壺阪寺常盤勝憲師: 11/02/15
お里澤市物語で有名な、壺阪寺の住職をされていたのが、常盤勝憲師であった。58歳の若さで遷化されたのが、惜しいと言うより、口惜しい。
徳は一体、誰に対して積むのか。人に対するのであろうか、それとも、神仏に対すのであろうか。?僕が師に求めた事、この問いから始まった。
人に対する徳というのだったら、「ありがとう。」の一言で、チャラになる。
報酬を求めて、というなら、何をしても、徳を積むということにはならない。
何の見返りも求めず、他人様のお役に立つように、神仏に対して積む。このことを陰徳という。師は背中でこのことを示された。
表に出さず、黙々と徳を積むことこそ、神仏が認める徳ではないだろうか。
一般論として、人は何か役立つことをしたら、その手柄は、自分であると表に出したがるが、表に出してしまったら、それは、陰徳ではない。
自分が良しとする事は黙ってやればよいのであって、誇らしくいうことは無い。
先生はそう言われて実践された。そう考える根本の哲学こそ、仏教の教えであると言われた。
先生は日本の社会福祉の原点にたたれた第一人者だ。戦後間もない、昭和20年代に、僧衣を身にまとい、国が社会福祉に目を向けるように、厚生省に座り込みをされたという話を、当時の厚生省の担当者が、テレビで証言していた。
釈迦の説いた人間としてのあり方に、強い確信を持って、のぞんでおられたからその証言は、さもあらんと僕は納得した。
あるとき、先生に依頼されて、さるお寺の慶讃法要に、使う音楽を作曲したことがある。お経 舎利礼文 がそれである。これは、お釈迦様と、一体になるという事を強く願うときに使うお経らしい。
舎利礼文には「入我我入」という言葉がでてくるが、これはお釈迦様と一体になるすなわちお釈迦様の中に溶け込むあるいは、お釈迦様に一体になって貰う。言い換えれば、お釈迦様の教え、あるいはお釈迦様そのものと、一体になる。ということらしい。
仏教用語で、素人には難解なお経だったが、何とか曲をつけて聞いていただき、お経の内容がメロディーとリズムに乗って、うまく表現されているか確かめていただいた。その時はある4小節をオクターブあげた方が良い。というアドバイスをいただいた。
有名な作曲家・團伊久磨氏の作曲が、師の心を十分表現しきれていないので、再度作りなおさせたという耳の持ち主だから、適当にごまかして逃げるという手は使えない。真剣勝負したつもりで、今でもこのときの緊張感を思い出すことがある。
世には、不言実行の人の数は、有言不実行の人数にくらべて圧倒的に少ない。だから、先生の不言実行は、僕には輝いて見える。
先生が、不言実行と陰徳を念頭に置かれたのには訳がある。先生に、そのように、思わせたのは、長島愛生園の光田先生の講演だったらしい。
長島愛生園が、ハンセン氏病患者の隔離島であって、そこに生きる人々は世間の白眼視と絶望の中でしか生きていくことができなかった。その実態を見、実情の講演を聴かれた先生は、その人たちのためにお役に立ちたいと決意して立ち上がられた。
京都大学の宮崎博士がニュデリーの航空機事故でなくなられた時、インドにおいて、展開されていたハンセン氏病患者の救済事業を物心両面で、継続された。このことは、日本とインド両国に関係することでありながら、壺阪寺の福祉活動の一環でもあったのだろう。
そしてなによりも先生と、時の首相、インデラ・ガンジーとの信頼関係が不動のものであったという事だ。首相暗殺の1週間前に会われた先生にガンジー首相は、「寂しい。」ということを何回がつぶやいたとか。、
それが今から思えば、今生の別れだったのかと嘆かれた。そのことは直接僕がこの耳で聞いた。
八面六臂の活躍をされた先生は、無理がたたって、58歳で天上界に還っていかれた。最後のお見舞いで、奈良県立医科大学病院へ行って、握手したとき、いつもの力は全然抜けていて、もう長くは無いなあと僕は直感した。
常盤師の浄行に対し、インド政府は、謝意を表そうと、インドにおける文化勲章を受賞されたシエノイ博士の指導のもとに、デカン高原の石を刻んで、仏伝図と石像大観音像を作り壺阪寺に贈られた。
不言実行は大変難しいことである。これに加えて、陰徳を積む。その背中には、きっと菩薩の光が輝いていたことであろう。そして、どんな浄行もいっさい口に出さないで、仏の道を黙々と歩む姿こそ、菩薩道だと僕は今にして思う。
先生のまかれた種はインドでは確実に芽を吹き、多くの人々がを救われてきた。そして同時に、先生はグルジーとして、いまなおインドで尊敬されている。
このことは、先生自身の口からは公言されてはいないので、その実績をを知る人は少ない。知っているのは業病から助け出されて授産場で、生活の手段を学んだ元患者たちと先生の側近として協力を惜しまなかった。職員位のものだろう。
いや、このことをじっと見つめておられた釈迦如来と観音菩薩はきっとご存知の筈。
先生は今頃極楽の蓮の台の上で、静かに下界を見つめておられることだろう。いや、先生のことだ。持ち前の行動力でせかせかと立働いて、おられるかもしれない
探せば、師以外にも日本国中にはたくさんおられると思うが、今生でご縁があったのは、先生だけである。師の示された浄行は、今も僕の胸に輝いている。この教えこそ僕が理想として求めてやまなかった教えだ
お里澤市物語で有名な、壺阪寺の住職をされていたのが、常盤勝憲師であった。58歳の若さで遷化されたのが、惜しいと言うより、口惜しい。
徳は一体、誰に対して積むのか。人に対するのであろうか、それとも、神仏に対すのであろうか。?僕が師に求めた事、この問いから始まった。
人に対する徳というのだったら、「ありがとう。」の一言で、チャラになる。
報酬を求めて、というなら、何をしても、徳を積むということにはならない。
何の見返りも求めず、他人様のお役に立つように、神仏に対して積む。このことを陰徳という。師は背中でこのことを示された。
表に出さず、黙々と徳を積むことこそ、神仏が認める徳ではないだろうか。
一般論として、人は何か役立つことをしたら、その手柄は、自分であると表に出したがるが、表に出してしまったら、それは、陰徳ではない。
自分が良しとする事は黙ってやればよいのであって、誇らしくいうことは無い。
先生はそう言われて実践された。そう考える根本の哲学こそ、仏教の教えであると言われた。
先生は日本の社会福祉の原点にたたれた第一人者だ。戦後間もない、昭和20年代に、僧衣を身にまとい、国が社会福祉に目を向けるように、厚生省に座り込みをされたという話を、当時の厚生省の担当者が、テレビで証言していた。
釈迦の説いた人間としてのあり方に、強い確信を持って、のぞんでおられたからその証言は、さもあらんと僕は納得した。
あるとき、先生に依頼されて、さるお寺の慶讃法要に、使う音楽を作曲したことがある。お経 舎利礼文 がそれである。これは、お釈迦様と、一体になるという事を強く願うときに使うお経らしい。
舎利礼文には「入我我入」という言葉がでてくるが、これはお釈迦様と一体になるすなわちお釈迦様の中に溶け込むあるいは、お釈迦様に一体になって貰う。言い換えれば、お釈迦様の教え、あるいはお釈迦様そのものと、一体になる。ということらしい。
仏教用語で、素人には難解なお経だったが、何とか曲をつけて聞いていただき、お経の内容がメロディーとリズムに乗って、うまく表現されているか確かめていただいた。その時はある4小節をオクターブあげた方が良い。というアドバイスをいただいた。
有名な作曲家・團伊久磨氏の作曲が、師の心を十分表現しきれていないので、再度作りなおさせたという耳の持ち主だから、適当にごまかして逃げるという手は使えない。真剣勝負したつもりで、今でもこのときの緊張感を思い出すことがある。
世には、不言実行の人の数は、有言不実行の人数にくらべて圧倒的に少ない。だから、先生の不言実行は、僕には輝いて見える。
先生が、不言実行と陰徳を念頭に置かれたのには訳がある。先生に、そのように、思わせたのは、長島愛生園の光田先生の講演だったらしい。
長島愛生園が、ハンセン氏病患者の隔離島であって、そこに生きる人々は世間の白眼視と絶望の中でしか生きていくことができなかった。その実態を見、実情の講演を聴かれた先生は、その人たちのためにお役に立ちたいと決意して立ち上がられた。
京都大学の宮崎博士がニュデリーの航空機事故でなくなられた時、インドにおいて、展開されていたハンセン氏病患者の救済事業を物心両面で、継続された。このことは、日本とインド両国に関係することでありながら、壺阪寺の福祉活動の一環でもあったのだろう。
そしてなによりも先生と、時の首相、インデラ・ガンジーとの信頼関係が不動のものであったという事だ。首相暗殺の1週間前に会われた先生にガンジー首相は、「寂しい。」ということを何回がつぶやいたとか。、
それが今から思えば、今生の別れだったのかと嘆かれた。そのことは直接僕がこの耳で聞いた。
八面六臂の活躍をされた先生は、無理がたたって、58歳で天上界に還っていかれた。最後のお見舞いで、奈良県立医科大学病院へ行って、握手したとき、いつもの力は全然抜けていて、もう長くは無いなあと僕は直感した。
常盤師の浄行に対し、インド政府は、謝意を表そうと、インドにおける文化勲章を受賞されたシエノイ博士の指導のもとに、デカン高原の石を刻んで、仏伝図と石像大観音像を作り壺阪寺に贈られた。
不言実行は大変難しいことである。これに加えて、陰徳を積む。その背中には、きっと菩薩の光が輝いていたことであろう。そして、どんな浄行もいっさい口に出さないで、仏の道を黙々と歩む姿こそ、菩薩道だと僕は今にして思う。
先生のまかれた種はインドでは確実に芽を吹き、多くの人々がを救われてきた。そして同時に、先生はグルジーとして、いまなおインドで尊敬されている。
このことは、先生自身の口からは公言されてはいないので、その実績をを知る人は少ない。知っているのは業病から助け出されて授産場で、生活の手段を学んだ元患者たちと先生の側近として協力を惜しまなかった。職員位のものだろう。
いや、このことをじっと見つめておられた釈迦如来と観音菩薩はきっとご存知の筈。
先生は今頃極楽の蓮の台の上で、静かに下界を見つめておられることだろう。いや、先生のことだ。持ち前の行動力でせかせかと立働いて、おられるかもしれない
探せば、師以外にも日本国中にはたくさんおられると思うが、今生でご縁があったのは、先生だけである。師の示された浄行は、今も僕の胸に輝いている。この教えこそ僕が理想として求めてやまなかった教えだ