として発展させた《郷土の名士》である。
 現在は主に、御鍬神社で行われる《角力祭》の保存と発展に力を入れており、運営や参加者の人選に口も金も出すプロデューサー的な立場として厳しい目を光らせ、いち地方の土着的神事から観光産業の目玉のひとつとすべく奮戦しており、いま最も彼が全情熱を注いでいる《ライフワーク》なのであった。
 初居大人が再びRINAたちの元へ戻ってきた。

「お見苦しい所をお見せしてしまったな……さて、リナちゃんの件じゃ。このままの状態では明日の祭はおろか、後々の日常生活にも悪影響を及ぼしかねん。未来あるひとりの女性としてこれは大問題だ。だから……少々荒療治になるが僅かの時間だけ、ワシに任せてくれんかのぅ?」

 RINAに手荒な真似をするのでは?と心配する絵茉を無視して、遥は初居を全面的に信用し、心の壊れたRINAの《治療》をお願いした。
 
「いいの? 遥姉ぇ」
「短時間でリナちゃんの内功を復活させるには、より大きな気力を持つ人物による『外気功』しかない。そしてこの場でそれが出来るのが《大人》しかいない……任せる他は無いわ」

 ふたりは事の成り行きを息を飲んで見守った。


 蹴撃天使RINA 〜おんなだらけの格闘祭 血斗!温泉の宿?!〜【第四回】

2017年04月20日 | Novel

 ――気持ち悪い、それに……寒い。

 埃臭く薄暗い空間に自分がいる、という事だけは未だ意識もはっきりせず、視界も定まっていないRINAにも嗅覚等でわかっていた。ただ、今自分がどのような状態で、何処にいるのかが不明な為、得も言われぬ恐怖をひとり感じていた。
 まず身体を起そうにも両手両足が固定されていて動く事が出来ない。そして背中から尻にかけて、硬く冷たい感触がありずっと同じ体勢でいたのか、特に背中の辺りが痺れて痛い。叫び声を上げようにも口の中には、ごわごわとした繊維質な物体――多分タオルが咥えさせられていて、舌は動かせず低い呻き声だけが漏れるだけだ。
 RINAはスカートの中が外気に触れている事に気が付く。いったい自分はどんな体勢を取らされているのだろう、そう思うと恥ずかしさと恐ろしさの入り混じった感覚が、震えと変化して身体中を駆け巡る。
 ぱっ! 突然目の前が明るくなった。光のまぶしさに彼女は一瞬目を閉じる。RINAの視界に映ったもの、それは天井の梁に備え付けられている舞台照明用の大きなライトだった。
 可動域の狭い首を動かし辺りを見渡すと、固定式の連結椅子が自分の周辺を囲むように設置されていている。どうやら自分が今拘束されている場所が、劇場か何かである事を理解した。
 両手首や足首には革製の枷が施されており、それぞれが小さな舞台の四隅に固定され、繋がれた腕や脚が無理矢理広げさせられ大の字を描くRINAの身体。また舞台と身体とを固定する金具の長さが短いので、彼女は身を起こせず腰を僅かに浮かせる事ぐらいしか出来なかった。
 身体は動かせず言葉も発せられない、出来る事はといえば卑猥に尻を動かすのみ。RINAは絶体絶命の状態に陥っていたのだった。

「……おいおい、あんまり動くとスカートの中が丸見えになっちゃうぜ。お嬢さん?」

 何処からか男性の声が聞こえた。
 RINAは反射的に脚を閉じようとするが、大股を開かされたまま舞台に固定されてしまっているので、閉じる事も隠す事も不可能だ。結局彼女は無駄に抵抗するのを止めるしかなかった。
 劇場の出入口から、ぞろぞろと体格の良い男たち数名が入ってくる。しかし彼らの多くは腕なり脚なりを怪我しているらしく、どこかしかに包帯が巻かれており湿布薬の匂いが鼻の奥を付く。
 厚手の濃紺のジャンパーを着た吊り目の男が、舞台に上りRINAの頭の側でしゃがみ込み、真上から見下ろすように彼女の顔を覗いた。

「よぉ、覚えているかい?……俺だよ。温泉街で会ったよな」

 鶏冠(とさか)のようにつんと立てた髪、そして額にはタオルの鉢巻きをした男――朱堂(すどう)ケンジの顔が、消えかかっていた記憶の底から浮かびあがりRINAは、はっ!と目を見開いた。彼女が温泉街に着いて真っ先にトラブルに巻き込んだ、その《張本人》がそこにいるのだ。背後にいる男たち数名も、どうやらその時彼とツルんでいた連中らしい。

「嬉しいねェ、感動の再会ってヤツだ。おっと、そのままじゃ喋れねぇよな」

 ケンジはRINAの頭を起してタオルで作った簡易猿轡を解くと、ようやく楽に口呼吸が出来るようになった彼女は大きく息を吸った。唾でぐっしょり濡れた猿轡を手にすると男は、匂いを嗅いだりして己の《変態性》をわざとRINAに見せつける。
 その行為を目の当たりにし嫌悪感丸出しの表情をするRINA。

「どういう事よ? 私を暗がりで気絶させ……こんな場所へ連れ込んで」

 ケンジの顔をぐっと睨みつけるが、彼はまったく動揺する素振りを見せないどころか、顔をすぐ側まで近付けて彼女が嫌がる様子を楽しむ余裕まであった。RINAの《武器》である拳脚を拘束し、抵抗できなくしたからこそ可能な行動ではある。

「どういう事? 決まってるじゃねぇか、お前への《復讐》だよ!」

 そういうと、RINAの顎を掴み口を強引に開けた。白い歯とピンク色の口内粘膜が男の眼に晒される。次の行動がまるで読めない武芸少女は、胸の奥底から湧き上がる不安で目を潤ませた。
 工業用オイルと鉄の匂いが入り混じる、ケンジの武骨な人差し指と中指がRINAの口内へと遠慮も無しに突如侵入する。

「がっ……あぉ゛っ!」

 彼は少女の舌や歯茎を、滑る様に指を移動させ口内を蹂躙していく。この行為のあまりの異常さと、ダイレクトに脳内へ届く触感の気持ち悪さで、RINAは吐き気を催した。歯で指を噛み切ろうとしても、顎の関節部分を凄い力で押さえられているので、抵抗すらできないでいた。

「……三年だよ。三年掛かったんだよ、あの角力祭に出場する《権利》を得るまでに。お前は知らないだろうがこの町ではな、あの祭に出場できる人間だけが《強者》として認められ尊敬されるんだ――周りの連中は早々に舞台に上がって闘っているというのに、“神事に参加できる品格に達していない”と伯父貴や神社のお偉いさんに勝手に烙印を押されて、自分一人だけが見物人として見なきゃいけないこの悔しさが分かるか!」

 ケンジは散々まくし立てた後に、RINAの口からやっと指を抜く。《口虐》からやっと解放された彼女は思いっきり嘔吐(えず)いた。

「そして今年、やっと許可が下りて明日は大暴れできるはずだった……それをお前が一瞬にして《台無し》にしたんだぞ!」
「げほっ……ちょっと何言ってるの?! 祭に出場できる事と街で女の子を襲う事とは別でしょうが! あんたなんか出場できなくて当然だわ!」

 少女に《正論》をかざされてますます頭に血が上ったケンジは、平手打ちを二発RINAの顔へ力一杯に張った。
 両頬が腫れあがり真っ赤になる。
 しかし彼女は決して怯む事なく、瞳には《怒り》を湛えたままであった。自分に屈しないRINAに対し彼はだんだんと怒りを募らせていく。

 ばっ!

 ケンジがRINAのセーターの裾を掴むと一気に捲り上げた――彼女の顔色が一瞬で蒼白となる。
 微妙に酸味を感じる汗の匂いが、少女の身体から外気へ放出されると、白く弾力のありそうな腹部と彼女自身の清純さを表すような、淡い桃色のブラジャーを纏った小振りな乳房が、男たちの好奇な視線の前に晒された。
 RINAは「ひっ!」と小さく悲鳴を上げる。もっと大きく、そして甲高く叫び声が出るものだと自分では思っていたが、彼らの放つ狂気に包まれた、異様な《空気》に気圧されてそれを許さなかったのだ。
 誰かがひゅ~と歓喜の口笛を吹いた。
 ケンジはRINAの上へ馬乗りになると、枷で動かせない両腕を更に押えつけて、呼吸で波打つ彼女の腹に口を付け、卑猥な音をわざと出して思い切り吸った。

「~~~~~~っ!」

 自分の身に起きている信じられない出来事に少女はパニック状態に陥り、叫ぶ事も忘れ口をぱくぱくと開閉させるのみ。更に彼の舌がナメクジの様に這いまわり、瑞々しく艶のある彼女の肌をゆっくりと唾を塗りたくりながら穢していく。
 吐きそうなほどの嫌悪感が、頭のてっぺんから足のつま先に至るまで全速力で駆け巡る。
 力の限りあげ続けた悲鳴もだんだんと涸れ全身を、そして頭を震わせて嫌がるRINAに構わずへその穴や腋の下を舐め回して、彼女の体内から発せられる《少女のエキス》をケンジは十分に堪能する。
 溢れ出る涙と鼻水でぐしょぐしょになるRINAの顔。

「嫌っ、いやっ! やめて変態っ!」

 抵抗する度にケンジの厚みのある掌が、少女の頬を打ち据える。何度も何度も叫んでは殴られるを繰り返す末、遂にRINAの瞳から《抵抗》の炎が消えた。あれほど《闘志》にあふれ幾多の敵を撃破してきた《襲撃天使》は、《悪魔》のような彼の暴力に屈し身も心も壊れてしまったのだろうか?
 抵抗できない彼女を《玩具》に、凌辱を楽しみ恍惚の表情をみせるケンジとは対照的に、焦点の定まらない虚ろな目をし、最早生気も失せたRINAは青褪めた唇で小さく、壊れた《喋る人形(トーキングドール)》の様に同じ言葉を繰り返すだけだった。

 ……きもちわるい……きもちわるい……きもちわるい……

 涙も声も枯れ果てぼろぼろの状態となったRINAは、桃色のブラジャーの上からふたつの乳房を鷲掴みにされていても抵抗する事もなく、ただただ一切の思考を停止させ彼の《生すがまま》となっていた。ケンジは小振りながらも形の良い、弾力と張りのあるRINAの胸を強く揉みしだくが、抜け殻のようになってしまった彼女からは何の反応も返ってこない。

「…………」
「ふん……壊れちまったか」

 嫌がって抵抗したり罵声も悲鳴も上げず、まるで《人形》を相手にしているような面白味に掛けるRINAの反応に、それまで狂おしいほどに渦巻いていたケンジ自身の《破戒衝動》も萎むように失せていき、自らその身をRINAから退けて舞台を降りていった。

「どうしたんです、ケンジ兄ぃ?」

 仲間たちが一斉に彼の側に駆け寄る。ケンジは納得がいかない表情で大きくため息をついた。彼女に対し、傷付けてしまって「悪かった」という思考は残念ながら持ち合わせておらず、あくまでも抵抗しなくなったからイタズラし甲斐が無く「つまらない」と感じたのだ。

「……お前ら、好きにしろ」
「えっ?」
「だって面白くねぇもん、この女。正直飽きちまったよ」

 ざわめき立つ周りを余所に、ケンジは舞台の側にある連結椅子のひとつに腰を掛けると、手をひらひらとさせて「さぁ、やれ」と合図を送った。
 坊主頭の巨漢が、滾る性衝動を抑えられず一目散と舞台へと上っていく。衣服も乱れ力無く大の字で拘束されているRINAを見るや、ずずっと涎をすすった。
 
「く、黒髪ポニーテール……たまらんっ!」

 巨漢はでっぷりと突き出た腹を揺らし興奮する。そして《行為》に至る前準備として、ベルトを外しズボンを下しかけたその瞬間――醜い尻に激痛が走った。

「痛ぇぇぇぇぇ!」

 前屈みになり、尻を押さえ悲鳴を上げる彼に、ケンジをはじめ皆が一斉に注目する。血がだらだらと流れる尻肉には一本の割り箸が突き刺さっていた。
 ケンジが割り箸を強引に抜き取ると、更に巨漢の尻から血が吹き出し仲間たちは、今自分たちがいるこの空間が、一気に修羅場へと変化した事に色めき立つた。

「お、落ち着け……落ち着けったら!」

 不安に陥る仲間たちをなだめるケンジ。
 だがその間にもひとり、またひとりと音もなく飛んでくる《割り箸》手裏剣の犠牲となり、手や太腿に深手を負った男たちは激痛にのた打ち回った。
 ケンジは出入り口付近の柱の陰に、怪しい人影を見つけた。

「誰だ?! こんな酷い事しやがるのはッ!!」

 彼の怒声に応えるべく、人影が一歩前へ踏み出した。背の高い大柄の女性と、手に割り箸数本とスマホを構えたソバージュヘアの女性がその姿を現した――遥と絵茉だ。

「リナちゃん!」

 遥は、舞台の上でぐったりとするRINAへ向かって叫んだ。
 すっかり生気を失い、小さく息をするだけの《友達》を目の当たりにして、絵茉は怒りで唇をぐっと噛みしめる。

「……よぉ、バカ坊ちゃんたちが揃いも揃ってご苦労な事で。よくも、よくもリナちゃんを……絶対許さないっ!」

 ケンジは、自分の《犯行》の一部始終が記録されているであろう絵茉のスマホを奪うべく、ふたりに向かって突進していった。
 絵茉は手元に残っている割り箸を全て投げた。彼女の《気》が注入された箸はコンクリートの床へ鈍い音を立てて突き刺さり、恐怖で足がすくんだケンジはそれ以上前へ進めなくなってしまった。これぞ彼ら《素人》には真似のできない、武林の世界に生きる武芸者たちのみが使える、何の変哲もない生活日用品を己の気を込める事によって、殺傷能力のある武器へと変化させる《内功術》だ。
 近距離で向かい合うケンジと絵茉。
 絶対に自分ひとりでは敵わないと、分かっているケンジは情けない顔をして絵茉に許しを乞う。

「なぁ、許してよ……ちょっとした《悪戯》じゃな……」

 絵茉の、目にも止まらぬショートレンジの肘打ちを顎に喰らい、《言い訳》を全て喋り終える前にケンジの意識は明後日の方向へ飛ばされた。彼はその場へ正座をするように崩れ落ちる。

「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

 彼女は収まらない怒りを叫びへと変え、RINAやケンジの仲間たちのいる舞台方向へ駆けていく。

「やっちまえ!」
「ぶっ殺せぇ!」

 加速がついた絵茉は両膝を前に突出しジャンプすると、怒号が交錯する男たちの固まりの中に飛び込んでいった。勢いの増した膝小僧は男性ふたりの胸骨に突き刺さり、絵茉の身体を乗せたまま彼らは後方へと転倒した。
 すばやく身を起こし背後に迫る馬面男の顔面に肘を、前方にいる歯欠けの男の腹へ前蹴りを叩き込み《活動範囲》を徐々に広げていく絵茉。その間に遥は舞台へと上り、拘束されているRINAの側へ駆け寄った。
 舞台と枷とを繋いでいる金具を遥は全て取り外すと、彼女の乱れた衣服を直してあげ、涙と鼻水で汚れた顔も綺麗にハンカチで拭き取った。

「……ちゃん、リナちゃん、わかる? 遥よ!」
 聞き覚えのある女性の問い掛けに、自己防衛の為に閉じていた意識が次第に戻っていくRINA。虚ろだった瞳に生気が戻ると、少女は目の前にいる遥に力無く寄りかかり、しゃくり上げて泣き叫んだ。

「はるかさん……わたし……わたし……うわぁぁぁぁ!」

 冷たくなっているRINAの身体を温めるように、遥は優しくその身を寄せて抱きしめた。寒さと恐怖で冷え切った少女の小さな身体より伝わる、冷気を打ち消すべく彼女は己の体温を分け与える。

「怖かったねよ、心細かったよね……そしてよく頑張ったね」

 幼子をあやすかの如く穏やかに、そして慈しむようにRINAに語りかけ彼女の《心の枷》を解いていく遥。その頃、舞台の下で長い髪を波打たせ闘っていた絵茉は、大勢いたケンジの仲間たちをほぼ始末し終えひと息ついていた。

「……一旦店に戻ろう、遥姉ぇ」
「そうね。リナちゃんをゆっくりと休ませたいしね」

 ふたりは未だ脱力したままのRINAを担ぐと、この忌々しい場所から一刻でも早く立ち去ろうと、歩く速度を速めたが、出入口のど真ん中には先程まで姿を見せていなかった筋骨隆々な大柄の金髪白人女性が、通せんぼをして彼女たちを一歩も先へ進ませない。
 金髪白人女性から放たれる《闘気》がふたりの気と共鳴し合う。先程まで相手にしていたケンジやその一味のような素人ではない、本物の《武芸者》だけが持ち得る、混り気の一切無い純粋(ピュア)な闘気がびんびんと伝わってくるのだ

「ウチのダーリンに歯向う者は誰であろうと叩き潰すっ!」

 見た目からはおよそ程遠い、彼女の口から出た流暢な日本語も然る事ながら、《ダーリン》というこれまた意外性のある単語に絵茉と遥は目を丸くする。

「は? ダーリンって……誰よ?」

 きょろきょろと辺りを見回すふたり。そこへ今しがたまで気を失っていたケンジがふらふらと立ち上がり、金髪女性の元へ歩み寄った。彼が「ビアンカ」と名を呼ぶと、彼女は黙ってケンジの頬にキスをした。

「俺だよ、彼女は俺様の嫁なんだよ! おいビアンカ、俺を色香に惑わせる悪女たちをやっつけてくれよ!」

 当然、勝手に《悪女認定》されたふたりは黙ってはいない。かといって《妻》のビアンカに、これまでの経緯を話してもどこまで信用してもらえるか分からない。絵茉は肉体によるコミュニケーションに賭ける事にした。

「ここに来て《本物》のお出ましとは……ここはあたしが引き受けた、だからリナちゃんを安全な場所へお願いっ、遥姉ぇ!」
「わかった、だからアンタも気を付けて! 只者じゃないよ彼女」

 遥の忠告にこくりと首を縦に振ると、絵茉は掛け声と共にビアンカの首筋へ肘を思いっきり叩き込んだ。
 だが鍛え上げられたビアンカの肉体には全くダメージは無かった。ゴムのように硬く弾力のある筋肉に阻まれて、彼女の肘は《攻撃対象》を打ち抜く事ができず、いとも簡単に弾かれてしまった。このビアンカの強靭な《筋肉の鎧》を前に、戸惑いの色を隠せない絵茉。

 ――こうなったら、闇雲に攻撃して突破口を開くしかないっ。

 絵茉は不動の白人女性へ向けて肘や拳、それに脚も総動員しての連続攻撃を開始した。確かに肉体へ己の《武器》を当てている感触はある。しかしその攻撃がちゃんと効いているのか? というと正直彼女にも自信は無い。ひとつでも《当たり》がいいのが入って相手が怯んでくれればチャンスはある、ぐらいの希望的観測でしかなかった。
 だがその《希望》も早々に砕かれた。
 ビアンカが絵茉のスピードのある攻撃に徐々に慣れだし、ボディーへ無数に打ち込まれる攻撃のひとつをキャッチする事に成功したのだ。

「しまった!」

 絵茉の顔から血の気がさーっと引く。
 ビアンカはニヤリと笑うと、彼女の身体を軽々とリフトアップした。そして日常生活では有り得ない高所からの視界に驚く絵茉を、劇場に備え付けられている連結椅子へ放り投げた。肉の塊が無機物へぶつかる衝撃音が響き、息も詰まるような激痛が絵茉の身体中を駆け巡る。

「く……っ!」

 彼女は思わず痛みで顔をしかめた。
 そして壊れた椅子を周辺に投げ捨てながら、痛みでその場にうずくまっている絵茉の元へ一歩、また一歩とビアンカが近付いていく。どんな時も持ち前の強気と愛嬌で乗り越えてきた《泰拳姑娘》だったが、今回ばかりはそうは簡単にいきそうもない。相手の持つ肉体の強靭さに加え圧倒的な体重差……この状況下では戦局をひっくり返すのは不可能に近かった。
 コンクリートの床を引き摺る音が近付くにつれ、絵茉の鼓動が次第に速くなる。

 ――ここまでなのか?

 絵茉は無念の表情で目を閉じた。
 諦めかけたその時、別の方角から靴を擦る音か聞こえた。
 
 ざっ!

 絵茉は顔を上げると、そこには厳しい表情をしてビアンカと視殺戦を展開している遥の姿があった。
 その身体こそ多少大きくなったが、それでも彼女から醸し出される雰囲気は《襲撃天使》を名乗っていた現役時代の頃と全く変わらなかった。謎の引退を遂げてから早十年――悠木はるか、いや今井遥が闘いの舞台へと還ってきたのだ!


蹴撃天使RINA 〜おんなだらけの格闘祭 血斗!温泉の宿?!〜 【第三回】

2017年04月20日 | Novel

 抜身の刃を、目の前に突き付けられているかのような鋭い視線。じわりと押し寄せる恐怖感に目を反らしそうになるRINAだったが、歯を食いしばり負けずに《応戦》する。 

 只ならぬ空気が漂うふたりの《視殺戦》の間へ、慌てて絵茉が割って入る。

「り、リナちゃん。彼女は今井 遥 (いまい はるか) といって、あたしの姉貴的存在なの……って、ちょっと落ち着いてよ遥姉ぇ!」

 不安そうな表情の《妹分》の絵茉を見て、遥はRINAに突き付けていた《心の刃》を鞘に納めると、ようやく重苦しい空気は消え《日常空間》が戻ってきた。店内を流れている感じの良いイージーリスニングが、臨戦状態を解いたRINAの耳にも入ってくる。
 威圧感も消え《普通の女性》に戻った遥は右手を差し出し、フレンドリーにRINAへ握手を求めてきた。

「よく一歩も引かなかったね。さすが武林にその名を轟かせている《女侠》なだけはあるわね……遥よ。よろしく」

 和やかに握手するふたりの姿に、絵茉はほっと胸を撫で下ろした。

「まったく何してるのよ遥姉ぇは?! こっちは凄く焦ったんだからね!」
「いやぁ悪い悪い。でも疲れるのよ? 憎くもない相手に目力だけで威圧するのも。昔だったら全然平気だったんだけどねぇ」
「それだけ歳を取ったって事だよね」
「やかましい! 絶っ対殴る、今殴るっ!」

 狭い店内でどたばたと繰り広げられる、少しバイオレンス度の高めな《ど突き漫才》を前に、完全にぽつんと置いてけぼりとなったRINAが口を開いた。

「あの~絵茉さん、私にふたりの漫才を見せたかったわけじゃないですよね……? 念のためにお聞きしますけど」

 彼女の冷静な発言に、遥たちの動きがぴたりと同時に止まる。

「おー」
「ナイスツッコミ、リナちゃん!」

 彼女たちはこれ以上はない、バッチリなタイミングで飛び込んできた《ツッコミ》に対し、サムズアップをしてみせこれに応えた。ふたりが真面目くさった表情で行うのでそれが妙におかしくて、RINAは堪えきれずとうとう笑い出した。遥と絵茉も続けて笑う。三人の爆笑で一気に店内の雰囲気も明るくなった。

 指定されたソファーに腰掛けたふたりはコーヒーを手に、遥が用意する溢れんばかりのお菓子をつまみながら談笑は始まった。あと少しで夕飯だというのに、尋常ではない量のお菓子を前にRINAは少々困惑する。時折遥がじぃっと視線を送ってくるので、相手の気を反らさんばかりに彼女は質問した。

「あのー遥さん、さきほど私の事を“二代目《蹴撃天使》”と呼びましたよね? 私の前にもあの《通り名》を使っていた人物がいるのですか?」

 RINAの質問を受けて、絵茉と遥が顔を合わせてニヤリと笑う。

「それはわたしなの。昔……リナちゃんが武林に登場する前には、世間からはその《通り名》で呼ばれていたんだ」

 衝撃の告白に驚くRINA。

「遥姉ぇはね、十年前は人気女子プロレスラーとして活躍していてね……その時のニックネームが《蹴撃天使》だったの。キック技が売り物だったからね」
「そう、“悠木 (ゆうき) はるか”だった頃! 恥ずかしいけど懐かしいなぁ~」

 RINAは《女子プロレスラー》だったと聞いて、遥の身体の大きさにひとり納得していると、スマホを手にした絵茉が近付いてきた。

「ねぇ、観たくない? 遥姉ぇが現役だった頃の試合」
「観られるんですか?」
「うん、無料動画サイトを検索すればいくつかアップロードされてるし……ええっと」

 スマホ画面に指を滑らせて、試合動画を検索している絵茉を尻目に、大画面の壁掛け式の液晶テレビへ向かう遥。そしてDVDが並べられている棚からディスクを一枚抜き出すと、テレビに内蔵されている再生機へ放り入れプレイボタンを押した。
 テレビ画面の中では、現在より若干幼い顔をした十年前の遥……いや《悠木はるか》がキビキビとした動きでリングを駆け、ひと回り体の大きな外国人選手と一進一退の好勝負を繰り広げている。

「あ、えっ……?! 遥姉ぇ、試合の映像持ってたの? こないだは持ってないって言ってたじゃん」
「こんな田舎でも往年のファンがたまぁに訪ねてくるんで、一応は何試合かは持ってるのよ。でも自分からはめったに観返さないんでホント久しぶり」

 遥がローキックからミドルキック、そして胸板へのローリングソバットというコンビネーションを繰り出すと、それまで固唾を呑んで見守っていた観客たちが一気に湧き上がった。蹴り技のディフェンスが苦手らしい対戦相手の外国人選手は大きく後方へ倒れる。そしてふらふらになっている相手を無理矢理立たせ、ロープへ振り戻ってきたところへ素早く背後を取り、腰骨あたりに腕をグリップすると見事な弧を描いてブリッジし巨躯をリングへと叩き付けた。
 結局このジャーマン・スープレックスがフィニッシュホールドとなり、レフェリーから勝ち名乗りをうける遥の険しい表情がが画面いっぱいにクローズアップされた。
 RINAはテレビ画面の向こうに映る、初代《蹴撃天使》の活躍にすっかり夢中になり、なかなか画面から目が離せなくなっていた。

「いや、これ……凄いじゃないですか! もう私なんて二代目でも三代目でもいいです!」
「ありがとね。現役時代のインパクトが強かったのか知らないけど、リナちゃんが武林に現れた時にわたしとイメージが重なって、自然と好漢たちの間から《蹴撃天使》って通り名が出てきたんでしょうね」

 先ほどとはまるで違う、尊敬の眼差しを送るRINAに遥は、満更でもない表情をみせた。

「でも……どうして辞めちゃったんですか? プロレスを」

 RINAの率直な質問に、これまで和やかに流れていた空気が一瞬固まった。厳密には絵茉ただひとりがRINAと遥の顔を交互に見ながら、どうやってこの場を取り繕うかと焦っていた。実は彼女も随分前に同じ質問を何度もした事があるのだが理由は結局聞けずじまいで、「これは絶対に聞いては駄目なのだ」と自分なりに解釈していたからだ。
 様子見でちらりと遥に視線を送る絵茉。だが当の本人は、そんな彼女の気遣いをありがたく思いながらも、「心配しないで」とウインクしてそれに応える。

「辞めてからもう十年かぁ……以前は心の整理が付かず話す気にもなれなかったけど、今ならもう大丈夫。《おばさん》の愚痴になっちゃうかもしれないけど聞きたい? リナちゃん」

 本人はもう《笑い話》に転化させたくてわざと冗談めかして尋ねるが、隣りにいる絵茉の表情から「ただ事ではない」事を察したRINAは、背筋を伸ばし姿勢を正した。

「……お願いします」
「そんな大層な事でもないんだけどね。引退当時は理由を“一身上の都合”とだけ発表して、今でも表向きではそう言っている。だけど本当のところはね……“仲間との確執”がプロレス界を去る決意をした最大の理由なの」

 初対面のRINAはともかく、彼女との付き合いが深い絵茉にとっては、本人より初めて聞かされた《衝撃の事実》に驚きを隠せなかった。

「そんな……誰よ? 遥姉ぇをいじめた奴は?! あたしが……あたしがブン殴ってやる!!」
「落ち着いて絵茉っ! 誰それが悪いとかいう問題じゃないの。だから……ね?」

 遥は、突如として感情的になり、顔を真っ青にして怒り狂う絵茉を優しくなだめる。
 彼女が小さな頃から自分を尊敬し、またプロレス入りした時には精一杯応援してくれた事も充分過ぎるほど判っている遥は、眼の前で絵茉が自分の事の様に怒り悲しむ姿を見て、まだ幼かった頃の彼女のイメージを瞼の奥でダブらせていた。

「プロレス……特に女子の場合は感情的になることが多くてね、皆とは言わないけど自分より《劣る》選手を見つけてはストレスの捌け口にする事が多々見受けられたわ。誰かにいじめられそして別の誰かをいじめ返す……連鎖反応みたいにね」

 スポットライトに照らされ、多くの観客たちから歓声を浴びる華やかな表舞台とは違い、嫉妬によるドロドロとした負のオーラが漂うバックステージの様子を聞かされたRINAは、少し胸の奥が気持ち悪くなった。

「最初から“そういうもの”だと思ってこの世界に入ってきたし、万がいちタイマン勝負になっても負けない自信があったから、《スター選手》と呼ばれる地位になるまではぐっと我慢していたわ。お金の取れる選手になれば誰からも文句は言わないだろうって、そう思っていた」

 自然とテーブルの上の、お菓子を取る手がぴたりと止まる。

「当時そこそこ可愛い顔をしていたし、幼い頃から武芸の修練に励み培った、蹴り技という《売り物》があったから看板選手になるのに思ってたより時間はかからなかった。今でこそ総合格闘技や立ち技系格闘技の興行が普通に行われているけど、あの頃は格闘色を押し出していた選手が数えるほどしかいなかったから凄くマスコミやファンたちからプッシュされて、わたしの人気は日に日に高まっていき……そして気が付けば《スター》と呼ばれる選手になっていたの」

 遥の話にRINAと絵茉は、息をする事さえ惜しいほどにその内容に吸い込まれていく。

「だけどね、絶頂の時間は長くは続かなかったわ。わたしの成功を妬んでスターの座から引き摺り落とそうとする奴がいたのよ。それが練習生の頃からお互いに寝食を共にし、励まし合っていた同期入門の選手だった事を知った時……わかる? 親友だと思っていた娘が《敵》に回った時のショックの大きさが」

 両手で顔を覆い下を向く遥。僅かの沈黙の後ふぅ~と深呼吸すると、再び《真実の物語》を語りだした。

「同じくらいの格付けに上ってきた彼女は、わたしの事を邪魔に思い《味方》のマスコミやファンを引き込んで、わたしに対する《ネガティブ・キャンペーン》を展開し出したの。ある事ない事言うもんで最初は無視していたんだけど、プライベートにまで発言し始めた時……わたしはとうとうキレたわ」
「それで……どうしたんですか遥さんは?」

 RINAが質問した。

「シングルマッチでの一騎打ちを要求したわ、“リングの上で白黒ハッキリさせましょう”って。当然簡単には試合は組まれなかったけど、巡り巡って年末のビッグマッチでようやくその機会が訪れたの。でもね、“潰してやる”なんて最初は思っていたけどいざ顔を合わせたら、《あの頃の彼女》がチラついてどうしても《あと一歩》が踏み出せなかった。逆にわたしの顔を潰したいあの娘は、レフェリーの死角を付いて危険な技を次から次へと仕掛けてきた。警戒するだけで精一杯で注意が散漫になった所へ、電光石火の固め技でフォールを取られ……わたしは負けたの」
「どうして? そんなの簡単に返せたはずでしょ、いつもの遥姉ぇなら」

 信じられない! と言わんばかりの表情で遥に食って掛かる絵茉。

「いつもだったら、ね。でもあの異常な精神状態の中、《本気》の押え込みをされたらもう全然……返す事が出来なかった。《売り物》の蹴り技のひとつも何も出せないまま、観客たちからは《駄目なレスラー》だと罵られて……結局、大事な時に非情に徹しきれなかったわたしが一番弱かったの。それでこの試合を最後に《悠木はるか》はプロレス界を引退した、ってわけよ」

 遥はぱん! と両手を打ち《引退秘話》の終了を知らせたが、後味の悪さからかしばらくは誰も発言できなかった。

「どうしたの、みんな顔を上げて笑ってよ?ほらぁ!」

 遥ひとりだけが明るく振る舞う。話の内容とはまるで違う彼女のその態度に、違和感を覚えた絵茉は遥に尋ねた。

「遥姉ぇは……それでいいの? 自分の《選択》に納得してるの? ちゃんと答えてよ」

 真剣な絵茉の視線が痛いほどに突き刺さる。貼り付いたような偽物の笑顔も消え、うつむき加減で遥はぼそぼそと語りだした。

「絵茉、結局《闘い》っていうのはね、どちらか一方が闘争心や対抗意識を失った時、その《闘い》は成立しなくなるの。それはただの《暴力》へと変化するわ、殴り合いでも口喧嘩でもね。だからあの試合中に自分自身が非情になれなかった時点で、わたしの負けは決まったも同然だった。これ以上誰も傷付けたくなかったし傷付きたくもなかった。約五年間のプロレス人生の《いい思い出》だけを持ってここを去ろう、そう決めたんだよ……わたしの出した《答え》は間違っていたかしら?」
「遥さんは……」

 それまで黙っていたRINAが口を開いた。

「遥さんは間違っていないと思います。プロレス界からの引退は決して《逃げ》ではなく、格闘技者の誇りを守る為の《勇気ある撤退》だと……私はそう思いました」

 RINAが意見を言い終えた瞬間、遥の大きな身体が覆いかぶさってきた――彼女をぐっと抱きしめたのだ。RINAは一瞬戸惑うが、微妙に身体が震えている遥に気付くと、何も言わずに成すがままとなった。

「ありがとう……やっぱりリナちゃんは《蹴撃天使》の名に相応しいよ。明日絵茉と出るんでしょ? 角力祭。わたしも絶対観に行くから……頑張ってね」
「……はい!」

 頬を赤く染め、力強く健闘を遥に誓うRINAであった。

 店の時計は当に六時を回り、日は既に落ちて心許ない街灯の光が、寂れた商店街を照らす。少し前にRINAは徒歩で旅館へと戻り、遥の店では彼女と絵茉のふたりだけが、相変わらずコーヒーを手にお菓子を摘んでいた。

「いやぁ……いい娘だわ、リナちゃんって。真面目でしっかり者だし……アンタと大違いね」
「遥姉ぇ、それ何回目? それにあたしってそんなにダメ人間なのかなぁ?」
「うんにゃ、いい意味でのダメ人間! これに尽きるわ」
「それをどうあたしが解釈しろと?」

 RINAが帰ってからというもの、ずっとこの調子でふざけ合っているのだ。よほど遥はRINAの事が気に入ったのだろう、何度も何度も会話の中に彼女の名が登場するのだ。絵茉はうんざりしながらも久しぶりに楽しそうに話す遥の顔を見ては、うれしくなって微笑むのであった。
 突然、絵茉のポケットにあるスマホの着メロが鳴りだす。電話は『白鶴館』からだった――彼女はRINAについての事ではないかと咄嗟に思った。

「もしもし、女将さん? はい、ええ……何ですって?リナちゃんがまだ戻って来ていない?」

 嫌な予感は的中した。スマホを耳に当てたまま絵茉は硬直する。

「一体どうしたのよ、リナちゃん?」

 心配して駆け寄る遥を、手をかざして制止させると彼女は女将との話を続けた。

「はい、わかりました。こちらでもひと通り捜してみますね。それでは……失礼します」

 スマホの向こう側にいる女将に頭を下げ、通話を終了すると絵茉は力無くソファーにもたれ掛かった。
 
「それで、女将さんは何て?」
「夕食の時間になっても一向に戻ってこないんで、何か知らないか?と聞かれたわ。こんな事になるのなら、いくら距離が近いとはいえ、あたしがしっかり旅館まで送り届けるべきだった……」

 頭を抱えて落ち込む絵茉。その時、壁のハンガーに掛けられていたはずの藍色のジャンパーが遥によって胸元へ放り投げられた。遥の方を見ると既に鼠色のコートを着込んでおり、出発する準備は完了していた。

「落ち込んでる暇はないわ。直前までリナちゃんと一緒にいたのはアンタなんだから、しっかりナビゲート頼むわよ!」
「う、うん……行こう遥姉ぇ!」

 ふたりは顔を見合わせて頷くと、店の扉を開け漆黒の闇の世界へと飛び込んでいった。

 『白鶴館』周辺から始まって御鍬神社の内外に至るまで、絵茉たちは懐中電灯を照らしながら必死にRINAの姿を捜した。だが、どう考えてみても地元の人間ではない、初めてこの付近を歩いたRINAが、自分が案内した道以外を通って帰る事なんて有り得ない。

「……これが都会だったらかわいい店なんかを見つけてさ、ふらっと寄って行きそうなもんだけど。こんな田舎町じゃあ絶対有り得ないわね。う~ん」

 遥と絵茉は、商店街の奥にある路地裏の真ん中で考えをまとめていた。RINAが絵茉の通ったルート以外を選択する事がないと結論付けた今、事故や事件といった最悪のケースを想定する他は無かった。

「ねぇ遥姉ぇ、この辺って痴漢とかって出没する?」
「聞かないなぁ。大体年寄りばっかでヤリ甲斐がないでしょ、痴漢の方も」
「そうか。う~ん」

 ふたりして無い知恵を振り絞って唸っている隣りを、だらしなく黒っぽいジャンバーを着た若い男性二人が過ぎ去っていった。彼女らに全く気が付いていない二人組は、近所迷惑なぐらい大きな声でバカ話をしている。

「……でさぁ、ケンジ兄ィが街で久しぶりに可愛い女子高生を《捕まえた》らしいぜ」
「へぇ、珍しい事もあるんだな」
「別の街から旅行に来ていた娘で、黒髪ポニーテールの上玉だって言ってた」
「ポニーテール? 俺大好物」

 黒髪ポニーテールの女の子……? もしや、と思ったふたりは二人組の後を追いかけていった。
 絵茉が彼らに声を掛ける。《女性》の声に上機嫌で振り返る男たちだったが、それが絵茉だとわかると驚いた顔をして一目散にその場を去ろうとする。

「……何で逃げるのよ、ボクたち?」

 だが逃走経路のど真ん中には、腕を組み仁王立ちする身体の大きな遥が《通せんぼ》をしていた。逃げ場を塞がれた男たちは逆ギレしたのか、一斉にふたりへ襲いかかった。
 絵茉たちは互いに顔を見合わせ、「やれやれ」とため息をつくとすぐに応戦する。
 勢いよく向かって来る男の顔へ、絵茉が素早く肘打ちを一発打込むと彼は、すぐに膝から崩れ落ち意識を失った。遥の方は大振りのパンチを難なく潜り抜けて、背後へ廻り自分の太い腕を男の頸動脈へ巻きつけた。

「答えなさい、その女の子の居場所は何処よ?」
「うるせぇ、ババア!」

 男に《ババア》と言われむかっ腹の立った遥は、更に腕に力を入れて脳への血流を遮断した。男の顔が徐々に真っ赤になっていく。

「いや、嘘、ごめんなさいお姉さま!」

 泣きそうな顔の若者。先ほどの威勢は何処へやらで、すっかり遥の迫力に飲まれて見る影も無かった。

「もう一度だけ聞くわ。女の子の居場所は?」
「ご……ゴールド座。ストリップ小屋だよ! もう許してくれよぉ」
「ありがとね、坊や」

 遥は感謝の言葉を彼に掛けると、一気に力を加え締め落とした。どさっ!という音と共に道路へその身を横たえる。

「絵茉、知ってる? ゴールド座って」
「うん、場所は。でもあそこ何年も前に閉館になってたんじゃ……」
「多分こいつらバカ坊ちゃんたちが、集会か何かで勝手に使ってるんでしょ。急ぐよ!」

 ふたりは全力で駆け出した――RINAが囚われているであろう、ストリップ小屋の廃墟に向かって。


蹴撃天使RINA 〜おんなだらけの格闘祭 血斗!温泉の宿?!〜 【第二回】

2017年04月20日 | Novel

 ――うわぁ!

 思わず感嘆の声をあげるRINA。
 いま彼女の目の前には、外気温との寒暖差で発生した真っ白な湯煙りのカーテンに覆われた、ここ『白鶴館』ご自慢の大露天風呂が一面に広がっていた。大小様々な自然石で周辺を囲まれた、瓢箪のような形の浴槽にはざっと見積もっても、10人程度がゆったりと同時に湯船に浸かれる位の広さがあり、他に入浴客がいない今の時間、この大露天風呂はほぼRINAの独占状態だ。 さっそく木桶で湯をすくい上げ、外気で早くも冷たくなった足元や肩へ二度三度と掛け流す。湯を被った部分だけがほんのりと紅く色付いた。

 温泉街でのひと騒動で知り合った《泰拳姑娘》絵茉に送ってもらい、無事に目的地である『白鶴館』へやって来たRINAは、自分の母親よりも遥かに歳上ながらもそれを感じさせない若々しさと、この歴史ある老舗旅館を預かる事の、誇りや責任感が所作や態度の端々から感じる事のできる、凛とした美しさを持ったすばらしい女将から、挨拶もそこそこに早速この大浴場へ案内されたのだった。
 彼女は絵茉から事前に《事件》の一部始終を聞かされていたので、RINAが少しでも嫌な気分を晴らしてもらい、初めての旅行先で快適な生活を送れるように……という女将ならではの《心配り》であった。
 身体を隠していた象牙色のタオルを取り、見事な曲線を描く健康的な裸体を晒すと、ゆっくりと湯船に全身を沈めていく。
 「はぁ~~っ……」と、自然に口から安堵と歓喜の吐息が漏れだした。
 こんこんと出水口から流れてくる、僅かにとろみを感じる温水の中で、RINAは小さな掌を腕や太腿などへ、身体の芯まで充分に温泉成分を染み込ませるように、丁寧にゆっくりと這わせた。今この空間には水の音と彼女の吐息しか聞こえない。《癒し》を求めていたRINAにとっては申し分ない環境だ。熱すぎずぬる過ぎない温泉水は、硬くなっていた筋肉と心を、ゆっくりと確実に解きほぐしていく。
 邪魔するものが何もないこの最高の《時間》に、彼女は心地よさに頬を桜色に染め、うっとりとした表情で湯船の浮遊感に全身を任せ静かに瞼を閉じた。

 ◇ ◇ ◇

「お待たせっ、リナちゃん!」

 黒光りのする柱に掛けられた、年季の入った振り子時計が午後4時を廻った頃『白鶴館』の小さな玄関ホールに絵茉がやってきた。RINAは彼女にここへ送ってもらった時に、後で会う約束をしていたのだった。
 絵茉のよく響く威勢の良い声に、彼女の到着を待っていたRINAはもちろん、思い思いの時間を過ごしていた他の宿泊客も一斉に声の主の方へ振り返る。この騒々しい《訪問客》の登場に女将は少し苦笑いを浮かべ「静かに」と、人差し指を口に当てる仕草をして彼女をたしなめた。

「あはは、何やってるんですか絵茉さ……冷たっ!」

 突然冷気が顔中に拡がる。
 絵茉はわざとRINAの頬に、外で仕事をしてすっかり冷え切った、自分の掌を押し当てて驚かせたのだ。
 向き合ったまま、しばらく同じ体勢で固まるふたり。
 だが自分のしている事が馬鹿馬鹿しく思えた絵茉は、次第に腹の底から湧き上がる笑いを堪えきれなくなり、ぷっと吹き出し大笑いした。そんな彼女をみてRINAも一緒に笑いだす。気心の知れたおんな同士で笑いあうのは、彼女にとっては実に久しぶりの経験だった。

「あはは……それで何処へ連れていってくれるんです?」
「いいところ! 絶対退屈はさせないよ」

 そう言うと絵茉は「夕飯の時間までには戻ってきてね」との女将の言葉もそこそこに、RINAを旅館の外へと連れ出した。

 『白鶴館』から10分ほどの距離を歩くと、最初に見た温泉街ほどの大きさや派手さはないものの、小規模な土産物屋や飲食店などが密集する賑やかな地区が現れた。ここは土地の氏神様である御鍬神社の門前町的な場所で、店舗と店舗との間を分けるように作られた広い一本道は、まっすぐ本殿まで続いており、初詣や祭事の時には参拝客などでごった返すという。
 それほど大きくもない敷地の中では、翌日に天下の奇祭・角力祭が控えている事もあり、的屋たちによる出店の準備などが着々と進められ、嫌がおうにもお祭りムードは高まっていた。絵茉は、顔馴染みたちに挨拶しながらRINAを連れて、境内を奥へ奥へと進んでいった。
 鳥居を潜り鎮守の森へ足を踏み入れると空気は一変する。それまで微かに聞こえた生活音も周辺を囲む木々に吸い込まれ、砂利を踏む足音以外は何も耳に入らない、ぴんと空気が張り詰めた一種独特の雰囲気がおんなふたりを包み込んだ。自然とRINAの背筋もぴんと伸びる。
 森の奥でひっそりと佇んでいる、こじんまりとした大きさの拝殿へ参拝を済ませた後、絵茉は少し離れた場所に建つ、約5メートル四方もの大きさの神楽殿へと彼女を案内した。

「ここは……?」
「明日おこなわれる角力祭の舞台よ。当日はこの神楽殿周辺は町の人や見物客でいっぱいになるの」

 RINAの目は、経年によって生まれた渋い色彩や重厚感を持つ、この《闘いの舞台》へ釘付けになった。
 絵茉は舞台の縁に腰掛け、角力祭について彼女に説明をはじめた――
 昔より執り行われてた、氏神様へその年の無事や感謝を祈願する一般的な神事が、約四百年ほど前に山で温泉が発見されて以来、様々な地域から人がこの地へ集まって来るようになった頃から《角力祭》の歴史がスタートしたのだという。
 周りが山で囲われ娯楽も少なかった事もあり、祭の最中に酒を飲み気分が高揚した男たちが、ある時武芸の腕自慢を始めた事が《祭》の起源で、名称は《角力=相撲》とあるが実際に行われているのは「舞台(土俵)から出たら負け」というルール以外は全く異なる、どちらかといえば現在の総合格闘技に近いもので、この《角力祭》が元来《喧嘩》が発祥である事が窺い知る事が出来る。年に一度の祭からはかつて多くの好漢や英雄、稀に女侠もが誕生して《伝説的勝負》を残し、それが住民たちに代々語り継がれ角力祭の《箔》となり、比類なき《奇祭》として現在まで連綿と行われているのだ。

「――というわけ。どう、面白そうでしょ?」
「へぇ~、何だかカンフー映画の《擂台戦》みたいですね」
「そう! それが現実に行われているんだからロマンあるでしょ」

 角力祭の説明を聞き、内に秘めている《武芸者》の血が騒いだのか、RINAはすっかり興奮していた。

「絵茉さんは……参加するのですか?」
「当たり前でしょ。観るよりやった方が面白いに決まっているのよ、こういう事は」

 絵茉はそういうと靴を脱ぎ、神楽殿へと上ると軽やかにステップを踏んでみせる。この彼女の行動に何かを感じたRINAは、自身も素足になり綺麗に磨かれた板張りの舞台へ立った。ブーツの中で熱を持った足の裏から、直に感じられる板の感触や冷たさが実に気持ちいい。

「……わたしの言った事、覚えてます?“お手合わせお願いします”って」
「覚えてるよぉ。だからここに連れてきたのよ、明日の《最終調整》も兼ねてね。でも……本当に大丈夫?」
「何がです?」
「リナちゃんスカート穿いてるし。パンツ見えちゃうよ?」
「心配無用です!おんな同士ですから。それに誰もいないですから平気ですよ」

 RINAはチェック柄の、短いプリーツ・スカートの裾を摘みひらひらとさせておどける。

「それでは――」
「始めましょうか」

 互いが正面に向かい合い軽く一礼をすると、ふたりの目付きが急に変わった。それまでの《姉と妹》のような仲睦まじき関係から、相手の《強さ》を直に体感してみたい《女武芸者》同士へと変貌したのだった。
 どちらかが、神楽殿の天井に反響するほどの気合いを発したかと思った瞬間、肉付きの良い脚が同時に高く交差した。頭部狙いの上段回し蹴りだ。
 相手の蹴り脚のスピードや入射角度に驚愕すると共に、町の《喧嘩自慢の男》たちからは感じ得ない、鍛え磨かれた技術にふたりは心が躍った。
 暫しの沈黙の後、RINAが左右に蹴りを出して前進した。空気を切り裂くような鋭利な音と彼女の短い呼吸音が迫ってくる中、絵茉は冷静に己の前腕で攻撃を受け流しつつ、その間合いを詰めていく。
 連続の回し蹴りをかい潜ると絵茉は急に背中を向けた。彼女の予測不能な動作に一瞬躊躇するRINA。
 ブゥン!
 胴体を回転させ、勢いの付いた絵茉の肘が頬骨を狙って襲いかかった。
 RINAは咄嗟に反応しスウェーバックして事無きを得るが、その肘打ちの速さに驚きを隠せず彼女の腕には鳥肌が広がる。
 今度は絵茉によるキックの猛攻が始まった。上へ下へと変幻自在に、鞭のようにしなる彼女の長い脚が、RINAの懸命のブロックもお構いなしに何度も何度も打込まれていく。
 徐々に痺れて感覚が鈍くなる両腕。
 その時、赤いペティキュアが塗られた足が目に飛び込んできた。絵茉が顎に向かってハイキックを発射したのだ。RINAの意識は反応をするものの、腕が痺れてガードを上げることが出来なくなっていた。
 彼女は自ら膝を折り後ろへ倒れて、弧を描いて迫りくる蹴り脚を回避する。バタン!と板が大きな音と振動を感じたと同時に視界から姿が消えたので、今度は逆に絵茉が戸惑う番だ。
 RINAは仰向けになっている状態で、絵茉の腹部を思いっきり蹴り上げた。彼女は小さく呻き声をあげると二歩三歩と後退する。続けてヘッドスプリングで跳ね起き立ち上がると身を翻し、胸部狙いのローリングソバットを繰り出したが、これは絵茉がしっかりと反応した為に、体勢をずらされ被弾するまでに至らなかった。
 決して広くはない神楽殿の中、両者共に一歩も譲らない息詰まる攻防が繰り広げられているものの、意外な事に彼女たちからは《殺気》が感じられない。肉体や精神をぎりぎりまで酷使する武芸高手との《果し合い》とは違い、技術交流の意味合いを持つ《手合せ》であるこの闘いは、もちろん両者とも真剣ではあるが、互いが敬意を表しているので殺伐とした空気はそこにはなく、時折笑みを浮かべながらこの激しい攻防をゲーム感覚で楽しんでいるのだ。
 厚い床板の上を軽く跳ね、重低音と木の摩擦音を舞台中に響かせて円を描きながら、距離を取り相手の出方を伺うふたり。
 時折両腕をぶらぶらとさせ、リラックスした状態を保とうとする絵茉。
 右へ左へと体勢を入れ替えながら、相手の攻撃に備えるRINA。
 この均衡を破ったのは絵茉だった。
 スピードはあるものの、不用心に思えるほど軌道が分かりやすい、出鱈目なパンチを繰り出したのだ。当然の如くRINAは、冷静にそのパンチを受け流すと逆に、相手の顎付近へ正確無比な拳を打ち放った。
 だが絵茉のパンチは、RINAの攻撃を誘うための《フェイク》だった。さっと身を翻し彼女の腕を脇に挟むとしっかりと固定し、肩口に体重を乗せ目一杯に肘関節を伸ばす――脇固めだ。
 肩から肘にかけて激痛が走る。
 RINAは自ら身体を前転させこの関節技地獄から抜け出し立ち上がると、絵茉の首根っこを掴み払い腰で彼女の身体を床に叩き付け、相手の腕を頸動脈に密着させ力一杯締め上げる肩固めへと移行した。
 絵茉は全身の筋力を駆使して寝技からの脱出を試みるが、そうはさせまいとRINAも力を入れ懸命に締め続けた。揉み合いの最中ふたりの着衣は徐々に捲れあがって、下着や肌を露出するあられもない格好で舞台の上をごろごろと転がり回る。
 
「こらっ!勝手に神楽殿に上がるんじゃないっ」

 何処からか男性の声が、草履が足早に地面を擦る音と共に、ふたりに近付いてくる。
 年老いたこの神社の宮司様が、境内の見回りの最中に神楽殿の不審な人影に気付いて、一目散に駆け付けて来たのだった。

「爺っちゃん? やばっ!」
「えっ?……きゃっ!」

 勢いのついたふたりの身体は最早、自分の意志で止める事が出来ず、転がったまま舞台の外へと落下していった。
 だらしなく地面に横たわるふたりを見て、総白髪の宮司様は「やれやれ」といった表情で呟く。

「絵茉、昔っから何度もいっておろう? 普段はともかく《御清め》が済んだ大事な舞台で遊ぶんじゃない!それに何じゃ? うら若き女性が腹なんか出しおってからに……全くもってけしからん」

 気が付けば、着ていた紺色のニットセーターが胸部付近まで捲れあがり、スリムな腹部はもちろん縦長の臍まで丸見えになっていていた。宮司様に注意された絵茉は急いでセーターの位置を元に戻す。RINAも同様で、むっちりとした太腿や白いショーツまで晒していたのに気が付き、恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらスカートの裾を直した。

「……ゴホン! それで隣のお嬢さんはどなたかな?」
「あー紹介するね、彼女はリナちゃん。『白鶴館』に泊まっている旅行客で、最近《友達》になったばかりなんだ」

 絵茉から紹介を受けたRINAは、宮司様に向かい深々と礼をした。まだ十代の年端も行かぬ女の子だというのに浮ついた所がなく、武道家らしく落ち着き払った彼女の所作に対し、彼は満足そうに目を細めた。

「ほぉ……リナさんとやら。あなたも相当の《手練れ》とお見受けしたが違うかね?」
「《手練れ》だなんて……お恥ずかしい限りです。未熟者故まだまだ修練が足りません」
「いやいや、あの絵茉を相手に互角以上にやり合う相手など、なかなかお目に掛かれませんぞ」

 宮司様より掛けられた率直な「お褒めの言葉」に対し、RINAは隣りにいる絵茉と顔を見合わせると、初めて嬉しそうな表情をみせた。

 ふたりは宮司様のご厚意で、社務所に案内されそこでお茶をいただく事となった。RINAたちは円柱型の石油ストーブを囲み、熱いお茶と甘い和菓子に舌鼓を打ちつつ宮司様と絵茉が醸し出す、アットホームな雰囲気の中談笑を楽しんだ。

「……それで爺っちゃんはね、あたしが子供の頃からいろいろ面倒みてくれた《腐れ縁》ってなわけよ」
「おい、日本語の使い方間違えておるぞ。そこは《恩人》じゃろが」
「そうともいうね。まぁ固い事は言いっこなしで」
「そこはしっかりせんかぁ! 本当に二十歳過ぎた女性かお前は?」

 年齢を超えた彼らの遠慮のないやり取りに、RINAは終始笑いっぱなしで頬の筋が痛くなるほどだった。

「リナさん、どうかね? 明日の角力祭じゃが出場してみないかね?」

 そんな談笑の真っ最中、彼女は突然祭への《出場以来》を受けて驚いた。この地へは普通に《旅行》としてやってきただけで、まさか自分に声が掛かるなんて思ってもいなかったのだ。

「えっ……《部外者》が、それも飛び入りで簡単に出場できるものなのですか、この祭事って?」
「もちろん普通は、外部からの《飛び入り参加》なんてものは認めておらん。まぁ、呼び掛けたって誰もなかなか参加はせんが。リナさんがあの娘と闘っている姿を見ていたら、是非とも絵茉共々祭に出て欲しくなってなぁ。それに……」

 急に表情が険しくなった宮司様を見て、絵茉は心配し尋ねた。

「どうしたんだよ爺っちゃん?」
「さっき電話があってな、明日参加する予定だった男衆が繁華街で騒ぎを起こし、怪我して出場が出来なくなったって連絡があったんじゃよ。祭は明日だというのに……まったく」

 宮司様の話を、特に気にも留めず聞いていなかったが、突如数時間前の出来事が頭の中でフラッシュバックし始める。

 ――繁華街……男衆……? あっ!

 記憶の糸が繋ぎ合わさった瞬間、RINAと絵茉は顔を見合わせ「まずい!」と表情を曇らせた。何といってもふたりが彼らを怪我させた《張本人》なのだから。

 ――しょうがない、あいつらに襲われたとはいえ責任の一端はわたしにあるんだし……ええい!

「わ、わかりました。私でよろしければ微力ですが、祭に華を添えられるよう頑張ります!」

 腹を括ってRINAが自ら出場を申し出ると、宮司様は飛び上がらんばかりに喜んだ。

「出てくれるのかい! よかったよかった、これで欠員の穴が一人分埋まったわい」

 ようやく出場者を《確保》できた彼は、ほっと安堵の表情を見せる。歴史と伝統のある天下の奇祭が、参加者不在によりあわや中止にもなりかねない《一大事》だったようで、少しばかり責任を感じたRINAたちは足早にこの場を去る事にした。

「……爺っちゃん、それではあたしたちはこれで」
「おいしいお茶をありがとうございました」
「おお、ふたりともご苦労様。絵茉もリナちゃんも、怪我だけは絶対せんようくれぐれも気を付けてくれよ」

 彼女らは宮司様に一礼し社務所の扉を閉めた瞬間、張りつめていた緊張が解けたと同時に得も言えぬ疲れがどっと押し寄せてきて、RINAたちは同時に大きくため息をつくのだった。

 ――しばし無言で境内を歩くふたり。いろいろな想いが頭を巡っているのだろう、彼女らの耳にはカラスたちの甲高い鳴き声も、露店の準備をする男たちの威勢の良い掛け声も全く入ってこなかった。
 僅かばかり……いや、RINAにしてみれば、長く感じた沈黙を断ち切ったのはやはり絵茉だった。

「はぁ……悪いわね、せっかく旅行に来たのにいろいろと気を使わせちゃって」
「いえ平気ですよ、もう《トラブルこそ我が人生》って感じで半ば諦めていますから」

 どこまでも優しく、そして穏やかに微笑むRINAを見ていたら、何か救われたような気になってきた絵茉は、ふふっと笑い彼女の肩を抱くと強引に自分の身体へ近付けた。絵茉の大きな胸が押し当てられ、鼻孔を塞いでいるためかなり息苦しい。

「ちょ、苦しいですって絵茉さん!」
「あ、ごめん。《愛情表現》が強引過ぎた……それで悪いけど、もう一か所付き合って欲しいんだけどいいかな?」

 腕時計で時間を確認するRINA。旅館の夕食時間まで一時間弱もある、まだ大丈夫そうだ。

「いいですよ、とことん付き合いますよ」
「リナちゃんナイス! じゃあ行こうか?」

 門前町へと出るふたりとは入れ違いに、黒塗りの高級車が神社の駐車場へと入っていく。後部座席には年齢がそのまま顔に刻まれたかのような、老年の男がその巨体を白い革張りのシートに身を任せていた。男は車の側を通りすぎるRINAたちに一瞬目を向けたが、すぐに視線を元に戻し従順そうな運転手に対し二言三言指示を出した――彼は一体何者であろうか?

 ◇ ◇ ◇

 絵茉はRINAを連れて、メインロードを一歩奥へ入った路地裏の、小さな飲食店が密集する場所へと案内する。喫茶店や定食屋、小料理屋から飲み屋まで多種多様な店が建ち並ぶ《町の台所》といった風情のある一角であるが、よく見ればいくつかの店はシャッターが締め切られており、この地域の経済がすべて川下の温泉街へ流れていった事を物語っていた。
 『喫茶 はるか』と、可愛らしい書体で書かれた看板の店で絵茉が立ち止まる。

「へぇ、いい感じのお店ですね」
「でしょ? ここにリナちゃんに会わせたい女性がいるんだ……入るよぉ遥姉ぇ!」

 軽快なドアベルの音と共に年季の入った木製の扉を開けると、タイムスリップしたかのような古めかしい店内の奥の調理場に、栗色に染めたショートカットの女性が立っていた。

 RINAは彼女の大きさに驚く。女性的なフォルムはしっかり保っているものの、明らかに何かスポーツをやっていた様な体格で、各部位のサイズが自分とはまるで違うのだ。「遥姉ぇ」と絵茉から呼ばれる彼女が、入り口に立つRINAに気が付いた。

「あら、いらっしゃい!……二代目《蹴撃天使》さん?」

 ――二代目って……? 誰なのこの人は?

 口元には笑みを、しかし瞳はしっかりと自分を見据えている、この女性に対しRINAは戦慄を覚えた。