一語(期)一会
一期一会とは辞書的な意味でしかわからない。茶道や禅などの精神世界における人との出会いの際の心の持ち方や心がけのことを言うのだと理解しているが、実際にそういう精神になったことがない。
ぼくなりに、解釈するならば、突き詰めていうと、人の出会いは刹那の出会い、瞬間の出会いとでも、いえばよいのだろうか。要するに後はないのだからベストを尽くして応接すべしということになる。
人生の出会いというものは、人は同じ状態で、相間見えることは文字どおり、一回しかない。2回以上の出会いもあるが、厳密に言うならば、限りなく似た人が同一人物だと錯覚することが前提となる。
最初の出会いとまったく同じ状態で何回も出会うことは不可能である。
時々刻々、移りかわる人間の姿は、一瞬たりとも留まるところも知らない。常に流れ、移り変わっている。留まるところがない限り、同じものと言うわけにはいかない。
その一瞬が、たった一回きりの出会いというものである。だから、人は出会いそのものを大切にしてもてなすことが、必要であり、たとえこの出会いが、後々禍の元となり、尾を引いたとしても、人生の出会いというのは、瞬間、刹那の出来事でそれなりの重みのあるものだ。
一期一会という言葉について、思い出すことがある。
ずいぶん昔の話だが、ひとりで千葉県にある姥山遺跡の見学をしたことがある。船橋の近くなんだが、地理については、詳しくないので、バスで、偶然前の席に座った、若い女性に地理の案内を乞うた。歴史上有名な場所だけれど、一般人にとっては、遺跡は、たとえとなりにあるものでも、公園という程度の認識でしか知らない人が多かった。
彼女は、遺跡に、興味や関心があるらしく、目を輝かせながら案内をしてくれた。道順を聞いたので、あとはひとりで訪ね行けば、良いので、ほんのちょっとの間の出会いで、そのまま別れた。彼女は、別れしな「一期一会ですね」いう言葉を残して、街の中に消えた。
僕は、共通の話題で、ここまで気分が盛り上がったので、このまま別れるのはとても残念で、彼女が残した言葉「一期一会」を何回も心の中で繰り返した。今から、思うに、たぶんどこかの大学院で歴史を学んでいる学生だろうと思う。
話は変わるが、僕にとっては一期一会は一語一会のほうが身近である。文章の中でもっともふさわしい一つの言葉には、1回きりしか出会わないという意味である。特段こだわっているわけではないが、文章を書いているときに、筆に乗って出てくる言葉のほかに、急に頭をよぎる言葉がある。文章を書くときには、できるだけ、流れや表現に沿って適切だと思われる語を使うのが当然である。
そういう語やフレーズは、ふっと現れて、あっという間に、消えてしまう。そしていったんのがしてしまうと、再び思い出して捕まえることは難しい。そういう語やフレーズと死闘を繰り返しながら、積み重なって、文章は完成されていく。
筆の先に乗ってくる語は、文章の中に、パズルの様に、うまく、パシパシッとハマっていくそのときの快感は、心が踊る思いであるが、この一語に、出会えない時には胃が痛くなるような思いがする。そして、筆はそこまででとまってしまう。
心を見つめながら一語を捕まえる場合、そこには何か禅や茶道の精神の奥義に通ずる基本原則があるような気がしてならない。
真剣に取り組んでいないとスルット身をかわして一期一会の精神からかけ離れて逃げていくような思いがするのである。
一期一会とは辞書的な意味でしかわからない。茶道や禅などの精神世界における人との出会いの際の心の持ち方や心がけのことを言うのだと理解しているが、実際にそういう精神になったことがない。
ぼくなりに、解釈するならば、突き詰めていうと、人の出会いは刹那の出会い、瞬間の出会いとでも、いえばよいのだろうか。要するに後はないのだからベストを尽くして応接すべしということになる。
人生の出会いというものは、人は同じ状態で、相間見えることは文字どおり、一回しかない。2回以上の出会いもあるが、厳密に言うならば、限りなく似た人が同一人物だと錯覚することが前提となる。
最初の出会いとまったく同じ状態で何回も出会うことは不可能である。
時々刻々、移りかわる人間の姿は、一瞬たりとも留まるところも知らない。常に流れ、移り変わっている。留まるところがない限り、同じものと言うわけにはいかない。
その一瞬が、たった一回きりの出会いというものである。だから、人は出会いそのものを大切にしてもてなすことが、必要であり、たとえこの出会いが、後々禍の元となり、尾を引いたとしても、人生の出会いというのは、瞬間、刹那の出来事でそれなりの重みのあるものだ。
一期一会という言葉について、思い出すことがある。
ずいぶん昔の話だが、ひとりで千葉県にある姥山遺跡の見学をしたことがある。船橋の近くなんだが、地理については、詳しくないので、バスで、偶然前の席に座った、若い女性に地理の案内を乞うた。歴史上有名な場所だけれど、一般人にとっては、遺跡は、たとえとなりにあるものでも、公園という程度の認識でしか知らない人が多かった。
彼女は、遺跡に、興味や関心があるらしく、目を輝かせながら案内をしてくれた。道順を聞いたので、あとはひとりで訪ね行けば、良いので、ほんのちょっとの間の出会いで、そのまま別れた。彼女は、別れしな「一期一会ですね」いう言葉を残して、街の中に消えた。
僕は、共通の話題で、ここまで気分が盛り上がったので、このまま別れるのはとても残念で、彼女が残した言葉「一期一会」を何回も心の中で繰り返した。今から、思うに、たぶんどこかの大学院で歴史を学んでいる学生だろうと思う。
話は変わるが、僕にとっては一期一会は一語一会のほうが身近である。文章の中でもっともふさわしい一つの言葉には、1回きりしか出会わないという意味である。特段こだわっているわけではないが、文章を書いているときに、筆に乗って出てくる言葉のほかに、急に頭をよぎる言葉がある。文章を書くときには、できるだけ、流れや表現に沿って適切だと思われる語を使うのが当然である。
そういう語やフレーズは、ふっと現れて、あっという間に、消えてしまう。そしていったんのがしてしまうと、再び思い出して捕まえることは難しい。そういう語やフレーズと死闘を繰り返しながら、積み重なって、文章は完成されていく。
筆の先に乗ってくる語は、文章の中に、パズルの様に、うまく、パシパシッとハマっていくそのときの快感は、心が踊る思いであるが、この一語に、出会えない時には胃が痛くなるような思いがする。そして、筆はそこまででとまってしまう。
心を見つめながら一語を捕まえる場合、そこには何か禅や茶道の精神の奥義に通ずる基本原則があるような気がしてならない。
真剣に取り組んでいないとスルット身をかわして一期一会の精神からかけ離れて逃げていくような思いがするのである。