日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

四天王寺105世管長瀧藤尊教師

2011年02月16日 | Weblog
四天王寺105世管長瀧藤尊教師 : 11/02/15

先生は頼まれて、あちこちで講演され、その法話は人々の心に深く届いて、今も輝いていることだろう。2010年12月8日。88歳の天寿を全うされ、遷化された。

「天花燦々」先生から頂いたこの額が、私を見下ろしている。

長い間、四天王寺学園高等学校の校長をされ、天下に「よんてん」と称される女子の名門進学校を作られだ、立役者であった。池田先生のお力を得て、今日の女子の名門進学校の地位を不動のものにされた。おそらく有名大学への進学率の序列では、日本で1,2位を争うだろう。

表面はいつもにこやかで、会うのが楽しいお人柄だが、心の中にはとてつもない修行を積まれ、苦しみを乗り越えた強靭な精神力を宿しておられた。
学徒出陣して鉄砲の弾もくぐり、比叡山の百日回峯行を体験されたこと、比叡山から毎日、京都大学まで通学されたことなど、とても常人では、できないことを体験し、心を鍛えられたお方である。(詳しくは師の自伝「慈恩の生涯」を一読されたい)

先生は聖徳太子を心から尊敬、敬愛されていた。先生の口から「タイシ」という言葉が出た時、僕は「ダイシ」弘法大師という言葉に馴染んでいたので、タイシ という言葉には少し違和感を覚えていたが、それが聖徳太子と弘法大師の違いである事が後になってわかった。

四天王寺は「和宗」の総本山であるが、天台宗・比叡山系で、真言宗・高野山系とはちょっと違った感覚を抱く。と言っても、四天王寺の境内には、四国88カ所遍路のお砂場があり、弘法大師の像もある。

1993年は聖徳太子が摂政になられてから、1400年になる。四天王寺では一山あげて、聖徳太子の恩徳をたたえる1400年祭がとり行われた。
その時、「聖徳太子讃歌」を作っては、とお声をかけてくださったのが、当時の第百五世管長。瀧藤猊下であった。

作曲家にとっては誠にありがたい話で、思いの丈を詞と曲に載せて、猊下の聖徳太子への敬慕の念と、私の太子への思いを重ねて作詞作曲した。当日は在校生400人あまりと、私が指導していた合唱団とで「聖徳太子讃歌」を歌い上げた。

聖徳太子が説かれた17条憲法の中でも、すべての命が支えあいながら、存在し共生きすると説かれた共生きの精神に、私は魅了されていた。作詞する際に一番力点を置いたのは、そこの部分だった。
単に、命が共存するということではなく、その奥にある命の関係系や、一つの命が全宇宙の命につながってお互いに支え合いながら生きているという考え方、すなわち、共生きの精神こそが、未来永劫に輝き続けてなければならないという聖徳太子の精神こそが、時間空間を飛び越えて、全宇宙生命の存在を確実な物にするものでなければならない。この点において、猊下も私も全く共通する思いを持っていた。

20年余おつきあいを願ったが、先生の人生の理想の世界であった「天花燦々」こそは、眼前に広がった世界であろうと、何時も羨ましく思った。。
「天花燦々」の世界とは、仏智によって万物がこの世で、燦々と輝いている世界を意味すると私は受け止めているが、私は未だに天花燦々(さんさん)と言う世界とは縁がない。そういう境地に達していない。

精神レベルでは、天と地ほども差がある私のようなガキでも、慈眼放光で教導された師は、その精神レベルはおのずと、大差があったけれども、少しも私を卑屈にさせないで、いつも暖かく見守りながら育てていただいたと感謝にたえない。

こうして、私は聖徳太子の教えと先生の慈言の中で、自分を広げることができた。
幽明を境にすると、先生の教えが心の中で鮮やかに蘇ってくる。
この世で先生のような師匠と巡り合えた事は、私の人生をどれだけ豊富なものにしたか。
つくづくそう思う。。