日々雑感

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グローバルスタンダード

2013年06月16日 | Weblog
グローバルスタンダード

グローバルスタンダード。これを言い出したのは欧米先進諸国だ。そして今や先進国になった、日本ではすでにその世界標準に合わせるために日常的にこの言葉を耳にする。
 確かに情報化が進んで地球は狭くなって、世界は一つという感じがあるが、これほど通信手段が発達し、情報化が全世界的な規模で行われれば、全世界が共通の情報を共有することによって、均一化や同質化されることは時の流れとして当然である。
そしてそのリーダーをつとめるのが欧米社会、いわゆる先進国であってみれば、この言葉に重みも先見性もあることは否定できない。

 パリで出来たてほやほやのファッションは、ほぼ時を同じくして東京で、
ニューヨークで、上海で、明洞で、立ち入りあがるのは不思議ではない。

そこで考えるのだが、世界の富や、社会構造や、自然環境や、個々人の歴史に、共通的で類似点が多ければ、共通の物差しは使いやすいが、地球は一つといえども、実態は天と地、水と油ほども違う差があり、その國や地方などの発展の過程や、環境のなかで今までそれなりに共存してきたのである。

経済的発展の度合い一つをとってみても、先進国、中進国、後進国の別があり、その格差は歴然たるものである。その格差を埋めて、出来る限り平準化された状態で、グローバルスタンダードを使うならば、まだしも、どうも情報化社会という世界環境の中では、ことが性急に運ばれているような気がする。そしてそこに無理が生じしているように思われる。

 各國や地方が抱える諸般の事情に十分考慮を払いながら、機が熟すのと歩調を合わせるようにして、スタンダード化されるべきである。さもなければ有利、不利の差が顕著になって、なかなかグローバルスタンダードが一般化し定着しないように思える。
グローバルスタンダードを言い出した先進諸国は、グローバルスタンダードを押しつけるのではなく、各国・各地方の事情に十分注意を払わなければならない。そしてまた格差を際立たせてはならない。

 電子機器の発達はめざましいものがあるが、それはたかが50年の歴史しかない。それも日進月歩の最中である。そしてその技術が経済的にも、知識的にも、
機能的にも、技術的にも、今日ではまだ活用できる段階にはない国の方がはるかに多い。だから先進国はそのリーダーとしての牽引力と役割を担うのだろうが、状況を見ながら、国情に合わせて、ことを進めていかなければならない。と同時に先進諸国は後進国や発展途上国のレベルを物心両面にわたって引き上げ、または後押しする必要がある。そこで初めてグローバルスタンダードが適用される素地ができあがる訳である。
急いではいかん。過去の歴史が教えるところである。