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【女子プロレス小説】小さいだけじゃダメかしら? 番外編 ~あしたはきっと強くなる~

2020年05月08日 | Novel

 一

 桃色のキャンバスが真っ直ぐにぴんと張られた、試合用よりも僅かに小さいリングが、ズドンという衝撃音と共に大きく上下に揺れた。

 小野坂ユカの美技・フラケンシュタイナーが炸裂したのだ。頭部からマットに突っ込んだ対戦選手はフラフラと起き上がると膝をつき、頭を振ってダメージ回復に努める。技がこれ以上ないタイミングや角度で決まり、会心の一撃ができた喜びを体内から発散させるべく、ユカはいつものように「どうだ!」とばかりに両腕を広げ大きく叫んだ。
 いつもなら速攻で返ってくるレスポンス。
 だが今日は全く静まり返ったまま。
 彼女の視線の先には動画撮影用カメラとパソコン数台、それらを操作する僅かばかりのスタッフだけで、いわゆる《有料入場者》の姿はひとりもいない――つまりこの試合の観客はゼロなのだ。
 会場も体育館やホールなどの公共施設ではなく、ユカが在籍する東都女子プロレスの道場で行われており、壁が暖色系にペイントされているとはいえ周囲の人の少なさ故に寒々しさを感じる。

 何してるんだろ、わたし――?

 ほんの一瞬ユカの頭に疑問が浮かぶ。
 だがそれはすぐに脳裏からかき消された。
 リング下に設置された放送席で、慣れない実況をおこなう元川団体代表と、解説をする同期で親友の赤井七海(あかい ななみ)の姿が見えたからだ。

 そうだ。観客はあのカメラの向こう側で、モニターを通してわたしたちの闘いに、熱い声援を送っているんだ。

 ユカが道場の周囲をゆっくり見渡す。
 いるはずのない観客たちの姿が、彼女の瞳の奥に映る。
 自分たちの闘いに対し拍手を送る者や、立ちあがって声援を送る者――当然幻覚だけどそれでもいい。
 ふぅ、とひと呼吸を付くとユカは、試合中にみせる険しい表情に戻し、まぼろしの観客たちに向かって力一杯叫んだ。

「よっしゃ、いくぞっ!」

 ユカは相手の髪を掴み、マットからその身体を無理やり引き剥がす――


 二


 ほんの数ヵ月前に発症者が確認されるや、《暴威》という表現が相応しいほど、世界中で瞬く間に感染者が増大した新型肺炎。テレビや新聞では感染者数や発生場所、それにこの病気による死者数が連日報告され、冷静さを失った一部の市民たちによって衛生用品や生活必需品が買い占められ、それがより一層彼らに先の見えない不安感を募らせるのだった。
 これ以上の感染者を増やさないために、企業各社は自宅待機や在宅勤務を命じたり、小中学校は臨時休校という措置を取った。
 当然エンターテイメント業界もその煽りを受け、当初予定されていた興行やイベントが軒並み中止や延期という憂き目に遭い、プロモーターや興行会社、それにタレント事務所は強行するか退くかの究極の選択を迫られた。

 はぁ――と重い溜め息を付き、元川は電話を切った。興行会社の代表という職業柄疲れていない日はないが、ここ最近はより一層の疲労感が第三者からにも目に見えてわかるほどだ。

「――もしかして《また》ですか?」

 団体事務所で電話対応の手伝いをしていた七海が、浮かない顔の元川に尋ねた。

「ああ、予約していた市民ホールが貸出しの中止を求めてきたよ。これで今月に組んでいた大会全てがダメになった」

 当初なら週一の間隔で、全四大会を開催予定だった東都女子プロレス。それが全てキャンセルになった事で一気に興行での収益を失った。自前の有料動画配信サービスを持っているとはいえ、これはかなりの痛手である。

 七海も先ほどから電話要員として、前売り券を購入したお客たちからのチケット代払い戻しの対応に駆り出されていた。
 また次回お願いしますね――と何度も電話口で謝るものの、団体の信用やブランド力を損ねているのではないか?と受話器を置く度に不安になる。リングの上で闘っているだけでは起こり得ない感情が七海の心へのし掛かる。

「あそこは早々と、大会中止を発表しましたよね」
「太平洋女子か。まぁバックに大手芸能プロダクションが付いてるからな。多少の事でビクともしない資本力もあるし強いよな」

 そういう元川の顔に羨望の表情が浮かんでいた。

「ですねぇ……でも団体に所属している選手たちはお金の心配が少なくても、大会毎に契約しているフリーランスの選手からしたら、堪ったもんじゃないですよね。働く場所がないですから」

 七海の言葉で我に返った元川に、再び暗い影が戻る。

「当初二週間程度といわれていた、中止や延期要請時期も延びてきたし、今でギリギリって感じだしな――」

 出来る事なら「自粛ムード」の蔓延っている世の中に対し、高らかと大会開催を唱いたい気持ちはあるが、「もしかしたら……」と最悪の状況が頭にチラつき、あと一歩が踏み込めない自分自身に元川は、正直イラついていた。

「――俺、こんなに意気地無しだったとは思わなかったよ。もっとメンタルが強いと思ってたのになぁ、七海ぃ」
「最悪の事態を想定すれば、懸命な判断だと思いますけど、《意気地無し》は今に始まった事じゃないですけどねぇ」

 救いがない七海の切り返しにムッとする元川だったが、畏まらない飾りっ気のない関係性に変わりがない事に、ホッとしたのもまた事実だった。お互いまだ平常心は維持している。

 再び電話対応に追われる七海を横目に、自分のデスクに戻った元川は両腕を組みうーんと唸ってみる――簡単に打開策は見当たらない。取り敢えず今出来る事をするしかない、《未来》の話はその後だ。
 彼は分厚い黒皮の手帳を広げ、そこに記載されてある様々な公共施設に、片っ端から電話をかけてみる。収容人数の大小関係なく、どこかひとつでも借りる事が出来れば御の字だ。

「もしもし?私、東都女子プロレスの――」
 
 八回目にかけた電話が、やっと受付を通り越え施設管理者の元まで届いた。

 


「無観客試合――ですか、ユカさん?」
「そう。せっかく生中継ができる環境と機材がウチにはあるのに、それを使わないのは勿体ないと思わない?」

 事務所が入っているオフィスビルの、真向かいにある小さな喫茶店――

 ちょっと休憩、といって電話番をサボっているユカと、仲のよい後輩である日野祐希が外がよく見える窓側の席で、コーヒーを片手にダベっていた。人当たりのよい雰囲気を持つユカだが、テレフォンオペレーターなど《赤の他人》と話す仕事は本当に苦手らしく、人手が足りないにもかかわらず早々と事務所を逃げ出し、この喫茶店へ飛び込んだのだった――真面目に電話対応をしていた祐希を無理矢理連れて。

「でも会場はどうするんです? どこの体育館も軒並み閉鎖されているじゃないですか」
「バカね、仮に体育館が借りれたとしても使用料払わなきゃならないでしょ。道場よ、ウチの道場で試合するの」
 
 ユカのアイデアをようやく理解した祐希は、なるほど!とばかりに軽く手を叩いた。後輩から送られる尊敬の眼差しに、ユカは一層得意気な表情で応える。

「で、それは代表に進言したんです?」

 祐希が問い掛けると、途端にユカの顔色が曇った。

「まだなんだよね……正直このアイデアに自身がないし。だって想像してみ? 誰ひとりいない会場で普段通りに試合する自分の姿を」
「確かにアマチュア競技ならいざ知らず、《観客がいる事が前提》の特殊なスポーツですもんね。プロレスって」

 確かに誰も見ていない所で、派手な入場や過剰な受身、それに己のピンチをチャンスに変えるべく客に対し、声援を要求または煽ったりする行為は、不必要といえるかもしれない。だが、必要最低限の技やパフォーマンスで淡々と試合を進めても、面白いものにならないのもまた事実だ。

 カラン、と来店者を知らせる軽やかなドアベルの音が、小さな店内中に響きわたる。それは休憩から戻ってこないユカたちを、捜しに来た元川だった。
 《天敵》の姿を見つけたユカは、身を縮ませ姿を隠そうとするが既にバレており、大股で席までやって来た彼により、猫のように首根っこを掴まれた。

「こらユカっ! いつまでもサボってるんじゃない」
「ゴメン代表! ちゃんと仕事するから怒らないでっ!!」
「はぁ……お前に電話番させようとした俺が馬鹿だった。ユカは事務職に向いてないって事が、今日身に滲みてわかったよ」

 しょげるユカと落胆する素振りを見せる元川の姿に、側でみていた祐希は息の合ったコントのような、ふたりの掛け合いに只苦笑いするしかなかった。
 
「へっ? じゃあ電話番はもうしなくてもいいの?」
「まあな。それより大事な話があるから、ふたりとも急いで戻るぞ」

 元川はユカの手とテーブルに置かれていた伝票を同時に掴むと、二十歳をとうに過ぎた駄々っ子を引きづるように店を出ていく。祐希は振り向きざまに見た元川の、自信に満ちた態度と表情に「何かある」と感じた。




「――というわけで、今月開催予定だった大会は全て中止になったわけだが、懸命な営業努力と先方様のご理解ご協力によって、たった一大会だが興行が打てる事となった」

 会議室に集まった、東都女子プロレスの全所属選手十名プラスレギュラー参戦している所属外のフリー選手数名を前に、元川は大会開催の旨を皆に伝えた。終息の兆しが見えない新型肺炎を前に怖気づく者も若干数みえたが、大方の選手たちは久しぶりの試合に歓喜の声を上げた。

「感染の拡大を懸念して中止や自粛を求める昨今だが、来場者様の衛生管理を徹底すれば決して無理な話ではない。今回は満員で二百人弱という小さなキャパだが、これが我々が細心の注意を配れるギリギリのラインだろう。様々な行事やイベントが中止・延期され人々の心が曇りがちな今だからこそ、この大会を決行する意味があると思うのだがどうかな?」

 想いのこもった元川の熱弁に異議を唱えるなどいよう筈がなかった。それだけ皆観客を前に試合する事に飢えていたのだ。当然元川も不安な選手に無理強いするような事はしなかった。出場する選手には毎日の検温や、帰宅時のうがい・手洗い・アルコール消毒を強く求めた。身内からも発症者を出しては元も子もないからだ。

 大会が決まり活気付く会議室の中で、他の選手と同様にユカも笑っていた。打開策として密かに考えていた、インターネット配信による無観客試合の事など、すっかり忘れかけていたその時、再び元川が口を開いた。

「それで大会の一週間前に、プロモーションとファンたちへの感謝の意を込めて、ウチの動画配信サービスを利用して道場から、数試合を組んで生中継で配信する事も同時に決定した」
「――へっ?」

 ユカの口からへんな声が出た。
 まさか自分のアイデアが、具体化されるとは思っていなかったからだ。

「どうしたユカ。何か不満でもあるのか?」
「えっ? ふ、不満なんてこれっぽっちもないけど、どうしてそんな――」

 他の誰にも言っていない、ひとりで勝手に空想していた《無観客試合の生中継》。それが現実のものになると聞いた途端、嬉しさや喜びよりも驚きの方が優り、ユカは動揺が隠し切れない。

「ちゃんと知ってるぞ。お前が映像部のスタッフたちと生中継のアイデアを密かに話し合っていた事を。事務職のような細かい仕事は向かないが、クリエイティブなプロデューサー的な仕事は出来るんだな。感心したよ」
 
 皮肉混じりだが元川から褒められたユカは、恥ずかしさで頬を赤らめ照れ笑いをする。

「そうわけだからユカ、お前が無観客試合のマッチメークをやってみろ。それと試合に関していろいろ心配事があるようだが、『やらずに後悔するよりやって後悔しろ』だ。どっちに転がったって《伝説》になるのならいいじゃないか。そうだろ?」

 意外な人からの突然の励ましは、むず痒い変な気持ちになると同時に、剥き出しの背中を掌で叩かれたように気合いが入る。
 興奮冷めやらぬユカは、未だ続く選手たちによるミーティングも何処へやら。クセの強い字でメモ帳へ参加選手の名前を書き並べ、自分と誰を闘わせたら面白いか、また誰と誰を組ませたら面白いか?と無観客試合のマッチメークを早速始めるのだった。


 遂に《決戦の日》は訪れた――

 次々と余所の団体が大会の開催中止を決めていく中で、決死の覚悟で決行される区民体育館での大会を一週間後に控えたこの日、都内某所にある東都女子プロレスの道場から自社の動画配信サービスを通じ、様々な地域に住むユーザーのもとへ無観客試合の様子が届けられていた。

 《東都女子プロレスPRESENTS ~あしたはきっと強くなる~》

 これがこの無観客試合の題名だ――当然ユカが決めた。

「――このご時世、誰が正しくて間違っているのかなんてわかりません。少なくともわたしは感染リスクが恐れられている現状で、普段通り試合を開催する団体さんを尊敬するし、リスク回避のため断腸の思いで中止を決めた団体さんもまた然りです。わたしたち東都女子は『エンターテイメントの危機』が叫ばれている今だからこそ、来週開催予定である大会を行う意味があると思うのです。そして今日――景気付けではないですけど、お客さんがひとりもいない無観客の状態で試合を行います。ここには誰もいないですが、超満員の観客がいるつもりで精一杯闘いますので、パソコンや携帯端末でご視聴の皆様も、自身が会場にいるようなつもりで応援してください!」

 普段なら《おふざけ》に走ってしまうユカの挨拶だが、この日ばかりは至極真面目に、そして丁寧に自分の想いを言葉に乗せた。カメラレンズの向こう側にいる、顔の見えない観客たちに向けて――

 このらしくない彼女の様子に、撮影するカメラマンの隣りで腕を組み、暫くリング上を見つめていた元川は感極まり、思わず鼻を啜ってしまいそうになる。だがマイクが音を拾ってしまっては、せっかくの晴姿が台無しになってしまうのを恐れ、彼は早々と後方へ引き下がっていった。
 ユカは滑稽な元川の姿を見て、プレッシャーと緊張でがちがちに固くなっていた自分の身体から、風船が萎むように余分な力が抜けていくのを感じた。

 生中継は出場全選手参加による、時間差バトルロイヤルから開始された。
 最初のふたりが試合を始めてから、以後一分おきに選手が追加されていくシステムで勝敗はフォールやギブアップの他、トップロープからリング外へ落ちたら失格のオーバー・ザ・トップロープで決まり、最後までリング内に残っていた選手が勝者というルールである。
 所属する全ての選手を視聴者にお披露目し《馬鹿騒ぎ》をしたい――ユカの強い要望だった。デビュー一年未満の若手選手同士の対決からスタートしたバトルロイヤルだが、立て続けに次から次へと選手が入場していき、瞬く間にリングの中は多くの女子レスラーたちで溢れ返る。
 誰と誰が結託するのか、或いは誰が裏切るか――大乱闘(バトルロイヤル)のはじまりだ。

「きゃあ! や、やめろって!!」
 道場の中に悲鳴が響く。試合開始から十分を過ぎ、次々と策略や奸計によって選手が脱落していく中で、何と団体のエースであるユカが数名の選手により無理矢理担がれ、ロープの外へ放り出されようとしていた。
 ユカは必死の形相でトップロープを握り、場外へ落とされまいと抵抗したが、まさかの親友・七海により裏切りのドロップキックで蹴落とされ、惜しくもユカは失格となってしまう。してやったり、と得意気な顔ではしゃぎまわる七海の姿に唖然となるユカ。しかしす戦局はすぐさま急変する。祝福する後輩たちの肩に担がれた七海が、今度は彼女らに裏切られる番だった。宙に浮いたままで不安定な状態の七海が、そのまま場外へ落とされてしまったのだ。東都女子を牽引する彼女らが脱落するなんて誰が想像できただろうか。

「――日頃の人間性が結果に出ちゃったね、七海?」
「アンタにその言葉、そっくりそのままお返しするわ」

 生き残りを懸けた闘いが、リングの間で未だ続く中、その様子を残念そうな表情で見つめる七海と、すぐ隣で笑いながら彼女を慰めるユカ。

 結果、最後までリングに立っていたのは、全参加選手の中で一番若く、また団体側も大きな期待を寄せている次期スター候補・綺羅(きら)あかりであった。
 愛玩動物のように可愛らしい彼女がレフェリーに腕を掲げられ、トレードマークのツインテールを上下させ跳ね回り喜びを爆発させるあかりの姿は、多くの視聴者のハートを一瞬で鷲掴みしたようだ。


 無観客試合はオープニングの変則バトルロイヤルに続き、四人&六人タッグマッチやシングルマッチなどが行われ、どれも白熱したファイトで動画のコメント欄やツイッター、それにLINEなどにはファンたちの熱の篭った応援や好意的なコメントで溢れ返った。どれだけ彼らが東都女子の試合に飢えていたが窺い知れる。
 また参加している団体所属やフリーの選手たちも、特殊なシチュエーションに少々戸惑いながらも、久しぶりの実戦に喜びと開放感を爆発させた。
 ここにはいない、カメラの向こう側で観ているファンたちに届かんばかりに。

 そして遂にメインエベント――再びエース・小野坂ユカの登場だ。
 対戦相手は前年末に所属していた団体を退団し、現在フリーランスで様々な団体にスポットやレギュラーで出場する《蒼き美獣》安曇野沙織(あずみの さおり)。男女問わずそのクールな美貌に惹きつけられるファンは多く、時としてラフファイトも厭わない激しい闘争心、柔軟な身体から繰り出される各種スープレックス技は、百戦錬磨のユカとはいえ過度の油断は禁物、要注意である。

 試合は激しい意地や見栄の張り合いから始まった。少しでも自分が相手より優位に立っている事を証明すべく、傷の付け合いやスタミナの削り合いが延々と続いていく。

 ユカが沙織を一発頬を張り飛ばせば、三倍のダメージで自分に返ってくる。
 逆に沙織が絞め技や極め技で絞り上げれば、ユカはそれをギリギリまで耐えて「お前の技など効かない」と態度で知らしめる。

 お互いに、我慢の限界などとうの昔に超えてしまっているが、それでも「負けたくない」の一心で、ノーダメージのふりをして強がってみせるのだ。

 試合が大きく動いたのは、沙織が一瞬の隙を付いてフィッシャーマンズ・スープレックスでユカをマットに叩き付けてからだった。彼女の美しく力強く反り返るブリッジは、普段よりも数倍のダメージをユカへ与えた。
 負けてたまるか!とカウントツーで跳ね起きたユカだったが、不意討ち気味に技を喰らったので、受身を完全に取りきれなかった彼女は朦朧とし、なかなか視点が定まらないでいた。
 これをチャンスとみた沙織は、立て続けに打撃技や得意のスープレックスで攻め立てユカに反撃の機会を与えない。観客の有り無しなど問題視していない、沙織のアグレッシブな攻撃は視聴者に、これが無観客試合である事を忘れさせる程だった。

 ――やるじゃん安曇野、あんたを対戦相手に選んだのは間違いじゃなかった。

 膝を付き乱れる呼吸を整えながら、ユカは倒すべき敵である沙織を称賛する。
 強引に起立させられ腹に二発、沙織から重いパンチを喰らったユカは担ぎ上げられるとコーナー最上段へ座らせられた――雪崩式ブレーンバスターを仕掛ける気である。しこたま攻撃を受け続けた今のユカには、十分フィニッシュになり得る技だ。
 だがそれを嫌ったユカは肘打ちでディフェンスし、相手をロープから叩き落としこれを未遂に終わらせる。

 バン! バン! バン! バン!

 リングの周りを囲む選手たちが、試合会場のように両手でエプロンサイドを叩いて反撃の場面を煽り立てた。観客のいないこの場所ではまるで意味のない行為だが、条件反射的に選手全員がこれを行い、結果的に試合会場にいるような空間を生み出していく。
 沙織がふと上を見るとユカが身体を大きく広げ、コーナー最上段から真っ直ぐ飛び込んでくるではないか。全く躊躇のない、捨て身覚悟のクロスボディを躱す事ができなかった沙織は、そのままユカの身体を抱いたままマットへ沈んでいった。
 
 これを口火にユカの追撃が始まるや、試合は優勢と劣勢とが目まぐるしく入れ替わる展開となった。
 小さい身体や機動力を活かした空中殺法や、テクニカルな固め技で序盤の遅れをユカは取り戻していく一方で、沙織も長い脚から繰り出す打撃に、強靭なブリッジから生み出される投げ技などで必死に抵抗する。

 この道場にいる皆には、ふたりの試合に熱狂し一喜一憂する観客の姿が見えていた。それが現実か幻かなどどうだってよかった、自分たちも何処にいるのかがわからなくなっていたからだ――

 

 熱く激しいふたりの意地の張り合いも、残り時間五分を切った。タイムアウトになる前に勝負を決めるべく、大技の波状攻撃がリングで展開された。出す技全てが一撃必殺の切れ味であるが、絶対に負けたくないふたりはそれをギリギリのところでクリアしていく。

 普段ならこれで試合が終ってもおかしくない、コーナー最上段から発射されたセントーンが寸前で躱され、痛みで顔を歪めるユカ。
 相手に決まればスリーカウント確実である、高角度で入る沙織の原爆固めもレフェリーが三回目のフォールを数える寸前で肩を上げられ、マットを両手で叩き悔しがる。

 徐々に減っていく時間と自分の持ち技――
 そんな時は相手よりも肉体的・精神的な余裕が、少しでも残っている方に勝利の機会は巡ってくる。

 長い脚から繰り出された沙織の膝蹴りが、ドンピシャのタイミングでユカの腹を抉り、怒涛の攻めで追い込みを掛けていた彼女に急ブレーキを掛ける。ところがユカは内蔵《なか》まで響く重い痛みを耐え、マットに這う事を拒否し眼光鋭く相手を睨んだ。
 だが抵抗も虚しく、続いて放たれた踵落としにより踏ん張っていた二肢が折れ、ユカは俯せになり桃色のキャンバスの上へ倒れた。

「お・わ・り・だぁ!」

 両手を水平に切り終了宣言をする沙織。
 そして腕を持ち足に巻き付けると、前方へ回転しユカの身体を小さく折り畳んだ。スペイン語で《芸術》を意味するラ・マヒストラルの完成だ。
 相手に逃げられないよう、全体重を預け身体を押し潰すよう固める。
 祈るような表情の沙織
 カウントを取るレフェリーの腕が一段と大きく上がった。これがマットへ落ちればスリーカウントが成立し、晴れて安曇野沙織の勝利が確定する。
 しかし――

「んがぁぁぁぁぁっ!」
 野獣のような唸り声をあげ、全身に気力を行き渡らせたユカは必死の思いで体勢を反転させ、逆に沙織の両肩をマットへめり込ませた。突然の反撃に遭い、軽いパニックに陥った沙織は思わず身体を離してしまう。

 この一瞬の隙を、百戦錬磨のユカが見逃すはずがなかった。

 彼女はすぐさま沙織の首に手を掛け、両膝を突き出しながら後ろへ倒れ込むと膝は喉元を直撃し、沙織は激痛と共に呼吸困難に陥った—―コードブレーカーが決まった。
 ここで休んでいる暇はない。
 のたうち回る沙織の碧味がかったショートヘアを乱暴に掴み、引き抜くかの如く立たせた後、片腕を首に掛け胴を両腕でしっかりとロックするや、ユカの身体は大きな弧を描く。
 最強最後の必殺技である北斗原爆固めがこの闘いに終止符を打つべく、沙織を絶妙の角度でマットへ叩き付けた。
 力強くフォールカウントを数える、レフェリーの声が耳元まで聴こえてくるが、蒼き美獣には彼に反発する気力・体力共に、これっぽっちも残されていなかった。

 スリーカウントが入った瞬間、技がするりと解けふたりは寝そべって大きく喘いだ。双方とも死力を尽くして闘った結果、勝ち名乗りを受けるどころか立つ事さえままならず、彼女らの傍へ東都女子の選手たちが取り囲み懸命に介抱するのだった。

 数分後――
 ようやく立ち上がれるまでに回復したユカは、勝者の勝ち名乗りを手早く済ますと沙織の元へ駆け寄った。まだ表情は険しく息も荒いが既に胡坐をかいて上体を起こしている。
 ユカの、健闘を称える握手の手が目の前に伸びてきた。

「――楽しかった。ありがとう、ムキになって闘ってくれて」

 感謝の言葉をかけられ唖然とする沙織だったが、照れ臭そうに笑いを浮かべ、ユカの手を握りこれに応えた。

「ユカさん、流石に東都女子のエースと云われてるだけありますね。今日はマジで完敗です、認めます。だけど一週間後――強力なパートナーを連れてきて、あなたと七海さんが持つタッグ王座、必ず奪い取りに行きますから覚悟しておいてください」

 顔も身体も痣だらけで漂う疲労感は隠せないが、瞳の奥で燃える闘志はまだ消えていなかった。


 団体初の無観客試合は、無観客である事を観る者が忘れてしまうような密度の濃い、採算度外視の激しいファイトの連続で一応の成功を収めた。そしてリング上では出場したすべての選手がリングにあがり、誰からともなく互いにハグし合い健闘を称えた。
 
 実況を終えマイクの電源を切った元川が、一目散にユカの元へ飛び出していく。
 真っ先に何て声を掛けたらいいだろう?
 どんな感じで褒めたらいいだろう?
 いろいろな言い回しが頭の中を巡りまわっていたが、いざ彼女を前にした途端に思考が一時停止した。

 向かい合うユカと元川。
 うまく回らない呂律を頬を叩いて鞭を入れ、やっとの思いで彼は言葉を吐き出す。

「やったなユカ。難しいシチュエーションの中本当に頑張った、見直したぞ!」

 普段通りの上司と部下の会話。こんな筈では……と恥ずかしさと情けなさで頭を掻く元川だが、ユカはこれを素直に受け入れた。

「ありがと、でも感じたでしょ?元川さんも。観客の姿も応援する声も全部」

 ああ、と首を縦に振り彼はこれに同調する。ユカだけでなくここにいる選手やスタッフ全てが同じだったに違いない。

 あれっ?

 元川は見逃さなかった。
 極度の緊張から解放され、気が緩んでほろりと一粒ユカの瞳から零れ落ちたのを。
 やはり天真爛漫なユカと云えども怖かったのだ。

 だからひとりの男性として
 労いと感謝と――そして愛しさで、彼女の身体を優しく包み込むように抱きしめた。

 恥ずかしさで頬を赤らめ、少し抵抗する様子を見せたユカだったが、彼の温もりや染み渡る幸福感には逆らえず、自ら力を抜き元川の方へ、プロレスラーからおんなへと戻った身体をぎゅっと密着させるのだった。


                                     終



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