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妄想武侠小説 蹴撃天使 RINA ~神様に出逢った日 11.27~

2015年11月23日 | Novel
 まったく女の子らしくない、武骨なデザインのスポーツバッグの奥に眠っているスマートフォンから、着信音として使用しているラロ・シフリンの『エンター・ザ・ドラゴン』が流れてきた。RINAはバッグの中をごそごそと掻き回しスマホを取り出すと、青白く光る液晶画面を確認する。
画面に指を這わせ着信したメールを開くと、にわかには信じられないような内容の文面が書かれていた。正直これを「額縁通り」に受け取ってよいものか?と、彼女は苦笑いを浮かべる。

「リナちゃん、何かあったのかい?」

 彼女の背後からスマホ画面を覗きこもうとする、RINAの言うところの《恋人に一番近い友達》である、二学年上の男子学生・ケーイチであったが、気配に気づいたRINAはさっと掌で表示画面を隠し見えないようにした。

「ちょっと……先輩っ!ビックリさせないでください、もうっ」

 RINAの怒気を帯びたトーンの声に、しゅんと委縮してしまうケーイチ。叱られた飼犬のようなちょっぴり情けない彼の姿を見るなり、RINAは「しまった!」という顔をして、あわてて年上のボーイフレンドに謝った。たぶん傍目から見ればどちらが年上なのか混乱してしまうだろう。
 彼が委縮するのには理由があった。RINAは女子高生の身でありながらも既に、武術の世界である《武林》では好漢・英雄と呼ばれる人物たちに混じり、《蹴撃天使》の通り名を轟かせる〝女侠〟なのだ。仮にいざ《喧嘩》になろうものなら到底彼の手に負えるものではないのだが、そこは武道修行で日々肉体と精神を研鑽している彼女の事、ちゃんと年上の彼の顔を立てる事を忘れない。

「そんな顔しないでくださいよ~。そうだ、これからデートしません? ちょっと映画のDVDが観たくなっちゃったんで、あそこのレンタル店でちょっと」
「それ……デートっていうのかな? わかった、喜んで付き合うよ。ただ少し心配事が……」
「何です?」
「また、急に戦闘が始まったりしないかなぁ……なんて」

 思い当たるフシがありすぎて、RINAの表情が固まった。が、そこはポジティブシンキングな彼女の事、ケーイチの手を握ると有無も言わさず、引っ張るように目的のレンタルビデオ店へと誘導する。
 RINAの頭の中では、先ほどのメールの文面がまだ脳裏に引っかかってしょうがなかった。

《李師傅(マスター・リー)、武林に帰還する》

――まさか、ね。

 期しくも今日はその《李師傅》の誕生日……たちの悪い冗談であってほしい。RINAはそう思った。


 全国チェーンを展開する大手レンタルビデオ店の《映画コーナー》の片隅で、借りたい映画をチョイスしつつもRINAはメールのやり取りを行っていた。内容は当然、先ほどの《李師傅》の件だ。

[李師傅って……随分前に亡くなった方でしょ? 一体どういう事なの]
[にわかに信じられない話なんだけど、実は《師父》クラスの方々の中で「李師傅と会った」という話を複数聞いているんだ]

 メールの相手は、以前RINAと激しい《手合せ》をして以来の知り合いである《東海龍将》ASARYU。元々李師傅主演の映画の影響で、この世界に入った彼としても《李師傅帰還》のニュースは冷静に聞いてはいられなかった。嘘ならば嘘で、本当であればもっと完全なディテールを知りたくて、《武林》の連中から今知りうる事の出来る、信頼性のある情報を仕入れまくっていたのだった。

[そんなオカルトめいた事がもし本当なら、少し怖いわ]
[残念だけど今回の季節外れの《怪談話》、現実味を帯びてきそうだよ。というのも、RINAってぃ~は洪家拳高手の《豪侠》柳家良(リュウ・チャーリャン)を知っている?]
[名前だけは一応。あまり良い《噂》は聞かないけど、武芸の技だけは一級品だって]
[その《素行の悪い》柳氏が今日の早朝というか深夜に、何者かによって負傷させられて……二度と武芸ができない身体になってしまったそうだ]

 低く細い身体つきとは裏腹に、どっしりと構えた腰から繰り出される重量感あふれるパワフルな拳技が、《武林》の間に知れ渡る洪家拳高手の柳だが、近年では暴力沙汰による度重なる不祥事の末、闇金融業者の《用心棒》として身を落とし持ち前の《暴力性》を如何なく発揮しているとの悪評を耳にしていた。その彼が本日朝の3時ごろ、泥酔した状態での帰宅途中に正体不明の何者かが現れ、拳による《粛正》が行われた――という。

[もっとも柳本人は「襲われた」といっているけど。泥酔で判断力が鈍っていたとはいえ、あの柳の攻撃をまったく寄せ付けず、的確に四肢の骨を損傷させてしまうほどの打撃を打てる人物なんてざらにいないだろ?それにその時の《謎の彼》の服装がなんと……紺色の中華服だったそうだ。な? 絶対李師傅に違いないって]
[それってASARYUさんの《願望》でしょ? それじゃあ、お仕事がんばってくださいね]

 RINAはそう文章を入力すると、着信音がバイブレーションのみの《マナーモード》に設定し、スマホをバッグの奥に入れて映画探しを再開した。


 それから30分後、会計レジ前のスペースでそれぞれが別々に、観たい映画を選んでいたふたりが合流した。

「先輩は映画、何にしたんですか?」

 RINAに尋ねられたケーイチは「待ってました!」とばかりにDVDケースを掲げる。彼が手にしているのはハリウッド製の小洒落たロマンティック・コメディー映画。《彼女》ができたら一度はこの手の映画をふたりで観て、ロマンティクな気分に浸ってみたかったらしい。

「どう?」
「う~ん、別に悪くはないんですけど……《分かりやすい》というか《あざとい》というか。下心が丸見えですよ?」

 どうやら図星だったようで、びしっとRINAに指摘されたケーイチはガクッと肩を落とした。

「でも、私ってそういう映画に疎いからいい機会ですね。一緒に観ましょうよ、先輩」
「ありがとう!リナちゃんならそういってくれると思った。うん、うん!」

 彼女の手を握り、ぶんぶんと上下に振って感謝の意を表すケーイチに対し、周りの視線が気になって顔を真っ赤にして複雑な表情をするRINA。

「あの……いっぱい人が見てるから。落ち着いて、ね!」
「悪かった、ちょっと取り乱しちゃって……それでリナちゃんは何を持ってきたの?」

 ケーイチに尋ねられたRINAは手にしている、ふたつのDVDケースを見せた。ひとつはクンフー映画の金字塔である『燃えよドラゴン』、もうひとつは永遠の未完成作品『BRUCE LEE in G.O.D / 死亡的遊戯』――どちらも李師祖の《晩年》の主演作で、彼の《格闘哲学》が色濃く出ている作品という事で、RINAお気に入りの映画であった。

「ブルース・リーかぁ、いかにもリナちゃんらしいセレクトだなぁ。うちの父さんも子供の頃によくテレビで観て真似したっていってたっけ。〝アチャー!〟って叫んで飛び蹴りしたのはいいけど、着地に失敗して捻挫したって」

 ――はぁ、やっぱり《悪い冗談》であってほしいな。亡くなってもなお世界中の人々に《夢》と《勇気》を与え続ける李師傅みたいな人が、狭い《武林》の揉め事に介入するはずないもの。

 RINAは楽しそうに、自分の父親の《ブルース・リー》体験を語るケーイチを見てると、今朝から《武林》中で情報が錯綜している、《李師傅》問題なんて正直どうでもよくなってきた。今一番大事なのは「愛する人と一緒にいる事」なのだから。

「捜したぞ!《蹴撃天使》RINAぁ!」

 何処からともなく、頭からすっぽりと黒いマントを被った怪しげな三人組が現れ、店内にいるRINAの名を大声で叫ぶ。非現実な光景に周りはたちまち騒然となった。

 ――うわっ、馬鹿! 何でこんな時に現れるのよ⁈

 三人はRINAを中心にぐるりと取り囲むと、時折ニワトリの鳴き声のような《怪鳥音》を発して彼女を威嚇する。一触即発な危機的状況を心配そうに見守るケーイチ。
 謎の男たちは一斉にマントを取りその全貌を明らかにした。濃紺の中華服を着た鼠のような顔の細身の男、黒い功夫パンツに持ち前の筋肉をアピールするかのような、薄い白の半袖シャツを身に着けた山のようなの肉体を持つ男、そして何の特徴もなく単にトラックスーツに「着られて」いる普通の男など……もし彼らに共通項があるとすれば多分《ブルース・リー》であろう。

「我らは、李師祖の理念を受け継ぐ武芸集団《三龍会(トリプル・ドラゴンズ)》! 俺がリーダーの《偽小龍》ルゥだ」
「同じく《三龍会》サブリーダー、《猛筋龍》コリョン!」
「オレの名は《漢江龍》イルドだっ!」

 ――何これ? もしかして『クローン人間 ブルース・リー』?

 突っ込み処満載な《愉快な》挑戦者を相手に、どう対処していいか困っているRINAに対し、細身のルーの放つ素早いサイドキックが空を切って襲いかかる。相手が冗談ではなく《本気》で自分に挑んできた事を察したRINAであったが、反応がやや遅かった。ルーのサイドキックは回避できたものの、間髪入れずに飛んできたコリョンの回し蹴りを捌き切れず顔に喰らってしまい、ふらつく彼女にとどめのイルドの踵落としが脳天を直撃した。息の合った三人によるコンビネーション攻撃を受けたRINAは、白いフロアタイルの床へと倒れた。

 ――油断した!《本物》じゃないの、奴ら!

「リナちゃん!」

 心配したケーイチが彼女の傍へ駆け寄ると、冷たい床から引き剥がすように抱き起した。人目が気になるRINAは少々恥ずかしかったが、黙って彼の行為に甘んじた。

「ちょっと離れて。ここは危ないから、ね?」
「うん、わかった。でも……奴らは一体何者なんだ?」

 頭を左右に振り、意識をクリアーな状態に戻すとRINAは自ら愛する彼の腕を外し、再び三人組に対峙した。
「少なくとも……ふたりは《ブルース・リー》みたいね、外見だけは」

 アチャァァァァァァ!
 ホォォォォォォォォ!

 《怪鳥音》を発して威嚇するドラゴン三人衆は、フォーメーションの配置を何度も変えじりじりとRINAに迫る。
 彼女は軽く拳を握り構えると、変則的な彼らの動きを目で追っていく。そして「来いっ!」とばかりに、顎を上げ「くいくいっ」と人差し指を前後に動かして、眼の前の男どもを挑発した。
 こしゃくな彼女の態度に、一番《ブルース・リー》に似ていないイルドが、誘いに乗り前に飛び出てきた。

 オチャァァァァァァッ!

 イルドは彼女の頭部を狙うべく身体を捻り、得意の後ろ回し蹴りの体勢に入る。だがRINAは彼が背中を向ける一瞬を見計らい、彼の軸足を素早い掃腿で刈り後頭部から床へ転倒させた。
 彼女の早業に目が付いて行かず、フロアタイルへ後頭部を強くぶつけ、意識が朦朧とするイルドの上へ馬乗りになるRINA。そして――怒りの鉄槌をひと振り彼の顔面へと叩き込むと、そのまま気絶し哀れ戦闘不能となってしまった。
 怒りの炎が燃える瞳で、残ったふたりをぐっと睨みつけるRINA。
 スカートの奥から健康的な太腿をちらりと覗かせ、眠るように気絶しているイルドの身体からゆっくりと立ち上がり離れると、両脇を締めファイティングポーズを構えた。
 顔の筋肉を震わせ、甲高い《怪鳥音》とともにコリョンがRINAへ、ボディ狙いの回し蹴りを放つ。冷静に軌道を読んでいた彼女は、蹴り足を払いのけると一気に間合いを詰めて彼の顎へフックを叩き込む。よろめくコリョンであったが当たりは浅く決定打とはならなかった。

 どかっ!

 ルゥがRINAの背中を蹴る。衝撃でバランスを崩し前方へと転倒するが、すぐさま《偽小龍》の方へ身体を向けて立ち上がる。

 ワチャァァァァァァ!

 RINAとルゥ、顔面を狙うパンチが両者同時に放たれた。ふたりとも頬に拳を受けて後ろへと倒れるが、若い分リカバリーが早いRINAはハンドスプリングで身体を起し、そのまま回転後ろ蹴りで鳩尾を狙う。だがその《外見》に似合わぬ、かなりの武芸高手であるルゥは彼女にクリーンヒットの機会を与えない。蹴り足はボディに当たるものの急所を微妙にずらしていて、ルゥ本人への決定的なダメージはほぼ皆無だった。
 勢いづく彼らによる《ダブル怪鳥音》が店内に響き渡る。

 ――私の攻撃が効いていない?! どうすればいいのよ?

 何度も拳脚は相手に届くものの、ダメージを与える事ができず次第に焦りの表情をみせるRINA。そこへ彼女の心理状態を見計らったようにルゥとコリョンによる、下からカチ上げるような横蹴りがRINAにヒットした。ふたりの踵が見事顎を捉えその衝撃で、彼女はDVDの陳列棚まで吹き飛ばされた。棚を倒し仰向けになってダウンするRINAの上へ、陳列されていたDVDケースがぱらぱらと降り注いだ。
 身体に、そして頭部へ強いダメージを受け、RINAは痛みで意識が遠退いていく。瞳に映る景色も次第にぼやけていき――気を失った。


 ……………………

 ――負けちゃったのかなぁ、私?

 暗黒の《意識の世界》の中、RINAは自問する。闇が全てを覆い尽くし他には誰ひとりいない、愛するケーイチの姿さえもない孤独な世界にRINAはひとり佇んでいた。

《悲観するな、まだ勝負はついていない》
 
 誰かの声が聞こえた。
 優しく、そして力強い声調がRINAの頭の中に、直接語りかけてくる。

 ――いったい誰?

 彼女の問いかけに対する返事はなかった。僅かの沈黙の後、再び《声》はRINAに語りかけてきた。

《いいか、「負ける」のは決して恥ずべき事ではない。だが決着もついていないのに自らが、「勝つ」チャンスを閉ざしてしまうのは少し頂けないな》

 ――でも、何度攻撃しても一度も決定打を与えられなかった……

 RINAのネガティブな回答に《声》は、的確な《助言》を授ける。

《それは君の身体に、余分な力が入りすぎているせいだ。もっとリラックスしろ、肩の力を抜くのだ。そして――奴らの見た目に誤魔化されるな。そうすれば勝機が訪れるはずだ》

 謎の声による《アドバイス》は、自信を失いかけていたRINAの心に少しずつ、希望の光を灯していく。彼女の瞳にはもう迷いの色はなかった。

 ――ありがとうございます!それで……あなたは誰なのですか?

 RINAの再度の問いかけに、《声》はひと言だけヒントを与えた。

《君も……よく知っている人物さ》

               

 ぱっ!

 最後に《声》を聞いた直後、急に目の前が明るくなり、RINAは一気に現実世界に引き戻された。身体中を走る鈍い痛みに耐え、眼だけを動かして周りを見渡す。散乱するDVDケース、倒れた黒色の陳列棚、そして心配そうに覗き見るケーイチの顔……

「えっ?」

 驚くRINA。何故なら気を失う前とは違い、自分の頭が彼の膝枕の上に乗せられていたからだ。

「気が付いた、良かった!」
「せ、先輩?」

 すぐさま膝枕から頭を起こし、急いでその場を離れようとするRINAの肩を、ぐっと掴んで制止するケーイチ。

「何故止めるんです⁈ まだ勝負は終わっていないんです!」
「もういいじゃないか!何が君をそこまでさせるんだ? 武芸者としての誇りかい?」

 今までに見た事のないケーイチの、強く真剣な眼差しに一瞬だけ〝少女の顔〟に戻るRINAだったが、すぐに〝女侠〟モードへ気持ちを切り替える。緊張の汗で湿る彼の手を、肩から外して立ち上がるとRINAはぐるりと背を向けた。

「……勝ち負けなんかじゃないですよ、ただ私は舐められっぱなしで終わりたくないの。 やるからには《勝つ》にしろ《負ける》にしろ、自分が納得した上で終わりたいんです……こんな女の子、嫌ですよね?」

 感情を抑えて静かに語るRINA。ケーイチの側からは表情は見えないが、きっと悲しみを堪え虚勢を張って精一杯自分に語りかけているのだ、と感じた彼はもう引き止める事などできなかった。

「そんな事ない……信じているから、リナちゃんの《勝利》を」
「ありがとう《ケーイチ》さん」

 RINAは愛情の念を込めて、付き合い始めてから今日初めて《彼》を下の名前で呼んでみた。果し合いの真っ只中の、鬼気迫った状況下で彼の方は「それ」に全く気付いていない様子だったが、RINAはそれでも満足気だった。
 顎をくいと上げ、余裕綽々で待っている《偽ブルース・リー》ふたりを睨みつける。
 細身のルゥが親指を立てて「好!」と彼女を褒め称えた。

「大した根性だ! あの柳前輩も君ぐらい心の強い人物だったら、どれだけ良かったか」

 聞き覚えのある名前が彼の口から出てきたのでRINAは尋ねてみた。

「あなたたち……今朝の柳氏襲撃事件と何か関わりがあるの?」
「彼は《武林》の名を穢した《裏切り者》。だから李師傅が御存命であればそうした様に、我々で柳前輩を粛清したまでの事」

――はぁ、やっぱり。李師傅の誕生日にちなんだ《ジョーク》だったって事ね。

 RINAは彼の答えを聞いて、朝から続くもやっとした気分がぱぁっと晴れた。それと同時に目の前の偽ドラゴンふたりが、微妙な《ブルース・リー》などではなく、それぞれが卓越した武芸の技を持つ、ひとりの《武道家》としてようやく認知できた。

 とん……とん……

 自分の《リズム》を取り戻すため、RINAは脱力し軽く上下にステップを踏んだ。緊張と焦りで硬くなっていた筋肉と思考が、柔らかく解けていくのが自分でもしっかりと感じられ、自然と表情も柔和へとなっていく。

「さぁ、始めましょうか」

 RINAの呼びかけに、コリョンは親指でぴんと鼻を擦り一歩前へ踏み出した。彼はひらひらと上下左右に掌をなびかせ、対戦相手を幻惑する《胡蝶の舞》でRINAを自分の間合いへ誘う。だが、自信と己のスタイルを取り戻した彼女にはまるで効果がなかった。一歩前へ踏み込んだと思えば、次には一歩後ろへ退いたりして精神的な揺さぶりをかけ、相手を苛々とさせる。
 ステップを踏む度にRINAの、頭の後ろで結ばれたポニーテールがぴょんぴょんと跳ね上がり、ますます苛々を募らせていくコリョン。

 ホォォォォォォォォォ!

 いよいよ我慢ができなくなったコリョンが前へ飛び出した。

 筋肉に覆われている、太くがっちりとした脚で蹴りを出そうとするが、発射する寸前にRINAの脚への前蹴りで全て止められてしまい《武器》を前に出す事ができない。
 脚が駄目なら今度は拳だと、一発当たれば即ノックアウト間違いなしの、重量級のパンチを焦りと怒りに任せて振り回す。しかしこの攻撃も完全に見切られており、ジャブやフック、アッパーカットにボディブローなど各種攻撃はブロック、またはスウェーバックで回避する。RINAは絶妙なタイミングでヒットさせるカウンター攻撃によりコリョンへのダメージを蓄積させていく。
 顔を腫らし疲労困憊なコリョン。肩で大きく息をする彼に、もはや《怪鳥音》を発する余裕などなかった。

 タンッ!

 RINAがローファーの硬い靴底で、床を踏み鳴らし《攻撃》への狼煙を上げた。
 彼女の短いスカートがふわりと舞い上がったと同時に身体が旋回する。RINAが蹴り技を繰り出そうとする事ぐらいはコリョンも察知できた。しかし先ほどの執拗な《脚殺し》の影響で脚が前に出せないのだ。
 空中旋回するRINAから放たれた、鞭のようにしなる蹴り足がコリョンの首筋に巻き付いた。勢いの増した彼女の蹴りはダイレクトにその威力を伝え、彼の意識を刈り取り身体を宙に舞わせる。そして硬い床に顔面から激突したコリョンが、立ち上がる事は二度となかった。

 残るは《偽小龍》ルゥのみとなった。

 ふたりいた仲間が倒され、さぞショックを受けていると思いきや、意外に精神的ダメージは薄く、RINAに対して精度の高い突きや蹴りを次々と繰り出していく。ルゥの感情は仲間の敗北よりも自身の勝利を選んだのだ。
 リーダーを名乗っていただけあって、他のふたりとは比べ物にならない変幻自在な手技や脚技が彼女の急所を狙ってくる。ひとつでもミスしたら確実に致命傷を負いかねない、彼の豊富な技を前にRINAは防御するだけで精一杯となった。
 拳や脚が繰り出される度に空を切る音や、接触時に発生する乾いた破裂音がふたりの《世界》を覆い尽くす。

 ハォォォォォォォ!

 ルゥの拳が虎爪へと変化して、彼女の喉に狙いを定め飛び掛かってきた。手で捌くにはもう時間がない、RINAは攻撃を回避しようと上半身を後方へ反らす。彼の虎爪は喉を掴む事ができずに空を切った。

 ――もう、これしかないっ!

 RINAは攻撃目標を失ったルゥの腕を掴むと、脚を彼の身体に引っ掛けて、自ら胴体を回転させて相手を床へ倒し、掴んでいる腕をテコの原理で拉ぐ――飛び付き腕十字固めだ。
 肘関節を極められたルゥは、腕に走る激痛に悲鳴を上げる。
 彼女は腰を突き上げて、更に肘を逆方向へ折り曲げるが、これ以上はなるものかと、空いている反対の腕で腕が湾曲するのを阻止した。
膝を付きゆっくりと立ち上がるルゥ。そして残るすべての力を集中させ、腕を極められたままRINAの身体を持ち上げると、そのまま床に叩き付けた。衝撃で背中が圧迫され息が詰まりそうになるが、それでも彼女は腕をしっかり持って離さない。
 二度三度とRINAの身体を床へ叩き付け、脱出を試みるが一向に技を解く気配が感じられず、ルゥは焦りの表情を浮かべる。RINAは勝敗を付けるべく頸動脈を、彼自身の肩と共に剥き出しの内腿で挟み力一杯締め上げる。グラウンドからの三角締めが極まった!
 頸動脈が強く圧迫される事によって、脳に酸素が行き渡らなくなり次第に彼の身体から力が抜け落ちていき――やがて眠るように倒れそのまま気を失った。
 手練れ揃いの《三龍会》との、長き死闘の末に遂にRINAは勝利を収める事ができたのだった。

「大丈夫か、リナちゃん!」

《決着》が着いたのを見計らうとケーイチは、白い床の上で大の字になるRINAの側へ急いで駆け寄る。疲労困憊で胸を上下させ大きく息をする彼女は、《彼氏》の存在に気付くとぎこちない笑顔で応えた。

「先輩……見ていました? 私勝ちましたよ?」

 ケーイチは何も言わず頷いて彼女の問いに応える。そして倒れているRINAを優しく抱き起こすと自分の背中に背負った。《武林》より来る武芸者たちを、こんなに華奢で軽い女子高生がたったひとりで倒してしまう事自体信じ難いが、店内に横たわる彼らの姿を見ると《事実》として受け止めざるを得ない。

「……連れてって」

 RINAが、力のないか細い声でケーイチに懇願する。

「えっ、何処へ?」
「街外れの丘のある公園……私を待っている《人》がいるの」


 外はすでに陽も落ちて、時折吹く風が身を縮ませるほど冷たかった。《死闘》を制しぐったりとするRINAを背負ったケーイチは、彼女の道案内を頼りに目的地の公園へたどり着いた。公園中央に芝生でコーティングされた小さな丘がある事から、近隣の住人からは《丘の公園》として親しまれている場所であった。
 さすがにこの時間には子供たちの姿もなく、いまここにいるのはリナたちふたりだけ。公園の周りを覆い囲む、樹木の間から見える仄かな住宅の窓明りが寂しさを増長させる。

「ここで……いいんだね?」

 ケーイチが首を傾けて後ろのRINAに確認する。彼女はこくりと小さく頭を縦に動かし《OK》の意思表示をすると、するりと背中から降りて丘の方角に向かって歩き出した。

「おい、リナちゃん⁈」

 彼の問いかけにも応えず、ただ一点――丘の頂上を凝視したまま一歩、また一歩と饅頭型の丘を、重力が感じられない足取りでふらりふらりと登っていく。
 彼女のただならぬ状況にケーイチは、あわてて後を追う。ようやく隣に並んだ時、いつの間にかRINAたちは丘の頂に立っていた。
 夜空を見上げると、都会では珍しいほどの数の星々が、天空に広がり闇を彩っている。
しばらくふたりは空いっぱいに広がる、小さく輝く星たちを眺めていたが、再び視線を下に落とすと、青白い光を放つ人影がそこに立っていた。

「……お待たせしました、李師傅」

 《李師傅》と呼ばれた謎の人影は、不鮮明な霧状の身体を変化させ徐々に《人間》の形を作っていく。やがて精悍な顔立ちに、少し猫背気味の背中、着用している濃紺の中華服の上からでもわかる鍛えられた肉体……RINAたちがよく知る《ブルース・リー》の姿となった。
 《ブルース・リー》が自身の誕生日にこの世に現れる、という奇跡にふたりは胸を熱くする。

「よく来てくれた、RINA。《武林》に名を轟かせるスクールガールがいると友人たちから聞いていたので、一度お目に掛かりたかったのだ……おや、となりの彼は?」

 彼はRINAの横で、ぽかんと口を開けたままのケーイチを指差した。

「……私の《大切な人》です」

 彼女は恐縮しまくる年上の《彼氏》を紹介する。まだ両親にも正式に紹介していないのに、関係性も薄くこの世の人でもない李師傅にケーイチを紹介するとは、夢にも思わなかったRINAであった。

「オ-、君のボーイフレンドか。ははは、これは失礼をした」

 数々の写真で拝見する、口角をいっぱいに広げる満面の笑みを李師祖は見せた。これは夢でも何でもない、《生きている》師傅がすぐ側にいるのだ、と彼女は実感した。

「ご家族や……友人方にはもう会われたのですか?」
「ああ、もちろん。マイファミリーやターキー、ダン……親しい人間にはひと通り会ってきたよ、毎年の習慣ってやつさ。もっとも、彼らにわたしの《顔》が見えているか分からないけどね」

 師傅は最後の部分で少し寂しげな表情を浮かべた。昨今の家族と友人・知人たちとの間で起きている《トラブル》に心を痛めている様子だった。

「何故、皆もっとピースフルに生きられないのだろう? 《彼の地》アメリカでダンと一緒に、強さと夢だけを追い求めて《截拳道》を創造していた、あの《黄金の日々》が懐かしいよ。それが今ではどうだ?《マーシャルアーツ》の部分とは全く関係ない所で、互いに争っているではないか。冗談じゃない!あれはわたしの《創造物(クリエーション)》でありわたし自身が《截拳道》そのものなのだ!」

 映画等で観る《強者》《超人的》な李師祖ではない、自身が直接《争い事》に介入できないもどかしさで、悩み苦しむ《人間臭い》彼の姿を目の当たりにし、RINAはさらに親近感と尊敬の念を抱いた。

「こんな《ブルース・リー》を見てどう思う? 嘲笑するか、それとも軽蔑するか?」
「……師傅はすごく《人間的》な方だな、と思いました。家族や友人方の前でなく、若輩者の私の前で一番見せたくない、《弱い》部分を見せてくださったのですから」

 RINAはいま、自分が思っている事を率直に、包み隠さず言葉にして李師祖にぶつけてみた。彼は一瞬驚いたが、ピュアな彼女の発言に大変満足し、にこっと笑った。

「サンキュー。君たちと過ごせたこのひと時を嬉しく思うよ」
「何処かへ行かれるのですか……?」
「じきにわたしはここを去り別の処へ行かねばならない……そう悲しそうな顔をするな、これが永遠の別れではないぞ。君たちが〝逢いたい〟と強く願えばわたしはすぐに姿を見せるだろう、国籍や人種を問わず誰でも平等にだ」

 李師傅はそういうと、くるりとふたりに背を向けて天を仰ぎ見る。そこには満天の星空が先程よりも増して無限に広がっていた。

「わたしに……武道修行中の私に何かひと言頂けないでしょうか?」

 RINAの願いに李師傅は、人差し指をぴんと真っ直ぐに立て静かに語り始める。

「……歩み続けるのだ。《人生》という道には平坦な道だけでなく坂道や曲り道……いろいろな障害はあるだろうが、それでも《道》である事に変わりはない。だから迷わずに突き進め、周囲に惑わされるな、何故なら君の人生は《君自身》のものだからだ。」

 RINAに「人生の心構え」を授け終えると、今まで《李師傅》を形作っていた光の束が次々と離散していき、最後はすべての光が夜空へと消えてなくなった。彼は遠い別の場所へと旅立ってしまったのだろう。
 だが「別れ」て寂しく悲しいはずなのに、RINAの目からは一滴の涙もこぼれなかった。

 ――またいつか、此処ではない何処か再び逢える。

 彼の言葉を、彼女はそう強く信じているからだ。

「いっちゃったね、リーさん」
「うん……あの世でもしっかり鍛錬していて、元気そうで安心した」

 ケーイチは夜風で冷たくなった、RINAの手をぎゅっと握る。彼の体温を直に感じ強張っていた表情も徐々に柔らかくなっていった。

「帰ったらさ、リナちゃんの借りてきたリーさんの映画……いっしょに観ようよ、温かい飲み物でも飲みながらさ。《ノスタルジー》とかそんなのじゃなくて、彼の事をもっと知りたくなったんだ、僕」

 彼の胸の奥に眠っていた、強き者に憧れを抱く《男の子心》に火が点いたようだ。興奮して熱く語るケーイチを見て、RINAは何だか自分の事のように嬉しくなった。

「本当? 明日は学校も休みだし、今夜は先輩の部屋で《徹夜でブルース・リー》大会ですね! さぁてと、早速両親に連絡入れなくちゃ」

 《女の子》の口から出る〝両親〟という言葉に、一瞬どきっとするケーイチ。やましい気持ちはこれっぽっちもないにしろ、《覚悟》《責任感》などの重い単語が頭を過る。彼は愛想笑いで誤魔化して話題を強引に切り替えようとした。

「あ、ははは……で、でもさ」
「何です?」
「僕らの見たリーさん、あれは《本物》だったんだよね?……何度考えても信じられなくて。だってさ、 彼の誕生日に本物のブルース・リーに……なんて」

 先ほどまでの李師傅との《会見》が未だに半信半疑で、なかなか心の整理がつかないのだ。あまりにも《ドラマチック》で《幻想的》だったあの時間を、自分たちだけが共有したという事実が、すんなりと受け入れられずにいた。

 ぴとっ。

 RINAの白く細い人差し指が《彼氏》の唇を押さえた。
彼女の、突然の行動に何も言えなくなり、ケーイチはじっとRINAの顔をみつめる。ふたつ年下の《彼女》はにっこりと笑うと、首を横に振って彼の言葉を否定し

「……〝考えるな、感じろ〟ですよ、先輩」

と、李師傅のあの有名なせりふでやんわりと諭すのであった。



                                                                  終

妄想武侠小説 【蹴撃天使RINA ~硝子のハートに鋼のボディ~】

2015年11月11日 | Novel
 曇天の秋空の下、じっと上を向き空を仰ぎ見るひとりの少女。
 黄色く色づいた街路樹の銀杏の葉がひらひらと一枚、象牙色のセーターに舞落ちるが何の反応もなく、時折彼女から聞こえてくるのは、重く力ない溜め息だけだった。

 ――リナ、リナったらぁ!
 ――一体どうしちゃったのさぁ?

 何度も何度も、遠くで自分の名を呼ぶ同級生の声が聞こえたけれど、声の主の方を向く気力が今の彼女にはなかった。RINAはちょうど小一時間ほど前に、自分の身に降りかかった《悲劇》を思い出しては、途方に暮れていたのであった。

 年少の頃から親の影響で武道を習い始め、以後ひたすらに肉体と精神を自己鍛錬し続けてきた、《武道ひとすじ》の彼女が突如――恋をした。相手は同じ高校に通う、ひとつ年上の男子生徒。
 彼は生徒会に所属し顔はまあまあ、これという目立った特徴は無いものの、誰とでも分け隔てなく接する事が出来る《いいひと》振りはそれまで、武道の稽古や試合などでの身体の接触(ボディコンタクト)による、どこか男性的なコミュニケーションが主だったRINAにとって、他人に不快感を与えず更に安心させる事の出来る、生まれ持った《コミュニケーション能力》の高さで友人関係を築いていく、彼の存在は新鮮な驚きだった。
 いくら武道漬けの毎日とはいえ彼女だって、ひとたび稽古を終えればドラマや漫画などのラブストーリーや、クラスメイト同士の恋バナを聞いて《恋愛》に憧れを持つイマドキの女子高生。自分なりの《理想の恋愛像》をイメージしては、にやにやしたり赤面したりして来たるべき時

 だが《恋》は突如に始まるもの――

 廊下での鉢合わせという、古典的すぎる《偶然》の出逢いから生まれた恋の萌芽は、RINAの心を混乱させる事となった。先輩との間に生まれた《感情》がただの《憧れ》なのか? それとも《恋》なのかをハッキリさせるためにある時は授業中に、またある時は稽古中にと、何度も何度も自己否定と自己肯定を繰り返した。
 「違う」と思うと急に悲しくなったり、その逆の場合は「えへへ」と表情を緩め、締まりのない顔になって慌てて元に戻したりと、自分自身が「恋愛物語の登場人物」と化している事を客観的に眺めては楽しんでみた。

 ――どうも私は先輩(センパイ)の事が好きみたいだ。

 熟考の末、やっと自分の心に《結論》が出た。だがその事をどう本人に伝えるか……?
 “ええい、当たって砕けろ!”
 最後の最後で、胸の奥でずっと抑え込んでいた《男性的感性》が、とうとう顔を出してしまった。


 RINAはさっそく放課後、生徒会室がある棟で彼が来るのを、まるで果し合いのように廊下の真ん中に立って待つ。
 チャンスはすぐにやってきた。男同士による親しげなトーンの会話が、奥の方で聞こえてきた。

 ――先輩だ!

 唇を咬んではやる鼓動を必死に抑える。

「ん……たしか君は?」

 意中の彼が眼前に現れた。友人と思われる男子生徒ふたりと一緒だった。

「一年のタケダ リナと申します、先輩」

 一礼して顔をあげるRINA。真っ直ぐに自分を見つめる黒い瞳が、他の二人を暗に「邪魔」と言っているように感じた彼は、友人二人に謝って先に帰ってもらう。このフロアのこの廊下には誰一人いない――RINAと彼のふたりだけだ。

「タケダさん、僕に何の用かな?」

 あぁ、いつもの優しそうな笑顔だ――RINAはそんな事を思いながら自分の思いの丈を、眼前の先輩にぶつけてみた。 

「……最初に出逢った時からずっと気になっていました。それで胸の奥で生まれたもやもやがただの憧れなのか、それとも恋心なのか考えて考えて……やっと昨晩答えが出ました。先輩、大好きです!私をあなたの《恋人》にしてくださいっ!」

 ど直球なRINAの《告白》を前に、彼の顔から《笑顔》が消える。そして一度もRINAの顔を振り返る事なく、全速力で彼女の横を走り去っていった。

 ――きらわれた、私嫌われたの……?

 意中の彼が逃亡する、という予想だにしなかった《結末》に、出ると思っていた涙すら一滴も落ちる事もなく、彼の体臭の香りが残る廊下の真ん中で、じっと立ちすくむRINAであった。


 いつ校舎を出て今いる場所へたどり着いたのか、彼女は全然記憶になかった。勇気をだして告白したにもかかわらず結果《振られ》てしまった哀しさや、自分が《恋人》として選ばれなかった怒り。そしてあんな大胆な行動に出てしまったという気恥ずかしさで頭の中が真っ白になり、本能だけで帰路に就いていたというのだ。

 ――失恋、なんだろうなぁ……何だか呆気ない気もするけど。

 いつしか陽が沈みかけ、少し肌寒く感じ始めた頃自分の今いる場所や、市街地の喧騒が鮮明に感じられるようになり、それは同時にようやく普段の《自分》を取り戻した証拠でもあった。

 ――これはきっと、自分には恋愛事なんて向いていないに違いない。うん、絶対そうだ!

 慣れない事はするもんじゃない、自分はこれから武道一筋で生きていく。そう勝手に結論付けたRINAはプレッシャーから解き放たれた開放感からか、急に身体を動かしたくなって自分の知る一番近くで汗を流せそうな場所……学校にある武道館へ向かうため急いで走り出した。


 先程まで頻繁に聞こえていた部活動に励む生徒たちの声も、洛陽と共に校庭や体育館から少なくなっていた。RINAは校舎の裏側にある木々が生い茂る場所に建っている、彼女の所属する《武道部》の練習場所である小さな武道館へ足早に向かう。
 明るい時間帯にはさほど思わなかったが、こうして周りが暗くなると学校創立当初から建っていたと聞く、歴史と風格を感じさせる木造建築物の武道館が、少ない照明灯や生い茂る木々と相まってどこか不気味さを漂わせていた。RINAは部員の誰かしらが残っているか期待して来てみたのだが、窓から見えるのは警備用の光量の少ない照明だけ。きっとみんな帰ってしまったのだろう。
 ここで彼女は不審な点をみつける。

 ――あれ……扉が少し空いている?

 部員が一人もいないはず(・・)なのに、扉がきちんと施錠されていない事を不思議に思ったRINAは、確認のために中に入ってみる事にした。
 ぎぎっ……ぎぎっ……
 稽古場の木張りの床を、静かにゆっくりと歩き周りを見渡す。壁に設置された青白く薄暗い照明の光だけでは視界が狭く状況判断は難しい。だが――

「……誰かいるの?」

 RINAは感じていた。自分以外の誰かが、この稽古場に息を潜め隠れている事を――それも複数の人間が。
 急に視界が明るくなった。
 すべての照明が点けられ普段の見慣れた稽古場の風景が戻ってきた。が、そこにいたのは白い道着姿の部員ではなく、黒い衣装を着た、見た事もない屈強そうな数人の男たちであった。

「ようこそリナくん……いや、《蹴撃天使》RINA!

 金色に染めた髪に無精髭を生やした、リーダー格と思われる男がアクション映画の悪役の如く、両手を広げ大袈裟にRINAの《通り名》を口にした途端、彼女の顔色は変化した。

「その名前……あなたたち《武林(ぶりん)》の人間ね?」

 《武林》とは日々生活する一般社会とは違う、武芸者・格闘家たちのみで構成されたもうひとつの社会(コミュニテイー)。日常社会的には無名でも、この裏社会ではかなりのビッグネームな人物も存在する特殊な世界である。RINAは若干16歳にして、この《武林》で大の大人たちに混じって多くの好漢・英雄たちの口にその名が上る“女侠”なのであった。

「その通り。申し遅れたが俺は《制御不能(インゴベルナブレ)》NAITOという者だ。我ら《黒装幇(こくそうほう)》の名は聞いたことがあるかな?」
「……ここ最近出現した暗黒格闘集団。残念ながら悪い噂しか聞かないけどね」

 悪い噂――それは集団でひとりの武芸者に襲いかかるという、チンピラまがいな彼らの邪な行動はもちろんの事、これまで絶対に口外無用であった武芸者たちとの決闘の様子を、彼らはビデオカメラに収めて動画サイトへ公開していたのだ。嘘とハッタリに僅かながらの真実(リアル)でこの特殊な社会が成り立っていたのだが、好漢たちの敗北する様子をネットに流す事により、《武林》はもちろんこれまで影響のなかった表社会までにも晒され、各人の信用問題に関わりかねない事態が起きていたのだ。

「十分だ。さっそくだが我々とお手合わせ願おうか? もちろんご高名なRINAさんの事、我々の申し出を断るという無粋な真似はしないだろうね?」

 NAITOが指をぱちんと鳴らすと、彼女の周りを《黒装幇》の構成員たちが一斉に取り囲む。

「ここまでお膳立てしてもらって、無下に断るなんて出来ないわね。もっとも……泣いたって許してくれそうもなさそうだけど」
「ははっ、面白い冗談だ! “少女の涙”に心動かされない男なんていないからな。何なら試しに泣いて許しを乞うてみたらどうかな?」
「やなこった」

 RINAは可愛らしく舌を出して、金髪の男を挑発した。
 NAITOはくいと首を傾け、まるで冷蔵庫のような体格をした巨躯の男に、闘うよう指示を出す。
 ずん、ずん、と地響きが鳴るような重量級の足取りで、彼女に近付いた男は眼前のRINAを見るなり薄気味悪い笑いを口元に浮かべた。
「へへへ……こんな可愛いコとヤッちゃっていいんスか、ボス?」
 下品極まりない男の言葉に嫌な表情をみせながらも、踏ん張りの利くように長く白い脚から、紺色のハイソックスを剥いでいくRINA。ぽてっとした彼女の裸足が現れると、男はひゅうと歓喜の口笛を吹いた。
 脱いだばかりのハイソックスを男に放り投げるRINA。思わず助平心で受け取ってしまった巨漢は、気持ち悪さ倍増でソックスに付いた《女子高生》の匂いをぐっと鼻孔に注ぎ込んだ。
 ばしっ!
 目視で追えないほどの速さで、剥き出しの素足から放たれたRINAのハイキックが巨漢の下顎にヒットし、哀れな男はゆっくりと床に崩れ落ちていった。一部始終をNAITOの隣りで、ビデオカメラでこの闘いを《記録》していた細身の男がごくりと息をのむ。
 歩幅を広げ、ぐっと腰を落とし構えるRINA。静かに《怒り》を湛えた瞳は、自分の周りで跳ねまわる敵の行動を注意深く追っていた。
 やぁぁぁっ!と 誰かが奇声を発したその瞬間、男どもは一斉にRINAへ飛び掛かっていく。

「やぁっ!」

 勇ましい掛け声と共に彼女は身体を捻り、後ろ回し蹴りを連続で繰り出し周りを取り囲む邪魔な《人の壁》を蹴散らしていく。男たちは顔面に硬い踵の直撃を喰らい、次々と木張りの床へと倒れていった。
 鬼神のようなRINAの攻撃を目の当たりにした、後ろに控える構成員たちはあまりの激しさに一瞬たじろいだ。

「お前ら男だろ?! あんな女子高生ひとりに何ビビッてるんだよ! 墨流会體術(ぼくりゅうかいたいじゅつ)の恐ろしさ、あいつに見せてやれって!」
「お……押忍っ!」

 怒るNAITOに急かされ《黒装幇》の猛者たちが次々と彼女に立ちはだかるが、一旦《格闘スイッチ》の入ったRINAの前では最早《敵》ではなかった。
 ある者は肋骨に拳の直撃弾を喰らい粉砕され、またある者は頭部に蹴りを入れられ昏睡した。拳脚の違いはあれどもひとつ言えるのは、彼女に向かっていった者は全てその場に倒れ呻き声をあげている――という事だ。

「がっ……はぁぁ!」

 鞭のようにしなるRINAの脚が男の首へ巻きつくと、そのまま体重を預けられて後頭部から硬い木の床へと叩き付けられ、彼女の健康的なふくらはぎと太腿に挟まれたまま彼は気を失った。
 敗戦の色が深まるにつれ困惑の色を隠せないNAITO。
 だがビデオカメラを持つ《記録》担当の男と目を合わせると、意を決したようにふたりは無言で頷き合った。どうやらまだ《秘策》があるようだ。

「はぁ……はぁ……《黒装幇》ってこんなもの? 全く話にならないわね」

 肩を上下させ息をしながら、ひとり残ったNAITOを見据える。先程までの怯えたような表情は嘘みたいに消えて、最初の頃のような自信満々な態度で対峙した。

「焦るなよ。さすがは《蹴撃天使》RINAだけの事はある……だがこれを見ても《自分》を貫けるかな?」

 パチンと指を鳴らし合図すると、それまでビデオカメラを持っていた細身の男が、腕を背中のあたりで縛られタオル製の猿轡を咬まされた別の男性を連れてきた。殴られたのだろうか痛さで顔を下げている彼を見た途端、RINAは叫びに似た声をあげた!

「せ、先輩っ!どうして……?」

 つい先程まで一緒だった、そして呆気なく勝手に抱いていた恋心を散らされた――その彼が今この場に、《黒装幇》の人質としているのだ。突然の事で気持ちの整理がつかず困惑するRINAの、隙を突いたNAITOは重いボディブローを彼女の腹に叩き込み、身体がくの字に折れ曲がると今度は顔に膝をぶち込んだ。
 鼻血を吹き出し仰向けに倒れるRINA。肉体ではなく精神的なダメージが大きく、普段ならすぐに立ち上がれるところが今は全然起き上がる事ができない。NAITOの狡猾な《罠》にはまったのだ。

「~~~~~~!」

 猿轡で言葉が話せず、うなり声で叫ぶ男子生徒。

「お前たち知り合いか? それは丁度良かった。その辺をうろうろしていたガキを捕まえたんだが……ここまで役に立ってくれるとは計算外だったぜ」

 NAITOは腹を上下させ息をするRINAの側に近付くと、腰を屈めて顔を二度三度と張った。攻撃というよりは、動けない彼女に対して《小馬鹿》にする意味合いの強い行動である。

「小狡くても何でも《勝てば》文句ねぇんだよ、この世界ではよぉ……残念だったな《蹴撃天使》ちゃん? ちゃんと切り札は最後まで取って置かなきゃな! ギャハハハハハ!!」

 RINAの口元まで垂れた鼻血を、掌で拭うとNAITOは自分の頬に塗りたくって笑った。こんな変態的な行為をされても何一つ反撃できない彼女の瞳に涙が浮かんだ。

「泣いてるの? かわいいねぇ~、でも許してあげない。おいお前、ちゃんとRINAの泣く所撮っとけよ!」

 《記録》係の持つビデオカメラのレンズが、頭を振って「いやいや」するRINAにズームする。NAITOは彼女の腹や胸にストンピングの嵐を浴びせ、更に追い打ちを掛けた。一発、また一発と蹴りが当たる度にRINAの身体がびくん!と跳ね上がる。もはや彼らの行為はレイプ以外の何物でもなかった。
 目の前の《惨劇》に我慢が出来なくなった男子生徒は、腕を後ろで縛られバランスが保てないまま前に駆け出し、盾となるべくRINAの身体に覆い被さった。

「邪魔だ、どけっ! 素人を痛めつけても何の得にもなりゃしねぇ……くっ、このガキがぁ!」

 何発も何発も足蹴にされても決して、自分の側から離れない男子生徒の姿を見て、RINAは小さく呟いた。

「……何で? センパイお願いだから逃げてよぉ、私は平気だから……ねぇ」

 ごそっ
 彼の制服のジャケットの下に、何やら雑誌らしきものが見えた。
 RINAはぼんやりする視界を必死に戻し覗き見る。そこに写っていたのは今年の夏に行われた大会で優勝した時に、道着姿でトロフィーを横にピースサインをして笑っている、彼女が表紙の武道雑誌だった。
 彼はRINAの事を出逢う前からちゃんと知っていたのだ。
 「信じられない」という彼女の視線に気が付いた男子生徒は、身体中を巡る痛みを堪えて――優しく、そして安心させるように笑顔で応えた。

 ――ありがとう、先輩……大好きっ!

 胸の奥で再び闘志の炎が燃え上がる。それは同時に彼女の腕や脚に、人間を破壊しうるだけのパワーが再び補てんされたという事だ。
 これが最後とばかりに、NAITOは大きく足を振り上げる。

「先輩、離れてっ!」

 RINAの声と共に、男子生徒は彼女の側からぱっと離れる。そして踏み付けられる寸前の所でNAITOの足を両手で捕まえた彼女は、立ち上がると踵や膝の靭帯を極めたまま、彼の足を捻って床に倒した。膝に走った激痛で顔を歪ませるNAITO。
 あと一歩で《蹴撃天使》の完敗する姿を動画に収める事ができたのに!
 悔しさと怒りで混乱するNAITOは金髪を振り乱し、痛む脚を引きずりRINAに迫った。力ない前蹴りを出してみるが、カウンターで軸足の膝関節を蹴られ再び床に這いつくばる。
 着ている黒のジャケットのぐっと襟を掴まれ、無理矢理彼女に立たされ今度はボディに、重い拳打を連発で叩き込まれた。もうNAITOは立っているのが精一杯だった。

「やぁっ!」

 この死闘に終止符を打つために、最後の力を振り絞ってRINAは駆け出す。そしてNAITOの前で短いスカートをひらりと舞わせ跳び上がると、脚を伸ばして彼の顔面に足裏をめり込ませた。スピードと体重の乗った彼女の飛び蹴りを喰らったNAITOは、そのまま稽古場の壁に突き抜けそうなほど強く身体を打ちつけ――そして失神した。
 もうひとり、残っているはずの《記録》係の男にも鉄槌を喰らわせたいと、RINAは稽古場をさんざん捜しまわったがあるのは記録媒体であるビデオカメラのみ。どうやら彼は恐れをなしてこの場から逃げ去ったようであった。


 縛られている男子生徒の縄や猿轡を解き、無事を確認したRINAは安堵感からか急に力が抜け落ち、ぺたんと床に尻餅をついた。

「ありがとう、リナちゃん……そして強いね」

 久しぶりに耳にする先輩の声。それだけでもう涙が出そうになる。

「ありがとうございます。用事も済んだ事ですので私はこれで……」

 一度《振られた》身としてはこのシチュエーションはたまらなく苦痛であった。また同じ胸の痛む思いはしたくない――そう思った彼女は必死に腰を持ち上げてこの場から逃げ出そうとする。
 が、腕が力一杯彼に握られて、RINAはその場から立ち去る事ができなかった。もし力一杯振りほどけば逃げ出せたかもしれない、だけど心の何処かでストップがかけられ動く事もできずにいた。

「まだ僕の話は終わってないよ」
 ――何で? もう結果は出てるじゃない。これ以上私を苦しめないで……
「あの……年上の僕からいうのも何だけど……」
 ――やめて、聞きたくないっ!
「友達に……なってくれませんか?」
「え?」

 前回の《体当たり告白》とは異なる結果に、RINAは素っ頓狂な声を上げた。

「ななな、何故? あの時先輩に逃げられて……私てっきりこの事は終わったものだと」
「ごめん、違うんだ。実は……」

 RINAは冷や汗を流しながら話す彼の《釈明》を聞いた。実は彼は武道雑誌の表紙を飾る凛々しい女の子が、自分のいる学校の生徒だとは知らなかったのだ。それで廊下で鉢合わせになった時、実物を目の当たりにして大変驚いたという。

「それであの時、何で逃げたんですか? 何のひとことも言わずに。すご~くショックだったんだから」
「うん……リナちゃんから告白を受けた時、あまりに突然すぎて気が動転しちゃって……それで気が付いたら走り出していた、と。本当にごめん!こんな頼りない僕で済まないと思っている。だから……気に障るようならこの話は……」

 ばしっ!
 言葉を濁そうとする彼に、RINAは平手打ちを喰らわせた。力強いが決して相手に致命傷を与えるまでの力量ではない。それでも十分に痛い、頬も――そして心も。

「男なら自分の言葉に最後まで責任取って下さいっ! 先輩は私の事好きなんですか? 嫌いなんですか? もし答えが《嫌い》でも構いません、それが先輩の出した答えなら私は尊重します。だから……聞かせてくださいっ!」

 頬を張られて我に返った彼は、真剣なRINAの言葉に《決着》を付けるべく、穏やかにゆっくりと口を開いた。

「好きだよ……もっと君の事をよく知りたいし、僕の事も知ってほしい。だからもう一度言う……友達になってくれないか?」
「……《恋人》に一番近い友達、ですよ?」

 彼女の顔は涙で濡れていた。だがそれは悔しさから流れる涙ではない、これ以上ない悦びから湧き出た涙であった。
 RINAは彼の胸に顔を埋めた。身体から発する男性特有の匂いが、彼女の鼻孔を突き抜ける。
 そして――彼女の髪をかきあげて額に小さくキスをする。RINAの紅潮した頬をつぅーっと涙が流れ落ちた。


「センパーイ、何か食べていきましょうよぉ。目一杯闘ったんでお腹空いちゃって」
「そうだね、緊張が解けたら途端に腹が減ったなぁ」

 時計は十九時をまわり、すっかり暗くなった街の歩道を《彼氏彼女》となったふたりが歩いていた。初々しいが他のどのカップルにも負けないほどのアツアツぶりが、街歩く人たちの目を引いた。

「これからイッパイ一緒にいましょうね?」
「もちろんさ」
「あ、果し合いの時も一緒ですよ、当然」
「それはちょっと……だって僕弱いから……あっ?」

 ちゅっ!
 不意打ち気味に彼の頬にキスをするRINA。

「大丈夫です! 誰にも先輩を傷つけさせませんし、絶対に負けませんから、私!」

 こうしてふたりは、多くのファストフード店が建ち並ぶ繁華街へと消えていった。ラーメンと牛丼のどちらがお腹に溜まるかの論議が、未だにふたりの間で続けられながら……


                                                                  終

妄想武侠小説 死亡坑道~Tunnel of Death~ 【RINA 対決!蹴撃天使】

2015年11月07日 | Novel
 今宵も月は、小さな星のひとつひとつまでよく見えるほど澄み通った夜空を、優しく照らしていた。

 仕事場から戻り就寝するまでに空いた、僅かの時間を利用して趣味である武芸の修練に励んでいた体躯の良い男が、ぼんやりと夜道を照す街灯の下をとぼとぼと自宅への帰路についていた。
 彼の目前に、高架下に作られた古いトンネルが現れる。鉄筋コンクリート製のかなり年期の入ったもので、天井や壁面に設置されている蛍光灯の、薄暗い光が何処か心許なく、得も言えぬ不安感を煽るのだった。

 最近この近辺で、物騒な噂を耳にする。

 この時間帯、このトンネルを通り抜けようとする者に対し、武芸での《勝負》を挑んでくる輩がいるというのだ。これが近所のコンビニの駐車場などで、騒いでいる不良高校生の集団であれば、全く彼の敵ではない。問題なのは自分と同じ《武芸者》である可能性がある――という事だ。
 そして今、もうひとつの問題が発生した。

 ぐぅーっ
 腹が減ったのだ。
 このトンネルを越えた処に、空きっ腹を満たしてくれる牛丼屋がある。彼は今宵その《敵》が現れない事を祈り、歩くスピードを速めた。

「……あなた、ASARYUさん?」

 若い女の子の声が耳に入った。
 まさか援助交際か?
 やれやれという表情で声の方へ顔を向けると、ポニーテールで制服姿という絵に描いたような女子高生がそこにいた。但し、手には年頃の女の子には似つかわしい、黒光りのする木製のヌンチャクが握られている。

「あ、はい。自分がASARYUですが何か……?」
 ――腹が減ってんだから早く向こうへ行ってくれよ。
 トンネルの向こうの牛丼屋が気になりつつも彼女の、意思が強そうな瞳から目が離せなかった。

「人通りも今はないようですし……とっとと始めましょうか?」
「始めるって何を?」
「どちらが強いか勝負ですっ!」

 ――しまった、彼女が噂の《武芸者》だったか!
 すっかり見た目に誤魔化されたASARYUは、右や左へと謎の女子高生が放つ、鋭い蹴りをかわすだけで精一杯だった。
 彼女の履くローファーの靴により鉄筋コンクリート壁の表面が削られ、砂埃が辺り一面に舞う。

「こんな時に聞くような事じゃないけど……な、名前は何ていうの?」
「呆れた人ですね。いいでしょう……RINAです、私は《蹴撃天使》RINA!いざ覚悟!!」

 ――もう、どうにでもなれ!
 ASARYUは呼吸を整えぐっと拳を握り直すと、当面の《敵》であるRINAを撃破する、その一点のみに意識を集中させた。
 高架を走る列車の音も、通りを走る自動車の音も聴こえなくなり、今耳に入るのはRINAの息遣いと彼女の身体の周りを舞っているヌンチャクの音だけだ。
 ――いざ!
 彼女と目が合った。全力で闘える嬉しさで、RINAは少し笑みを浮かべているように見える。きっと自分も同じような顔をしているに違いない。
 その瞬間、瞳の奥で稲妻が炸裂した!



 勝負は、僅かの時間で決着を迎えた。
 ASARYUの耳に再び都会の喧騒が戻った時、飛び込んできたのは激闘で疲れきったRINAの顔と、ボタンが弾け飛んだシャツの襟元からちらりと見える水色のブラ紐、そして身体から発せられる《少女》の匂いだった。
 力なく地べたへ座り込んでいるRINAに、近くに落ちていた彼女の大切なヌンチャクを拾い渡すと、彼はトンネルの方に向かって歩いていった。

「ま、待って下さい!」
「ん?」
「あの……強いですね」
「いやいや、今回はほんの僅差で勝てたようなもんで、RINAってぃ~も十分強かったよ、こちらこそ感謝です」

 ASARYUは手を差し出して立つように促すと、彼女は一瞬躊躇いの表情をみせたが、素直に従って地面から腰を上げた。

「RINAってぃ~?随分馴れ馴れしいですね。それでその《僅差》って何ですか?今後の参考に聞きたいです」
「うーん、大した理由じゃないんだけど、ひとつは《男の意地》かな? 武芸修行中の身とはいえ、あなたみたいな可愛らしい女の子に負けたら、スケベ心丸出しだから負けたんだろ?と言われるのが悔しくてさ」
「へぇー、意外にまともな理由で驚きました」
「もしかして今の今まで《スケベなおっさん》だと思ってやしませんか?……まぁいいや、それがひとつめの理由ね。そしてもうひとつ!これが一番重要だった」

 興味津々で彼の顔に近付くRINA 。

「……すごく腹が減っていたんだよね。早く終わらせて向こうの牛丼屋へ行きたい行きたいって思って、多分普段の実力以上の力が発揮できたんだと……思う」

 予想だにしなかった《理由》にしばらく固まるRINAだったが、我に返った瞬間怒りに任せて絶叫した。

「あっきれた人!こんな奴に負けたの私?もー嫌ぁ!」

 ぐぐぐぅーっ!
 何処かで腹の虫の音が聞こえた。
 だが今度の《虫の音》はASARYUからではなかった。音の出所を辿っていくとそこには恥ずかしさで顔を赤らめているRINAの姿が。

「ははっ、凛々しい女武芸者の顔もいいけど、やっぱりRINAってぃ~は 女子高生姿が一番可愛いよ」
「女子高生姿ってコスプレみたいに……実際高校生なんですぅ、私は!」

 ニヤニヤと笑うASARYUに対し、彼の太い腕に強めの一発を入れて照れ隠しをするRINA 。

「……いいですか?」
「えっ?」
「私にも牛丼、奢ってくださいね」
「もちろん!」

 微妙に揃わない靴音を響かせて、トンネルの先にある牛丼屋へ向かう二人。自分の隣には可愛い女子高生――こんな嬉しい事なんて滅多にあるはずもないのにASARYUは少しだけ顔を曇らせた。
 世間の目が気になったのではない。
 ただ、練習着で来てしまった為に持ち合わせの金が少なく、二人分の代金が払えるかどうかが心配だったのだ。

                                                                  
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